by Rainbow School
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親を恨むなくらいなら、反面教師にしてしまおう

他の動物とは違い、人は未熟児のまま誕生してきます。そのため、乳児期、幼児期は、大人の介護を受けなければ成長していくことが出来ません。この介護は、通常は産みの親が行います。そうやってヨチヨチ歩きが出来るころになると、今度は生活していく方法が、徐々に教えられるようになって行きます。

 

これは、動物ですと殆ど本能に従って、それぞれの種がその種にとって適切な生活方法を自然と身につけて行くわけですが、人間の場合はそれだけでは済みません。人間には智恵や思考や感情がありますから、その「心」のあり方に応じた子育てを、それぞれの親がしていくことになります。

 

そこで、ちょっと考えてみてください。あなたは完璧な親(完璧に近いでも結構)になれる自信がありますか? 「自信がある」と答えた方でも、いずれその自信が揺らぐ時がやって来ます。思春期になれば、子どもは自分の頭でものを考え、行動するようになるからです。

 

その時になって、乳児期、幼児期に受けた親の愛情のあり方や、小学生・中学生になって感じた親のものの考え方や価値観に対し、子どもは自分なりの評価をするようになって行くのです。

 

ところで「評価」と言いますと、大人の立場からすれば、当然「総合評価」を思い浮かべると思うのです。ところが、子どもというのはそうではないのです。子どもは大人のように時間軸の中で生きているのではなくて、瞬間々々を生きているのです。そのため、ある瞬間の出来事が強く印象づけられ、それが「心」に深く刻みつけられるのです。

 

この、親と子どもの認識のギャップには、もの凄いものがあります。ある方から聞いた話にこんな例があります。その人は、幼少時に「自分は親から愛されていない」と感じた瞬間についてこんなふうに話されました。。なんと、自分が手をつなぎたかった時、その手を振りほどかれたことがあるから、と言うのです。

 

そんな記憶など、親からしてみたら、当然ないと思うのです。でも子どもは、そのことを何十年経っても、強い記憶として「心」に刻み付けて育つのです。このように、親と子では、「評価」の認識がまるで違っているのです。そしてその違いが、両者の間にネガティブな「観念」を育て上げるきっかけになります。

 

はなはだしい場合には、親を恨むようになる。この恨みは、「瞬間」の記憶に刻み付けられているために、20年経っても、30年経っても消えません。実は、この「瞬間」の記憶とは、脳ではなくて「魂」レベルに刻まれた記憶なのです。別の言い方をすればカルマです。ですから、時間を超えてずーっと引きずってしまうのです。

 

このことが解れば、当然カルマは早めに解消した方がいいということもお解りでしょう。何年も何十年も、場合によっては来世まで抱え続けることには、マイナスしかありません。自分の記憶と、親の記憶とはそもそも違うのです。そのことをどうか解ってあげてください。

 

もし、あなたの中に、親への恨みがまだ残っているのでしたら、いつまでも恨み続けるのではなく、それを反面教師にしてみたらどうでしょうか? そうすれば、今度は、あなたが自分の子どもに対して、よき親になれる可能性にそれを転じることができます。そう考えれば、反面教師を示してくれた親に対して、感謝の念すら沸くかもしれません。

 

そして実際に、カルマとは、このような働きを持っているのです。子ども時代に味わったネガティブな出来事は、もしかしたら、自分が過去世で作ったカルマの裏返しだったのかも知れません。だとすれば、その出来事はカルマ解消のチャンスとして与えられました。ですから、そのチャンスを活かして、ポジティブに転化するようにしてみてください。

「心配」の種を、増やして育てているよ
電車に乗ったら、自動改札機通過情報配信サービスという案内ポスターが掲示されていました。これは、自動改札機をICカードで通過した際に、その日時と駅名を、あらかじめ登録した人に通知するサービスだそうです。毎月315円の費用が掛かるのですが、子どもにこのICカードを持たせておけば「安心」だというのが謳い文句です。

以下は、あるネコから届いた言葉。

人間て、まったく不思議だニャー。「安心」というのは、何も心配ごとがない「安らかな心」のことを言うんだけどねぇ。おいらなんてさ、気ままに生きているから、日中はのんびり日向ぼっこだね。子どもはたくさんいたけど、もうみんな巣立っていっちゃったから、心配なんてしたことないニャー。

改札機を通過した情報を確認できるから「安心」だというけど、想定した時間にもし通知が来なかったら、かえって「心配」になるんじゃないの? それ以前に、毎日毎日、通知情報とにらめっこが新しい習慣になっちゃうよね。それって「心配」の種を増やしているだけじゃないのかニャー。

それにだよ。仮に、大切なお坊ちゃんお嬢ちゃんが、変なオジさんに連れて行かれたとしようかぁ。そのサービスで判るのは、まだ改札機を通過していないってことだけなんだよね。誘拐を事前に防止することもできないし、いつ、どこで、誰に連れて行かれたってことも、いっさい判らないんだ。そのどこが安心なの?

予定時刻になっても改札機を通っていないバッファを、どれくらいに見るのかニャ? どれだけ時間が過ぎると「何かあったんじゃないか」と思うのかニャ? 5分? 10分? 30分? 1時間? だったら、家で待っているのと大して変わらんのじゃないかニャー。

おいらの師匠が言っていたけど、思念はテレパシーで通じるんだってさ。そうすると、その毎日の「心配」が、お坊ちゃん、お嬢ちゃんに、パーっと届くんだよ。お坊ちゃん、お嬢ちゃんの気持ちになってご覧よ。毎日毎日、親の「心配」という監視の目が、自分に注がれるんだよ。それって、本当に親の愛情なのかニャー?

人間て、まったく不思議だニャー。便利な道具をどんどん作って、どんどん自分を縛って、「心配」の種を増やして育てていく。それなのに、人間はそれを「安心」だと言うんだからねぇ。フーテンのドラ猫のおいらなんかにはとても理解できないよ。

これも師匠から聞いたけど、50年前の親は、子どもが自分にまとわりつくと「外へ行って遊んでらっしゃい」と言って追い払ったらしいよ。今とはずいぶん違うニャー。いったいどっちが「安心」だったんだろうねぇ? 人間て、まったくおかしな動物だニャー。ま、おいらには関係ないから、これからまた昼寝するよ。
欠点を指摘するか、誉めて育てるか
欠点を指摘するか、誉めて育てるか、指導者ならずとも、親ならばみんな迷うところでしょう。でも大多数の親は、無意識のうちに「ああしちゃいけない、こうしちゃいけない、あんたのこういうところがダメ」と、欠点矯正の言葉ばかりを発しているんじゃないのかなぁ。自分の欠点は棚に上げてネ。

こういう親は論外だね。よく児童虐待のニュースが流れると、その親は例外なく「しつけのつもりだった」と弁解するのだけれど、要は、自分の思い通りにしたかっただけです。「ああしちゃいけない、こうしちゃいけない」と、欠点矯正の言葉ばかりを発している親だってみんな同じ。ニュースになるかどうかは自称「しつけ?」の程度問題。

そんな、思い通りになんかならないんだってば。なぜって、別個の「魂」なんだからね。生まれてきた順番が違うということと、DNAの継続があるということで、今世「親子関係」を結んでいるわけだけれど、本質は別個の「魂」なんです。それをみんな考慮していないから、過剰な思い入れを抱いて関係をおかしなものにしてしまうんです。

世の中では、「親子関係」の過剰な思い入れを「善」とする傾向があるのですが、だからこそ「博愛」に立てないんです。「宇宙愛」に繋がっていかないんです。幼子は親に比べて、立場も力も弱いです。生徒は先生に比べて、立場も力も弱いです。その力の差を笠に着て、自称「しつけ?」のようなことをしてはならないんですよ。

たとえ親子であっても、別個の「魂」なんだという自覚を持って接してください。生まれたのが早いか遅いかの差があるだけなのだという自覚を持って接してください。力関係に頼ってはなりません。力関係に頼れば、たちまち支配と被支配の関係に陥ってしまいます。支配と被支配の関係に陥れば、そこに怖れと憎悪が生まれます。それでみんな「親子関係」をおかしくしてしまうんですよ。

ですから、個別の「魂」を前にして、先ずは対等の立場で接するということが大切です。そうすれば、頭ごなしに叱りつけたり、小馬鹿にしたりする過ちを防ぐことができます。相手の「魂」だけを見て、話しをよく聞いて、そしてこちらも対等の立場で意見を言う。そうすれば、子どもたちから学べることを次々と発見できます。

親だから「教えるんだ」という上から目線に立っていたのでは、「親」としての、貴重な学べる機会を失ってしまいます。自分に壁を立てているために、目の前にダイアモンドが落ちていても気づけないのです。それでは、今世「親」となった意味がない。今世「親」となったのは、その立場を通じて学べることを学びなさいということですから。

欠点を指摘するか、誉めて育てるか。大切なのは、そういうテクニックの問題じゃないってことです。私の母親は、時に「ああ、よく出来ましたねぇ」と大袈裟に誉めるテクニックを駆使していましたが、私は(ああ、この女はまたやってるよ)と、白けた目で母親を見ていました。普段のヒステリーがあまりに激しかったので、とてもじゃないが、そんなもの信用できませんでした。

ですから、大事なのは、愛を持って「魂」と接するということです。このベースさえ出来ていれば、誉めるのも欠点を指摘するのも、どちらも通じる。しかしそれなしでは、いかにテクニックを駆使しようが通じない。これは親子関係だけでなく、師弟関係でも、その他のすべての人間関係においても、共通して言えることです。

どんな相手でも、相手の「魂」を見て、愛を持って接する。そうすれば、それが「博愛」になり、さらには「宇宙愛」へと繋がって行くことになるのです。
ポジティブなパトロール
抽選でPTAの役員当番になったというお母さんと話をする機会がありました。月に1回開かれる会合に出なければならないというのですが、PTA自体が形骸化してしまい、年間のスケジュールを前年踏襲でこなしていくだけなのだそうです。だったら役員の引き受け手がないPTAなんて、なくてもいいのではないでしょうか?

ある人がこんな名言を吐いています。一度ある目的のために組織が作られると、たとえどんな組織であれ、やがてみんなが同じ一つのことを第一義の目標にするようになる。それは、組織の存続である。したがって組織は、存続のために初期の目的を決して達しようとはせず(達成すると存在理由がなくなるから)、逆に、次から次へと課題を探し続ける。

このお母さんから聞いたのですが、パトロールというのがあるそうです。PTAの役員数人がチームを作って学区内を巡回し、子どもたちにとって危険なところや、人気のない薄暗いところを見つ出して回るのだそうです。このお母さんは、「そんなことやめればいいのに‥‥」と思っているのですが、多勢に無勢でその意見が通りそうもありません。

パトロールを推進している人たちは、それが「良いこと」だと信じ込んでいるので、こういう一見、正論めいたことに面と向かって反対することはとても難しい。「じゃあ、あなたは、子どもたちの安全はどうでもいいと思っているんですか?」ということになってしまうから。

けれども物事というのは、つねに大局的に考えることが必要です。と同時に、どんなビジョンを思い描くのかということが大事です。パトロールが是か非かということよりも、今の時代に特に考えなくてはならないのは、それが、子どもたちにとって理想的な環境を創ることに繋がるのかどうか、ということです。

安全に配慮するのは親の務めだろう、と言われるかも知れません。むろん、安全に配慮するのは当然です。しかし、起こり得るかも知れない危険をほじくり出していたら、キリがありません。どんなことにも100パーセントということはあり得ないのです。

現代社会の大きな問題点は、情報過多によって、「危険」をあまりにも過大視するようになったことです。その結果、生物本来の冒険心を失わせるところまでエスカレートしている。これでは「体験」が育ちません。引きこもりが育ちやすい環境を創っておきながら、引きこもりに頭を悩ませているのが現代社会です。

ジカ熱というのは、その後どうなりましたか? あなたの周辺でテロリストが爆弾騒ぎを起こしましたか? 北朝鮮の核ミサイルが近所に飛んで来ましたか? 山口組のドンパチが近くで始まりましたか?

いま上げたことは、どれも100パーセントないとは断言できません。しかし、それらに怯えて暮らすのは馬鹿げています。そんなことよりも、風邪をひいたとか、花粉症で頭が痛いとか、包丁で手を切ったとか、交差点で車とぶつかったとか、階段で足を踏み外したとかの方が、よっぽど日常的な脅威です。

では、毎日それらに怯えて暮らすべきなのでしょうか?

なぜ、起こりうる可能性が低い脅威を、ニュースであれほど強調しているのか。政治を行うものにとって、それが大衆操作のいちばん手っ取り早い手段だからです。人々の不安につけ込んで、不安回避の方向へと大衆を誘導するのです。

隣国が安全を脅かしているから軍備の増強が必要だ。感染症が広がりそうだから事前にワクチンを打たなければならない、というように。

親が、それと同じロジックに染まって、起こりうる可能性がほとんどない脅威をあえて探し出し、子どもの不安を掻き立てて一体どうするんでしょう? それが子どもの安全を守ることなのでしょうか? 「子どものために」と言いながら、実は、自分の中に創り出した不安を、子どもに伝染させているだけだという事実に気づきましょう。

親の立場ではなくて、想像力を働かせて、子どもの側に立ってみて考えてください。ここは危ない、あそこへ行っちゃダメ、知らない人と口を利かないように、と禁止事項ばかり言われていたとしたら、大人でも、大変なストレスが溜まるのではないでしょうか。

それと、何度も言っているように、思いは実現します。「ここは危ないところ」という思いを大勢の人が持てば、その集合意識が、やがて本当に危険なことをその場で実現させてしまいます。

そこで私がアドバイスしたのは、「パトロールをやめろ」と言っても周囲は聴かないだろうから、危ない場所探しではなくて、「安心して遊べる場所探し」をやったらどうかと。そういうポジティブなパトロールに切り替えたらどうかと。そして、もし見つからないようであれば、そういう場所をつくるプロジェクトを始めればいい。そのためであればPTAも役に立つ。

それが、子どもの立場に立った真の安全対策というものではないでしょうか。そして、この場合も、思いは実現します。親たちみんなが、子どもたちが安心して楽しく遊べる場を創ろうと思えば、その輪が広がり、そういう社会が実現して行くのです。
お父さんの大きな愛 ー『最新DNA型鑑定 防げなかった冤罪』を観て
昨年1月、鹿児島で逆転無罪判決が下された冤罪(えんざい)事件のことをご存知でしょうか。このニュースを知った時には、今のような開かれた時代であってもなお、警察・検察の不実というものがあるんだなと、恐ろしくなりました。誰かが気がついている筈なのです。その公判維持が真実ではないということを。自分たちが嘘をついているということを。

でも気づいていながら、誰ひとりボタンの掛け違えを正そうとはしません。そうさせるものは、いったい何なのでしょうか? 組織の圧力と保身のために、何の罪もない若者の前途を狂わせて、それで平気なのでしょうか? どうして、正直になろうとしないのでしょう? そもそも正直でない者が、どうして警察や検察の仕事に就いているのでしょう?

ハートネットTVで、この事件を取り上げた『最新DNA型鑑定 防げなかった冤罪』という番組があり、とても興味深く観ました。しかし観ているうちに、私の興味は別の方向に引き寄せられて行きました。この冤罪の被害にあった青年の、その後の姿の明るさ、爽やかさ、潔さ、賢さです。

身に覚えのない罪で2年4カ月間も拘置され、その間はきっと大変な葛藤があっただろうと思うのです。でもそれを乗り越えているのは素晴らしい。

事件当時、青年は鹿児島市にあるナイトクラブで店長代理をしていました。そして、ホステスを酔いつぶさせないためと、店の売上げを上げるために、彼が飲み役を引き受けていました。それが仇となり、その日シャンパンのラッパ飲みをしたところで、彼は前後不覚に陥ってしまいます。その後で、ある少女の訴えから、レイプ犯にされてしまうのです。

この少女の被害届けというのもおかしなもので、よく状況を観察すれば虚偽であることが判りそうなものなのに、警察はそうしませんでした。そして少女の訴えを鵜呑みにし、当時20歳だったこの青年を逮捕。杜撰なDNA鑑定の結果を根拠に、一審の判決が下って、青年は懲役4年の刑に処せられてしまうのです。

青年にしてみれば、当日の記憶がない。彼にとってそれが最大の不利です。ヤンチャして酒をがぶ飲みしてしまったことをひとしきり反省すると、彼は拘置所で猛勉強し、DNA鑑定に関する書物を読み漁ります。そして、弁護士の力を借りながら再鑑定への道を切り開いて行くのです。「それまで本を一冊も読んだことがなく、活字自体がイヤだったのに」と、彼は笑って当時を振り返るのです。

少女に対しては「人を恨んでもいいことはないんで、気にしないようにしています。」と彼は言います。そして「願うことならば、謝って欲しい。そして自分がしたことの重大さ、人の痛みというものを解って欲しい。」と言うのです。この意味は深い。青年にとっては全く理不尽ではあったけれども、彼自身は、その事件を、人の痛みが解る人間になることと、自分の知識向上の機会へと変えたのです。

そして弁護士さんも、この少女を赦していました。もはや二人は、償いを求めているのではないのです。その少女に、正直になれるチャンスを与えているのです。正直にならない限り、この少女は、この先もずっと痛みを抱えて生きていかねばなりません。警察、検察の関係者も同じです。ごまかし続ける限り痛みは続くのです。

この青年の賢さを育んだのは、お父さんの存在にあることもよく解りました。息子を信じ、毎週、拘置所に通って励まし続けたお父さん。逆転無罪が決まって涙に暮れる息子に、お父さんが真っ先に言った言葉がステキでした。「よかったね。これでまた、次のステップに進もうよ。」お父さんが大きな愛の人だったから、青年も愛の人に育ったんだね。
現代「子育て環境」の盲点(2)
安倍政権は、スローガンだけは次々と作るのですが、それで何か実効が上がっているのでしょうか? 旧「三本の矢」は、結局どのように総括されたのでしょうか? 目標が達成されたので、新「三本の矢」に移ったということなのでしょうか? もしそうでないなら、目くらましを続けているに過ぎないことになります。

「希望出生率1.8」についても、「掛け声だけに終わらせるな」の声があるのは当然です。では具体的にどうするのか。これを「対策」で考えていては、また新しい機構が作られ、そこに役人が置かれ、予算投入によって税金が浪費されて終わってしまいます。

ここで考えてみなければいけないのは、出生率の高い低いは、経済とはあまり関係がないということです。世界全体を見てもそうですし、日本国内においても、都道府県別で見て出生率がいちばん低いのは東京都、そしていちばん高いのが沖縄県です。市町村別を見ると、南の島で高いことが判ります。

戦後のベビーブーム(昭和22〜24年)のころだって、敗戦直後ということもあり、庶民の暮らしは今よりも格段に貧しかった筈です。それなのにどうしてベビーブームになったのでしょう? この差は、コミュニティのある・なしに起因していた、と私は考えます。

昔は、子どもを育てるのは親ではなく、コミュニティだったのです。ですから、出産年齢に達した若い世代が安心して子どもを産めたのです。親だけではなく、コミュニティ全体が、「子は宝」という視点で、当たり前のように子どもの世話をしてくれていたのです。

実はこれが最も肝心な点です。ですから、そういう習慣がまだ残っている地域では出生率が高く、崩壊してしまった東京都は最も低いのです。

そもそも、出産適齢期にある年代というのは、子育てには適していないのです。このように言うと意外に思われるかも知れませんが、私自身を振り返ってみても、「何かが解ってきたかな」と思えるようになったのは、50歳を過ぎてからです。それまでは、人間的にまだ未熟で、社会生活を学習中という仮免許状態でした。

考えてみてください。人間は他の動物とは違って、捕食の仕方だけを覚えればいいというわけにはいきません。社会生活の仕方を学ばなければ、独立した存在として生きられないのです。

出産の適齢期が10代後半から40代半ばくらいだとして、その時に、親は社会生活の仕方を、すでに充分に学び終わっているでしょうか? そんなことはあり得ません。つまり人間は、子どもが、子どもを育てている状態なのです。実に、親子問題の根本、そして今の教育に関する問題の殆どは、ここに原因があるのです。

子どもを産むのに適した年代と、子どもに徳育を授けるのに適した年代には、ギャップがあるのです。昔の人たちには、そのことがよく解っていたので、家庭では祖父母、コミュニティでは神社仏閣にいる古老のような人、寺子屋には面倒見のいい先生がいるといった具合で、地域全体で親をサポートしていたのです。

ところが今は、それらの全てが崩壊し、子どもの教育は親世代がするものという常識や、「自己責任」といった言葉が、社会に広く蔓延してしまいました。そのため、親世代には過重な負担や義務感が生じ、それで子どもが産めなくなってしまったのです。しかしこの常識は、ここ半世紀くらいで出来上がったものに過ぎないのです。

私の子どもの頃は、親は、自分に子どもがまとわりつくと「外へ行って遊んでおいで」と言って追い払ったものです。それで平気でした。なぜならコミュニティが見てくれているという安心感があったからです。ところが今は、子どもにGPS付き携帯を持たせて見守っていないと心配でしょうがない、というまでに変わってしまいました。

学校も、ただ教員免許を持っていますというだけの、社会生活については仮免許状態の「子ども」が、「先生」と呼ばれて教育を行っているわけですから、もうどうにもなりません。加えて、社会生活の有経験者世代は、「高齢者」と一律の言葉で括って、介護保険で囲み、姥捨山に追いやってしまいました。

社会問題が発生すると、すぐに「◯◯センター」とか「◯◯制度」というものを考えるのは役人の発想です。それでまた新たな問題を作り、予算分捕り合戦を始める。そんなものは要らないということです。ただ、コミュニティの復活さえあればいい。

血縁、地縁、職場縁、すべてが崩壊してしまった現代では、あらたな「縁」によって、コミュニティを作って行くしかありません。欧米では、その機能を「教会」が果たしていたわけですが、さて、日本ではどうしたらいいのでしょうか。私はささやかなプランを持っていますが、あなたに、いいアイデアはないでしょうか?
現代「子育て環境」の盲点(1)
安倍政権が、「希望出生率1.8」という目標を掲げているようですね。この「希望」というのは、「若い世代の皆さま、どうか産んでくださいな」というお願いなのでしょうか? そうだとしても、どうも釈然としません。

なぜなら、第一に、出生率が低下していったのは、様々な社会的要因の結果であり、そうした社会構造を産み出してきた根本は、歴代政権が推進してきた政策にあります。その社会構造のゆがみを改めることなく、「希望出生率1.8」と旗だけを上げても、なにそれ、ということになってしまいます。

第二に、人口の減少をなぜそんなに問題視しているのかということです。地球規模でみれば人口の爆発は大きな環境問題です。ですから地球人口が減っていくことは悪いことではありません。地球からみれば、むしろよいことのはずです。それなのに、政府はなぜ問題視するのでしょうか?

これは日本国だけのことを考えていて、地球規模の発想がないからです。政府がいちばん問題だと考えているのは、労働生産人口の減少。つまり、働いて稼いでくれる世代が減ってしまうことです。そして、なぜこれが問題だと考えているかというと、将来のツケを負わせる人がいなくなってしまうからです。

1100兆円もの借金にしろ、高齢者の介護問題にしろ、年金問題にしろ、原発燃料の廃棄問題にしろ、環境汚染問題にしろ、これら全てを、次世代へのツケとすることを前提とした政治を、歴代政権が行って来たのです。言葉は悪いですが、「やり逃げ政治」だったのです。その限界の露呈が、日に日に近づいているということです。

一例を挙げましょう。年金の支給開始年齢が引き上げられましたが、5年先に延ばしたというのは、5年分が破綻したということです。5年分については、とりあえず破綻を確定したということ。破綻を認めたということ。私は1年遅れ、私より一つ下の年代は2年遅れと、段階的に移行していく。

ソフトな変化に見せてはいますが、実態は、制度そのものが成り立たないという事実をどこまで隠せるか、という段階にすでに突入しているのです。出生率の低下は、これらのツケ届けの限界の日を早めてしまいます。だから、政府としては、出生率減少の歯止めと上昇が必要だと考えるのです。

しかし、「希望出生率1.8」というブチ上げ方を見ても分かるとおり、彼らはこれを単にナンバー(数字)の問題として捉えています。ですが出産そのものは、個々の事情によるものであって、その年に生まれた赤ん坊の数を足し上げたら「出生率」というものが算出できるということに過ぎません。それを忘れています。

出生率が低下しているというのは、個々の事情の中に、子どもを産まない、あるいは産めないという環境要因が増大しているからに他なりません。
その一番の原因は何でしょうか、そしてどうしたらいいのでしょうか。これらについては、また明日に。
BS1スペシャル『私はどこに還るのか〜中国残留孤児の歳月〜』を観て
NHK BS1スペシャル『私はどこに還るのか〜中国残留孤児の歳月〜』というドキュメンタリーを興味深く観ました。ちょうど『大地の子』の再放送が終わったところで、主人公の陸一心が、実父から「日本に来てくれ」と誘われ、「私は大地の子です」と答えるところでドラマは大団円を迎えます。

「大地の子」というのは、中国大陸という意味だけではなく、もっと大きな地球という意味でもあり、それが「日中に隔てはないんだ」ということを暗示しているわけですね。でも実父にとっては、その言葉は、日本で一緒に生活したいという願いがもう叶わぬものだと、悟らされる瞬間になるのです。

1980年代、中国残留孤児の肉親探しが始まると、当時のニュースは連日これを報道していました。その当時の中国は、小平の改革開放路線が開始さればかりでまだ貧しく、人民服とボサボサ頭の帰国者たちが、肉親と抱き合って再会の涙に暮れる姿が印象に残っています。

しかし今や経済状況は逆転。日本に見切りをつけ、日本語と中国語の両方ができる強みを活かして、中国に還る戦争孤児一世、二世、三世が増えているというのです。(『大地の子』の原作者である山崎豊子さんは、「残留孤児」と言うと、自分の意思で残ったような印象なので「戦争孤児」と言うべきだと語っている)

前に、清掃のプロフェッショナルとして活躍している戦争孤児の女性のことを書きました。その方も仰っておられたのですが、中国に居た時は「中国人じゃない」と言われ、日本に来たら「日本人じゃない」と言われる。この経験は戦争孤児たちみんなが持っているようで、陸一心のように「私は大地の子です」と言えない現実というものがやはりあるわけです。

私はつくづく「どうして人間はもっと優しくなれないんだろう」と思うのです。戦争孤児となってしまった一世も、その子である二世も、国家が仕出かした戦争というものに巻き込まれて、やむなくそういう状況に置かれてしまったのに、ただただ肉親に会いたいと願い帰国してみれば、待っていたのはイジメだった。

こういう特殊性というものは、そこをどう乗り越えるかという点で、我々に大きな示唆を与えてくれます。そこが、私にはとても興味深い。特殊な環境で育ったということは、ある意味、自分の今の不遇を、全部「環境」のせいにして仕舞いやすいということです。そこで、生き方に大きな差が出てくる。

全部を「環境」のせいにして、恨みや絶望感に打ちひしがれたまま過ごす生き方もある。一方で、それをバネにして、反面教師にして、力強く己の人生を開拓しようという生き方もある。またある人は、特殊と言えば特殊だけれど、個人個人はみな特殊な環境を歩んでいるんだと気づいて、自分の人生を受けとめようとしている。

こうした違いが、このドキュメンタリーには全部出ています。さらにこれに、親子の問題が絡んでくる。子どもに対して「すまない」という気持ちをいつまでも抱き続ける親。子どもに愛情をかけることをせずに「自分は悪くない」とあくまで主張する親。子どもの成長を喜び、見守ろうとする親。いろんな「親のあり方」も出ている。

番組中、胸が痛んだのは、現在43歳となった登場人物の一人が、小学生だった時の映像。たぶん戦争孤児二世ということで、当時注目され撮られていたのでしょう。「お前ら」呼ばわりする教師が、この少年を、叱咤激励するつもりで大声で怒鳴りつけているのです。可哀想に、少年は身をすくめてその怒声にじっと耐えている。

こんな、錯覚した教師がいるかと思うと、本当にやりきれない。それが私学だったら果たして通用したでしょうか。予備校だったら通用したでしょうか。工場の幹部だったとしたら通用したでしょうか。義務養育の安定したサラリーマンという立場にあぐらをかいて、教師ズラを振り回すとはいったい何事かと思います。人間性を疑います。

子どもたちにとって、身体の大きい、力の強い大人は、まるで大木のようなものです。その大木が、地位や権威を振りかざして一方的に怒鳴りつけたりしたら、どれほどの恐怖を感じるか。こんなことは絶対にやっちゃいけない。大人は子どもたちに対して、暑い時には木陰をつくり、疲れたら背をもたれかけさせてあげられる、そういう大木にならなければいけないのです。

再放送:12月30日(水曜)午前10時 BS1 よかったらご覧になってください。
しつけ
ショッピングセンターでエスカレーターを降りようとしたところ、降り口で、むづかる女の子をどやしつけている母親の姿が眼に飛び込んで来ました。いたたまれなくなって、避難のために上の階までスルーしました。上のフロアで降りても、まだヒステリックな怒鳴り声が聞こえてきます。自分が今どんな状態でいるのか、客観視する余裕が全くないのでしょうね。

児童虐待が事件になったりすると、その親はたいてい「しつけのつもりだった」と言います。身へんに美と書いて「躾」。この漢字は国字で、礼儀作法によって身体を美しく整えるといった意味合いがあるようです。きっと武士階級や貴族が、その威厳を保つために、日常の所作などを訓練したのでしょう。

しかし、現代の親に、子どもに伝えられだけの美しい所作を体現した者など、どれほど残って居るでしょうか? 少なくとも、あたしゃ失格です。

私の母親は、40代の頃にPTAの役員や婦人会の役員をしていましたが、そのせいもあってか「しつけ」というものにうるさかった。でも家でやっていることは、しょっちゅうヒステリーを起こして竹尺で私を叩く、紐で身体をしばって押し入れに放り込む、という自称「しつけ」でした。

いま振り返ってみて、そういう折檻があったのにはそれなりの原因というものがあったと思うのですが、そっちは全く覚えていません。ただ、折檻のあの手この手のバリエーションだけを鮮明に覚えている。だから実質、「しつけ」効果はゼロ。(´_`;) 結局、「しつけ」などと言ったところで、自分の思い通りにしたいだけなんですよね。

「礼儀作法」や「所作」は、そりゃあ美しい方がいいです。でもそれを身につけて貰うのに必要なことは、訓練であって、結局「コーチング」ということになるのだと思います。「しつけ」というと、すぐに「厳しくするかどうか」という議論になるのですが、最初から上から目線で考えていて「コーチング」という視点が、全く抜けていると思います。

私は、子どもとよく話し合うことが大切だと思う。「こうしなさい」ではなくて、どうして「礼儀作法」が必要なのか、何のために「礼儀作法」があるのか、こんな場面ではどうしたらいいのか、子ども自身に考えさせて、意見を聞きながら修正していけばいいと思う。それが「コーチング」の神髄ですから。

結局、自分で考えて行動したものしか残らない。ロボットにしようとしたって、無理なんです。
反面教師にできる人とできない人
口には出さずとも、ほとんどの人が、未だ処理できない、親との何らかの確執を心に抱えています。人間関係において起きる様々な問題の元をたどれば、結局、全部のことが、潜在意識の中に眠っている親との確執にまで行き着くと言っても過言ではありません。

なぜでしょうか? 乳幼児にとって、親は初めて接する地上の人間であり、その庇護を受けなければ一日たりとも生きてゆけず、成長することもできません。つまり100パーセント依存しなければならない状況の中で、子どもは「人間」というものの学習をスタートさせることになるのです。

その関係を支えるものは、言うまでもなく「本能」です。ところが人間の場合は、思考や感情が他の動物よりも著しく発達したがために、「情愛」というものが「本能」に過剰にプラスされたり、逆にマイナスを引き起こしたりするということが起こったのです。

つまり、本来は「本能」であった筈のものが、人間の場合には「無償の愛」という言葉に置き換えられ、この「無償の愛」の実現度が問われるようになったのです。

親はそのことを余り意識していないのですが、子どもの側は「無償の愛」があって当然だと思っていますので、発達するに従って、この基準で親から受けたものを評価するようになっていきます。そして満たされない思い出があった場合には、これが強く印象づけられ、潜在意識の中に深く刻み込まれるのです。

さてそうなりますと、「親」はなにしろ最初に接した「人間」ですから、その子にとっては、その体験が「愛」というものに関する人間原則のように働いてしまい、大人になっても、潜在意識に刻み込まれたその感情体験が、そこかしこで顔を出すことになるのです。これが、その人の葛藤を引き起こすのです。

そこで、自分の中に、未だ処理できない親との確執の感情があるという方は、次のことを考えていただきたいのです。当時のあなたの親も、今のあなたと同じように未熟であったということを。完全な人間ではなかったということを。

親は、最初から「親」だったわけではないのです。あなたが生まれたことによって、あなたの「親」になったのです。今は子どもの数が少ないですから、ほとんどの親は、初心者マークを付けて「親」をおっかなびっくりドライブしている状態だったということを解ってあげてください。

ですから、試行錯誤もあり、失敗もあり、事故もあることは致し方のないことです。完璧など望むべくもありません。大事なことは、たとえ大きな確執があったとしても、あなたがそれを反面教師として逆に活かせばよいだけのことです。ここで、反面教師にできる人とできない人とで、大きな差が生まれてきます。

そこでちょっと考えてみてください。親との確執をいつまでも抱えていることに、いったいどんな益があるというのでしょうか。それはあなたの中に生じた感情です。それを生み出しているのは、他ならぬあなた自身なんですよ。自分で自分を不快にさせているだけだということに気づいてください。

だとすれば、反面教師にして切り替えてしまった方が、どれだけ益のあることでしょうか。その時から、あなたはご自身の不快を手放すことになるだけではなく、周囲の人々に対しても、また子どもに対しても、慈愛で接することができる人になれるのです。これがどんなに素晴らしいことであるか。

自分が親から受けた満たされなさの感情を、次に連鎖させてはなりません。そこには何の益もありません。あなたの代でストップさせるのです。そして、周囲に愛を振りまける人間に変身するのです。そうなった時、過去の出来事が、実はみな自分を成長させるために用意されたものであったということに、あなたは気づくことになるでしょう。