by Rainbow School
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波動の法則(6)宇宙は数学的に見てきっと美しいはずだ

■「真理」が不変である理由

「真理」は不変です。いつの時代にあっても変わらないものであるからこそ、それを「真理」と呼べるのです。もしも時代の変遷とともにころころと変わっていったとしたら、そのようなものは「真理」とは言えません。なぜなら、「理」とは「法則(Law)」の意味なのですから。

 

でも、なぜ変わらないのでしょうか? 実に、ここが重要な点です。それは、「真理」の本源というものが「無時間」の世界に存在しているからです。つまり「霊界」です。「無時間」だからこそ変わらないし、変わりようがないのです。私たちが住む「物質界」は、時間も空間もない「霊界」の中に、物質化という現象を経た形として存在しています。したがって、この「物質界」にも、「霊界」から漏れ出てくるようにして「宇宙の真理」というものが遍く浸透しているのです。

 

■自然界の「4つの力」を統一式で表したいという願い

前回の「続・不変の宇宙論」の中で、古代インド人の宇宙観というものを紹介しました。そこでは、現代の物理学が特定した、自然界に働く「4つの力」が、すでに4頭のゾウによって象徴的に表されていたということをお話ししました。(と書いたところで、いま気づいたのですが、「象徴」という字はまさに「象」の「シルシ」と書くんですねぇ)(☉。☉)!

 

この「4つの力」とは、「電磁気力」「強い核力」「弱い核力」「重力」のことを言います。この中で、私たちに身近なものは「電磁気力」と「重力」ですが、ミクロの世界を覗いたときには、さらに「強い核力」と「弱い核力」と呼ぶ力が存在することが分かっています。(最近では、単に「強い力」「弱い力」と言うことが多いようですので、以降はそう表記します)

 

自然界の4つの力

 

宇宙の物質が何から出来上がっているのか? その最小単位を見つけようとして、近代の物理学者たちが懸命な努力を重ねてきた結果、現在ではクォークとレプトンと呼ぶ素粒子がその基礎的物質と考えられる、という「素粒子の標準モデル」が確立されました。

 

物質の最小単位を求めて

 

「強い力」とは、これらクォークとレプトンを結びつける力のことを言います。「強い」という名称がついているのは「電磁気力」と比べてという意味で、この力があることによって、同じ電荷を持つ陽子どうしも反発せずに結びつくことができ、原子核がバラバラになることを防いでいるのです。一方の「弱い力」は、「電磁気力」よりも弱い力ですが、さまざまな粒子を別の粒子に変化させる力を持っており、原子核の放射性崩壊などを引き起こします。

 

さて、現代の物理学者たちに共通した究極の目標に、この「4つの力」をなんとか一つの数式に取りまとめたいというものがあります。これを「超大統一理論」と言います。これは、「ビッグバン」理論との絡みで〈宇宙創生の初期には、これらの力はみな一つだったはずだ〉という考えに基づき、その証明が切望されているのです。しかし、この強い願望の背景には、物理学者たちの心情の中に、ある種の「美学」があるように思うのです。

 

超大統一理論までの道

 

それは、〈宇宙を貫いている法則は、きっとシンプルで美しいはずだ〉というものです。かのアインシュタインもそういう考えを持っていました。この直観は、まったくもって正しいものです。物理学者たちは、口にこそ出しませんが心の奥底で、その仕事を通じてなんとか「神」に迫りたいと考えているのです。

 

しかし、直観は正しいのですが、実際の作業はかなり難航しています。その理由として、「重力」を除く3つの力はミクロの世界の理論(量子力学)を使って説明できるのに対し、「重力」はマクロの世界の理論(相対性理論)を用いるために、両者の相性が悪く、一つに組み込むことが難しいのだ、と説明されています。どうも、数式をいじっていると無限数がいっぱい出てきてしまうようです。

 

しかし、私から見ていちばんの問題は、出発点に「ビッグバン」理論を置いていることだと思うのです。言い換えれば、宇宙の成り立ちを、すべて物質の作用の範囲内で説明しようと考えている。そこに、そもそもの無理があるのです。

 

自然界の現象のすべては数式によって説明できる、という考え方があります。あながち、これは間違いではありません。なぜなら、「法則性」は「神」の最大級の一面だからです。しかし「すべて」というのは、さすがに言い過ぎです。数学者や物理学者のこれは驕りです。自然現象というものを、物質世界だけの営みと思っているからそう考えてしまうのです。「神」の性質には、「法則」だけではなく「愛」も「生命」もあります。これらを数式を使って説明することはできません。

 

フィボナッチ数列や、素数や、円周率の不思議を見るとき、そこに「神」を見い出すのはごく自然な感慨です。しかし、不思議の奥にある、さらに「向こう側」へと超えていかねばならないのです。なぜならば、物質的宇宙が成立した「第一原因」は、非物質界、解りやすく言えば「霊界」にあるからです。この関係を明らかにしようという試みが、物質科学を超えた「因の科学」なのです。

 

ところが「ビッグバン」理論は、その始まりをあくまで物質に求め、不毛な議論を繰り返しています。なぜ、ある日突然、無から有が生じたのでしょうか? どうすれば無から有が生じることが出来るのでしょうか? それを生じさせた大本の力はどこから来たと言うのでしょうか? これら矛盾だらけの理論を、学者たちだけではなく、今ではみんなが信じ込まされている。これを捨てない限り「超大統一理論」の完成はありません。

 

私は、大学教育も受けておりませんし、難しい数式もまったく解しません。ただ、自分の中に湧く「インスピレーション」のままに以下の仮説を提供するものです。したがって、「ど素人が何を言うか」との批判は覚悟の上です。しかし私としては、現代物理学を否定したいのではなく、逆に進展させたいのです。「因の科学」という別からの視点を提供することで、なんとか「超大統一理論」を完成させて欲しいと願っているのです。

 

ではなぜ、「ビッグバン」理論を捨てない限り「超大統一理論」の完成はない、と言い切れるのでしょうか? それは、「重力」というものが、いったいどこから、また何によって生じているのかという難問に答えを出すためは、従来の「物質界」の科学に立っている限りは無理だからです。実は物理学者たちは、そのことにうすうす気づきはじめています。ところが、勇気を持って「因の科学」に踏み込むところまではまだ出来ていません。

 

■「重力」の発生原因は何か?

「4つの力」の中で、他の3つと比べて「重力」だけが桁違いに弱い理由はなぜか? 冒頭の「4つの力」の表の「力の大きさの目安」という項目を改めて見てください。「強い力」を1としたときに、「重力」は10^−40の力しかありません。これは、「重力」の発生原因が、「この世(物質界)」の中より生じているのではないからなのです。では「重力」の発生原因は何なのか?

 

それを言う前に、先ず「重力(Gravity)」の定義を振り返ってみます。「重力」とは、物体が他の物体に引きよせられるという現象の背後で生じている力です。熟したリンゴが地面に落ちる。これは、地球とリンゴが「重力」によって引き合った結果です。そしてこの力は、物体の「質量」の大きさに比例する。

 

アインシュタインはその理由を、「質量」の大きい物体ほど周囲の空間を大きく歪めることになるので、その歪みが急勾配となって周囲の物体がより転げ落ちやすくなるのだと説明しました。(もちろんこの説明と図は、3次元空間を2次元平面に置き換えたときの比喩です)

 

では「質量」とは何でしょうか? 今日「質量」は、物質の動きにくさの度合い、つまり慣性の大きさであると定義されています。「質量」が大きい物体ほど、止まっている時にはそこをじっとして動かず、動いている時にはそのまま動き続けようとするのですぐには止まれない、という現象が「慣性」です。しかしこの定義の中には、あまり意識されていない重要な要素が含まれています。それは、「質量」を持つものが「物質」だという点です。

 

そもそも、「物質」の動きにくさを「質量」と定義しているので、当たり前と言えば当たり前なのですが、「質量」があるかないかということは、その素粒子が「物質」であるかないかを分ける基準になるということです。2023年現在、「素粒子の標準モデル」には17種類の素粒子が並んでいます。このうち「光子」と「グルーオン」は、質量が0と見なされています。ということは、「光子」と「グルーオン」は「物質」ではないということになります。

 

*少し前にはニュートリノにも質量がないと言われていましたが、その後あることが確認されましたので、現在の「標準モデル」は今後も書き換えられていく可能性があります。

 

標準模型

 

現在の「標準モデル」の右側にある「ゲージ粒子」は、先に挙げた「3つの力」を媒介する素粒子ということになっています。すなわち、「光子」が「電磁気力」を、「グルーオン」が「強い力」を、「ウィークボソン(WとZの2種)」が「弱い力」を伝える働きをしています。そして、その類推として、「重力」にもそれを媒介する素粒子があるに違いないと考えられているのです。これには「重力子(Graviton)」という名前までつけられているのですが、いまだ発見には至っていません。

 

さて、この「ゲージ粒子」の列に、2012年7月にその存在が確認された「ヒッグス粒子」が並べられています。しかし「ヒッグス粒子」=「重力子」なのではありません。もしそうだとすれば話は簡単なのですがそうはいきません。

 

「ヒッグス粒子」というのは「ヒッグス場」が粒子として現れたものという解釈になっているのです。粒子として確認できたのはたまたまであって、粒子化以前の段階にある「ヒッグス場」が宇宙空間に満ちていると考えるのです。この「ヒッグス場」はゼリーが入ったプールのようなもので、そこに「質量」を持った「物質」があると、ゼリーのせいで動きにくくなり、そこに「重力」が生じるとするのです。ということで、「ヒッグス粒子」が「重力子」の働きを持つというわけではありません。

 

「重力子」と「ヒッグス場」の考え方は、今のところ二股を取っていて、「重力子」が見つかればスッキリしていいんだけれど、まあ「ヒッグス粒子」と「ヒッグス場」という考え方を使っても「重力」が生じる理由を説明できないことはない、という関係になっています。つまり後者は、今のところ、「重力子」が発見されない場合の予備的な位置づけになっています。これが予備的に捉えられていることには理由があります。

 

電場とは違って、「ヒッグス場」にはそれを計測する手段がありません。「ヒッグス場」は、あくまでも理論上の仮説なのです。それどころか、真空中にも未知のエネルギーが満ちているという話になってしまい、「物質科学」の立場から見るとどうにも気持ちが悪くてスッキリしません。そこで、それよりはなんとか「重力子」が見つからないものだろうか、ということを優先して考えているのです。

 

けれども、「ヒッグス場」の考え方は「因の科学」にかなり迫ってきたと言えます。「因の科学」では、はるか以前より、宇宙空間にはプラーナ(西洋ではエーテルと言った)が満ちていて、「物質界」というものはその中に局所的にあるだけだ、ということを言って来ました。

 

真空中には何もない、というわけでは決してないのです。そこには「空」がある。「空」があるからこそ、その間が「空間」になるわけで、もし何もないとしたら、「空間」はペシャンコになって潰れてしまいます。でも宇宙はそうなってはいないでしょう?

 

この宇宙の「空間」を、今は「重力」のことだけに着目しているので、「ヒッグス場」という解釈に落とし込んでいるのですが、この「場」は、意識を伝える場であり、同時に物質を育む場でもあり、そして生命エネルギーを与える場にもなっているのです。つまり、「宇宙空間」というものは、宇宙の万物を形成する培地の役割を果たしているわけです。「ヒッグス場」という解釈は、これらの一義的な役割からすれば、二義的(派生的)なものに過ぎません。

 

「重力」という力は、これら万物を生み出す培地である「場」に、局所的に物質が誕生した際(それが「質量」を持つ)に、この物質を元に、つまり「霊界」側に引き戻そうとする力なのです。言い換えれば、物質化の反作用です。

 

ゼリーのプールに、ゼリー以外には何もない状態というのを考えてみてください。ただしこのゼリーはガッチリ固まっているわけではなく、かなりユルユルで流れを持っています。この状態であるとき、そこにはまだ「重力」はありません。しかし、その一部が固まって物質化すると、これが抵抗となって、周囲のゼリーを押し広げようとします。その反発力が「重力」になるのです。

 

以前は、「重力」のことを「万有引力」と言っていた時代もありました。けれども、実際は逆で、「質量」を持った「物質」が周囲の「物質」を引き寄せるのではなく、これは周囲の空間側からの「斥力(反発力)」なのです。アインシュタインは重力が空間を歪めると言いましたがこれは逆で、空間の歪みが重力を生み出すのです。けれども、プラーナの空間は非常に希薄でかつ原子の内部にまで浸透しているために、物質の外殻に及ぼす力は極めて弱いというわけです。巨大天体となってはじめて実感できるくらいの力になるのです。

 

ウロボロス前回取り上げた「古代インドの宇宙観」の図をもう一度見てください。4頭の象のうちの一頭が背後に隠れているでしょう。これは、「4つの力」のうち「重力」だけが表に出ていない、背後から立ち上がる力であるということを象徴しているのではないでしょうか。

 

■「因の科学」から見た「4つの力」の成立過程

ついでに、残る3つの力のことも言っておきましょう。先ず「電磁気力」ですが、これは「非物質界」から連続して生じている、宇宙の最も基本的な力となっています。「非物質界」と「物質界」を含めて、すべてのエネルギーが「電磁気力」を発生します。

 

三角形の法則とトーラス構造これは、「第一原因(創造神)」から放射されたエネルギーが、そもそも「陰陽の双極性」を帯びているためです。双極性があるからこそ、その間に新しいものが連鎖的に生み出されていき、宇宙の万物が形成されるのです。

 

そして、極小のものから極大のものまでが、「電磁気力」によって、みな「渦(トーラス構造)」を形成し、拡張(外へ、分裂)と収縮(内へ、融合)とを繰り返しているのです。そしてさらに、これが「物質化」の段階に至ったときに、そこに付随的に「強い力」と「弱い力」を発生させます。「物質界」では、「粒子」という「物質」が生じていきますので、これをくっつけたり壊したりするために「強い力」と「弱い力」が必要になってくるのです。

 

以上、宇宙の成立を考えた場合には、「第一原因(創造神)」にまで遡らない限り、謎は絶対に解けません。ですから、「ビッグバン」理論が大きなネックになっていると言ってきたのです。

 

ちなみに「ビッグバン」が広く信じられているのには理由があり、この説は、唯物論の科学者にとっては「人生」のアナロジーとなっています。つまり、人間の誕生から死までのモデルを、そのまま宇宙に投影して考えている。彼らは「死後の世界」があることなど認めません。そこで、宇宙の誕生についても、突如、無の世界に物質の火種が誕生したという話に拘泥してわけです。しかしそれは、取りも直さず、自分がどこから来てどこへ行くかを知らない、ということになるのですが‥‥

 

■「因の科学」の領域に踏み込み始めた現代物理学

とはいえ、現代物理学は、かなりその境界にまで踏み込んで来ました。「超弦理論(Superstring Theory)」はその一端です。これは、素粒子のさらに奥(素粒子を成立させる要因)にまで踏み込んだ理論物理学です。この理論が登場したのは、「超大統一理論」を模索する過程で、マクロ(相対性理論)とミクロ(量子力学)を融合させる際に、数学的に破綻のないような数式を編み出そうとあれこれ試行錯誤を重ねた結果、生み出されて来たものです。

 

しかし、成立の過程はどうあれ、素粒子が形成される前段階に「振動するエネルギー」が存在するという考え方は、古代より「因の科学」が主張していたこととピタリ一致します。「因の科学」では、昔から、この全宇宙を構成している素はたった一つの「振動するエネルギー」である、ということを言って来ました。その「振動するエネルギー」が、ただ振動数と振幅を変えるだけで、宇宙の万物が出来上がっていると説くのです。

 

これほどシンプルな科学はないでしょう。すべてのものが一者に還元されていくのです。ですから、全部が一つで、一つに全部があると語って来たのです。これが「全一」つまり「Oneness」という意味合いです。ですから、この「一者」を仮に「神」と呼ぶとすれば、あなたは「神」の一部であり、あなたの中に「神」がいるということになるのです。また、大自然は「神」の表現物である、ということになります。これが、宗教を超えた、新しい神学です。

 

■「霊性密度」の階層を「振動数」で表す試みに挑戦

さて、この「波動の法則」の連載をするに当たって、私にはどうしても成し遂げたい一つの願望がありました。それは、宇宙の階層構造のモデルを、「振動数」を使って特定したいというものです。「霊界」を含めたこの宇宙が、階層構造で出来上がっているということはずっと以前から分かっていました。そして、これまでにいろいろなモデルが提示されて来ました。ところが、その分け方はみなバラバラで名称にも統一性がありませんでした。

 

これが、「霊界」の構造を理解するうえで大きな障壁となっていたために、私はこれをなんとか整理したいとずっと思い続けて来ました。また、巷でよく言われる「次元」が、数学で定義する「次元」とは別物で、正しくは、先に言った「振動するエネルギー」の振動数の違いのことを言っている、という初歩的な誤謬にも途中段階で気がつきました。実にこのことが、多くの人を長年にわたって困惑と戸惑いの中に放り込んで来た主原因だったのです。

 

数学で言う「次元」は、直交する座標軸の数のことを言い、整数によって規定されます。したがって、2.3次元とか3.5次元といったものは存在しません。しかし振動数は、幾何級数的に連続して変化していくものであるために、そのどこで線引きしてもよいことになります。このため、数多くの階層モデルが生み出されてきたのです。

 

こうした中で、私はモンロー研究所の「Focus」の概念にヒントを得て、試行錯誤の末『霊性密度図』と呼ぶ7×7の階層モデルを新たに提案しました。このモデルでは、「オクターブの法則」の階層構造を整理し、物質界から非物質界までがどのような位置関係にあるのか、またその中で「アセンション」とは何を意味しているのかを明らかにしました。そこに加えて、小宇宙である「人体のチャクラ」との関連性も解るようにしました。

 

霊性密度図

 

*このモデルは今も改良を重ねているために、たくさんのバージョンが存在します。最新バージョンは下記を参照してください。

http://rainbow-school.info/study_hall/spiritual_density.html

 

しかし、宇宙の階層が「振動数」の違いによって出来上がっていると言いながらも、肝心の「振動数」が特定されていないことに、私は満足していませんでした。そこで、「仮説」としてでも、なんとか「振動数」を特定しておきたいという願望がその後もずっとあったのです。これはまだ誰もやっていない仕事です。そしてこのたび、ようやくのことでその目処が立ちました。

 

■ついに適った「振動数」による階層分類仮説

ヒントになったのは、大橋正雄さんの「宇宙の階層性構成図」と、シェルドン・グラショウさんの「ウロボロス図」です。

 

 

今日、グラショウさんが提案したこの「ウロボロス図」は、物理学を専攻する人たちの間で数多く引用されるまでになっています。しかし、自分の尻尾を噛んでいるこの蛇図は、「物質界」のマクロとミクロの融合という願望、ないし期待にまだ留まっている感じがするのです。おそらくこうだけれど、証明できたらいいなぁ、という感じで、やはりまだ「ビッグバン」説の証明という視点からは抜け出ていないように私は思うのです。

 

しかし、大橋正雄さんの「宇宙の階層性構成図」は、物質の大きさとともに、振動数を二軸の対数グラフ上にプロットしていって、それが一直線にきれいに並ぶということを示しました。これは大発見であり、宇宙の階層構造が相似形から成り立っている(私が言うところの「マトリョーシカの法則」)ということを示唆しています。そして、これと同じことを、イームズが『Powers of Ten(10のべき乗)』という映画にして見せたのです。

 

*イームズがこの映画を創ったときには、まだ「素粒子」の発見はありませんでしたので、その後、次世代の作家による同様コンセプトのバージョンアップ版が創られています(いま探したんだけど見つからないよ〜(╥﹏╥))。なお、イームズはイームズと書いているのに、グラショウさんにさん付けしているのはご存命でおられるから。一方、大橋さんは故人ですが、親しみを感じるのでさん付けしています。

 

大橋さんが生きておられたころにはまだ「超弦理論」はなく、大橋さんは「虚子」という概念と言葉を提示されていました。「虚子」というのは、まだこの世に物質化されてはいないが、物質世界の向こう側(非物質界)にあって、「素粒子(実子)」の基になるものという意味です。つまり、今日仮説として提示されている「振動するひも」と同じ概念を、大橋さんはすでに提案されていたわけです。

 

グラショウさんの「ウロボロス図」には「相似形」の考え方までは見られませんが、大橋さんとイームズには、明らかに「相似形」の考え方が見て取れます。そしてこれは、古代より神秘学が示してきた「下なるものは上なるもののごとく、上なるものは下なるもののごとし」を科学的視点から実証しようとしたものとなっているのです。そこには、紛れもなく美学があります。ピタゴラスも直観した「宇宙は、数学的にみてきっと美しいはずだ」という‥‥。

 

ということで、私もこれに倣って、大橋さんと同じ考え方のマップを作ってみようと思い立ちました。平面上に取った二軸は、横が振動数(Hz)で、縦が波長(cm)です。先ず、この平面に電磁波をプロットしていきます。電磁波は、波長と振動数がすでに分かっており、両者は反比例の関係にありますので、これを種類別に並べていくと、マップ上には直線が引かれます。この直線の延長上に、代表的な物質の大きさを配置すれば、振動数が求められると考えたのです。

 

波長と周波数

 

次に、物質の波長をどう見なすかということですが、あらゆる物質が「渦」の回転運動をしているわけですから、1回転が正弦波の1波長に当たると考えて、「直径」の数値を充てました。この考えが果たしてよいのかどうかは判りませんが、対数マップに落とし込むと、べき乗の数値があまりにも巨大過ぎて、半径であろうが、直径であろうが、円周であろうがあまり関係なくなってしまうので、取り敢えず分かりやすく「直径」としました。

 

円運動と正弦波

 

その上で、「第1霊性密度」は鉱物の領域ですから、銀河団あたりまでがその縁(へり)になるであろうと、また「第4霊性密度」は半霊半物質界ですから、素粒子の大きさの前後を含むことになるであろうと大まかな当たりをつけて、そのあいだを等間隔で割っていきました。そうしたところ、偶然にも(偶然ではないかも知れませんが)、振動数を10の10乗ごとに綺麗に7分割した構造が見えて来たのです。

 

霊性密度の周波数帯域仮説

 

また、そこにマッピングされた代表例を見てみますと、かなり納得がいく構成になっているように思えます。例えば、「第2霊性密度」には太陽と地球が入っていて、これらは植物を育てる基盤となっています。また「第3霊性密度」にはヒト(の身体)から体細胞、DNAあたりが入ってくるので、これにも納得がいきます。

 

「超ひも」は、理論的に導き出されたものですが、プランク長よりは小さいとされます。プランク長は1.616×10^−33cmですから、「超ひも」をそのあたりに配置すると、振動数は「第6霊性密度」内に位置します。つまり、「第一原因」である「第7霊性密度」から放たれた最初のエネルギー状態が「超ひも」に当たるのではないかと見当がつきます。

 

続く「第5霊性密度」には代表例が何もありませんが、この範囲は、素粒子の形成(物質化)以前の段階ですからそれも当然です。この領域は「霊性密度図」では「カラーナ界(コーザル界=原因界)」に相当し、「第4霊性密度」の「アストラル体」を形成する前駆の場ですからこれにも納得がいきます。

 

ということで、まったくの仮説に過ぎませんが、「霊性密度」の階層構造を振動数で表現したいという当初の願望は、取り敢えずこれで整理できました。あとは、これを基にして、のちの人がさらに精緻化ないし発展させていってくださるといいなぁ、と思っています。

 

また、この作業をしている際に、「なるほど!」というインスピレーションが追加で飛び込んできました。この平面のマップを、筒状にして極大と極小とをつないでみるのです。つまり、グラショウさんのアイデアを借用して立体に適用してみます。

 

すると、振動数の極大と極小が「第7霊性密度」、つまり「創造神」の領域に入り込んでいってつながるという理由を発見できたのです。

 

すなわち、「第1霊性密度」の外側に出ると、振動数は限りなくゼロに近づき、波形はフラットになっていってしまいます。一方、「第6霊性密度」の外側に出ると、振動数は逆にほぼ無限大となり、こちらの波形も、細かすぎるがゆえにフラットになってしまうのです。こうして両者は一つにつながる。「霊界」は、時空間のない異次元世界(「超弦理論」では9次元が想定されている)ですから、このような相転移が起こったとしても何の不思議もありません。

 

新総数の極小と極大は共にフラット

 

そして、このこともまた、古代より伝えられてきた神秘学がすでに語っていたことなのです。「因の科学」では、かねてより、極大を行き着くと極小側に抜ける、また逆に極小を行き着くと極大側に抜けるということが言われて来ました。その理由が、ここに朧げながら見えて来たのです。

 

このようにして、古代から伝わる神秘学と、最新の物理学がかなり接近するところまで、時代は進化して来ました。このまま進化を続け、いつの日か、「物理」と「霊理」の世界が、完全に一体のものとして語られる日が訪ずれることを願ってやみません。

 

(つづく、たぶん次回で最終回)

波動の法則(5)続・不変の宇宙論

 ̄宙には始まりも終わりもない。永遠の今だけがある。

宇宙の大きさには果てしがない。

1宙は極大から極小のものまでが相似形で成り立っている。

 

前回の「波動の法則」では、以上3点の、古代より不変の「宇宙論」についてを解説しました。

 

■古代の文献を読む際の二つの注意点

「神秘学」について、私たちが学ぶ際に心しておかなければならないことが二点あります。それは、「時間軸」の幻想と、「血筋(DNA)」の幻想にとらわれてはならない、ということです。

 

しかし実際には、人間社会で認識されている世界観というものは、この両方の幻想の上に構築されています。それが当たり前であり、前提であって、誰もそれを幻想だとは考えていないのです。これまでにも、「現実は幻術」だと幾度か語ってきたことを覚えておられる方もいるでしょう。けれども、そのことをたいていの人々は理解できません。そして反対に、「真理」を伝える「神秘学」をトンデモ話のように扱って、いつの時代にも排斥したり攻撃したりして来たのです。

 

先ず、霊界は「無時間」だということです。肉体を持った私たちが暮らす世界は「時空間連続体」の中にあります。しかし、物質を超えた世界は「意識」だけのエネルギーで出来上がっており、そこには時間も空間もないのです。そのことを、こちら側から理解しようと思うと「そんなバカな!」ということになってしまいますが、反対側から見ますと、「時空間連続体」というのは、広大無辺な宇宙の中の「限定された波動領域」に過ぎないのです。

 

言い換えますと、私たち地球人というのは、自由がかなり制限された、負荷の多い、生きるためには何かと工夫をしなければならない不便な場所に「閉じ込められた」存在なのです。これが、地球という惑星がしばしば「監獄」に喩えられるゆえんです。

 

もう一つは、私たちはけっして肉体だけの存在ではなく、個々の本質というものは「魂」にあるということ。肉体はその衣服に過ぎません。「魂」は、肉体の死後も生き続け、自身の霊的向上を図るために、地球学校に何度も再入学を果たし、輪廻転生を繰り返すのです。エドガー・ケイシーのリーディングによりますと、イエスは30回の転生があったと言います。イエスにして30回ですから、普通の人の転生回数は数百回にもおよぶのです。

 

このことから言えるのは、その人の現在の性格に似ている人物とは、過去世の自分なのです。ところが、普通の人はそんなふうには考えません。ほとんどの人が、両親の遺伝的特質を備えていると考えていて、自分は父親似だとか母親似だとか、もっと遡ってお爺さん、お婆さんに似ているということをしきりに語っています。確かに、DNAは身体的な特徴を伝達します。しかしそれは、「魂」にとっては、その時期に選んで着た外套に過ぎないのです。

 

ですから、例えば、日本人にはユダヤ人の血が混じっているとか、なぜ中南米にもピラミッドがあるのかといった謎が、「血筋」のレベルでしばしば論議となるのですが、別に「血筋」によらなくても(ということは、陸路なのか海路なのかといったことにも関係なく)、「魂」は輪廻転生するのですから、その中には別の土地や異民族だったときの過去世の特質を伝達する人間というものは、必ず出てくるのです。(かといって、「血筋」の可能性を全否定しているというわけではありません)

 

嘆かわしいのは、宗教界ですら、血縁の子に教団を継がせようとするところが少なくありません。こう言ってはなんですが、霊界の法則をまったく知らないということがその一点で解ります。これは、教団側も信者側も、ともに「血筋」に〈特別な何かがある〉という幻想を持ち続けていたい、という願望からそうなってしまうのです。要はエゴの発露です。出口王仁三郎は、なおの実子ではなく娘婿でした。血は繋がっていなかったので、さらにパワーアップした存在たり得たのです。

 

以上述べたように、霊的世界には「時間」というものがありません。したがって、数百回におよぶ輪廻転生も、「魂」の大本においては、すべて同時に各々の人生を体験しているのです。ただ、私たちが振動数を落として、物質界に生まれ出たときには、「時空間連続体」という枠組みの制約を受けることになってしまいます。そこで、各人生を「時間軸」の中で解釈するということになるのです。

 

この「時間軸」の制約には、各時代の文化的背景(特に宗教)や、科学の発達度合い、メディアの発展状況、人々の理解力の程度、言語のあり方などが、複合的に絡んできます。一般に、我々が古代の文献に接するときには、文化的に未発達だった時代のもの、というコンセンサスがなんとなく出来上がっています。が、そうではありません。「時間軸」の制約のせいで、その時代の「表現」がそうであったというだけであり、「宇宙の真理」というものはいついかなる時代においても不変のものなのです。

 

■古代インド人の宇宙観を読み解く

次の絵を見てください。この絵については、インターネットをどんなに検索しても、「古代インド人が考えた宇宙観はこんなふうだった」といった説明しか出てきません。


ウロボロスヘビが全世界を取り囲み、その上に亀が乗っかっていて、甲羅の上には四頭の象がいる。この象が地上世界を支え、その中央部には須弥山(しゅみせん)がそびえ立っている。

 

この絵だけを眺めたら、古代インド人は、本当にこんなお伽話のように世界を宇宙だと思っていたと誰しもが思うでしょう。

 

しかし、そうではないのです。これは、見る人が見ればすぐに解ります。先ず、自分の尾をくわえているヘビ(龍)ですが、このヘビのことを「ウロボロス(Ouroboros)」と言います。自分の尾をくわえて一周していることから、これは大宇宙の連環と一体を表現しています。「ウロボロス」の起源を探ると、BC1600年頃の古代エジプト文明にまで遡り、この原型が太陽神ラーの夜の航海を守護する神メヘンとして描かれています。

 

こうして、エジプトを起源に、「ウロボロス」と同様の象徴が世界各地で見られるようになったのです。このヘビまたは竜(西洋ではドラゴン)は、宇宙(=自然界)の根源的な力を表していて、この力はプラスにもマイナスにも作用します。そこで人々は、ヘビや龍を一方で畏れ、もう一方で敬ったのです。またヘビは蛇行しながら進みますが、これはまさに波の形であり、ヘレナ・ブラヴァツキーは、この力がヘビのように「シューッ」と音を立てて進むのだと説明しています。

 

そして、この根源的な力(Aeatherに当たる)の中に、亀が存在している。亀は、水中と陸上との間を行ったり来たりして、そのどちらでも生活できます。ということで、亀は非物質界と物質界とを跨ぐ象徴となっているのです。その甲羅(水上に出た物質界側に当たる)の上に4頭の象が乗っかっています(イラストでは3頭に見えますが、奥にもう一頭隠れている)。これは、すぐ解るように、自然界の4つの力を表わしています。

 

*電磁気力、強い核力、弱い核力、重力。

 

物理学で、宇宙に働いている力が4つだということが特定されたのは、素粒子論が展開されるようになった20世紀になってからのことです。しかし古代人にも、すでにそれが解っていたわけです。その象の上に、つまり4つの力の上に支えられて私たちが住むこの世界がある、ということをこの図が表わしているのです。

 

そして、その中央部には須弥山がある。「須弥」というのはサンスクリット語の「スメール」を漢語に音写したもので、須弥山は「聖なる山」の意味です。意訳した場合には「妙高」となります。地上世界では、この須弥山の頂に昇ることを目標にして生きるわけですが、それらはみな大宇宙の根源であるところの「ウロボロス」のヘビに囲まれた中で営まれているということになるのです。

 

そして、地上での一つの生を終えた時には、また「ウロボロス」の円環の中へと帰っていくことになるわけです。

このように、全部が象徴的に描かれてはいますが、この図は、宇宙の真の姿を解りやすく描写したものなのです。

 

■中世の時代に、宇宙の構造をすでに正確に見通していたビンゲン

さて、もう一つの例を見てみましょう。これは、ドイツのベネディクト会系女子修道院長だった神秘家、ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(Hildegard von Bingen、1098 - 1179年)が、自身の神秘体験を絵にしたものです。ビンゲンは多彩な才能を持った賢人で、薬草に関する研究を行ったり、グレゴリオ聖歌の作曲なども行いました。特に自然療法(Naturopathy)に関する知識は随一のもので、ハーブ療法の母などとも呼ばれています。

 

*日本には、東城百合子さんがおられます。これからハーブ療法を学ばれようとする方は、日本人の体質と風土にあったものということでは、先ず東城百合子さんの著作を学ばれてはいかがでしょうか。

 

Wikipedia などを見ますと、ビンゲンが幻視体験をしたというようなことが書かれてあるのですが、それは知らない人が言っていることで、ビンゲンは体脱をして霊界に入り、そこから得た知識を持ち帰って書物に表わしているのです。要は、エマヌエル・スヴェーデンボリロバート・モンローと同じ能力を持っていたということです。

 

ここでちょっと考えていただきたいのは、ビンゲンがカトリック教会の修道院長の職にあったということです。かたやスヴェーデンボリは、キリスト教教会に対してはかなり辛辣な言葉を残しました。これは、すぐにレッテル貼りをしてしまう癖のある人から見ると、奇異な感じがするかも知れません。しかしそうではなく、宗教から入る道もあるということです。須弥山への山登りに、登山口は関係ありません。どんな道を通ろうが、頂は一つなのです。

 

ヒルデガルド・ビンゲン

 

さて、この図は宇宙の構造をビンゲンが象徴的に描いたものです。万物を母なる神が取り囲み、それを支えて父なる神がいる。そして、この中にあるものはすべてが互いにネットワークで繋がれ、波動を発しています。こうした原理の中に、大気の自然現象があり、地球があり、人間が住んでいるのです。なお、この絵のバージョンには複数あって、中央部が森や畑で過ごす人間を描いたものもあります。ご興味のある方は探してみてください。

 

ビンゲンの三位一体もう一つの絵は、『道を知れ』という著作の中にある挿し絵で、「三位一体」を象徴的に表わしたものと言われています。が、「あれ?」と思いませんか?

 

ご存知のように、キリスト教で言う「三位一体」は、神(主)と子(イエス)と精霊ということになっています。これは公会議で決定されたものですが、ビンゲンの「三位一体」は、これとは違うというのがお解りでしょう。人間の周りを二段階の波動の輪が取り囲んだ図になっています。

 

中央の橙色に見えるのは、アストラル界(第4霊性密度)の波動です。その外側の白っぽい輪はカラーナ界(第5霊性密度)の波動です。ということで、この絵は、肉体、アストラル体、カラーナ体の「三位一体」を表現しています。そしてよく見ると、アストラル界のエネルギーが頭頂部(サハスラーラ)から浸透して体全体を取り囲んでいる様子が描かれています。これは肉体の表面に形成されるエーテル体を表わしています。

 

ということで、12世紀の、日本で言えば平安時代の末期に描かれた書物であっても、「宇宙の真理」の構造をちゃんと描き出しているのです。

 

■「宇宙の真理」が明かされる時代の到来

以上のことから、次の知見が得られます。

 

 岷宙の真理」は不変であるということ。

△匹了代にも、それを発見し到達する者がいた(いる)ということ。

しかし、(今までは)それが決して主流にはなり得なかったということ。

 

特には、地球人類の成長段階の問題もありますが、時の権力者にとって「真理」は体制を揺るがしかねない「危険思想」でしかなかったために、それを説く者はつねに弾圧され、歴史の闇へと葬られて来ました。代わって、虚偽とエゴが社会に蔓延し、それらを操る者が、政治でも宗教でも権力者の地位を手に入れて来たのです。

 

この歴史の闇が、ついに白日のもとに暴き出される時代がやって来ました。

そして、「宇宙の真理」は次のことを約束しています。

たとえどんな人であっても、いずれはみな必ず「真理」に到達するのだと。

 

(つづく)

波動の法則(4)不変の宇宙論

[前回の最終部分からの再録]

 

・なぜ「無」から「有」の「ビッグバン」が生じるのか? 生じることが出来るのか?

・「ビッグバン」の以前は何だったのか?

・「無」であれば、時間も空間もない筈なのに、なぜ「ある日ある時」と言えるのか?

・どうして、「ビッグバン」と同時に「時間」が突如として開始されたのか?

・宇宙が膨張していると言うが、何(座標)に対して膨張しているというのか?

・膨張しているところの「縁(へり)」はどうなっているのか?

・「縁」の外側はどうなっているのか?

・宇宙を観測した時に、なぜいつも地球が中心にあるのか?

 

ところが、これらの疑問に対する答えは、神秘学においてはとっくのとうに示されているのです。

 


 

■神秘学が説く宇宙の姿

はるか遠い昔より、神秘学ではこのように説かれて来ました。

 

 ̄宙には始まりも終わりもない。ただ永遠の今だけがある。

宇宙の大きさには果てしがない。

1宙は極大から極小のものまでが相似形で成り立っている。

 

これは、そういう言い伝えが伝承されて来たということではなく、どの時代に登場した賢者たちも、みな一様にこれと同じことを語ったのです。しかしここに挙げた3つは、物質界に暮らしている人間たちにとって常識的感覚からは理解できないことばかりであるために、もっとすんなり納得できるような物理的な解が求められたのです。そこに登場したのが、宇宙の開闢に関して、今日では常識的理解とされるにまで至った「ビッグバン」理論です。

 

これは、それまでにあった宗教的、また神話的な宇宙開闢説を根底から覆す、科学的最新理論として提出されました。その意味では、ダーウィンの進化論に匹敵するインパクトを世の中に与えたのです。「ビッグバン」説は、理論の基底に時間軸を想定していますので、常識的感覚からみて、非常に解りやすい印象を与えるのです。しかしちょっと突っ込めば、立ちどころに矛盾が露呈するような、おかしなところを満載した理論です。

 

けれども、一般の人はそこまで追究はしませんし、権威が言うことなら「そうなのかなぁ」と思って、今日では常識となっているのです。その他のあらゆる常識と同様、人間界では一度これがスタンダードだと決められると、それに疑問を投げかける考えというものは徹底的に排除され、時には弾圧さえも受けます。今はまだ仕方がありませんが、今後はこうした風潮も遠からず是正されていくことになるでしょう。

 

さて、いま挙げた3つは、別々のことを言っているわけではなく、みな互いに関連し合っています。始まりも終わりもないので、宇宙には果てしがないのです。また、果てしがないので、始まりも終わりもないのです。そして、その構造は、相似形および永遠の今とから成り立っているというわけです。え?、ますますワケが分からなくなってしまったって?(╯︵╰,)。ここで「物質界」の常識から思考を一気にワープしなくてはなりません。

 

これまで繰り返し語ってきたように、我々が住む物質的世界というものは、霊的世界の中に包含されるかたちとして存在しています。この広大にして多様性に満ちた「大宇宙(Macrocosm)」を形づくっているものは、本を辿れば、たった一つの振動するエネルギー体なのです。その一つのエネルギー体が、ただ振動数を変えるだけで、宇宙のあらゆる多様性というものを生み出しているのです。

 

そして、私たち人間は、その相似形としての「小宇宙(Microcosm)」を形成しています。ということで、人間もまた、霊的な存在(霊魂)の中に、物質的な存在(肉体)を形づくって、この世に在るというわけです。

 

■宇宙階層の相似形

次の写真は、2020年にイタリアのボローニャ大学の天文物理学者フランコ・ヴァッツァ氏と、ヴェローナ大学の神経外科医アルベルト・フェレッティ氏が『Frontiers of Physics』誌に発表した共同研究の論文中に掲載されたものです。二人は、「人間の脳は宇宙そのもの」と題して、銀河団のバブル構造と、人間の脳のニューラル・ネットワークを並べて比較し、その類似性を指摘しました。二人は、こう述べています。

 

脳のニューロンと宇宙の類似

 

「人間の脳はおよそ690億本の神経からなる広範囲なニューラル・ネットワークのおかげで機能しています。一方、観測できる範囲の宇宙は、最低でも1億個の銀河から成り立っています。神経と銀河は共に長い糸と結節の形をとっており、これが全体の30%を占めます。残りの70%は受動的な役割を果たしていて、脳では水、宇宙ではダークエネルギーがこれに相当します」と。そしてさらに、両者の発展法則は同じであると推論しています。

 

「我々の分析によって、脳のニューラル・ネットワークの振動分布は1ミクロンから0.1ミリメートルで、宇宙のネットの中での事象分布の発展と同じ道をたどっていることが分かりました。もちろん宇宙での振動分布の規模は、5光年から5億光年とずっと大きいのですが‥‥」

 

「2つの間には、神経を2とすれば、宇宙は2の27乗とその規模に大きな違いがあるものの、これらのシステムの中の物質を構造化する物理的なプロセスは、まったく同一の法則に従って機能しているのではないかと推測しています。その結果として、同一レベルの複雑さと自己組織化を持った構造が形成されたのではないでしょうか」

 

いま挙げたのは一つの例ですが、このように、振動数(別の視点から見れば「波長」= 大きさ)のあらゆる階層に「相似形」を発見できるのです。そして、その「相似形」は、「トーラス構造(Torus Structure)」およびそれが作り出すところの「渦」の形として、様々な場所に散見できるのです。次の写真はそれらの例です。

 

渦巻き事例

 

■「時空間」のある世界とない世界

けれども、「霊界」というところは「意識(思念)」だけで形成されている世界ですので、「物質界」にあるような「時空間」というものがありません。ですから、「物質界」から「霊界」を見た(と言っても実際に見たということではありませんが)場合には、広大無辺としか形容のしようがないのです。ちなみに阿弥陀仏の「アミ」とは、サンスクリット語で「無量」を意味し、果てしがないということを表しています。

 

この、「時空間」がない世界というのは、地上にいる我々には想像がつかないのですが、このように考えればよいでしょう。非物質世界(霊界)にあるエネルギーが振動を落としてきて、ある境い目(いわゆる量子世界)を超えたところで物質化する。すると、物質があるということは、それを入れる容れ物が必要ということで、そこに空間が生じる。また物質が〈できる〉ということはすなわち変化ですから、そこには時間も生じる。こうして「時空間」が一挙にできる。

 

*臨死体験や体外離脱体験などでそこを訪問して来た人には、行ったとたん瞬時にその感覚が分かるようです。

 

結局、我々が認識している「宇宙」というものは、「時空間」の存在しない、つまりは果てしのない世界の中に、局所的に物質化した大宇宙というものがあって、その中にまた局所的に銀河があり、さらにその中に局所的に太陽系が存在し、さらにさらにその中に局所的に地球というものが存在しているのです。そして、その中に局所的に生物が誕生し、生物の中には細胞や様々な化合物が作られて、その中に局所的に元素が存在し、さらにその中に局所的に量子が認められるのです。

 

このような、局所的に形成された「物質」以外の空間というものは、すべてがスカスカの状態です。ではそこに何があるというのでしょうか? 文字通り「空」がある。「空」と「無」とは違います。「空」は何もないのではなく、「空」には物質化していない振動エネルギーが充満している。つまり「スピリット・エネルギー」です。これが、惑星『ソラリス』で描かれたところの、意識を持つ「海」の概念なのです。

 

■あらゆる物質あらゆる生命の素とは?

「スピリット・エネルギー」がなぜ振動しているかと言えば、それは「中庸」を保つためです。「スピリット・エネルギー」には陰陽の極性があります。この両極の間を、激しく往復することによって中庸が保たれているのです。つまりそこには、陰極と陽極のエネルギーが詰まっていて、物質化する要素がすでに備わっている。そして、何かのきっかけを得て、物質化するのを待っている状態にあるのです。

 

この中庸に「ゆらぎ」が生じた時、中庸が破られてそこに物質が誕生するというわけです。では、どのようなとき「ゆらぎ」が生じるのでしょうか? これは、非物質界(霊界)が「意識」だけの世界である、と言ったことを思い出していただければ想像がつくでしょう。これらは、宇宙の鉱物、大気、水、その他あらゆる生物を創造する任を負った「神々」クラスの知的存在が、創造主の意を受けて、彼らの「意識」によってそれを動かしているのです。

 

ということで、地上の人間にはどんなに頑張ったとしても「生命」を創造することは出来ません。人間が出来ることは、いまある「生命」を基にして、これをいじくることだけです。しかし悲しいかな、その野望に燃える、傲慢な人間が後を絶ちません。天使たちから見れば、鉱物だって「生命」です。時間の働きはゆっくりとですが、「パンゲア(Pangaea)」の動きや「プレートテクトニクス(Plate Tectonics)」を見れば、それが生命活動を行なっているということが解るでしょう。

 

このようなことで、現在定説とされている「ビッグバン」説というのは、完全な誤りなのです。

 

■〈この〉宇宙の生成の要因

〈この〉宇宙の生成には、大きく二つの要因が絡んでいます。一つは、いま述べた極小の量子的世界における「スピリット・エネルギー」の物質化という現象です。もう一つは、極大のホワイト・ホールを通じて、他の宇宙から流入して来る物質化したエネルギーによってです。もちろん、反対にブラック・ホールを通じてこちらから流出していくエネルギーもあります。これは、決算で言うところの、収入と支出の関係になっています。

 

宇宙は、我々のいる宇宙一つだけとは限りません。無数の宇宙があって、それぞれがブラック・ホールとホワイト・ホールを通じてエネルギーの相互交換(=呼吸)をしているのです。しかし、我々の住む宇宙から、別の宇宙をうかがい知ることは絶対に出来ません。このホールの中を行って戻ることは、光といえども出来ないからです。

 

よって、〈この〉宇宙からみた場合、その外側にある宇宙は、「無」としてしか捉えようがありません。これが、「オクターブの法則」における第8霊性密度に相当するのです。

 

光のドップラー効果という観測結果から、1929年に〈この〉宇宙が膨張しているということが発見され、しかも近年この膨張は減速どころかむしろ加速していることが確認されました。加速しているということは、〈この〉宇宙の総エネルギー量に増大がなければなりません。これは大きな謎です。しかし宇宙が一つ(Universe)だけではなく、多数(Multiverse)あって、相互に呼吸しているということが解れば、この謎も解けるのではないでしょうか。

 

*なお、マルチバース論において、まったくの新規の宇宙の生成に当たっては、「ビッグバン」に近いことが起こった可能性はあります。しかしそれも、決して「無」から誕生したというわけではなく、里芋の親芋の表面に小芋がポコッとコブを作ったようなものなのです。

 

■霊界は何次元なのか?

さて、霊界には「時空間」概念が存在しないと言いました。ということは、そこは3次元世界ではないということです。(注:ここで言う「次元」とは数学的概念のことで、「霊性密度」を言っているのではありません)では、何次元なのでしょうか?

 

これについては諸説があって、まだ明確な答えは得られていません。現代の理論物理学者たちは、9次元、10次元、5次元などを想定し、複雑な数式を駆使して、なんとか宇宙の構造を解き明かそうと懸命な努力を続けています。彼らは、そこを「霊界」と言っているわけではありませんが、しかし「この世」とは別の世界が重なってあるのではないか?、という直感を得るところまでは到達しています。

 

ということで、「霊界」が数学的に○次元であるかは今のところ不明です。ですが、我々が住む3次元よりは高い次元であることは、どうやら間違いなさそうです。だからこそ、そこでは「すべてが同時に起きる」「永遠の今だけがある世界」という、「この世」から見たらとんでもない非常識も成り立つのです。その非常識の無限の世界の中に、ほんの一部が局所的に物質化する形となって、我々が今いる宇宙というものが存在しているのです。

 

■宇宙の縁が分からないのに宇宙が膨張していると言えるわけ

ですから、宇宙の縁(それは量子的世界ですが)には、「あいまい領域」というものが存在します。したがって、この「あいまい領域」は、3次元を超越した世界に徐々に溶け入っていると想定されるのです。そこで、思考実験です。

 

「あいまい領域」を含むこの宇宙を、仮に4次元だとしましょう。その上で、我々が住む3次元世界の次元を1つ落とし、平面の2次元に置き換えます。そして宇宙も同じく、1つ落として3次元だと見なします。

 

いつでも宇宙の中心にいる図の球は、この3次元宇宙を示しています。すると、我々はこの宇宙の上に2次元人として存在しているという関係となります。(図の人間はかなり誇張して描いています。実際は、大宇宙に比べれば表面上にポチッとある点に過ぎません)

 

2次元世界に暮らす2次元人ですから、3次元世界のことは知るよしもありません。平面世界に閉じ込められているので、それを超えた次元については認識のしようがないのです。けれども、接触面においては、かろうじて地平線の範囲までは円周状に宇宙が認識されるということになります。

 

これが、宇宙を観測した際につねに地球が全天球の中心に位置することになる、という理由です。球体上のどこにあっても、観測者というものは、つねに(自己が認識する)宇宙の中心にあるのです。

 

一方、球体の宇宙には大きさがあります。このようなことから、観測者には、宇宙の縁というものがハッキリとは分からない(2次元人から見ればそれは地平線ですから、向こうへ段々と消えていく)のに宇宙は膨張している、という矛盾にも答えが見い出せるのです。あとは、次元を元に戻して想像してやればいいだけです。
 

 

(つづく)

波動の法則(3)意識を伝達する謎

■イヴ・クデーの実験

イヴ・クデーが行なった実験とは次のようなものです。水を張ったトレーの下部に振動発生器を置き、これを作動させて水の表面に波紋を浮かび上がらせます。この上にシリコーン・オイルの滴を垂らします。すると、両者の間には空気の潤滑層が形成され、滴が宙に浮いた状態となります。そして、波紋の動きに合わせて、滴がぴょんぴょん跳ねながら移動して行くのです。その動きを観察していますと、滴は周囲の波にまるで導かれて行くように見えます。

 

 

また一方で、飛び跳ねた滴は、落下の際に水面に波を生じさせます。このとき水面を傾けてやると、滴がまるで自分の通路を掻き分けるようにして、波紋を生じさせながら歩いて行くのです。このように、滴と、それを覆うようにして周囲にある水盤の波とが、相互に作用しながら、これらの奇妙な現象を作り出していく姿が観察されるのです。

 

クデーは、これらの観察結果から、1927年にルイ・ド・ブロイ(Louis Victor de Broglie、1892 - 1987年)が提唱した「パイロット波(誘導波)」理論との関連性に着想を得ます。そこで、この実験装置を使って、例の「二重スリット」の実験を再現してみたのです。すなわち、シリコーン・オイルの滴を光子に見立て、「二重スリット」に向けて打ち出してみました。すると、スリットを抜けた滴に、見事に回析する現象が認められたのです。

 

 

もちろん、量子的なミクロの世界で起きている現象を、目に見える世界にまで超拡大して解釈することには無理があります。しかしこの実験成果は、ある可能性を提示してくれています。それは、「二重スリット」実験における「光子」の奇妙な振る舞いは、「光子」だけに着目していてもラチの明かないパラドックスに陥ってしまうのであり、解決のヒントは、むしろ「光子」を取り巻いている「場」の側にあるということです。

 

■復活する「エーテル」論

さてここで、以前に紹介した「エーテル」理論のことを思い出してください。この宇宙には、基本単位としての「エーテル」エネルギーが遍(あまね)く満ちている。という神秘学におけるセオリーです。しかしここでは、「エーテル」とは別の言葉を用いたいと思います。と言いますのは、『虹の学校』では、気が発している見えない体に対して「エーテル体」の呼称を使用しているためです。そこで、これとの混同を避けるために、これ以降は別の言葉を用いることにします。

 

これまで、「宇宙エネルギー」とか「生命エネルギー」という言い方もして来ましたが、今回は「意識」があるということを強調したいので「Sprit Energy(スピリット・エネルギー)」と言うことにします。その上で、クデーの実験結果を改めて解釈し直すと、「スピリット・エネルギー」の波動が、「パイロット波」となって「光子」を誘導し、回析現象を起こしているという仮説が成り立つのです。

 

*このように、言葉が統一できないのは、三角形△の頂点に行くほど、一つの概念内に多様な性質が含まれることになっていくため、それをひとことで言い表す言葉がなくなってしまうのです。

 

クデーの行なった実験は、クデーの死後も弟子の流体力学者たちによって引き継がれ、誘導する波が干渉縞を生じさせる理由が数学的にも解析されています。ということで、流体力学者たちの間では、量子論の背景に「スピリット・エネルギー(エーテル)」の存在があるということに、そろそろ気がつきはじめているのです。

 

しかし、残念ながら量子物理学者たちはほとんどこれを無視しています。よって、日本で量子力学を語る人の口からイヴ・クデーの名が出ることはありません。Googleで検索してもその名は上がって来ませんし、Wikipediaの日本語版にもその名はありません。

 

物理学者というのは、やはり「物」の「理」を追究している人たちですので、それを超えた領域になると、途端にアレルギー反応を示してしまうというのは、どうにも困ったものです。そのくせ、日曜日には教会に通ったりしているのですからねぇ。もう少し歩み寄る姿勢を見せてくれると良いのですが‥‥。分からないかなぁ、時代は、もう次のステージに変わったんです世〜。ま、私たちは、私たちの論を進めましょう。

 

ド・ブロイの「パイロット波」理論は、当時の量子力学の主流であったコペンハーゲン解釈とは相容れなかったために、その後はずっと捨て置かれていました。しかし、これを復活させて考えてみると、単発で打った「光子」が、「二重スリット」を通過した後で干渉縞を描くという謎が、クデーの実験から解明できます。私たちの言葉で言えば、振動するエネルギーである「スピリット・エネルギー」が、「光子」をそのように導いて行くということです。

 

ド・ブロイ*ド・ブロイは孤高の人と言われていました。いつの時代、どんな分野であっても、真実に迫ろうとする者はつねに異端あつかいをされ、風潮に迎合する人たちが正統派と言われるのです。

今度のワクチン禍でもそれは同じだったでしょ。でもなぜ多くの人々が、真実よりも、ウソやニセモノの言葉のほうにより強く惹かれるのでしょうか? ちょっと考えてみてください。これもまた、「波動の法則」が示す通りのことなのです。

 

■テレパシー現象の謎と『ソラリス』の「海」が示す意識

さて、そこまでは良いとして、ではその秘密を暴こうとしてスリットを覗き込んだ途端、干渉縞が発生しなくなるというのはどういうわけなのでしょう? また、「量子もつれ」の状態にある二つの量子間でテレパシー現象が生じるというのは、どうしてなのでしょうか? 流体力学者たちも、まだそこまでは考察してはいないようです。

 

スタニスワフ・レムここで私は、ポーランドのSF作家スタニスワフ・レム(Stanisław Herman Lem、1921 - 2006年)が1961年に発表した小説『ソラリス(Solaris)』のことを思い出すのです。この小説は、1972年にソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキーによって、また2002年にはハリウッドでジョージ・クルーニーの主演のもと、スティーヴン・ソダーバーグ監督によって映画化されています。

 

惑星ソラリス『ソラリス』のあらすじはこんな感じです。主人公はクリス・ケルヴィンという名の心理学者です。ある日、彼のもとに、惑星「ソラリス」を探査中の宇宙ステーションに対する調査依頼の仕事が舞い込むのです。このステーション内では不思議な現象が頻発していて、地球との交信もとうに途絶えてしまっていました。

 

さっそく「ソラリス」の宇宙ステーションに向かったクリスは、そこで前任者と会うのですが、生きていたのは二人きり。あとのクルーはみな自殺していました。しかも、生き残っていた二人とは会話もうまく成立しません。二人とも精神を病んでいて、その原因は、ステーション内に、存在しないはずの人間が出現するという怪奇現象にあるようなのです。そして、やがてクリスの前にも、10年前に死んだはずの妻ハリーが出現するのです。

 

クリスはハリーの死に対して強い自責の念を抱いていました。同様に、各クルーの前に出現した人物たちは、みなそれぞれのトラウマが描き出した人物だったのです。惑星「ソラリス」を覆っている「海」には、どうやら意識があって、この意識がクルーたちの心を読み取り、それに応じたホログラムを出現させているようなのでした。こうして、惑星「ソラリス」にやって来たクルーたちは、ことごとく狂うということになってしまうのです。

 

「ソラリス」のことは前にも紹介したことがありますが、私がしばしば話題にするのは、この小説が、「波動」理論の原理をメタファー(隠喩)したものになっているからです。惑星「ソラリス」や、宇宙ステーションという設定は、SFとしての形式を確かに与えていますが、それらを全部とっぱらってしまえば、これは地球で日常的に起きている普遍的な心理ドラマを、少し誇張して描いたものなのです。

 

つまり、クルーたちが抱えることになる、それぞれの気も狂うほどの悩みというのは、自らが創り出した、自己の意識の外部への投影となっているのです。

 

ではレムは、なぜこの惑星の意識体を「海」に設定したのでしょうか? 大気ではダメだったのでしょうか? 私の直感では、「海」であるならば、人々は直ちに「波」の動きをイメージ出来るからです。「海」が不気味に揺れ動く様は、あたかもそれが「意識」を持っていることを想像させるのではないでしょうか。

 

この意識体は、人びとの心を読み取って、その人の眼前にトラウマの原因となった人物を出現させます。これは、みなさんが「現実」と呼んでいるものが、実はみなさんの意識が創り出している「幻術」なのだと、これまで何度も言って来たことのメタファーとなっています。また、あなたが為した体験の「解釈」は選べる、ということも言って来ました。つまり、体験をトラウマに仕立てた際には、それがその人のトラウマとなるのです。

 

さて、「パイロット波」の話に戻りましょう。ズバリ言って、「ソラリス」の「海」とは、「スピリット・エネルギー」のことを指しています。そして、この「スピリット・エネルギー」が「パイロット波」の役割を果たしているのです。「スピリット・エネルギー」には意識があって、人々の意識を読み取ります。逆に言うと、人々の意識が、「スピリット・エネルギー」の総体に影響を与えるのです。カール・グスタフ・ユングは、この構造体を「集合的無意識(Collective Unconscious)」と呼びました。

 

ということで、光子の動きにいったい何が起きているかを覗こうとした途端、干渉縞が消えてしまうという謎もこれでお解りでしょう。「スピリット・エネルギー」が、秘密を暴いてやろうと考えた観察者の、ヨコシマな心を読み取って、スクリーンの縦縞を表示させなくするのです。また、「右を通れ、通れ」と念じた際には、その思いを汲み取って、右側に誘導する「パイロット波」を生じさせるのです。

 

■「量子の非局所性」という現象が起こるわけ

では、残る最後の関門です。「量子もつれ」と「量子の非局所性」に関する謎は、一体どのようにして生じているのでしょうか? この答えは実は簡単です。しかし、物理学者にとっては、今後も難問であり続けるでしょう。なぜなら、その理由は「物理」の範疇を超えてしまうからです。したがって、ここで答えを言ったとしても、彼らは決して認めはしないでしょう。トンデモ理論と言って一笑に付すことでしょう。


「量子の非局所性」という現象が顕れるわけは、「量子」というものが、もともと非局所領域(=非物質界)と、物質界の境い目を行ったり来たりしているためです。非物質界と物質界との間を、激しく往復振動しているのです。ですから、非物質界に入った時には、時空間の制約を受けずに、「スピリット・エネルギー」の充満の中で、直ちに意思疎通が行なわれるというわけです。そこには、そもそも〈時間〉はないのです。それを、物質界側から見た時には、不思議な現象と見えるのです。

 

同じことは、以前に「遠隔治療」を例に挙げて説明したと思います。波動療法を行う場合、アストラル体の次元にまで波動を上げて施術できた場合には、時空間の制約を受けないために、施術者にとってはあたかもすぐ隣で施術していることと同じになるのです。それを、理屈を知らない人が見ると、物理的には大変な距離を置いているので、「遠隔治療」ということになって、不思議だなぁというわけなのです。

 

ド・ブロイが受け入れられなかったのは、「光は波動か粒子か?」をめぐって、コペンハーゲン解釈では、波動と粒子の二重性を、相補性としてとらえていたからです。つまり、波動の時もあれば、粒子の時もある、という考え方です。これに対して、ド・ブロイは粒子の中にすでに波動が含まれると主張しました。これは、「波動もしくは粒子」ではなく、「波動ならびに粒子」であるということで、ド・ブロイは二重性を統合へと導こうとしたのです。

 

このように、量子が波動と粒子の二重性を持つという現象は、物理学界から見れば、今日でも大変な難問としてあり続けているわけですが、神秘学は、これに別の解答を与えるのです。それは、宇宙には、物質化(非物質である振動エネルギーが物質になる)と非物質化(物質であったものが非物質の振動エネルギーに変わる)が相互に起こる「中間領域」が存在するというものです。

 

光子は粒子ではないが「波束」という形として粒子性を有する。つまり物質化する一歩手前にある。一方で、物質の基本となる素粒子は「物質波(ド・ブロイ波)」という内部振動を持つ。つまり非物質化の要素を抱えている。ということで、「中間領域」とは、どうやら量子世界にあるのではないか?ということなのです。ですから、量子力学が今後、物質化と非物質化という現象を認めたあかつきには、現在の標準理論に新たな枠組みが設定される可能性があります。

 

■現代物理学への素朴な疑問

いま述べたことは「宇宙の真理」に迫る上での、非常に重要なポイントとなっています。これも以前に述べましたが、私たちが存在する「宇宙」というものは、物質的空間だけのものではなく、霊的世界(=非物質的領域)に重なったものとしてあります。この関係は、霊的世界のほうが遥かに広大で、物質的空間というものは、その中のごく限られた波動領域を占めているに過ぎないのです。

 

*これは、宇宙物理学の観点からも認められていて、直近の計算によれば、全エネルギーの4パーセント程度という値が示されています。

 

この関係を概念的で示すと、左図のようになります。ところが、物理学者たちはあくまで「物理」の世界の範疇で理論を追い求めようとします。そのため、超ミクロや超マクロの領域に入って行った場合には、霊的世界との境い目に踏み込んで行くこととなり、次々とパラドックスに遭遇してしまうのです。

 

「波動の法則(2)」において、その矛盾点を列挙してみましたが、なぜこれらの疑問の声が物理学の現場から上がって来ないのかが、私にはとても不思議です。以下に、再掲してみます。

 

・なぜ「無」から「有」の「ビッグバン」が生じるのか? 生じることが出来るのか?

・「ビッグバン」の以前は何だったのか?

・「無」であれば、時間も空間もない筈なのに、なぜ「ある日ある時」と言えるのか?

・どうして、「ビッグバン」と同時に「時間」が突如として開始されたのか?

・宇宙が膨張していると言うが、何(座標)に対して膨張しているというのか?

・膨張しているところの「縁(へり)」はどうなっているのか?

・「縁」の外側はどうなっているのか?

・宇宙を観測した時に、なぜいつも地球が中心にあるのか?

 

ところが、これらの疑問に対する答えは、神秘学においてはとっくのとうに示されているのです。
 

 

(つづく)

波動の法則(2)「波動」とは何か?

■言葉から探る「波動」の意味

先ず、「波動」とはそもそも何かということです。その意味するもの(定義)とは、いったい何なのでしょうか? スピリチュアルな場で、「波動」という言葉を、実に多くの人が日常的に使っておられるのをよく目にします。私も、時に使いますが、使う時には慎重を期しています。しかし、こう言うとお叱りを受けるかも知れませんが、大半の方は、どうも曖昧にしたまま、ご自分でもよく解っておられないまま使用されているように、私には思えるのです。

 

似た言葉に「波」や「振動」があり、こちらは広く世間で普通に使われていて、その定義もほぼ共通認識がされているように思います。ところが、スピリチュアルな話になった途端、誰れもが「波動」という言葉を使い出すのは、一体どうしてなのでしょうか? 「波」と「波動」とは何が違うのでしょうか? また「振動」と「波動」とはどこがどう違うのでしょうか?

 

英語で「波」に相当する単語は「Wave」です。「波動」という言葉は、おそらく英語の「Vibration」に充てた訳語として定着していったのではないかと思うのです。スピリチュアル関連の翻訳本を見ますと、「ヴァイブレーション」とカタカナ表記された文を多く見かけます。この「ヴァイブレーション」を日本語に訳した時に、「振動」ではどうも味気ないし、意味するものを伝え切れていないということで、どなたかが「波動」という言葉を考えだしたのではないかと私は推察しています。

 

*あるいは、後述する量子力学における量子の二面性を表現する言葉として、先に「波動」が使われ、これをスピリチュアル用語に転用したのかも知れません。

 

しかし、このような背景を抜きにしたとしても、「波動」の文字列が示しているように、その意味は、「波」と「振動」とが合わさった概念を持っていると言ってよいのではないでしょうか。単に「波」でもないし、また単に「振動」でもない。「波の振動」あるいは「振動する波」というニュアンスが、「波動」という言葉には込められてるということを先ずは感じ取ってください。

 

■「波」の性質と成立の条件

次に「波」とは何かを探ってみましょう。「波」と言って真っ先に思い浮かべるのは、海面に見られる「波」ではないでしょうか。沖合から「波」がやって来て、海岸に達して打ち砕ける。その姿を眺めていますと、一つの波が沖合からやって来て、ずーっと海岸まで流れて来ているように思うのではないでしょうか。

 

ところがそうではないのです。波の各ポイントでは上下の回転運動が起きているだけなのです。その証拠に、「波」の上に乗っかっている流木や海藻などは、「波」と一緒に海岸には達しません。その場に留まって円を描くように上下動しているだけなのです。結局「波」とは何かと言いますと、「媒質」を介したエネルギーの連続的な伝播のことを言うのです。

 

*実際には、風や摩擦や海流などの影響で、少しずつですが横方向にも移動して行きます。

 

さてここで「媒質」という言葉が出て来ました。エネルギーが「波」という形をとって伝わっていくためには、それを伝える「媒質」が必要とされるのです。海の波の「媒質」は、言うまでもなく海水です。地震波の「媒質」は土ですね。音波の「媒質」は空気です。空気が振動することで、音が伝わって行くのです。ところで、真空中では音が伝わらないということを聞いたことがありませんか? それは、音を伝える「媒質」である空気が、真空中には存在しないからなのです。

 

■「光」がなぜ真空中も伝わって来れるのか、を巡る論争

では「光」はどうなのでしょう? 光は、プリズムで虹色に分解できたり、屈折したり、二重スリットを通すと干渉縞が現れたりすることから、「波」であることはよく知られています。では、太陽光や星の光が地球まで到達する際には、いったい何を「媒質」として伝わって来ているのでしょうか。実は、これが初期の物理学上の大問題だったのです。真空中でも光が伝わって来るワケはどうしてなのか?

 

ここで、考え方が大きく二つに割れました。一つは、真空中にも我々がまだ発見できていない、何らかの「媒質」があるのだという考え方です。その考えに結び付けて想起されたのが、神秘学において古来より言われてきた「エーテル」概念でした。しかしこれは、物理学(あくまで物質世界のセオリーを追究する)の範疇を超えてしまいますので、物理の科学者たちにはどうにも評判が悪い。そこで「エーテル」説は、トンデモ理論として直ぐにうっちゃられてしまったのです。

 

*ここで言う「エーテル」は、有機溶媒のエーテル(Diethyl Ether)のことではありません。宇宙に遍満する生命エネルギーのことを言い、古代ギリシャ語で「αἰθήρ」、英語では「Aether 又は Ether(発音はイーサー)」と書きます。これは、サンスクリット語で言うところの「プラーナ」、ギリシャ語で言う「プネウマ」、チベット語で言う「ルン」、中国語で言う「気」と同じものだと思っていただいて構いません。それぞれの言葉が持つニュアンスや波動のレベルに多少の違いはありますが、それは定義づけの問題であり、基をたどればみな一緒です。

 

このように、「エーテル」概念は世界共通のものであり、そうなるのも然りで「宇宙の真理」は一つだからです。「エーテル」は、地、水、火、風の四元素に続く第五元素(Quintessence)に位置づけられ、ピラミッドの頂点や五輪塔の最上部で象徴されています。ジエチルエーテルが発見された際、その揮発性の高さから「地上にあるべきではない物質が天に帰ろうとしている」と解釈されたことにより、この液体にエーテルの名が充てられたのです。

 

代わって浮上した考えが、光は「波」としての性質だけではなく、「粒子」としての性質も併せ持つのだという考え方です。実際に、光はその両方の性質を示します。そこで、光を「粒子」でもあるとすれば、真空中も伝わって来れる理由が説明できたのです。そこで、この仮定の粒子に「光子(または光量子、Photon)」という名前がつけられました。そして、 1 個の電子のエネルギー遷移から放出された光のエネルギーを最小単位とみなして「光子」が定義づけられたのです。

 

その後、「光子」は標準理論にも組み入れられ、今では完全に「粒子」の扱いを受けるに至っています。ところが、驚くべきことに、今もって「光」の〈粒〉は確認されていないのです。光は、粒子の「性質」も併せ持っているというだけであって、それが「粒子」だということはいまだ確認されていません。おそらく、今後も発見されることはないでしょう。それなのに、なぜか、光が「粒子」だという説が広くまかり通り、誰もがこれを前提とした議論を展開しているのです。

 

これに限らず、現代物理学というものは、おかしな定説だらけです。よく知られた「ビッグバン」理論も、宇宙が膨張しているという観測結果から逆算して考えられたものであって、なぜ、「ある日ある時」、突如として「無」から宇宙の種が生じたのか、その説明がまったく出来ていません。

 

・なぜ「無」から「有」が生じるのか? 生じることが出来るのか?

・「ビッグバン」の以前は何だったのか?

・「無」であれば、時間も空間もない筈なのに、なぜ「ある日ある時」と言えるのか?

・どうして、「ビッグバン」と同時に「時間」が突如として開始されたのか?

・宇宙が膨張していると言うが、何(座標)に対して膨張しているというのか?

・膨張しているところの「縁(へり)」はどうなっているのか?

・「縁」の外側はどうなっているのか?

・宇宙を観測した時に、なぜいつも地球が中心にあるのか?

 

以上は、私ならずとも多くの人が考える謎だと思うのですが、不思議なことに、学者たちは誰一人としてそれが謎だという声をあげません。そしてなぜか、「ビッグバン」理論というものが、もはや定説化する事態となっているのです。

 

■救世主となった「電磁波」伝播のメカニズム

話を戻して、「光」が、なぜ「媒質」のない真空中も伝わって来れるのかという難問に対しては、その後、「粒子説」に代わって、救世主ともなる新しい理論が登場しました。それは、「電磁波」の伝播のメカニズムに関する説明です。

 

色々な電磁波今日では「光」は電磁波の一種であることが判っています。電磁波というのは、電界(電場)と磁界(磁場)を交互に発生させながら空間を伝わっていく波のことを言います。電界とは、電圧がかかっている空間に発生する場のことです。一方の磁界とは、磁気が作用している空間の状態を言います。

 

フレミングの左手の法則ところで、フレミングの「左手の法則」や「右手の法則」のことはご存知でしょうか? 導線に電流を流すと、導線のまわりには電流と垂直な方向に磁界が発生します。このとき、電流の向きを変化させると、磁界の向きも変化します。また磁界が変化すると、磁界とは垂直な方向に電界が生じます。この関係を「電磁誘導」と言います。

 

*フレミングの「右手の法則」は、我々がむかし習ったのとは、今日では違う形を示しているようです。私がむかしむかしに習った形は、現在では「右ねじの法則」と言い換えられているようです。さらに、これらの法則は、義務教育ではもう教えなくなったのだとか。私って、もうガラパゴス?

 

電磁波とは、このように電界と磁界とを自ら交互に発生させながら伝わる波のことを言います。そのため、媒質がない真空中でも伝わることが可能、と説明されるのです。

 

電磁波の直交

 

■なお残るやっかいな問題 ---- 光量子の奇妙な振る舞い

さて、こうして、なぜ真空中も光(電磁波)が伝わるのか、という問題に関しては一応の理論的解決を見たのですが、光をめぐっては、その後も説明できないやっかいな問題が存在し続けました。それは、有名な「二重スリットの実験」と「量子の非局所性」に関する不思議な現象です。

 

「二重スリットの実験」とはこうです。スリットが二つ並んで開けられた遮蔽物に光を当て、その奥にあるスクリーンにどういう像が映るかを見ます。すると、通常であれば、スクリーンには縞模様が現れます。これは干渉縞と言って、光が波であることを証明しています。

 

二重スリット

 

次に、光を連続して照射するのではなく、光子を一個ずつ打ち出して同じようにスリットを通過させてみます。光子は粒の性質を持っているのですから、スリットを通過できた粒は、スクリーン上に1個の点を描きます。これをずっと繰り返していった場合に、果たしてどうなるでしょうか? 光子を弾丸のようなものだと考えれば、スクリーンには当然2本の線が現れるはずです。ところが、そうはならないのです。この場合であっても、スクリーンにはちゃんと干渉縞が現れるのです。

 

 

あたかも1個1個の光子が連絡を取り合って「みんなで一緒に干渉縞を作ろうね」と動いているかのようです。そこで、スリットの近くで、一体どんなことが起きているのかを確かめようとしてここに観測装置を設置してみることにします。すると今度は、その試みをまるで嘲笑うかのように、干渉縞は出現せずに、ただの2本の線になってしまうのです。

 

「秘密を暴いてやろう」というこちら側の考えをまるで見透かしたかのように、光が先回りして反応するのです。そこで、装置を工夫し、観測していることが直には解らないような迂回路を使った実験なども行われてきたのですが、結果はいつも同じでした。胸の奥に隠した企みも、必ずバレてしまうのです。

 

また、最近ではこんな実験も行われました。観測者の念をスリットを通過する光子に送ってみるのです。例えば「右を通れ」という具合にです。すると、確かに右側を通る光子の数が増えたのです。これらのことから、光には意思があって、あたかも人間の心を読み取っているかのように感じられるのです。

 

 

さて次は、「量子の非局所性(Nonlocality)」という不思議な現象です。「量子(Quantum)」とは、粒子と波の性質をあわせ持った物質やエネルギーの最小単位に付けられた総称で、原子や光子やその他の素粒子も量子に含まれます。また、非局所性というのは、場所を選ばないという意味合いです。「量子の非局所性」は、「量子もつれ(Quantum Entanglement)」の状態にある2つの量子間で起こるある不思議な現象のことを言います。

 

ややこしい言葉がまた出てきましたが、「もつれ」というのは、ペアになった量子間に起こる強い相関のことを指して言います。わかり易く、双子の関係と言ってもいいでしょう。この双子の関係にある量子の仲を引き裂いて遠くに離して置きます。これまでに、40kmまで離した実験というものが行われたそうですが、このようにして置かれた量子a、bの片方に刺激を与えてみます。例えば、量子aの回転をそれまでとは逆向きにしたとします。すると、瞬時に遠くにある量子bの回転も逆方向に変わってしまうのです。

 

量子もつれ

 

この現象は、両者の距離がどれほど離れていても変わりがありません。また、実験で設定された距離をレーザー光で計ってみたところ、この現象は光速を超えていることが判明しました。これは、片方からもう片方へ情報が伝達されているというわけではないことが解ります。早い話が、同時に起きている。つまり、量子的世界では、時空間を超えて、“何か”が、同時に連携し合っているということが、観測の結果から想像されるのです。

 

 

このように、量子的世界では、日ごろ我々が慣れ親しんでいる自然界からは想像もつかないような不思議な現象が見られるのです。いま言った、「二重スリットの実験」と「量子の非局所性」の二つを合わせて考えると、量子、あるいはそれが存在する場、またはその両方か、にはまるで「意識」が備わっているようにしか思えないのです。

 

しかしこれは、量子的世界に限って見られる現象である、とは必ずしも言えません。なぜなら、量子的世界は、我々が「現実」と呼ぶ世界の中に、つねに内包されているからです。言い換えれば、すべての「現実」というものは、量子的世界がスクリーン上に描き出したホログラフィだと言ってもよいのです。

 

イヴ・クデーその関係を強く意識させる成果が、フランスの物理学者イヴ・クデー(Yves Couder、1941 - 2019年)が行なったある奇妙な実験によって暗示されました。

 

(つづく)

 

*今回の記事作成にあたっては、図版を他のサイトから引用させていただきました。

波動の法則(1)プロローグ

■序文

これより数回に渡って「波動の法則」についてのお話をしたいと考えています。「いつかちゃんとこの話をしておかなくては‥‥」とずっとずっと思っていたのですが、今日のこの日のタイミングとなりました。これが連続の連載になるのか、飛び飛びになるのかはまだ分かりません。その時の気分しだいというところです。

 

「波動」のことを口にされる方というのは非常に多いです。しかし、その内のどれだけの人が「波動の法則」について、論理的にきちんと説明ができるのでしょうか。大半の人が、単に「不思議さを醸し出すための付加価値」ていどの意味合いで、かなり安易に「波動」という言葉を使っておられるように感じます。これは、そのことを非難しているわけではなく、真に「波動」のことを語るためには、向こう側から語らなければならないという理由によります。

 

ところが、「因の科学」の観点から「波動」を語った理論というものが、残念ながらこれまでにまったくと言っていいほど無かったのです。殆どすべてが、「波動」がもたらす「効果」について語っているのみで(それ自体は間違いではないのですが)、なぜそうなるのかという科学的根拠に基づいて語られたことは殆どありません。「波動」という言葉を聞いた時に感じる胡散臭さは、そこに原因があると思うのです。

 

*ひとりよがりの意味不明なことを言っている方は時々おられます。

 

私自身、若いころは「けっ、また波動かよ」と思っておりましたので、まさか将来、自分が大っぴらに「波動」を語ることになるとは思ってもみませんでした(ꏿ﹏ꏿ;)。それだけに、きちんと説明できるだけのものは持っていたいという思いがずっとあり、最近になって、モヤモヤもやっと解消されて来ましたので、このタイミングでそれを公表することにいたしました。

 

がしかし、本稿のテーマに関心を持たれる方は、ごくごく僅か(おそらく数人)しかおられないだろうと思います。どうも、ちょっとでも科学的な話をすると、それだけで「頭の中が真っ白になる」(☉。☉)! という方がおられるようですネ。科学嫌いと言いますか、科学アレルギーと言いますか。しかしこれは、「科学」というものに対する先入観に大きな誤解があるように思うのです。

 

因の科学「科学」というのは、現象面に表れた背後にある「法則性」を探求する学問のことを言うのです。学問というより、そういう「態度」だと言ったほうがよいかも知れません。

 

何も、難しい数式や法則を暗記することが「科学」なのではありません。「科学」好きな人というのは、どうもそうしたものを誇る傾向があるので、それも一般人の科学嫌いに拍車を掛けているのかも知れません。

 

例えば、ただ漫然と昼夜を過ごしていたのでは、そこに「科学」はありませんが、なぜ夏と冬とで昼夜の長さが変わるのだろう?と探究し出したとたん、そこから「科学」が始まるのです。これは農家にとっては、とても重要な知見です。その他、気温や、風や、湿度や、水はけや、土中細菌など、追究していけばキリがありません。このように、「科学」はごく身近なところにあるのです。

 

そう考えますと、ことは畑に限らず、料理をしたり、掃除をしたり、健康体操をしたり等々、生活全般に渡って、科学的な視点というものが、自然と求められて来るのです。日常生活に科学的視点を盛り込むことは、その人の知性を豊かにしていきます。科学的な視点を持つ人と持たない人とでは、おそらく10年、20年、30年と経過した後には、両者の人間力は雲泥の差となっていることでしょう。

 

よく、「料理が嫌い」という方がおられるのですが、科学的な視点を持たない人には料理はできません。なぜなら、「料理」は第一に「科学」だからです。ですから、その人は料理が嫌いなのではなく、「科学」する思考方法の訓練が足りないだけだと思うのです。なんでも一対一の関係だけで覚えてしまって、関連づけるとか、推論するとか、応用するとか、実験してみるといった思考に慣れていない。

 

 

こうした「思考」や「創造」は、本来は楽しいものの筈なのですが、慣れていない人には、先ず「面倒くさい」と感じてしまうのですね。特に、テレビ、スマホ、ゲームは、こうしたじっくり「思考」する力を、人間からどんどん奪っていきます。反対に、一対一の関係でパッ!とピーキーな反応をする人たちばかりを育てていっている。AI はこれをさらに加速させ、このまま放置していれば、やがては人間が人間であることを滅ぼしに行くことになるでしょう。

 

*知らないことを Wikipedia などを使って検索しても直ぐに忘れてしまう。すべてがその場限りの Flow 情報 でしかない。

 

今度の「沸く珍禍」においては、その問題が如実に出てしまいました。これは単に知識だけの問題ではありません。「科学」する思考力が脆弱なために、「これはちょっと変だぞ?」「理屈に合わないな」という直観にスイッチが入らないのです。そこを付け込まれて、Dr. ファウチのような人物に「私が科学だ」と言わせてしまったり、ウイルス学者でも医者でもない岸田の「感染と重症化を予防します」と言う言葉にも簡単に騙されてしまったのです。

 

そのことを思い起こせば、もういつまでも「科学」嫌いの態度を取り続けていることは出来ない、ということがお解りではないでしょうか。ということで、食わず嫌いを克服して、これから述べる「波動の法則」にも、ぜひ取り組んでいただきたいのです。なんといっても、これは、全宇宙を支配する根源的な法則なのですから。

 

■「波動」をめぐる4つの問い

冒頭でも申し上げたように、「波動」のことを口にされる方は多いのですが、しかしそれは、単に「不思議さを醸し出すための付加価値」ていどの扱いでしかありません。実のところは、その言葉が意味するものは何一つ明らかになっていない、というのが正直なところではないでしょうか。これが「波動」という言葉が持つ「胡散臭さ」に繋がっています。この、何一つ明らかになっていない、ということに関しては、大きく4つの点があります。

 

,修發修癲崘汎亜廚箸浪燭? 何を意味しているのか?

◆崘汎阿遼‖А廚箸呂匹里茲Δ碧‖Г覆里?

「波動の法則」が働く裏のメカニズムとは、どのようなものであるのか?

ぁ崘汎亜廚鮓|里靴燭蠱粒个靴燭蠅垢襪海箸禄侏茲襪里?

 

以上の4つがきちんと示されたことは、古今東西を通じて、たぶんないはずです。△痢崘汎阿遼‖А廚砲弔い討蓮△海離屮蹈阿任癲△海譴泙撚薪戮語って来ました。「波動の法則」の〈作用〉という面に関しては、実にシンプルで、同調、共鳴、協和、不協和という現象が、この世のあらゆる場面において起きている、というただそれだけのことです。しかし、これと´い魎慙△鼎韻峠劼戮燭海箸蓮△海譴泙任忙笋發△蠅泙擦鵝

 

これから記述することが、絶対だというつもりは毛頭ありません。あくまで、現時点で私が受け取ったものということに過ぎず、その大部分は「仮説」が占めています。それは、現代の「科学」の限界と、私という媒体(Medium)の限界によるものです。ですから、これをベースにして、後に続く方々が、今後理論を発展させていったり仮説を検証してくださることを切に望んでいます。では順番に見て行くことにいたしましょう。

 

ただしその前に、一つだけ話しておきたいことがあります。「宇宙の真理」というものは基本的に不変です。もし変化してしまったとしたら、それは「真理」とは呼べません。ということは、いついかなる時代においても、もしそれを引き出せた際には、必ず同じ答えを得る、ということになるのです。ところが、媒体の能力や、その時代の民衆の理解力、科学の発展度合い、社会的また文化的環境のあり方などによって、どんなアウトプットにもどうしても歪みが生じるのです。

 

このことを、みなさんはよく知っておいてください。そこで、現代社会にありがちな二つの誤りを指摘しておきます。一つは、古代に説かれたとされるメッセージは、今の時代には合わない、古い神話的なものに過ぎないという捉え方です。もう一つは、聖書、聖典類というものを絶対視して、ここに書かれてあることは完全で否定しようがない、という考え方です。このどちらも正しくはありません。

 

そもそも人間は、不完全だからこそ、この地上に生を受けた(波動を低下させて物質化した)のであって、完全な人間というものは地上に一人もおりません。

 

大切なことは、何かを絶対視したり、1か0かで分けるのではなく、背後に共通したものを(あなたが、自分の意思によって)見つけ出すことなのです。正にこれこそが「科学」的な態度です。

 

何かをただ鵜呑みにしたり、反射的に断罪したりすることなく、共通性を見い出すことが何より大切です。それがインスピレーションと共にサッとあなたの元を訪れた時、「真理」の小箱の蓋が一つ開くのです。そしてそれは、あなたの中にもともと存在したものなのです。

 

(つづく)

フラットアース?

「フラットアースって何でしょうか?」というご質問をいただきました。

 

最近、「地球は球形ではなくて平面である。天体は地動説ではなく、天動説で動いているのだ」と、コペ転以前の宇宙論に引き戻す主張をする人々が現れて、スピリチュアル業界を賑わしているようです。

 

調べてみますと、こういう変なものの出所はやっぱりアメリカさん。カルフォルニア州に「国際地球平面協会(Flat Earth Society)」というコミュニティがあり、2017年から「地球が丸いことに異議を唱える」会議、通称「フラットアース国際会議(Flat Earth International Conference)」というものを毎年開催していて、そこから、インターネットを通じて「フラットアース」論の世界的な認知が進んだようです。

 

元にあるのは、イギリス人のサミュエル・ロウボトム (1816-1884) が主張した近代版「地球平面説」で、次の3点を特徴としています。

 

・地球は球ではなく円盤型をしている

・北極が円盤の中心にあり、円盤の外周は45mの高い氷の壁で囲まれている。

・太陽と月の直径はいずれも52km程度である。

 

「地球平面説」そのものは古代からある宇宙論の一つで、自分の眼で知覚できる範囲のみを宇宙だと信じていた時代には、アースは平面であって動かずにあり、その上を天空が回っていると考えたのは、ごく自然な成り行きでした。そのようにして、紀元前4世紀のアリストテレスの時代から、コペルニクスが登場する16世紀まで、地球は宇宙の中心に存在し、天体が周囲をとりまいて動いているという「天動説」が長く信じられてきたわけです。またここには、「宇宙」を司る存在であるところの「神」概念も付与されていました。

 

コペルニクス登場以前の、今から500年以上も前の「フラットアース」概念が、なぜ今アメリカで復活し、一部の人に熱狂的に信じられるようになったかと言いますと、背景にはなんとアンチ・グローバリズムがあるのです。我々は数百年もの長きに渡って、グローバリストたち(世界政府の樹立と全人類の支配を企む悪い奴ら)に騙されて続けて来た。この陰謀の存在に、今こそ目覚めなければならない。という思いと、アメリカで根強い「キリスト教原理主義」的世界観とがドッキングしたのです。

 

つまり、「Global」のアンチが「Flat」という、まるでマンガみたいな話なわけで、「地球が丸いなんてのは、グローバリストたちが信じ込ませようとした陰謀なのだ。NASAはその手先なのだ!」というわけです。早い話が、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の類の話が「フラットアース」だったというわけです。いやはや、さすがアメリカ。ですから、アメリカではこれは一種の「信仰」です。ところが、そのうわべの所だけを、日本のスピリチュアリストたちがつまみ食いして、同じように「フラットアース」だと言い出したのです。

 

私には、なぜこういうことを堂々と語る人が出てくるのかが、よく解りません。アメリカ人にとっては、それは「信仰」ですからまあ仕方ないとして、現代科学をまったく無視した、ツッコミどころ満載の理論を平気で主張するなんて。だから、私はスピリチュアル業界というものが嫌いなんです。フォトンベルトとかアシュタールコマンドとか惑星直列とかポールシフトとか4096Hzとかゲートが閉まるとか、まあよくも次から次へと考え出すものだなと。しかしそういう人も、その段階の気づきにある人にとっては役立っているわけで、大目に見なくちゃいけないんですけど‥‥。

 

飛行機でも船舶でも、東回りと西回りで同じ目的地に行けますし、北半球と南半球では季節が逆ですし、北半球では南十字星が見えず南半球では北極星が見えませんし、南極大陸には各国の基地がありますし、人工衛星が地球を周回していますし、国際宇宙ステーション(ISS)の映像でも円弧を描く地球表面が見えますし、1968年にはアポロ8号が初めて丸い地球の全体像を撮影しましたし、海岸に行けば水平線がゆるいカーブを描いているのが見えます。こういったエビデンスを、すべて無視するというのでしょうか。あるいは陰謀だと言うのでしょうか。

 

地球は、もちろん「フラットアース」などではありません。球体です。

 

ところが‥‥

「地動説ではなく、天動説が正しい」という主張には、一理あるのです。

いや、ことによったら九理くらいはあるかも。

 

ただし、現代科学による知見を全否定して、中世の「天動説」にまで遡って全肯定するような態度は、あまり誉められたものではありません。

それでは進歩がない。そのような極端な主張をするから、「フラットアース」というとんでもない概念に帰着してしまうのです。

 

*上図は「天動説」から「地動説」へと、コペ転した際の人々の驚きを表現した絵

 

こらからの時代というのは、現代科学の粋も充分取り込んで、なおもそれを超えた、理論負けしない、新しい「神秘学」や「神学」が提示されなければなりません。そうでなければ人類の進歩はありません。宗教の時代は、もうとっくに終わっているのです。何をいまさら「フラットアース」でしょうか? 何をいまさら「キリスト教的宇宙観」なのでしょうか? そうではなくて、「地動説」も正しいし、「天動説」も正しいのです。両方の説がともに成り立つのです。

 

えっ、それってどういうこと? そんな話、今まで聞いたことがないよ。

 

まあ、焦りなさんなって。それを、これからご説明しましょう。

 

先ず一つには、基準点が違うという問題です。あなたに、こんな経験はないでしょうか? 駅で停車中の電車に乗ってしばらく発車を待っていた。窓外に目をやると、隣の線路にも停車中の列車があるのが見えた。少しして列車が動き出し、「ああ、出発したか」と思っていたところ、隣の列車を通過した後に見えたのは、以前のままのホームだった。そこでやっと、動いたのは自分が乗った列車ではなく、隣の列車の方だったのだと気づく。同じ錯覚は、洗車マシーンに入った際にもよく経験しますよね。

 

これは、「移動(動き)」という現象は相補的なもので、基準点によって捉え方が異なってしまうということの具体的な例です。地球を基準点に考えれば、天空が動いているという「天動説」になるのは当たり前のことです。しかし太陽を基準点に取れば、動いているのは地球の方だという、いわゆる「地動説」が正しいことになります。それゆえ、「地動説」と言うよりも「太陽中心説」と言うべきだ、という主張もあります。同様に、「天動説」は「地球中心説」ということになります。「地動説」「天動説」では、ともに基準点が曖昧ですからね。

 

ですから、月を中心に考えることだって、火星を中心に考えることだって出来るわけですよ。「太陽中心説」は、太陽を不動の固定した座標として捉えているわけですが、銀河の中では太陽系も銀河の渦の中にあって動いているわけです。ですから、銀河の中心を座標軸に据えれば、これはまた違った「動き」になるのです。ですから、座標軸の中心をどこに据えるかは、基本的には無限です。金星に置いてもいいのですし、アンドロメダに置いてもいいわけです。ただし実用的ではないので、そうした基準点を想定しないだけの話です。

 

コペルニクスに始まり、ガリレオで一応の決着を見た「地動説」は、それまでの「天動説」とは違って、いったい何が画期的だったのでしょうか。このいちばんの成果は、外惑星の逆行の問題が解決したことです。太陽を中心に、近い方から水金地火木土・・・と惑星が並んでいるわけですが、地球より外側の軌道にある惑星の動きを観察していると、ある時期に逆行が観測されるということが、ずっと天文学者の悩みの種だったのです。

 

これは、内側を走る地球の公転の方が早いために、外側の惑星を追い越してしまうことから、見かけ上そのような現象が起きるのですが、「天動説」ではこの理由を説明できず、公転軌道上でさらに円周運動をしているという苦し紛れの推論を展開していました。しかし、時は大航海時代。船の航行のためにより精緻な天体観測と天文学知識が求められるようになると、「天動説」に疑問が投げかけられ、その結果として「地動説」が生み出されたのです。

 

けれども、人間の住む地球が宇宙の中心ではないとする学説は、聖書の記述を真実としていた時代には、あまりにも急進的かつ過激な考え方でした。そのため、キリスト教教会からは、「地動説」は異端とされて迫害を受けたのです。

 

以上が、「地動説」と「天動説」はともに正しい、という理由の一つです。

 

さて、もう一つは、「宇宙」というものを考えた場合、我々には「実感」できる領域と、「実感」できない領域があるということです。ここで悩んだ挙句、「実感」というかなり曖昧な言葉を使わせていただいたのですが、我々が知識として知る世界には、観測は出来ても「実感」が伴わない世界があるというところに、線引きをしたかったためです。

 

ここで質問です。みなさんが「実感」をもって認識できる大きさというものは、一体どれくらいの範囲になるでしょうか? 普通の感覚であれば、たぶん、0.1ミリメートルくらいから、数十キロメートルくらいまでなのではないでしょうか。光学顕微鏡や望遠鏡を使えば、微生物から太陽系の大きさくらいまでは、「実感」できるかもしれません。しかしウィルスとなると、電子顕微鏡を使わなければとらえられませんし、「実感」はもうないでしょう。

 

大きい方も、ハッブル宇宙望遠鏡が捉えた画像は、もう美しい夜空の写真でしかありません。以前セミナーで、「夜空に見える星々は、自ら光る星、つまり『恒星』というもので、あれはぜーんぶ太陽と同じなんだよ」と言ったところ、「うっそー? だって星は星でしょ!」と言われて、二の句が継げなくなったことがあります。しかし考えてみれば、そのとき私が言ったことは単なる「知識」に過ぎず、私だってその「光る星」のそばまで行って確認したわけじゃない。それどころか、世界中探したってそんな人間は一人もいない。

 

ですから「星は星でしょ」という《認識》が、おかしいとは言えない。むしろ、今はこっちの方が正解かも?と気づいて、反省しているくらいです。

 

つまり、そこなんですよ。その《認識》というのは、「天動説(地球中心説)」になっているわけです。そして、我々が地球から脱出できない以上は、我々が見る遠くの「宇宙(可視宇宙)」というのは、ぜんぶが「天動説(地球中心説)」で語られることになるのだし、また「天動説(地球中心説)」によって語るしか方法がないのです。その一つの証拠というものをお見せしましょう。

 

左図は、「宇宙マイクロ波背景放射」と言われるものの観測データを天空図として表したものです。楕円形になっているのは、全天周を一枚の平面で表現するため、一部を縦に切って横に広げた「モルワイデ図法」によって表現しているからです。この図は、宇宙開闢期(ビッグバン時)に生じたほんのわずかな温度の「ゆらぎ」を、色の違いで可視化したもので、この「ゆらぎ」があったればこそ星々を形成する物質の素が生じたとされる、極めて重要な地図となっています。

 

ビッグバンは、その理論が語るところによれば、今から138億年前に生じたとされています。この「宇宙マイクロ波背景放射」図は、その縁に迫る137億年前くらいの宇宙(つまり、ビッグバンが始まった直後の宇宙)を捉えている図です。遠くの星が出す「光」が地球にまで届くには、いかに「光」のスピードが速いと言っても、宇宙があまりにも広大なので大変な時間が掛かります。そうすると、今この瞬間、地球で見た「光」というのは、発射された当時の、昔の「光」を今見ているということになるのです。

 

これを応用すれば、より遠くの星を見れば見るほど、宇宙の昔に遡れるというわけです。このようにして、今では137億光年先の宇宙まで観測できるようになり、先の「宇宙マイクロ波背景放射」図が描かれたわけです。ですから、この図というのは、密なボールを芯からひっくり返して、中心を外側に逆転したものになっています。半径137億光年先に見える全天球が、元は一点にあったという、もの凄い極小から極大までを表現しているのです。

 

と、これが、「ビッグバン」と「宇宙マイクロ波背景放射」に関する一般的な説明なのですが、これを聞いて納得できましたか? 何か変だとは思わないでしょうか。私がもしも中学生で、科学の授業中これを先生が説明してくれるのを聞いたら、すかさずこう質問をします。

 

「先生、宇宙は半径137億光年ということをいま言われましたが、どうして地球がその中心にあるんですか? そんなのおかしいじゃないですか。たまたまそうだとでも言うのですか。宇宙は膨張していると言われますけど、だとすると、地球を中心に広がって行っているということになりますよね。これは一体どういうわけなんですか?」と。さて、先生はどう答えてくれるかなぁ?

 

ま、これは宿題ということにしておきましょう。私はこの問いに対する仮説を一応持っていますが、ここで注目していただきたいのは、この論は、紛れもなく「地球中心説」、つまり「天動説」で語られているという点です。いいですか、地球を中心に「ビッグバン」理論が語られているのですぞ!

 

では反対に、極小の世界を見てみましょう。物質を形づくっている元素は果たして何か? この問いかけの歴史が、今日に続く物理学の発展を築いて来たと言っても過言ではありません。四元素説に始まり、分子→原子→原子核→素粒子と、より小さな構成単位というものがそのつど発見され、今日に至りました。その研究過程で解ったことは、ミクロな世界においては、光や電子が「粒子と波動の二重性」を持つということと、その位置や運動量は確率的にしか求めることができないという、いわゆる「不確定性」に関する問題でした。

 

素粒子を観測しようとした場合に、その素粒子は、観測者の関与の影響というものを完全に排除することができないのです。「見る」という行為が、直ちに、正確には見られない状況を作ってしまうのです。ということは何を意味するでしょうか? 素粒子の様子は、観測者の意によって変化するということです。つまり、極小世界においては、「地球中心説」を逆方向に小さくしたような、「自分中心説」が成り立つということです。ですからこれも、「天動説」だと言えば「天動説」と言えなくもないのです。

 

図1は、物質界の極小から極大までの大きさと、人間が「実感」をもって捉えられる範囲というものを、大雑把に分けたものです。単位は cm で、大きさを10のべき乗で表しています。

 

べき乗で表しているのは、極大から極小までの差があまりにも大き過ぎて、そのまま表そうとしたら「0」をいっぱい付けなければならないという理由が一つです。大きい方は、べき乗の数だけ後ろに「0」を並べ、小さい方は、小数点以下にべき乗の数だけ後ろに「0」を並べなくてはなりません。それでは見にくいし、かえって解りにくいですよね。

 

それともう一つは、「宇宙」というものが、基本的にすべてバイブレーションで成り立っているからです。この認識は、神秘学における極めて重要なポイントですので、ぜひとも記憶しておいてください。またこのことは、理論物理学においても、すでに1924年に、ルイ・ド・ブロイによって「物質波(ド・ブロイ波)」としてその関係式が示されています。

 

さて、ギターのフレットを見てください。等間隔ではありませんよね。高い音になるほど間隔が狭くなっています。これは音階(これもバイブレーション)というものが、幾何級数的な振動の変化によって決まるからです。幾何級数的というのは、簡単に言えば、掛け算で増えたり減ったりすることです。10、10×10、10×10×10のように。これに対して、1、1+1、1+1+1のように足し算で増えたり減ったりすることを算術級数的と言います。10×10×10は1000ですが、べき乗の表記ではこれを10の3乗と書きます。

 

ですから、10の27乗 cm というのは、1の後ろに「0」を27個並べた

1000000000000000000000000000 cm

ということになります。

 

図1で、10の27乗センチは可視宇宙全体の大きさ、10の14乗センチは太陽系、10のマイナス4乗は微生物、10のマイナス27乗は素粒子の大きさです。このうちの、太陽系から微生物くらいまでが、人間が「実感」をもって捉えられる世界の限界なのではないでしょうか。これよりも、極大方向や極小方向となると、もう概念的にしか捉えられません。

 

さてこの図の中で、「実感世界」の範囲内においては、主にニュートン力学がよく機能するのです。宇宙船の運航なども、基本的にはニュートン力学が使われています。ところが、「極大世界」に突入しますと、ニュートン力学ではもう説明できないことがいろいろと生じて来て、ここにアインシュタインの相対性理論が登場したのです。また「極小世界」においても、ニュートン力学は機能せず、ここでは新しく量子力学が花開くことになりました。

 

こうして、近代物理学は、ニュートン力学→相対性理論→量子力学と発展して来たのですが、後者が前者を完全否定して来たわけではなく、着目する領域がそれぞれ違っていたのです。そのようなわけで、我々が「実感」できる範囲内の世界においては、今もニュートン力学が非常によく機能し、従って「地動説」が計算上も抵抗なく理解され、地球も「球体」であると《認識》できるのです。

 

ですが、こうも言えます。我々は、まさにそのような世界の中にいて、それがあたかも当然のように考えて来ました。しかし、極小から極大までの大宇宙の中では、そのような《認識》が成立するのは、実は非常に狭い振動数の範囲内(つまりは本当に「フラット」に近い世界)でしかないのかも知れないのです。

 

さらに言えば、極大の端の〈10の27乗 cm〉という大きさも、極小の端の〈10のマイナス27乗 cm〉という大きさも、ともに現在の観測限界というだけであって、そのさらに先には、図2のように「超極大世界」と「超極小世界」とがあるのです。

 

そして、この両極端へ進むと、非物質的な振動世界(つまりは霊界)へと姿を変え、この両者が、なんと結びついてしまうのです。極小から極大へ、極大から極小へが、クルリと反転する。

 

これが、ヘルメス・トリスメギストスが言うところの「下なるものは上のもののごとく、上なるものは下のもののごとし」の究極の意味なのです。

 

ここで、面白いチャートをご紹介しましょう。これは、ノーベル物理学賞を受賞したシェルドン・グラショー(Sheldon Lee Glashow, 1932年12月5日 – )ボストン大学教授が、自伝の著書『クォークはチャーミング』の末尾に掲載した図です。この図は、その後、様々な人によって改良を加えながら度々引用され、ここに掲載したものはその改良版の一つをネットから拾ったものです。この図は、これまで検討して来たことと同じく、物の代表的な大きさを捉えて、これを円環状に配置しています。

 

 

この図のユニークかつ先鋭的な点は、極大方向と極小方向とを円環でつないで、しかもそこに「ウロボロス」の蛇を重ねて描いている点です。「ウロボロス」というのは、古代ギリシャ語で「尾を飲みこむ蛇」のことを指し、この「蛇」の図柄は、宇宙観を表現したものとして、古代エジプトを始め、ギリシャ、中国、アステカ,ネイティブ・アメリカンなどでも共通して使われて来ました。蛇が自分の尻尾を呑み込んでいるところから、始点と終点の一致や、循環性、永続性,死と再生などを表しています。

 

グラショーさんは、極小と極大とを結んで、そこに「UNITY」と「大統一理論」の文字を書き込んでいますが、極小と極大の融合ということに関しては、「宇宙マイクロ波背景放射」のところですでに見たように、ビッグバン理論の最初のプロセスが、量子論を通じて語られるようになって来ているのです。

 

また、「大統一理論」というのは、自然界に存在する四つの力(電磁気力、強い核力、弱い核力、重力)を表す公式を、一つのもので統一的に表現することを目指す理論ですが、極小と極大とをつなぐミッシングリンクが発見できれば、「大統一理論」が完成するだろうというグラショーさんの読みを表しています。

 

現在は、電磁気力、強い核力、弱い核力までは一つにまとまり、残すは重力だけとなっています。しかし、これが難問で、なぜかと言うと、重力は他の三つと比べてあまりにも力が弱いからです。なぜそれほど弱いのかがまだ解らないのです。けれども、グラショーさんには直感が働いたのでしょう。極大と極小を重ねて、そこに「UNITY(一つ)」と書き込んだのです。「ここが鍵だぞ!」と。「ウロボロス」をプラスしたのは、茶目っ気と同時に、古代から言われていることは本当なんだと、宇宙の本質にも気づいておられるからだと思います。

 

*我々は重力を強い力のように思っていますが、ハーバード大学のリサ・ランドール教授は、重力の弱さを説明するのに、クリップが磁石で簡単に持ち上がるという例を、しばしば実演して見せています。

 

私の図にあって、この図にないものは、全体を背後からすっぽり覆う接着剤、つまりは「霊的エネルギー」の存在です。「重力」というのは、実は「霊的エネルギー」の力が物質界に滲み出たものなのです。それゆえ、物質界では非常に弱い力としてしか観測さないのです。

 

この稿を全部書き終えた後で、新たなインスピレーションがふいにポーンと飛び込んで来ました。遠方の宇宙を観測することは、タイムマシンに乗って過去を見ていることになる、というのは合理的な解釈だが、事実は逆だと言うのです。まさに、過去と現在が、極小と極大とが、ひっくり返ってある「宇宙」の真のあり方を、天球にプロジェクションして見せているのだよ、と言うのです。驚きました。「うっそー!」と思いました。これこそ新時代の「コペ転」だぁ。今までの「コペ転」のざっと10の27乗倍くらいはあるぞ。

 

そこで、「地動説ではなく、天動説が正しい」という主張には、一理どころか九理あるかもよ、と後で訂正した次第です。

 

改めて図を見てください。下部の中央には、人間が立っているでしょう。この人間を真ん中にして、極大へ向かう世界と極小へ向かう世界とがあります。あなたは、この世界に支えられている存在であり、同時にあなたがいるからこそ、この世界の《認識》があるわけです。いわば、あなたは、この世界の想像者であり創造者なのです。

 

さて、今夜あたり、秋の夜空を見上げて、その一体感を味わってみてはいかがでしょうか。

敏感くん(HSC)とその親御さんたちへのメッセージ

Eテレで9月5日に放映された『敏感くんたちの夏』というドキュメンタリーを観ました。「敏感くん」というのは、児童精神科医療で「Highly Sensitive Child」と分類された子どもたちに対して、番組が付けた冠です。最初の5分間を観て、ちょっとイヤーな予感がしました。適当な名前をくっつけて、また子どもたちを精神疾患の闇に追いやろうとする類の、新手の話かな?と思ったからです。

 

でもお終いまで観たら、そうでもありませんでした。登場した児童精神科のお医者さんも、対等で子どもたちと向き合っておられるなかなかよい人でした。また、ご自分で工夫されたプログラムを持っていらして、真摯にこの問題に取り組んでおられるのが分かりました。

 

さて、HSC(Highly Sensitive Child)とは、どのような子どものことを指して言うのか、ということですが、番組では次の4つの特徴を挙げていました。

 

ゞΥ粁呂高い

⊃爾受け止める

刺激を受けやすい

い気気い癖儔修砲盖い鼎

 

さらに、登場されたお医者さんはこうも仰っておられました。「感受性が非常に広くかつ深くて、芸術性、創造性が高い。しかし敏感であるがゆえに、いろんなものを感じ取ってしまい、その刺激が脳の自律神経を乱し、結果として神経や精神を非常に病みやすい」

 

この定義を聴いていて、「なんだ、子ども時代のオレじゃん!」と思いました。私の子ども時代には、横文字のそんなオシャレな(?)名称はありませんでしたが、私はまさしく「敏感くん」でした。しかし私には、別の名誉ある称号が与えられていました。「偏屈なやつ」というのがそれです。〈みんなと一緒〉に何かをするということが、私には苦手でうまく立ち回れませんでした。

 

以前に、『幸せなら手をたたこう』という歌が歌えなかったと書いたことがあるのですが、その一つの出来事に、当時の自分のすべてが集約されています。なぜ〈みんなと一緒〉にその歌を歌わなければいけないのか、それを強制されなければいけないのか、という思いが自分の中にはありました。でも、その思いを口でうまく表現できませんでしたし、大人たちもまったく察してくれようとはしません。ただ、みんなと合わせられない、協調性のない「偏屈なやつ」としてしか私を見ないのでした。

 

*この思いは、大人(初老?)となった今もぜんぜん変わりません。なぜ、幸せを「態度で」示さなければいけないのでしょう? 一人で日向ぼっこをしていた時に、太陽の温もりにしみじみと幸せを感じる。一杯のおかゆを啜っている時に、その滋養にしみじみと幸せを感じる。それではダメなのでしょうか? 私は、こっちの方が本物だと思います。

 

手を叩いたり、床を踏み鳴らしたり、騒々しく「態度で示そう」と強制することを、「善」だと信じている大人たちがいるということが、私には未だに信じられません。「幸福感」というのは、あくまで「個」の内面の問題です。みんなが態度を揃えれば「幸福」であるという、ここには、戦中の学徒出陣の行進にも似たとんでもない暴力が潜んでいるというのに、それを「善」と捉えているのです。この鈍感さ。こうしたことが、日本社会の強い同調圧力の下敷きになっていると思います。

 

番組の中で、「運動会って楽しいはずなのに、何でイヤなのかしら?」という話題が出てきます。私だってもちろんイヤでした。「競争を強いられる」ということがもう耐えられないのです。自分がビリッケツになることを想像するのもイヤでしたが、勝ち誇った人の顔というものもイヤでした。何でみんなこんなことに夢中になるのだろう、と不思議で仕方ありませんでしたが、それを言えば「偏屈なやつ」が強調されるだけでしたので、縮こまっているしかありませんでした。

 

このレッテル貼りにはたいそう苦しみました。〈みんなと一緒〉が苦痛であっただけではなく、〈みんなと一緒〉になれない自分を卑下して、更に悩むという二重の苦痛に苛まれたからです。家にも学校にも、どこにも居場所がなく、生きていてもしょうがないんじゃないか、と思いました。でもその心底にある気持ちを、誰にも打ち明けることが出来ずに、いつもビクビクしながら生きていました。その成れの果てが、今の私ってわけでやんす。 (;´o`)ほよ〜

 

そこで、「敏感くん」の大先輩(?)として、今日書くことを、敏感くんとその親御さんたちに、ぜひともお伝えしておきたいと思いました。うまく届くかどうか分かりませんし、ご理解いただけるかどうかも分かりません。これから書くことは、世間常識とはあまりにも視点が違うので、トンデモ話だと一蹴されてしまうかも知れません。ひょっとしたら、どなたかを怒らせてしまうかも知れません。でも、これが一筋の光明となる方が、必ずいらっしゃると信じています。

 

先ず申し上げたいのは、「敏感くん」というのは、もちろん病気ではありませんし、〈他の人々と比べて〉劣っているわけでもないということです。簡単に言えば、それは単に「個性」だということ。確かに、敏感であるがゆえの「生きづらさ」はあります。しかし、だからと言って、本人も、またその周囲の人々も、なんとか社会に適合できるようにしようと矯正を強いてはならないのです。そんなことをしては、苦痛を倍加させるだけであり、尊い「個性」そのものを歪めてしまいます。

 

西洋にこんなことわざがあります。「地獄への道は善意で舗装されている」(The road to hell is paved with good intentions)。「敏感くん」をなんとか社会適合させたいというサポートは、きっと善意でなされているのでしょう。でも、一歩退いて考えてみてください。そもそも、今の腐った社会、腐った学校システムに、「適合」する必要などあるのでしょうか? 「敏感くん」というのは、その「不必要性」に〈まさに敏感に!〉勘づいている「魂」たちなのです。

 

来たる「Great Reset(大はらい)」への足音が聞こえませんか? もう間もなく、何もかもがひっくり返るんですよ。最終章の扉が開いたんですよ。これまでの常識や考え方はすべて吹き飛んでしまうのですよ。それなのに、吹き飛んでしまうシステムに、なおも「適合」させようと頑張ってどうするんですか? そんなつまらぬことで、次代を担う「魂」を潰してはなりません。「敏感くん」たちは、これから、地球が幼年期を脱する際の、指導者となる可能性がある!

 

私には、番組に登場した「敏感くん」が、子どもの着ぐるみを着たマスターに見えます。そうかと思えば、Childish な「魂」のまま、内閣総理大臣に登り詰める人間もいる。地球という惑星は、牢名主が支配する監獄、ジャイアンがのさばる幼稚園であって、宇宙的に見れば価値観が逆転した珍しい星です。ですから、宇宙的に見れば、「敏感くん」が特殊というわけではなくて、それが当たり前。地球は、「鈍感ちゃん」たちがマジョリティを形成している惑星なのです。

 

これは事実を語っているのであって、「鈍感ちゃん」を逆差別しているわけではないことをご理解ください。地球という星は、言い替えれば、「鈍感ちゃん」たちが、失われた「敏感くん」感覚を取り戻すための、修練の場であった(今までは)とも言えるのです。つまり、「敏感くん」たちは、「グレート・リセット」を先行しているのであり、「魂」のルーツが、地球以外の星である可能性が大いにあります。

 

*以前にちょこっとご紹介した、コリーヌ・セロー監督の『美しき緑の星(La Belle verte)』という映画をご覧いただくと、この辺りの経緯がご理解いただけると思います。(コメディ映画になっています)

 

けれども、ここで注意をしてください。これまでも口を酸っぱくして言って来ましたが、あなたが、今の世の中にたとえ「生きづらさ」を感じていたとしても、ご自分の宇宙系ルーツとしての可能性を、駆け込み寺的に使ったり、ましてや選民意識を持ったりすることに転化してはなりません。とかく、スピリチュアル業界には、このような隘路(あいろ)に嵌ってしまう人があまりにも多いのです。しかし、それでは「魂」の成長がそこで止まってしまいます。

 

そうではなくて、「生きづらさ」を強く感じていたとしても、この世界にちゃんとコミットして、「生きづらさ」を工夫でなんとかこなしながら、明るく、楽しく、元気よく、普通に生きることが求められるのです。そうであってこそ、この世界でのご自分の役割が果たせるのであり、個としての「魂」の成長も得られるのです。

 

何も、社会貢献や人類への貢献を果たそうなどと、大げさなことを考える必要はありません。ご自分の出来る範囲で、出来ることにチャレンジすればそれでいいのです。事の大小を問うのはいかにも物質界的な見方であって、「魂」の世界から見れば、何かを為した時の「意識」のあり方だけが問われるのです。なぜなら、それだけが死後も運ばれる実体だからです。

 

「鈍感ちゃん」たちがマジョリティを形成している地球は、まるでどう猛な獣たちが跋扈しているジャングルのようなもので、「敏感くん」たちにとって生きづらい世界であることは解ります。しかし、そのジャングルに敢えて飛び込む選択をしたのは、あなた自身です。ですから、それを思い出して、負けないように生きて、ぜひとも役割を果たして欲しいのです。

 

それを先ず自覚していただいた上で、次に、「敏感」とは〈何がどう敏感なのか〉という話に移りましょう。このTV番組でもそうだったのですが、「敏感」であるということが、それによって生じる様々な問題の「原因」として位置づけられているのですが、この視点は誤りです。「敏感」であるということは、諸問題の「原因」なのではなく、この世(=物質界)における出現、つまり「結果」なのです。本当の「原因」は、もっと奥にあるのです。

 

このような因果律の屈折は、地球ではよく見られることで、物質世界における「理解」というものの限界を示しています。これも何度も言って来ましたが、例えば「ビッグバン」です。この宇宙は、「ビッグバン」によって無から突如として形成されたと学者は言います。それが宇宙成立の「原因」だと言うわけです。ですが、そうさせたものは何かについては説明しません。また、心は脳の活動が生み出していると脳科学者は言いますが、その脳を動かしているものは何かについては語りません。

 

みんな、「原因」と「結果」を取り違えているのです。「この世」における物質化された現象(我々が「現実」と呼ぶもの)の奥には、すべて霊的な(非物質的な)真の「原因」があります。別の言葉を使えば、広大で多次元的な「意識」があるのです。この膨大な「意識」の、ほんの一部が物質化したものが、私たちがふだん認識している宇宙であり、その中でも三次元世界(第3霊性密度)というさらに限定された領域に暮らしているのが、私たち人間なのです。

 

*ここでいつものように注釈を付けておきますが、ここで言う「次元」は、数学で言う「次元(Dimension):点が動ける方向数」のことではありません。振動数の高低差を分類した「霊性密度(Spiritual Density)」のことを指して言っています。「霊性密度」については、以前に何度か説明しておりますので、下段の枠で【霊性密度】と入れて検索してみてください。

 

私たちが肉体を持っているのは、物資世界であるところの三次元(第3霊性密度)に対応するためです。肉体という物質をまとっているからこそ、物資世界を物質的なものとして感知できるのです。ところが、「意識」は、このことに制限されません。身体が「三次元(第3霊性密度)世界」にフォーカス(焦点を絞る)していても、人間の「意識」というものは、それとは別に、多次元的に、同時に存在しているのです。

 

図1を見てください。横軸に第1から第7までの数字が振ってあります。非物質界も含めた全宇宙は、すべてが振動するエネルギーから成り立っています。

 

そして、このエネルギー体の振動数(=密度)は、極小から極大までが指数関数的にグラデーション状に変化しています。波長と振動数は逆比例の関係ですから、波長で言うと、極大から極小までがグラデーション状に変化しているのです。この全体構造を「霊性密度」と呼びます。

 

「霊性密度」の変化はグラデーション状に展開していますから、厳密に言えば、きっちりとした線引きは出来ません。しかし、ある幅の霊性密度の帯域においては、他の帯域とは明確に異なった特徴がみられるので、そのことに注目して便宜的に7つに分けています。そして、各帯域のシンボルカラーとして、虹の7色が当てられているのです。このシンボルカラーは、実際に各色が想起させるイメージと、その帯域における意識の在り方とを、非常にうまく説明しています。

 

*グラデーション状の変化ですから、別に10分類でも12分類でも構わないのですが、チャクラとの関係が説明しやすいのと、物質界と非物質界の中間領域を第4の真ん中に設定できること、また3次元から5次元へのジャンプという「アセンション」の意味がすんなり理解できることから、『虹の学校』では、7分類説を採用しています。

 

それでは、7つの霊性密度と、その領域が意味するテーマを順番に見て行きましょう。

 

第1霊性密度:物質界の誕生 物質界の根源となる地水火風が生じる

第2霊性密度:生命の芽生え 鉱物、植物、動物の形成

第3霊性密度:自己意識の成長と宇宙極性の開始 人間の主たる活動世界

第4霊性密度:半霊半物質界 自己愛/他者愛の融合によって愛の完成を目指す

第5霊性密度:非物質世界の始まり 真の自己(真我)への気づき

第6霊性密度:天使/神々の世界 ハイヤーセルフ(神我)への自己の合一

第7霊性密度:創造神世界 無限神聖に到達

 

全宇宙は、このような振動数の帯域がグラデーション状に変化しながら、全体を構成しています。このうち第1〜第3までが物質界、第5〜第7までが非物質界に当たります。第4は半霊半物質界(いわゆる中有)で、ここでは物質化←→非物質化という現象が起きます。人間は、このうちの第3霊性密度の帯域に、物質的空間に対応した「身体」というものを持った形で存在しています。つまり、第3霊性密度という一つの限られた次元に存在しているのです。

 

ところが、「意識」はそうではありません。「意識」は非物質的なものですから、この拘束を受けることが本来的には無いのです。これを称して、人間は「多次元的存在」である、という言い方をしています。言い方を変えると、誰もが、本来的には、第1〜第7までの「意識」を同時に所持しているのです。なぜなら、人間は誰もが宇宙から誕生し、全員が宇宙の一員であるからです。この関係から、「大宇宙(Macrocosm)」に比して、人間を「小宇宙(Microcosm)」と呼んでいるのです。両者は相似形なのです。

 

さて、改めて図1を見てください。私たちは、本来であれば、自己の第1〜第7までの全部の「意識」に気づいていなければなりません。ところが、実際にはそうではありません。その理由は、第3霊性密度の「意識」(つまり「自我(Ego)」ですが)に、日常的にあまりにも強く焦点が当たっているために、それ以外の「意識」が、「自我」の奥にみんな隠れてしまって、浮上して来ることが滅多にないからなのです。それは、身体を有する自分が「私」であると、ほぼ例外なく人間が思い込んでいるためです。

 

しかし、いま言ったように、どんな人にも、第1〜第7までの多次元的「意識」は必ずあるのです。ただ、その「意識」を意識していない、「意識」したことがない、「意識」する方法を知らない、だけです。決して、イエスだけが神の子なのではありません。あなたも、他のあなたも、別のあなたも、みな等しく神の子なのです。そして、自分の奥底に、誰もが「神の意識」を有しているのです。「神」はあなたの外側にではなく、あなたの内にいるのです。

 

ですから、あなたは最初から救われているのであり、マスターとなるためになんの努力もいらないのです。ただ、真の自己を思い出すだけでいいのです。「教え」も、「教祖」も、「宗教」も、「組織」も、「神殿」も、「お布施」も不要なのです。一切合切は不必要。必要なし、なし、なし。あなたは、この地球に生まれて来て、何度も何度も輪廻転生を繰り返しながら、最終的には「そうか、旅は必要なかったんだ」と気づくまでの旅に出たのです。

 

さてもう一度、図1を見てください。大方の人はこの図の黒線で示したように、第3霊性密度に極端に焦点を絞って生きています。ですが、そのことをまったく自覚していません。なぜかと言いますと、物質世界を生きるために必要な「五感」というセンサーを、無自覚なままいつもフル稼働させているからです。その結果、五感を通じた情報の処理結果だけが、自分の「意識」だと思い込むようになるのです。このようにして形成された意識が、いわゆる「自我(Ego)」です。

 

しかし、「敏感くん」は違うのです。第3霊性密度の意識も開いてはいるのですが一般人ほどではなく、その代わりに、他の霊性密度をキャッチするセンサー(いわゆる六感とかテレパシー)が、普通の人よりも発達しているのです(図1の赤線)。そのような理屈を知らない人々は、ただ「敏感」のひとことで、そうした性向を片づけてしまっているのですが、背景にある理由は、実はそういうことなのです。

 

普通の人は、他者が発する「言葉」を、そのまま鵜呑みにして解します。あるいは疑います。でも「敏感くん」には、言葉の奥にある本心までもが瞬時に分かってしまうのです。この能力は、プラスにもマイナスにも作用します。第1や第2霊性密度の「意識」が開いている人は、自然や動植物への共感度が高く、それらに接した時には強い喜びを感じます。また、第5や第6霊性密度の「意識」が開いていると、芸術や宇宙的なものに心惹かれ、これらに接した時には、気持ちが実に生き生き晴れ晴れとして来るのです。

 

ところが、人間社会を見るのはとてもツラい。第3霊性密度に生きる「人間」の大半は、エゴむき出しで生きていますので、こうした人たちと接すると、「敏感くん」はたちまちにして心が折れ、胸や頭に痛みを覚えてしまうのです。しかし、この世の中というのは「鈍感ちゃん」が標準。そこで、「鈍感ちゃん」たちからすれば、「敏感くん」は〈ちょっと変な人〉に映るのです。そして、そのようなレッテルを貼られて、「敏感くん」はさらに苦しむことになってしまうというわけです。

 

ところで、普通の人とは違うセンサーを有した人に「霊能者」と言われる人たちがいます。では「霊能者」と「敏感くん」とはどこがどう違うのでしょうか?

 

「霊能者」にもピンからキリまで、中には詐欺師的な人まで、いろいろなタイプの人がいるのですが、図2のように、第4霊性密度に焦点を当てる能力に長けた人がほとんどなのです。

 

この帯域には、(未来を含めた)歴史の記録と、人々の意識の記憶が保存(霊的世界は無時間ですので)されていて、能力の高い人は、その断片をかなり正確に読むことが出来るのです。

 

しかし、ここで注意が必要です。宇宙というものは、すべてが「波動」で成り立っています。そこでは、同種の波動は引き合うという「波動の法則」が支配しています。ということは、その「媒体(Medium)=霊能者」には、その「媒体」の今の波動レベルに応じた帯域しか読むことが出来ないということなのです。

 

自称「霊能者」の多くは、エゴに駆られてやっているという人が大半ですから、この人たちはエゴ的なものしか降ろせません。けれども、聞く方もエゴ的な回答を求めていますから、そこで両者のニーズは合致し、エゴをくすぐる霊能者の人気が高いのです。映画『HEREAFTER』でマット・デイモンが演じた〈本物の〉霊能者は、そんな関係に嫌気がさして、自分の霊能を用いることを止めたのです。

 

「アセンション(次元上昇)」というものが、第3から第5へのジャンプを意味しているのは、これが理由です。一般の人から見れば、「この世」を超えた、半霊半物質界であるところの第4霊性密度からもたらされる情報は、不思議かつ価値あるものに思えます。また、恐怖を与えるような情報には心を揺さぶられます。けれども、宇宙に「不思議」はないのです。宇宙というものは、完全に「理(Law)」の世界です。人間が、その本当の「理」、つまり「真理」を未だ知らないだけです。

 

図3を見てください。最初の気づき(人は肉体だけの存在ではないということに気づく)に未だ至っていない人は、点線で示したように、第3霊性密度の帯域に「意識」を強くフォーカスさせています。

 

しかしどんな人でも、この焦点をボカす時期というものがあるのです。それは、誕生してから10歳くらいまでの幼少期と、臨終を迎えた時期と、眠りについた時です。これらの時期には、第3霊性密度へのフォーカスが自動的に緩みます。すると、今まで押さえつけられていた他の次元の「意識」が、相対的に浮かび上がって来るのです。(図3の実線)

 

みなさんがよく知っている「夢」体験は、身体感覚を閉じ、五感を用いた第3霊性密度の情報収集を止めたことによって、他の次元の「意識」が活性化して起こるのです。同様に、幼少期はまだ物質世界への対応が充分に出来ていないので、他の次元へのアクセスがまだ可能になっているのです。そのため、幼児は想像世界での一人遊びが出来るのです。また、臨終時には身体がほとんど活動を止めてしまいますので、いわゆる「臨死体験」と言われるような別次元の「意識」活動が浮上して来るのです。

 

さて、「本当の自分=真我」を見い出すためには、ただ「思い出すだけでいい」と述べたのですが、世の中を見回してみると、そこに至ったと思われる人がほとんどいないことに気づかれるでしょう。努力不要であるにも関わらず、到達者が非常に少ないのです。果たして、これは「至難の技」なのでしょうか?

 

いいえ、決してそうではありません。「至難の技」に見えたのは、世の中が発するエゴの誘惑が非常に強いことと、宗教が長年に渡って間違った知識を植えつけて来たことと、人々のスピリチュアルな興味がオカルト留まりで終わっている、という三つの理由によります。実に、エゴ、宗教、オカルトの3つは、「アセンション」にとっての大敵です。

 

エゴ、宗教、オカルト。この3つは、人々の「意識」を、第3から第4霊性密度の範囲内に固定してしまいます(図2の状態)。これを「四次元の河に落ちる」と言うのですが、第3と第5の間に横たわる河にドボンと嵌ってしまいますので、向こう岸へは渡れない。つまり、第5霊性密度以上の「意識」が覚醒することはないのです。(高い次元ほどバイブレーションが精妙なため、焦点を合わせることが非常に難しくなる。身体を有した人間が、第6以上と直に繋がれることはまず無い)

 

聞くところによると、「あなたのチャクラを開いてあげる」などと言って近づく人もいるようですが、そのようなことは出来ません。すべては、その人自身の、「意識」のあり方の問題なのです。人はいつでも変われますが、自己を変えるのは、あくまでその人自身なのです。

 

では、どうすればよいのでしょう。その最強の手段が「瞑想」です。「瞑想」というのは、解りやすく言えば、「臨死」に極力似た状態を、生きたまま創り出すテクニックだと言えます。(本当の「臨死」はそう何度も体験できませんからね)。そうすることによって、通常の意識下では到底得られない、別の「意識」体験を引き出すのです。

 

「瞑想」をしてトランス状態にスーッと入ると、通常の身体感覚はほぼゼロに近づき、それに応じて第3霊性密度の「意識」であるところの「自我」が縮小して行きます。そして、それと入れ替わるようにして、別次元にある「超意識」が立ち上がるのです。この体験を、何度も何度も繰り返し、体に根づかせることによって、遂には、目を開けて普通に生活していても、つねに第5霊性密度の「超意識」が立ち上がった状態のまま、物質界を生きることが出来るようになるのです。

 

これが、アセンション後に実現される高い波動の固定です。どんな人も、エゴ、宗教、オカルトを排して、熱心に「瞑想」に取り組んでいれば、最初の4年半で先ずは中間段階の覚醒が起こり、最終的には7年あればアセンションが成就します。これは確信をもって言えます。ただし、エゴ、宗教、オカルトへの興味がわずかでも残っている間は、絶対に無理です。ですから、これらをそっくり捨ててしまえば、努力不要でアセンションできるのですが、悲しいかな、そこまで踏み込む人は殆どいません。

 

ここで、それでも「アセンションへの道」を歩まんとする希少な友には、次の覚悟を決めてもらいたいのです。「超意識」が常時立ち上がる状態になるということは、あなたも「敏感くん」になるということなのです。「HSC」の子どもたちは、なぜそうなのかという理由が分からずに苦しんでいるのですが、「アセンションへの道」を進む者は、理屈を知った上で、敢えてその苦しみにも耐えていかなくてはならないのです。

 

騒音、臭い、人混み、お店、通勤電車内、テレビニュース、人々が交わす噂話、ヘイトスピーチ、嘘つきの政治家などには、きっと耐え難い思いをすることになるでしょう。この「敏感さ」は、ますます高じることがあったとしても、決して減じることはありません。言ってみれば慢性疾患のようなもので、慢性疾患は治そうとすればするほど、却って苦しくなってしまいます。そうではなくて、上手に付き合う方法を模索してください。

 

不要な接触を出来るだけ避けたり、センサーがたとえそれをキャッチしても、「不快」のスイッチを倒さないという方法で乗り切ることが可能です。それよりも、そのセンサーを、宇宙的愛や喜びを受け取ることに使用してください。それらに夢中になることで、苦しみを忘れてしまうのです。やがて、世の中の不条理は、宇宙的な理解へと変わって行くことでしょう。

 

ここで話は変わりますが、世の中には「自閉症」と診断されるお子さんがいらっしゃいます。親御さんとしてはご心配でしょうが、これも「HSC」と同じく、病気ではありません。個性です。ですから、それを丸ごと認めてあげてください。

 

「敏感くん」は、第3霊性密度への対処能力を一応保持したまま、他の霊性密度の感度も高いという特徴を持っていました。しかし「自閉症」は、第3霊性密度のチャンネルを、敢えて閉じることを選択して、この世に生まれて来た「魂」なのです。つまり、「自我」を「閉じた」のです。なぜかと言うと、この世(第3霊性密度)の波動が、あまりも粗雑で暴力的で耐え難かったからです。そこで、自発的に閉じてしまうことを選択したのです。

 

それは、図3で示した瞑想時の「意識」状態を、起きている際にも実現しているようなものです。ですから、動植物に強い愛着を示したり、高い芸術的才能や超人的な記憶力を見せるのです。彼らの記憶は脳にあるのではありません。宇宙の記憶をダイレクトに引き出している。「自閉症」と呼ばれる人たちは、そのようにして、「多次元的存在」である人間の、無限の可能性をかいま見せてくれているのです。これが、本当の喜びなんだよ、僕らは宇宙と一体なんだよ、と。

 

その一方で、「自閉症」の人たちは第3霊性密度への対処能力を大胆に削ってしまったので、身体的に「この世」で生きるためには、他の人たちの世話を受けなければなりません。しかしこれも、周囲で支える人にとっては、本当の「愛」を発見する学習機会となっているのです。このようにして、互いに与え合って、支え合って、宇宙の「真理」に近づいて行っているのです。

 

「敏感くん」は、そこまで極端な選択はしませんでした。第3霊性密度への対処力も一応は残したのです。その分、「自閉症」の人たちが示すような超人的な能力はありません。でも、自然や宇宙や芸術に対する理解力は一般の人よりずっと高いのです。このことは、「敏感くん」たちに与えられた別の役割を示しています。「敏感くん」は、「自閉症」の人たちがかいま見せる超人的世界と、一般の人たちとを、ちょうどブリッジする位置にいます。「敏感くん」には両方の世界が解るのです。

 

ですから、その橋渡しをしていくこと。それが「敏感くん」たちの Mission です。今は辛いかも知れませんが、「敏感くん」たちが必要とされる場面が、これから必ずやって来ます。その時まで、どうかくさらずに、また「敏感」であることをあまり思い悩まずに、喜びを糧としてご自身を磨いて行って欲しいと思います。周囲の方たちも、この貴重な個性を潰すことのないよう、伸び伸びとさせてあげてください。それがいちばんの支えです。

 

さあ、ともに世の中を、明るく楽しく元気なものに変えて行きましょう。

生きぬくことと、個人的な試練

この世に生を受けて、みなさんが第一に為すべきワークは「生き残り」です。これは人間に限らず、すべての生物は「生き残り」を賭けて活動をしているのです。しかし人間の場合には、この他の重要な目的があります。それは、生きぬくことによって、地上での「体験」を精一杯することです。もし「体験」が無ければ、「魂」が、わざわざこの不自由極まりない地上に降りて来る意味がありません。

 

あなた方がする「体験」は、あなた個人のものというだけではなく、「神」の手足の体験でもあるのです。そこを、先ずはしっかりと認識してください。「神」は、あなた方を通して地上世界を体験しているのです。ですから、あなた方は、一人ひとりが「神」のセンサーです。そのようにして、「神」は自分自身の新たな一面を「体験」することで、よりバージョンアップしようとしているのです。

 

ですから、先ずは、何としても「生きぬく」ことが求められます。「生きぬく」過程を通じてこそ、地上でしか味わえない、喜びや、悲しみや、この世の不条理や、試練をたっぷり体験し、「魂」であるところの自己を成長させることが出来るのです。その幸福を感じ取ってください。あなたの目に映るもの、すべてはギフトです。試練に遭えば遭うほど、あなたという「魂」は強く鍛えられるのです。

 

さてそこで、地球のアセンションの意味を考えてみましょう。どうして今年から、世界的規模での災禍が、ほぼ同時に始まったのでしょう? もちろんそこには、人類のカルマの清算という問題があります。しかし同時に、およそ2万6000年ごとに訪れる、この滅多にない機会を体験するために誕生して来た「魂」たちに、天が大きく飛躍するための「試練」をギフトしている、とも言えるのです。

 

*およそ2万6000年:これは地球の歳差運動の周差に関連があると見られる。

 

「かわいい子には旅をさせろ」です。裕福な家に生まれ、何の苦労もせずに育ったお坊ちゃんよりも、貧乏な家庭に生まれて、艱難辛苦を経験して来た人の方がずっと学びが多い。この、人類全体への「試練」は、人類全体を愛するがゆえの、「神」からのプレゼントであることを知ってください。ですから、降りかかる災禍を怯えて過ごすのか、ギフトと捉えるのかで、今後のみなさんの生き方は大きく違って来ます。

 

あなたにとって、一番の「試練」とは何でしょうか? おそらく、死ぬかも知れないような体験をすることでしょう。しかし、「死」そのものは「試練」ではありません。これを混同しないように。「死ぬかも知れないような体験をすること」は、なるほど大きな「試練」ですが、「死」それ自体はごく普通のことです。回転ドアを向こう側へ抜けることでしかありません。ここに、「生きぬく」ことの意味がある。つまり、どのように「生きぬく」のか、という点です。

 

兵隊として戦場に駆り出され、殺すか殺されるか、という瞬間に出遭ったとしましょう。例えば、草むらを匍匐前進していて、大丈夫かな?と立ち上がって見たら、すぐ目の前に敵兵がいて二人同時に相手に気づいた、というような瞬間です。さて、どうする⁈ 今の私なら、躊躇なく殺される方を選びます。それは、その瞬間の、〈死ぬかも知れないような体験〉に際しての、自分の「生き方」の選択なのです。

 

では、この度のことに限らず、今後「試練」を目の前にした時、あなたという個別の「魂」は、どのような「生き方」を選択して行けばよいのでしょうか?

 

このアジェンダ(Agenda:実行に移されるべきことがら)は、決して全員に共通したものではありません。今度のような社会全体を揺るがすような大事件が発生した場合、社会は、世間は、政治は、全員に共通の行動を取らせようとします。しかし、ただその言いなりになって巻き込まれてしまいますと、「魂」としての自己固有のアジェンダを見失ってしまいます。それでは何のために転生して来たかが分かりません。

 

大小含めて、事件や事故や厄災に遭遇した時には、その「体験」を、自分としてはどのように受けとめて、理解するかが大切なのです。いつも言っているように「行為」が重要なのではありません。外にあるものはみな、単なるスクリーンなのです。その「行為」に付随した、「思念」や「意識のあり方」こそが重要なのです。それが、あなたという「魂」の、霊的な成長度合いを決定づけるのです。

 

あなたという存在は、小宇宙(Microcosm)に喩えられます。これは大宇宙(Macrocosm)のミニチュア版と言ってもよく、両者は相似形を成しています。そこで、大宇宙を「神」と呼ぶのだとすれば、あなたも小さい「神」、少なくとも「神」の一部である、と言えるのです。ただ、全部の「魂」に個性を持たせた結果、全員に、各々異なった「歪み」がちょとずつ生じている。けれども、底部にある本質(真我→神我)は、みな同じなのです。

 

では、なぜ「神」は、全部の「魂」を、自身の完全なる相似形として創らなかったのでしょうか?

 

この理由は、直ぐにお解りでしょう。

全部が同じでは、軋轢も共感も生じ得ないからです。よって「神」ご自身からすれば、新しい体験が生まれよう筈がありません。自身をバージンアップ出来ません。そこで、各々の「魂」に、個性と自由が与えられているのです。

しかし、どの「魂」であっても、みんな愛すべきかわいい我が子であることには変わりがなのです。

 

宇宙の真髄は振動するエネルギー体です。大宇宙というのは、物質的世界も非物質的世界も含め、全体がバイブレーションの階層から成り立っています。たった一つの素が、ただ振動数が違うというだけで、あらゆるものを創りだしているのです。実に驚くべきことです! そして、振動数の低い、つまり密度の低い帯域から、振動数の高い、つまり密度の高い帯域までが、指数関数的にグラデーション状に連続しています。

 

*指数関数的;等間隔による階段状の上下(算術級数的)ではなく、べき乗の関係で大きくなったり小さくなったりするような関係。→『Powers of Ten』を参照

 

この帯域の違いは、便宜的に7つに分けられ、各階層にはシンボルカラーとして「虹の七色」が当てられています。これは単にそのように色が振られているというわけではなく、後で詳しく述べますが、各色が象徴しているテーマを、それぞれの帯域が担っているのです。また7階層の内側はさらに7つに分けられ、これで全体が7×7の49階層となっています。この全体構造を『オクターブの法則』と言っています。

 

*49階層:厳密には、この下位にもさらに7分類が為され、これが延々と続くわけですが、そこまで行くと差があまり認識できないため、49階層で留め置いている。

 

オクトはラテン語で8の意味です。みなさんがよく知っている「オクターブ」と言えば、音楽用語の7音階だと思いますが、どうして7音階なのに、8のオクトの名前が付けられているのでしょうか? 7音階は、ドレミファソラシ・ドで一つ上の帯域に上がるでしょう。つまり8番目でジャンプする。そこで、これを『オクターブの法則』と呼ぶのです。

 

さてそこで、ピアノの鍵盤を思い描いてください。ミ→ファとシ→ドだけは黒鍵がなく半音階であることにお気づきでしょう。ゲオルギイ・グルジエフはこれを「ショック」と読んだのですが、ミ→ファ(つまり第3→第4霊性密度)は、物質界から非物質界への移行に当たり、シ→ド(つまり第7→第8霊性密度)は、この宇宙から、あっち側の宇宙(こっちから見ると「無」)への移行に当たるのです。この二箇所だけには、振動状態において大きな変化があるのです。

 

いま言った全体構造は、驚くなかれ、そっくり人間にも当てはまるのです。人体が小宇宙と呼ばれている所以です。またそれは、あなたが、紛れもなく「神」の分身であることを表しています。あなたという個別の存在は、宇宙に普通にある元素を組み合わせて拵えた泥人形に、神の生命の息吹が吹き込まれて誕生したものなのです。そして、大宇宙の7つの階層構造は、そっくりあなたの身体に反映されているのです。

 

それが、いわゆる「チャクラ」です。「チャクラ」というのは、アストラル体(第4霊性密度の体)上にあるエネルギーセンターのことで、あなたに、宇宙の各階層が担うエネルギーを供給する中継所となっています。一方で「チャクラ」は、カルマの種子を宿した場所でもあります。そのため各人の「チャクラ」は、大宇宙の構造を映したものではあるのですが、完全なバランスが取れておらず、その人のカルマに応じた特有の「歪み」を持っているのです。

 

*アストラル体上にあるエネルギーセンター:その上位のカラーナ体(第5霊性密度の体)にも別のチャクラがあると言われている。私には(今のところ)知覚できないのですが。またセンターは「中枢」と訳されることが多い。

 

物質的身体(肉体)は、このアストラル体の鋳型の中に、両親のDNAからその「魂」の歪みに応じた組み合わせを選んで、自己形成を図ります。その結果、あなたの「身体」にも、生まれながらにして「チャクラ」に応じた歪みがあり、これがその人固有の身体的特徴や、強いところ弱いところの傾向、先天的な病気や疾患、特有の心グセ、知力、才能、霊的資質などを表すのです。したがって、今のあなたは、自分が計画して作った乗り物に乗っかっているというわけです。

 

ですから、自分の容姿を嘆いたり、両親のことを恨んではいけませんぞ。

 

この「チャクラ」には7箇所説と、12箇所説があり、身体上に重なってあるとする場所にも諸説があります。しかし、「虹の学校」としては、宇宙の構造把握は出来るだけシンプルでありたいということと、これまでの実験や経験から、身体上に重なって7箇所、それ以外に5つのエネルギーセンターがあるという結論に(今のところ)落ち着いています。

 

諸説ある中でも、身体上の7箇所についてはほぼ見解が統一されていて、脊髄の尾骶部から脳の中枢に至る線上に(アストラル体上ではこれを「スシュムナー管」と呼ぶ)、朝顔状に開いた形で「スシュムナー管」にくっ付いた状態であるとされます。この7箇所に応じた身体上の部位には、それぞれ特有の内分泌器官や神経叢があって、アストラル体上の「チャクラ」の歪みを、内分泌器官や神経叢の歪みとして反映させるのです。

 

*7箇所については、瞑想と呼吸法を組み合わせた集中によって、凡その位置を掴むことが可能です。

 

あなたを、この世に生かし続けてくれているエネルギー源、一般にはそれは「食物」だと信じられているのですが、そうではありません。「食物」エネルギーは、細胞を作る素材を提供したり筋肉組織を燃焼させたりなどの限定的な働きを担っているに過ぎず、生命活動を維持させている主体は、地上の機器では観測できない「宇宙エネルギー」です。この宇宙エネルギーは、西洋ではエーテル、インドではプラーナ、中国では気と呼ばれて来ました。

 

*厳密な定義を言えば、ちょっとずつ違うのかも知れませんが、細かいことにこだわっても仕方がないので。要は、昔から人類が共通に認めて来たということです。

 

ところが、「チャクラ」に歪みがあると、この「宇宙エネルギー」の取り込みがスムースに行われません。あるチャクラでは過剰、またあるチャクラではエネルギー不足になったり、エネルギーの鬱滞が生じたりします。これが、その人の心身に不調をもたらす原因となっているのです。そこで、この「チャクラ」の状態を改善し、なんとかバランスが取れた状態にしたいわけです。

 

そのための方策が、カルマの解消であったり、エゴやこだわりを捨てるということであったり、呼吸法や体操に取り組むことであったり、いわゆる「浄化」というプロセスになるのです。ですから、「アセンション」というものを「チャクラ」の面から捉えれば、「チャクラ」を浄化し、歪みを取って、バランスを回復させることだとも言えるわけです。完璧にバランスされた「チャクラ」、それは大宇宙と同じ、すなわち「神」と同じ状態の実現であるわけですから。

 

では、順番に見て行きましょう。各「チャクラ」の名称が覚えられない人は、下から1番、2番と数えて行き‥‥、最後を7番としても結構です。

 

 

先ず、いちばん下にある会陰部を入り口とする1番チャクラを「ムラダーラ」と言います。シンボルカラーは「赤」で、このチャクラは「物質界に生かされる」というテーマを持っています。大宇宙とは物質界の基本元素である地水火風と対応しており、それゆえ大宇宙的には「物質界の誕生」、小宇宙的には、冒頭で申し上げた「生きぬく力」というものが、この「ムラダーラ」の強弱の差に顕れるのです。ここが先ずは土台だということです。

 

次に、一つ上がった2番チャクラであるところの「スワディスターナ」は、身体上では「性腺」の部位に相当します。大宇宙的には、物質界誕生後の「生命の芽生え」を担当しており、小宇宙的には「性腺」に対応していることからも解るように、主として性的な「情動のコントロール」や「個人のアイデンティティ」(誕生から一歩進んで、性差や個としてのアイデンティティを持つ)というテーマを持っています。シンボルカラーは橙色です。

 

3番めの「マニピューラ」は腹部の太陽神経叢に対応したチャクラで、東洋医学で言うところの丹田に相当します。シンボルカラーは黄色です。大宇宙的には「自己意識の成長」を担っており、ここから(つまり「第3霊性密度」から)陰陽の二極性が開始されます。人間の主たる活動の場と、それに対応した意識は、この「第3霊性密度」に依拠しており、そのことから、小宇宙的には「人格を磨き、社会的な関係を築くこと」がテーマとなっています。

 

これは、言い換えますと「自我」に気づくということです。「自我」はふつう、先ずは「自己愛」に向かいます。すると、「自己愛の中で社会的な関係を築こう」と精を出すことになりますので、必然的に「エゴの行使」という方向に向かうのです。しかしそれは、「魂」の正常な発達プロセスだとも言えます。むしろ現代人が抱えた問題は、「自己愛」が築けないでままで育つ人が大勢いるということです。また、このチャクラは、喜怒哀楽の感情を担当しています。

 

4番めの「アナハタ」は、身体上では「胸腺」の部位に当たり、シンボルカラーは緑です。このチャクラは、7つあるチャクラのちょうど中間に当たります。このことから解るように、「アナハタ」は上の3つと下の3つのチャクラをブリッジする役割を果たしています。大宇宙的にも「第4霊性密度」は「半霊半物質界」という中間領域に当たり、ここでのテーマをそのまま「アナハタ」に映し出しています。そのテーマとは「愛の完成」です。

 

この領域では、上下方向をブリッジするだけではなく、「第3霊性密度」から始まった横方向の二極性を統合するというテーマがあるのです。すなわち、自己愛と他者愛は、結局は同じものだと気づくことです。このチャクラのバランスが達成されると、その人は、愛と許しと慈しみの人へと変身して行きます。「アナハタ」が、別名「ハートチャクラ」と言われる所以です。

 

しかしそれまでは、人は、愛と憎しみ、正義と悪との闘争を、飽きるまで繰り返すのです。今日までの世界はまさにその歴史。人類は、全体としては、なかなかその段階を超えらず今に至っています。というのも、この「第4霊性密度」の帯域は、別名「とらわれ領域」とも言われ(昔は「地獄」と言われたところ)、凝り固まった主義主張を捨てきれない「意識体」が跳梁跋扈し、その波動に同調してくる地上の人間を操っているためです。

 

でも、どうにかこうにか、そこを乗り越えて「愛の完成」を果たしますと、その「魂」はいよいよ高次の自我との交信段階へと進みます。物質界を離れて「第5霊性密度」の意識、すなわち霊的意識に目覚めるのです。

 

この5番めのエネルギーセンターに相当するのが「ヴィシュダー」です。身体上では喉の位置に当たります。ここには内分泌器官の甲状腺と副甲状腺があります。喉という部位から推察されるように、「ヴィシュダー」は、自分の意志を声に出す、すなわち自己表現と関係しています。このチャクラに難のある人は、話し下手であったり、皮膚(表現を象徴)に問題を抱えていることが多いです。

 

対応する「第5霊性密度」のテーマは「本当の智への気づき」で、宇宙には、地上の論理や地上の科学を超越した「真理」が存在することに気づくということです。ですから、あなたが地上で味わう体験を、宇宙的な観点から見つめ直し、自分の考えにして発信するという課題を、このチャクラは持っています。シンボルカラーは青です。

 

6番めのチャクラは「アジナー」で、眉間にあり、深部が松果体および視床下部と繋がっています。仏像の眉間にある宝石は、このチャクラが覚醒したことを表現しています。対応する大宇宙のテーマは「真我への合一」。小宇宙では「本当の智恵に目覚める」ことが課題です。このチャクラが目覚めますと、サイキックな能力が出て来るようになり、宇宙から、本当の智恵、真実の智恵を受け取ることが出来るようになります。シンボルカラーは紺色です。

 

そして最上部、7番めに位置するのが「サハスラーラ」です。このチャクラは頭頂部に開いており、深部は脳下垂体と繋がっています。「サハスラーラ」は、天上から陽極性のエネルギーを受け取る際の入り口となっており、またその他のチャクラを統合する役割も果たしていることから、別名「クラウンチャクラ」とも呼ばれます。この部位に対応した大宇宙のテーマは「無限神聖に到達すること」です。小宇宙的には、いわゆる「霊的覚醒を得る」ことになります。

 

「サハスラーラ」が整い、目覚めますと、あらゆることが許せるようになります。また、宇宙の成り立ちや、悠久や、普遍的な愛や、神聖なエネルギーが、すべて鮮やかで生き生きと実感されるようになるので、深く静かな感動と、感謝の念の中に生きられるようになります。と同時に、人々を助けたり、普遍的な愛を提供する活動を行うようになって行きます。シンボルカラーは紫です。

 

以上、見てきましたように、大宇宙の階層構造と、小宇宙(人体)のチャクラとは、完全な相似形を為しています。ですから、あなたの身体的特徴や、強いところ弱いところの傾向、先天的な病気や疾患、特有の心グセ、知力、才能、霊的資質などをていねいに振り返ってみますと、あなたという「魂」の、今世におけるアジェンダが判るのです。

 

ですが、残念なことに、人々はそんなことを気にも留めていません。無智なるがゆえです。たとえ「悩み」があったとしても、いま言ったような観点から捉えてみた経験がないのです。それが、人類の覚醒が遅れている最大の理由です。何度転生して来ても、設定して来たアジェンダを忘れ、「第4霊性密度」のエアポケットに捕まって、魑魅魍魎に操られ、エゴに埋没したまま抜けられない人生を送るのです。

 

しかし、今後あなたがたを襲うことになる「試練」は、その新しい視点に気づくチャンスです。負荷を与えなければ筋肉が鍛えられないのと一緒です。いま一度、周囲に展開されるものはみなスクリーンだということを思い起こしてください。世間には、よく「あなたのチャクラを開いてあげる」とか「カルマをとってあげる」というような人がおられるのですが、そのようなことは出来ません。あなたのアジェンダを、他の人に肩代わりしてもらうことは出来ないのです。

 

あなたはあなたです。

 

「試練」を体験する時、その「試練」を体験する過程で最初に動いた感情を先ず落ち着かせてから、次に、いま述べた7つのチャクラの観点から、その体験を捉え直してみてください。そして、ストロング・ポイントとウィーク・ポイントを導き出し、今世の自分のアジェンダを探ってください。そうすれば、どんな「試練」も「魂」を成長させる道具として使えるのです。必ず、あなたにドンピシャリの発見がもたらされます。

 

今世、私の妻だった「魂」は、自分が癌になった時、「病気になるのは悪いことばかりじゃない」「病気になって初めて解った」と言って、(その中身については言いませんでしたが)10カ月後に逝きました。彼女は、その死にゆく体験を、大いなるジャンプの機会に変えたのです。人は、たとえどんな状況にあろうとも、すべての体験を、己を成長させるツールに変えることが出来ます。その「神秘のメソッド」の奥にある、宇宙の深い愛を感じ取ってください。

 

では、元気に行ってらっしゃい。

次のワクワクする体験をするために。

そうして、大いなる一者のバージョンアップに寄与するために。

続・ネガティブな出来事を、覚醒へのチャンスに利用する

コロナウイルスの感染拡大によって世界が騒然としています。しかしこれは、まだ序章に過ぎません。この騒動をきっかけにして、世の中の大規模な建て直しが、これから徐々に進んで行くのです。しかし、同じ場所に、新しい建物を建てるには、その前に旧い建物を壊さなければなりません。

 

親しい人たちには、近々「バルブの崩壊」がやって来るよ、と言って来ました。キーを打ち間違えたのではなく、本当に「バルブの崩壊」。バブルというのは、生ビールをジョッキに注いだときに浮かぶ泡の部分でしょ。そこが吹き飛ぶ、というのが「バブルの崩壊」。今回は、その程度の話では済まない。生ビールを供給していたタンクの「バルブ」がクラッシュする。早い話が、バブルの大元である金融システムそのものが崩壊するということです。『熟れすぎた果実』2019/10/22

 

その崩壊の影響はコロナ騒動の比ではなく、今日ただいまの市民生活を直撃します。経済活動が回らなくなってしまうので、連鎖的な企業倒産が起こり、失業する人たちも膨大な数に及ぶでしょう。そこで、緊急的にどうするか、当面どう凌ぐか、という問題とともに、旧来の社会システムへの根本的な問いかけや、生き方の見直しと価値観の大転換、そして新しい社会システムの構築に向けて、模索が一気に進むことでしょう。『崩壊へ向かう世界、その中にある希望』2019/09/01

 

ここで、みなさんは選択を迫られることになります。何かを守ろうとして、あくまで旧い社会システムにしがみ付く道を選ぶのか、それとも、こいつはいいチャンスだと思って、今までの価値観を見直し、己の生き方をすっかり変えてしまうのかどうかです。世の中がひっくり返ることや、自分の生き方をひっくり返すことは、一面においては恐怖です。でも、ドキドキとウキウキはスイッチできる。意識を変えさえすれば、未曾有の大変化にも、大いなる希望を見い出すことは可能なのです。

 

恐怖が、何から生じるか分かりますか? 「執着」ですよ。いま持っているものを失いたくないという執着が、恐怖を生じさせるのです。財産を失いたくない、家を失いたくない、家族を失いたくない、恋人を失いたくない、ペットを失いたくない、仕事を失いたくない、地位を失いたくない、名声を失いたくない、美貌を失いたくない、健康を失いたくない、命を失いたくない、etc.。これら、すべてが執着です。ですから、一切の執着を持たなければ、恐怖は消える。

 

ある方から、欲とエゴとの関係について質問をいただきました。食料の備蓄はエゴに当たるのかというものです。そのように、頭で考えて、これはセーフとかアウトとかの線引きをしないようにしてください。それもまた執着になってしまいますから。前回の記事で、トイレットペーパーの買い占めのことを書いたので、ふとそんな疑問を抱かれたのでしょう。

 

人は、物理的な世界に生きていますので、当然ながら物理的な制約を受けます。ご飯も食べればウンチも出る。食欲というものがもしもなければ、生体を維持していくことは難しくなりますし、性欲がなければ子孫も誕生しません。また意欲がなければ、仕事も、創造活動も、人助けも出来なくなってしまうことでしょう。釈迦だって、イエスだって、人々を救いたいという大欲を抱いたのです。ですから「欲」そのものが悪いわけではありません。

 

問題は「我欲」と「執着」です。人は、善いと言われることにしろ、悪いと言われることにしろ、「行為」にばかり目を向けてしまいがちです。ですが、大事なのは「行為」ではありません。「行為」につい目が向いてしまうのは、身体である自分が自分だと思っているからです。それを当然だと考えている。でもそうではなくて、何かを為している際の「意識」のあり方が問題なのです。

 

お米を向こう3カ月分くらい備蓄しておくとしましょう。その際に、どういう「意識」でそのような行動をしたのか。そこに「我欲」と「執着」はなかったかどうか。今日のおやつに、好物のチョコレートケーキを食べたとしましょう。そこに「我欲」と「執着」はなかったかどうか。「ああ、楽しく美味しくいただきました。ありがとう」と言って、チャンチャンでおしまいにしてしまえば、「執着」は起こらない。

 

そのようにして、あなたが為す一切の行為について、何も「執着」を持たなければ、失う恐怖というものがそもそもないので、苦しみもなくなり、いつもハッピーでいられるのです。ですから、「今ここを生きる(Be here now)」なのです。要は、この世のすべては「うたかた(泡沫)」であることを知って、どんな一瞬も楽しく生きて、全部忘れてしまえばよいのです。

 

実に、簡単な理屈です。

 

でもこれが、なかなか出来ないんですよねー。「我欲」と「執着」に見られる特有の性向は、その人の過去世にまつわるカルマの発露ですし、教育や社会を通じて、「もっと我欲を出せ、もっと執着を見せろ」と、さんざん吹き込まれていますからね。そっちの方が正しい生き方だとされて来たし、「執着」を捨てる生き方なんてバッカじゃなかろうかと思われている。いや、いた。

 

だけど、この先はそうはいかないんですぞ。「執着」を捨てられない人ほど、苦しみに喘ぐようになりますからね。しかも、それだけじゃない。この世で「死」と言われる段階を迎え、身体を脱ぎ捨てて意識体だけとなった時、「執着」は次のカルマの種子になります。通常ならば、そのカルマを清算することをアジェンダ(課題)として、また来世に転生して来るわけですね。ところが、それを迎え入れる器(身体)も、場所ももうないのですぞ!

 

なぜなら、地球自体がアセンションしてしまうから。アセンション後の地球には、アセンションした「魂」しか住めなくなるから。未だ幼稚園レベルの「魂」というのでは、小学校には入れて貰えない。入学拒否に会うんですぞ。脅しているわけじゃないけど、入学拒否をされた魂は、行き場を失って、浮浪児のように霊界の裏通りをうろつくしかなくなるんですぞ。何万年、何十万年とね。

 

だから、何がなんでも、このチャンスをものにしなさい! アセンションを成し遂げなさい!

 

えっ、自分は裏通りの方が好きだって? 盛り場もあるし‥‥って。

あなたねぇ、もう。

そういう人は勝手にしなさい!

 

でも、あなたはそうじゃないよね。

残りの人生をかけて、死に物狂いで取り組みなさい。

なあに、死に物狂いと言ったって、ただ「執着」を捨てればいいだけなんだから。そうすりゃ自動的にアセンションしてしまうんだから。

 

何も、いちどきにぜーんぶ捨てられなくてもいいんですよ。引越しで家を空っぽにするまでには何日も掛かるでしょう。前に上げた代表的な執着品のリスト。中には、私にはそれはないなとか、他者の執着している様子を見て、自分にはそれがどういう感覚かよく分からない、というものだってあるでしょう。その感覚を、自分が執着している対象にも拡張して行けばいいんですよ。

 

例えば、名声に対する執着はない、でもお金に対する執着はある、としましょう。名声なんてものには興味はないのに、どうしてお金には執着心があるのか。その違いはどこから生じているだろうのか? と見つめ続けてみればいい。そうすれば、だんだんと執着心は薄まっていきます。なぜか? お金というものに埋没していた状態に、観照者の視点が入ることで、貼りついた意識を剥がすことが出来るようになるからです。

 

さらに、決定打となる認識をそこに付け加えてください。これも、いつも言っている通りです。あなたの周囲に展開されている現実はみんな「幻」だということ。その「幻」の世界を、あなたは、自分を主役とするドラマを演じているのだということ。あなたにとっての重大事は、演じている際に遭遇する体験を、どのように味わい、そこからどんな「気づき」を得たか、だけなのだということを。それ以外の一切合切は、変化し、やがて形を失ってしまうものなのです。

 

古代より、多くのメッセンジャーが、みな同じことを語って来ました。実に、あの手この手を駆使してね。でも、この「真理」に目覚める人は、いつの時代もほんの僅かしかいません。それほど、エゴの誘惑と、執着のボンドが強力だということです。そこで私も、今の時代の人々なら理解できるであろう、あの手この手を駆使して説明してきたわけですが、今日は別の角度から説明を試みることにいたしましょう。

 

図1を見てください。私たちが今いる宇宙は、すべて振動するエネルギー体によって出来ています。この振動するエネルギー体は、元をたどれば、たった一つの究極の元素とでも呼べるものに還元されてしまいます。しかし、そのたった一つが、振動数を変えることによって、様々な性質に変化し、さらに同質のものが集まるという「波動の法則」によって、あるものは「生命力」に、あるものは「魂」に、そしてあるものは「物質」に顕現しているのです。

 

この、多様な振動数が集まって構成された宇宙は、大きく三つのパートに分類されます。

一つは「物質界」です。もう一つは非物質的世界で、通常は「霊界」と呼ばれています。この「物質界」と「霊界」との中間領域に、文字通り中間である「半霊半物質界」があるのです。

 

この大まかな三つの分類方法に関しては、神秘を探求する各種のグループにおいて、名前の付け方はあれこれありますが、宗教や洋の東西を問わず、ほぼ共通の認識となっています。

 

ところが、これをさらに分類した際には、細かな違いがいろいろと出て来ます。名称や定義づけもバラバラですし、特定宗教を信じる信者は、その宗教の教義を鵜呑みにしますので、もうしっちゃかめっちゃかの状態。結果として、人々の理解がちっとも進まないという状態が続いているのです。

 

しかし、これは変ですよね。宇宙は誰にとっても一つなのですから、理解を助けるためにも、分類法は共通にした方がよいと思うのです。そこで「虹の学校」では、これを7階層に分け、スッキリした形に整理したのです。また、従来は「次元」と言っていた言葉も、数学的次元(dimension)との混同を招きやすいので、「霊性密度(spiritual density)」という言い方をなるべくしていくように改めたのです。

 

この7階層に分ける分類法も、「霊性密度」という名称も、オリジナルというわけではなく、「オクターブの法則」としてすでにあったものです。それがいちばん解りやすいと思われたので、そのモデルを拝借することにしたわけです。なぜかと言いますと、人体上にある7つのチャクラと宇宙との関係が明瞭に説明できる上に、「アセンション」が、第3霊性密度から第5霊性密度への飛躍であるという意味も、容易に理解できるようになるからです。

 

さて、私たちは地球という物質界にいて、なんとかして宇宙の全体像や仕組みを知りたいと思い、あの手この手の模索を繰り返しています。しかし、「非物質界(霊界)」を見たり、観測したりすることは、通常の方法では出来ないのです。(いわゆる「見えない世界」)ところが、「半霊半物質界」には、半分は物質化をしていますので、この領域には、霊的性質が時折り顔を覗かせることがあるのです。みなさんがよく知っている存在に幽霊があります。

 

この中間領域(第4霊性密度)を知覚する能力に秀でた人がいて、この人たちは霊能者と呼ばれます。ところが、霊能者の大半は、第4霊性密度でキャッチした情報を、神からの言葉として下ろしているのです。それは悪意からではなくて、霊能者自身が本当にそうだと信じているのです。しかし、この人たちは第5霊性密度以上の、本当の霊界にはアクセス出来ないのです。なぜかは、もうお分かりですね。

 

エゴの執着を捨て切れば、何の努力もなしに、自動的に第5霊性密度へジャンプする。ところが、霊能者の大半はむしろエゴまみれで、霊能を付加価値にして高い見料をふんだくるというありさまですから、ジャンプなど出来る訳がありません。でも、一般の方々には、第4霊性密度と第5霊性密度以上の世界の区別がつきませんから、不思議世界の話などをされると、「そうかぁ」と思って、その領域に簡単にハマり込んでしまうのです。

 

エゴと、宗教と、オカルトを信じている限り、アセンションは不可能という理由はそこです。アセンションするということは、エゴ(第3霊性密度)の世界を捨てて、宗教とオカルト(第4霊性密度)の世界に落ち込まず、その領域を跳び越して、さらに向こう側へ行くということなのですから‥‥。地上に身体を有したまま、意識だけは第5霊性密度へと上げるのです。それがアセンション。

 

そんなことが自分にも可能なのか? 可能です。いま言ったばかりじゃありませんか。身体を含めた物質界はみな「幻」なんですよ。だとしたら「意識」しか残らないじゃありませんか。その「意識」を、第5霊性密度へジャンプさせればいいのです。ただ、それだけ。ところが、みなさんは、毎日そうしたいと願いながら、毎日それに失敗している。それはなぜかと言うと、地上から宇宙を眺めるというクセが、どうしても抜け切れないからなのです。(図1)

 

霊的世界はこうだとか、宇宙の階層構造はこうなっているとか、真理の法則はこうなんだという話をなんど聞いても、その瞬間は「解った!」と思ったのに、数時間もするとまた元に戻ってしまう。それは、肉体を持った自分が自分で、現実という世界がここにあって、時間がある、という地上の論理に、すぐさま絡め取られてしまうからです。「地上から宇宙を見る」というクセが、どうしても抜けない。あなただけではなく、哲学者も、科学者も、宗教家も。

 

ですから、地上の世界にいて、宇宙を覗こうとするこのクセを、あなたは止めなければなりません。ここが重要なポイントです。あなたがアセンション出来るかどうかの分かれ目です。地上に軸足を置いて宇宙を見るのではなく、逆に、宇宙から地球や人間や自分自身を見るのです。そうすれば、過去にお伝えして来た様々なことがらも、これからお伝えすることになるであろうことも、すべてをすっかり理解することが出来ます。ユーレカ!(eureka)と。

 

図2を見てください。

「物質界」というのは、宇宙全体からみれば、局所的に存在する特殊世界でしかないのです。むしろ「非物質的世界」の方が、はるかに広大無辺なものなのです。

その広大な「非物質的世界(霊界)」に抱かれて、その中に、振動数を落とした物質的宇宙が局所的に存在しているのです。

 

*広大無辺:厳密に言えば、時空間という概念がそもそもないので、我々がイメージする「広大」とは異なります。無限の宇宙(霊的世界)の中に、有限の宇宙(物質界)があるのです。

 

ですから、いわゆる「この世」と「あの世」は、ドアを隔てて分かれているというのではありません。「あの世」という海の中に、「この世」という島がちょこっと浮いているのです。それを、みなさんは逆に考えている。この世が主で、こっちからあっちを見ようとしている。ですから、いつまで経っても「真理」を掴めないし、オカルト現象を畏怖したり、逆にありがたがる性癖が抜けないのです。

 

でも、視点を真逆にすれば、不思議などどこにもない、ということも解るし、そんなものに興味もなくなってしまうのです。すべては一者ということが解るからです。同時に、生命も、存在も、愛も、法則も、全部は同じものの違う表現であるということが解る。ただ頭で解るというのではなくて、魂が完全に同化して、まったくその通りだということが全身で解る。

 

だから、あなたもそうお成りなさい。

 

その時に、みなさんは知ることになります。地球という惑星に暮らすあなた方の、生命や、存在や、愛や、健康や、法則や、善や、自由や、正義や、神に関する定義が、いかに狭く偏見に満ちたものなのか。「物質界」という限定された世界でしかものを考えられないから、それらの定義も、みな限定されたものになっているのです。そして、その偏見を真実だと思い込んでいる。

 

ではどうすれば、頭ではなく、「魂」で、全身の感覚で、それが解るようになるのでしょう? それには、静寂に身を置いて、ご自分の内をひたすら見つめることです。瞑想をしなさい。内観を徹底してごらんなさい。よい喩えが見つからないのですが、油揚げの皮を裏返しに包んだ稲荷ずしを見たことはありませんか。ちょうどあれのように、自分の内を深く深く見つめていると、それがクルッとひっくり返って大宇宙になってしまうのです。

 

ヘルメスの「下は上のごとく、上は下のごとし」とはこれのこと。

あなたの内側に大宇宙があるのです。「大宇宙(macrocosm)」と「小宇宙=人体(microcosm)」は、相似形を為しているのです。

 

物質界に生きている限り、人は物理的な制約を受けます。それを無視しろ、と言っているわけではありません。むしろ、物質界を生きるための乗り物である身体を、もっといたわりなさいと今までも言って来ました。ですから、この機会に、身体をいたわることをさらに学習してください。

 

乗り物をぞんざいに扱っていては、クリエイティブな体験は出来ませんし、内観もうまくできません。ですから、そこはちゃんとケアした上で、意識の世界を探求してください。では、次回の『PEACE DOME』でご一緒しましょう。