by Rainbow School
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終活? なんてイヤな響きなの?

知り合いの方から「あとはもう終活をするだけです」という一文が入ったメールをいただきました。終活。そういう言葉が、巷を賑わわせていることは知っています。でも、こういうダジャレは、私は嫌いです。冗談でそう書いたにせよ、イヤ〜な気分にさせられます。それは、死を感じさせるからではありません。死を誤解しているからです。その誤解を、さらに強化しているからです。

 

どうしてこんなくだらないダジャレに、多くの人たちが易々と乗っかってしまうのかな、と思います。私には理解できません。そうすることが、何か楽しいのでしょうか? ハッとするような気づきを、その人に与えてくれたのでしょうか? 終活、それは、人々の底に眠っている、潜在的な恐怖心の扉をノックし、そこに注意を向けさせることによって、産業化を狙っている人たちの策略です。

 

なぜ、それが判るのかって? 私自身が、かつては、そっち側にいた人間だからですよ。

 

みなさんに、ハッキリ言っておきます。「終活」などする必要はまったくないし、しようと思ってもいけない。なぜいけないのか? それが、「時間軸」で人生を考えるという発想の、最たるものだからです。

 

人生の終盤に差し掛かって、「自分の人生とは、何だったんだろう」という問いかけを、「終活」というものが、きっかけとして与えてくれる効果は、もしかしたらあるかも知れません。しかしそれでは、古来より延々と繰り返されて来た人生哲学の域を、一歩も出るものではありません。そんなことなら、なぜもっと若い時分から考えて来なかったのでしょうか?

 

・私は誰なのか?

・どこから来て、どこへ行くのか?

・なぜ私が存在するのか?

・なぜ生きねばならないのか?

・生きるとは? 死とは?

 

そしてこの問いかけに、すでに答えを見出していたならば、その人が「終活」などに取り組むわけがありません。

そのバカバカしさ、下らなさを、既にじゅうぶん認識していますから。

 

犬が、己れの人生(いや、犬だから犬生と言うべきかな?)の末期に「終活」を考えたりするのでしょうか? 猫生の最後になって、「終活」取り組んでいる猫を、あなたは見たことがありますか? そんなバカなことが “必要” だと思い込むのは、人間だけです。

 

「終活」なるものが解っていないと思うのは、自分の人生の意味を、まだ「何かを残す」ことによって示そうと考えていることです。それは、最後のあがきにも似て、見苦しい。私はそう思います。名前を残す。財産を残す。遺言を残す。成果を残す。この世に、自分が確かに生きたという証拠を残したうえで死にたい。でも、考えてみてください。1万年前に死んだ人の何かが、いま残っているでしょうか?

 

もしかしたら、骨が発掘されることがあるかも知れません。装身具が見つかるかも知れません。あるいは書簡が出てくるかも知れません。でもそれが、何だというのでしょうか? それが、その骨の主人、それを身につけていた人、それを書いた人を表しているのでしょうか? 想像することは出来ます。でもそれらは本人ではありません。単なるモノです。

 

このような、単なるモノや、自身の活動成果に、いつまでも執着していたのでは、この世に生を受けた意味や目的が、最後の最後になっても解りません。それは、前段に書いた、形而上学的問いかけには相変わらずきちんと向き合うことをせずに、今までしてきた、誤魔化しの生き方を、なおも延長しようとすることでしかありません。あなたの本質は、そんなところにはないのです。

 

あなたの本質は「魂」です。そして「魂」に死というものはなく、それは永遠に生き続けるのです。あなたが自分だと思っていた肉体は、単に、今世における借り物のドレスに過ぎません。この世で「死」と呼ぶ時期を迎えたときには、そのドレスを脱ぎ捨てて、本体の「魂」だけとなって、本当の我が家へと帰って行くのです。その引越し作業と、住所変更があるだけです。

 

さて、それが解った時に、今世、地上で生きたことの意味や目的は、一体どこにあったと言うのでしょうか? あなたが残した物や成果に、意味はないのです。他の誰かの役に立ったということはあるかも知れません。しかし、すべてはうたかた(泡沫)。あなたが為したことは、宇宙の永遠から見れば、瞬きするほどの間ですらないのです。

 

しかし、「魂」は違います。等しく、みな宇宙の子である「魂」は、母なる宇宙と同じく、また永遠なのです。永遠の無時間を生きているのです。あなたという「魂」は、地上でしか出来ない様々な体験を通して、自身の中に深く眠る「神性」を再発見し、それに触れ、少しずつ霊性を向上させて行く旅を続けます。そして、最終的に、「旅は必要なかったのだ」と知るのです。それが、この人生を生きる目的です。

 

さあ、解ったでしょうか? これを知っても、あなたはまだ「終活」なるものが必要だと考えますか? 大切なのは、いつでも「今」なのです。「今」のあなたの「あり方」なのです。ですから、「あり方」を変える決心をすれば、その瞬間から、あなたは変わる。人は、いつだって、自分を変えることが出来るのです。

 

人は老います。地上には時間があるからです。でも、あなたの本質部分は、無時間を生きているのです。このことを理解しましょう。理解して、地上の論理に、本質までもが巻き込まれないようにしてください。老いを、惨めなものや、心細いものと捉えないでください。老いの体験を、どのように楽しく、喜びに溢れたものにするか、それが「魂」にとっての課題です。

 

このことをしっかり認識して、どうぞ楽しい毎日を、そしてまた、他者を助ける中に喜びが見出せる人生を、最後まで全うしてください。

明るい老後破産、楽しい独居生活

クレジットカードの7月分の銀行引き落としが、残高不足のために落ちませんでした。通帳を見て一瞬ギョッとし、「あ、これがいま巷で話題の《老後破産》てやつかぁ」と思いました。ついには硬貨が入った貯金箱まで開ける始末。なんだか小学生に戻ったような気分でした。その後、追加入金して、ひとまずはしのげたんですけどね。

 

山奥で暮らしているために、周囲には全くお店がありません。それで、どうしても必要なものは、カードを使ってインターネットで購入するということになる。ですが、家計簿なんていちいち付けません。お金に関しては、高田純次さん見習って、テキトーで行くと決めてますから。でも6月は、部落恒例の草刈り行事のためにエンジン式草刈り機を購入したのが、ちとイタかったなぁ。それを忘れていた。

 

私、本当はあれ嫌いなんです。音はうるさいし、排気ガスは臭いし。危ないしね。それで、私だけ手動式の鎌(早い話が普通の草刈り鎌ね)を持って、みんなの後をウロチョロしていたんですけれど、5年も経って、さすがにこれ以上は水っ子(赤ちゃんのように手加減してもらうこと)を続けるわけにも行かなくなって来た。それで購入したという次第。年に一度の、その日のために。

 

2カ月に一度振り込まれる年金が、15万6千円。だから1カ月、7万8千円。これに臨時収入を合わせて平均10万円弱というのが私の今の生活費。ご覧の通り、これはいわゆる生活保護世帯よりも少ないです。ということで、お金の面だけを見れば、自分はれっきとしたビンボー人。ですが、気分まで貧乏人になったことはない。かつてはそういうこともあったが、今はない!

 

だから、時々、不思議に思うんですよ。よく、夫婦ふたりで月に23万円の年金だけじゃとても暮らしていけないとか、退職後には少なくとも3000万は用意しておかなくちゃとか、そうじゃないと生きていけないとかと、言っている人のいることが。現に、ただ今この瞬間、生きて、暮らせているのに、「暮らせない」とか「生きられない」って、一体どういうことなの? 自分の何を見てるのかな?

 

54歳の時、生き馬の目を抜くその業界で、もう自分は通用しない、引き際だと悟り、その年の正月、それまでの取引関係先全部に「廃業宣言」のハガキを出しました。その後の展望が見えていたわけではありませんでしたが、とにかく「辞める(それまであった状態を破壊する)」ことを、優先したわけです。そういう自分の、内なる声に従った。

 

不安は大いにありました。私も人並みに、ソフトランディング(軟着陸)を考えていました。それで、飲食店商売をしようかと考えて実際に店を作ったりもしましたが、これは3カ月と持ちませんでした。投資した1000万円が泡と消えました。借金が2500万円くらい残り、先行き不安から鬱病になった時に、今度はカミさんに癌が見つかって、10カ月後に死んでしまいました。

 

しかし、この10カ月間の看護生活は、私に鬱病から立ち直るきっかけを与えてくれました。そこに一生懸命にならざるを得なかったことが、思わぬ効をもたらしたのです。しかし仕事の方は相変わらずで、ネット販売に手を出したり、出版を手がけてみたり、短編映画を創ってみたりと、スケベ根性がなかなか抜けませんでした。そして、そのことごとくが上手く行かなかった。全部、一生懸命やったんですけどねぇ。

 

もうダメかと思って行き詰まり、深夜の清掃のアルバイトをしたり、ラブホの受付のアルバイトをし、次に『お風呂の王様』の面接に行って、不採用になった時、もう働くのは止めようと決心しました。この直後、渋谷のユーロスペースのカフェが面接に来いと言って下さったのですが、「へえ、度量があるなぁ」と思いましたが、その時には「もう働かない」と決めた後でした。

 

*フランス映画を見ると、カフェのギャルソン(給仕)に年配者がたくさんいるでしょ。自分もウェイターの経験があるし、カッコいいギャルソンなれるかもネ、と思ったのでした。でもフランス語のギャルソンて、元々は「少年」という意味なんですってね。><

 

それからです。眼を閉じるたびに、田舎の田園風景が浮かび上がるのです。これがあまりにも頻繁に続くものですから、「これは、田舎へ行けってことなのかなぁ」と思って意を決し、インターネットで見つけた今のボロ屋を購入したのです。資金は生命保険を解約しました。ついでに、定期購読の雑誌やら何やら、削れるところは全部削って身軽になりました。出来る限りお金の掛からない生活の、準備をしたわけです。

 

さて、現地へ行って直ぐに、「これはひょっとして、とんでもない失敗をしたかも」と思いました。アクセスは不便極まりない。天井には穴が開き、土壁は何箇所も崩落し、床は腐っていてベコベコになっている。そして、家の中にコンセントすら無かったのです。テキトーが災いしました。長年空き家だったので、もちろん照明器具もありません。持って来た裸電球を1個つけて、その下でサバ缶を食べていたら、動悸がして体がガタガタと震えて来ました。

 

おっ、この感じは経験があるぞ。そう、10年以上も忘れていた、パニック発作の再発です。この時は、もの凄く苦しく、怖かった。でも、やっちまったものはもう仕方がない。パニックは東京に戻っても続きましたが、前に進むしかないとあきらめて、諸費用込み30万円ポッキリの中古の軽自動車を買いました。けれども、運転は得意じゃないし、それまで高速道路というものを運転したことがなく、これももの凄く怖かったです。

 

気持ちが安定して来たのは、業者さんに電気工事をして貰い、そのあと自分で土壁の修繕をし始め、しばらく経ってからです。修繕には、「臭い物に蓋」式の修繕と、土台から直す修繕があります。「臭い物に蓋」式は、前のものを壊さずに、そこに見てくれだけは新しいものをおっ被せてしまうやり方。でも、土台から直すには、前のものをいちど壊さなければならないのです。

 

私は、やるからには後者で行こうと決めて、土壁の上の古い漆喰を剥がすところから始めました。この、今あるものを壊すというのは、ちょっとした覚悟が必要になる。いったんは、前よりもひどい状態になるのですから。しかも、左官作業など、今まで一度もやった経験がありません。予想される作業量の膨大さ、大変さを考えると、どうしても足許が竦んでしまうのです。でもそこで、「エイ、ヤッ」と一歩踏み出さないことには何も始まらない。

 

これをちょっとずつ、5年間続けて来て、私は次のことを学習しました。

 

・前のものを壊さないことには、決して新世界は実現しないのだということ。

・壊す際にともなう恐怖を乗り越えるには、その後の、理想世界の強いイメージを内に持って臨むことが肝心であること。

・そして、持った後はそれを忘れて、目の前の今できる作業に没頭すること。

・そうすれば、いつかは、思いが、形になっている。

 

それが、宇宙の仕組みであることを、身を以て体験しました。そのことが解った時に、軟着陸を画策していた頃の自分が、やること為すこと、どうしてことごとく上手くいかなかったのか、その理由も解ったのです。

 

何もかもが、天の配慮でした。そして、未だ残っていたスケベ根性、卑しさ、浅ましさ、怒り、嫉妬を、一枚ずつ脱ぎ捨てて行った時に、入れ替わりに、上からのメッセージが届くようになったのです。

 

今は、今までの人生すべて感謝しています。映画監督になれなかったことも。お金で苦しんだことも。やること為すことうまく行かなかったことも。パニック障害や鬱病になったことも。人からさんざん非難や罵倒を受けて来たことも。『お風呂の王様』を面接で落ちたことも。カミさんが死んでしまったことも。

 

あ、誤解しないでくださいね。カミさんが死んでくれてよかったと言っているわけじゃありませんよ。愛する人を失い一人になった。そうなったことにも、今は感謝しているという意味ですから。

 

貯金はほぼ使い果たしました。でも食べ物に困ることはありません。豪華な食事は要らないし、外食もしません。果物はなかなか買えないけれど、粗食で結構。時々、食べ物を持って来てくださる人もいますしね。旅行には行けませんが、別に行かなくなっていいです。洋服、要りません。今さらモテようとは思いません。最新式の須磨穂、要りません。心を破壊してしまう世界須磨穂教の信者になろうとは思いません。

 

この「お金」というものへのアバウトさは、昔からそうだったわけではありません。多くの人と同じように、いやそれ以上に、自分は「お金」というものが生み出すトリックに強く引っ掛かっていたのです。今とは真逆だったと言ってもいいです。結局そのことが、私に、パニック障害やら鬱病をもたらしたのです。どういうことかと言いますと、その時分には、生きることを、私は「時間軸」で考えていたのです。つまり、「今」を生きてはいなかった。

 

その頃、私は、下北沢近くで小さな企画事務所をやっていました。そうしますと、アシスタントへの給与やら、家賃やら、事務所経費やらを考えると、毎月300万円以上の売上がないことには事務所が回らないのです。これが、いつも頭の中を支配していて取れない。すると、いつの間にか、発想が逆転して行ってしまうのですね。

 

300万の売上が必要 → 今月は達成できるだろううか? → 何としても仕事が欲しい → でも最近、ちょっと売り上げが落ちている → ああ、大口を切られてしまった → このままじゃやって行けない → 給料も支払えなくなる → そうなったら事務所は閉鎖だ → もう死ぬしかない、とまあ、ざっとこんな具合です。どうです、笑えるでしょう? でもその時には、その考えに取り憑かれているから、滑稽さが分からないのです。

 

エジソンは、「必要は発明の母」と言ったけれど、これじゃさしずめ、「必要はパニック障害の父」ですな。もう何のために身を摺り切らしてまで働いているのか分からない。ということで、「お金」のドレイはもう充分経験しましたから、これ以上は結構なのです。ただ、ちと困るのは、家の修繕のための材料費がなかなか捻出できないことくらい。でもそれだって、きっと何とかなる!

 

私には夢がある。今の隠遁ライフを送るようになってから、自分の「行」が飛躍的に進みました。やはり、古来から言われているように、都会から離れて、情報を遮断して、自然の静寂の中に身を置くことが、非常に有効であったのです。繰り返し瞼に浮かんだ映像は、それへの導きでした。だから、同じく光への道を求める人に、このささやかな場を提供して、共に励まし分かち合いたいのです。

 

その思いは、最初からあったわけではありません。でも、修繕作業が進んでいくに連れて、だんだんとそのような構想が膨らんで来ました。すると、今までの全てのことは、このためにあったと思えるのです。まさに完璧。今年は、4名の方とテスト合宿を行いました。ようやく雨露しのげるレベルになっただけで、まだまだ理想イメージにはほど遠いです。ですが、来年にはなんとか合宿を実現させたいと思っています。いざ、友よ。来れ!

 

この『気づきの啓示板』には、「幸福とは条件ではなく、そう思う気持ち」なのだという指摘が、何度か為されています。私もそれに習って、たとえドビンボ・ライフを送っていても、心はいつも晴ればれと、豊かでいたい。夫婦ふたりで月に23万円の年金だけじゃとても暮らしていけない、という人は、「暮らしていけない」という思いを、毎日創造しているのですぞ。

 

ああ、そのことになぜ気がつかないの? そういう人は、きっと収入が50万円になったとしても、今度は、50万円じゃとても生きていけないと言うことでしょうね。お解りですか? 自分を不幸にしているのは、自分の「不足」という想いなんですよ。今の自分は不幸である。今の自分には○○が足りない。という思い込みが、「老後破産」の恐怖というものを駆り立てているのです。

 

だから私は、この先、自分が手本になろうと思っているのです。明るい老後破産、楽しい独居生活の。それが、気持ち一つで充分に可能なのだということを見せつけて。

 

いつも言っている通り、あなたの意識の連続が、今世というドラマにおける、あなたの人生を、結果的に決めてしまうのですよ。足りない、足りないと一生言い続けて終えるのか。それとも、もう充分だ、ハッピーだと言って人生を終えるのか。それはあなた次第。

 

だったら、後者を選んだ方が、ステキだとは思いませんか?