by Rainbow School
<< November 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
無知と無智

無知と無智。この漢字を、私は意識的に区別して使っています。知識のないことが「無知」、智慧のないことを「無智」というふうに。言語学的にこの定義づけが正しいというわけじゃないのですが、一応、私の中ではそのように区別しています。なぜかと言うと、この二つが意味するものは、一見同じように見えて相反する面があるからです。

 

私が「無智」と書いていた場合、それは知識がないと言っているわけではありません。もちろん小馬鹿にしているわけでもありません。「無智」というのは、それを知らないということではなくて、「智」が「無い」状態にあるという意味です。「智」というものは、知って解るというものではありません。その人の中に「在る」のか「無い」のか、「内在する」かどうかという問題なのです。

 

「智」という漢字には、「知」の下に「日」がくっ付いていますね。ですから、「智」は単に知るということではないのです。敢えて言えば「日」を知る。「日」は「⦿」から生まれた象形文字です。見ての通り、「⦿」には先ず、お日さま、太陽の意味があります。そこから、暗闇を照らす光、不明だったものを明らかにするという意味が、「智」には付加されているのです。

 

また、「○」の中に「・」が付いた形は、中心太陽とか、宇宙そのものを表す象徴でもあります。中心太陽というのは、いわゆる太陽(恒星)のことではありません。これは神秘学用語で、宇宙の根源的エネルギーが流れ出している中心点のことを指します。その中心点を、太陽になぞらえて言ってるわけです。そして、この中心点から、全体(○)に広がっているという象徴図形が「⦿」なのです。

 

ですから、私の中では、「智」は宇宙の中心点から溢れ出ている光、すなわち「宇宙の真理」「生命」「愛」というものを意味しています。そして、それを未だ知らない、内在されていない状態にあることを「無智」と言っているわけです。この「無智」というものは、今の地球人類全体が背負った宿業のようなもので、視点を変えれば、その状態から脱することが、地球人類としての一大テーマになっているわけです。

 

*以上はみな、同じものを機能別に別角度から捉えて言ったもの

 

そこで釈迦は、嘘をつくとか、他人のものを盗むとか、殺生をするとか、人としてやっちゃいけないことは色々あるけれども、何よりいけないことは「無智」だと言ったのです。ハテ? 戦争よりも人殺しよりも、なんで「無智」がいちばんいけないのか、とそう思うでしょう。それは、もし「智」に明るくあれば、すべての悪など、起きようはずが無くなるからです。

 

無智。

 

人類が抱えるあらゆる問題の原因は、ただこの一点にあるのです。環境問題も、貧困問題も、エネルギー問題も、核も、戦争も、病気も、怒りも、憎しみも、満たされなさも、孤独も。

 

すべては人が「無智」なるがゆえに生じ、かつ乗り越えられずに、同じ過ちを延々と繰り返している。そこで私も、先人に習い、微力ながらも光を注ぐお手伝いをしているわけですけれど‥‥。この闇は手強い。

 

どうしてこれほど手強いのでしょう?

 

その理由は、みなさんが得た「知識」にあるのです。まことに、まことに、「知」は「真理」を粉砕する。「知」は、この宇宙に、物質世界を超えた「真理」が存在するということを認めない。「知」は、たとえ「真理」の一端を垣間見ても「そんなものはインチキだ」と直ぐに耳許で囁く。「知」は、「真理」に触れた瞬間があったとしても「今のは錯覚さ」と己の感覚を打ち消す。

 

一人の人間の中で、宇宙意識とつながった奥深い霊性の主が「お前の本質はわたしなんだよ」「さあ、このチャンスに真理に気づくんだ」といくら声を上げていても、「知識」を得た頭が、常識でそれを振り払い、木っ端微塵に粉砕してしまう。その習いを超えて、我が内なる声に従順になるには、もの凄い勇気を必要とする。まるで、天と地がひっくり返るほどの‥‥。

 

視点を変えれば、実にな〜んてこともないんですけれどネ。でも、地球人にはまだまだそれは大変なこと。何しろ、あらゆる物差しが「知識」に重点を置いて出来上がっているのですからね。「知識」そのものというよりも、「知識」に重点を置くという「知識」構造に、人類がすっかり支配されてしまっていることの方が遥かに大きな問題。ここから脱するのは、まさに至難のワザ。

 

物心ついた頃には、本人の興味関心とは関係なく、学校教育で「知識」の洗礼を受け、どれだけ覚えたかで優劣が決められる。上の学校に上がるのも、会社に入るのも同じ物差し。社会に出れば出たで、業界知識や社交術を知らねばならない。加えて、ニュースで世の動向を知り、株価に毎日眼を光らす。果ては、健康情報にグルメ情報、スポーツ情報、芸能界情報と大層忙しい。その各分野に、指南役としての知識人が存在し、人々をある方向へと導いてゆく。

 

よく、「知識は無いよりは有った方がいい」なんて言いますが、必ずしもそうとは言い切れないんですよ。世の中には、知らなくてもいい「知識」、知ったからといって別にどうということもない「知識」、知るとかえって有害になる「知識」がいっぱいある。むしろ、そっちの方がずっと多い。それなのに、そんなムダな「知識」に振り回されて、現代人はすっかり我を見失っています。

 

そして、世界須磨穂教の熱心な信者となった今は、一瞬たりとも「知識」から逃れるスキがない。分からないかなぁ、それが、心から「不安」というものが消えない根本原因なのですよ。ほっと一息つく時間がある時、あなたは、眼を閉じて静かに内観することを選びます? それとも、すぐに須磨穂大神様に手を伸ばします? 須磨穂大神様は、どんな有意義なご託宣を、あなたに授けてくださるのでしょうねぇ。

 

そうやって、次から次へと「知識」を仕入れて、少しは賢くなれましたか? 生きる目的が見つかりましたか? 不安がすっかり解消されましたか? あなたが「知識」を増やした時というのは、その世界に取り込まれたということなんですよ。あなたは、ご自分が、その「知識」を選び取ったと思っています。でもそうじゃない。その世界に引っ掛かったのですよ。

 

本当の「智慧」は、心静かに内観するとき以外には降りて来ません。周囲の情報を遮断して、静寂の中に身を置き、一人きりになる必要があるのです。そのようにして、自我を出来るだけ消滅させていく。そうすれば、入れ替わりに、宇宙とのチャンネルが開かれて行くのです。

 

ですから、いつもいつも自我をフル稼働させ、目を皿のようにして「知識」を追いかけているような人は、せっかくの「真理」にも出会うチャンスがありません。それどころか、「知識」を「悪観念」にまで育て上げてしまう人のなんと多いことか。ご覧なさい、ネット上に渦巻くヘイトの声の数々を。「知識」の罠に一度は引っ掛かったとしても、それをあなたの直観の秤(はかり)に掛けて、問い直すということが大切なのです。

 

やけくそになった人が、よく言うじゃありませんか。「俺のことなんか放っといてくれ」「今は誰にも会いたくないんだ」「俺は一人になりたいんだ」。それは、その人の「魂」の叫びです。「魂」はちゃんと知っているのです。ここ一番という大事な瞬間を。「真理」を掴むチャンスの時を。その方法を。やけくその混乱状態に陥入ればこそ、それをジャンピング・ボードに変える「智慧」が働くのです。

 

なぜだと思います? やけくそになったことで、図らずも、自我を正常に働かせることが出来なくなったためです。自我を滅するチャンスが、そこに生じたのです。そうやって、ちゃんと救いの手が差し伸べられているんですよ。凄いですねぇ。だからって、あなたも早く「やけくそ」にな〜れ、なんてことは言いません。この理屈さえ解っていれば結構。

 

知性は、しばしば「真理」を抹殺してしまいます。「知識」をいくら求めても「真理」には到達できません。「真理」は、「知識」の先にあるのではないのです。哲学などいくら学んでもムダ。むしろ「知識」から離れた時にこそ、「真理」と出会えるのです。

 

あなたに、一息つける間がある時、眼を閉じて、心を静かにして、安心して、神にその身を委ねなさい。そのような習慣を持ちなさい。そうすれば、やがて解ります。

 

私は誰か。どこから来て、どこへ行くのか。

迷った時こそ、直観に従って生きる

何か迷いが生じた時に、人はその判断を自分以外の誰かにして貰いたくなります。ことに日本人は、その傾向が強いように思います。自分の考えを持たない、はっきり主張をしないということが半ば習慣づけられていて、自立性が薄いというか幼い。教育のせいなのでしょうが、人の顔色をみる、忖度する、空気を読む、出る杭は打たれるといった思想が、なにか体に染み付いてしまっていますよねぇ。

 

「和」の精神そのものは良いのですが、運用を間違えると困ったことになりかねません。声の大きい人や他者を操る力に長けた人の後を、訳も分からず一斉にドドドーッと付いて行き、押し合いへし合いで崖から転落という事態になりやすい。そうではなくて、それぞれの考えや主張をしっかりと持ちながらも、互いに学び、フレンドリーに付き合うことは可能ですし、それが本当の「和」です。

 

しかし、日本人がそうなるにはまだまだ時間が掛かりそうです。私はカウンセリングというものをしていないのですが、時に個人的な相談を持ちかけられることがあります。しかしその場合でもジャッジは決してしません。それで、相談者からはガッカリされるのですが、その人にとっていま何がいちばん大切かを考えたら、とてもじゃないけれどそんなことは出来ない。

 

目の前に相対した人の心の状態は直ぐに判ります。書かれた文章からも判る。けれども、知ったことを何でも言ってしまえばいいというわけではありません。ですから、カウンセリングというのはさじ加減が非常に難しい。自分で考えない、内観してみる習慣を持たないことに慣れた人というのは、権威筋の言ったことを丸ごと信じてしまう傾向がありますから。しかもそのことに自覚がない。でもそれを繰り返していては、「魂」の成長はありません。

 

みなさんの中には、世界の動向や、自分に関する運命というものが予め決まっているのではないかと思っておられる方がたくさんいらしゃいます。そこで、占いや予言やスピリチュアル・カウンセリングといったものが流行るわけです。確かに、今世はこういう課題を持って誕生しようと、自分で計画して来たものが各人にはあります。しかしどう生きるかは全くの自由意志によるのです。

 

何度も言って来たように、あなたの人生はあなたが「創造」しているのです。日々の思考、言葉、行動によって。予め決まっている運命を、ただなぞって生きているわけではありません。あなたという存在は、いわばあなたの彫刻作品なのです。ですから、そのことをよく自覚して、権威筋のご託宣に振り回されることなく、材料としてそれを彫刻に取り入れるかどうかを、ご自分で判断しなければなりません。

 

また、世界の運命ということについても、それらは人々の集合意識によってどうにでもなるのであって、予め決まったものではありません。今も「恐怖の予言」というものをされる霊能者がおられるのですが、その人は霊界の真実を知らないと言わざるを得ません。宇宙の総体は一つです。その一つを「神」と呼ぶならば、恐怖の予言に慄(おのの)くのも「神」ならば、実現させるのも「神」ということになってしまいます。そんなバカな話はありません。

 

高次元の霊的存在が、「恐怖の予言」を誰かに下ろすことなど、絶対にありません。あり得ません。ただし、人類の間違った行動を是正するよう警告することはあります。

 

「恐怖の予言」をすれば、それを信じた人は怯えます。すると、その人は「当たって欲しくないな」と思いながらも、そこに意識を向けてしまいます。このような、不安に駆られた意識がたくさん集まれば、さてどうなるでしょう? その集合意識が、現実というものを望み通りに「創造」する方向へと動かします。その結果、予言が的中ということになるか、ならないにしても社会に混乱が生じることになります。

 

さて、そうなって、ほくそ笑むのはいったい誰でしょうか? よくよく考えてみてください。「神」の名を語って予言する、低次元の存在だということが判りませんか? このことを、もういい加減みなさんは学習すべきです。何度も何度も同じ過ちを繰り返してはなりません。世界の動向は、全て人類の意識の動向に掛かっているのです。あなた方の意識のあり方しだいなのですよ、友よ。解りますか?

 

そこで、外からしのび寄って来る、真実ではない情報に振り回されないためにはどうしたらよいかということです。本物は、いったいどこにあるのだろう‥‥?

 

真実は我が内にあり、これです。発想の逆転。真実はあなた方の内にある。そのように、あなた方は最初から造られているのです。これぞ、まさしく神秘。神秘とは、不思議現象のことではありません。逆転こそが真実だということ。この世にあくまでこだわっているから、霊界から漏れ出て来ることが不思議に見える。でもそうじゃない。逆なんですよ。不思議など、どこにもないのです。

 

図を見てください。瞑想をしていると、時に、自分が宇宙にぽっかりと浮かんだような感覚になる場合があります。

 

これは、いつもはフル稼働させていた顕在意識が、瞑想によってグーッと縮小していき、その分だけ、普段は蓋をしていた超意識(宇宙意識)が浮かび上がって、知覚能力を回復するようになるためです。いわゆる第六感のチャンネルが開くのです。

 

さて、あなたは宇宙の中に浮かんでいます。しかしこの時、宇宙は決してあなたの外側にある別のものではなく、あなたも宇宙の一員であることが容易に自覚されるでしょう。全宇宙を構成している「霊(Spirit)」は、あなたの中にも満遍なく浸透しているということです。この宇宙という言葉を、「神」に置き換えてみてください。するとどうなるでしょうか?

 

私は神の内にいる。神は、私の内をも貫いている。この私も、神の一部なのだ。そう、私と神とは一体なのだ。この感覚に満たされます。

そして、私以外の宇宙には他者も自然も含まれるのですから、こうなります。

私と他者とは一体である。私と自然とは一体である。

ゆえに、自分が為したことは、自分に返る。

 

このような「霊(Spirit)」の広い世界の中に、振動の低い、限定された領域の物質世界(地球での生活)が存在しているのです。いま我々はそこに住んでいます。けれども、実体は多次元的存在なのであり、本当は自分が霊主体従であることを悟る、真実は霊的世界にあって、こちら側は映し絵であることに気づく、というのが「目覚め」なのです。そして、この逆転こそが「神秘」の本当の意味なのです。

 

*ここで言う「次元」は、数学的次元を指すのではなく、振動数の違いによって段階的に7つに分けた「霊性密度」のことを略して「次元」と言っています。

 

三次元世界(第三霊性密度)にあくまで留まったまま、不思議現象を追い求めることが「神秘」ではないのです。不思議体験をすることが「神秘体験」ではないのです。逆転の世界に身を置けば、不思議などどこにもないということが解る。真実は逆さまだったということに気づく。しかし、99.99パーセントの人はそんなことは思いもよらないので、これが「神秘」となっているのです。

 

しかも宗教は、意図的にこれを捻じ曲げて来ました。宗教もまた、三次元世界に留まったまま、不思議現象を追い求め、これを「神秘」と位置づけたのです。なぜなら、不思議などどこにもない、人はすべて等しく神の一員なのであり、すべての人の内に神がいると語ってしまったら、宗教が不要になってしまうからです。そのため、真実を語る者はつねに異端扱いされ、正統派の宗教から弾圧の憂き目にあって来ました。

 

いま図とともに示したことは、比喩ではありません。瞑想をすれば、それが実感され易いということを示しただけであり、普通に生活している時にも、変わらず人はみな多次元的存在なのであり、霊主体従を意識した生活を送ることが望ましいのです。しかしながら、多くの人は、あまりにも物質的な生活に埋没しており、またこのような知識も今までもたらされなかったので、なかなか目覚めることが出来ないのです。

 

ここで冒頭の話に戻りましょう。迷いが生じた時にはどうすればいいのか? 直観に従えばよいということです。直観はあなたを裏切りません。あなたの内にはつねに神がおられるし、あなた専属の高次元の存在も、いつもあなたを正しい方向へ導こうと応援してくれています。そして素晴らしいことには、各人それぞれがバラバラに直観に従っても、必ず同じ一つのものに行き着くということ。

 

これが、宇宙の法、『The Law Of One』です。

 

バラバラに「神」に触れようとしても、それは到底叶わないと考え、またそう思い込ませて、人々をある特定の教義に従うようにさせる。すると、たくさんの教義同士がぶつかって、世界はバラバラになってしまう。逆に、各人がバラバラに内なる「神」に従えば、誰かに「支配」されることなく、世界は一つのものになるのです。これも、まさに「神秘」です。

 

直観は英語で「intuition」。この語源はラテン語で、「in」は内側、「tuition」は後見人、守護者、指導といった意味(ちなみに指導教官のことを「tutor」と言います)ですから、英語の直観は、まさに「内なる守護者による指導」という意味を持っています。この指導は、高次元の私、つまりハイヤーセルフからやって来ます。

 

似たものに「inspiration」があります。これもラテン語が語源で、「in」は中へ、「spiration」の動詞である「spire」は息を吹き込むという意味です。息を吹き込むというのはどういう意味かと言いますと、土で造った人形の中に、神が息を吹き込んだことで人間が誕生した。つまり、この「息」とは生命の根源的エネルギーを指しています。そこで、息を吐くという意味の「spirit」という単語が、「精霊」の意味になったのです。

 

ですから「spi-」で始まる言葉は、みな息に関することであり、引いては霊的なことを意味するようになりました。息とソウルが同じ言葉であるというのは、ほぼ世界共通で、ヘブライ語では「ルーアハ」、アラビア語では「エル・ルーフ」、ギリシャ語では「プネウマ」、そしてラテン語では「スピリトゥス」と言います。

 

日本でも、「息」は「生き」です。いわゆる死を迎えることを「息を引き取る」と言いますが、神がいったんその人に吹き込んだ息を、今世を終え、元の状態に引き取るからそう言うのです。人を殺すことを「息の根を止める」(根っこがどこに繋がっているかを考えて)、一度死んだように見えた人間が蘇生することを「息返る」、そしてそのまま生き続けることを「息永らえる」と言いますね。

 

また粋(すい:pure)を究めんとする生き方を「イキ」、相手の強いスピリット・エネルギーを感じることを「意気に感じる」と言い、みんな息に関係しています。

 

ということで、「in-spiration」は、神がしたように、人間の中に息を(=霊的な智慧を)吹き込むという意味です。フッと息が入って来る。これは、直観とは違って、自分以外の高次元の存在、大師や天使や守護霊などがあなたに囁きかけて来たものです。そして、いま言ったことは、感度の違いはあるにせよ、全員にもたらされていることなのです。

 

ですから、これを読んでくださっているみなさんは、直感やインスピレーションの大切さをよく認識して、そのアドバイスに従って生きるようにしてください。直感やインスピレーションは、没頭して何かの作業をしている時にスッとやって来ます。「我を忘れて」と言いますが、我を忘れている時に、つまり顕在意識を絞っている時に、直感やインスピレーションのチャンネルが繋がり易くなるのです。

 

この瞬間をおろそかにしないように、その場で必ずメモを取ってください。顕在化された意識ではありませんので、放っておくと、すぐに飛んでいってしまいます。多くの人は、気のせいで片づけたり、無視したりするので、せっかくの直感やインスピレーションを活かせないのです。メモを取っておけば、その後すぐに忘れても、メモを見ればその時の感覚が再び甦ります。

 

ただし、いま言ったことを、自分を利するために活用しようとはなさらないでください。それでは三次元世界に身を置いたまま不思議現象を求めることと、何ら変わりがありません。そうではなくて、身に起こる、良いことも悪いことも、みんな良いことと思えるかどうかが鍵です。そうなってこそ本物。そうなってこそ、直感やインスピレーションに従って生きる価値があるのです。

 

それには、少々の勇気が必要かも知れません。世俗から離れて、なおかつ世俗の中で生きる覚悟が求められます。世俗心は真実を隠蔽してしまう力があります。現代人の不幸は、世俗のものが、まるで津波のようにして次から次へと押し寄せて来ることです。ことに、須磨穂教が世界中であっと言う間に信者を増やしてからは、その傾向が一段と激しくなりました。

 

しかし、気をつけてください。須磨穂の国は、あなたを麻薬のように虜にします。自分で考える力を奪い、低次元のバイブレーションにあなたを誘って、機械の奴隷にしてしまいます。須磨穂の国の熱烈な信者となって、自分を奴隷にしてしまってはなりません。

 

あなたはあなた。そのことをもう一度考え直してみてください。一日の中に、静かに内観する時間を割いて、自分は誰なのか、自分がどう生きたいかを見つめてください。静寂の中に身をおけば、直感やインスピレーションがやって来て、あなたを手助けしてくれます。そのメッセージの方が、うたかたのように流れ行く情報よりも、あなたにとってどれほど大切なことなのか。

 

あなたをいつも見守り、お応援してくれている存在の期待に、今こそあなたが応える番です。

「祈り」の真髄

神社仏閣に行くと、たくさんの祈願札を見かけます。お正月には恒例行事のようにして祈願祭が行われますし、人々が皆、お賽銭を投じては手を合わせて祈りを捧げています。受験シーズンにでもなれば、合格祈願でたいそう賑わいます。私もかつては、意味も解らずに、単に人真似でそのようなことをしていました。手を合わせた向こう側に、霊験あらたかな何者かがおわすと信じていたのです。

 

けれども、これらの願いの一切合切を聞いていたとしたら、神様というのは大変です。忙しいだけじゃなくて、おそらく世の中はメチャクチャになってしまうことでしょう。色んな人の欲望が、一斉に噴き出して。入学定員が100人のところに200人の応募があったとします。その200人全員が合格祈願を出したらどうなるんでしょう? やっぱり100人しか受かりませんよ。だとしたら「祈願」というのは何なのでしょうねぇ。

 

ここで、何か変だな?と思わなくちゃいけませんよ。合格祈願ていどなら理不尽さをあまり感じないかも知れませんが、身内に生きるか死ぬかの瀬戸際にある人がいるといった場合や、大事故で生死が判らないという時に必死で無事を祈るといった場合であっても、これとまったく同じことが起こります。結局は、生きる人と死ぬ人に分かれるのです。

 

そして、願望通りの結果が得られなかった時には、「神も仏もあるものか!」と悪態をつきたくなるでしょうし、願望通りの結果となった時には、「ああ、祈りが通じたんだな」「私の祈りが聞き届けられたんだ」と思うのではないでしょうか? だとしたら「祈願」というのは何なのでしょうか。顕れる結果には、「祈願」とは別の力学が働いていることに、お気づきにはなりませんか?

 

「祈願」という言葉には、「祈り」に「願い」がくっ付いています。そのため、多くの人は、「祈り」と言えば「願い事」をすることだと無条件に思い込んでいます。自分の「願い」をなんとか実現させたいと思う。そのために、神仏のお力をお借りする。いま「お借りする」といったのは、ソフィストケートした言い方であって、実体は、自分の願望のために神仏を使ってやろう、という算盤(そろばん)ずくです。

 

スピリチュアル業界(?)に首を突っ込んだ人の中に、よく「引き寄せの法則」というものに引き寄せられている人を見るのですが、こんなものに引っ掛かっていてはダメです。その人は、いったい何を引き寄せたいのかな? 同じ波長が共鳴し合うというのは真実です。ですが、その「自分のために何かを引き寄せたい」という願望そのものが、エゴから発していることに気づきませんか?

 

ですから、私は常々こう言っているのです。「引き寄せの法則」を活用なさりたいならどうぞしなさい、と。でもおまけに漏れなくエゴもついてくるよ、と。

 

同じ波長が共鳴し合うというのは真実です。互いに引き合うと言ってもいいです。引き寄せると言っても間違いではありません。それは厳然たる法則だから。でも、(振動数が)高い波長でなければ、高い波長を引き寄せることは出来ませんし、低い波長は、低い波長どうしで共鳴し合うのです。

 

ですから「引き寄せの法則」という言葉に引っ掛かっている時点で、その人はスピリチュアル業界のエゴの戦略(ひとつ、これで引っ掛けてやろうという低い波長)の中に落ちている。それは、あなたの中に眠るエゴの部分が刺激され、共鳴したからです。逆なんですよ。天使や大師たちは、いつも応援したい人を探しているのに、自分たちを引き寄せるだけの高い波長を持った人がなかなかいないことにお嘆きなのです。

 

宇宙というのは法則です。宇宙全体が法則なのですから、なんぴとたりとも、この法則の下から逃れることは出来ません。「祈願」とは関係なしに、試験に受かる人と受からない人が生じるのも、「祈願」とは関係なしに、生き残る人と死ぬ人が出てくるのも、その背後に、人々が知らない、冷徹な「宇宙の法則」、つまり「真理」が厳然と働いているからなのです。

 

あなた方は、もういい加減に、先に述べたような迷信から脱して、その奥にある「真理」に目覚めなければなりません。それに、容易には受け入れらないのを承知で敢えて言えば、霊的世界から見れば、この世での生死など別に大した問題ではないのです。なぜなら「魂」は不滅なのですから。「魂」こそがその人の本質であり、死後もずっと生き続けるのですから。この世でいう生死は、ドアを隔てた入退室に過ぎないのです。

 

さて、真の「祈り」とは何かです。それは「願い」などではありません。いくら願ったところで、「宇宙の法則」に合致しないことは、実現のしようがないのですから。「祈」という字は、「示」ヘンに「斤」が付いたもの。「示」は「神」で「斤」は「近づく」。つまり、神に近づく行為が「祈り」です。では、どのようにして近づくのでしょうか。自分の波長を高めることによってです。これ以外に近づく方法はありません。

 

ここで、ピン!と来た方がおられるでしょう。そうです、「瞑想」と同じです。振動数の低い、物質界にフォーカスしている意識を滅して行くと、入れ替わりに、高い振動数を持った「魂」の意識が浮かび上がって来ます。すると、その振動数に応じた霊界のチャンネルが開かれるのです。「瞑想」は、この状態で、どちらかと言えば「受信」、「祈り」は反対に「発信」に徹したものと言っていいでしょう。

 

しかし、明確な区別はありません。要は、「瞑想」を「祈り」とし、「祈り」を「瞑想」とする感覚が大切です。これによって、あなたの、内なる宮が開かれる。つまり、あなたの社(やしろ)である人社が神社となるのです。

 

さてそこで、何を「祈り」とするのか、です。これは、あなたが理想とする世界です。この理想とする世界が、「宇宙の法則」に反しないものであれば、神々の応援を得て「魂」の意識世界の中にそれが実現されるでしょう。しかしもし「宇宙の法則」に反していれば、それは斥けられるか、修正を迫られるでしょう。

 

この「理想」は、あなたの「願い」ではなく、元々、そこに在ったものなのです。この違いが解りますか? つまり、「神の理想」が、あなたの中に想い出された時に、両者がつながるのです。神と、あなたの「魂」の中に宿している神の分身とが、共鳴した瞬間に。これが、「祈り」の真髄です。

 

そうして、あなたは、神の使徒の一人となる。その理想を、地上で実現するための、奉仕者として生きることを「祈り」の中に誓う。なぜなら、地上世界での実現は、地上世界に生きる者にしか出来ないから。

 

「祈り」とは、これです。世に蔓延する「祈願」などとは、いかに懸け離れたものであるかが、これでお解りでしょう。ですから、「祈り」を為すには、自分をどこまでも純粋なものに律しなければならないのです。そうでなければ、自分の波長を高めることは出来ない。高められなければ、上には届かない。そこで、いつも言っていることが大切になります。素直に、正直に、誠実に、無条件の愛をもって生きること。

 

それなしに、スピリチュアリズムの扉は開かれない。絶対に、開かれることはない。

「雑念」は出るに任せればいい

瞑想をしている時、何かに集中したい時、精神統一したい時、どうしても「雑念」が湧いて来る。それで「どうしたらいいでしょうか?」という質問をよく受けます。これも、日本式仏教の坐禅というものがもたらした弊害の一つだと私は思います。「雑念」を消し去ることが、高みに上るための必須条件だと、みなすっかり思い込まされているのです。

 

心を『無』にするなんてことは出来ない」の稿でも書いたように、「心」というものは絶えず動いていて、そうなることが当たり前なのです。なぜなら、「心」の本体は「魂」にあって「魂」は宇宙と繋がっているわけですから。そしてその宇宙というものは、始まりも終わりもなく永遠に変化し続けている。リンク元が常に活動しているのですから、リンク先であるあなたの「心」が動くのは当たり前です。

 

問題は動き方なのです。自転車に初めて乗った時のことを覚えていますか? ハンドルがフラフラしてスムーズには走れません。でもこのフラつきが起きないようにと、ハンドルを固定してしまったとしたら、走り出してもすぐに倒れてしまうでしょう。つまり理屈は逆で、スムーズに走れるようになった時には、いつの間にかハンドルのフラつきはなくなっているものなのです。

 

瞑想時に湧く「雑念」を、私はいつもスープを取る時のアクにたとえてお話ししています。肉でも魚でも、スープを取る際には、二度アクを取ります。最初はグラグラと煮る。するとアクが上に集まって来ますからそれを掬い取る。これは肉や魚の表面についた汚れです。この後、弱火にする。そのままグラグラ煮続けてしまいますとスープが濁ってしまいます。

 

そうやって弱火でフツフツと煮ていますと、今度は肉や魚の内側からアクが出てきますから、次にこれをこまめに掬うのです。このように、二段階でアクを取る。瞑想もこれと同じで、最初はワーッと「雑念」が出ます。でも出るに任せて放っておけば、そのうち出切って澄んできます。後は、弱火にして、時々掬えばいいのです。

 

およそ「葛藤」というものは、本来不必要な自己抑制から起きているのです。このチョットした盲点に気づくだけで、あなたは「自由」というものの本質にグッと近づくことが出来ます。

 

人間は、社会から、学校から、職場から、親から、宗教から、常識から、その他ありとあらゆるところから、「こうしなければならない」という刷り込みを受けています。これらはみな、あなたを縛る拘束帯となって、あなたを何重にも取り囲んでいるのですが、そこに完全に埋没しているために、それらが正しいと信じ込んでいる状態です。

 

あなたの「魂」は、もちろん「自由」の本質というものを知っているのですが、いま言ったような「理性」で縛られた「心」は、その「自由」を、「そんなことはあり得ないよ、許されないよ」と否定します。そこに、いつも「葛藤」が起こるのです。

 

これまでも、そして今後も、何度も何度も「直感に生きよ」と申し上げて来ましたが、「直感に生きる」とは、「魂」の自由に従うということであり、それがあなたを「解放」するただ唯一の道なのです。ところが口を酸っぱくしてそれを勧めても、大多数の人間はそうはしません。すぐにそれを否定する拘束帯をどこからか見つけ出し、自分を縛ることの方を選ぶのです。

 

「葛藤」とか「迷い」というのは、アクセルとブレーキを一緒に踏んでいる状態です。どちらも自分が起こしている。「直感」が「こうしたらどう?」と勧めてくれているのに、「いいや、リスクを考えろ」と「理性」がブレーキを掛けてしまう。逆の場合もあります。「直感」が「体を休めたら?」と勧めてくれているのに、「いいや、もっと頑張れ」と「理性」がアクセルを掛ける。

 

このように、今の地球人類を縛っている拘束帯というものは強烈なもので、そもそも社会の指導者層がいちばんそれらに洗脳された人々ですから、そこから脱するのは容易なことではありません。今日これをお読み下さった人であっても、おそらく99パーセントは、また自分を縛る生き方を選びます。

 

そして極々少数の、冒険心に溢れた人が、「じゃあ試してみようか」と「直感」に生きる道を選択するのです。そして、その人たちだけが「なぁんだ、こんなに簡単なことだったのか!」と理解する。「〈あるがまま〉ってこういうことだったのか!」と理解するのです。

心を「無」にするなんてことは出来ない

瞑想をする際の達成すべき心境として、「心を無にせよ」とか、「無心の心境で」といったことが、日本の禅宗系の仏教では説かれています。加えて座禅は、足の組み方や姿勢の維持についても口やかましく、これらが逆に、一般の人々をどれだけ瞑想習慣から遠ざけてしまう結果になっているかと、私は残念でなりません。

 

瞑想は難しいものではありません。ましてや「心を無にする」ことでもありません。心を「無」にすることなど、そもそも不可能です。何度も言うようですが、「無」というものは、概念上の世界でしか有り得ない。その有り得ないものを求めて、「無心になれない」ことで悩んでいる人の、なんと多いことでしょうか。これはまったく無駄な努力というものです。

 

瞑想に限らず、日本仏教のいけないところはそこで、頭で屁理屈をこね回し、その屁理屈を高みに置いて、有り難がって権威づけしし、宗旨宗派を誇り、家元制度を作って収まっている。こうしたものは、元々インドの言葉だった仏典が中国に伝わって漢訳され、日本人はこの漢訳を日本語に読み下して解釈するという学習方法を取ったために出来上がった悪しき習慣です。

 

このような狭量な考え方にいつまでも固執しているために、今や日本仏教は世界の孤児になっていると思います。インドは英国領でしたから知識人は英語を話します。ダライ・ラマだって英語を話して世界を飛び回っている。このグローバル化した世界の中で、東洋思想を探求したい人たちは、もう直接インドやチベットに行っている。そういう変化を日本仏教の人たちは解っているのかな?と思います。

 

それに、「真理」は一つです。一つでないところに「真理」は有り得ない。もし一つでないとしたら、それは「真理」とは言えません。ですから、国籍や人種や言葉の違いを超えて、「道」を探求する者は、必ずや同じ結論に、そして同じ領域に到達します。それは、古代から連綿と続く智慧が、みな同じことを語っていることによって、既に証明されています。

 

「魂」の世界に、国籍や人種や言葉の違いなどは関係ないのです。そんなものは、数多くの輪廻転生の中で、あっちに生まれたりこっちに生まれたりを体験しているに過ぎない。郷土愛を持つことは別に悪いことではありませんが、いま言ったことを下敷きにした上での郷土愛であって欲しい。そうすれば、争い事などは起きないのです。

 

ではなぜ、国籍や人種や言葉の違いを超えて、みな同じ結論、同じ領域に到達できるのでしょうか? 結局それを可能にさせてくれる手段が、「瞑想」というものなのです。一言で、「瞑想」とは何か? それは、宇宙の英知と繋がるチャンネルを開くことです。これはそんなに難しいことじゃない。心を落ち着かせてリラックスしている時には、すでにその扉を開け始めているのです。

 

ですから誰にでも出来るし、既に多くの人が経験を持っています。音楽を聴いている時、お風呂に入ってゆったりしている時、夢中になって本を読んでいる時、楽器を奏でている時、手仕事に没頭している時、そして大自然を前に息をのむ時、それらはみんな「瞑想」なんです。あなたのチャンネルが開いている。

 

その感覚を、今日から意識して見つめればいい。自分を信じて、自分のその感覚を尊重すれば、宇宙の智慧が少しずつ入ってくる。そして、いつとは言えませんが、自分は本当に宇宙と一体なんだと思える瞬間が訪れる。一瞬でいい、一瞬でいいから、その感覚を思い出してもらいたい。そしてそれを尊重してもらいたいのです。

 

宇宙というのは、始まりも終わりもなく、永遠に活動する「振動するエネルギー」です。あなたの「心(mind)」は、常にそこと繋がっています。ですから、もし「心を無にする」ことが出来たとしたら、宇宙の活動が停止しているということになってしまいます。そんな馬鹿なことは有り得ません。なぜなら、あなたも宇宙の一部であり、それを認識しているあなたは、まさに活動状態にあるからです。

 

月に1度行っている『瞑想サロン』で、瞑想中ずっと「考え続けてもらう」という実験を行ってみました。そして、その時に浮かんだインスピレーションをメモしてくださいと指示をしたのですが、メモする方は一人もいませんでした。全員が没入してしまって体を動かすことが出来なかったのです。結局、普段やっている瞑想と何ら変わりがないということを確認しました。

 

ですから、もしあなたが、「心を無にすることが出来ない」と悩んでおられるのなら、再度そんな悩みなど不必要だと申し上げたいです。足を組む必要もないです。寝転んでいて結構です。とにかくリラックスできる状態にして、瞑想中もどんどん考えてみてください。頭の中でブツブツと呟いてみてください。それでいいのです。宇宙は常に活動しているのですから。

ブロックを外すいちばんの方法

あなたに好物はありますか? それは何でしょうか? 私は第1位が十全茄子の漬物。死ぬ前にはこれとご飯をいただきたいです。その他、インゲンの天ぷら、シナチク、おぼろ豆腐、揚げ出し豆腐、蟹、サザエ、しめ鯖、鱧の落とし、鰊そば、若竹煮、etc. 。数え上げればいっぱいありますが、以前ほど欲望が働かなくなりました。今はもう、その時々のものが美味しく食べられればそれでいいという心境です。


好物は早く喰え。私はそう言っています。早くというのは、急いでとか、お膳の中でという意味ではなくて、年齢的に若い時期にという意味です。早い時期に好物の味を知ってしまえば、また食べたいというモチベーションが働いて、それだけ接触する回数が増えることになるでしょう? スポーツにせよ諸芸にせよ、一芸に秀でた人というのはみなそのようにして育っているものです。


霊的感覚というのもそれと同じで、理屈は後にして、早めに味わってしまった方がいいのです。

 

ですから『虹の学校』では、「瞑想」は誘導によってとにかく引っ張り上げていく。座り方がどうの、姿勢がどうの、呼吸がどうのとか、そういうことは口うるさく言わない。好物は早く喰え。先ずその味を体験しろ。ヴァイブレーションの知覚ということも、あの手この手で、先ず味わうことを試して貰うようにしています。


自転車に最初に乗れるようになった日を覚えていますか? とにかくペダルを漕げば、自転車には乗れる。これを、車体が左に傾いたらハンドルを右に修正して、な〜んて言っていたら、かえって乗れなくなってしまいます。いったん走り出せば、ハンドルの操作方法などは、自然と体が反応して覚えて行きます。その際、大切なのは、乗りたい、乗れる、と思うことだったはずです。


これと同じなんです。第六感を磨くのだって、自分が肉体を超えた存在であるということを肯定し、そういう自己を想像するところから始まる。分からない、出来ないは、そのまま自分に掛けるブロックとなってしまいます。そうではなくて、知覚したい、自分は知覚できる、そう強く思うことです。そして実際に出来るのです。なぜなら、あなたの本質は「魂」なのですから。

「瞑想」は頭をカラッポにすることでも、心を無にすることでもない
霊性開発のいちばんの手段は、何と言っても「瞑想」です。「瞑想」を習慣づける生活をすることで、あなたのチャンネルが開かれ、少しずつ、あなたはご自分が何者であったかを思い出していきます。こころ静かにできるこの体験は、充実した楽しいひと時であり、「瞑想」に親しむことによって、あなたの人生は何倍も豊かになります。

「瞑想」は、あなたが考えているほど難しいものではありません。実はあなたも、日々「瞑想」を行っているのです。それは、我を忘れて何かに集中している時、気持ちよさに心がフワッと浮いた気分になった時、インスピレーションがパッと湧いた時。これらはすべて「瞑想」のバリエーションなのです。

同じことを、これは「瞑想」なんだと意識してやってご覧なさい。その時から、あなたは「瞑想」習慣を自分のものにすることが出来ます。電車の中で、お風呂の中で、公園のベンチに座っている時に、いつでも少し意識するだけで、あなたは「瞑想」の世界に入ることが出来るのです。

「瞑想」習慣がとりわけ重要なのは、あなたがご自分の声に従うことが出来るようになることです。大多数の人は、自分の声に従うなど思いもつきません。そのため、いつも自分の外側にある情報を気にし、これに振り回され、自分自身を見失っているのです。でもそうではないということ。大切なことは全て自分の内側にあり、いつでもあなたはそこにアクセスできるのです。

あなたが友とすべきは、自分自身なのです。

「瞑想」を難しくしてしまったのは、ZENが、屁理屈をこねまわしてしまったからです。頭をカラッポにしなさいとか、心を無にしなさいとか。
これは「空」や「無」という、宇宙の成り立ちに関する概念を、無理やり「心」の状態に敷衍(ふえん)させてしまった結果の、誤解の産物なのです。

もし「瞑想」が、ZENが主張する通りのものであったとしたら、西洋には「瞑想」がないことになってしまいます。しかし実際にはそうではありません。古代エジプトから、もっと遡れば遥か以前から、「瞑想」習慣は、世界共通のものとしてあったのです。

「瞑想」状態に入っている時(ちなみに夢もそうですが)、人は肉体的存在であることを忘れています。その分、自己の本質である「魂」が浮かび上がって来るのですが、「魂」は思念が塊となったエネルギー体ですから、生命を謳歌して活発に活動しています。ですから、頭をカラッポにしようとしても、心を無にしようとしても、どだい無理なのです。

そうではなくて、「魂」の状態を遊ぶのが「瞑想」です。広義でいう「瞑想」は、その深度に応じて、リラックス → 集中 → 変性意識状態(狭義の瞑想)→ サマーディ(三昧)へと進みます。最終段階のサマーディだけは、到達するのがなかなか困難ですが、第三段階の変性意識状態までの移行は、それほど難しいものではありません。

ただし、その日の体調や、周辺環境によっても、意識状態は影響を受けるので、いつもいつも深い「瞑想」状態が得られるとは限りません。それを目標にしますと、未達の焦りが生じてしまいますので、気楽になって身を任せて、その瞬間を楽しむように心掛けてください。ちょっとしたリラックスならリラックス状態を、何かに集中しているのなら集中を楽しめばよいのです。

ZENのもう一つの悪い点は、「瞑想」を苦行にしてしまったことです。足を組んで微動だにしないように保つ。ちょっとでも動くと、パシッ!と警策で叩かれる。これでは、第一段階のリラックスに入ることすら困難です。

足を組む必要もないし、ソファーでもいいし、寝転んででもいいし、とにかく楽に親しんでください。苦行ではなく「楽行」でいいのです。むしろそうすべきなのです。
本当のあなたを発見するために。ぜひ「瞑想」習慣を楽しんでください。
「瞑想」を続けることで<本当の自分>を知る
先日、あるグループから依頼されて「瞑想」の手ほどきをしました。誘導瞑想で行ったのですが、覚醒したまま全く「瞑想」に移行できない人が3割ほど。残りの7割のうち深い変性意識状態にまで入れた人は全体の2割くらいでした。ほとんどが初めての人だったので、まあそんなものかも知れません。

もう少し時間があって、事前のガイダンスをじっくりできればよかったのですが適わなかったので、私としては成功率が低かったです。しかし個人的にはいくつかの発見があり、よい経験になりました。

さてその中で、事後にこういう質問を受けたのです。
「瞑想をしていると、何かいいことがありますか?」
もっともな質問です。核心をついています。しかし、そのときは答えに躊躇しました。どう言ったらいいか、咄嗟に答えが浮かばなかったのです。

普段でしたら、事前に「瞑想」することの意義はお話しているのですが、その時にはそれができませんでした。事後に言うにしても、一言でそれを伝えるのは難しい。なぜかと言うと「いいこと」の意味が、人によってみな違うからです。

その質問者が考える「いいこと」とは、どんなことなのでしょうか? もちろん、「瞑想」を毎日の習慣として行うことには大きな意義があります。それは、「瞑想」というものが、<本当の自分>を発見するためのほとんど唯一の手段だからです。

しかしそのように言っても、ピンと来ないでしょう。しかし逆に言うと、こうなります。ほとんどの人は、「瞑想」を習慣としていないので、<本当の自分>というものが分からない。多くの人が、分からないままに生き、分からないまま死んで行くのです。

「悩み」の一切は、<本当の自分>を発見できないことから生じています。もし<本当の自分>を発見できたとすれば、「悩み」はなくなるのです。
この関係を理解していただくのは難しい。たとえ頭で解ったとしても充分ではありません。それはやはり、「瞑想」を続けることでしか得られないのです。

あなたにとって「よいこと」とは何ですか? あなたにとっての「よいこと」が、他の人や社会や環境にとって逆に「悪いこと」になっていたとしたら、それは果たして「よいこと」と言えますか? ちょっと周囲を見回してみれば、こんな例はざらにあるのがお解りでしょう。

みんなが、自分にとっての「よいこと」を追求した結果、今の社会は「悪いこと」だらけになっているのです。結局それは自分に跳ね返ってきます。そういう因果関係を人々は知りません。それもこれも<本当の自分>というものが何かを分かっていないからなのです。

自分にとって「よいこと」が「よいこと」と考える段階から、自分にとって「よいこと」も「悪いこと」も共に「よいこと」だと考えられるようになるには、心境の一段の飛躍が必要なのです。さらに行くと、他者に「よいこと」を施すことが、自分にとって最上の「よいこと」だということも解ってきます。

しかしそのためには、もう一段の飛躍が必要です。そしてその段階に至って初めて<本当の自分>に気づくことができるのです。
道のりは遠いようですが、案外近いかも知れませんよ。しかし「瞑想」をし続けることが必要です。

ここに1時間の自由に使える時があります。さて、あなたは何に使いますか?

*求められれば、どこへ行ってでも「瞑想」の手ほどきをいたします。交通費をご負担いただければ、講師料は要りません。「虹の学校」のHPの「お問い合わせ」にメールフォームがありますので、ご相談ください。
インナーボディーの発見
ヨーガの聖者などが、よく「聖なるヴァイブレーション」などと言ったりしているのを本で読んだことはありませんか? 私も「いったい何のことを言っているのだろう?」とずっと疑問で、眉唾物だと思っていました。

それが瞑想を初めて6ヵ月経ったとき、突然、体が振動し始めたのにはビックリ仰天しました。「あ、これがヴァイブレーションなのか」と、そのとき初めて実感したのです。最初は地震かと思ったのです。しかし暫くすると、そうではなくて自分のインナーボディが振動しているのだと解りました。

正確に言えば、インナーボディが振動していることを「知覚できるようになった」と言うべきでしょうか。ともかくその身体的変化によって、フィジカルなボディとは別に、もう一つのボディ(つまり霊魂であるところのインナーボディ)が確かにあることを実感したわけです。

この体の振動は、瞑想を日常的に行っている方ならば、ほぼ共通して知覚する身体的な変化です。それが別に珍しいものではないと知ったのは、だいぶ後になってからです。瞑想を行っていない方でも、朝方起きがけのときに眼を閉じて、そのまま布団の中で静かにしていれば、もしかしたら振動を感じ取れるかも知れません。

こうして、自分のヴァイブレーションが感じ取れるようになってくると、しだいに気のエネルギーも知覚できるようになっていきます。私ていどの者でも、それくらいの変化は実感出来るようになりましたので、ちゃんと取り組めば、多くの人が同様の実感が得られるようになるものと確信しています。
「観想」による療法
密教の瞑想法には「観想」というものがよく登場します。英語では「imaging」と言うことになるのでしょうか?
要するに思い浮かべるということです。これは大変便利なもので、たとえば法要などを営む際になにか道具を忘れたとします。そうすると「では、観想で」ということにして、実際はないんだけれども「ある」と思えばいいんだと、それで済まされるのです。

腹が減っているけれども、目の前に食べ物が山ほどあると観想する。
お金がないんだけれども、金庫に詰まっていると観想する。
そうすると、実際にはないんだけれども「ある」‥‥
とまあ、そんなことはやっぱり起こりませんよね、凡人では。これはちょっと冗談。

で、この「観想」を体に用いるわけです。たとえば、「冷え」のあるところにイメージを集中して「温かい」と観想する。「重たいな」というところにイメージを集中して「軽くなったぞ」と観想する。
これが、けっこう効くのです。
特に慢性的な疾患の場合に、繰り返し行うことで少しずつ軽減して行きます。

若いころは「そんなものにどんな意味があるのか?」と思っていました。
ところが、「思念」がエネルギーの一種であることを知り、アストラル体レベル(魂の領域)に発生した問題には、アストラル体に直接作用するエネルギーが重要であることが解りました。
外科や内科的な治療を行っても、それは肉体レベルの話であって、アストラル体レベルには届かないのです。

これだけでは、いったい何のことを話しているのか、初めて聞く人にはチンプンカンプンでしょうが、とにかく、慢性的な疾患には「観想」の療法を取り入れていただきたいということです。