by Rainbow School
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宗教の和は成るか?

私の祖父は宗教家でした。山岳密教の修験道行者で、八海山を行場としていました。父は八人兄弟の次男で、幼い頃から寺(以前には本堂があったのですが今は消失)を継ぐように言われていたのですが、兵隊に取られてしまい、結局は医者になる予定だった伯父(長男)が後を継ぎました。そのような訳で、父は宗悦という宗教者の名を付けられ、その父から私は宗和という名を付けられたのです。

 

誰でも、自分に付けられた名前に、特別な関心を抱く一時期というものがあると思うのですが、私も〈宗の和が今成る〉という自分の名前については、ことあるごとに考え続けて来ました。父からは「名前負けしている(名前が立派過ぎて中身が追いついていない)」としょっちゅう言われ、「俺が付けたんじゃねぇ」と反発しましたし、自分の名が好きではありませんでした。

 

宗教的なものが大嫌いだったカミさんは、「宗」の字を毛嫌いし、生まれた息子には、「宗の字を付けたら絶対にダメ。宗ネームはあなたの代で断ち切ってください」と言うので、私はそれに従いました。息子の名は、自分の願望を押し付けるようなことはしないようにと、生まれた赤ちゃんに「どう呼ばれたい?」と聞いて、それを付けました。

 

「宗」という字は、ウかんむりに示と書きます。ウかんむりは家の屋根の象形で示は「神」ですから、この字は「家の神」を意味し、そのことから特定集団の信仰を表しています。ということで、その特定集団の教えが「宗教」ということになるのです。以前から、私は宗教的なものには強い興味がありましたが、けれども宗教にはどうしても馴染めないものがありました。

 

最近になって、その理由というものが、過去世との関係でようやく解って来たのですが、それは書かないことにします。とにかく「宗」の字がだんだんとイヤになって来たものですから、それに山をつけて(家を合わせた全体という意味がある)「崇」に変えてみたりしたのですが(でもこれ、タタリとも読むんですよね(´ρ`))、それもコダワリに過ぎないなと思い直して、元に戻したのです。

 

祖父の時代(明治、大正、昭和初期)には、宗教が必要だったと思います。今と違って、民衆の中に学識のある人というのは少なかったですし、疑問があったらキーワド検索をすればすぐに答えが得られるという環境もありませんでした。人々の悩みの主たるものは貧しさと病気であって、それに具体的に援助の手を差し伸べるものとして、山間の部落においては宗教が一定の役割を果たしたのです。

 

しかし今の時代は、宗教成立の前提となるもの(社会環境も、科学の進歩も、人々の学識も、悩みの質も)が大きく変わり、人々の精神的支柱、もっと言えば魂の支柱となるものが、もはや「宗教」では支えきれなくなっていると思うのです。

 

「宗教」は、物質世界を超えた Something を、信仰や預言や教義や戒律として人々に提示してきました。それは、無学な人が多かった時代、また科学が未発達な時代には仕方のないこと、むしろ必要なことだったと思います。けれども宗教は、同時に大きな弊害をもたらしました。それは、自分の頭で考えないようにさせるということ。つまり、人間をロボットにしてしまうということです。

 

宗教家は「信仰」の大切さを説きます。時に、「やっぱり信仰がいちばん大切ですか?」といった質問を私も受けることがあるのですが、「いえ、信仰は必要ありません」と答えると、その質問者はびっくりした顔をして、眼が空中を泳ぐのです。そりゃそうです。自分が昇って来た梯子を、いきなり蹴倒されたようなものですから。それで、呆れ返って去って行かれるわけですが‥‥。

 

信じて仰ぐ。私は、人類にとってこれは最悪な行動だと思っています。自分にはとうてい理解し難い、不可視、不可思議な現象については、もう信じて仰ぐしかないと、多くの人が考えているわけです。問題は、ではその「信じるもの」を誰が提供するのか、ということです。これが、教祖、教団、教義、教典になっている。でもなぜそれが、それのみが「信じる」に足ると言えるのでしょうか?

 

そこで、宗教者はこう言うのです。「ゴチャゴチャ言わんと帰依せい。あれこれ考えるヒマがあったら信仰しろ。他力におすがりするんだ」と。そこで、半信半疑のまま信仰の道に入る。そして、いったん入ると、周囲にも同じような人たちがいますから熱心になるし、理解し合える友だちが出来て救われたような気にもなる。そうして、ますます信仰にのめり込んで行く。

 

こうなるともう抜け出せません。「信仰」は自分を支える柱ですから、もしこれが倒れたら自分が自分でなくなるという恐怖が生じて来るのです。そこで、ただひたすら「信仰」に忠実であることを選ぶ。ところがその先には、避けては通れない関門が必ず待っているのです。その教団の霊的支柱(教祖や後を継いだ者)の死です。ここで、自分を支えていた柱がポッキリ折れる。

 

ですから、宗教教団というものは、その後の跡目争いを巡って、必ず内紛状態に陥り、担ぐ人を立てて、いくつかの宗派に分裂し、やがては互いを非難するようになります。シーアとスンニの争いもそれですし、日本のある大教団も今そうなりつつあります。いったい何のための「宗教」だったのか、「信仰」だったのか、という原点を、権力闘争の陰でみんな忘れてしまうのです。

 

これが「信仰」というものの恐ろしさです。自分で気がつくということをさせずに、他力にすがるようにさせる。それは他力のロボットになるということです。ですから、他力次第で、自分がいいように操られてしまう。今の世界を、混乱と破壊に陥れているものの元凶は、実にこれです。人々の「信仰」が、そして「信仰」の縄張り争いが、今の世界を破滅へと向かわせているのです。

 

「信仰」は、なにも宗教だけの世界とは限りません。資本主義、物質主義、拝金主義、グローバリズム、科学万能主義、国家主義、排他主義、その他もろもろ。あなたを信じ込ませ、自分の意識で気づかせないようにさせているものは、みんな「信仰」です。そしてこの「信仰」同士のぶつかり合いが、バトルロイヤル(battle royal)化してしまったのが、今の世界情勢です。

 

Love is blind.(恋は盲目)。無条件で「信じて」しまったら、人は盲目になってしまいます。どうして宗教どうしが争うのでしょうか? 宗教は、もともと、人々を幸福にしたいと願って始まったものではないのでしょうか? それが今、かつてないほどの殺し合いを、世界各地でまた始めているのです。

 

自分の頭で(あるいは心で、直感で)ちょっと考えれば、それがいかに矛盾したものであるか、愛の対極にある行為であるかはすぐに解るはずです。ところが、それすらも気づかせずに、人をロボットにしてしまう、殺人兵器にまでしてしまう「信仰」というものの恐ろしさ。そして、その恐ろしい行為を、みな「正義」だと信じていることの凄まじい狂気。

 

なぜこのようなことが起きてしまうのでしょうか? その原因は、各宗教が、自分たちの信じる「神」以外は「神」にあらずと、互いに主張し合うからです。これほど馬鹿げた、かつ矛盾した話はありません。なぜなら、「神」は万物の創造者であり、同時に被造物でもあり、よって一者であることは自明だからです。各宗教は、「家の神」と真実の「神」の、区別がついていないのです。

 

あなたも宇宙の被造物です。ですから全体の一員です。ということは、同時に創造者の一員でもあるのです。つまり「神」はあなたの中にある。あなたも「神」の一部なのだ。しかしこのことを、今まで、どの宗教も説いて来ませんでした。宗教は、「神」はあなたの外側にいると主張しました。だから、様々な神、我が神、我々だけを愛する神が創られたのです。そう信じる人間たちの手によって。

 

その結果、創られた神、人間が想像した神(想像神)どうしが戦うようになってしまったのです。これが、今の世界の現状です。私たち日本人にはとうてい理解し難いことですが、西洋社会ならびにイスラム社会においては、同じ中東より発した3つの一神教が、大衆の精神にあまりにも深く浸透しており、一神教であるがゆえに、互いの憎悪がますます酷くなって来ているのです。

 

このような中で、今後、宗教の和が成るのかどうか。和が実現しなければならないことは勿論ですが、そのためには、各宗教が「違い」ではなく「同じ」部分に気づく必要があるのです。果たしてそれができるかどうか。今まで他との「違い」ばかりを強調して来た各宗教にとって、それは180度違う展開になるわけですから、その宗教の解体につながりかねません。その勇気を持てるかどうか。

 

「SOUL」というのは、Singular Outflow of Universal Life の頭文字をとったものという説があります。魂というのは、全てであるものが個別化したものだというわけです。まさに言い得て妙。あなた方はみな、一つのもの(Univers には、宇宙という意味と、普遍的という意味があることに注意)から、物質的身体を纏うことによって、個別化したものなのです。

 

なぜ個別化したのか、それが鍵です。それを、よーく考えてみてください。ヒントはこの文章の中にすでに書かれています。あなた方は、大霊(神)と、個別の魂との間で、行ったり来たりするエレベーターに乗っているようなものなのです。上階(界)行きのボタンを押せば、一者に向けてどんどん融合して行き、下階(界)行きのボタンを押せば、どんどん分離が広がっていくのです。

 

重要なポイントは、各宗教が今どの階のボタンを押しているかということです。上階を押せば融合は深まり、下階を押せば分離が拡大する。個人においてもこれは同じです。あなたが上界行きのボタンを押せば、人はみな同じということに気づき、したがって融和と愛が深まっていく。でも下界行きのボタンを押せば、人はみな違うという意識が強まり、優劣と闘争意識が強まっていくのです。

 

けれども、もしあなたが、「神」は既にそれぞれの内にいるという真理を知ったとしたらどうでしょう? すべての人の中に「神」がいるのですから、最初から一つです。そこには分離はありません。最初から一つなのですから、改めて組織化する必要もないし、教祖、教団、教義、教典も、何も必要がないのです。あなたは最初から完璧であり、ただ在るだけで祝福されているのです。

 

実に簡単なことです。あまりに簡単過ぎて、今までほとんど知らされて来なかったのです。いや、知らそうとして来た人はいつの時代にもいたのですが、人々は、もっと有り難みのあるもの、権威のあるもの、自分が支配されることを求めるものですから、常にその声が無視されて来たのです。でも、人類はもう崖っぷちまで来ました。さあ、あなたはどうしますか? どうしたいですか?

21世紀、これからの神学

神様。

この言葉に、あなたはどんな思いやイメージを仮託されているでしょうか?

おそらく一人ひとりが微妙に違っているだろうと思います。

まさしく、Oh My God!(おお、私の神よ!)です。

日本人と欧米人とでも、きっと大いに違う。しかしハッキリ言えることは、誰も実際には「それ」を知らないし、解らないということ。

 

犬や猫は、日々神様を考えながら生きているのでしょうか? 鳥は、神様を拝みながらさえずっているのでしょうか? 花は神様に頭を垂れて咲いているのでしょうか? たぶん、彼らは彼らを生きているだけ。ただ、人間が失くしてしまった感覚はちゃんと持っている。それは “feel” 。宇宙を、自然を、その波動を感じながら、瞬間々々を彼らはただ生きている。

 

人間は “feel” の感覚を失った代わりに、「神」概念を創造しました。

感覚から思考への転換。

そう、それは「神」そのものではなく、頭で創られた「概念」なのです。

自分は誰なのか‥‥。自分が生まれた意味、生きている意味、存在することの意味が知りたくて。自分の上位にあるものを、人間は必要としたのです。

 

あなたは、お父さんとお母さんから貰ったDNAの合体なんだよと、現代科学は説明します。でも、自分の心はどうなんだと。今ある心は、どこから生じたのかと。DNAが〈私の〉心を創り出すのかと。だとしたら、この自分は何なのだと。まったく解らないことだらけです。その解らないことだらけの一切合切を、一挙に解決する手段、それが「神」概念の創造(想像)です。

 

しかし、こうも言える。あなたが、今日の晩ご飯のおかずを創る。編み物をして靴下を創る。会議に必要な資料をパソコンで創る。そうして創り出された一切合切の前には、必ず「こう創ろう」という意志がある。だとしたら、この自然、この宇宙は、どのようにして出来上がったのか。そこにも、必ず「こう創ろう」という意志があったはずだ。でなければ宇宙は誕生しない。

 

ごく自然な論理です。しかし宇宙物理学者の大半は、また科学者の大半は、その領域に足を踏み入れることを拒絶しています。その結果、ある日突然、「無」から宇宙が誕生したということにせざるを得なくなっている。ならば「無」とは何なのか。どうしてある日突然なのか、ということになってしまう。結局「無」も「神」と同様、人間が創り出した「概念」でしかないのです。

 

人間は、どうやっても、そこを超えられない。

あまりにも次元が違い過ぎて‥‥。

 

あなたはどうお考えでしょうか? 宇宙は、ある日突然「無」から生じたのだと思いますか? だとすれば、あなたもある日突然「無」から生じたということです。それとも、宇宙は、「こう創ろう」というなにがしかの意志があって生じたのだと思いますか? だとすれば、あなたも「こう創ろう」という意志から生じたのだということです。

 

突き詰めれば、そういうことになる。さて、あなたは、どちらが納得できるでしょうか? よりしっくり来るでしょうか?

 

後者のなにがし(某)、これを精神世界では、一般に創造主とか、第一原因と呼んでいます。第一原因というのは、そこを起点として、そこからさらに色々なものが創られたということで、その大本という意味から第一原因と言っています。

 

この創造主に当たるものに、人間は様々なアイデアを与えて「神」概念を創造したのです。まさしく「創造」主です。それを能力だと捉えた人は「全智、全能」という概念を与えました。また仏教で言う阿弥陀様はア(否定)+ミタ(量る)で、「無量(限りが無い存在)」ということを現しています。またこれに人格を与えたい人たちは、それを「父」とか「母」と呼びました。

 

映画などで、人間が「神様」役を演じた場合には、たいていは白髪で、長い顎髭を生やし、白い衣を着たお爺さんということになっています。間違っても韓流スターのようなイケメン青年じゃない。女性や子どもや赤ちゃんということもまずない。それは、人間がこうであって欲しいというイメージを、そこに仮託したからそうなったのです。

 

問題は、そのようにして一度「概念」を拵えると、人間がそれを信じ込むというところにあります。そこから「宗教」が生まれました。しかし本当は、誰もそんなお爺さんを目撃したわけでもないし、誰も「それ」が本当は何であるか、どうなっているのかを知りません。そもそも、理解することは不可能だと言うことです。人間は、先ずそれを認めなくてなりません。

 

しかし、自然を崇拝したいという気持ちは、日本人ならば大抵持っています。日本人だけじゃない。アメリカ大陸の原住民も、アボリジニも、ケルト民族も、そしてスカンディナヴィア半島にも、バリ島にも、ハワイにも、イタリアのグロッタ様式にも、そこには自然崇拝があったということが認められます。おそらく世界中にあることでしょう。

 

これは、今日の視点で考えると、「自然が恵みをもたらしてくれるから」という解釈がもっぱらですが、実はそれだけではないのです。自然というのは、先の論理で言えば、創造主の自己表現物に他なりません。「こう創ろう」という意志の具体化です。ですから、目に見える表現物を通して「神」を感じる、ということがあったのです。そして実際に、「それ」は感じられたのです。それが “feel” です。

 

あなたもきっと感じたことがお有りでしょう。静かな森の中や、神社の敷地内を歩いている時に、スーッと風が通り抜けたような感覚を覚える時が。あるいは、何か大きなものに包まれたような感覚になることが。ぜひ、この「感覚」を大切にしていただきたいのです。

 

今日では、多くの人が都会暮らしをするようになって、もうみんな、すっかり “feel” を忘れてしまいましたし、土地のお祭りだと言っても、様式化形式化した儀式をやって、あとは飲めや歌えやの宴会に成り変わってしまい、それでみんなが満足しています。でも、耳を澄ましてさえいれば、自然の後ろに何かがあることくらいは、たいていの人間ならみんな分かる筈なのです。

 

なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる(西行)

 

そして研鑽を積めば、高次元の存在と繫がることも、時に人間には知り得ないメッセージを受け取ることも出来るのです。そのことから、「それ(第一原因=創造主)」が何であるかまでは解らないとしても、少なくとも高次元の存在がいるということだけは、解る人には解る。そこで、この高次元の存在を、神道では神々と呼び、仏教では仏と呼び、西洋では天使と呼んだのです。

 

ですから、神々と、仏と、天使は同じものです。みな高次元にいる存在で、その実体は、いつも書いているように「想念エネルギー体」です。こう書くとありがた味が無くなってしまうかもしれませんが、この中には、純粋に想念だけで創られた存在も、転生を終えた魂から成るものあります。その括り方に各種があって、色んな名前をつけて、各宗教や民族がそれぞれに呼んでいるのです。

 

これを聞いて「えっ」と思う方や、反発を覚える方も、たぶんいらっしゃるかも知れません。しかし、今のこの、21世紀になって必要なことは、結局「みんな同じ」だと知ることです。宗旨宗派の様式を頑固に守ろうとすることは、結局、一つのとらわれに過ぎないのです。

 

高次元の存在たちに、自分たちが好きな名前を付けるのはいいとしても、それで縄張り争いをしたり、ひどい時には代理戦争までさせてどうするのですか? そんなものが〈高〉次元の存在だとでも言うのですか。えっ、そんな戦争大好きの存在が‥‥。本当の高次元の存在にしたら、はた迷惑以外の何ものでもありません。まったく人間が考えることといったら、訳が分かりません。

 

さて、いま見て来たように、一口に「神」と言っても、それが意味するものもイメージも、人それぞれであって、迂闊に「神論」を語るということは出来ないのです。みんな、それぞれの神〈概念〉を持っていて、共通するものを見出しにくいからです。しかし唯一「神論」を語れる分野がある。それが「創造主」についてです。

 

なぜならば、宇宙を創った、万物を創った、「こう創ろう」と考えた存在は、一つでなければならないからです。一つでなければ、辻褄が合わないからです。

 

仮に「創造主」が二つだったとしましょう。AとBです。すると、AからすればBが、BからすればAは、いったい何ものが創ったのかということになってしまいます。だって、自分が創ったものではないのですから。それはハッキリしているわけですからね。

 

これは大きな矛盾です。

結局のところ、AもBも、互いが「創造主」だと主張する根拠が怪しいということになって、AとBとを創ったもう一つの存在、Cがその上位に必要となります。こうして、行き着くところは、創造主は「ただ一つ」という結論に帰着してしまうのです。

 

それと、「創造主」を考える際に押さえておかなければならない、もう一つの重要なポイントは「被創造物」、つまり万物、宇宙との関係です。「創造主」が宇宙を創った、万物を創ったと。ここまではいい。しかし「創造主」と「被創造物」とを分ける考え方には、またもや大きな矛盾が生じてしまいます。なぜならば、「創造主を創ったのは誰か」という新たな大問題が生じるからです。

 

「創造主」がいるという発想は、宇宙が「無」から突然生じたとする荒唐無稽さを回避できる論理だったのに、これでは、「創造主」がある日突然、創造されたという、同じような話になってしまいます。これは変です。そこで、次のような結論に落ち着かざるを得ません。それは、「創造主」と「被創造物」とは同じである、ということです。

 

つまり「創造主」は自らを創った。そして今も創り続けている。これが、高次元の存在から教えられた結論です。きっと「えっ」と思われる方もいらっしゃるでしょう。これも荒唐無稽と言えば、荒唐無稽です。けれども、創造者と被創造物との関係はどこまでも続き、最後に留め置くためには、第一原因は、創造者と被創造物は同じだという結論に至らざるを得ません。

 

みなさんの周囲にあるものを見回してください。洋服でもスマホでもコーヒーカップでも結構です。今その形にあるものを創った素材というものが必ずある筈です。でもその素材も、何かを素にして創られているでしょう。そしてその素も、何かを素にして創られている。

 

このようにして遡っていくと、限りがありません。(実は、これが生命の意味でもあるのですが)これをずーっと遡っていった根本というのが、第一原因であり、この連続に終止符を打つためには、最後の最後で、創造者=被創造物という結論を導かざるを得ないのです。

 

これは、「時間とは何か」が人間には解らないのと同様、人知を超えた次元における結論です。しかし、高次元の存在(彼らは人間よりも、より第一原因に近い位置にいることに注意)が、そのように知らせてくれるのですから、我々としてはそれを信じるしかないのです。

 

「創造主」と「被創造物」とは同じである。「創造主」は自らを創った。自らのすべてを創った。よって、「創造主」を「神」と呼ぶならば、宇宙そのものが神であり、自然は神であり、木々は神であり、草花は神であり、獣や鳥や虫も神であり、あなたも神であり、私も神である。すべてが神である。言い方を変えましょう。どれもが神の一部であることには疑いがない。

 

たぶん、めまいを起こすような結論でしょう。しかしこれが、21世紀に、人間がどうしても知らなければならない新たな「神学」、真実の「神学」なのです。数千年、いや数十万年にわたって歪められて来た「神」に関する概念が、根本的に改められなければならない時が来ているのです。

 

全部が一つ、一つで全部。始まりも終わりもなく、ただ生命のいとなみが連綿と続いていく。あなたの思考が、あなたの行動が、そのまま神の一部になっているのだということです。

 

神は一つ。この論理は正しい。

けれども、長きに渡って地球世界を席巻して来た「一神教」は、今まで大きなゴマカシをして来ました。

 

一つには、「創造主」と「被創造物」を分けてしまいました。

その結果、神は自分の外側にあって手の届かない存在であり、その恩寵を得るためには、熱心に崇拝して祈らなければならないとしました。実に、これこそが彼らがもっとも嫌う「偶像」に他ならないのです。

 

二つには、善と悪とがあって、悪行は悪魔の仕業ということにしてしまいました。

これでは、二神論になってしまうのですが、そんな矛盾は無視して、悪を叩き潰すことが善になるという、まさしく独善的考え方を蔓延させてしまいました。

 

三つには、人間は不完全なものだから、戒律によって統御すべしとしました。

これが、人間から、人間にとってもっとも大切な自由を奪い、卑屈さを植え付け、神を頂点とするピラミッド構造の中で、上下関係と、支配被支配の関係を生む基となったのです。

 

すべては、教会や聖職者、そしてそれを政治に利用する者たちの手によって、自分たちの都合のよいように、宇宙の真理が歪められて来たのです。そしてあろうことか、真実を語ろうとして、その時代々々に登場したメッセンジャーたちに「異端」のレッテルを次々と貼っては、闇に葬り去って来たのです。

 

今の世の中を、そして世界を見てください。それが結果です。宗教の時代,魚座の時代の結果なのです。まさに「思ったことは実現する」です。「一神教」の人々は、自然崇拝を原始的と言って小馬鹿にします。でも、そうではないのだということ。自然こそは、神の表現物であることを、堂々と、論理的に、主張して欲しいのです。それが、日本人に課せられた役割です。

 

しかし、よくなったこともある。今は「異端」を堂々と語っても、「あ、こういう人もいたんだね」くらいなもので、命まで奪われるということは無くなりました。街角に出て話さなくても、インターネットで話せるようになりました。誰かに何かを無理強いされるということも無くなりました。勇気と決心しだいで、自分の想いのままに生きることが、充分可能な時代になったのです。

 

そこでみなさんにお願いしたいのです。この、今の時代のよい面を、大いに活用して、ご自身を輝かせて欲しいのです。宗教が今まで流布してきた教義などは、もういい加減に無視して欲しいのです。今さら宗教を学んで、何になるでしょう? 所詮はデタラメの上に構築されたフィクションです。もう全くの時代遅れです。宗教側もそれが分かっているからこそ、焦っているのです。

 

信仰も、戒律も必要ない。ましてや、独善に陥り、他者を傷つけることなどあってはならない。21世紀のこの時代にあっては、あなたの、自分の、直感を信じて欲しいのです。

 

誰にも頼むな、ただ自分に頼め。

 

あなたは、野の花と同じように、そこに存在するだけで既に意義があるのであり、どこまでも自由であって、ただ自分を、本当の自分を生きることが出来るのだということ。

そして、それこそが、同じく野の花と同じように、幸福に生きるということなのだと、気がついて欲しいのです。

「信仰」と「信念」に関して

これまで、私は反発を覚悟で、「信仰」も「信念」も〈持ってはいけない〉と書いてきました。一般的には、「信仰」や「信念」を持つことは良いこととされ、特に精神世界の一部では、その重要性が強調されています。それなのに、自分は「NO!」と言う。これは、何をもって「信仰」と言い、何を「信念」と言うかという定義にもよるのですが、今日はこのことについて、詳しくお話ししたいと思います。

 

先日、遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督の『沈黙』という映画を観に行って来ました。この題材は、スコセッシ監督が30年間も温め続けていたというもので、「神の沈黙」というテーマ、そして「信仰」という問題にどういう落とし所を与えているかに、私としては非常に興味がありました。けれども観終わって、やはりこのテーマは既に「終わっている」という感慨に至りました。

 

欧米社会というのは、キリスト教という一神教が極めて深く根付いた文化の上に構築されています。この感覚は日本人には到底理解できないもので、たとえば国会乱闘というものがある国は、日本と韓国くらいだと言われています。なぜかと言いますと、欧米では、国会というものは「神」の下に位置し、「神」に預かった場、という意識があるからなのだそうです。そんな神聖な場で、野蛮な乱闘などはあり得ないというわけです。

 

いま世界では、移民や難民が大きな社会問題となっています。実はこの問題の背景には「宗教」があるのです。どういうことかと言いますと、移民や難民となって移動して来る人々というのは、もれなく「宗教」を携えてやって来るのです。この新しく流入してくる「宗教」が、それまでその地にあった「宗教」が醸し出して来た秩序や雰囲気を脅かしてしまうわけですね。それで、欧米社会では排斥運動が沸き起こっている。(難民を作り出したのは欧米なんですけれども‥‥)

 

ところが日本人というのは、南米や北米やハワイその他へ移民しても、現地の宗教にあっさりと切り替えてしまうわけです。何が何でも神道を守り続けるとか、仏教の◯◯宗を守り続けるなんて人はほとんどいない。よく言えばもの凄く柔軟性がある。この、無節操に何でも取り入れてしまう特性は、日本人独特のものです。結局、日本人には「一神教」というものの感覚が解らないのですね。

 

ですから太平洋戦争中は、日本も欧米を真似て国家神道を打ち立て植民地に強制しようとしたのですが、結局うまく行きませんでした。天皇制も、そもそもは明治初期に岩倉具視らの使節団が欧米を視察した際、欧米社会において「一神教」が果たしている社会的役割と構造に気づき、その代替に設定しようとしたものだという研究が最近になって報告されています。

 

このように、欧米人にとって「一神教」をベースにした「宗教」は、正に生きていく上での基盤(fundamental:原理)になっているわけです。ですから、近代以降の今の世界に見られる混沌や混乱をどう解決していくかということを考えた時に、「信仰」というテーマをどのように超克していくかは、欧米人にとっては非常に大きな問題なのです。

 

‥‥とまあ思っていたのですが、『沈黙』という映画は、なんだか肩透かしでしたねぇ。スコセッシ監督があまりにも長期間温め過ぎて、時代変化に取り残されてしまったのでしょうか。期待されたアカデミー賞にも、ノミネートされたのは撮影賞だけ。作品内容的には、アメリカ人にもほとんど注目されなかったということなのかなぁ?

 

アメリカ社会に詳しい人の話を聞くと、アメリカでも今は教会離れがかなり進んでいるのだそうです。キリスト教にしてもイスラム教にしても、メディアで過激主義ばかりが取り上げられるのは、それだけ従来の「信仰」意識が弱まっているということの証左なのかもしれません。つまり、弱いボンドでは、人々を「宗教」にもう繋ぎとめられなくなっているということなのでしょう。

 

と、ここまでは前置きです。さて、冒頭で語った「信仰」と「信念」に関する問題を考えるに当たっては、先ず人間の「意識」というものに着目しなければなりません。私たちが普通「意識」という時には、漠然と、それは思考や感情や感覚などの「心」の働き全般のことだと捉えています。そしてその「意識」なるものは、自分が全てをコントロールしているんだと。でも本当にそうでしょうか?

 

あなたの心臓は誰が動かしているのでしょうか? あなたの胃や腸の蠕動は誰が命じているのでしょうか? 化学作用による栄養素の分解や、血液によってそのエネルギーを運ぶことの指令は誰が出しているのでしょうか? さらには、ふと訪れる直感やインスピレーション。これはあなたの脳が考えたものなのでしょうか? また眠っている時に見る夢は、どこからやって来るのでしょうか?

 

結局あなたの「意識」というものは、「心」の中にだけあるのではないということです。「意識」というものは多層構造になっているのです。あなたが普段、自分で考えたり感じたりしている「意識」は表に顕れている意識、つまり「顕在意識」です。これがいわゆる「心」と呼んでいるもの。でもその奥に、普段は隠れている「潜在意識」があり、そしてさらに奥には「深層意識」と呼ばれるものがあるのです。

 

*意識の多層構造については、2層に分ける考え方と3層に分ける考え方があります。また、各層の呼び名についてもいろいろな言われ方がされていますが、ここではあまり厳密に考えずに概念だけを把握してください。

「顕在意識」→「表層意識」「客観意識」、「潜在意識」→「無意識」、「深層意識」→「下意識」など。

 

さて、例によって梅干しおむすびを思い浮かべてください。芯に梅干しがあって、そのまわりにご飯層があって、表面に海苔が巻いてある。これで言うと、梅干しが「深層意識」、ご飯が「潜在意識」、海苔が「顕在意識」です。あなた方は、普段は「顕在意識」にのみフォーカスが当たっていて、これが自分の「意識」の全てだと思い込んでいるのです。つまり海苔しか食べていない!

 

ところが、タバコを吸う人や、甘い物が好きで止められないという人に聞くと、「無意識」のうちに手が動いていると言います。実際には「無」ということはあり得ないわけで、この名称はおかしいのですが、とにかく自分がコントロールしているという意識は「無」い。このように、潜在的な「意識」があなたを動かしているという場面も実は多々あるわけです。(ああ、やっとご飯にありつけた)

 

「心」とは何か? 「心」がどのようにして生じているかと言いますと、外部刺激に対する諸々の反応として起きる自覚的な「意識」、それが通常「心」と呼ばれているものです。

 

私たちは、外部情報をキャッチするための感覚器官(いわゆる五感)というものを肉体上に持っています。この五感がキャッチした刺激を信号に変え、神経回路を通して脳に送ります。脳はこの信号から、反射的に反応したり、感情を動かしたり、記憶と比較したり、類推したり、判断したりという処理を行って、その結果を瞬時にアウトプットします。それが「心」です。

 

つまり「五感」というものは、あなたの「心」の窓になっているわけですね。

 

このことは、あなたが、全て自分でコントロールしていると思っている自分の「心」が、実は外部刺激によって、逆に絶えずコントロールされているということを意味しています。現代人は、そのことを、それこそ意識していないだけではなく、外部刺激の流入に対してあまりにも無防備なのです。これが、現代人に特有の「心」の不安が増大している最大の理由です。

 

「心」の不安を埋めようとして、みんな眼を皿のようにして外部刺激を追い求めています。そこで、ますます「心」の不安が増大していくのです。なぜだか解りますか? 外からやって来るものは、所詮あなた自身のものではないからです。あなたの「顕在意識」をただ興奮させ、一時的な逃避に導いているだけだからです。

 

電車に乗った際には、周囲を見回してご覧なさい。ゾンビになってしまった人がいかに多いことか。

では逆に、このような始終めまぐるしく変わる外部刺激の不毛に疲れ、不動の「信仰」や「信念」を、この「顕在意識」と「潜在意識」の部分に取り入れてしまったとしたらどうなるでしょうか?

 

あなたは、特定の「信仰」や「信念」に感激して、それを意識に取り込みます。もうその他の外部刺激にフラフラすることはないので、「心」が定まったかに見え安心します。やがて、その「信仰」や固い「信念」を持つ姿こそが、本当の自分だと思うようになる。そして、そのような「信仰」や「信念」を持たない人間を、憐れんだり、蔑んだりするようになって行くことでしょう。

 

でもね、それは外から来たものなのですよ。凍えているあなたに掛けられた、いわば厚手のコートのようなもの。ですから、一度身につけたコートはもう手離せない。脱がされるのが、今度は怖くなる。そこでコートの襟をしっかり立てて、ますますギュッと身体に密着させて、風雪の中を歩いて行くしかなくなってしまう。これを脱ぐのには、もの凄い勇気を必要とするのです。

 

問題は、このコートが一種類ではないということ。「一神教」だと言いながらも、いろんなカラーがある。おかしいじゃありませんか? もし本当に「一神」なら色は一つのはずでしょう? それなのに、それぞれがみな、自分たちのものこそ真実、自分たちこそ本物、それ以外はみんな邪宗、邪教だと言い合って、あげくの果てに戦争までしている。いったい戦争をするのが宗教の目的なのか、と言いたいです。

 

だから、私は「信じちゃダメだ」と言っている。そう言っている私の言葉だって「信じちゃダメ」です。とにかく、一切合切「信じちゃダメ」です。

 

と言うと、あなたはご自分を凧の切れた糸、間違えた、糸の切れた凧のように感じてしまうかも知れません。でもご安心を。あなたの不動の本質というものは「深層意識」にある。つまりは梅干し部分です。「心」という意識ではなく、「魂」の意識にこそ、あなたの本質があるのです。そしてこの「意識」は、全智であるところの「宇宙意識」と常に繋がっているのです。

 

あなたはその「宇宙意識」の一員(member)だ。

そして、その真実を思い出すのが re-member 。

 

ですから、この「意識」を常に意識している者は、どんな人もみな等しく、「光」の道に向かって歩むことが出来るのです。人種や国籍や性別なんて関係ない。組織に所属する必要もない。師から師へと渡り歩く必要もない。法外な授業料を払う必要もない。神殿にぬかずく必要もない。苦行をする必要も、マントラを唱える必要もない。ただ自分の内側を見つめるだけでいい。

 

これこそが、今まで説かれなかった秘密。実は「秘密など何もない」ということが大いなる秘密だったのです。なぜかと言えば、この真理を知ってしまったら、宗教が成り立たなくなってしまうから。そこで各宗教・宗派は、それぞれが勝手なドグマを打ち立て、「信じなさい」「信仰に励みなさい」「固い信念を持て」「ついては、お布施もよろしくね」と言って来たのです。ここで、尋ねたい。

 

あなたは誰なのか?

 

名前? そんなものは単なるレッテルだ。◯◯株式会社 次長? おいおい、その肩書きが無くなったとしたらどうなるんだい? そうじゃない、あなたはいったい何者だと訊いているんだ。あなたはどこから来たのか? そしてどこへ行くつもりなんだい? さあ、どう答える?

 

自分を記録したということになっているアルバムを引っ張り出して来て、よくご覧なさい。そこには、あなたの両親が写した、幼少時のあなたが居るでしょう。確かに今の顔立ちと似た特徴もあるし、ホクロの位置も同じだ。でもそこに写っている人間は、今のあなたとはほとんど別人です。1年前の写真だって違う。でもあなたは、それを自分だったと思っている。

 

どうしてでしょうか? 姿形が変わっても、あなたに、そのように自分が連続していると思わせている something が確実にあるからです。その something とは何か? あなたの「意識」です。つまり、あなたの主体とは「意識」なのです。肉ではないのですよ。そしてこの「意識」は、今までも途切れずに続いてきたように、肉体の死後も続いていくのです。

 

中間生(いわゆるあの世)に帰っても、来世に誕生しても。梅干し部分とご飯部分の一部は繋がっていく。眼を閉じて、その連続を想像してご覧なさい。生まれて死んで、また生まれて、新しいことを体験してはまた死ぬ。そしてやり切れなかったことを反省して、「今度こそは」とまた誕生する。それが、あなたなんですよ。

 

さあ、もうお解りでしょう。

汝自身を知れ。さすれば全てが解る。

ということの意味が。

 

外部刺激を断って、静かに自分を見つめる。自分を知る。それは糸の切れた凧じゃないんです。それこそが大大大セーフティーネットに繋がっている唯一の道なのです。

 

だから、自分に自信を持ちなさい。自分を信頼しなさい。自分を敬いなさい。他者は結局は自分と同一なのですから、誰にでも誠を尽くしなさい。そして、もしそうすることを「信仰」とか「信念」と呼びたいならば、そう呼んでも構わない(実際、そう語っている本もあります)。でもそれは、世間で言うところの「信仰」や「信念」とは、全くの別次元であることを理解して欲しい。

 

それぞれが、「我こそ本物」と言い合いをしているようなものの、いったいどこに「真理」があるというのでしょうか? 人を選ばず、地域を選ばず、時を選ばず、いついかなる時代でも、永遠に通じる普遍性を有するもの。それだけが「真理」の名に価するであろうことは明白です。そしてそれは、すでにあなたの中にある! 行脚などする必要はなかったのだ。青い鳥だったのだ。

 

宗教の時代はもう終わりです。自信を持って、自分の内側の旅に出でよ。そしてあなたも、永遠の真理をつかむのだ。

「信仰」は「魂」の成長を足踏みさせる

私と縁のある方たちの中には、過去世で、熱心なキリスト教信者だったという人が実に多いです。そういう人はすぐに判り、修道院で暮らしていたという人もたくさんおられます。このような人は、宗教や信仰を否定している私のような者と出会い、反発心を抱かれる人も多いです。それでもなぜ、縁が生じるのか? そこが実に興味深いところです。

 

こういう方たちと出会うと、「キリスト教ってものは、まったく何てことをしてくれたんだ」と、つくづく思わされます。この人たちの不安や苦悩の原因の根本は、信仰心にあるのに、その信仰心というものを捨てられない。どう話をしようが、難攻不落で、こちらもホトホト手を焼いてしまうのです。(別に、落城させようと思っているわけではありませんが‥‥)

 

ではどうして縁が生じるかと言うと、私に接触して来る人は、すでにキリスト教は捨てているんですね。かつてはキリスト教を熱心に信仰していたけれども、今は止めてしまったという人がほとんどです。ですから「キリスト教では、どうもダメみたいだ」とは気づいているんです。ところが、過去の何回もの転生で、体に染み込ませてきた信仰心までは捨てられない。

 

今世日本に生まれて、この方たちは、キリスト教に代わる別の確たる「信仰」対象が欲しいんですね。それが自分に「安心」をもたらしてくれる筈だ、という期待感がある。でも私は、「それこそが《不安》の元凶であるし、何も信じるな」と言うわけですから、「いったい、この人は何を言っているのだろう?」と、反発心や怒りが沸いて来るのです。

 

別に、私は「神」を否定しているわけではないんです。ただ「あなたが思うような形では『神』はいないよ」と言っているだけなんです。「あなたの内側にいつもいるし、あなたはその一部でもあるんだよ」と言っているだけです。ところが、これが猛反発される。今までの「教え」の常識をひっくり返してしまうから。

 

「信仰」では、なぜ「不安」が消えないかと言うと、「信仰」というのは天上に掛けたいわば梯子段で、この梯子段を昇っていけば天上界に行けると信じているわけですが、同時にそれは、「万が一、梯子段がストンと倒れたらどうしよう」という「不安」を、奥底に内包してしまうことになるのですね。

 

その証拠に、信仰対象が人物であった場合(たとえば傑出した霊能者など)、その人物が死ぬと、信者はたちまち途方に暮れてしまいます。その結果として、次の信仰対象を求めて、血筋(世襲)を重視する派閥と、教義を重視する派閥とに分裂するというのがお決まりのパターンです。

 

このようなわけですから、一度「信仰」の道に嵌ると、しっかり握って離さないようになる。すると反作用から、「不安」もますます大きくなってしまうのです。実際、宗教界では、この心理を脅しによく使います。「いい? 離れたら、どうなっても知らないからね」と言って。ですから、いったん「信仰」に嵌った人が、それを手放すのには大変な勇気を必要とします。

 

私の家系は、300年続く修験道(山伏)の祈祷寺院で、祖父は超能力者であり大僧正でした。そこで私も、若い頃は仏教を学び、一時は「信仰」もしたのですが、最終的には捨てました。その時には、やはり勇気を必要としました。ですから、その当時の自分が、今の自分に出会っていたとしたら、やはり反発を覚えたと思います。

 

でも、何かを「信じる」ということは、そこで自分を、思考停止にしてしまうということなんですね。その先を考えなくていいので、楽かも知れませんが、でもそれは、「信じる対象」の奴隷になることを選ぶということなんですよね。それが果たして、「魂」が喜ぶことなのかどうか。そこをよく考えていただきたいと思うのです。

 

「魂」が、この世に肉体を持って転生して来る意味は、この世でしか出来ないことを体験し、それを通じて「魂」本来のあり方に、再び気づくことです。「魂」は元々あの世から来たものですから、「魂」自身は、外側の何かを「信じる」必要がないことも、自分が「神」の一部であることも、実はみんな知っているんです。

 

だから、ただそこに「気づく」だけなんですね。それがクォンタム・ジャンプ。「魂」の成長なんです。

解脱=「輪廻」完了の意味とは?

人は、完成された「霊性」の獲得を目指して、地上世界での体験を重ねるために、何度も転生を繰り返します。個々の「魂」は、宇宙の総体(すなわち神)のかけらであり、神は自らを変化・成長させるために、分身である「魂」を、地上世界に送り出します。個々の「魂」がどのような体験をするかは、すべて自由意志に任されているのです。

 

「魂」の中には、生まれたばかりで、物質世界の出来事にまるで幼児のように好奇心と欲望を募らせる者もいれば、やんちゃで、ちょっと悪さをしてみようかなという者もいます。そうかと思えば、体験をずいぶんと積んで来て、優しいお母さん、何でも受け留めてくれるお父さんのように進化した「魂」もいます。さらには、まるで長老のような智恵者だっているのです。

 

現在の地球人口は70億超。人口爆発が起きていることの背景には、転生間隔がどんどん短くなっているということもあるのですが、それだけでは、この数にはとても追いつきません。そこには、新しい、まだ未熟な「魂」が、この機会を狙って、大挙して地球に誕生して来ているということがあるのです。それほど、今回のアセンションは、宇宙にとって非常に稀な重要な出来事なのです。

 

その総体としての行方がどうなるかはさておき、個々の「魂」にとっての課題は、やはり自己の「霊性」の向上ということに尽きるのです。ですから、人類の未来がどうなるかといった予言には、あまり心を奪われないようにして、あなたは自己の研鑽にだけ励めばよいのです。それが目的で誕生しているわけですし、地上に何が起ころうと「魂」は永遠なのですから。

 

さて「魂」が、自己の「霊性」をしだいに向上させて行き、ついに目標としていたゴールに達しますと、その「魂」は、地上への転生を終えます。つまり「輪廻」が停止します。「輪廻転生」というグルグル廻る輪から脱したということで、これを「解脱」と言います。「解脱」した「魂」は、今度は霊界で、さらなる向上を目指すことになります。

 

若い頃、私は仏教を学んでいましたが、仏教徒にとって「解脱」というのは、修行の最終目標でした。しかし私は、そのことにどこか釈然としないものを感じていました。

 

仏教では、この世に生きることを「苦」と捉えるので、「輪廻」の終了は、同時に「苦」からの脱出を意味します。そうすると、なぜ「苦しみ」のために、わざわざ輪廻転生を繰り返すのか、ということになってしまいます。これを仏教では、自分で積んだカルマがそうさせるんだと説明しているわけです。

 

確かに、生きていることには「苦しみ」が伴い、人間観察をしていれば「輪廻転生」も「カルマ」の働きもその通りにあるということが解ります。でもこの三つを結びつけた論理は、どこか釈然としません。

 

この違和感は、後になって、キリスト教がイエスの教えではなく、仏教が釈迦の教えではない、ということを知ってから、ようやく解消されました。キリスト教では、生まれたことがそもそも「罪」なんだと教え、仏教では、地上で生きることは「苦しみ」ばっかりなんだと言う。しかし、それは言い過ぎというものです。

 

これらを強調することは、時に誰もが感じる、罪の意識や、生きることの苦しみを、組織宗教への吸引力とすることに大いに役立てられました。しかし一方で、地上世界には必ず出現する二元性の、ネガティブな面だけをあまりにも強く刷り込んだために、これが人々の潜在意識の中に、輪廻転生する度に、「縁」によって深く深く植え付けられてしまったのです。

 

今の世界は、こうした何代にも渡る刷り込みを受けてきた古くからの「魂」と、好奇心いっぱいの生まれ立ての「魂」が、混在して出来上がっているのです。さて、生まれ立ての未熟な「魂」に、凝り固まった宗教論理を吹き込んだら、一体どうなるでしょうか? 簡単に、狂信者が大量に発生してしまいます。これが、霊的観点から見た、今の世界の危うさなのです。

 

宇宙は一つです。全部が一緒です。A教もB教もありません。一つの「真理」のみが、普遍、かつ不偏にあるだけです。ある方向に分けて、こっちが正しいと言った時点で、それはもう普遍でも、不偏でも、不変でもないのです。今度のアセンションの機会というのは、このことを、いよいよ地球人が知るための時期として、地球時間で遥か遠い昔に設定されました。

 

「解脱」というのは、「苦」からの脱出ではありません。「苦」からの脱出とは捉えないでください。苦しむ必要など、最初からなかったのです。「解脱」の本当の意味は、楽しい世界、平和な世界、愛のある世界に入って行くということです。自分のふるさとである「光」の世界に帰るということです。

 

それは、意識を変えるだけで出来るのです。あなたが、毎日を楽しみ、平和と愛を、周囲に振りまきさえすれば。

いいですか、あなたは、そのために生まれたんですよ。

聖書、聖典類を絶対視しない

宇宙は永遠です。(永遠ということは、実は「無時間」ということなのですが)それゆえ、いつの時代にも偉大なるマスターが存在します。マスターは、天上の世界と地上の世界をブリッジする存在で、地上に暮らす人々に「宇宙の真理」を伝え、人々の霊的進化を助ける役割をします。

 

マスターはこのような役割を持っているのですが、同時に超人的な能力を有しているがために、人々からは崇められる存在となります。しかし一方で、そうした超人的な能力を危険視する人たちからは、迫害を受けることになります。彼らのよって立つ基盤を破壊する恐れがあるためです。そのためマスターは、めったに地上に姿を現しません。

 

さて、歴史を紐解きますと、宗教が成立した時代にも、多くのマスターが登場しました。この時代には、一般の民衆はまだ無学であったために、「宇宙の真理」を伝えるために、マスターは、数々の「奇跡(miracle)」を先ず見せざるを得ませんでした。これには仕方のない面もあったのですが、その結果、マスターを神格化して見るということが生じてしまいました。

 

実際には、マスターは「誰でもこう成れるよ」という手本を示しただけなのですが、人々はそうは見なかったのです。自分の内なる可能性としてではなく、外側に、崇め奉る信仰の対象を置いてしまったのです。こうして、組織化された宗教が誕生して行きました。

 

マスターが生きている間は、マスター自身が信仰の対象となっていたのですが、マスターが転化(地上でいう「死」)してしまうと、信仰の対象をどこに置いていいか、人々は途方に暮れてしまいます。そこで、宗教においては、開祖の死後は必ず二つの道に分かれます。ミラクルを起こせる能力は血統にこそ受け継がれると見る「血脈派」と、生前の教えを重視せよという「教義派」です。

 

イスラム教のシーアとスンナの対立も、元を正せばこれです。しかし、ミラクルを起こせる能力は、転生してきた「魂」の元のレベルにあるのであって、血統という物質的なものに遺伝するわけではありません。したがって「血脈派」は、幻想の中に子孫を担ぎ上げ、その権威を利用して実権を握るようになって行きます。

 

一方「教義派」は、開祖亡き後は、もう開祖を超える人間など現れよう筈もないだろうから、意識を転換して、開祖の「教え」を守って行こうと考えます。これは発想としては正しいのですが、組織化された宗教としては、ミラクルがないため吸引力が弱いのです。そこで、教義や言行録を成文化し、これに絶対性を付与して、開祖に代わる信仰の対象に仕立て上げて行くのです。

 

そうしますと、聖書、聖典類が、まるで憲法のようになって行き、聖書のこの言葉に照らして、この行為は間違っている、罪である、罰を与えなければならない、という発想が生まれて来るのです。組織化された宗教は、それを利用して、聖書、聖典類の内容を、自分たちに都合のよいように改ざんさえして行きます。

 

本来であれば、地上にマスターが降りたのは、人々に、自由と、自分の内なる可能性について気がついて貰うためでした。それが、組織化された宗教の登場によって、自由を奪い、自己の可能性に蓋をして、罪と罰に怯えながら生活する道を示すことに、変えられてしまったのです。まったくもって、マスターたちの嘆きが聞こえてきます。

 

聖書、聖典類には、確かにマスターたちのエッセンスが含まれています。けれども、いま申し上げた理由によって、これを絶対視してしまうことは、あなたのためにはなりません。聖書、聖典類に隷属してしまっては、元も子もないのです。あなたはあなたです。

 

そうではなくて、気づきの扉を開けるノックだと思って、こうした書物に触れていただきたいのです。あなたには、最初からすべてが与えられています。あなたは、最初からすべてを知っているのです。ただ、蓋をしていることに気づいていないだけなのです。ですから、ご自分の可能性を信じて、聖書、聖典類を上手に活用していただくことを願います。

夢や願いを叶えるために‥‥

20代、30代のころは、私も人並みに社会的な成功を夢見ていました。とにかく映画監督になりたかった。6歳7歳の頃に観た映画で大変な感動を覚え、自分も将来は人々を感動させる映画を創りたいと思ったのです。そしてそのための野心を燃やして必死の努力をしましたが、チャンスに恵まれませんでした。自分自身の心得違いもありましたが、くやしさで心が張り裂けそうでした。

 

いま考えれば、もっと別の役割が私にはあって、そういう願望が成就させられなかったのかも知れません。むしろ苦悩の方を多く味わわされました。しかし、もし望み通りの順調なステップを歩んでいたら、多くの「真理」に気づくことも出来ず、たぶん錯覚の中に生き続けただろうと思います。それは、私という「魂」にとっては、進歩がないことを意味していました。

 

スピリチュアル関連の書籍や講座には、「夢や願いを叶えるために‥‥」を謳うものが数多くあります。また宗教でも、願望実現を布教の目玉にしているところも多いです。これは、「波動の法則」や「直感」といったサイキックな働きを、願望成就のために応用しようというものです。それ自体は間違ったものではありませんし、実際に効力があります。

 

しかし、もっと考えなければいけないのは、その願望実現が「魂」の成長にとって、果たしてプラスになるかどうかということです。

 

私の友人に、FX(外国為替証拠金取引)にほとんど命を掛けているという人がいました。早い話が博打ですから、タイミングと決断を巡って「心」が激しく揺れ動く。彼いわく「もの凄い精神力を必要とする」ということで、その「心」をコントロールするために、彼はスピリチュアルなものを利用しようとしていました。

 

しかし、私から見ていますと、サイキックなトレーニングをすればするほど、苦悩を増しているようにしか見えないのです。これは、どこかがおかしいのではないでしょうか? 別に博打がいけないと言っているわけではありません。やりたい人は、おやりになればいい。問題はその先にあるものです。その経験をすることによって、いったい何を掴もうとしているのか?

 

彼だって「魂」が輪廻転生するということくらいは知っています。だとしたら、今度の人生で何を体験するのかということです。博打にともなうハラハラドキドキを超越することが、今の最大のテーマというでは、いったい何のためのスピリチュアルへの興味なのか? ある時期、共に学んだ友人として、ちょっと残念に思うのです。

 

インターネットの広告や、BSテレビのCMなどを見ても、若返りや、美顔や、一儲けの類いのものが実に多いです。そして、他ならぬ精神世界でも、「引き寄せの法則」とか「願望実現」といったことを謳って、その風潮に便乗している。そもそも、そうした願望の無意味さに気づかせることが精神世界の役割なのに‥‥。

 

夢や願いを持つことは、悪いことではありません。むしろ必要なことです。それがモチベーションや実際の行動を促す原動力になりますから。ただ、その先も考えて欲しい。人間の本質はあくまで「魂」にあるのですから、その願望実現が「魂」にとってどんな意味があるのか? いつもそれを意識して、行動していただきたいと思うのです。まあ、そういう私も、若い頃には解らなかったんですけれどもね。

「輪廻」は思想ではなくて観察結果
「輪廻」思想という言い方がありますよね。仏教学者でも、時にそういう言い方をされています。でも「思想」というと、そのような「考え方」があるといった意味合いで、本当は定かではないという建前に立っています。ある意味、腰が引けちゃっているわけですね。

ところが腰をグッと入れると、今度は「信じる」という話になってしまうので、それは学問的態度ではない。ということで、学者は「◯◯思想」とか、「◯◯主義」とか、「◯◯派」といった言い方にして、客観性をもって眺めているというポーズを取ろうとするのです。

でも違うんですよ。「輪廻」は思想なんかじゃない。観察結果の報告なんです。

夜空を見上げると月が出ている。毎日観察すると、一定の周期で満ち欠けを繰り返しているのが分かった。それは観察の結果です。それを「月の満ち欠け」思想とか、「月の満ち欠け」主義とは言わないでしょう? 「輪廻」はそれと同じなんです。

同じようなことで、西洋に「グノーシス(Gnosis)」というのがあります。これも「グノーシス主義」とか「グノーシス派」と言って、一つの「考え方」という位置づけにされています。でも「Gnosis」は、ギリシャ語で「智慧」という意味で、要するに「知っているよ」ということなんです。

何を? 宇宙の真理を。これも、観察結果で得た智慧なんです。

ただ、観察方法がちょっと特殊というだけです。通常の五感じゃなくて、六感、七感、八感を使う。ブッダが覚りを開いたといわれるのは、どういう瞬間だったでしょうか? 苦行を止めて菩提樹の下で瞑想をしている時に、人間の過去世を観察して、「輪廻」と「カルマ」の関係を発見したんです。自分の六感、七感、八感を使ってね。

「輪廻」のことは、それ以前にもバラモンから聞いて知っていました。つまり知識はあった。それを今度は自分で観察してみたら、確かにそうだと。しかもそれだけではなくて、「輪廻」と「カルマ」の関係まで理解した。さらに、宇宙の理法(dharma)までも理解した。それがブッダの覚りです。眠りからの目覚めです。

ところが、六感、七感、八感を使う技術というものを、殆どの人は知りませんし、また知ろうともしないですから、「覚り」を「悟り」に置き換え、観察結果を、頭でこねくりまわした「思想」なんだ、という風に置き換えてしまったのです。

そうじゃないんです。難しい屁理屈などいらないんです。六感、七感、八感を使う技術を磨きさえすれば、誰にでもそれが解る。解るんだから「信じる」必要はない。「信じる」必要はないから「宗教」は要らないんです。

この技術を持った人が、少数ながら古代から居て、その人たちはみな同じ「観察結果」を報告して来たのです。ですから、霊的知識というものは世界共通。東洋も西洋もないんですね。近年になってたくさん語られている臨死体験の「報告」も、殆ど同じパターンだというのは、それが「観察結果」だからなのです。

「信じる」のも止める、「思想」にするのも止める。ただただ、自分の霊性を磨けばよいのです。そこに、多くの人が気がついてくれるといいんだけれど。
日本仏教が誤解して来たもの
日本に伝わった仏教は、ブッダの教えではありません。これは学術的にハッキリしていることです。エッセンスを宿してはいるのですが、今日ではブッダが説いたものとは相当違ったものになっています。ところが未だにほとんどの人が、それを知りません。知らないまま、それがお釈迦様が説いたことだと信じて熱心に勉強しています。

別にそれがブッダの教えでなくてもよいのです。有用でありさえすれば。ブッダの教えであるかないかに拘ることは一種の権威主義であり、ブッダだって2500年前の人です。ブッダ以外にもマスターはたくさんおられますし、「真理」というものは、いついかなる時代、場所にも、普遍的に働いているものだからです。

ところが、ボタンの掛け違えのようにして浸透して来た日本式仏教が、もう役に立たなくなって来ているし、むしろ弊害を起こしているとさえ、最近になって強く思うのです。弊害の一つは、「お寺さん」という言葉が代名詞になっているように、仏教がすっかり、葬式と法事の専門請負人になってしまったことです。

ブッダが考えたことは、あくまでも「生きる」ことであって、その中に、いわゆる「死」の解釈の転換というものも含まれていたわけです。つまり、肉体の「死」は終わりではなく、「魂」は永遠であって、人は輪廻転生するということ。そして、なぜ輪廻転生するかについては、深い意味があるということです。

ところが日本式仏教は、葬式仏教に特化する中で、死を悼むとか、死者の霊を弔うとか、「この世」的な視点に立って「死」を考えるという、一般人が行う解釈に引き戻してしまったのです。そして肝心の輪廻転生を説かない。それは一般人ウケするために、商売としては良かったのかも知れませんが、死後の世界、霊的世界についての知識を、相当に歪めてしまいました。

ビッグバン理論が出てきた現在、素粒子物理学が発展した現在、超ひも理論が出てきた現在、大統一理論の完成が近づいて来ている現在、多くの臨死体験者が死後世界を語り出した現在に、未だに「西方浄土に阿弥陀如来様がいらして‥‥」はないだろうと私は思うのです。そんなファンタジーを、現代の人々が信用するのだろうか? 今の人々は、霊的世界の「真実」を知りたいんだと、私は思うのです。

弊害の二つめは、「生き方の智恵」が歪められてしまったことです。日本式仏教では、人生を先ず「苦」と考える。何より「苦」が前提となっているのです。ですから「苦」を乗り越える、人生の辛さを克服するのが悟りへの道だという解釈をする。これが、相当な廻り道を人々に強いることになったと思います。私自身、40年間の廻り道をしました。

この基になったのは、「四苦八苦」と「カルマ」の理論ですが、「四苦八苦」と「カルマ」の理論は、「生き方」を説いたものではなくて、ブッダが人間観察をした際のレポートだったと私は思うのです。「あなた方が感じている『苦しみ』の大本には、実はこういう原因があるのだよ」と、明快に示した。その上で、「生き方」を説いたと思うのです。

ブッダは、最初はバラモンに着いてヨーガを学んでいましたので、ヨーガの行法は体得していました。その上で、さらに苦行を行い、その後に三昧(サマーディ:深い瞑想)に入りました。ですから、よい行いを心がけること、肉体の健康法、呼吸法、心のコントロール法、瞑想行を指導したと思います。ところが、日本式仏教には、それらが殆どないのです。抜け落ちてしまったのです。

その結果、どういうことになったかと言いますと、「『苦しみ』を乗り越えるのが修行なんだ」という考え方を、「生き方」として推奨するようになってしまいました。ですから、今でも僧侶に「苦行」を課す宗派が多いですし、一般人もその延長として「苦しみに耐えれば、先に何かある」と思い込んでいる人が大勢いるのです。

しかしこの考え方では、「人生は大いに謳歌するものだ」というラテン系のノリの人は、けっして悟りには至れないということになってしまいます。そんな馬鹿なことがあるでしょうか? 「真理」というものは人類に普遍的な筈です。それにブッダは、「六年麻麦の行」をしたあとで、「苦行」を明確に否定しています。「苦行」に成果なし、という結論を出して、瞑想行に切り替えたのです。

ところが、そこが理解されていません。「六年麻麦の行」という前人未到の「苦行」をやったという凄さの方ばかりがクロースアップされて、「それを否定した」という事実と意味はスルーされているのです。その結果、「苦しみを乗り越える」という発想の上に、様々な形而上学的な理屈が幾重にもくっつけられて、それが「仏教」だということにされてしまいました。

でも、そういう考え方はもう要らないのではないでしょうか? 現代という時代に合わないと思います。霊的世界についても、古典や神話ではなく、人々は普遍的な「真実」を知りたいと思うようになっていると私は思いますし、同様に「生き方」についても、古典ではなく、現代にフィットした「真理」を人々は求めていると思います。

『虹の学校』は、そうした人々のお役に立ちたいと考えています。
今さら聖書研究などして何になろうか?
聖書・聖典類に、「宇宙の真理」の一端が表現されていることは確かです。今から2500年前くらいを皮切りに、今日「聖人」と言われる預言者が何人も現れて、それらの「聖人」が語った言葉や行動が、周囲の者たちの手によって記述され、それらの一部が聖書・聖典となりました。

その書物が、2000年の時を経て、多くの人に今も読み継がれて来たのは、ひとえに、それらが組織宗教を支える基本原理として位置づけられて来たからです。過去2500年間は「魚座の時代」。つまり宗教が花開いた時代で、それらの聖書・聖典類は、この時代の要請にぴったりと合ったのです。ここを、取り違えてはいけないのです。

「宇宙の真理」を語った言葉は、それこそ星の数ほどもあります。いついかなる時代にも、世界中にメッセンジャー(語り手)が居て、たくさんの言葉を語って来ました。その中には、注目されたものもあれば、素通りされてしまったものもあります。歴史の彼方に埋もれてしまい、「秘教」の位置づけに置かれてしまったものもあります。

そして今日でも、世界中にたくさんのメッセンジャーが居て、各々の活動をしているのです。みなさんはそのことを知って、今の自分にぴったりする言葉を、お選びになればそれでいいのです。どんな言葉も、今のあなたに響かなければ、それはあなたへの価値あるメッセージとはなりません。「響いた」言葉、それは元々あなたの中にあったものが、その瞬間に耕されたということなのです。

ここを、間違えないようにしなければなりません。しかし人間は、外に頼り、かつ「権威」に弱い。本当は「価値」というものは、自分が認めなければそれは「価値」ではない筈です。それなのに、大勢が支持するもの、大勢が認めるものを「価値」だと思ってしまう。そしてそれに従う。組織宗教は、その人間心理を巧みに利用し、そこに聖書・聖典類を位置づけたのです。

これが、今日に至り大問題となっています。言わずと知れた宗教対立です。各々が、自分たちが崇める「神」のみが正統だと主張し、「神」の名の下に戦争や殺戮や破壊を行っています。同じ起源を持つ宗教内ですら、派閥争いをするという愚かしさ。これらはみな、自分で思考判断することを停止し、「権威」に盲従するようにしつけられた結果なのです。

しかしここで、考えてみてください。「宇宙」は、昔も今も未来もあるのです。もしそこに「真理」があるとすれば、昔も今も未来も、それがあり続ける筈です。いついかなる時代でも、どんな世界であっても、どんな人にでも、普遍性を持つものだけが「真理」です。特定の時代の、特定の組織の、選ばれた人々にだけ作用するものが「真理」の筈がないではありませんか。

聖書・聖典類に、「宇宙の真理」の一端が表現されていることは確かです。しかし同時に、組織宗教が、自分たちの「権威」づけのために、内容を意図的に改竄(かいざん)したり、解釈をねじ曲げたりした部分もたっぷりと含まれているのです。それを知らないまま、「権威」に頼って盲従的にそれらを信じたら、本来の目的とは違ったところへ運ばれて行ってしまいます。

それと、今とは言葉が違うことや、当時の弾圧の影響下で、暗号によって書かれたものも多いのです。そうなると、その暗号を解きたいと思うのが人の常。しかしそこに「権威」が被さっていると、ある句を、人類の未来に関する重大な予言と解釈してしまう誤りが生じかねません。この悪影響が、もの凄く大きいのです。それこそ、世界を破壊しかねない。

これを読んで下さっているみなさんは、これからは一切の「権威」を無視して、ご自分の思考と判断で、数多あるメッセージを取捨選択し、読んでいただきたいのです。いかに「権威」ある聖書・聖典と言えども、みんな One of them に過ぎないと思っていただきたいのです。実際、そうなのですから。

いかなるメッセージにも、「権威」を与えてはならないのです。なぜなら、あなたにとってもっとも重大なメッセージは、すでにあなたの中に有るのですから‥‥。なにゆえ、外に頼る必要があるでしょうか?

「真理」は普遍的であり、普遍的なもののみが「真理」と言えるのです。ですから、いついかなる時代にも、世界中にメッセンジャーが居て、いつも「真理」の言葉を語っています。今、アセンションの時を迎えて、その内容も一段と濃くなり、多様性も増しています。

今までは暗号のように記述されていたことも、分かり易く示されるようになって来ています。情報革新は何もスマホだけの世界ではないのです。霊的世界でも、情報革新が急激な勢いで進んでいるのです。そのような時代に、何を今さら聖書研究でしょうか?

判じ物(謎解き)のように書かれた古代の書物を研究する時間があったら、今の言葉で書かれたものや、科学や、芸術や、自然に接する方がずっといい。なぜなら、それら全てがメッセージだからです。「権威」を崇める必要もなければ、「権威」に従う必要もありません。あなたは、もっともっと自分を信頼してよいのです。