by Rainbow School
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人類をコントロールして来たもの

今の世界情勢や国内政治を見ていて、何か「荒っぽさ」というものが、増々表面化してきたとはお感じになってはいないでしょうか。

 

ひとことで言えば、優しさや配慮が、少しも感じられないのです。政治家にしろ評論家にしろ、どの人も、仲間内と敵を峻別し、敵に対しては、目を吊り上げ、口から唾を飛ばして、容赦ない悪罵を投げつける。そうやって人々の感情を煽っては、特定のターゲットへ世間のバッシングが向かうように誘導しています。

 

これは身近な人間関係でも言えることなのですが、相手を自分のコントロール下に治めたいと思った場合に、相手がなかなか言うことを聞かないとなった時には、そのやり口が、だんだんと荒っぽくなっていくものなのです。

 

最初は対等な話し合い(‥‥のフリ)。次がお世辞やおためごかし。それでもダメだとなると、今度は脅しに転じる。そして最後は決まって暴力です。

 

今の政治や世界情勢を見てください。三番目、四番目が、あまりにも大っぴらに横行しているじゃありませんか。敵を設定し、脅威と恐怖を煽り、証拠もないのに相手を悪と決めつけ、正義の名のもとに一撃を加える。一体どっちが悪なのか?と聞きたいです。それを、本来は政治を監視する側でなければならない筈の大手メディアが、率先して誘導しているのですから。

 

けれどもこれは、見方を変えれば、これまでのようなやり方で人々を言い聞かせることが、もはや難しくなって来ている、ということでもあるのです。つまり、いま表れている「荒っぽさ」というものは、彼らの「心の焦り」を、そのまま映し出しています。

 

ここで、人間というのは(私も含めて)つくづく愚かだなぁと思うのは、「荒っぽさ」を出せば出すほど、その人間の本質、本当の姿というものがあぶり出されてしまうということです。人間たちの大半はそれに気づいていないし、ちっとも学習しようとしない。そして何度でも同じ過ちを繰り返す。

 

結局、自分の中に住むエゴという欲や、自分がつくる感情の支配から抜け出すことがなかなか出来ない。そのために、そういう「荒っぽさ」を目にした時に、簡単に同調してしまうんですね。要は「波長が合う」ということです。普段は取り繕ってスマしている人であっても、エゴや感情が刺激されると、隠していた本音がパッと出ちゃう。地位、名声、栄誉、財産、美貌、体重、まったく関係ない!

 

しかしここが、今という時代における分岐点、どっちを選ぶかという(あなたにとっても、また人類にとっても)重大な分かれ道なんです。あなたはどちらの道だって、自由に選ぶことが出来る。「荒っぽさ」が演出する道に乗っかって、一緒に着いて行くことも、それを完全に無視して、マイウェイを生きることも。さてどっちにします? どっちにしたいですか?

 

このブログを読んで下さっている方は、当然、後者を選ぶと信じています。何度も書いて来ましたが、あなたはご自分の幸福を、ご自分で選び取ることが出来るんですよ。朝、窓を開けたら今日は雨が降っている。その同じ雨降りを、「困ったなぁ」と思ってもいいし、「清々しいなぁ」と思ってもいいんです。どっちを選ぶかはあなた次第なんです。

 

ここで、よ〜く考えてみてください。「荒っぽさ」が目立つようになって来ているのは、権力者による、今までのような支配方法の維持が、いよいよ難しくなって来ているからだということを。

 

最も楽な支配。それは、それがコントロールだとは少しも悟られないようにして支配することです。そのためには、自分たち(支配者)は陰にひっそりと隠れていて、人々の心理を巧みに利用して、社会システムによってコントロールしていく。そうやって、人々が、自ら進んで、自分に手枷足枷を嵌め、喜んで奴隷になるように仕向けていくのです。

 

ですから、よもや自分がコントロールされているとは、殆どの人は気づかない。この盲目の状態に、ちっとも目覚めない状態に、人類は数万年もの長きに渡って、延々と留め置かれて来たのです。

 

そのための人間心理を操る手段となったのが、恐怖と、洗脳と、依存です。人類は、何度も何度も転生を重ねる中で、時の為政者から、絶えずこの三つを繰り返し刷り込まれて来ました。その結果、今ではこれが、DNAにすっかり刻印されてしまったのです。

 

恐怖と、洗脳と、依存。そう聞いて、まっ先に何を思い浮かべるでしょうか? そう、宗教です。恐怖の予言をし、教義で洗脳し、教団や聖典に依存させる。この三つは宗教の常套手段。だからこそ、各時代の政治は、宗教を取り込むことを覚えたのです。その方が、だんぜん統治がしやすかったから。言い方を変えれば、コントロールしやすかったからです。

 

こうして、政治は学びました。外敵の侵略や、テロや、災害や、パンデミックや、お金のないことや、病気になることの恐怖を植え付け、学校と、会社と、マスコミを使って洗脳し、自分で考える力を削ぎ、金融や、医療や、インフラや、専門家や、支援というものに依存させる。このようにして人々は、まったく気づかないうちに、権力者の思う壷となり、奴隷にさせられているのです。

 

それで、何が犠牲となったのでしょうか?

 

人間が、自分を信頼するということを、すっかり忘れてしまいました。人間同士が信頼し合えるということを、すっかり忘れてしまいました。本来、自分は自由なんだということを、すっかり忘れてしまいました。生きているだけで幸せということを、すっかり忘れてしまいました。いつも大いなるものに抱かれ、守られているということを、すっかり忘れてしまいました。

 

いいですか、もう一度、言いますよ。あなたは、あなたの幸福を自由に選ぶことが出来るんです。

 

ところが近年になって、これまで長きに渡って人類を支配し続けて来たこのコントロール・システムに気づく人が多くなって来たのです。これには、インターネットによる情報革命と、みなさんには分かりにくいかも知れませんが、宇宙から届く光が非常に強くなってきて、今まで隠れていた闇が、光に照らされるようになったことが、大きく影響しています。

 

世界を支配する、いわゆる「闇の勢力」の本丸がどのようなものであるかを、今日では多くの人が知るようになりました。「お金」という人類支配ツールの実権が、この「闇の勢力」に握られているというカラクリも、多くの人が知るようになりました。過去の戦争がいつも「闇の勢力」のシナリオで起こされて来たことや、医療やマスコミや教育が、これら「闇の勢力」の完全な支配下にあることも知られるようになって来ました。

 

要するに、世界は、そして人類は、「闇の勢力」が描くお芝居の脚本の上に成り立ってきたということです。これには、理解に温度差がありますので、首を傾げる人も、反感を抱く人も、解っているよという人も、さらにもっと先の意味まで解るという人までいろいろでしょう。しかしここでお願いしたいのは、みなさんには、この「闇」を暴くことや、糾弾することに夢中になって欲しくないということです。

 

日陰を好む生き物に強い光が当たれば、彼らはそのままではいられません。放っておいても、その場を逃げ出すか、自分自身が光を好む生き物に変化するしかないのです。みなさんが暴くことや糾弾することに夢中になると、その日陰に同調することによって生じたエネルギーが、彼らに元気を与え、勢いづかせることになるのです。もちろん、あなたの波動も著しく下がります。

 

いま世界中で、破壊衝動が止まずに、むしろエスカレートしていっている背景には、それがあるのです。「テロを撲滅するために闘う」と言う。でも後ろに付けた「闘う」、それは暴力ではないのでしょうか? 暴力に、良い暴力と悪い暴力があるのでしょうか? あるとしたら、それは誰が決めるのですか? こんな馬鹿げた発想が、今も人類を支配しているのです。

 

「平和ボケ」とか「危機意識がない」などと言う人間たちのことは、無視しておしまいなさい。彼らは知らないのです。自分たちこそが、いちばん恐怖に洗脳され、コントロールされたロボットになっているということを。ロボットですから自由に生きることは出来ず、自由に生きようとするものを妬み、自分の方が優れていると錯覚して、揶揄したり攻撃したりして来るのです。

 

そういう彼らの内心は、混乱そのものです。

 

そんな彼らに同調することなく、あなたはあなたの理想を想い描き、そして行動してください。出来ることをやりなさい。個人としての理想、夫婦としての理想、家族としての理想、コミュニティとしての理想、社会としての理想、人類としての理想、生き物としての理想、地球としての理想、宇宙としての理想。それを鮮やかに、心の中に思い浮かべなさい。

 

混乱した時代だからこそ、それが今、何よりも大切なのです。集合意識のことは前に話しましたね。人類というものは、つまるところ個人の集合なのです。あなたが自由に生きたいと願い、自由に生きれば、そしてその楽しさ、嬉しさを表現すれば、そのメッセージが周囲の人々にも伝わります。そして、自由に生きる人が増え、人類をロボット状態から開放します。

 

ですから、人類の命運は、ひとえに、あなたの生き方に掛かっている。

 

何ゆえ、あなたが、この地球世界に生を受けたのでしょうか? ロボットになるためでしょうか? 恐怖と洗脳と依存にコントロールされるためでしょうか? そんなことのために、わざわざ神があなたを創ったとお思いですか? そんな馬鹿げたことを神がするとお思いですか? あり得ません。あなたが地上に生まれた目的は一つ。魂の赴くまま、自由に生きて、体験し、愛を知るためです。

 

世の中に蔓延する嘘や策謀を見抜きなさい。そして、それらの混乱した情報を発信している人たちを、まだロボットの段階にある人たちだと、正確に見てあげて、愛の波動で、その束縛を溶かしてあげなさい。世の中の混乱は、すべてカルマの浄化の現れです。増々混乱する時代だからこそ、あなたには、愛に生きて欲しいのです。

「炎上」のそばには近づかないようにね

「炎上」というのは炎が燃え上がることですが、インターネット用語としてこれが使われ「サイト管理者の想定を大幅に超えて、非難や批判、誹謗、中傷などのコメントやトラックバックが殺到すること」に用いられています。別の言い方で、「祭り」ということもあるようです。どっちにしても、あんまりいいネーミングじゃないですねぇ。

 

専門用語というものは、どんなものにしろ、知っている者しか知らない、ある種の閉鎖性(それが仲間意識や優越感を抱かせたりもする)を持つものですが、その囲い込みの方向が、ネットの世界ではみんな汚いというか、ちょっとヒネくれた方向に流れて行きます。「炎上」とか「祭り」とか「フルボッコ」とか「ワロた」とか、ネットで飛び交うこういう言葉づかいのセンスは、私は大嫌いです。

 

「炎上」行為に参加する人は、それが楽しくてやっているんでしょうけれど、本人が全く気づいていない、実はもの凄い悪影響があるんですよ。それは「炎上」させている相手に対して、ということだけじゃありません。やっている人が、自分自身に対して、一つの牢獄に押し込めた上で、自傷行為を行っているんです。その恐ろしさを知らないんですね。

 

自分とは考え方がちょっと違うからと言って、匿名性をいいことに、特定の人に、なぜそれほどまでに悪罵を投げつけたりするのでしょうか? そこには、自分を誇示したい、勝ち誇りたい、やっつけてやりたい、自分の下にひれ伏させてやりたい、という単純で未熟な欲望が火を噴いていて、そういう人たちは、その感情をコントロールできないのです。

 

しかもその発端は、ちょっとした考え方の違いや、誤解・曲解から生じている。要するに、自分自身の「観念」と衝突したと感じた瞬間に反応している。これは何を意味しているでしょうか? 自分の「観念」にすっかり嵌っていて、なおかつ感情をコントロールできないのです。そして、縁もゆかりもない人に、憎悪を燃やしてネット上でこき下ろす。

 

こうした感情が、「炎上」のたびに集合意識となって膨れ上がり、その思念の塊がパワーを持って、同類の人をまた惹きつけるのです。

この状況は、何かに似ているとはお思いになりませんか?

 

ピン!と来た人は凄い。そう、幽霊ですよ。地獄をさまよい歩く不成仏霊です。「観念」の虜になって、自分ではそれに全く気づかずに、ただ憎悪をぶつける相手を探し、目をキョロキョロさせながらさまよっている。まるでそっくりじゃありませんか。

 

死霊と生き霊の違いは、ただ肉体を持っているかどうかということだけです。現代社会では、生きながら不成仏霊になりたい人がうじゃうじゃいるのです。「炎上」が創る空間はまさに地獄で、その地獄を好む生き霊たちが、類は友を呼ぶで集まっては、ゲラゲラと高笑いをして「ああ楽しい、愉快だ」と言っている。

 

これが、その人の「魂」にとって、どれほど有害なことであるかは言うまでもありません。無智とは、本当に恐ろしいものだと思います。

相模原の事件に際して

相模原で痛ましい事件が起きました。この件で、どのような報道がなされているかを私は知りません。けれども、日本障害者協議会代表の藤井克徳氏が、犯行を行った人物は、ナチス・ドイツが行った「T4作戦(独: Aktion T4)」のことを知っていたのではないか、という指摘をされております。


「T4作戦」というのは、ナチス・ドイツで優生学思想に基づいて行われた安楽死政策のことを言います。「T4」というのは通称で、安楽死管理局の所在地がベルリンのティーアガルテン通り4番地にあったことから、第二次世界大戦後にそう呼称されるようになったそうです。


ナチス・ドイツがユダヤ人を虐殺したことは広く知られていますが、それに先立つ1939年10月(ドイツ軍がポーランドへ侵攻した直後)から、この作戦が開始され、推定では20万人以上のいわゆる障害者が亡くなったとされています。この際の一連のプロセスが、その後のユダヤ人虐殺にも応用されて行ったのです。


「T4作戦」のおぞましさは、一つには「ダーウィニズム(Darwinism)」から派生した「優生学思想」に基盤を置いていることです。「優生学(eugenics)」の父と呼ばれるフランシス・ゴルトンは、人の才能は遺伝によって大部分が受け継がれるものであって、家畜の品種改良と同じように、人間にも人為的選択を適用すれば、より良い社会が形成できると論じました。


これが、「民族の血を純粋に保つ」というナチズム思想に取り入れられ、二つめとして、民族の血を劣化させる「生きるに値しない命」 は、根絶するべきであるという「T4作戦」の具体化に繫がったのです。「生きるに値しない命」とは、生産することも、兵隊になることもできない命という意味でした。


この安楽死政策は、ヒトラーの秘密命令によって法律もなく始められ、当初は法務省も事態を把握していませんでした。しかしこれが明るみに出ると、2年後にヒトラーは安楽死の中止を命令します。ところが、三つめとして、精神病患者の収容施設などでは、その後も医師や看護師による患者の殺害が継続されたのです。


この事実は、もはや国家の統制を失ったという意味で「野生化した安楽死」と呼ばれています。今度の事件の犯人は、より良い社会のためには、「生きるに値しない命」は抹殺すべきなんだと考えた。まさに、これはナチス・ドイツの「優生学思想」を彷彿とさせるものです。


さて、私自身は「障害者」という言葉があること自体が嫌いです。世の中には「障害者」などいないと思っていますし、逆に人間は全員が「障害者」だと言ってもいいと考えています。確かに、五感や四肢の機能に特別な不自由さを感じている方はおられるでしょう。しかし、この境界を越えたら「障害者」で、それ未満は「健常者」だという、今の常識には違和感を覚えます。

 

仮に、オリンピックの選考基準をクリアできる身体能力の持ち主のみが、身体的に「正常」だという基準を設けたとしましょう。すると、この基準に達しない者は全員が「障害者」ということになってしまいます。何を言いたいかといえば、能力というものは相対的なもので、基準は恣意的なものに過ぎないということです。それなのに、「障害者」に等級まで設けて認定行為を行っている。


「障害者」差別を失くせ、と人は言います。けれども、レッテルを貼るから区別が生じ、区別が生じるから、差別が生じるのです。ある一定基準によってグループ分けをし、保護することは、それ自体がすでに「差別」なのです。今の社会では、「保護」や「支援」の名の下に、こうしたレッテル貼りが蔓延し常識化している。こうした風潮にこそ、私はそら恐ろしさを感じます。


「優生学思想」の決定的な誤りは、人間を物質としてしか捉えていないところにあります。社会にとって有用であるべき優秀な個体は、遺伝の操作によって生み出せると考えている。まさに「物」です。


しかし、そうではありません。肉体というのは乗り物であって、その生命の本質は、あくまで「魂」にある。そして「魂」は、完成を目指して何度も輪廻転生していくのです。その一つの人生における肉体は、輪廻転生という長大なドラマの中の、わずか一つの選択に過ぎないのです。


わけあって、今世はその肉体を選択した。しかしそれは、多様な生命の表現における「個性」に過ぎません。優秀とか劣等というのは、人間が人為的な基準によって(たとえば兵隊になれるかどうか)勝手に決めていることであって、「生命」そのものには優劣などないのです。「生命」は、ただ連続して運ばれるだけなのです。


ですから、すべての「生命」には存在している意味があるのです。あなたにも、そして別のあなたにも。あなたは、自身だけではなく、周囲の人々にも、その「個性」が存在していることを通じて「意味」の気づきを与えているのです。このようにして、すべての「生命」が、互いに意味を分かち合っているのです。


棒を一本、横に置いてみてください。左端と右端があります。左は右があるから左であり、右は左があるから右でいられるのです。でも左側が邪魔だと思って、半分から左側を切り落としてしまったらどうなるでしょう。残った右側に、やっぱり左が生じるでしょう。これは棒磁石でやっても同じです。切った端には必ずS極とN極ができる。

 

これが陰陽二元性の法則です。陰中陽、陽中陰と言って、一見、陰極性、陽極性を表現しているものにも、必ず反対の要素が含まれている。陰陽太極図の中の、白黒を反転した小さな丸は、それを表しています。


お解りでしょうか? 「物質」だと見なしている人間の一部を、いくら排除したところで、「魂」は輪廻転生します。前世までにこしらえたカルマを、解消するチャンスを与えられた肉体を、自ら選択して。そこには、その人だけでなく、その人と関わる周囲の人々にも、ある学習のチャンスが与えられているのです。


このようにして、「生命」というものは、宇宙の下にまったく平等にあるのです。この普遍的「真理」を知らない限り、いくら倫理や道徳といった人間社会のルールを持ち出したところで、人間社会で起きる矛盾を乗り越えることは出来ません。いつも言っているように、その「観念の枠組み」そのものからのジャンプが必要なのです。


自然界に、なにゆえ、これほど多種多様な「生命」が存在すると思われるでしょうか? 植物が動物を育み、動物が排泄物を出し、その排泄物をバクテリアが食べ、無機塩類と二酸化炭素に分解し、これが植物を育てる。すべてが完璧です。すべての「生命」が相互依存によって成り立っている。意味のないものなど、一つもないのです。


これが「生命」の尊重ということの真の意味です。あなたには、生きていく価値があり、同様に周囲の人たちも、みな生きていく価値があるのです。あなたは私であり、私はあなたでもあるわけですから。

恐ろしい予言をしてくる元は低次元の存在

世を震撼させるような事件が起こる。すると、人々の関心は一気にそちらへ向かいます。そしてこの期を逃さんとばかりに、マスコミは、事件の詳細や、背景や、心理的な分析を試みる報道を加熱させていきます。その事件の賞味期限が切れて、人々がもはや関心を示さなくなるまで。


恐ろしい事件、感情を刺戟するような事件に、より人々の関心が集まるというのは解ります。でも考えてみてください。その事件の大元は、果たして高い波動を出しているのでしょうか、それとも低い波動を出しているのでしょうか? 言うまでもなく極めて低い波動です。ですから大勢が注目すれば、世の中全体の波動は一気にドーンと下がってしまいます。


おそらく、そうした報道に注目している間の人々の「心」は、ザワザワと粗れた感じになっている筈です。遠く離れた地の、自分とは関係のない、どうせ数ヶ月もすれば忘れてしまうような事件報道に「心」を弄ばれて、いったい何の得があるのでしょうか? そうやって、大衆心理を操ることに精力を傾け、ほくそ笑んでいる人たちがいるということに気づいてください。


「恐ろしい予言」というものも、構造はこれと全く一緒です。「真理」よりも、「恐ろしい予言」の方に、より人々は「心」を惹かれます。しかしその大元は、言うまでもなく低い波動の存在であり、霊能者を操って「恐ろしい予言」を下ろし、大衆心理を低い波動に誘導することで、その動揺する姿を見てほくそ笑んでいるのです。


私たちの本質は「魂」です。「魂」は思念の塊ですから、この世で大衆心理を操ることに無上の喜びを見いだす人たちがいるのと同じように、あの世でもそれと同様の存在たちがウヨウヨいるのです。そして両者は、低い波動で同調し、エネルギー交換を行って、お互いを支援しているのです。


このようなメッセージを降ろしてくる霊能者がいるというのは残念ですが、そういう霊能者も相対性の世界に生きる同じ人間です。絶対者ではありません。そのため、地上の善悪二元論を基本に生きていれば、降りてきたメッセージをその論理の許に解釈するために、自分自身で「恐ろしい予言」を信じてしまうのです。


しかし考えてみてください。宇宙を創ったのは一者です。一者であってなおかつ全体のものです。これまでにも何度かお話しましたが、二者ということは論理的にあり得ません。もし二者だと仮定しますと、お互いを創ったのは誰か?というパラドックスに陥ってしまいます。イヴがアダムの肋骨から創られたということになっているのは、元は「一つ」ということを象徴しているのです。


しかし、ずっと「一つ」のままでは、その「一つ」の存在は、永遠に自分自身を確認することができません。そこで、自らの内部に陰と陽の二元を創ったのです。この二元性が、バイブレーションを下げていく過程で様々に組み合わされ、万物が誕生しました。その際に、二元性の中に「善悪」の対立概念も生じたのです。


そしてこの中で、宇宙から与えられた「自由意志」を、人々を支配する、思い通りに操るということに行使し、そこに異常な執念を燃やす「魂」も出現するに至りました。そして、多かれ少なかれ、誰の「心」にも含まれている同様の感情を刺激し、揺さぶりを掛け、全世界を支配下に置こうとしているのです。


健康のことでお話しした際に、「人間、歳を取ったら病気になるものだ」と思っていたら、本当にそうなってしまうよと書きました。それと同じように、「恐ろしい予言」に注目する人々が一気に増えれば、「ああ、恐ろしい。当たるのではないか?」という気持ちが集合して、その「望み」通りに、予言を実現させる方向に現実世界が動く可能性が高くなって行きます。


そして、ひとたび「恐ろしい予言」が的中すると、人々は「神の怒りだ」とか「天罰が下った」と言うのです。でも本当にそうなのでしょうか?


宇宙は一者が創った。もう一度、この意味を思い起こしてください。善も悪も全部が一者の内にあるのです。その一者が、なにゆえ自分が創造したものに対して、自分で罰を与える必要があるでしょうか? 全くもって辻褄が合いません。ましてや(予め知っている筈の)「恐ろしい予言」を、どうして自分にするというのでしょうか? バカげています。


そうではなく、「恐ろしい予言」の的中は、人々が起こしているのです。「真理」に昏(くら)い、「真理」に目覚めようとしない、人間どもがみな起こしているのです。振り子をどちらかに大きく振ってみてください。必ず反対側に大きく揺れ戻します。そして段々と揺れが小さくなって、最後は中庸で治まる。これが宇宙の自然の姿です。


産業革命以降、人間は、科学技術を急速に発達させる一方で、自然界の法則を無視し、様々な欲望を肥大させてきました。今もその流れは収まっていません。しかし人間の本質は「魂」にありますから、どこかで「このままでよい筈がない」という予感も抱いています。こういう漠然とした不安感に、「恐ろしい予言」がヒットするのです。


けれども、それら一切合切を含めて、全部を人間が起こしている。ということに気づいていただきたいのです。自分で火を着けて自分で消火する。いわゆるマッチポンプをやっている。一見「天災」のように思える出来事も、バランスを取り戻そうとする宇宙の法則が、冷徹に働いただけのことです。人間にとっては都合が悪くても、宇宙にとっては当たり前のことなのです。


ですから、いま説明したメカニズムをよく理解して、マッチポンプに踊らされることなく、「心」を平静にして、自己の「魂」の声をよく聞き、それに従って生きていって欲しいと思います。それが即、宇宙の法則と合致する、幸福な生き方になるのですから。

支配したい気持ちは「愛」の変形(2)
世界を「支配」している、闇のグループがいることについては、ずいぶん多くの人が知るようになって来ました。これも、地球のエネルギーが上がって活動期に入り、光が強くなって来たことの現れです。強い光によって闇が照らされて来ているのです。

彼らの「支配」の道具の頂点にあるものは「金融」で、世界の180カ国くらいに、グループが統帥している「中央銀行」というものを所有しています。この「中央銀行」は、国家機関の顔をしてはおりますが、れっきとした株式会社で、通貨の発行権を持ち、利息を決め、傘下の市中銀行をすべてコントロールできる権限を有しています。

つまり、無いものから富を生み出す仕組みである「利息」と、経済活動すべての根幹にある「通貨」を我がものにしているのです。この「金融」の仕組みの下に、グローバル企業があり、企業に操られた政府があり、政府にあやつられた各機関があるのです。一般民衆は、これらの構造を知らされないまま、長年に渡ってその中で動かされて来たのです。

さてそこで、次のような疑問が沸かないでしょうか?
彼らの目的はいったい何なのか?

「お金」でしょうか? 「お金」だとしたら、すでに有り余るほどのものを彼らは持っています。なにしろ、通貨そのものをコントロールできるのですから。

「お金」の魅力で動く人というのは、「支配」のピラミッド構造の各段階にたくさんいるのですが、その人たちは、実は(霊的には)下っ端なのです。地位・名誉・財産に目がくらむ人たちで、自分たちが使いっ走りにされているということが判らないのです。権力を握って、自分は人々の上に君臨していると思っているのですが、実は「お金」に操られる程度の未熟な「魂」なのです。

さてここからが、ある人にとってはびっくり仰天、ある人にとって「なるほど」というお話です。

「支配」のピラミッド構造のTOPにいる人たちの目的は何なのか?
それは「愛」の追求なのです。

えええええーーー?! って、そんなに驚かなかったかな? 書かせて貰っている私は、けっこう驚いたんだけどなぁ。なんなら「え」の数をあと3個くらい減らそうかぁ。彼らの目的は、地位・名誉・財産の獲得などにはない。ですから、表には出て来ないのです。財産は持っているでしょうけれども、地位・名誉をひけらかす欲望などは持っていないのです。

彼らの目的は、「支配」による世界の統一。つまり、「ONENESS」の実現にあります。

よく知られた話ですが、1ドル札の裏側には複数のシンボリックなデザインが隠されていて、その中に「ANNUIT COEPTIS」と「NOVSU ORDO SECLORUM」というラテン語が記述されています。これは、前者が「我々の計画に同意せよ」、後者が「新しい世紀の秩序」という意味で、合わせて「新世界秩序という我々の計画に同意せよ」という意味です。

これが1ドル札に書かれてあるということは、「金融」のベースを象徴するワンダラー紙幣に、彼らがそういう願いをたっぷりと込めた。別の言葉で言えば「念」を注入した、ということなのです。1ドル札が世界に出廻り、人々がそれを手にして眺める度に、その「思念」を、知らず知らずのうちに人々が受け取ることを意図したものです。

つまり「お札」は、文字通り「お札(ふだ)」なのです。これは日本銀行券も同じです。やはりシンボリックなデザインが隠されていて、神社で貰うのと一緒の「お札(ふだ)」の機能を果たしています。「この紙切れに従いなさい」「とりこになりなさい」そして「新世界秩序という我々の計画に同意しなさい」というメッセージが、そこから発信されています。

さてここで、昨日した話を思い出してみてください。「愛」の学習には、二つの道があると言いましたよね。一つは「無条件の愛」を目指す道、もう一つは「支配」を目指す道です。「分離」と「愛」という宇宙創設時にまで遡る二律背反を超えようとした時に、二つの道がある。彼らは、そのうちの後者、つまり「支配」を選んだ「魂」なのです。

ですから、彼らの目標も「ONENESS」の実現になっている。これは実に興味深い点です。そう思いませんか? そしてそれを「New World Order(新世界秩序)」と呼んでいるのです。一つの支配者のもとに、多段界の支配構造が安定的に造られる世界。それは、彼らに取っては、望ましい「秩序」なのです。

そこでもう一つのことに気づかないでしょうか? このピラミッド構造は、「宇宙」の成り立ちとそっくりです。「△三角形の法則」の適用になっています。つまり、彼らの狙う「新世界秩序」とは、「宇宙」のコピー、それもコピーミスであるということなのです。細胞が正常にコピーされれば美しく成長する、コピーミスされると癌化する。それと全く一緒です。

下なるものは上なるものの如く、上なるものは下なるものの如し。

癌細胞というのは、正常細胞から見た場合に「やっかい者」に映るのであって、癌細胞自体は、自分たちを「やっかい者」などとは思っていません。ただ、癌細胞としての生き方を選んでいるだけなのです。ステルス性を持って、日々、成長しようと活動しているのです。

あなたの中にも、正常細胞と癌細胞の両方があり、知らない間に癌細胞が広がっている。(これはあくまで喩えですからね、間違えないでくださいね)そのあなたが、癌細胞を広げたいと願う「思念」に強く同調してしまえば、つまり「恐怖」や「憎悪」を抱けば、癌細胞が世界中に増幅して、彼らが意図するようなプロセスを経て、世界が統一されて行きます。

すなわち第三次世界大戦の勃発です。今はその瀬戸際の時期にあります。

癌をやっつけることで、癌を克服することはできません。なぜなら、癌は結果であって、病根はそれ以前にあるからです。同様に、戦争を戦争で終わらせることは出来ません。悪に対して憎悪で立ち向かっても、恨みの連鎖を引き起こすだけなのです。癌を克服するためには、癌を癒し、正常細胞を増やして置き替えて行くしかないのです。

これから起こるであろう瀬戸際を注視していてください。為政者の言葉や、マスコミの言葉に騙されないように。なんとなく不快感を覚えるものは、それ以上注目しようとせずに、遠ざけてください。言葉ではなく、彼らが発するバイブレーション、霊性を見てください。

人類が瀬戸際を乗り切る道はただ一つ。人類が「無条件の愛」の道に目覚めることなのです。そういう人が、世界中に増えることなのです。ですから、あなたにはそうなっていただきたい。私からもどうかお願いします。
支配したい気持ちは「愛」の変形(1)
究極の「愛」は、すべてのものが一つと認めることです。あなたとわたしは一つ、人と自然は一つ、生きとし生けるものはみな一つ、宇宙は一つ。一つですから、あなたはわたしであり、わたしはあなたであり、そこには区別というものがないのです。一つですから、あなたが宇宙(ミクロコスモス)そのものなのです。一つですから、あなたは生命の体現者なのです。

ここに至った心境の表出が、いわゆる「無償の愛」「無条件の愛」というものになるのです。つまり、私たちはみな、最終的にそこを目指していると言えます。

ところが、私たちは、それぞれ個別の「魂」を持ち、己の肉体というものを有しています。これは「みんな一緒」という心境に至ることを体験するために、あえてそのようなプロセスを踏んでいるからなのです。けれども、そうした理由を誕生後にはすっかり忘れているために、「愛」を巡って様々な葛藤を繰り返すのです。

このことは、これまでにも何度かお伝えしていますが、もともと一つだったものが、一つになるということを「経験」するために、わざわざ分離するというプロセスを経て、私たちは誕生しています。そのため、分離して自由になりたいという願望と、一つの家に戻りたいという願望が、誰の中にも、同時に存在しているのです。

これが「愛」というものの秘密です。私たちは一見、その矛盾した、二律背反的な願望の間を、行ったり来たりしながら、それぞれが「愛」というものを学習体験しているのです。

その学習体験としての一つの表れが「支配」です。「支配」と聞いて、「ええっ、『支配』と『愛』とにどんな関係があるの?」と首を傾げられる方もおられるでしょう。けれども、これは日常的によく見かけられる光景です。

恋愛の初期に、「好きで好きでたまらない」と思って一緒になってみたら、相手は自分のことを「支配」したいだけだったと後になって気づく。あるいは、私のことをいつも「心配だ、心配だ」と言い、口うるさく干渉して来る親は、自分では愛情をかけているつもりのようだけれど、私から見たら「支配」なんじゃないかと疑問に思う、など。

これらはみんな、「条件付きの愛」なんですね。相手の自由を認めようとはしないのです。相手の自由を認めたら、どこかへ飛んで行ってしまうと思っている。ですから相手を条件で縛り、それを「愛」と自分では思っているのです。「見て見て、私だけを見て!」「浮気なんかしちゃダメよ」「私がこんなにも思っているんだから、あなたも少しは返しなさい!」etc.。

結局、「支配」というのは、「分離」と「愛」という二律背反を、都合よくまとめる一手段として出て来たものなのです。「分離」したまま「愛」する。「愛」するが、「分離」しているという条件は決して手放さない。ですから「無償の愛」「無条件の愛」という心境には至らない。つまり「支配」は、「愛」の変形、歪んだ「愛」の形なんですね。

「分離」と「愛」という二律背反を超えようとするには、二つの道があるのです。一つは「無条件の愛」を目指す道、もう一つは「支配」を目指す道です。この二つは真逆ですが、出発はどちらも同じなのです。

さてここで、びっくり仰天のお話をしましょう。(この続きは明日)
「闇」と「魔」
「闇」はありますが、「魔」というものはありません。「魔」は、人間が作った完全なるフィクションです。「光」が当たらないところには「影」ができますが、全く当たらないとき、そこは「闇」になります。ですから厳密に言えば、「闇」も「在る」のではなく、単に「光」が当たっていない「状態」だと言えます。

では「魔」というものは何でしょう? あなたは「闇」が怖いでしょうか? 仮に毎日生活している家の中が真っ暗だったとしましょう。家具調度品の位置もいつものままです。違うのは、ただ「光」が当たっていないというだけ。さて、怖いですか? もし怖いとすれば、それが「魔」です。

お解りでしょうか? 「魔」は、「闇」を見て、あなたが作り出した観念なのです。

「闇」はありますが、「魔」というものはありません。「魔」は、人間が作った完全なるフィクションです。そして人間は、もう一つの壮大なフィクションを作りました。それが「神」です。「光」の側に、「神」を想像(=創造)したのです。

「光」はありますが、「それ」を「神」と呼ぶかどうかはあなたの自由。しかし、これまでに人間が作ってきた「神」概念は、相当歪んだものであることに注意しなければなりません。

それは、宗教、宗派によって、奉じている「神」が違うということだけを見ても明らかです。もし、万物の創造主を「神」と呼ぶのであれば、それは共通していなければおかしいです。あっちにもこっちにも、違う創造主がいて「我こそが本物である」と主張し合うなんて、「神」さまってそんなにおバカさんなんでしょうか?

しかし人間は、想像力を働かせて、「光」と「闇」を、「神」と「魔」の観念に置き換えてしまいました。そして、「魔」を「神」が打ち倒す、あるいは「神」が「魔」から人々を救うというフィクションを作り上げて、これを信じ込んだのです。こうして、世界各地に組織宗教が出来上がって行きました。

過去2500年くらいは「魚座の時代」でしたので、組織宗教が隆盛を誇りました。魚座は別名「双魚宮」と言い、ゾディアックシンボルは、回転するように並んだ二匹の魚によって表現されています。これは二元性を表したもので、「光」と「闇」、「神」と「魔」の観念をシンボライズしています。

けれども、水瓶座の時代に入った今は、組織宗教の時代が終わりを告げ、いよいよ万人に「真理」が明らかにされる時代になったのです。空っぽだった水瓶に「真理」の水が注がれ、「闇」に「光」が当たり、これまで隠されていた事が次々に明るみに出て来ます。

今はその転換期にあるため、世界は大混乱状態にありますが、大局的見地から言えば、この流れを止めることは誰にも出来ません。しかし、大きな流れはそうなるのですが、2000年に渡る組織宗教の強力な刷り込みと、誰しもが不安や恐怖という感情があるために、「魔」があると信じ込む人がなかなか減らないのです。

しかも、霊感の強い人の中に、「魔」を強調する人が大勢おられるというのは困ったものです。この人たちは、霊感があっても「真理」の法則に関する知識がなく、自己の感覚だけを重視して「闇」を「魔」と取り違えて語るのです。それだけならまだしも、それを周囲の人たちに吹聴してしまう。すると、不安や恐怖心を刺激するので、大衆の耳目を集め、組織を作ることができるというわけです。

ここでハッキリ言っておきますが、不安や恐怖を煽る情報は、霊能者だけでなく、どんな立場の人が言うにせよ、すべてニセモノです。宇宙に不安や恐怖など、本質的にはありません。宇宙にはただ変化と愛だけがある。それを、不安や恐怖と感じるかどうか、「魔」と解釈するかどうかは、その人しだいなのです。

どうして、宇宙に「魔」など、ありましょうか? 仮に「魔」があるとしたら、その「魔」を創ったのは誰なのでしょうか? 「神」でしょうか? だとしたら、「魔」は「神」の一部です。その場合、自分が創った「魔」と「神」が戦うというのでしょうか?

なんのために? なんのために、そんなゲームをしなければならないのでしょうか? もしそうだとしたら、我々はみな、「神」のゲームに使われる駒に過ぎなくなってしまいます。

いやいや、そうではなくて、最初から「神」vs「魔」という二元対立があったのさ、と主張する人がおられるかも知れません。ではどうして、その二つが「最初から」存在することになったのでしょうか? もし対立する二つが、あらかじめ存在したというのであれば、その二つを創った第三者が、別に存在しなけばならなくなってしまいます。

結局のところ、創造主というのは一つです。そうでなければ論理が成り立ちません。創造主は一つなのですから、もし「魔」があるとすると、それは創造主が創ったということになり、最初に仮定した推論に戻ってしまいます。このようにして、論理的に考える限り、「魔」などあり得ないということがお解りいただけるでしょう。

このように「魔」はありません。しかし「闇」があることは確かです。なぜなら「光」があるからです。一人の人間の中にも「光」と「闇」があり、「光」の多い人と「闇」の多い人がいることも確かです。それは「魂」の成長段階が違うのです。宇宙の中には、「闇」のまま進化した「魂」もいて、それらが地上の「闇」を支援していることもまた確かです。

どうして、ニュースでは、ネガティブな報道ばかりを流していると思いますか? どうして、地震やテロや病気や貧困やパンデミックの恐怖を与える情報ばかり、強調していると思いますか? それらを強調すれば、人々の中にある不安と恐怖を刺激し、注目を集めることができます。そうすれば、今度はその「対策」と称して、人々を支配できるからなのです。

この構造は、巨大かつ複雑なシステムになっていて、頂点に立つ人はほんの一握りなのですが、「闇」に惹かれる人々、「闇」に魅力を感じる人々が、そのフォロワーとして活動しています。大衆はこれらの人々に洗脳され、奴隷化状態にあります。けれども「洗脳」が行き届いているために、殆どの人が、自分が奴隷化されていることに気づいてはいないのです。

「魔」は、その「洗脳」をマスキングするための、スリ替えに利用されています。「魔」に注目を集めれば、「闇」がまさに闇に隠れてしまいます。なぜなら、人々は「真理」よりも、オカルティックなエピソードの方をより好むからです。このようにして、歴史的にも「魔」が大衆洗脳の道具として利用されて来ました。

しかし、途中でも申し上げましたが、今は「光」が強まっている時代です。今まで隠されていた「闇」がどんどん明るみに出て来ています。これを読んでくださっているみなさんは、「闇」と「魔」の違いをよく認識して、「魔」に落ちないようにしていただきたい。

「魔」に落ちないとは、恐怖心を抱いたり、下らないことに心を動かされないということです。「闇」の戦略に、ウカウカと乗らないようにね。

北朝鮮がミサイルを発射した? それとあなたの生活となんの関係があるのでしょうか? 国内でもジカ熱感染者が見つかった? それとあなたの生活となんの関係があるのでしょうか? 国会議員が不倫した? それとあなたの生活となんの関係があるのでしょうか?

それらの話題に関心を示せば、あなたの波動は、自らを下げることによって同調しようとします。それは結局、あなたにイライラや不快感をもたらすだけです。あなたの中の「闇」の部分ではなく、「光」の部分を目覚めさせてください。

あなたが、明るく元気に毎日を生きることが、世の中を照らす一番の「光」になるのです。このことを強くイメージして、毎日を生きてください。
あの世には、悪魔もいないし、地獄もない
以前、知り合いに勧められ、ある精神科医が書いたという興味深い本を読みました。その本は精神科医が書いたものとしては異色で、自分がやってきた治療法に対する疑問が綴られていたのです。

このお医者さんは、ある時一人の霊能者と知り合いになり、自分が治療に難儀していた患者を、この霊能者が次々と快癒させていくのを見て仰天します。一体これはどういうことか?

そのことに関しては、私は別段驚いたりはしません。ですがこの霊能者が語っていることには驚かされました。いわゆる精神疾患の原因が、全部、悪霊の憑依だと言うのです。そして瞑想を行うことは、悪霊の憑依を招いてしまうことがあるから危険だ、とまで言うのですから。

ヤレヤレ、瞑想禁止令ですか。じゃあその「霊能」とはなんなのだ? 「瞑想」のバリエーションではないですか。
この霊能者に限らず、悪霊、悪魔、魔界、地獄、を強調する霊能者は非常に多い。そして人々にたっぷり不安を与えた上で、そこから逃れる方法を伝授する。

ある人が、私(今成)という人間がどういう人物かを確かめたくて、霊能者のところに聞きに行ったんだそうです。ずいぶんと暇な人がいるものです。そうしたら、なんと「この人は、悪霊に取り憑かれている」とのご託宣が下りたんだそうな。

ハイハイ、そうでしょうとも。「悪霊」にでも取り憑かれていなきゃ、毎日3時間、こんな文章書き続けられませんよ。それはどうもご親切に。最近どうも体調が悪いと思ったら、なんだ「悪霊」のせいでしたか‥‥。

しかしここでハッキリ断言しておきたい。
霊能の強い人はいるし、この世に憑依現象だってあります。いわゆる幽霊もいる。
でも、あの世には、悪魔もいないし、地獄もない!

「霊能」というのは、五感では通常キャッチできない世界を捉える能力です。いわゆる第六感といわれるもの。これは誰もが所持している能力で、目が良い、鼻が利く、舌が肥えているなどと同じこと。要するに相対的な能力なのです。

ですから、第六感にも強い人と弱い人がいるというだけの話。あまり意識していないかもしれませんが、あなたにだってその能力はあるのです。そしてそれは、訓練によって磨くことが出来ます。

さて、その時に、目が良いことと人間性とは何の関係もないように、霊能の強さとその人の人間性とは何の関係もないということです。霊能者と接する際には、どうかこの点を思い出し、気をつけていただきたい。

ところが第六感だけは、見えない世界をキャッチする能力であるため、とかく言われたことをなんでもかんでも信じてしまう傾向に陥りやすい。

でも霊能者だからといって、宇宙の法則のに関する知識をなんでも知っているとは限りませんし、霊性が高いとも言えない。他のことと同じように、自分の間違った思い込みに左右されていたり、中には、自称霊能者の詐欺師だっているのです。

悪霊、悪魔、魔界、地獄の類は、霊能を持つ人が、とかく陥りやすい「思い込み」に過ぎないのです。なぜそんな「思い込み」が生じてしまうのか? これも、他のことと同様、今まで育って来た中で身につけた観念の一つなのです。

小さいころにお寺に行って、地獄絵図を見せられた。聖書を読んで悪魔を知った。その他、映画や小説や絵画やあらゆるところで、多くの人がそうした観念を植えつけられて育った結果なのです。

あの世には、悪魔もいないし、地獄もない。そんなものはない。
それは、見たい人が見るのです。

ここで改めて、「在る」ということを考えてみないといけません。ふつう「在る」とか「ない」とかという時、私たちは自分の「知覚認識」とは関係なく、独立して、あらかじめその物体が存在していると、みな見なしています。

しかしそれが錯覚にすぎないことは、量子力学という学問分野で、すでに証明されています。目の前にコーヒーカップが「在る」。しかしそれは、見るまでは、本当にあるかどうかは判らないのです。私たちが、それを見た時(知覚した時)、はじめてそれがそこに現れる(認識される)のです。

通常いう「あの世」、第六感でキャッチできるところの非物質的世界では、想念エネルギーがあらゆるものを瞬時に作り出してしまいます。ですから欲しいもの、見たいものが、自由自在に目の前に出現する。そのため地獄を見たい人は地獄を見るし、悪魔を見たい人は悪魔を見るということなのです。

ただし、あまりにも多くの人が、地獄や悪魔を想像(創造)しているために、その集合エネルギーが出来上がっている。しかしそれも、私たちが通常いうところの物質的に「在る」というものではない。目の前のコーヒーカップと同じように、見なければないし、見たい人は見るということです。

ですから、悪霊、悪魔、魔界、地獄、を強調する霊能者は、それを見たい人だということ。なんのことはない、自分がその観念(つまり悪霊)に取り憑かれているというだけなのです。

それに、論理的に言って、悪魔や地獄が存在することはあり得ない。

先ず宇宙の創造者はたった一つである筈です。それを人は創造神と呼ぶ。もし創造神が二つであったなら、互いを作ったのは誰かということになってしまいます。A神がB神を創ったのなら、創造神は結局Aです。逆もしかり。

だから創造者は一つ。その一つのものが、対立する天使と悪魔を、わざわざ創造するでしょうか? いったい何のために?
創造者ってのは、戦闘好きなテレビゲーム・デザイナーなんでしょうかねぇ?

天使と悪魔を創ったのは人間です。神の名を語って。だから見てご覧なさい。世界中の戦争の大部分は、異教徒の悪魔を叩き潰せと互いに主張しあって人殺しをしている。それが「我らが神のご意思なんだ」と勝手な理屈をつけてね。

これほどバカげたことはないでしょう。どうして神が、自分が創った人間を、自分で殺して喜ばなければならないのでしょうか?

ですからみなさんは、明るく、平和で、みんな仲よく、楽しく暮らせる世界だけを想像していればよいのです。その想像が、現実を見ることになるわけですから。その想像が、現実を創造することになるわけですから。

悪魔や地獄なんてアホな概念はとっとと捨てて、神の本質に目覚めなさい。創造主には愛しかない、天国しかないということに気づきましょうよ。
憑依現象
10月の中旬、親戚の法事に行って酒を浴びるように飲んですっかり体調を崩してしまいました。自業自得だね(´-`;)。その後、2年ぶりに風邪を引き、さらに波動が下がっていたところに、「うん? こりゃなんか変だぞ」という感じが襲ってきて、心身ともにドーンと落ち込みました。

憑依現象です。これも3年ぶりくらいかな? 若い時分には、ちょくちょく憑依されていました。もっともその時には今のような知識がなく、振り返ってみれば「あれは憑依だったんだな」と思い出されるということです。

とにかく肩が重たい。尋常な肩こりじゃない。後ろからのしかかられたような感じで、頭頂部にもグーッと押さえつけるような圧迫感がある。背中にヒョイと乗っかかられるから憑依というのか? そして、とにかく死にたい。もう死んでしまいたい。だから、憑依された時にはそれとすぐに判る。

憑依には2種類があります。一般に不成仏霊とか未浄化霊と言われている「霊魂「の憑依と、「思念」の憑依です。「思念」もエネルギー体なので、「霊魂」と同じように憑依現象を起こすのです。今回、私に憑依したのは後者の「思念」でした。きっかけは、送られてきた電子メール。これを読んで引っ掛かってしまいました。

気分的にはキツかったのですが、客観視できていたので、この際どうなるか実験観察してやろうと思いました。最初は自分で取ろう(追い出そう)と思ったのですが上手くいきません。憑依されたのは、自分の波動が下がっていたスキを突かれたわけで、すでに「死にたい」ほどまで下がっている自分があがいても、どうにもならない。

ところが、たまたまある人から電話が掛かってきて、話をしている途中でスーッと抜けていくのが分かった。簡単でした。結局「光を当てろ」ということに尽きるのですが、明るく元気な人と接触すれば、それだけで「光」が貰えるというわけです。持つべきは、明るく元気な友人。

自分で「光」を出して退治しようとしても、波動が落ちている時には難しいということが、今回分かりました。ということで、憑依現象恐るるに足らず。今度また機会があれば、別の実験をしてみるつもりです。だから、普段の生活で大事なのは、明るく元気に過ごして、スキを作らないこと。みなさんも、年末年始、飲み過ぎには気をつけて!
東洋で、祟り神を祀るわけ
宇宙は双極性によって成り立っていることは間違いのない事実です。身の回りのあらゆる事物を見ても、陰陽二極に拠らないものはなに一つありません。これをシンボル化したものがタイチーマーク(陰陽太極図)であり、陰陽が渦を巻いているのが宇宙の構造であるということを示しています。DNAの二重螺旋が発見されたのは20世紀の後半に入ってからですが、これを見事に証明しています。

どうして二極なのかという理由は、あまりにも深遠なために、簡単に語ることは出来ません。しかしこの双極性から「善と悪」という概念が生じていることもまた事実です。ところが、西洋と東洋とでは、「善と悪」というものに対する考え方に、大きな違いがあるのです。

西洋では、「善と悪」はあくまでも対立概念であり、悪を滅ぼす者を善とした。したがって悪と断じた者を攻撃することに正当性を与えました。このような考え方は、一神教から来ています。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が信仰の対象としている神は同一で、それならば仲良くしたらいいようなものの、互いに異教徒を憎しみの対象にまでしてしまう。

この背景には、根本に間違った一神教の解釈があるのです。「神は一つ」という考え方そのものは正しいし論理的に矛盾はありません。けれどもその神を「善」なる側に置き、反対側に「悪」の親玉としてのデビルやルシファーを設定しました。そして「善」なる神を仰ぎ、近づこうと努力する者、つまり自分たちは「善」なのだとしてしまったのです。

でもこの論理は、何かおかしいことに気がつきませんか? ではデビルやルシファーを創造したのはいったい誰なのでしょう? もし宇宙創造の最初の段階からデビルやルシファーが居たのだとしたら、善の神と悪の神が存在するという二神教になってしまいます。一方「神は一つ」というロジックを貫くのであれば、デビルやルシファーも神が創ったということになります。

西洋では、このような根本的矛盾にはほっかむりして、善悪二元論を持つ一神教という概念を、二千年に渡って、広く深く浸透させて来てしまったのです。これは、本来誰もが自分の中に持っている「悪」を手なずけるには非常に都合がよかったのです。その「悪」にきちんと向き合わずに、「悪」を他者に転化して、それを攻撃すれば自分の「善」が正当化されたからです。

一方、東洋では汎神論が普及しました。これは、あらゆるものに神性が宿っているという考え方です。あらゆるものに神性が宿るということは、見方を変えれば、一神論だということがお解りいただけるでしょう。ですから汎神論の方が、むしろ本当の一神教とも言えるわけですが、西洋はこれを低俗な偶像崇拝として扱ったのです。

インドでは三大神と言って、宇宙を創造した神(ブラフマ)、出来上がった宇宙を保ち生かす神(ヴィシュヌ)、そして消滅させる神(シヴァ)を設定しました。これは宇宙の循環サイクル(輪廻)を、見事に表現しています。創造と消滅は一つのサイクルであって、どちらが「善」だとか「悪」だとかはない。それが宇宙の実相だということです。

日本では、祟り神である「艮の金神(うしとらのこんじん)」をご神体とする宗教がいくつもあります。「艮」は十二支を360度の方位に当てたときの、丑と寅の中間で、東北を差します。いわゆる「鬼門」の方位です。鬼の絵が牛の角を持ち虎のパンツを穿いているのは、この「艮」をもじったものです。

じゃあ「艮の金神」を崇めるような宗教は、悪魔崇拝なのか? そうではありません。天候一つとっても、人間にとって良い時も悪い時がある。天変地異だってある。疫病の流行や飢饉もある。それらを認めた上で、そういう力を発揮している天の存在に対し、自分の不徳を詫びて、その力を自分の善なるものに転化していただこうということなのです。

ところが西洋の場合は違う。デビルやルシファーを崇めるのは、本当に悪魔崇拝なのです。自分の悪魔的考え、支配欲に対して、その実現に向けて力を授けて貰おうとするのです。善悪二元論の一神教という、そもそもの矛盾が、そっくりそのまま悪なるものを主神とする宗教に置き換わっているわけです。

こういう感覚は、日本人にはなかなか理解し難いものがあります。が、逆に西洋から見たら、善も悪も一緒だという考え方は、理解し難いわけですね。例えば、病気に抗うのではなく、認めて共存して生きていく、などという考え方は、西洋人からすれば敗北思想であり、「なぜ戦わないんだ」となってしまうわけです。

しかし、今日の世界情勢を見れば、善悪二元論の一神教が、ここまで混乱した世界を創ってしまったということは明らかです。過去に、西洋社会で東洋を学ぼうとしたムーブメントが何度か起こったのですが、幾世紀、何世代にも渡って、あまりにも深く宗教が浸透したため、これを覆すことは殆ど不可能のように思えます。

アメリカ大統領が、就任の宣誓を行うに際し、聖書に手を置くことはご存知だと思います。ジョージ・W・ブッシュが、「悪の枢軸国」発言を行い、テロと戦うと宣言した時に、国民の7割以上が熱狂したのですが、そうなる下地が、そもそも西洋社会には色濃くあるということです。

しかし東洋には、二極性は同一のものの循環という考え方が基本にあって、祟り神までをも祀って来たということですね。我々はそのことの意味を、今こそ振り返ってみるべきだと思います。