by Rainbow School
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生きにくい時代を、生きぬくために

私は、すでに還暦を過ぎているのですが、今の時代に20代であったとしたら、果たして生きていけるだろうかとよく思うのです。昔が良かったとは言いません。28歳まで自分はフリーターでしたし、風呂なしトイレなしの掘っ建て小屋に住んでいて、食事はそうめんばっかり。自分の将来が見えずに、押し寄せる不安感と闘いながら、ただクラゲのように漂っていました。

 

未来が見えない不安感というものは、人間にとって、とりわけ若者にとって、いつの時代にあっても共通のものだと思います。でも自分が20代であった40年前と今とでは、明らかに違うものがある。それは、社会にレールが敷かれていたということ。自分の不安感は、そのレールに乗らないことを選択した際の、心の揺らぎと、生活苦でした。

 

でも今は違います。今は、レールなんてものはないんです。お若い方はご存知ないと思いますが、このレールという比喩的な言葉は、当時「社会のレールに乗る」といった言い方で、実際に使われていた言葉なんです。それほど、社会の基盤というものがしっかりしていた。いい大学を出て、いい企業に入れば、老後までの人生設計がバッチリ描けたのです。

 

「サラリーマンは〜、気楽なぁ稼業と来たもんだ、ホレ」で始まる植木等さんの『どんと節』。映画『気楽な稼業と来たもんだ』(大映)は、大学卒業を真近に控えた学生たち(クレージー・キャッツの面々)が、先生(ハナ肇さん)に卒業後の進路を問われて、全員が「サラリーマン!」と答えるところから始まります。それほど「サラリーマン」は花形だったのです。

 

ちなみに、この『どんと節』の作詞は、前東京都知事だった青島幸男さん。東宝でシリーズ化された「無責任シリーズ」で主役を務めた時の、植木等さんの役名は「たいら・ひとし」。早い話が「平均」です。それが当時の、まさに平均的な男の生きる道だったんです。ですから、社会の底に、いざとなれば「サラリーマンになる」というセーフティネットがあったんですよ。信じられます⁈

 

今はその底が抜けちゃっている。非正規雇用者が実に4割というのですから、正規の職を得るのが大変ですし、得たとしても終身雇用の保障はない。それでいて、国は若者に年金を納めろと言うんですが、年金財政は実質破綻状態。しかも国の借金1000兆円超で毎年増え続けているというのですから、いやはや、植木等さんの時代からすると、日本はもの凄い転落ぶりです。

 

ですから、今の「生きにくさ」を考えた時に、一つには「社会システム」のヒドさというものがあることは疑いありません。けれども、現行の「社会システム」というのは、決して放っておいてそうなったわけではなく、また一夜にして出来上がったわけでもなく、「そうしたい」と願った人間がいて、その結果として、今のような社会が実現して来たわけですね。

 

その頂点には、もちろん権力構造を握る者と、さらにそれを操る者がいる。ですが、それだけでは、彼らが望むような「社会システム」は実現しない。そのヒドい「社会システム」の実現に、賛同し、協力する大衆がいてこそ、はじめてそれが実現する。「そんな馬鹿な!」と思うかも知れませんが、一つの社会というものは、そこに属する人間たち全員の相互協力によって創られているのです。

 

先ずは、そこに気づかなくてはなりません。あのドイツ第三帝国でさえ、アドルフ・ヒトラーただ一人で実現できたわけではなく、ヒトラーに賛同し、協力する大衆がいたからこそ、あのような時代が出現したわけです。およそ、いつの時代でも、大衆は、自分の中に潜むエゴを刺戟し、誘導する指導者を大いに好み、そして自らを困難な状況に追い込むのです。

 

今の政治状況をご覧なさい。一体どこに「理想」がありますか? 赤組白組に分かれて、やっつけ合っているだけです。赤の利権を守るため、白の利権を守るためなら、互いになんだってやる。不正をしようが、嘘をつこうが、相手をやっつけてしまえば全て許される。船が沈みそうになれば、船長は真っ先に逃げ出し、日和見主義者たちは次の船長へとあっさりと寝返る。

 

ですからね、いつまでも旗を振ってちゃダメだってことなんです。「赤勝て、白勝て」と言い合ってる不毛から、いい加減に脱しなければならないのですよ、人間は。どうして自分の思いを他者に仮託するのですか? 誰かに預けちゃうんですか? どうして政治家に「期待」などするのですか? 「期待」するから裏切られるんじゃありませんか。

 

「生きにくさ」の根本には、結局、自ら「自由」を放棄しているということがあるのです。いいですか、誰かに「自由」を奪われているのではないんですよ、放棄しているんです、自分でね。「自由」を放棄させるような「社会システム」に、喜んで参加しているんです。自らの意志によって。そうとは気づかないまま。そうやって、ゾンビになっている。

 

「自由」とは「自らに由ること」だと、前に書きました。「魂」は「自由」を求めて止みません。なぜなら、それがあったればこそ、一つのものから分かれて飛び出して来たからです。つまり「自由」であることは、「魂」の本分なのです。あなたという「魂」は、自分を表現したくてしたくて堪らない。ですから、何らかの理由によって、それが制限された時には、自動的に「生きにくさ」を感じるのです。

 

BS1で『奇跡のレッスン』という番組をやっています。各分野で実績のある世界有数のコーチがやって来て、日本の子どもたちに一週間ほどの臨時レッスンを行うという趣向です。興味がある回を観ているのですが、これを観ていると、どのコーチにも共通している点があることに気づきます。それは、

 

 〇劼匹發燭舛法⊆分で考えるようにさせていること

 ⊆分で創造することは、楽しいことなんだと気づかせていること

 そして楽しく創造できた時に、自分という存在を自己肯定できるということ

 

の3つを体験させているんですね。これは素晴らしいことで、「魂」の「自由」というものの本質をついています。ですから、子どもも親も、レッスンを受けた後は、みんな顔が輝いている。本当に目からウロコといった感じです。ということは、日本の教育現場に、いかにそういうものが無いかということを、逆説的に物語っているとも言えます。

 

自分が子どもの頃もそうでした。登校拒否というレジスタンスまでは、私はしませんでしたが(あ、逃亡は何度かあり)、授業時間は牢獄そのもので、退屈極まりなし。だから授業の予習復習なんてしたことは一度もなく、毎日工作ばっかりに明け暮れていました。

 

こと教育に限らず、今の日本の社会というものは、ぜーん部、上にあげた逆をやっているじゃありませんか。

 

 ー分で考えるという習慣をつけさせない(マニュアルに従え)

 我慢して乗り越えなければ、先はないぞと脅す

 人と比べて、劣っている自分というものに気づいては自己否定する

 

これらは全部「魂」が喜ばないことです。「魂」の本来のあり方や、希求とは真逆のあり方です。ですから「魂」は、自動的に拒否感のシグナルを発し、それが「心」に達した時には「生きにくさ」として感じ、身体細胞の意識とぶつかった時には、自律神経をかき乱し、パニックになったり鬱になったり、体が動かなくなったりするのです。

 

そこで、生きにくい時代を生きぬくためには、先ずこの「真理」を知った上で、「社会システム」に、自分を合わせる必要などない、と気づくことです。私の若い頃には、セーフティネットからこぼれ落ちるという恐怖がありました。でも今は、セーフティネットなどそもそもないのですから、腐った「社会システム」に適合しようとして、自分を痛めつける必要など、いささかもない!

 

「仕事ってのは辛いものなんだ」

「どこへ行ったところでみんな一緒」

「3年は少なくとも我慢しなければ社会人とは言えないね」

「この程度に耐えられなくてどうする?」

「働かなくちゃ喰っていけないんだぞ」

「ボーッとして休んでいる暇なんてないぞ」

「働け、働け!」

 

こんな圧力に屈しちゃダメだ。こんなものは全部ウソです。「魂」に正直に生きることをしなかった先輩たちが、自分への言い訳用に残した言葉に過ぎない。それは、後悔の念の自己正当化なんです。

 

このような「言い訳」をし続けた人たちは、死ぬ間際になってからやっと気づく。なんで自分は、あの時チャレンジしなかったんだろう。なんでもっと家族といる時間を大切にしなかったんだろう。なんで自由を謳歌し、もっと人生を楽しまなかったんだろう。

 

就社だけが仕事じゃないよ。「あなたのしたいことは?」「正社員になることです」って、違うでしょう? それは単に就業形態だ。私が訊いているのは、あなたの「魂」が望むこと。サラリーマンが気楽な稼業だった時代はもうとっくに終わっている。ブラックばかりの、奴隷労働しかない就業形態に、なんでいつまでもしがみつこうとしているのかな?

 

どうして農業に行かないの? どうして漁師にならないの? どうして職人を目指さないの? サラリーマンというセーフティネットは確かに失くなってしまったけれど、私の若い頃にはなかった良さだって逆にたくさんあるじゃないか。食べ物も家電品も家も有り余っているし、有用な情報はすぐに取れる。もっと智恵を働かせるんだ。

 

だいたい、パニックになったり、鬱になったり、自殺しようと思い詰めたりする人は(私もそうだったけど)、みんな真面目な人なのです。この真面目さ、責任感の強さというものを、会社のためにとか、同僚のためにとか、家族のためにではなく、自分のために、自分の「魂」が喜ぶことをするために、用いてもらいたいのです。そしてそれは、エゴではありません。

 

あなたが輝かずして、どうして周囲の人を幸福にできるでしょうか?

あなたが楽しそうに生きなくて、どうして周囲の人たちが喜ぶでしょうか?

 

真面目な人、責任感の強い人は、しばしば誤解をしています。周囲の人たちは、あなたをそれほど気にしていません。あなたの過重な責任感に、あなたが思うほどは頼っていません。みんなが、自分のことで手一杯なのです。そして、自分のことで手一杯の人を、責めることはできません。「魂」の学習とは、つまるところ、そういうことだからです。

 

あなたは、他の「魂」について責任を負うことは出来ません。あなたが負えるもの、責任を持てるものは、あなた自身だけなのです。ならば、責任をお持ちなさい。自分の「魂」を見つめなさい。「魂」の声に耳を澄ましなさい。そして、自分の「魂」が喜ぶことだけをしなさい。そういう自己に自信を持ちなさい。そして「魂」が拒絶するものについては、堂々と「私はイヤだ」と言いなさい。

 

社会システムを、あなた一人の力で変えることは困難です。ですから、自分が全くの無力のように思えます。しかし、あなたは選ぶことが出来るのです。灯りのない夜は怖いでしょうか? でも星空を眺めて、鈴虫の鳴き声に耳を澄ますことだって出来るんです。要は、あなたが何を選ぶかです。

 

たとえ同じものを見ても、人によって解釈はみな違います。その時に、どう見るかによって、その時の、あなたのリアリティというものが決定する。つまり、あなたの現実は、日々あなたが創っている。ですから、たとえ腐った「社会システム」の中に生きていても、あなたの物理的範囲内で、その現実を、あなたの「理想」に変えることは出来るのです。

 

そのことを学びなさい。そして日々の暮らしで実践して、こころ楽しく生きなさい。社会が提示する成功イメージなどは無視してしまいなさい。そうすれば解る。幸福というのは、「魂」が喜ぶ瞬間、そのひと時なのだということが。それ以外には、何もいらないということが。

オフクロが遺してくれた茶碗

 

朝の気付けに、コーヒーもしくは抹茶を立てて飲むのが習慣です。どっちにするかはその日の気分。口中がサッパリするので抹茶の日の方が多いかなぁ。

 

お茶碗は十数個(どれもリサイクルショップで購入した下手物)を持っているのですが、いつも自然と手が伸びるのは、オフクロが遺してくれたもの。釉薬がほのかにピンク色をしていて、大好きなルーシー・リーの茶碗を思い起こさせてくれます。まったくいいものを遺してくれたもんだと、お茶を飲むたびに面影を偲んで感謝しています。

 

子ども時分には、癇癪持ちで、酒も煙草もやり、PTAの役員などの偽善的な活動に精を出していた母親がとてもイヤでした。その母親が50代に入って大変身し、自由に伸び伸びと(言葉を変えれば身勝手に)生きるようになり、癇癪持ちのところがすっかり消えて、穏やかな人間に生まれ変わってしまったのです。

 

その変身ぶりを見て来て「大したものだ」と思うと同時に、最近になって、オフクロのあの身勝手さというものも、ようやく理解できるようになって来ました。

 

人間生きている限りは、どうでもいいような面倒事をしなければいけない時があるのですが(たとえば、市役所から来た書類に必要事項を記入するとか。ちなみに私も大の苦手)、オフクロはそういうことを一切しなかった。「ねえ、助けてくださる?」と、周囲の者たちにみんな振ってしまう。

 

それで仕方なしに周囲が動かされてしまうのですが、そのようにさせていながら、オフクロは事後に感謝を表明するということが殆どありませんでした。感謝は、神様だけにしていました。つまり、世事に、心底から無関心だったのです。

 

ですから周囲の人間たちは、みなその身勝手さに呆れて「あの人は、もうどうしようもない」とか「あの性格は一生変わらん」とか囁き合うのですが、本人はそんなものどこ吹く風。どんなに小バカにされようが罵られようが、その態度や行動を一切変えませんでした。いま考えると、まったく大したものだと思います。

 

そうやって、どうでもいいことから解放された時間の殆どを、オフクロは創作活動に注いでいました。とにかく一日中、夢中になって何かを創っている。生涯いろんなことに手を出し、どれも一流とまでは行きませんでしたが、その集中力と粘り強さによってみんな90点くらいのレベルに達するまでにはなりました。

 

その成果の一つとして、数個の茶碗が私の手許にちゃわんとあるわけです。とにかく、そこまで行くためには徹底的に同じことを繰り返していた。あのしつこさに追いつける人はそうそういません。

 

身勝手と言えば実に身勝手ですが、しかしオフクロの中では、いわゆる現実世界と、自分が創り出しているリアリティの世界とが、価値観において、完全に逆転していたんですね。その割り切り方が半端じゃなかった。

 

オフクロにとっては、いわゆる「現実」世界など、それこそどうでもいいことだったのです。ですからオフクロは、しょっちゅう「ああ、幸せだ、幸せだ」と言っていました。それは自分が創造するリアリティの世界の中で遊び、生き切っていたからだと思います。(そして死ぬ瞬間には、「私、死ぬわね」と宣言してから死んだ)

 

このオフクロの生き方には、大いに学ぶべきところがあると、今にして思うのです。周囲からは、困ったちゃんのように思われていたけれども、本当は周囲の者たちの方が困ったちゃんだったのではないだろうか? 世間常識というがんじがらめの世界から抜け出ることを、まったく想像しようともしないという点において。本当の「自由」というものを知っていたのは、オフクロの方だったのだ。

 

人間に限らず、あらゆる生き物というのはクリエイティブな存在で、日々「創造」活動を行うように宿命づけられています。これは、宇宙というものの本質が「常に変化するもの(=無常)」としてあり、その変化の活動そのものが「生命」だからなのです。

 

ですから、人間というものは、この「創造」欲求を満たす機会を奪われてしまうと、とたんに生きるのが辛くなって来ます。なぜなら「創造」=「生命」だから。「創造」欲求を奪われることは、命を失うことと同じだからです。これは、とても重要なことなのに、残念ながら多くの人が、そういう視点でものを考えたことが無いんですね。みんな「魂」の世界を知らないから。

 

障害を持った人や、災害に遭った人、あるいはお年寄りなどの生活支援ということを考えるときに、いちばんに必要なものは「衣食住」だと、普通みんな考えるでしょう? でもそうじゃないんですよ。それは二番めなんです。「魂」の世界から言えば、いちばん大切なことは、「創造」の機会と場(別の言葉で言えば自己表現の機会と場)を持つということなんです。

 

「創造」の機会と場、そして自信を持てば、放っておいても人間は「衣食住」を自分で創り出します。ところが、現代社会は何もかもがおせっかい過ぎて、「支援」と称して「衣食住」を規格サイズで調えてあげてしまう。でもその後に待っているのは、まるで飼い殺しのような日々です。なにしろ「自立支援」という矛盾した言葉が堂々とまかり通っているくらいに、みんな訳が分からなくなっているんですね。

 

ですから、男性は定年退職すると途端に元気がなくなり、ゴルフとペットの世話しかやることがなくなってしまう。女性は同性で集まってペチャクチャお喋りすることで暇を潰すというシーンがやたら多いんです。どちらもクリエイティブに生きるということ、一人遊びを楽しむということができないためです。これは戦後の日本社会特有のもので、そういう訓練を経ずに育って来たためです。

 

本当は、生活上でクリエイティブでないものなど何一つありません。料理だって、掃除だって、洗濯だって、家の修繕だって、あらゆるものがクリエイティブです。それなのに、現代人はそういう生活上の必須を単にメンドクサイものとして捉え、楽しむ工夫をしなくなってしまった。どこかからサービスを買ってくればいいと考えている。そして空いた時間を、テレビゲームや韓国ドラマやSNSに注いでいる。

 

よく、仕事が面白いとか面白くないとかと言うでしょう。この差がどこから生じているかと言うと、今している行為を、自分がハンドリングできているかどうかということなんです。自分がハンドリングしていれば、同じ仕事も面白いし、ハンドリングできていなければ「やらされている感」が強くなって、まったく面白くない。重要なポイントは、正にそこなんです。

 

「宇宙」というのは、常に「変化」しているもので、その変化に抗おうとすると、変化することが不安になり、恐怖になってしまうのです。でも「変化」するということを素直に受け入れて、自分でハンドリングしていく、自分が意識的に「創造」して行けば、それはたちまち楽しみと幸福に変わるのです。実に、これこそがミソ。

 

トシを取りたくないと、アンチエイジングを謳い文句にする商品にハマっている方が時々おられますが、これなどは全くの愚の骨頂。何しろ「宇宙は変化するもの」という第一原理すら認めないで逆らおうとしているのですからね。そうではなくて、「人は老いる」ということを先ず認めて、じゃあどのように成熟するかを自分でクリエイトしていくということが、重要なんだということです。

 

仕事が生きがいという人は、仕事を失うと、急に菜っ葉に塩状態になってしまいます。それは、仕事を失ったことが根本原因なのではなくて、自分でハンドリングできるクリエイティブな機会というものを喪失してしまうからなんです。要は、自分自身の考えでクリエイティブに生きているかということです。

 

サラリーマンの場合は、それを会社が用意して与えてくれるものですから、裏側にある本質になかなか気づけないんですね。「魂」の視点から言えば、「仕事」は、あくまで「創造活動(自己表現活動)」の一分野としてあるだけなのに、そこに「お金」も絡むものだから、いつの間にか「仕事」が、第一番めの価値だと錯覚してしまうのですね。

 

そこで、こういうことが言えます。生活のあらゆる場面を、自分がハンドリングしてクリエイトして行く。そういう視点を持って、意識的に行動することによって、あなたが見る世界はまるで違って来るのです。それこそが、ハッピーに生きるコツです。いつも言っているように、何事にも好奇心を持って、素直に、明るく、楽しく行動していれば、いつでもハッピーでいられるのです。

 

他人が用意したハッピーに引っ張って行ってもらうことばかり考えていたら、真にハッピーにはなれませんよ。もしそれが失くなってしまったら、とたんにアンハッピーということになってしまうじゃありませんか。そうじゃないということ。だから、どんなことでも、自分がハンドリングしているという意識を常に持って行動することが何より大切なのです。

 

オフクロが遺してくれた茶碗。残念ながら、一箇所が欠けてしまいました。金継ぎに自分でチャレンジして、長く使いたいと思っています。

求人のレッテル貼り

ある方からこういう話を聞きました。その人は、今は別の仕事についているのですが、保育の仕事がしたくて何年も掛かって保育士の資格を取得しました。手始めに出来ることを探していたところ、市の保健センターが赤ちゃんを預かるボランティアを募集していたので、そこに連絡をしてみた。その時、応対した人から、いの一番にこう聞かれたというのです。

 

「お子さんはいらっしゃいますか?」

「いません」

「結婚はされていますか?」

「していません」

 

「あぁ、そうですか」と、担当者はガッカリした様子だったというのですが、彼女が「保育士の資格を持っています」と言った途端、相手の態度が豹変したというのです。

 

人は、レッテルでしか相手を見ない。その典型です。子どもがいると言ったって、始終当たり散らしている親もいるわけだし、ほったらかしや、虐待までしている親だっている。結婚していたって、みんなが円満な家庭を築いているとは限らない。何しろ3分の1が離婚しているんですから。憎悪の炎を燃やしている夫婦関係などいくらでもある。

 

私がその担当者なら第一番にこう聞きます。

「赤ちゃんは好きですか?」

「ウンチやオシッコの手当ては、喜んでしてあげられますか?」

「いま泣いているという赤ちゃんがいたら、あなたならどうしますか?」

 

これだけで充分だ。そう思いませんか? なによりも、それをすることが「好き」。これに勝るものはありません。いくら結婚していたって、子どもがいたって、「好き」でない者がその仕事に就いたら、雇う方、雇われる方、そして赤ちゃんの三方が全部、思わしくない結果に晒されてしまうことになる。

 

求職で、「経験者」という制限を設けるのも私は嫌いです。何だったかはもう忘れましたが、若い頃に「経験者求ム」の求人に対して、未経験で応募したことがあります。結果は不採用だったのですが、私は担当者にこう言って喰い下がりました。

 

「そうやってみんなが『経験者求ム』と言い続けていたら、新人には全く門戸が開かれないことになってしまうじゃありませんか!」

 

この思いは、今も変わりがありません。

どうして、人をレッテルでしか見ようとしないのか? どうして、その人の可能性を見てあげないのか? レッテルを重視する人は、自分には「人を見る眼がありません」ということを、自ら証明しているんだね。

チャレンジするということ

インターネットを見ていたら、こんなデータを見つけました。出典は明記されていなかったのですが、晩年を迎えた人が、人生を振り返って「後悔することのトップ10」というのがあって、第一位は、70パーセントで「チャレンジしなかったこと」というのが上げられているのです。

 

「チャレンジしなかったこと」とは、何を意味しているのでしょうか? 自分にはもっとやりたいこと、やれそうなことがあったのに、それをしなかったということなのでしょうか。ではどうしてしなかった、あるいは出来なかったのでしょうか?

 

70年なり、80年なりの生涯の中で、一度も「チャレンジしない」なんて、おかしくはありませんか? チャレンジしないことの代わりの膨大な時間を、その人はいったい何に使っていたというのでしょうか。それを考えれば、いつでもチャレンジ出来たはずだとは思いませんか?

 

「チャレンジしない」ことの理由を、「勇気のなさ」に求めることも出来ます。でも私は、これは、自分が何者かが分っていないために、やりたいことの「視覚化(ハッキリとしたイメージ)」が、充分できていないことから起きているのだと思います。

 

「チャレンジ」というと、どうも大冒険を考えてしまいがちですが、要はやりたいことをやるということで、その意味では「宇宙飛行士になる」ということと、「花屋さんを開店する」ということには違いがないのです。結局、「千里の道も一歩から」で、自分のイメージに向かって、毎日の時間を使っているかどうかが問われるんですね。

 

それが10年、20年、30年と経つと、毎日の一歩の差が大きく違って来てしまい、やりたいことの「視覚化」が充分出来ていなかった人は、「チャレンジしなかったこと」を、悔やむことになるのです。そもそも、「チャレンジ」などという言葉を使っていることが、自分でハードルを高くしている証拠です。

 

やりたいことをやっている人は、それが楽しいからやっているわけで、それに付きまとう困難さは、二の次、三の次なんだと思います。ですから、たとえめげることや泣きたいようなことがあっても、前に進めるんじゃないでしょうか。それが、傍から見ると「勇気」に見えるというだけであって‥‥。

 

ですから、そう考えると、やりたいことの強烈な「視覚化」というものが、どれほど重要なことであるか。でもその前に、自分は何者であるかが分っていないと、やりたいことも見つからないんですけどね。

物事が上手く廻らなくなった時には

物事が、自分にとって上手く廻っている時と、上手く廻らない時があります。上手く廻らない時には、あまり深刻にならずに、事実は事実として受け止めて、そこにどんなメッセージが隠れているかを考え、探り出してみることが大切です。

 

上手く廻らないことの理由として、一つには、その人の行動が宇宙の法則に反しているという場合があります。宇宙の法則の基本中の基本は、全てが「一つ」ということです。このことから、他者にしたことは自分にしたことと同じ、という法則が導かれます。

 

他者を傷つければ、やがては自分を傷つけることになるし、利己的な行動を取れば、反作用としての孤立化が待っています。物事が上手く廻らないという状態は、こうした行動の警告として現れている場合があります。

 

二つには、あなたのエネルギーのサイクルが冬ごもりの時期に入っていることが挙げられます。過去に、占いをして貰った経験がたぶんお有りだろうと思います。導き出す方法は様々ですが、どのような占術も、年運、月運、日運、時運、それぞれにサイクルがあることを指摘していますね。

 

冬ごもりの時期を、俗に、衰運期、衰退期、下降期と言ったりしますが、文字通りには捉えないようにしてください。一年のサイクルに、春夏秋冬があるのは当たり前です。時計の文字盤を見てください。針が回転すれば、上昇と下降を繰り返すのは当たり前です。

 

宇宙は、大きなものから小さなものまですべて循環運動をしていますから、あなたの身の上にもサイクルがあるのはごく自然なこと。あなたに冬ごもりの時期があるのは、あなたが宇宙の一員であるということの証明であり、それはただ、循環の中の一局面に過ぎないのです。

 

衰運期とか下降期とは捉えずに、「冬ごもり時期」と捉えた方がよいわけは、冬には冬の意味があり、それをよく考えることで、対処法が明確になるからです。自然を見てください。冬は、春の芽吹きの準備期間であり、世代交代が図られていることがお解りでしょう。ですから、あなたもそのようにするとよいのです。具体的には、新たなスキルを身につけるなど学習期に当ててください。

 

三つめの理由として、これと関連していますが、物事が上手く廻らなくなったのには、人生上の転換期を示唆している可能性があります。今まで続いていた仕事を切られた。お客が減って商売が立ち行かなくなった。リストラにあった等々。これらの事態はショックを伴いますが、ご自分でも、今の仕事に、以前のような情熱を持てなくなった、といったことはないでしょうか?

 

それは、「魂」の世界から言いますと、そこでの体験はもう充分だというサインなのです。そして、転換を促すように、天の計らいによって、物事が上手く廻らなくなります。上手く廻らなくなれば、人は、何とかしようと考えるからです。ここで変化を怖がって、これまでの状況にしがみつこうとしてはなりません。

 

それでは、その後のあなたの人生は、まるで牢獄に居るようなものになってしまいます。「生きていくためには、我慢しなければならないんだ」という発想は捨てるべきです。「魂」は、いつもワクワクする体験を求めています。自分が楽しいと思えること、嬉しいと思えること、創造性を掻き立てられることに、方向転換して行ってください。

 

いきいきと活躍している自分の姿を強くイメージして、今できる小さな一歩を踏み出してください。人生転換には数年掛かり、その間は忍耐が必要かも知れません。忍耐と我慢は違います。我慢はしたくないことをすること。忍耐はしたいことの実現のために途中を歩むこと。大変かも知れませんが、その大変さをも楽しんで、自分を信じて、ワクワクする体験に身を投じてください。

 

「幸福」というのは、何かの必要条件が満たされることで得られるのではありません。あなたの「心」がハッピーだと感じている時が、すなわち「幸福」なのです。

仕事の充実感

人間は、本来がクリエイティブな存在で、クリエイティブな時間に身を置いていないと、達成感、満足感、充実感、というものが得られません。これは「魂」のルーツと関係があり、「それ(=神)」は自らの可能性を押し広げ、自身を体験するために、分身である「魂」を放たれたのです。ですから、個々の「魂」はその使命を果たそうとして、無意識にもクリエイティブな作業に邁進します。

 

自分が何をしたらいいのか? 多くの人は、それを自身の特性と職種とのマッチングということで考えていると思います。しかしそれは「魂」の世界から見たときには、それほど重要な問題ではありません。それよりも、今の仕事に、どのようなチャレンジのテーマを見出し、どう工夫し、かつ楽しんで行うかの方が、ずっと重要なのです。

 

ぴったり来る職種というのは、大抵は、過去世でそれに関連したことをやっていたことがあります。そのために馴染みがあって、なんとなくしっくり来るのです。輪廻転生しても、同じ仕事を何度も行う人もいて、そういう人は、やがてその道で大成します。技術や感覚が、転生の度にどんどん上乗せされていくわけですね。

 

一方で、転生の度にどんどん職種を変えるという「魂」もいます。こういう人はマルチな才能を発揮するようになって行きます。

 

よく「仕事を転々とする」と言って、定職に付かないことを無条件に非難する傾向が見られますが、それはキャリアが築けないとか、生活が安定しないといった経験則に基づくものであって、この世的な見方(一つの観念)に過ぎないのです。ですから、職を変える人は、それを卑下する必要は全くありません。

 

「魂」の世界から見た場合には、「仕事」というのは、「魂」を磨くための一つのツールなのです。「仕事」には、チャレンジや、人間関係の保ち方や、工夫や、忍耐や、超克や、充実感などの様々な要素が含まれていて、「魂」にとっては、家庭と並んで、もう一つの大きな《磨きがい》のある場なのです。

 

さてそこで、「魂」の軌跡を一本のロープのように思い描いていただきたいのです。このロープには、ところどころ結びこぶや、色とりどりのハンカチが結わえられていたりする。それが「仕事」です。結びこぶは転職で、ハンカチはそこで掴んだものです。でもロープは一本で、ずーっと繫がっている。それを、鮮やかに、ありありと思い描いてみてください。

 

重要なのは、このロープのハンドリングなのです。それを自分自身がやっているという感覚を常に持っていることが大切です。仕事の「充実感」は、これとの関係で捉えられなくてはなりません。そうではなくて「充実感」だけを問題にしてしまいますと、錯覚に陥りやすくなってしまいます。ヒマつぶしの領域に「仕事」が入り込んで、それを「充実感」に置き替えてしまうのです。

 

さてそうなると、「会社人間」の一丁上がりです。「自分は精一杯会社に尽くした、会社に命を捧げてきた」そう言って、あとから「会社に裏切られた」と言う人がいっぱいいます。ですがそれは、自分のロープを、自分でハンドリングしていなかったという証拠です。「充実感」というものを、錯覚していたからです。

 

あなたは、自分の意に添わない事、やりたくない事を一切やる必要はありません。やりたくない事で、貴重な瞬間をムダにしないように。他人が差し出した「充実感」に乗っかって、それがもたらす錯覚に陥らないように。

 

今ここを生きる。

 

瞬間々々を、一本のロープを想い描きながら、常に自分の意思で行動している時には、チャレンジや、人間関係の保ち方や、工夫や、忍耐や、超克や、充実感は、すべて自分のものになる。ですから、「会社に裏切られた」とか「あの人に裏切られた」なんて言葉は、出ようはずがありません。それこそが、真の「仕事の充実感」というものなのです。

「仕事」選びで大切なこと

一般論として、「仕事」には三つの側面があると思います。ー分の特性が活かせること、⊃諭垢里役に立てること、J鷭靴得られ生活が成り立って行けること。この三つがバランスよく満たされていれば、それはその人にとって天職といっていいのかも知れません。


ところが今の時代は、この三つを同時に満たすことが非常に難しくなってしまいました。90年代初頭までは、企業経営においては「家族的経営」がよしとされ、日本の会社には従業員を大切に思う風土が存在していました。ところが、その後アメリカ式経営が入って来ると、職場環境もしだいに変わっていき、今では、従業員はいつでも取り替えの利く労働力としか見なされなくなりました。


また、「雇用の自由化」と称して(「自由」と付くから、良いことのようなイメージがありますが、別の見方からすれば不安定化)、正規社員の数がどんどん減らされていったために、給与水準が下がって、貧困に喘ぐ人も増えて来ています。このような状況下では、もはや前に挙げた「三つがバランスよく」などと言っていられる場合ではないかも知れません。


しかしだからこそ、この三つをポジティブにイメージして「仕事」に取り組んでいただきたいのです。生きていくために、奴隷的労働に甘んじなければならないという人もきっと多いと思うのです。けれども、それをそのまま受け止めてしまっては、「仕事」が辛くなってしまいます。やっている事はおいそれとは変えられないかも知れませんが、意識は変えられるのです。


今では多くの人が、雇用関係というものを「仕事を探す」「仕事を与えて貰う」という感覚で捉えています。しかしこれは、サラリーマン社会が当たり前になってから出来上がった考え方であって、本来のものではないということに、今一度立ち返っていただきたいのです。本来の姿を考えれば、自分の生活は自分でクリエイトするというのが、人間のあり方です。


しかし、何もかも自分でするというのは非効率的ですから、それぞれの得意分野を他人に任せることにして、お互いの価値を交換するようになって行きました。そこから経済活動が生まれました。この各得意分野が、工業化によって生産力を拡大し、今のような会社が出来上がって行ったのです。会社の勃興期には、一つの目標に向かってみんなで力を合わせるという家族意識がありました。


けれども、グローバル競争の時代を迎えるようになって、会社が多国籍企業の傘下に集約されるようになると、家族意識などはたちまち無くなってしまいました。労働力は、会社を動かす単なる「部品」でしかなくなったのです。もっとひどいことには、その会社も、絵画のオークションのように売買される、投資家にとっての単なる「投機材料」でしかなくなったのです。


よくブラック企業ということが言われますが、カンパニーというものを成立させている構造そのものが、今やブラックなのですから、そのシステムに載っかっている企業が利益追求をすれば、みんなブラックになってしまうのは自明です。このようにして、現代では、労働者にとっては奴隷化としか言いようのない雇用環境となって来ているのです。


90年代半ばから、日本では「企業は誰のものか?」という議論が盛んに提出されるようになりました。そしてステークホルダー(stakeholder)という耳慣れない言葉がたちまち浸透していきました。ステークホルダーというのは、日本語では「利害関係者」と訳されていて、消費者(顧客)、従業員、株主、債権者、仕入先、得意先、地域社会、行政機関など全部ひっくるめて差します。


企業というのは、それら全部のものとしてある、という意味です。話としてはもっともに聞こえるのですが、この裏には、それまで終身雇用制をずっと採用していて家族意識が高かった日本の企業を、アメリカ流にぶっ壊すという目的があったのです。「利害関係者」全部とは言っていますが、要は「従業員のものじゃないよ、株主のものだよ」と宣言したのです。


今や政府も政治家も経済界も、全部がこういう意識で動くようになってしまい、かつ組合も弱体化してしまった状況下では、個人で制度に立ち向かおうとしても、もはやどうにもなりません。これが政治の恐ろしいところで、現在の状況は一夜にして出現したものではなく、徐々に出来上がったものです。けれども、日本人の政治意識が低過ぎて、チェックが全く働かないのです。


さて話を戻して、こういう厳しい状況だからこそ、自分の「仕事」を自分でクリエイトするという意識を、強く持っていただきたいのです。言われたことをただやる。マニュアルに書かれた通りにただやる。これでは、意識そのものが奴隷化してしまいます。


あなたの意識というものは、外界を見る際の、フィルターなのです。もっと解りやすく言えば「色メガネ」です。そしてどんな「色メガネ」を掛けるかは、あなたの自由なのです。


ここで、あなたの認識が、あなたのリアリティを創るという原則を思い出してください。外面的には、やっていることが前と同じように見えたとしても、あなたが意識を変えれば、あなたのリアリティは大きく変わるのです。


一見つまらなそうなマニュアル労働や、ルーティンワークであっても、そこにクリエイティブな意識を持ち込むことは可能です。たとえば、これを「自分の忍耐力を養う訓練と捉えよう」「動作の鈍い自分をスピーディーに動かす練習をしてみよう」「口べたを矯正して、リラックスして会話ができるコツをつかもう」「誰とでもハートでコミュニケーションできる技術をつかもう」と考えてみる。


今の「仕事」に対する縁は、一つの機会であって、すべてはあなたを成長させるためにある。そう捉えるのです。「仕事」を貰っているんじゃない。与えられているんじゃない。あくまでも、主体は自分にあって、自分の軸がずーっと未来に続いている、そのようにいつもイメージしてください。そうすれば、辛いことがあったとしても乗り越えられます。


そして、そのような意識の転換は、同時に確実にあなたを成長させます。ご自分ではハッキリとは分からないかも知れませんが、日々の地道な積み重ねが、血となり肉となって、やがてあなたを花開かせて行くことになります。


どんなに遠くにある目的地でも、先ず一歩を踏み出さなければ、二歩めはないのです。一日一歩は、亀のごとき歩みに見えたとしても、一年経って振り返れば、何もしなかった状態とは365歩の差がついている。ですから、目標に向かって、一歩でも近づくということが大事なのです。そうすれば、そのようなあなたの努力というものを見ている人が、必ず周囲に現れます。


眉唾を言っていると思われるかも知れませんが、そうではなくて、これは法則です。あなたの波動が上がるので、自然とそれと同調する人を引き寄せるのです。そして、次のチャンスがあなたに開かれます。一挙に頂上を目指そうとはしないでください。それは無理というものです。いつでも目の前の一歩が大切なのです。


ここで、もう一つのセオリーを思い出してみてください。「魂」にとって大切なのは、「体験」だけなのだと。目の前の「体験」を通して、何を感じ取ったかだけなのだと。その積み重ねが、一本の軸となり、来世へと続くのです。

決断

一生のうちには、何度か、重大な「決断」をしなければならない瞬間というものが訪れます。就学、留学、就職、転職、起業、結婚、離婚、新築、転居、手術、投資、等々。まだあるかも知れません。このような「決断」に際して、私の立場から言ってあげられることは、ただ一つ。これまでと一緒です。


「魂」の声に従いなさい。


ところが、これほど言葉を重ねて来ているのに、いざとなると、それがどこかへ吹っ飛んで行ってしまうようです。ある方から転職のことで相談され、その職種は彼女が何年も待ち望んだものだったのにも関わらず、いざそのチャンスが訪れたら迷っているんだと言うのです。なぜかと聞くと、最初に出て来た言葉が「お給料が安い」。


それが現実的な選択というものかも知れませんが、巷間よく言われるように、「条件をよく検討して、慎重に事を決めなさい」などという、もっともらしいアドバイスに従っていたら、大半は「止める」という結論に落ち着いてしまうと思います。


なぜかと言えば、新しいことは未知で、今までのことは既知のことですから、これをまともに比較したら、未知のことに対する理解というものは圧倒的に弱い。最初から不利な状況にあるわけです。ですから、そこにネガティブな可能性を探し出そうと思えば、いくらでも探せてしまいます。

 

チャレンジしない人というのは、これが得意な人なのです。おそらく彼女も、「お給料が安い」と言ったのは、チャレンジしないための言い訳探しに過ぎず、本音は「変化が怖い」のだろうと思います。


私は28歳になる直前に、それまでのデラシネ(根無し草)生活に別れを告げて、コピーライターになるチャンスを掴んだのですが、その時に社長面接の席で「給料はどれくらい望みますか?」と聞かれて、「いくらでも構いません」と答えました。年齢的にもう後が無いと必死でしたし、未知のものを学習できて、しかもお金まで貰えるのですから「ありがたい」と思っていました。


今の時代にも、「お金なんて要りませんから、師匠のもとで修業させてください」と、門を叩く人は居ると思います。なんだか「お金」のことばかり書きましたが、そこを言いたいのではなく、未知のものを前に「あなたは、いったい何を掴みたいのか?」と問いたいのです。「覚悟」というのは、そこです。それが、自分の中に見えているのか、ということです。


それを別の言葉で言うと、《「魂」の声を聞いていますか? 》ということになるのです。けれども、「条件」などというものを比較して「決断」していたら、後で必ず「最初の条件とは違う」とか「裏切られた」ということになってしまいますよ。提示された「条件」に目を奪われてしまうから、詐欺に遭う人が絶えないわけじゃありませんか。


そういう人は、「最初の条件とは違う」とか「裏切られた」と相手を非難する前に、自分の「覚悟」の無さを恥じるべきです。「決断」というのは「覚悟」の後に来るもので、要は、「自分は何をしたいんだ」「私の喜びはここにあるんだ」という確信が無い。自分探しが出来ていない。直感に生きていない。「魂」の声を聞いていない。


「決断」に際して「迷う」というのは、その人が、まだ「この世」の価値観にグルグルと縛られているということです。何度も言いますが、「この世」というのは「幻影」で、それはスクリーンに映った物語でしかないのです。「魂」にとっては、物語が重要なのではなく、その物語を「魂」がどう体験したか、のみが重要なのです。


お給料が安い? それが何だと言うのでしょうか。地位、名誉、財産、そしてお給料も、墓場には持っていけません。ただ「魂」の体験のみが、来世にも運ばれるのです。そのことを、もう一度、よく考えてみてください。それでも「迷う」というのなら、どうぞ「占い師」の許へでも行ってください。

社会のレールから外れる怖さ
韓国に、その名も『絶望ラジオ』という、若者を対象としたラジオ番組があるそうです。インターネットのポッドキャストという仕組みを使い、毎週月曜日に1時間から1時間30分ほど放送していて、1000人ほどのリスナーがいるそうです。私はそれを、NHKのドキュメンタリーWAVE「“絶望ラジオ”の若者たち〜競争社会 韓国の街角で〜」を観て知りました。

韓国人とは違い日本人はおとなし過ぎて、外に向かって主張しようとする人があまりいませんが、水面下での状況はそれほど違わないのではないでしょうか。ただ韓国の方が、より先鋭的で激しいだけであって、今日の韓国の状況は、明日の日本を間違いなく示唆していると思います。

韓国経済は、財閥系大企業の輸出に依存している割合が非常に高く、主要な貿易相手国であった中国経済が失速すると、たちまちその影響を受け、大企業傘下の中小零細まで一気に冷え込んでしまいました。これが若者の雇用環境にも、深刻な影響を与えているのです。

OECDのデータによると、韓国の大学進学率は71%で日本の51%より20ポイントも高いのですが、10人中4人が卒業しても就職できない状況にあるようです。これは、大企業や公務員の椅子をめぐって、激しい受験競争が繰り広げられている反面、皮肉なことに、そこからこぼれ落ちる人も多いということです。

韓国の若者たちは、自分たちのことを恋愛、結婚、出産を放棄せざるをない「三放世代」と自嘲して語るそうです。そういう人たちの気持ちを吐き出す場所として『絶望ラジオ』が登場し、リスナーを獲得して行ったんですね。でも日本だって、「三放」という状況は同じではないでしょうか?

なぜこんなことになってしまったのでしょう? IMFのデータによると、所得上位10%の人の所得合計が全体に占める割合は、韓国が45%、シンガポールは42%、日本でも41%に達するそうです。韓国はアジアで一番高いということですが、日本でも所得格差が広がっているということですね。そしてこれは、全世界的な傾向であり、全世界的に若者が「絶望」的雇用状況に追いつめられているのです。

フランスでは、社会党出身のオランド大統領が画策する労働法改正に対して、労働者の反対抗議デモが続いています。社会党といえば、本来は労働者の味方だったはずです。ところが保守政党の国民運動連合側が、労働法改正に反対を唱えるという、ねじれ現象が生じているのです。まさに、政治など茶番劇。どっちが政権をとっても、結局、向かっているところは一緒なのです。

それはアメリカのオバマ大統領を見ても解るでしょう。反ブッシュの票を集めて当選したはずなのに、大統領になったとたんブッシュ政治を踏襲する大統領に豹変してしまいました。オバマ大統領もマペットに過ぎず、結局のところ、国際政治は、大きなシナリオを影で描く者たちに操られるまま、カオスへと向かっているのです。

それなのに、一般大衆は、政治への無関心、無知のまま、自分たちの首を絞める政治家と政府を選んで、騙されるがままになっている。世界の中では、こうした構造に気づき出し、抗議の声を挙げる人がしだいに増えてきているというのに、島国に暮らす日本人はこの点で非常に遅れています。

韓国の若者の「絶望」は、よく解るのです。「解る」などと簡単に言ったら失礼かも知れませんが、私も20代は「絶望」と「焦り」の中で過ごしました。

いま振り返ってみると、それは「社会のレールから外れる怖さ」なんですね。私の場合は、まだ社会全体の状況は悪くなかったですから、自分一人が「社会のレールから外れる怖さ」を感じていました。でも今の時代は逆転してしまって、過半数の人たちが「社会のレールから外れる怖さ」を感じているのではないでしょうか?

韓国社会は、このレールが非常に細い上にキッチリしているから、余計に「外れる怖さ」が強いと思うのです。でも、これも今になってやっと解るのですが、「レール」というものも、社会が作り上げた錯覚に過ぎないんですね。そういう「レール」を敷く者がいて、その価値観を教育によって洗脳し、大衆を錯覚の中に追い込んでいるだけなのです。

「生きる」ということをプリミティブ(原初的)に考えたら、無人島で暮らすことだって、山奥で暮らすことだって、まったくOKなんです。今の社会システムから逸脱した環境で暮らすことだって出来るんですよ。勇気さえ持てば。要は、自分が「生きる」うえで何に価値観を見いだすかということです。

「レール」にしか価値がないと思い込んでいたら、そりゃあ、外れることはやはり「恐怖」です。でもそうじゃないということ。出来るだけ早く、そこに気がつくことです。

そこで、今の若者がかわいそうだなと思うのは、小さい頃から、「外れる」訓練を殆どさせて来て貰っていないということです。なんでも一律でしょ。遊びは全員テレビゲーム、買い物は全員コンビニ、全員がスマホを持って、全員が LINE を使い、全員がチェーン店のカフェや居酒屋へ行く。そういう「レール」しか知らないで育っている。

いろんな仕事があることを見て来ていないし、ヘンなおじさん、ヘンなおばさん、奇妙な老人にも出会っていない。だから、もし「絶望」しそうになったら、思い切って「旅に出たら」と勧めたいです。ひとに「甘えてみたら」と勧めたいです。唐突に思われるかも知れないけど、それが訓練になるから。

世界は多様だということ。「レール」は1本じゃないし、「レール」から外れて野原を歩くことだって出来るんだよね。その方が、自由でのびのびしているとは思わないかい? かつてそういう世界的なムーブメントがあったんだよ。1960-70年代のヒッピーさ。

どんなに外れたって、地球の地面から外れるわけはないんだよね。この意味、解るかな? もっと言おうか。宇宙から外れるわけは絶対にないんだよ。だから、もし「絶望」しそうになったら、旅に出ようよ。そしてひとに甘えてごらん? 思い込みを手放すことが出来るから。
なぜストライキをしない?
日本の非正規雇用者の割合は4割を超し、今もなお増え続けています。年収200万円以下、貯金も出来ずにカツカツの生活を強いられているという人も多いことでしょう。厚労省は、非正規で働く人の雇用の安定や処遇の改善を図ると言っていますが、まったくもって笑止千万。では、そうなるような政治を今まで推進して来たのは誰なのか? 日本政府じゃありませんか?

政治家、役人というのは、問題を作っては「対策」と称してまた問題を作り出す。そして税金をかすめ取って懐を肥やしていく。その悪知恵に掛けては天才的だ。今やそういう才能を持った人間しか、政治家、役人になれない。何から何までとことん腐り切っている。

この超格差社会の煽りを、もっとも受けているのが若者とシングルマザーではないかと思う。これでは、結婚もできないし、少子化になるのは当たり前ではありませんか? それなのに、これもまた「少子化対策」と称して、特命担当大臣のポストまで作り、実効性のない無意味なスローガンの羅列だけのために税金を使っている。

若者は日本の将来を担うことになるわけだし、シングルマザーはその次の世代の若者を育てていく渦中にあるわけで、どうしてもっと大切に扱わないのだろうと思う。年金だって、次の世代の収入が支える構造になっているわけですから、破綻するのは目に見えている。それなのに、年金運用の失敗で8兆円もの損失を出したというのですから、どうなっているんでしょうねぇ。

もう一つ、私が不思議で仕方がないのは、デモやストライキが起きないこと。欧米では今の政治に対する不満からデモやストが頻発しているというのに、日本にはそれがない。ただじっとして、甘んじて受け入れるといった風潮です。「和の精神」にも全くほどがある、と思います。Cool Japan とか言って、オタク文化に埋没しているだけで本当にいいんでしょうかねぇ。

私は、自分が27歳までフリーター生活を送りましたから、その時の不安感や焦燥感や絶望感がよく解るんです。今とは時代状況が違うので、自分が味わった感覚と、今の若者が同じだと断じるわけにはいきませんが、若者特有の感覚というのは、そんなに違いがないんじゃないかと思うんですよね。

当時は、自分が結婚できるなんて思ってもいませんでした。社会から落ちこぼれたという疎外感と、到達できない理想へのもどかしさが一緒になってしまい、いっそのこと「もう死んでやろう」と思いながら、一袋のそうめんを朝夕に半分ずつ食べて、生きながらえて来ました。おかげで栄養失調になり、眼病になったこともあります。

自分はへなちょこだったけれども、フヌケにはならなかった。いつも怒りを抱えていて、そのエネルギーを燃やして生きてきました。

人生はいつでもやり直せますから、将来がどうのと言うつもりはないのですが、心が折れてしまうことだけが気がかりなのです。理不尽な状況を甘んじて受け入れ続けていますと、心がポッキリ折れてしまいます。そうなると、自己を変身させるエネルギーまでもが失われてしまいます。それはもったいないことですし、何よりあなたの「魂」が喜びません。

あなたには才能があるし、自分を輝かせることが出来るのですから、そこに向かって、とにかく一歩を踏み出すことが何より大切です。後先考えずに、ご自分の直感に従って行動して欲しい。あなたは独りぼっちではなく、あなたにはいついかなる時にも応援してくれる守護霊が付いているのですから、安心して、この世の生を全うしなさい。

怒ったっていいんですよ。反抗したっていいんですよ。若い炎を燃やせ。シングルマザーの苦境を叫べ。そうやって、腐り切った社会を、理想社会に変えていくんだ。
Move! Move! Move! Move!



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