by Rainbow School
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あなたの「仕事」は?

あなたは何者ですか? そう問われたとき、あなたならどう答えますか? 先ずは名前を言う。次いで年齢を言う。居住地を言う。既婚か独身かの別を言う。家族構成を言う。出自(家系)を言う。人によっては、出身大学や海外留学経験を言う人もいるかも知れません。でも大抵の場合、決定打は、今どんな「仕事」をしているかであり、それにプラス「肩書き」というものが加わる。それが、半ば常識になっていますよね。

 

そのことに、今ではほとんど誰も疑いを持ちません。典型的なのはビジネスの場での初対面。いきなり「肩書き」の入った名刺を交換し、互いの素性というものを判った気になる。という儀式が、今日もどこかでおごそかに行われています。でもそれって、その人を表しているのでしょうか? 名前は単にラベルだから別として、仕事や、肩書きや、年齢や、家族構成なんてものが、本当に「その人」が何者かをを表しているのでしょうか?

 

これが常識化している社会では、困った問題が生じます。何も職についていない人は肩身の狭い思いをしますし、周囲も、「いつまでも働きもせずにブラブラしている奴」という、まるで社会の落伍者であるかのようなレッテルを貼って見るからです。「引きこもり」という言葉もそれで、こうした社会的圧力が非常に強い時代となっています。「あのなぁ、室戸岬の洞窟に引きこもらなかったら、空海は誕生していないんだぞ」と、私は言っているのですがね。

 

書類の職業欄というのが困る。選択式になっている時には、「ほんとは違うんだけどなぁ」と思いながらも、仕方なく「無職」欄をチェックするのですが、フリースペースがある時には「隠居」と記入しています。すると、それを見た相手は、大抵びっくりした表情をしますね。何か変でしょうか? 職業、隠居。字の通りなんですけどねぇ。

 

半世紀前には、テレビの視聴者参加番組で、司会者から「お仕事は?」と聞かれて、「主婦です」と答える人がたくさんいました。若い女性は、大多数が「カジテツダイ」と答えていました。私は小学生だったものですから、その意味が解らずに、てっきり「火事手伝い」だと思い込み、世の中にはこんなにも火事が多くて、手伝いをする人もいっぱいいるんだなぁと思っていました。でもなぜかお姉ちゃんばかり。おい、火事場に飛び込む勇気ある男はいないのか!

 

な〜んて冗談を言える状況ではとうに無くなっていますよね。総務省の直近データを見ると、非正規労働者の割合は38.2パーセント。10人のうち4人に迫ろうとしています。25年前の1990年と比べると、その割合は2倍だそうです。裏にあるのは、言わずもがなの「派遣労働者」制度の解禁。お若い方には分からないと思いますが、これは25年前に、政府と産業界がそういう戦略に意図的に転換した結果なんですよ。

 

一世代分が経過して、当時のことを知らない若者が、理不尽なことにいま苦しめられているわけです。当時も、もちろん反対はありましたよ。でも政府は、どんなに反対があっても、ジャパン・ハンドラーズ(日本操縦者)のご意向だけは、しっかりと実現して行く。そうしないと、自分がクビになってしまいますし、甘い汁も吸えなくなってしまいますから。クビになるのがいいのか、甘い汁がいいのか、となったらみんな甘い汁の方を飲んじゃう。

 

急所となるのはいつも法律の改正。でも、一般国民は法律のことなんて解らないし、政府お抱えの有識者が必ず登場して、適当な理屈を並べ立てては世論の動きを誘導して行ってしまう。こうして法律が改正される。でも変化は徐々に進むので、それがどんなに重大なことかは、その時点では分からない。一世代経過した頃になってようやく気づいた時には、もう「手遅れ」となるのです。

 

こうして、悪辣な大人たちが結託し、次世代の若者(+最近は老人)を泥沼に突き落として行く。その中から這い上がった一部のエリートたちが、また悪辣な大人へと成長し、次世代の若者をさらなる泥沼へと突き落として行く‥‥。この連鎖が止みませんね。いったい何をどうしたらいいと、あなたは思いますか? それとも、そのような実情に、何も痛みを感じないでしょうか?

 

私は5カ月間、パチンコ屋の深夜清掃の職についた時に、使い捨て労働力にしか従事できない人たちを見て、共に働いて、ちょっとだけ悲惨さを体験しました。ましてや、寮のタコ部屋に住み込んで、賃金の中から家賃、光熱費、保険料を差っ引かれ、手取り僅かで貯金も出来ず、急な雇い止めにあって寮を追い出され、住所定まらず、そのせいで面接にも行けず、路頭に迷う人々の悲惨さは、どれほどのものかと思います。

 

私も、28歳までプータローでしたので、働いても働いても未来が見えない、当時の不安や焦りは、思い出すとゾッとするものがあるのです。しかし当時と今とでは、状況が全く違いますね。当時は、選ばなければ職はありました。もちろん正規雇用の。日本企業の中に、「人材は宝である」「次代の弊社を担う大切な財産」という考えが当たり前のようにあったのです。

 

それが1990年代に入って一掃された。終身雇用制など、もう時代遅れだ。それではグローバル競争の時代に生き残っていけない。先ずは、企業が収益を上げることが最優先だ。それがあってこそ、雇用もあるのだから。というもっともらしい理屈で、雇用の自由化(自由と聞くと、なんとなくいい感じがしますが、実質は使い捨て、不安定化)が推進されたのです。

 

その結果が今ですよ。それで、グローバル競争とやらに勝ったんですか? 政治も、経済も、科学技術も、教育も、何もかもが日本は三流国に転落しちゃいました。それだけじゃないです。正直で勤勉というかつての日本人イメージが薄らぎ、今や世界の嫌われ者になりつつある。日本のお粗末な政界スキャンダルは、海外にだって知らされているんですよ。日本国首相が国連で演説台に立っても、席はいつもガラガラ。まともに聞く人など誰〜れもいない。

 

今日、政府の発表やマスコミ記事は、基本的に全部ウソだと思っていた方がいいです。ウソをつくことが、彼らの日常業務になってしまっている。これ以上、そこにムダなお付き合いをし続ける必要はない!

 

でも、政治には無関心でいい、と言っているわけではありませんよ。政治は大事です。政治が、人々の生活のあり方を大部分左右してしまいますからね。政治は大事ですが、既存の枠組みの中で発想することの限界が、あちこちで露呈していることに、もういい加減に気づくべきだと言いたいのです。議院内閣制、政党、選挙、三権分立、法律、そういったものが、人々の幸福とは何の関係もないところで動いているということに。

 

それともう一つ。国際政治の裏舞台は、いま激しく揺れ動いているということ。私がテレビ、新聞、雑誌のニュースを見なくなってから、もう10年以上が経ちました。けれども、マスコミに一切触れなくなってから、国際政治のツボというものが却ってよく解るようになりました。ですから、マスコミが流すニュースがウソだらけということが非常によく分かるのです。その裏で(国民には知らされないところで)、日本は、国際的に孤立化を深めています。

 

このようなウソ報道、操作報道に、丸ごと身を預けている時代はもう終わったということです。今は、インターネットというものがあるのですから、自分で信頼できると思われるソースに当たって、自分の見解や考えをまとめ、かつ発信する時代になったということ。これからは。劇団ひとりならぬ「報道ひとり」です。それが、今日の、政治への新しい関わり方です。

 

さて、「働き方」ということについても、これまで同様、政府が言うことはウソだらけであり、これを既存の政治の枠内であれこれ行っても、もうどうしようもないところまで来ています。たとえ議論というものが行われたにせよ、政府がやることは皆、「そういうことを一応やりましたよ」というアリバイ作りのための茶番劇に過ぎません。辺野古基地移設問題を見れば、よく解るじゃありませんか。

 

労働者の奴隷化は、計画から25年で成就しました。次に政府が狙っているのは、国民の家畜化です。「何とまあ大袈裟な」と思われるかも知れません。でもね、これは、あらかじめ決められたシナリオなのですよ。今までだって、「そんなバカな」と思うことが、着々と、少しずつ実現されて来たのですから。茹でガエル状態で、ちょっとずつそうされて来たのですから。

 

年金制度などは明らかな詐欺です。政府が年金詐欺をやっている。支給開始年齢を一年ずつ繰り延べすると決定した時点で、もう詐欺開始。お得意の茹でガエル作戦による詐欺。そして今度は70歳にするのだと言う。その言い分が凄い! 「70歳まで働ける世の中にします」って。おいおい。その次は間違いなく80、次は90、その次は100歳になる。その裏で、集めたお金は博打に注ぎ込んでいるのですからねぇ。いやはや。

 

ですから、いつまでも政府の考えに身を任せていたら、本当に、やがては家畜にされてしまいますよ。すでにそういうしわ寄せが、力を持たない若者や、老人や、母子家庭に襲いかかっている。もちろん、こうした事態は、現行の制度が創り出した影の部分です。それらは、そうしたい人たちによって、意図的に創り出されたもの。ですから、その制度が変わらなければ、この状況は好転して行きません。

 

でもね。そこで本日のテーマとなるのです。そこに、発想の転換が望まれるのです。大胆な発想の転換が。

それは、「仕事とは何か?」を、もう一度問い直してみるということ。今がそのチャンスです。なぜなら、この先、雇用は今以上にどんどん無くなって行くことが予想されるからです。

 

現代人は、仕事=雇用という考えに、あまりにも深く染まっています。でもそうなったのは、つい最近になってからのことなんですよ。半世紀前には、「家事手伝い」が、「仕事」として堂々と言えたし、社会的に認知されていたのです。それで、誰にも恥じることはありませんでした。でも今、同じことが言えるでしょうか? 現在では、「仕事」と言えば即、大多数の人が「働き口」を考えるようになっています。

 

そうなると、「働き口がない」ことは、「仕事がない」と同義になってしまうのです。実際、その意味で、「仕事がない」という言葉をみんなが使うようになっています。また、それを当たり前だと思い込んだうえで、労働問題を議論したりしています。でも、果たしてそうなのでしょうか? これは、サラリーマン社会、ドレイ労働社会の洗脳が、極限にまで浸透した何よりの証拠だとは言えないでしょうか?

 

例えば、あなたの家が農家だったとしましょう。朝、市場に出荷するきゅうりを畑に取りに行くこと。それは「仕事」ではないのでしょうか? では、自家用のサラダにして食べるきゅうりを取りに行った場合はどうでしょう? また、それをサラダに仕立てて食卓に出す行為は、「仕事」ではないのでしょうか? 食事の後の皿洗いや布巾の洗濯は、「仕事」とは呼べないのでしょうか?

 

いいえ、そんなことはありません。全部が「仕事」です。ですから、「仕事がない」なんてことは決してあり得ないのです。私は、毎週20時間前後を費やして、この『気づきの啓示板』ブログを書いています。それは、今の私の「仕事」なのです。誰かに言われてやっているわけではありません。私が、それを「仕事」だと考えたから、それが自分の「仕事」になったのです。

 

ここで、原始人を想像してみてください。彼の、彼女の「仕事」とはいったい何でしょうか? 「雇用」など、まだどこにも無いのですよ。おそらく「仕事」という概念すらも無かったでしょう。言い換えれば、現代人が、いかに「仕事」というものを狭い範囲でしか捉えていないか、捉えなくなったか、またその概念に洗脳されているか、が解ろうというものです。どうしてそうなったと思いますか? いったい何がその原因なのでしょう?

 

そう、その通り。「お金」です。この半世紀で、「仕事」とは「お金」を得るためのものであり、人は「お金」が無ければ生きられない、という信念を、あらゆる場面を通じて、現代人は吹き込まれて行ったのです。よって、仕事がない → お金が得られない → 生きられない → 絶望しかない、という苦悩が生み出され、その苦悩から逃れるために、ドレイ労働であっても、自分から進んで従事する状況が創られたのです。

 

『ハローワーク』という制度すら、その信念の強化に寄与しています。私が、「○○支援」とか「○○サポート」という言葉に諸手を挙げて賛同しないのはそこです。ひとたび「支援」を制度化しますと、それがいつの間にかスタンダードとなり、概念がすっかり入れ変わってしまうのです。すると人々は、もう「支援」なしではいられなくなる。そこに、その市場を狙った利権が必ず発生して行くのです。

 

「お金」とは、単なるツールです。そのツールに、現代人はとことん汚染され、操られ、苦悩させられ、でもそのカラクリを知らず、今や家畜にまで落とされそうになっているのです。

 

ホームレスになって、都会で狩猟採集生活をしている人をみると、気の毒に思う半面、同じ狩猟採集生活を、どうして山に来て行わないのかな、と思います。発想を変えればいいのに‥‥。住居がない → 面接が受けれらない → 仕事に就けない → お金がない → 部屋を借りられない、というループから、山に来れば、直ぐにも抜け出せるのに‥‥。

 

今はどこの山村も過疎化しているから、家もたくさん余っているしね。自治体の中には、仕事を見つけてくれるところだってある。自然の中に身を置けば、自分がいかに、仕事=雇用=お金という概念に縛られていたかが分かると思うのです。そして本来、自分は「自由」なのだということも。何なら、落ち着くまで、私の家に来て貰ってもいい。ボロ屋だけど、まあ何とかなるさ。

 

宇宙的に言えば、あなたの「仕事」は、極めて明白なんですよ。誰にとっても同じ。原始人と同じ。犬猫とも同じ。ただ一つしかない。それは「生きる」こと。えっ、生きること? そう、生きること。生き延びること。それがあなたの「仕事」。それ以上でも、以下でもない。問題は、どうそれを「生きる」かということなのです。いわゆる「職」は、その「生き方」を構成する多くのファクターの、一つの要素に過ぎない。

 

みなさんは、社会の刷り込みもあって、「雇用」とか「適職」とか「自己実現」とか「社会的成功」とかに、あまりにも意識が傾き過ぎているのです。その歪(いびつ)さに気がついていないのです。気がつかぬまま巻き込まれている。そこにこだわり続けるものだから、それが実現できていない今の状況が、不満足だし、不安だし、卑小に思える。自分の存在価値がないように感じるのです。要は、自分で自分を苦しめているのです。

 

そこに気づきなさい。そんなつまらぬこだわりなど、さっさと捨てなさい。あなたの「仕事」は生きることだ。そして課題は、どう生きるかということ。あなたは、どう生きたいのですか? よく、自分の「適職」とか「使命」だとかを霊能者に尋ねる方がおられるのですが、そんなものは、自分が決めることなんですよ。あなたが、どういう意志を持つかということなのです。

 

そして、さらに宇宙的に言えば、その理想は、「愛」に生きるということ。全き愛の人になるということ。完全なる奉仕を己の「仕事」にするということ。それは、あなたの意識のあり方の問題、意識のあり方の転換、意識のあり方の成長を問うている。このことが、この先、嫌でもはっきりと自覚されるようになります。なぜなら、「職」が無くなるから。「雇用」がますます狭き門になるから。

 

その時、あなた方は、今までの考え方と、社会システムを根本から変更せざるを得なくなります。資本家と労働者、雇用者と被雇用者、富者と貧者、命令する者と命令に従う者、このアンバランスがもう機能できなくなる。そして、分かち合う経済システム、支え合う社会システムにドラスティックに転換してゆくことになる。その萌芽がもう現れているのですよ。

 

現行システムに君臨する者は、今までのシステムを何が何でも死守しようとします。その焦りと綻びが、あちこちに顔を出しています。ですから、これまでには信じられなかったようなことが、(例えば、ウソをつき続けて平気な政治家、民を苦しめても恥じない官僚、不正を黙認する警察・検察・裁判所、デタラメばかりを流しているマスコミなどの形に表れて)噴出しているのです。

 

あなた方は、その右往左往には巻き込まれないようにして、これから全体を、俯瞰して、穏やかに見て行くのですよ。創造の前には破壊が必要だということ。その役割を演じてくれている者もいるのだということ。光あるところには影があり、影あるところに光あり、ですぞ。そして、あなた方は、混乱の時期を超えて、光の創造の道へと進むのです。

 

いいですか。もう一度、言いますよ。あなたの仕事は「生きる」こと。そして、今世のあなたの課題は、どういう「生き方」を選択するかということ。別の言い方をすれば、あなたという個別化した「魂」の、今世における「表現のあり方」だ。それが、いま問われている。そしてそれは、あなたの自由意志に、すべて任されているのです。

近未来の働き方 ---- AIインパクト後の世界

今から書くことは予測であって予言ではありません。私には予言する力はありませんし、決していたしません。今後数十年で、おそらく人類の「働き方」は激変することでしょう。それ以前に、「働く」ということの意味が一変してしまうかも知れません。また「働く」ことの意味が、良い方向へと変わらない限り、人類はこの変化を上手に乗り越えられないだろうと思います。

 

いま人類は、新たな革新的テクノロジーの導入によって、「仕事」環境を一変させようとしています。そのテクノロジーというのは、AIや、IoTや、Brockchainと呼ばれるもので、これらが雪崩を打つようにして「仕事」の現場に一気に入ることにより、人間の「働き方」そのものが、必然的に変わらざるを得なくなっていきます。ここでは、総じてこれを「AIインパクト」と呼ぶことにします。

 

AI(Artificial Intelligence:人工知能)

IoT(Internet of Things:モノのインターネット)

Brockchain(分散型ネットワーク)

 

例として、今よく挙げられるのが、「タクシー運転手の仕事が無くなる」というものです。これは、クルマの自動運転や、GPSと連動した効率的な配車システムといったものが、既に実用化の段階に入っているためです。けれども、それは単に解りやすい例というだけであって、タクシーで可能なら、長距離トラックでも可能だろう、電車でも飛行機でも可能だろう、ということにすぐにでもなっていくことは疑いようがありません。

 

そればかりではありません。介護も、働き手がいないというのならロボットにしてもらった方がいいんじゃないか。会社の受付も、カフェのウェイターもロボットでいいよね。学校の先生なんてAIの方がずっとマシだよ。病名診断はAIですればいいんだから、医者は要らないよね。ということに必ずなります。ロボット警官やロボット兵士がすでに造られ始めていますし、韓国では、人間は汚職ばかりするからという理由で、政治家ロボットまでが試作されています。

 

このテクノロジー革命は、結局は「人間は不必要」という極端化の方向に限りなく突っ走っていきます。これは、テクノロジーの革新というものが、つねに全体の理想像を思い描くことなしに、部分が先行して進展していくからです。なぜかと言うと、技術革新は新しい産業を生み出します。新産業の勃興は、投資家および企業にとっては莫大な富を生み出す種ですから、「これは行けそうだ」となると、投資が一気に集中し、激しい競争と切磋琢磨が短期間に行われるのです。

 

この、新しい富を生み出すのではないかという期待と、科学者・技術者の熱心さとが結びついた際のモチベーションというものはどうにも抗し難いもので、人間は、制御不能なモンスターを拵えてしまっては、後になって「はて、どうしよう」と、やっと対策を考え始めるという過ちをつねに繰り返しているのです。核にしろ、原発にしろ、化学兵器にしろ、金融商品にしろ、みんな同じです。

 

アインシュタインは、第二次世界大戦末期に、時のルーズベルト大統領に原爆開発を進言したのですが、後に後悔してこう語っています。

「戦争中、科学は人々に毒を盛りました。平和な時には、私たちの生活を忙しくしました。人間を機械の奴隷にしたのです。あなたが図形と方程式を解いている時、このことを決して忘れないでください。」

 

そして、まさに今、テクノロジーの進化はその最終局面へと向かおうとしています。「仕事」の場に、人間はもう不要だということ。SFで散々描かれて来た人間と機械との闘争。そして最終的には、人間が完全に機械の奴隷にされてしまう。そういう時代が、いよいよ到来したということです。

 

AIインパクト後の世界を、科学者や科学ジャーナリストはまるでバラ色のように語ります。ですが、そんな単純な話ではありません。人間がする「仕事」が無くなる。それは、人間とは何か、生きるとはどういうことか、その意味が新しく問い直されるということです。

 

「仕事」が無くなるというのは、なるほど差し迫った脅威には違いありません。ですが、本当の脅威はもっと深いところにあります。それは、AIインパクトによって、人間がますます身体感覚を喪失してしまうということ。言い換えれば、人間が、遂に人間ではなくなるということです。

 

人間が五感を有するのは、この物質世界というものを把握、認識するためです。それは必要があってそうなっているのであり、五感は物質世界を生きるために、天から与えられたツールなのです。ところが、AIインパクトは、人間からこの機能を大幅に代替してしまいます。それを人間は、便利とか、進歩とかと言っているのですが、裏からみれば、機械依存にますます陥っていくということです。

 

今ですら、現代人は、自分の周囲の環境を知覚する能力を大幅に低下させています。あなたはいま食べているものの食材が、どこでどのように作られどうしてテーブルまでやって来たのかを知っていますか? あなたは自分のウンチがどこへ行ってその後どうなるかを知っていますか? あなたはどれが鮮度のいい魚か見分けられますか? あなたは食べていいものといけないものを臭いで嗅ぎ分けられますか? 半世紀前なら誰もが知っていたことを、現代人は知りません。

 

現代のお医者さんは患者の顔色を見ません。舌の状態を見ません。まぶたの裏を見ません。検査機関から挙がって来たデータを見て、それで「診断」を下しています。巷の人々は、わずか10年で、あっと言う間に「世界須磨穂教」の信者になり、そこから得られる「情報」の虜にされるようになりました。今や、自分が認識する「世界(World)」とは、機械の向こう側に広がる世界なのです。それが、あなたのリアリティになっている。

 

しかし、このような環境に常時置かれていたのでは、早晩、人間は心を狂わせてしまいます。自分が「生きている(Live)」という実感が、五感の鈍化によって失われる一方で、「生存(Survive)」するためには、周囲の機械が不可欠となっていきます。そしてこれが、「生きることの不安」をさらに増幅させ、その不安から逃れるために、ますます機械にハマるという悪循環構造を作り出すのです。現に、今そうなっている。

 

人は、「自分が、誰かに、何かに役立っている」という手応えがなければ、決して満足することはありません。それは心を超えた魂レベルの問題であり、根元的な願望なのです。「全部が一つ」ということを、「仕事」を通じて思い出していこうとするのです。けれども、人々の一部は、特にエリート層の人たちは、そこを全く理解していません。「仕事」というものを、生産性とか、対価の問題としてしか、考えていないのです。

 

するとどうなるでしょうか? 資本家や経営者は、コストは出来るだけ下げて、生産性を出来る限り高めたいと思うでしょう。その手っ取り早い手段が、賃金の抑制です。資本家や経営者は、「会社が儲からなければ給料は払えないんだから」と説明しますが、失われた20年で判ったことは、たとえ大会社が儲かっても、全体の平均賃金はますます低下し、貧富の格差が拡大する一方だったということです。

 

投資家にとっては、会社の従業員は人間ではありません。会社に付随した生産機械の部品でしかないのです。投資家というのは、投資対象は何でもいいのであり、土地、不動産、株、債権、先物、絵画、宝石、なんでもござれで、儲かりそうなところを次々にサーフィンしていく。ですから、企業もその一つに過ぎず、売ったり買ったりできる商品だとしか、投資家は見ていません。

 

グローバル経済の浸透後は、このような投資家(8割は外国人)に日本の企業が商品として売買されることが当たり前となり、その度に、その会社で働く従業員たちが振り回されるという事態に追い込まれてしまったのです。こうした投資家が、日本企業を支配し、その企業がさらに政府を操って、法律を自分たちに優位になるように変えて行った結果、今のような絶望的な貧富の格差が生じる事態となったのです。

 

さて、いま進展しつつあるAIインパクトを、投資家や資本家の視点に立って考えてみてください。彼らは何のために導入を急ぐのでしょうか? 言わずもがなの、究極の賃金コスト抑制策になる得るからです。何しろ、人間を雇わなければ、給料を支払う義務が無くなります。この技術革新による低コスト競争に、いち早く勝たなければ、この先は生き残れないかも知れません。それで我も我もと急ぐ。

 

今までの考え方の延長線であったとしたら、当然そうなります。しかしその試みは、失敗に終わるでしょう。短期的には成功を収めたとしても、その状態を続けることは出来ないと思います。なぜなら、労働者というのは、同時に消費者でもあるからです。労働者がいなくなったら、消費する者もいなくなってしまいます。ですから、商品やサービスの売り先がなくなってしまいます。

 

その表れは、すでに今の経済状況の中に見ることが出来ます。日銀は、安倍政権になって通貨の供給量を3倍に増やしました。それなのに、目標としていた2%のインフレ率が達成できずに、6回もの達成目標の延期を行っています。通貨をいくらじゃぶじゃぶにしても、賃金抑制によってそのお金が庶民には届きません。全部、株価操作に使われてしまう。これでは、庶民はより安いものしか買えなくなるのは当然です。

 

ですから、AIインパクトによって、真っ当な賃金を貰える人の数がさらに激減したら、今の経済システムそのものが崩壊してしまいます。今の強欲な資本主義は、どのみち崩壊しますが(延命策によって、今はかろうじて回っているように見せているだけ)、庶民にとっては、「働く場が無くなる」という衝撃は、身近に迫った重大な危機であることは間違いありません。

 

そこで、「働く」という意味そのものを、根本から変える時期が来ているのです。

 

あなたは、「働かざる者、喰うべからず」と思っていますか? 思っているとしたら、どうしてでしょうか? 私は54歳の時に引退を宣言し、世間で言ういわゆる「仕事」はやめてしまいました。それまでいた業界で、自分が通用しなくなったためです。その後、パチンコ店の深夜清掃のアルバイトを5カ月、次にラブホテルの受付のアルバイトを3カ月やりました。でも、どちらも体調を崩してやめました。

 

その後で、『お風呂の王様』の面接に行ったのですが、採用されませんでした。その時に悟りました。「そうか、自分は労働力としては、もはや見なされないんだ」と。何といっても向こうは王様、こっちは単なる一般ピープルですから逆らえません。それでガックリ来て、それ以上、仕事を探すのを諦めたのです。仕事をしないとどうなるのかな?という興味もありました。

 

今は年金で暮らしているのですが、働いていないのかと言えば、働いています。このブログを書くのに丸々2日を費やし、疲れ果てて1日休むので合計3日は最低掛かる。その他に、家事をこなし、月に1回のセミナーの準備をしたり、ホームページを作ったり、草取りをしたり、家の修復をしたりと、結構忙しい。ただ稼ぎがないというだけであって、働くことは働いている。

 

つまり、「働く」という意味が、以前とはもう全く違うんですね。「働く」=「自己表現」になったのです。私にとっては、掃除も洗濯も料理も、みんな自己表現です。自己表現であることをつねに意識して、体を動かしています。もはや、「収入」と「働く(自己表現)」ということが、リンクしていないのです。そして、この意味の転換は、やがては人類に共通のものとなります。

 

「働く」ことの意味が一変する。そうでなければ、人類の解放はありません。

 

「労働」は、これまで、主として対価を得ることに力点が置かれていました。そこから「働かざる者、喰うべからず」という言葉も生まれたのです。しかし、そう思い込ませたことは、資本家や投資家の地位保全に大いに寄与しました。富者は自分では働きません。他のものに働かせるのです。土地、不動産、株、債権、会社、使用人、そしてお金そのものなどに。

 

矛盾した話ですが、一部のスター以外、自分で働く人は決して大金持ちにはなれません。自分以外のものを働かせる人だけが大金持ちになれるのです。「働かざる者、喰うべからず」という洗脳は、こうした「自分では働かない人たち」を支える構造に使われているのであり、多くの人々は、失業=無収入=飢死、の恐怖に怯えながら、しぶしぶ奴隷的労働に従事させられて来たのです。

 

これが、長い人類史だとも言えるのですが、このカラクリに未だに人々は気づいていません。しかしここで、よく考えていただきたいのです。人類には、なにゆえに貧富の格差があるのでしょう。なにゆえに貧富の格差が次の世代にも引き継がれてしまうのでしょう。なにゆえに支配する者と支配されるものがいるのでしょう。なにゆえに富をめぐって武力衝突が起こるのでしょう。

 

その答えは簡単です。分け与えようとしないからです。人間が、互いに奪い取ることばかりを考えて、それをひたすら実践しているからです。ですから、このカルマが何百年、何千年経とうが止まない。でも、分け与えることを第一に考え、人類がこれを実践していったとしたらどうなるでしょう。たちまちにして世界は変わります。餓死の不安は消えて、戦争も無くなって、全世界の人々が、仲良く平和に暮らせる社会が出現します。

 

世界の人口を養えるだけのものは充分にあります。不足も必要もありません。偏りがあるから、不足や必要があるように見えるだけです。世界の富の半分を、わずか1パーセントが所有している。この極端なまでの偏り。その反対側の、今日の食事さえままならない7億人の人々。もしも、使い道なく秘匿されているこれらの富が出回ったら、貧困などはあっという間に無くなることでしょう。

 

いま、世界中で「ベーシック・インカム(Basic Income)」の導入が検討されています。すでに実施している自治体もいくつか出始めています。これは、今までのような社会保障制度のあり方、〈生活困窮者に限って給付金を手渡す〉といった考えを止めてしまって、すべての人々に最初から一律に生活費を支給してしまおうという考え方から成り立っています。

 

これまでの常識であった「労働と賃金」(賃金は労働の対価)という考え方を根底からひっくり返すものであることから、初めて聞く人は、きっと戸惑うことだろうと思います。ですが、この制度のメリットは計り知れません。先ず、生活保護費の給付金対象者を「判定する」といった事務やコストが一切必要なくなります。それに全員に一律ですから、生活保護を受けるという後ろめたさもなくなります。

 

さらに、毎月の生活費がきちんと届くので、将来の生活不安というものがなくなり、貯蓄をする必要もありません。その結果、お金が市中に出回るようになるので、市場経済が活性化します。またすべての職業人が、基本として、生活のためにお金を稼ぐ必要がなくなるので、失業や追い詰めるような成果のプレッシャーからは解放されます。教育費もタダ、医療費もタダが実現できるでしょう。

 

まるで夢のような話に思えるでしょうが、AIインパクトを乗り切るには、この方向しかありません。人間の「仕事」がなくなる時代を、今までのような労使概念(資本家と労働者)の延長で捉えていたのでは、貧富格差のさらなる拡大を飛び越し社会そのものが崩壊してしまいます。しかし「ベーシック・インカム」が実現できれば、AIインパクトを、人類の解放に利用することもできるのです。どっちに行くかで180度違う。人類にとって、これはまさに運命の分かれ道です。

 

富裕層、既存支配層は、当然あれこれと理由をつけては、この一大転換を阻止しようとしてくるでしょう。「ベーシック・インカム」の発想は、〈みんなでシェアする〉という考え方を基点にしています。これは、富裕層がこれまで築き上げて来たスケールを根底から破壊するものになるからです。ところが面白いことに、シリコンバレーの若いIT起業家たちの多くは、この「ベーシック・インカム」に賛成の意向を示しているのです。

 

しかし、ここで再び考えていただきたいのです。空は誰のものでしょうか? 空気は誰のものでしょうか? 水は誰のものでしょうか? 土は誰のものでしょうか? 土地は誰のものでしょうか? 鉱物は誰のものでしょうか? 海は誰のものでしょうか? 海にいる魚たちは誰のものでしょうか? 夜空の星々は誰のものでしょうか? その光は誰のものでしょうか? 宇宙は誰のものでしょうか?

 

誰のものでもありません。みんなに等しく与えられたものです。それなのに、一部の人間たちが、「これは俺のものだ」と勝手に線引きをして、それを認めさせる制度を作り、他者には「分け与えない」ことを正当化、常識化してしまいました。その結果、支配者と被支配者が生まれ、奪い合いと闘争が生じ、貧富格差が拡大し、奴隷的労働が公認され、多くの人々が生活苦にさいなまれるようになったのです。

 

AIインパクトは、人類にとって諸刃の剣です。しかしこの進展をストップさせることは、もはや出来ません。テクノロジーの革新は、今後急速に進みます。ですから、これを、人類の目覚めの千載一隅のチャンスとして用いることが大切になって来ます。

 

人間が不要になるということは、「生産」に関わる人間の数が、今よりもずっと少なくて済むということです。視点を変えれば、今よりもるかに少ない労働コスト、エネルギーコストで、地球人全員に、生活に必要な物資が供給できるようになるのです。さてそこで、「仕事」に対する考え方の大転換が必要になって来ます。遊んで暮らす人を認める、生産しない人を認めるということが。

 

ここに至って、「働く」ことの意味、「仕事」の意味が根本的に変わります。「働く」ことと「稼ぐ」ことがもはやリンクしない。「働く」ことは、自己表現に全面的に変わるということです。今の世間常識からすると奇異な感じに映るかも知れませんが、このブログでは繰り返し言って来たことです。人間は自己表現せずにはいられません。それをすることがその人の「仕事」なのであり、自分を生き生きとした喜びで満たすものであり、生まれて来た目的なのです。

 

ですから、この「働く」ことの意味の転換は、人間の本来のあり方に収まるということになります。どうか今日から、「働く」ことを自己表現の視点で捉え直してみてください。そしてその中で、五感をフルに使うのです。どんな仕事も、クリエイティブでない仕事はありません。料理をする時でも、洗い物をする時でも、掃除をする時でも、人は常にクリエイティブであり続けられます。そして、そう行動できる人が、ハッピーでいられる人なのです。

 

これまで、芸術に生きようとする人は、大多数が苦難を強いられて来ました。生活苦があるので、パトロンに魂を売り渡したり、「先生」に奉りあげられることをよしとする人もいました。それは、非生産的なことは仕事に非ずと見なされて来たからです。ゴッホなどは生前一枚しか絵が売れず、ノイローゼになって耳を切りました。しかし「ベーシック・インカム」が実現されれば、生活苦もなく、将来不安もなく、全員が自分のやりたいことに打ち込めるようになります。

 

芝居をやりたい人は、アルバイトをせずに芝居ができます。音楽を聴かせたい人は、望まれるところどこへでも行って自由に演奏ができます。無農薬野菜を作りたい人は、遊休地を借りて気兼ねなくできます。コスト割れだった林業も復活させられます。サーフィンをし続けたい人は、海辺に引っ越して好きなだけやれます。そうやって、全員が思い切り自己表現をすればよいのです。

 

それで丸く収まるように、宇宙というものは出来ているのです。信じられないでしょう? 信じられないという人は、自然を見てください。自然の中の循環サイクルに眼を凝らしてください。放っておいたら大変なことになる。無秩序で大混乱になる。そう思って、この循環サイクルをいじくりまわし、却ってアンバランスを作り、そのしっぺ返しに遭っているのが今の人間たちなのですよ。

 

いいですか。この大宇宙にムダなものはなに一つないんですよ。あなたという個性は、あなたという個性を役立てるために生まれたのです。梅は桜になろうとはしない。ただ梅を生きるだけ。この言葉を今いちど思い出してください。そして、自分の個性を最大限生かしなさい。誰かのためにとか、役に立とうとか、小賢しいことは考えるな。自分がやりたいことをやれば、それでいいのだよ。

 

だから、己の「魂」の声を聞け。心ではない、そのもっと奥にある「魂」だ。そこにインプットされている。あなたが自分で刻印して来たメッセージが。

 

あなたが、このあなたが、あのあなたが、やりたいことをやれば、それで全部が丸く収まる。そのように宇宙は出来ている。それは同時に、自動的に、宇宙全体に役立つことになっているのだよ。

生きにくい時代を、生きぬくために

私は、すでに還暦を過ぎているのですが、今の時代に20代であったとしたら、果たして生きていけるだろうかとよく思うのです。昔が良かったとは言いません。28歳まで自分はフリーターでしたし、風呂なしトイレなしの掘っ建て小屋に住んでいて、食事はそうめんばっかり。自分の将来が見えずに、押し寄せる不安感と闘いながら、ただクラゲのように漂っていました。

 

未来が見えない不安感というものは、人間にとって、とりわけ若者にとって、いつの時代にあっても共通のものだと思います。でも自分が20代であった40年前と今とでは、明らかに違うものがある。それは、社会にレールが敷かれていたということ。自分の不安感は、そのレールに乗らないことを選択した際の、心の揺らぎと、生活苦でした。

 

でも今は違います。今は、レールなんてものはないんです。お若い方はご存知ないと思いますが、このレールという比喩的な言葉は、当時「社会のレールに乗る」といった言い方で、実際に使われていた言葉なんです。それほど、社会の基盤というものがしっかりしていた。いい大学を出て、いい企業に入れば、老後までの人生設計がバッチリ描けたのです。

 

「サラリーマンは〜、気楽なぁ稼業と来たもんだ、ホレ」で始まる植木等さんの『どんと節』。映画『気楽な稼業と来たもんだ』(大映)は、大学卒業を真近に控えた学生たち(クレージー・キャッツの面々)が、先生(ハナ肇さん)に卒業後の進路を問われて、全員が「サラリーマン!」と答えるところから始まります。それほど「サラリーマン」は花形だったのです。

 

ちなみに、この『どんと節』の作詞は、前東京都知事だった青島幸男さん。東宝でシリーズ化された「無責任シリーズ」で主役を務めた時の、植木等さんの役名は「たいら・ひとし」。早い話が「平均」です。それが当時の、まさに平均的な男の生きる道だったんです。ですから、社会の底に、いざとなれば「サラリーマンになる」というセーフティネットがあったんですよ。信じられます⁈

 

今はその底が抜けちゃっている。非正規雇用者が実に4割というのですから、正規の職を得るのが大変ですし、得たとしても終身雇用の保障はない。それでいて、国は若者に年金を納めろと言うんですが、年金財政は実質破綻状態。しかも国の借金1000兆円超で毎年増え続けているというのですから、いやはや、植木等さんの時代からすると、日本はもの凄い転落ぶりです。

 

ですから、今の「生きにくさ」を考えた時に、一つには「社会システム」のヒドさというものがあることは疑いありません。けれども、現行の「社会システム」というのは、決して放っておいてそうなったわけではなく、また一夜にして出来上がったわけでもなく、「そうしたい」と願った人間がいて、その結果として、今のような社会が実現して来たわけですね。

 

その頂点には、もちろん権力構造を握る者と、さらにそれを操る者がいる。ですが、それだけでは、彼らが望むような「社会システム」は実現しない。そのヒドい「社会システム」の実現に、賛同し、協力する大衆がいてこそ、はじめてそれが実現する。「そんな馬鹿な!」と思うかも知れませんが、一つの社会というものは、そこに属する人間たち全員の相互協力によって創られているのです。

 

先ずは、そこに気づかなくてはなりません。あのドイツ第三帝国でさえ、アドルフ・ヒトラーただ一人で実現できたわけではなく、ヒトラーに賛同し、協力する大衆がいたからこそ、あのような時代が出現したわけです。およそ、いつの時代でも、大衆は、自分の中に潜むエゴを刺戟し、誘導する指導者を大いに好み、そして自らを困難な状況に追い込むのです。

 

今の政治状況をご覧なさい。一体どこに「理想」がありますか? 赤組白組に分かれて、やっつけ合っているだけです。赤の利権を守るため、白の利権を守るためなら、互いになんだってやる。不正をしようが、嘘をつこうが、相手をやっつけてしまえば全て許される。船が沈みそうになれば、船長は真っ先に逃げ出し、日和見主義者たちは次の船長へとあっさりと寝返る。

 

ですからね、いつまでも旗を振ってちゃダメだってことなんです。「赤勝て、白勝て」と言い合ってる不毛から、いい加減に脱しなければならないのですよ、人間は。どうして自分の思いを他者に仮託するのですか? 誰かに預けちゃうんですか? どうして政治家に「期待」などするのですか? 「期待」するから裏切られるんじゃありませんか。

 

「生きにくさ」の根本には、結局、自ら「自由」を放棄しているということがあるのです。いいですか、誰かに「自由」を奪われているのではないんですよ、放棄しているんです、自分でね。「自由」を放棄させるような「社会システム」に、喜んで参加しているんです。自らの意志によって。そうとは気づかないまま。そうやって、ゾンビになっている。

 

「自由」とは「自らに由ること」だと、前に書きました。「魂」は「自由」を求めて止みません。なぜなら、それがあったればこそ、一つのものから分かれて飛び出して来たからです。つまり「自由」であることは、「魂」の本分なのです。あなたという「魂」は、自分を表現したくてしたくて堪らない。ですから、何らかの理由によって、それが制限された時には、自動的に「生きにくさ」を感じるのです。

 

BS1で『奇跡のレッスン』という番組をやっています。各分野で実績のある世界有数のコーチがやって来て、日本の子どもたちに一週間ほどの臨時レッスンを行うという趣向です。興味がある回を観ているのですが、これを観ていると、どのコーチにも共通している点があることに気づきます。それは、

 

 〇劼匹發燭舛法⊆分で考えるようにさせていること

 ⊆分で創造することは、楽しいことなんだと気づかせていること

 そして楽しく創造できた時に、自分という存在を自己肯定できるということ

 

の3つを体験させているんですね。これは素晴らしいことで、「魂」の「自由」というものの本質をついています。ですから、子どもも親も、レッスンを受けた後は、みんな顔が輝いている。本当に目からウロコといった感じです。ということは、日本の教育現場に、いかにそういうものが無いかということを、逆説的に物語っているとも言えます。

 

自分が子どもの頃もそうでした。登校拒否というレジスタンスまでは、私はしませんでしたが(あ、逃亡は何度かあり)、授業時間は牢獄そのもので、退屈極まりなし。だから授業の予習復習なんてしたことは一度もなく、毎日工作ばっかりに明け暮れていました。

 

こと教育に限らず、今の日本の社会というものは、ぜーん部、上にあげた逆をやっているじゃありませんか。

 

 ー分で考えるという習慣をつけさせない(マニュアルに従え)

 我慢して乗り越えなければ、先はないぞと脅す

 人と比べて、劣っている自分というものに気づいては自己否定する

 

これらは全部「魂」が喜ばないことです。「魂」の本来のあり方や、希求とは真逆のあり方です。ですから「魂」は、自動的に拒否感のシグナルを発し、それが「心」に達した時には「生きにくさ」として感じ、身体細胞の意識とぶつかった時には、自律神経をかき乱し、パニックになったり鬱になったり、体が動かなくなったりするのです。

 

そこで、生きにくい時代を生きぬくためには、先ずこの「真理」を知った上で、「社会システム」に、自分を合わせる必要などない、と気づくことです。私の若い頃には、セーフティネットからこぼれ落ちるという恐怖がありました。でも今は、セーフティネットなどそもそもないのですから、腐った「社会システム」に適合しようとして、自分を痛めつける必要など、いささかもない!

 

「仕事ってのは辛いものなんだ」

「どこへ行ったところでみんな一緒」

「3年は少なくとも我慢しなければ社会人とは言えないね」

「この程度に耐えられなくてどうする?」

「働かなくちゃ喰っていけないんだぞ」

「ボーッとして休んでいる暇なんてないぞ」

「働け、働け!」

 

こんな圧力に屈しちゃダメだ。こんなものは全部ウソです。「魂」に正直に生きることをしなかった先輩たちが、自分への言い訳用に残した言葉に過ぎない。それは、後悔の念の自己正当化なんです。

 

このような「言い訳」をし続けた人たちは、死ぬ間際になってからやっと気づく。なんで自分は、あの時チャレンジしなかったんだろう。なんでもっと家族といる時間を大切にしなかったんだろう。なんで自由を謳歌し、もっと人生を楽しまなかったんだろう。

 

就社だけが仕事じゃないよ。「あなたのしたいことは?」「正社員になることです」って、違うでしょう? それは単に就業形態だ。私が訊いているのは、あなたの「魂」が望むこと。サラリーマンが気楽な稼業だった時代はもうとっくに終わっている。ブラックばかりの、奴隷労働しかない就業形態に、なんでいつまでもしがみつこうとしているのかな?

 

どうして農業に行かないの? どうして漁師にならないの? どうして職人を目指さないの? サラリーマンというセーフティネットは確かに失くなってしまったけれど、私の若い頃にはなかった良さだって逆にたくさんあるじゃないか。食べ物も家電品も家も有り余っているし、有用な情報はすぐに取れる。もっと智恵を働かせるんだ。

 

だいたい、パニックになったり、鬱になったり、自殺しようと思い詰めたりする人は(私もそうだったけど)、みんな真面目な人なのです。この真面目さ、責任感の強さというものを、会社のためにとか、同僚のためにとか、家族のためにではなく、自分のために、自分の「魂」が喜ぶことをするために、用いてもらいたいのです。そしてそれは、エゴではありません。

 

あなたが輝かずして、どうして周囲の人を幸福にできるでしょうか?

あなたが楽しそうに生きなくて、どうして周囲の人たちが喜ぶでしょうか?

 

真面目な人、責任感の強い人は、しばしば誤解をしています。周囲の人たちは、あなたをそれほど気にしていません。あなたの過重な責任感に、あなたが思うほどは頼っていません。みんなが、自分のことで手一杯なのです。そして、自分のことで手一杯の人を、責めることはできません。「魂」の学習とは、つまるところ、そういうことだからです。

 

あなたは、他の「魂」について責任を負うことは出来ません。あなたが負えるもの、責任を持てるものは、あなた自身だけなのです。ならば、責任をお持ちなさい。自分の「魂」を見つめなさい。「魂」の声に耳を澄ましなさい。そして、自分の「魂」が喜ぶことだけをしなさい。そういう自己に自信を持ちなさい。そして「魂」が拒絶するものについては、堂々と「私はイヤだ」と言いなさい。

 

社会システムを、あなた一人の力で変えることは困難です。ですから、自分が全くの無力のように思えます。しかし、あなたは選ぶことが出来るのです。灯りのない夜は怖いでしょうか? でも星空を眺めて、鈴虫の鳴き声に耳を澄ますことだって出来るんです。要は、あなたが何を選ぶかです。

 

たとえ同じものを見ても、人によって解釈はみな違います。その時に、どう見るかによって、その時の、あなたのリアリティというものが決定する。つまり、あなたの現実は、日々あなたが創っている。ですから、たとえ腐った「社会システム」の中に生きていても、あなたの物理的範囲内で、その現実を、あなたの「理想」に変えることは出来るのです。

 

そのことを学びなさい。そして日々の暮らしで実践して、こころ楽しく生きなさい。社会が提示する成功イメージなどは無視してしまいなさい。そうすれば解る。幸福というのは、「魂」が喜ぶ瞬間、そのひと時なのだということが。それ以外には、何もいらないということが。

オフクロが遺してくれた茶碗

 

朝の気付けに、コーヒーもしくは抹茶を立てて飲むのが習慣です。どっちにするかはその日の気分。口中がサッパリするので抹茶の日の方が多いかなぁ。

 

お茶碗は十数個(どれもリサイクルショップで購入した下手物)を持っているのですが、いつも自然と手が伸びるのは、オフクロが遺してくれたもの。釉薬がほのかにピンク色をしていて、大好きなルーシー・リーの茶碗を思い起こさせてくれます。まったくいいものを遺してくれたもんだと、お茶を飲むたびに面影を偲んで感謝しています。

 

子ども時分には、癇癪持ちで、酒も煙草もやり、PTAの役員などの偽善的な活動に精を出していた母親がとてもイヤでした。その母親が50代に入って大変身し、自由に伸び伸びと(言葉を変えれば身勝手に)生きるようになり、癇癪持ちのところがすっかり消えて、穏やかな人間に生まれ変わってしまったのです。

 

その変身ぶりを見て来て「大したものだ」と思うと同時に、最近になって、オフクロのあの身勝手さというものも、ようやく理解できるようになって来ました。

 

人間生きている限りは、どうでもいいような面倒事をしなければいけない時があるのですが(たとえば、市役所から来た書類に必要事項を記入するとか。ちなみに私も大の苦手)、オフクロはそういうことを一切しなかった。「ねえ、助けてくださる?」と、周囲の者たちにみんな振ってしまう。

 

それで仕方なしに周囲が動かされてしまうのですが、そのようにさせていながら、オフクロは事後に感謝を表明するということが殆どありませんでした。感謝は、神様だけにしていました。つまり、世事に、心底から無関心だったのです。

 

ですから周囲の人間たちは、みなその身勝手さに呆れて「あの人は、もうどうしようもない」とか「あの性格は一生変わらん」とか囁き合うのですが、本人はそんなものどこ吹く風。どんなに小バカにされようが罵られようが、その態度や行動を一切変えませんでした。いま考えると、まったく大したものだと思います。

 

そうやって、どうでもいいことから解放された時間の殆どを、オフクロは創作活動に注いでいました。とにかく一日中、夢中になって何かを創っている。生涯いろんなことに手を出し、どれも一流とまでは行きませんでしたが、その集中力と粘り強さによってみんな90点くらいのレベルに達するまでにはなりました。

 

その成果の一つとして、数個の茶碗が私の手許にちゃわんとあるわけです。とにかく、そこまで行くためには徹底的に同じことを繰り返していた。あのしつこさに追いつける人はそうそういません。

 

身勝手と言えば実に身勝手ですが、しかしオフクロの中では、いわゆる現実世界と、自分が創り出しているリアリティの世界とが、価値観において、完全に逆転していたんですね。その割り切り方が半端じゃなかった。

 

オフクロにとっては、いわゆる「現実」世界など、それこそどうでもいいことだったのです。ですからオフクロは、しょっちゅう「ああ、幸せだ、幸せだ」と言っていました。それは自分が創造するリアリティの世界の中で遊び、生き切っていたからだと思います。(そして死ぬ瞬間には、「私、死ぬわね」と宣言してから死んだ)

 

このオフクロの生き方には、大いに学ぶべきところがあると、今にして思うのです。周囲からは、困ったちゃんのように思われていたけれども、本当は周囲の者たちの方が困ったちゃんだったのではないだろうか? 世間常識というがんじがらめの世界から抜け出ることを、まったく想像しようともしないという点において。本当の「自由」というものを知っていたのは、オフクロの方だったのだ。

 

人間に限らず、あらゆる生き物というのはクリエイティブな存在で、日々「創造」活動を行うように宿命づけられています。これは、宇宙というものの本質が「常に変化するもの(=無常)」としてあり、その変化の活動そのものが「生命」だからなのです。

 

ですから、人間というものは、この「創造」欲求を満たす機会を奪われてしまうと、とたんに生きるのが辛くなって来ます。なぜなら「創造」=「生命」だから。「創造」欲求を奪われることは、命を失うことと同じだからです。これは、とても重要なことなのに、残念ながら多くの人が、そういう視点でものを考えたことが無いんですね。みんな「魂」の世界を知らないから。

 

障害を持った人や、災害に遭った人、あるいはお年寄りなどの生活支援ということを考えるときに、いちばんに必要なものは「衣食住」だと、普通みんな考えるでしょう? でもそうじゃないんですよ。それは二番めなんです。「魂」の世界から言えば、いちばん大切なことは、「創造」の機会と場(別の言葉で言えば自己表現の機会と場)を持つということなんです。

 

「創造」の機会と場、そして自信を持てば、放っておいても人間は「衣食住」を自分で創り出します。ところが、現代社会は何もかもがおせっかい過ぎて、「支援」と称して「衣食住」を規格サイズで調えてあげてしまう。でもその後に待っているのは、まるで飼い殺しのような日々です。なにしろ「自立支援」という矛盾した言葉が堂々とまかり通っているくらいに、みんな訳が分からなくなっているんですね。

 

ですから、男性は定年退職すると途端に元気がなくなり、ゴルフとペットの世話しかやることがなくなってしまう。女性は同性で集まってペチャクチャお喋りすることで暇を潰すというシーンがやたら多いんです。どちらもクリエイティブに生きるということ、一人遊びを楽しむということができないためです。これは戦後の日本社会特有のもので、そういう訓練を経ずに育って来たためです。

 

本当は、生活上でクリエイティブでないものなど何一つありません。料理だって、掃除だって、洗濯だって、家の修繕だって、あらゆるものがクリエイティブです。それなのに、現代人はそういう生活上の必須を単にメンドクサイものとして捉え、楽しむ工夫をしなくなってしまった。どこかからサービスを買ってくればいいと考えている。そして空いた時間を、テレビゲームや韓国ドラマやSNSに注いでいる。

 

よく、仕事が面白いとか面白くないとかと言うでしょう。この差がどこから生じているかと言うと、今している行為を、自分がハンドリングできているかどうかということなんです。自分がハンドリングしていれば、同じ仕事も面白いし、ハンドリングできていなければ「やらされている感」が強くなって、まったく面白くない。重要なポイントは、正にそこなんです。

 

「宇宙」というのは、常に「変化」しているもので、その変化に抗おうとすると、変化することが不安になり、恐怖になってしまうのです。でも「変化」するということを素直に受け入れて、自分でハンドリングしていく、自分が意識的に「創造」して行けば、それはたちまち楽しみと幸福に変わるのです。実に、これこそがミソ。

 

トシを取りたくないと、アンチエイジングを謳い文句にする商品にハマっている方が時々おられますが、これなどは全くの愚の骨頂。何しろ「宇宙は変化するもの」という第一原理すら認めないで逆らおうとしているのですからね。そうではなくて、「人は老いる」ということを先ず認めて、じゃあどのように成熟するかを自分でクリエイトしていくということが、重要なんだということです。

 

仕事が生きがいという人は、仕事を失うと、急に菜っ葉に塩状態になってしまいます。それは、仕事を失ったことが根本原因なのではなくて、自分でハンドリングできるクリエイティブな機会というものを喪失してしまうからなんです。要は、自分自身の考えでクリエイティブに生きているかということです。

 

サラリーマンの場合は、それを会社が用意して与えてくれるものですから、裏側にある本質になかなか気づけないんですね。「魂」の視点から言えば、「仕事」は、あくまで「創造活動(自己表現活動)」の一分野としてあるだけなのに、そこに「お金」も絡むものだから、いつの間にか「仕事」が、第一番めの価値だと錯覚してしまうのですね。

 

そこで、こういうことが言えます。生活のあらゆる場面を、自分がハンドリングしてクリエイトして行く。そういう視点を持って、意識的に行動することによって、あなたが見る世界はまるで違って来るのです。それこそが、ハッピーに生きるコツです。いつも言っているように、何事にも好奇心を持って、素直に、明るく、楽しく行動していれば、いつでもハッピーでいられるのです。

 

他人が用意したハッピーに引っ張って行ってもらうことばかり考えていたら、真にハッピーにはなれませんよ。もしそれが失くなってしまったら、とたんにアンハッピーということになってしまうじゃありませんか。そうじゃないということ。だから、どんなことでも、自分がハンドリングしているという意識を常に持って行動することが何より大切なのです。

 

オフクロが遺してくれた茶碗。残念ながら、一箇所が欠けてしまいました。金継ぎに自分でチャレンジして、長く使いたいと思っています。

求人のレッテル貼り

ある方からこういう話を聞きました。その人は、今は別の仕事についているのですが、保育の仕事がしたくて何年も掛かって保育士の資格を取得しました。手始めに出来ることを探していたところ、市の保健センターが赤ちゃんを預かるボランティアを募集していたので、そこに連絡をしてみた。その時、応対した人から、いの一番にこう聞かれたというのです。

 

「お子さんはいらっしゃいますか?」

「いません」

「結婚はされていますか?」

「していません」

 

「あぁ、そうですか」と、担当者はガッカリした様子だったというのですが、彼女が「保育士の資格を持っています」と言った途端、相手の態度が豹変したというのです。

 

人は、レッテルでしか相手を見ない。その典型です。子どもがいると言ったって、始終当たり散らしている親もいるわけだし、ほったらかしや、虐待までしている親だっている。結婚していたって、みんなが円満な家庭を築いているとは限らない。何しろ3分の1が離婚しているんですから。憎悪の炎を燃やしている夫婦関係などいくらでもある。

 

私がその担当者なら第一番にこう聞きます。

「赤ちゃんは好きですか?」

「ウンチやオシッコの手当ては、喜んでしてあげられますか?」

「いま泣いているという赤ちゃんがいたら、あなたならどうしますか?」

 

これだけで充分だ。そう思いませんか? なによりも、それをすることが「好き」。これに勝るものはありません。いくら結婚していたって、子どもがいたって、「好き」でない者がその仕事に就いたら、雇う方、雇われる方、そして赤ちゃんの三方が全部、思わしくない結果に晒されてしまうことになる。

 

求職で、「経験者」という制限を設けるのも私は嫌いです。何だったかはもう忘れましたが、若い頃に「経験者求ム」の求人に対して、未経験で応募したことがあります。結果は不採用だったのですが、私は担当者にこう言って喰い下がりました。

 

「そうやってみんなが『経験者求ム』と言い続けていたら、新人には全く門戸が開かれないことになってしまうじゃありませんか!」

 

この思いは、今も変わりがありません。

どうして、人をレッテルでしか見ようとしないのか? どうして、その人の可能性を見てあげないのか? レッテルを重視する人は、自分には「人を見る眼がありません」ということを、自ら証明しているんだね。

チャレンジするということ

インターネットを見ていたら、こんなデータを見つけました。出典は明記されていなかったのですが、晩年を迎えた人が、人生を振り返って「後悔することのトップ10」というのがあって、第一位は、70パーセントで「チャレンジしなかったこと」というのが上げられているのです。

 

「チャレンジしなかったこと」とは、何を意味しているのでしょうか? 自分にはもっとやりたいこと、やれそうなことがあったのに、それをしなかったということなのでしょうか。ではどうしてしなかった、あるいは出来なかったのでしょうか?

 

70年なり、80年なりの生涯の中で、一度も「チャレンジしない」なんて、おかしくはありませんか? チャレンジしないことの代わりの膨大な時間を、その人はいったい何に使っていたというのでしょうか。それを考えれば、いつでもチャレンジ出来たはずだとは思いませんか?

 

「チャレンジしない」ことの理由を、「勇気のなさ」に求めることも出来ます。でも私は、これは、自分が何者かが分っていないために、やりたいことの「視覚化(ハッキリとしたイメージ)」が、充分できていないことから起きているのだと思います。

 

「チャレンジ」というと、どうも大冒険を考えてしまいがちですが、要はやりたいことをやるということで、その意味では「宇宙飛行士になる」ということと、「花屋さんを開店する」ということには違いがないのです。結局、「千里の道も一歩から」で、自分のイメージに向かって、毎日の時間を使っているかどうかが問われるんですね。

 

それが10年、20年、30年と経つと、毎日の一歩の差が大きく違って来てしまい、やりたいことの「視覚化」が充分出来ていなかった人は、「チャレンジしなかったこと」を、悔やむことになるのです。そもそも、「チャレンジ」などという言葉を使っていることが、自分でハードルを高くしている証拠です。

 

やりたいことをやっている人は、それが楽しいからやっているわけで、それに付きまとう困難さは、二の次、三の次なんだと思います。ですから、たとえめげることや泣きたいようなことがあっても、前に進めるんじゃないでしょうか。それが、傍から見ると「勇気」に見えるというだけであって‥‥。

 

ですから、そう考えると、やりたいことの強烈な「視覚化」というものが、どれほど重要なことであるか。でもその前に、自分は何者であるかが分っていないと、やりたいことも見つからないんですけどね。

物事が上手く廻らなくなった時には

物事が、自分にとって上手く廻っている時と、上手く廻らない時があります。上手く廻らない時には、あまり深刻にならずに、事実は事実として受け止めて、そこにどんなメッセージが隠れているかを考え、探り出してみることが大切です。

 

上手く廻らないことの理由として、一つには、その人の行動が宇宙の法則に反しているという場合があります。宇宙の法則の基本中の基本は、全てが「一つ」ということです。このことから、他者にしたことは自分にしたことと同じ、という法則が導かれます。

 

他者を傷つければ、やがては自分を傷つけることになるし、利己的な行動を取れば、反作用としての孤立化が待っています。物事が上手く廻らないという状態は、こうした行動の警告として現れている場合があります。

 

二つには、あなたのエネルギーのサイクルが冬ごもりの時期に入っていることが挙げられます。過去に、占いをして貰った経験がたぶんお有りだろうと思います。導き出す方法は様々ですが、どのような占術も、年運、月運、日運、時運、それぞれにサイクルがあることを指摘していますね。

 

冬ごもりの時期を、俗に、衰運期、衰退期、下降期と言ったりしますが、文字通りには捉えないようにしてください。一年のサイクルに、春夏秋冬があるのは当たり前です。時計の文字盤を見てください。針が回転すれば、上昇と下降を繰り返すのは当たり前です。

 

宇宙は、大きなものから小さなものまですべて循環運動をしていますから、あなたの身の上にもサイクルがあるのはごく自然なこと。あなたに冬ごもりの時期があるのは、あなたが宇宙の一員であるということの証明であり、それはただ、循環の中の一局面に過ぎないのです。

 

衰運期とか下降期とは捉えずに、「冬ごもり時期」と捉えた方がよいわけは、冬には冬の意味があり、それをよく考えることで、対処法が明確になるからです。自然を見てください。冬は、春の芽吹きの準備期間であり、世代交代が図られていることがお解りでしょう。ですから、あなたもそのようにするとよいのです。具体的には、新たなスキルを身につけるなど学習期に当ててください。

 

三つめの理由として、これと関連していますが、物事が上手く廻らなくなったのには、人生上の転換期を示唆している可能性があります。今まで続いていた仕事を切られた。お客が減って商売が立ち行かなくなった。リストラにあった等々。これらの事態はショックを伴いますが、ご自分でも、今の仕事に、以前のような情熱を持てなくなった、といったことはないでしょうか?

 

それは、「魂」の世界から言いますと、そこでの体験はもう充分だというサインなのです。そして、転換を促すように、天の計らいによって、物事が上手く廻らなくなります。上手く廻らなくなれば、人は、何とかしようと考えるからです。ここで変化を怖がって、これまでの状況にしがみつこうとしてはなりません。

 

それでは、その後のあなたの人生は、まるで牢獄に居るようなものになってしまいます。「生きていくためには、我慢しなければならないんだ」という発想は捨てるべきです。「魂」は、いつもワクワクする体験を求めています。自分が楽しいと思えること、嬉しいと思えること、創造性を掻き立てられることに、方向転換して行ってください。

 

いきいきと活躍している自分の姿を強くイメージして、今できる小さな一歩を踏み出してください。人生転換には数年掛かり、その間は忍耐が必要かも知れません。忍耐と我慢は違います。我慢はしたくないことをすること。忍耐はしたいことの実現のために途中を歩むこと。大変かも知れませんが、その大変さをも楽しんで、自分を信じて、ワクワクする体験に身を投じてください。

 

「幸福」というのは、何かの必要条件が満たされることで得られるのではありません。あなたの「心」がハッピーだと感じている時が、すなわち「幸福」なのです。

仕事の充実感

人間は、本来がクリエイティブな存在で、クリエイティブな時間に身を置いていないと、達成感、満足感、充実感、というものが得られません。これは「魂」のルーツと関係があり、「それ(=神)」は自らの可能性を押し広げ、自身を体験するために、分身である「魂」を放たれたのです。ですから、個々の「魂」はその使命を果たそうとして、無意識にもクリエイティブな作業に邁進します。

 

自分が何をしたらいいのか? 多くの人は、それを自身の特性と職種とのマッチングということで考えていると思います。しかしそれは「魂」の世界から見たときには、それほど重要な問題ではありません。それよりも、今の仕事に、どのようなチャレンジのテーマを見出し、どう工夫し、かつ楽しんで行うかの方が、ずっと重要なのです。

 

ぴったり来る職種というのは、大抵は、過去世でそれに関連したことをやっていたことがあります。そのために馴染みがあって、なんとなくしっくり来るのです。輪廻転生しても、同じ仕事を何度も行う人もいて、そういう人は、やがてその道で大成します。技術や感覚が、転生の度にどんどん上乗せされていくわけですね。

 

一方で、転生の度にどんどん職種を変えるという「魂」もいます。こういう人はマルチな才能を発揮するようになって行きます。

 

よく「仕事を転々とする」と言って、定職に付かないことを無条件に非難する傾向が見られますが、それはキャリアが築けないとか、生活が安定しないといった経験則に基づくものであって、この世的な見方(一つの観念)に過ぎないのです。ですから、職を変える人は、それを卑下する必要は全くありません。

 

「魂」の世界から見た場合には、「仕事」というのは、「魂」を磨くための一つのツールなのです。「仕事」には、チャレンジや、人間関係の保ち方や、工夫や、忍耐や、超克や、充実感などの様々な要素が含まれていて、「魂」にとっては、家庭と並んで、もう一つの大きな《磨きがい》のある場なのです。

 

さてそこで、「魂」の軌跡を一本のロープのように思い描いていただきたいのです。このロープには、ところどころ結びこぶや、色とりどりのハンカチが結わえられていたりする。それが「仕事」です。結びこぶは転職で、ハンカチはそこで掴んだものです。でもロープは一本で、ずーっと繫がっている。それを、鮮やかに、ありありと思い描いてみてください。

 

重要なのは、このロープのハンドリングなのです。それを自分自身がやっているという感覚を常に持っていることが大切です。仕事の「充実感」は、これとの関係で捉えられなくてはなりません。そうではなくて「充実感」だけを問題にしてしまいますと、錯覚に陥りやすくなってしまいます。ヒマつぶしの領域に「仕事」が入り込んで、それを「充実感」に置き替えてしまうのです。

 

さてそうなると、「会社人間」の一丁上がりです。「自分は精一杯会社に尽くした、会社に命を捧げてきた」そう言って、あとから「会社に裏切られた」と言う人がいっぱいいます。ですがそれは、自分のロープを、自分でハンドリングしていなかったという証拠です。「充実感」というものを、錯覚していたからです。

 

あなたは、自分の意に添わない事、やりたくない事を一切やる必要はありません。やりたくない事で、貴重な瞬間をムダにしないように。他人が差し出した「充実感」に乗っかって、それがもたらす錯覚に陥らないように。

 

今ここを生きる。

 

瞬間々々を、一本のロープを想い描きながら、常に自分の意思で行動している時には、チャレンジや、人間関係の保ち方や、工夫や、忍耐や、超克や、充実感は、すべて自分のものになる。ですから、「会社に裏切られた」とか「あの人に裏切られた」なんて言葉は、出ようはずがありません。それこそが、真の「仕事の充実感」というものなのです。

「仕事」選びで大切なこと

一般論として、「仕事」には三つの側面があると思います。ー分の特性が活かせること、⊃諭垢里役に立てること、J鷭靴得られ生活が成り立って行けること。この三つがバランスよく満たされていれば、それはその人にとって天職といっていいのかも知れません。


ところが今の時代は、この三つを同時に満たすことが非常に難しくなってしまいました。90年代初頭までは、企業経営においては「家族的経営」がよしとされ、日本の会社には従業員を大切に思う風土が存在していました。ところが、その後アメリカ式経営が入って来ると、職場環境もしだいに変わっていき、今では、従業員はいつでも取り替えの利く労働力としか見なされなくなりました。


また、「雇用の自由化」と称して(「自由」と付くから、良いことのようなイメージがありますが、別の見方からすれば不安定化)、正規社員の数がどんどん減らされていったために、給与水準が下がって、貧困に喘ぐ人も増えて来ています。このような状況下では、もはや前に挙げた「三つがバランスよく」などと言っていられる場合ではないかも知れません。


しかしだからこそ、この三つをポジティブにイメージして「仕事」に取り組んでいただきたいのです。生きていくために、奴隷的労働に甘んじなければならないという人もきっと多いと思うのです。けれども、それをそのまま受け止めてしまっては、「仕事」が辛くなってしまいます。やっている事はおいそれとは変えられないかも知れませんが、意識は変えられるのです。


今では多くの人が、雇用関係というものを「仕事を探す」「仕事を与えて貰う」という感覚で捉えています。しかしこれは、サラリーマン社会が当たり前になってから出来上がった考え方であって、本来のものではないということに、今一度立ち返っていただきたいのです。本来の姿を考えれば、自分の生活は自分でクリエイトするというのが、人間のあり方です。


しかし、何もかも自分でするというのは非効率的ですから、それぞれの得意分野を他人に任せることにして、お互いの価値を交換するようになって行きました。そこから経済活動が生まれました。この各得意分野が、工業化によって生産力を拡大し、今のような会社が出来上がって行ったのです。会社の勃興期には、一つの目標に向かってみんなで力を合わせるという家族意識がありました。


けれども、グローバル競争の時代を迎えるようになって、会社が多国籍企業の傘下に集約されるようになると、家族意識などはたちまち無くなってしまいました。労働力は、会社を動かす単なる「部品」でしかなくなったのです。もっとひどいことには、その会社も、絵画のオークションのように売買される、投資家にとっての単なる「投機材料」でしかなくなったのです。


よくブラック企業ということが言われますが、カンパニーというものを成立させている構造そのものが、今やブラックなのですから、そのシステムに載っかっている企業が利益追求をすれば、みんなブラックになってしまうのは自明です。このようにして、現代では、労働者にとっては奴隷化としか言いようのない雇用環境となって来ているのです。


90年代半ばから、日本では「企業は誰のものか?」という議論が盛んに提出されるようになりました。そしてステークホルダー(stakeholder)という耳慣れない言葉がたちまち浸透していきました。ステークホルダーというのは、日本語では「利害関係者」と訳されていて、消費者(顧客)、従業員、株主、債権者、仕入先、得意先、地域社会、行政機関など全部ひっくるめて差します。


企業というのは、それら全部のものとしてある、という意味です。話としてはもっともに聞こえるのですが、この裏には、それまで終身雇用制をずっと採用していて家族意識が高かった日本の企業を、アメリカ流にぶっ壊すという目的があったのです。「利害関係者」全部とは言っていますが、要は「従業員のものじゃないよ、株主のものだよ」と宣言したのです。


今や政府も政治家も経済界も、全部がこういう意識で動くようになってしまい、かつ組合も弱体化してしまった状況下では、個人で制度に立ち向かおうとしても、もはやどうにもなりません。これが政治の恐ろしいところで、現在の状況は一夜にして出現したものではなく、徐々に出来上がったものです。けれども、日本人の政治意識が低過ぎて、チェックが全く働かないのです。


さて話を戻して、こういう厳しい状況だからこそ、自分の「仕事」を自分でクリエイトするという意識を、強く持っていただきたいのです。言われたことをただやる。マニュアルに書かれた通りにただやる。これでは、意識そのものが奴隷化してしまいます。


あなたの意識というものは、外界を見る際の、フィルターなのです。もっと解りやすく言えば「色メガネ」です。そしてどんな「色メガネ」を掛けるかは、あなたの自由なのです。


ここで、あなたの認識が、あなたのリアリティを創るという原則を思い出してください。外面的には、やっていることが前と同じように見えたとしても、あなたが意識を変えれば、あなたのリアリティは大きく変わるのです。


一見つまらなそうなマニュアル労働や、ルーティンワークであっても、そこにクリエイティブな意識を持ち込むことは可能です。たとえば、これを「自分の忍耐力を養う訓練と捉えよう」「動作の鈍い自分をスピーディーに動かす練習をしてみよう」「口べたを矯正して、リラックスして会話ができるコツをつかもう」「誰とでもハートでコミュニケーションできる技術をつかもう」と考えてみる。


今の「仕事」に対する縁は、一つの機会であって、すべてはあなたを成長させるためにある。そう捉えるのです。「仕事」を貰っているんじゃない。与えられているんじゃない。あくまでも、主体は自分にあって、自分の軸がずーっと未来に続いている、そのようにいつもイメージしてください。そうすれば、辛いことがあったとしても乗り越えられます。


そして、そのような意識の転換は、同時に確実にあなたを成長させます。ご自分ではハッキリとは分からないかも知れませんが、日々の地道な積み重ねが、血となり肉となって、やがてあなたを花開かせて行くことになります。


どんなに遠くにある目的地でも、先ず一歩を踏み出さなければ、二歩めはないのです。一日一歩は、亀のごとき歩みに見えたとしても、一年経って振り返れば、何もしなかった状態とは365歩の差がついている。ですから、目標に向かって、一歩でも近づくということが大事なのです。そうすれば、そのようなあなたの努力というものを見ている人が、必ず周囲に現れます。


眉唾を言っていると思われるかも知れませんが、そうではなくて、これは法則です。あなたの波動が上がるので、自然とそれと同調する人を引き寄せるのです。そして、次のチャンスがあなたに開かれます。一挙に頂上を目指そうとはしないでください。それは無理というものです。いつでも目の前の一歩が大切なのです。


ここで、もう一つのセオリーを思い出してみてください。「魂」にとって大切なのは、「体験」だけなのだと。目の前の「体験」を通して、何を感じ取ったかだけなのだと。その積み重ねが、一本の軸となり、来世へと続くのです。

決断

一生のうちには、何度か、重大な「決断」をしなければならない瞬間というものが訪れます。就学、留学、就職、転職、起業、結婚、離婚、新築、転居、手術、投資、等々。まだあるかも知れません。このような「決断」に際して、私の立場から言ってあげられることは、ただ一つ。これまでと一緒です。


「魂」の声に従いなさい。


ところが、これほど言葉を重ねて来ているのに、いざとなると、それがどこかへ吹っ飛んで行ってしまうようです。ある方から転職のことで相談され、その職種は彼女が何年も待ち望んだものだったのにも関わらず、いざそのチャンスが訪れたら迷っているんだと言うのです。なぜかと聞くと、最初に出て来た言葉が「お給料が安い」。


それが現実的な選択というものかも知れませんが、巷間よく言われるように、「条件をよく検討して、慎重に事を決めなさい」などという、もっともらしいアドバイスに従っていたら、大半は「止める」という結論に落ち着いてしまうと思います。


なぜかと言えば、新しいことは未知で、今までのことは既知のことですから、これをまともに比較したら、未知のことに対する理解というものは圧倒的に弱い。最初から不利な状況にあるわけです。ですから、そこにネガティブな可能性を探し出そうと思えば、いくらでも探せてしまいます。

 

チャレンジしない人というのは、これが得意な人なのです。おそらく彼女も、「お給料が安い」と言ったのは、チャレンジしないための言い訳探しに過ぎず、本音は「変化が怖い」のだろうと思います。


私は28歳になる直前に、それまでのデラシネ(根無し草)生活に別れを告げて、コピーライターになるチャンスを掴んだのですが、その時に社長面接の席で「給料はどれくらい望みますか?」と聞かれて、「いくらでも構いません」と答えました。年齢的にもう後が無いと必死でしたし、未知のものを学習できて、しかもお金まで貰えるのですから「ありがたい」と思っていました。


今の時代にも、「お金なんて要りませんから、師匠のもとで修業させてください」と、門を叩く人は居ると思います。なんだか「お金」のことばかり書きましたが、そこを言いたいのではなく、未知のものを前に「あなたは、いったい何を掴みたいのか?」と問いたいのです。「覚悟」というのは、そこです。それが、自分の中に見えているのか、ということです。


それを別の言葉で言うと、《「魂」の声を聞いていますか? 》ということになるのです。けれども、「条件」などというものを比較して「決断」していたら、後で必ず「最初の条件とは違う」とか「裏切られた」ということになってしまいますよ。提示された「条件」に目を奪われてしまうから、詐欺に遭う人が絶えないわけじゃありませんか。


そういう人は、「最初の条件とは違う」とか「裏切られた」と相手を非難する前に、自分の「覚悟」の無さを恥じるべきです。「決断」というのは「覚悟」の後に来るもので、要は、「自分は何をしたいんだ」「私の喜びはここにあるんだ」という確信が無い。自分探しが出来ていない。直感に生きていない。「魂」の声を聞いていない。


「決断」に際して「迷う」というのは、その人が、まだ「この世」の価値観にグルグルと縛られているということです。何度も言いますが、「この世」というのは「幻影」で、それはスクリーンに映った物語でしかないのです。「魂」にとっては、物語が重要なのではなく、その物語を「魂」がどう体験したか、のみが重要なのです。


お給料が安い? それが何だと言うのでしょうか。地位、名誉、財産、そしてお給料も、墓場には持っていけません。ただ「魂」の体験のみが、来世にも運ばれるのです。そのことを、もう一度、よく考えてみてください。それでも「迷う」というのなら、どうぞ「占い師」の許へでも行ってください。