by Rainbow School
<< March 2024 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
お金はすべて Flow 所得

「富の格差」の問題は、しばしば印象的な次の数字をもって語られます。世界の富の82%がわずか1%の富裕層に集中。貧困層37億人が有する富は全体の1%にも満たない。世界で最も裕福な8人が、貧困層36億人に匹敵する資産を所有。調べてみますと、この数字の出所は、すべて国際NGO「Oxfam」が出した2018年版報告書『Reward Work, Not Wealth』に基づいていました。

 

これが、子引き、孫引きされて各所で使われているのですね。オックスファムが出した数値は、金融大手クレディ・スイスが毎年出している世界の家計所得分配を分析したレポート『Global Wealth Databook』を基に、各所得階層別にオックスファムが再集計したものとのことです。データ元が富裕層側の銀行ですし、2000年からの時系列データを分析しているということですので、一応、信頼はおけそうです。

 

このような印象的な数字は、確かに、「富の極端な偏在」という今の地球上で起きている問題を解りやすく示してくれています。しかし他方で、「豊かさ」や「幸福」の概念を、「お金」という物差しで計測するという、別の〈解りやすさ〉をも与えていることに注意しなければなりません。なぜかと言えば、このような「尺度」そのものが、一つの固定観念をもたらしているからです。

 

「お金」に関しては、私も人並みに非常に苦労しました。「お金」に翻弄されてしまったという時期もあります。パニックになったり、鬱になったりしたのも、元をただせば「お金」が原因でした。なぜそんな状態に陥ったのかと、今になって振り返ってみますと、結局は「お金」というものの仕組みに無知だったことが最大の理由です。「お金」というものが作り上げている「土俵」に、何の疑問も持たずに、完全に信じた上で生活していたのです。

 

おそらく、世の99.99パーセントの人は、今でも、かつての私と同じような理解状況にあるんだろうなと思います。そして、この「無知」ということが、人類を「お金」の奴隷にさせ続けていることの元凶を形づくっているのです。早い話が、強烈な「洗脳」です。「お金」が無ければ生きられない。「お金」を稼がなければいけない。とみんなが思っているし、思わされているのです。

 

そこに気づいてから、この牢獄をなんとか脱したいと思うようになりました。「お金」のシステムから完全に逃れるというのは、無人島にでも行かない限りは難しいことでしょう。ですが、「お金」には出来るだけ関わらないようにしてみようと決心しました。そこで、荒療治でしたが、第一番めに「お金」を稼ぐというワークをやめたのです。この呪縛を捨てたら、いったいどうなるのだろうかを実験してみようと思いました。それが、10年前の54歳の時です。

 

当初は貯金を取り崩して生活費に充てていましたが、当然のことながら、その貯金も底を尽き、ど貧乏となりました。でも段々とその感覚にも慣れ、今では自分が貧乏だとも思わなくなりました。まったく平気です。欲しいものは何もありませんし、今あるもので充分です。何かに追われるようなストレスを抱えることもないですし、一日の大半を瞑想的に過ごしていられるので、いつも幸福感で満たされています。

 

「同じことを、あなたもやってみて」とはもちろん言えないのですが、しかし少なくとも、「働く」ということと「稼ぐ」ということは、切り離して考えた方がハッピーに生きられるよ、ということは自分の経験からしても言えそうです。でもここを、みんなゴッチャにして考えているんですね。「就活」というものが産業化してから、この同一視傾向が著しくなったと思うのですが、詰まるところ、これがあなたに、奴隷化への道を開くのです。

 

「働く」ということと「稼ぐ」ということは別です。「働く」というのは、あなたという個の自己表現であり、社会における自分の役割です。ですから、この「働き」の連鎖的つながりによって、社会全体の活動が維持され、働く人も、その働きの恩恵を受ける人も、共に喜び、感謝し、幸せを分かち合うシステムが形成できるのです。ですから、賃金の報酬とは関係なしに働き(例えば毎朝、家の前の道路を掃く)、それを喜びとすることも可能なのです。

 

30年前までは、日本社会にもこのような考え方がまだ普通に残っていたのですが、グローバル経済の導入と入れ替わりにすっかりアメリカナイズされ、今ではほぼ消滅してしまいました。私が20代だった頃は、「給料要りませんから、是非ここで働かせてください。あなたの弟子にしてください」という若者がけっこういたんですよ。私もその一人でした。「お金」は二の次、三の次だったのです。ところが今は、先ず「お金」です。

 

決して「お金」が悪いと言っているわけではないのです。「お金」に〈隷属した状態〉の自分に気づいてみては?、と言っているのです。今まで、ずっと低賃金の派遣労働に甘んじて来た。なんとかして、正社員で給料40万円の職に就きたい。その気持ちはよ〜く解りますよ。でもそのような発想をしていては、自分をますます苦しめてしまうことになるのではないでしょうか。

 

大切なのはそこじゃない。自分をどういう「行為」者、別の言葉を使えば「表現」者として、この世に存在させるかということなのです。あなたの満足は、究極的にはそこにしかありません。「正社員で、給料40万貰える人間になりたい」という願望は、あなたの「表現」なのでしょうか? 違うでしょう。別にあなたじゃなくてもいい、それは単なる「ポジション」に過ぎない。そこを錯覚してはダメです。

 

そもそも、なぜ「お金」を稼がなくてはいけないのでしょうか? 「お金」がないと、暮らしに困るからですよね。具体的には、生活に必要な物資やサービスが自由に買えないからです。そういうシステムの中で、現代人が生活しているからです。でも仮に、もしもそうしたものが、全部タダで手に入れられるとしたらどうでしょう? 「お金」は不要ということにはなりませんか。

 

生きるために必要なものは、あくまで物資やサービスであって、「お金」というものは、その仲立ちをしている道具に過ぎないのです。その証拠に、災害が起きたときには、必要な物資がタダで届けられるではありませんか。それに対して、誰も「金を払え」とは言わないでしょう。むしろ「どうぞ使ってください」と言うでしょう。ですから、この理念を災害時だけではなく、平時にも押し広げればよいのです。

 

それは、決して不可能ではありませんし、荒唐無稽な話でもありません。世界中の人々が、そうした理念に合意すれば可能なのです。でも、現実はそうなってはいませんよね。それは、別の理念(「お金」が地球を支配する世界)に、人類の大多数が「これでいいのだ」と賛同しているからです。これが、冒頭に語った「土俵」です。皮肉な話ですが、貧困層の36億人が、8人のスーパーリッチの成立に貢献しているというのが、この「お金」のシステムなのです。

 

もしも全員に、平等に富が分け与えられていれば、もちろんこんなことは起きません。富を平等に分けることをせずに、他人の分を掠め取って集める人がいるから、このような極端な偏在が起こるのです。そして人類は、人類の総和として、そうすることを、古代バビロニア時代から認め続けて来たということなのです。これは実に巧妙で、よく出来た、壮大なるフィクションです。

 

ほとんど誰もが、「お金」の存在というものに、微塵も疑問を持っていないのです。世の中に「お金」というものがあって当然だと思っている。ではその「お金」がどこから生まれるかと言えば、借金から生み出されるということも殆どの人が知らないのです。

 

銀行は、本当は持っていない「お金」を貸し出す権利というものが法律によって認められています。そうすると、その時点ではまだ数字に過ぎない金額を、どこかに貸し出すと、その時点からそれが「お金」に化けるのです。まさしくマジックであり、空中から「お金」がパッと捻り出されるのです。この「無」から生じた「お金」を、借りた側は、利息をつけて返すことになるのです。なんとも奇妙な仕組みです。

 

日本政府が累積している膨大な額の借金。これも、一民間銀行であるところの日銀から借りている「お金」です。この借金に、日本政府は利子を付けて返済しなくてはならないのです。その返済金はどこから調達するのか。国営企業のない日本政府としては、税金しかありません。このようにして、国民は働かされ、稼いだ「お金」を搾り取られているのです。

 

けれども、このフィクションの実体は、国民には何も知らされていないのです。空中から「お金」を生み出せる銀行。その元締めであり、通貨発行権を持つ日本銀行の株主が、いったい誰であるかは明かされていません。

 

ですが、ここで原点から考えていただきたいのです。地球資源は誰のものでしょうか。土地は誰のものでしょうか。海は誰のものでしょうか。空気は誰のものでしょうか。太陽は誰のものでしょうか。月は誰のものでしょうか。そもそも、宇宙は誰のものでしょうか。誰のものでもありません。それは我々への恵みです。その恵みを、なぜ平等に分けようとはしないのでしょうか。

 

なぜ、平等な分配を主張するものはみな叩かれ、排斥され、逆に富の極端な偏在を志向する者が世界を牛耳り、また政治・経済に幅を効かせているのでしょうか。それは、決して一握りの人間のせいではありません。多くの人が、リッチになることの幻想を手放せていないからです。これは、宝くじの理屈と全く同じ。1等の賞金を得る人は、大勢の幻想を掻き集めることによって成り立っているわけですね。

 

違いは、宝くじの場合には、誰が1等になるのかは分かっていないのですが、金融の世界は、闇の支配者によって、最初から意図的に富の偏在が計画されていることです。このカラクリに、今後どのくらいの人々が気づくことになっていけるのか。更に進んで、「宇宙は誰のものでもない」という原点に、どれだけの人が立ち帰ることが出来るのか。それが、人類の未来を決定づけます。

 

「お金」は経済の血液だと言われます。「お金」は、そもそもは経済を円滑に回すための道具に過ぎなかったのです。ところが、その道具を使って博打場を開いたり、「お金」が「お金」を生み出す仕組みを人間が拵えてしまった。そして公的に、また国際的に、この詐欺システムを堂々と運営し、欲に駆られた人々を大量に市場に惹き付けているのです。

 

なんと愚かな人間たちでしょうか。一体どの世界に、自分の血流を好んで悪くしたり、静脈瘤や動脈瘤を作ったり、それを破裂させたり、脳溢血になったりして喜ぶ人間がいますか?

 

でも人間たちは、それを喜んで、自分で自分の苦しみを創り出しているのです。ああ、なんたる無智。この無智から、一体いつになったら解放される日が訪れるのでしょうか。「お金」はすべて Flow 所得だと思いなさい。それはあなたを支えてくれる血液の流れなのです。流れるままにして、執着を無くせば、それに思い煩わされることもなく、健康に生きて天寿を全う出来るのです。

 

「お金」は、結局ところ、今の人類にとっての、最大級の罠なのです。「お金」を操る者に、人類全体が操られている。そして、地上での暮らしの大部分を、この「お金」の奴隷となって生きることで、一生の殆どを使い果たしているのです。まあ、なんとムダな労力を使っていることでしょうか。地球人が、何度生まれ変わっても、大した成長がない理由は、大部分この「お金」が原因なのです。

 

さて、今世もまた「お金」で苦労しますかな?

それとも「お金」への執着は、終わりにしますかな?

なぜ、金、金、金、の世の中になったのか?(3)
1995年から続く「失われた20年」のちょうど真ん中、2005年にライブドア事件が起こりました。フジテレビ系列のニッポン放送株をめぐる攻防は、企業そっくりが、売買の対象であることを知らしめたのです。これは、企業経営というものの質が、すっかり様変わりしたことを象徴する出来事でした。簡単に言えば、従業員が会社についてくる「おまけ」程度にしか認識されなくなったのです。

事件は、転換時に起きる「歪み」が表面化したもので、裏では、そのような変化を促進する環境が着々と整備されていました。その最たるものが、2000年4月からの「時価会計制度」の導入です。これは企業が保有している、株式や債券、不動産などの資産を「時価(その時の価格)」で評価し、決算に反映させる制度です。

これによって、企業は、本業でたとえ利益が出ていなくても、保有資産を転がして値上がりさせていけば、それでもOKなんだよ、ということになった。しかしこの制度は、保有している資産が値上がりしている時には「含み益」が生じるのですが、逆に値下がりしている時には「含み損」が生じてしまうという危険な賭けでもあったのです。

しかし、それを導入したということは、時代の風潮がそうであったということと(つまり値上がりしか考えていない)、そうしたい勢力の思惑がバックにあって、政治に強く働きかけたのです。なぜなら、金融の世界で勝者になるためには、反対の敗者になる人を呼び込む必要があったからです。そのエサとして、「含み益」の魅力が喧伝されたのです。

「時価会計制度」の導入にあたっては、日本も「国際会計基準」に合わせて変更したという説明が当時なされたのですが、この「国際会計基準」を定めていた「国際会計基準委員会(IASC)」は、国際的機関のようで、実は、アメリカ、カナダ、オーストラリア、フランス、ドイツ、オランダ、日本、メキシコの、以上八ヶ国の「職業会計士」が集まって作った任意団体に過ぎなかったのです。

ともかく、そのようにして、日本も「時価会計制度」の導入に踏み切った。この時点から、企業というものの存在理由が「金儲け第一」となり、金儲けが見込めそうな企業が、投資家にとっては売買対象の単なる商品になったのです。そしてこの延長上に、従業員などは安くコキ使えばいいという、ブラック企業が誕生する道が開かれたのです。

このようにして、政治利権を持つ一部の企業や団体だけが儲かり、儲けの中から賄賂を政治家に送って法律を自分たちに都合のよいように変えさせ、マスコミを使って洗脳を行い、民衆を奴隷化し搾取しまくるという今日の社会が作られたのです。そしてなんと、ブラック企業大賞を受賞した企業オーナーが、自民党から出馬して国会議員になっているのですから、いやはや。

あなたはこれでもまだ政府を信じますか? 政治家を信じますか? 企業を信じますか? 銀行を信じますか? 宗教を信じますか? マスコミを信じますか? 信じている限り、奴隷状態からの脱出は不可能です。日本だけじゃない、世界中の人々がです。それが、ごく一部の支配者によって、奴隷化されてきた人類の歴史そのものなのです。

いったいどこに問題があるのでしょう?
ライブドア事件の渦中で、村上世彰氏が重要なことを言われました。「金儲けが、そんなに悪いことですか?」
さて、あなたは、どう考えますか?

これは、もちろん、悪いことではありません。誰しもが、働いて収益を上げ、その「お金」で生活をしています。ですから「お金儲け」に基本的に罪はない。ましてや「お金」にも罪はない。「お金」というのは、経済を円滑にさせるための単なるツール(道具)です。それを、喜ばしいものとして見たり、逆に汚いものとして見たりするのは、その人間の価値観なのです。価値観の反映です。

「お金」というツールは、トランプのジョーカーのようなもので、どんなカードにも使えるのです。海の人と山の人が出会って物々交換をする。海の人は魚を持ってきて、山の人は大根を持ってきた。ところが海の人は先日大根をたくさん貰ったばかりで、これ以上はいらない。そんな時には、後で何にでも変えられるジョーカー、つまり「お金」を渡せば、都合よく経済が廻ったのです。

ですから、「お金」に問題があるのではありません。問題は、それを使う人間の「意志」にあるのです。「お金」に異常な執着を持つ人と、逆に嫌悪する人は、一見真逆に見えますが、根っこは同じです。「お金」の本来の役割を、どちらも冷静に見られないのです。なぜそれが起きるかといえば、「お金」が、ジョーカーとしての性質を持っているからなのです。

いつでも、どんなものとも交換ができる価値を持つジョーカー。だとすれば、このジョーカーをたくさん集めておけばリッチな生活ができるぞ。さらに、頭のよい人たちがもっと素晴らしいアイデアを考え出します。「そうだ、お金にお金を生み出させる仕組みを考えればいいんだ。そうすれば、自分は働かずにお金を増やせる。まさにこれこそジョーカーだ!」

こうして、「お金」が「お金」を生み出す仕組みが、多方面に、合法的に、用意されたのです。利息、各種金融商品、株式、証券売買、為替、先物取引、不動産売買、etc.。

でも、「お金」が「お金」を生み出すというのはどういうことでしょうか? もともと「お金」は、物々交換の不便さを解消するツールだったはずです。ところが、「お金」が「お金」を生み出すと、実体のないジョーカーだけが、どんどん増えていきます。

このジョーカーは、普段は溜め込まれているのですが、いざとなった時には切り札として使われます。すると、この実体なく生み出されたジョーカーの、金額に見合うだけの実体的な「価値」が交換されなければならなくなります。このようにして、富者の持つ「お金」が、市場を支配する道具に化けるのです。

それだけではありません。実体のない「お金」がどんどん生み出されると、その「お金」に見合うだけの「価値」が提供されなければ帳尻が合いません。そのために、地球資源と、労働力の搾取が、永続的に続けられることになってしまうのです。つまり、環境破壊と、貧者からの搾取という二大問題は、ここを起点に起きているのです。

したがって、環境問題と貧困問題の解決をいくら個別に叫んでいても、現在の金融システムの矛盾を是正しなければ、問題は解決しません。各国の政府機関は、みな環境問題や貧困問題があることは認めていますが、それが是正されない(是正する気がない)のは、その人たちに、金融システムを抜本的に改める考えがないからなのです。

もし改めてしまったら、実体のないものによって、自分たちだけが富み、人々を支配し続けるという今までの構造が崩れてしまうからです。ですから、民衆には「よいことが起きるよ」という虚偽のエサだけを見せて、逆に、貧困に追い込む政治を続けている(続けざるを得なくなっている)のです。

この根本にある問題は、制度ではありません。人間の「意志」なのです。世界をよくするのは実に簡単なこと。みんなが仲良く、公平に分け与えるという「意志」さえ持てばよいのです。資源は充分に足りているのに、世界から餓死者がなくならないのはどうしてでしょうか? 富の極端なアンバランスが生じているからです。富める者に、「分け与える」という発想がないからなのです。

それは、彼らが真理に疎い。無智であることから来ています。世界は一つ、宇宙は一つ、魂は一つ、ということを知らない。他者に為したことは自分に為したこと、自分に為したことは他者に為したことである、という真理を知らない。彼らは、自分たちエリートと一般人とは違うという考えに取り憑かれた、「分離」を信奉する人々なのです。だから、つねに敵を想定し戦争を起こすのです。

こうした支配者が繰り出す戦術を、ただ受け入れている限り人類の開放はありません。支配者の企みを見抜くのです。嘘を見抜くのです。言葉に惑わされてはいけません。表情を見れば、嘘やごまかしをしているのはすぐに判ります。支配者が成り立つのは、カラクリを見抜けないままに、支配者を支えてしまう民衆がいるからです。

この巧妙なコントロールに気づいた人から、静かなる革命を起こしてください。拳を振り上げる必要はありません。嘘やごまかしにははっきり「No!」と言い、不服従を決めてください。そして、ご自分の直感を信じてください。魂はけっして嘘をつけません。ご自分の魂の声に従うのです。それが、あなたの霊性を高め、ひいては人類を救う道なのです。(了)
なぜ、金、金、金、の世の中になったのか?(1)
NHKの『100年インタビュー』に脚本家の倉本聰さんが出ていらして、「なぜこんなに、金、金、金、の世の中になったのか?」と呟かれていたのが耳に留まりました。倉本聰さんと言えば、『前略おふくろ様』『うちのホンカン』『北の国から』などを思い浮かべる人が多いんでしょうが、私はだんぜん『6羽のかもめ』なんですよね。脚本集も持っている。

まあそれはいいとして、「なぜ、金、金、金、の世の中になったのか?」です。きっと同じような思いをしている人も多いことでしょう。この言葉の中には、「いつから、どのようにして?」という因果関係を問う意味と、「お金を第一と考える価値観、世の中の風潮」に対する倉本さんの疑問が同時に含まれています。

先ず、いつから、どのようにして、変わっていったのか? これは、私の見るところでは、1995年を境にして大きく変わった。もちろん一日で激変したわけではありませんが、激変する下地が、この年の前後で一挙に整備されたのです。極めて意図的に。そうしたい者たちの手に拠って。

95年の出来事としてすぐに思い出されるのは、マイクロソフトの「Windows 95」の発売です。このコンピュータ・ソフトの登場によって、オフィスだけでなく、冷蔵庫と同じように家庭で誰もがパソコンを持つ時代が幕開けしました。これは続くインターネットの普及によって、世界を一元化した情報、一元化した価値観で染め上げることを加速したのです。

また、前年の1994年には、大型店の出店を規制していた大規模小売店舗法が改正され、郊外ショッピングセンター(SC)時代が幕開けしました。裏を返せば、駅前商店街時代が終わって、後にシャッター通りとなる道筋がここで作られたのです。これは、日米貿易摩擦解消の一環としてアメリカから要求された法改正であり、その象徴となったのが「トイザらス」の日本上陸でした。

1992年1月、奈良県橿原市に「トイザらス」の2号店がオープン。この時、アメリカからわざわざパパ・ブッシュが訪れて、恣意活動を行いました。一国の大統領が、民間チェーン店のオープンの日に、飛行機でやって来たのです。「いいか、お前ら、俺が来たんだから、意味は分かってるだろうな」というわけです。この「トイザらス」を日本に持ってきた人が、日本マクドナルドの藤田田さんです。


そして、ここで一度障壁が破られた後は、まるで雪崩を打ったように、アメリカ政府による日本経済の支配が強まって行ったのです。貿易不均衡の是正を目的とした「日米構造協議」は、93年には「日米包括経済協議」と名を変え、94年からは2009年にかけては「年次改革要望書」という恫喝命令書にエスカレートして行きます。そして今また「TPP」へと繋がって行っているわけです。

さてもう一つ、今日では誰も指摘する人がいないのですが、95年に日経連(日本経営者団体連盟:2002年に経団連と統合)が、「新時代の『日本的経営』」と題する文書の中で、労働者のタイプ分けの雇用を提言しました。以下の3つがそれですが、狙いは、正規雇用者を減少させることによる賃金の抑制です。
  1. 長期蓄積能力活用型(企業の核となる継続雇用グループ)
  2. 高度専門能力活用グループ(流動性をもった専門職グループ)
  3. 柔軟雇用型(契約社員・パート等の不安定労働者グループ)

この翌年の96年には「労働者派遣法」が改正され、その後、派遣適用対象の職種を徐々に拡大してく形で、いわゆる「雇用の自由化」(裏を返せば、仕事の不安定化と賃金の減少)が推進されて行くようになったのです。と聞いても、「はあ、そうか」という程度にしか思われないかも知れませんが、これは、後で述べますが、実に大きな転換点となったのです。

さて、いま上げた事実を眺めてみれば、95年を境に、日本がどう変わって行ったかが見えてくるのではないでしょうか? 要約すれば、グローバル経済に飛び込む中で、労働者への締め付けが強化されて行った。そしてそれは、アメリカ政府の対日戦略であったということです。また日本がそれを受容した背景には、当時の政権内に(そして今も)アメリカの手先となって動く一派がいたということです。

これら一連の政策によって、日本国民の暮らしぶりが良くなったのならいいです。しかし、いわゆる「失われた20年」というものと、95年を境にした一連の制度改革の時期とが、ぴったり合うということに注目してください。今日の日本の衰退は、先行するアメリカ社会の衰退とまるでそっくりです。日本は、ダメになり方において、アメリカの後追いをするようになったのです。

そして95年初頭の、あのザワザワとした時代の雰囲気を覚えておられるでしょうか? 阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件という、世の中を震撼させる大事件が連続して起きたのです。時代の底が抜けた感じがしました。こうして、それまでの日本人が持っていたあるものが弾け、「金、金、金」の世の中へとチェンジして行ったのです。(つづく)
支払いはすべて価値の交換と心得るべし
昨年秋、すったもんだの末やっと山の家のトイレ工事を終えました。一般に水廻りはお金が掛かるといいますが、本当に腰が抜けるくらいのお金が掛かりました。特に、配管工事をしてくれた設備屋さんからの請求が、予想金額の3倍以上で、請求書を見た途端に「ウッ」となりました。

「なんだ、見積りをとらなかったのか?」と言われそうですね。そう、取らなかったのです。最初に頼んだ設備屋さんが逃げてしまい、急遽、無理を言ってお頼みしたので、そういう話はできなかったのです。

その逃げた設備屋さんが言い残していた概算見積りを念頭に置いていたので、3倍以上の数字を見てたまげてしまいました。この瞬間に、「払いたくない」という気持ちが、自分の中にパッと浮かんだんですね。「惜しい」という気持ちが、一瞬生じてしまった。

後から頼んだ設備屋さんは、とてもよくやってくれたんです。考えてみれば、その金額は妥当なんですね。自分が相手の立場だったら、やっぱりそれくらい請求したかもしれません。

ところがビジネスの場から去って久しいし、自分の生活レベルがうんと下がって、金銭感覚が世間一般の10分の1位になってしまったので、その妥当な請求額が、もの凄く高く感じてしまったのです。

その時に、「支払いはすべて価値の交換と心得るべし」という声が聞こえて来たんです。ああそうだった、それを忘れていた。「お金」の魔物に引っ掛かるところだった。
「お金」というのは、価値の仲介をする道具に過ぎない。設備屋さんが一週間も通ってしてくれたことの、お返しをもし自分がするとしたらどういうことができるか? 何にもできそうもないから、その代わりにどこでも使える「お金」を渡すことにするんですよね。

それで翌日すぐに振り込んで、その一件は終わりにしました。税金にしろ、健康保険料にしろ、電気代にしろ、請求が来た時には、一瞬「いやだな、払いたくないな」と思うこともあるでしょうけれど、どうせ支払うものはとっとと払った方がいい。その方が引き摺らないし、追い詰められなくて済むんですよね。