by Rainbow School
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なぜ、金、金、金、の世の中になったのか?(3)
1995年から続く「失われた20年」のちょうど真ん中、2005年にライブドア事件が起こりました。フジテレビ系列のニッポン放送株をめぐる攻防は、企業そっくりが、売買の対象であることを知らしめたのです。これは、企業経営というものの質が、すっかり様変わりしたことを象徴する出来事でした。簡単に言えば、従業員が会社についてくる「おまけ」程度にしか認識されなくなったのです。

事件は、転換時に起きる「歪み」が表面化したもので、裏では、そのような変化を促進する環境が着々と整備されていました。その最たるものが、2000年4月からの「時価会計制度」の導入です。これは企業が保有している、株式や債券、不動産などの資産を「時価(その時の価格)」で評価し、決算に反映させる制度です。

これによって、企業は、本業でたとえ利益が出ていなくても、保有資産を転がして値上がりさせていけば、それでもOKなんだよ、ということになった。しかしこの制度は、保有している資産が値上がりしている時には「含み益」が生じるのですが、逆に値下がりしている時には「含み損」が生じてしまうという危険な賭けでもあったのです。

しかし、それを導入したということは、時代の風潮がそうであったということと(つまり値上がりしか考えていない)、そうしたい勢力の思惑がバックにあって、政治に強く働きかけたのです。なぜなら、金融の世界で勝者になるためには、反対の敗者になる人を呼び込む必要があったからです。そのエサとして、「含み益」の魅力が喧伝されたのです。

「時価会計制度」の導入にあたっては、日本も「国際会計基準」に合わせて変更したという説明が当時なされたのですが、この「国際会計基準」を定めていた「国際会計基準委員会(IASC)」は、国際的機関のようで、実は、アメリカ、カナダ、オーストラリア、フランス、ドイツ、オランダ、日本、メキシコの、以上八ヶ国の「職業会計士」が集まって作った任意団体に過ぎなかったのです。

ともかく、そのようにして、日本も「時価会計制度」の導入に踏み切った。この時点から、企業というものの存在理由が「金儲け第一」となり、金儲けが見込めそうな企業が、投資家にとっては売買対象の単なる商品になったのです。そしてこの延長上に、従業員などは安くコキ使えばいいという、ブラック企業が誕生する道が開かれたのです。

このようにして、政治利権を持つ一部の企業や団体だけが儲かり、儲けの中から賄賂を政治家に送って法律を自分たちに都合のよいように変えさせ、マスコミを使って洗脳を行い、民衆を奴隷化し搾取しまくるという今日の社会が作られたのです。そしてなんと、ブラック企業大賞を受賞した企業オーナーが、自民党から出馬して国会議員になっているのですから、いやはや。

あなたはこれでもまだ政府を信じますか? 政治家を信じますか? 企業を信じますか? 銀行を信じますか? 宗教を信じますか? マスコミを信じますか? 信じている限り、奴隷状態からの脱出は不可能です。日本だけじゃない、世界中の人々がです。それが、ごく一部の支配者によって、奴隷化されてきた人類の歴史そのものなのです。

いったいどこに問題があるのでしょう?
ライブドア事件の渦中で、村上世彰氏が重要なことを言われました。「金儲けが、そんなに悪いことですか?」
さて、あなたは、どう考えますか?

これは、もちろん、悪いことではありません。誰しもが、働いて収益を上げ、その「お金」で生活をしています。ですから「お金儲け」に基本的に罪はない。ましてや「お金」にも罪はない。「お金」というのは、経済を円滑にさせるための単なるツール(道具)です。それを、喜ばしいものとして見たり、逆に汚いものとして見たりするのは、その人間の価値観なのです。価値観の反映です。

「お金」というツールは、トランプのジョーカーのようなもので、どんなカードにも使えるのです。海の人と山の人が出会って物々交換をする。海の人は魚を持ってきて、山の人は大根を持ってきた。ところが海の人は先日大根をたくさん貰ったばかりで、これ以上はいらない。そんな時には、後で何にでも変えられるジョーカー、つまり「お金」を渡せば、都合よく経済が廻ったのです。

ですから、「お金」に問題があるのではありません。問題は、それを使う人間の「意志」にあるのです。「お金」に異常な執着を持つ人と、逆に嫌悪する人は、一見真逆に見えますが、根っこは同じです。「お金」の本来の役割を、どちらも冷静に見られないのです。なぜそれが起きるかといえば、「お金」が、ジョーカーとしての性質を持っているからなのです。

いつでも、どんなものとも交換ができる価値を持つジョーカー。だとすれば、このジョーカーをたくさん集めておけばリッチな生活ができるぞ。さらに、頭のよい人たちがもっと素晴らしいアイデアを考え出します。「そうだ、お金にお金を生み出させる仕組みを考えればいいんだ。そうすれば、自分は働かずにお金を増やせる。まさにこれこそジョーカーだ!」

こうして、「お金」が「お金」を生み出す仕組みが、多方面に、合法的に、用意されたのです。利息、各種金融商品、株式、証券売買、為替、先物取引、不動産売買、etc.。

でも、「お金」が「お金」を生み出すというのはどういうことでしょうか? もともと「お金」は、物々交換の不便さを解消するツールだったはずです。ところが、「お金」が「お金」を生み出すと、実体のないジョーカーだけが、どんどん増えていきます。

このジョーカーは、普段は溜め込まれているのですが、いざとなった時には切り札として使われます。すると、この実体なく生み出されたジョーカーの、金額に見合うだけの実体的な「価値」が交換されなければならなくなります。このようにして、富者の持つ「お金」が、市場を支配する道具に化けるのです。

それだけではありません。実体のない「お金」がどんどん生み出されると、その「お金」に見合うだけの「価値」が提供されなければ帳尻が合いません。そのために、地球資源と、労働力の搾取が、永続的に続けられることになってしまうのです。つまり、環境破壊と、貧者からの搾取という二大問題は、ここを起点に起きているのです。

したがって、環境問題と貧困問題の解決をいくら個別に叫んでいても、現在の金融システムの矛盾を是正しなければ、問題は解決しません。各国の政府機関は、みな環境問題や貧困問題があることは認めていますが、それが是正されない(是正する気がない)のは、その人たちに、金融システムを抜本的に改める考えがないからなのです。

もし改めてしまったら、実体のないものによって、自分たちだけが富み、人々を支配し続けるという今までの構造が崩れてしまうからです。ですから、民衆には「よいことが起きるよ」という虚偽のエサだけを見せて、逆に、貧困に追い込む政治を続けている(続けざるを得なくなっている)のです。

この根本にある問題は、制度ではありません。人間の「意志」なのです。世界をよくするのは実に簡単なこと。みんなが仲良く、公平に分け与えるという「意志」さえ持てばよいのです。資源は充分に足りているのに、世界から餓死者がなくならないのはどうしてでしょうか? 富の極端なアンバランスが生じているからです。富める者に、「分け与える」という発想がないからなのです。

それは、彼らが真理に疎い。無智であることから来ています。世界は一つ、宇宙は一つ、魂は一つ、ということを知らない。他者に為したことは自分に為したこと、自分に為したことは他者に為したことである、という真理を知らない。彼らは、自分たちエリートと一般人とは違うという考えに取り憑かれた、「分離」を信奉する人々なのです。だから、つねに敵を想定し戦争を起こすのです。

こうした支配者が繰り出す戦術を、ただ受け入れている限り人類の開放はありません。支配者の企みを見抜くのです。嘘を見抜くのです。言葉に惑わされてはいけません。表情を見れば、嘘やごまかしをしているのはすぐに判ります。支配者が成り立つのは、カラクリを見抜けないままに、支配者を支えてしまう民衆がいるからです。

この巧妙なコントロールに気づいた人から、静かなる革命を起こしてください。拳を振り上げる必要はありません。嘘やごまかしにははっきり「No!」と言い、不服従を決めてください。そして、ご自分の直感を信じてください。魂はけっして嘘をつけません。ご自分の魂の声に従うのです。それが、あなたの霊性を高め、ひいては人類を救う道なのです。(了)
なぜ、金、金、金、の世の中になったのか?(1)
NHKの『100年インタビュー』に脚本家の倉本聰さんが出ていらして、「なぜこんなに、金、金、金、の世の中になったのか?」と呟かれていたのが耳に留まりました。倉本聰さんと言えば、『前略おふくろ様』『うちのホンカン』『北の国から』などを思い浮かべる人が多いんでしょうが、私はだんぜん『6羽のかもめ』なんですよね。脚本集も持っている。

まあそれはいいとして、「なぜ、金、金、金、の世の中になったのか?」です。きっと同じような思いをしている人も多いことでしょう。この言葉の中には、「いつから、どのようにして?」という因果関係を問う意味と、「お金を第一と考える価値観、世の中の風潮」に対する倉本さんの疑問が同時に含まれています。

先ず、いつから、どのようにして、変わっていったのか? これは、私の見るところでは、1995年を境にして大きく変わった。もちろん一日で激変したわけではありませんが、激変する下地が、この年の前後で一挙に整備されたのです。極めて意図的に。そうしたい者たちの手に拠って。

95年の出来事としてすぐに思い出されるのは、マイクロソフトの「Windows 95」の発売です。このコンピュータ・ソフトの登場によって、オフィスだけでなく、冷蔵庫と同じように家庭で誰もがパソコンを持つ時代が幕開けしました。これは続くインターネットの普及によって、世界を一元化した情報、一元化した価値観で染め上げることを加速したのです。

また、前年の1994年には、大型店の出店を規制していた大規模小売店舗法が改正され、郊外ショッピングセンター(SC)時代が幕開けしました。裏を返せば、駅前商店街時代が終わって、後にシャッター通りとなる道筋がここで作られたのです。これは、日米貿易摩擦解消の一環としてアメリカから要求された法改正であり、その象徴となったのが「トイザらス」の日本上陸でした。

1992年1月、奈良県橿原市に「トイザらス」の2号店がオープン。この時、アメリカからわざわざパパ・ブッシュが訪れて、恣意活動を行いました。一国の大統領が、民間チェーン店のオープンの日に、飛行機でやって来たのです。「いいか、お前ら、俺が来たんだから、意味は分かってるだろうな」というわけです。この「トイザらス」を日本に持ってきた人が、日本マクドナルドの藤田田さんです。


そして、ここで一度障壁が破られた後は、まるで雪崩を打ったように、アメリカ政府による日本経済の支配が強まって行ったのです。貿易不均衡の是正を目的とした「日米構造協議」は、93年には「日米包括経済協議」と名を変え、94年からは2009年にかけては「年次改革要望書」という恫喝命令書にエスカレートして行きます。そして今また「TPP」へと繋がって行っているわけです。

さてもう一つ、今日では誰も指摘する人がいないのですが、95年に日経連(日本経営者団体連盟:2002年に経団連と統合)が、「新時代の『日本的経営』」と題する文書の中で、労働者のタイプ分けの雇用を提言しました。以下の3つがそれですが、狙いは、正規雇用者を減少させることによる賃金の抑制です。
  1. 長期蓄積能力活用型(企業の核となる継続雇用グループ)
  2. 高度専門能力活用グループ(流動性をもった専門職グループ)
  3. 柔軟雇用型(契約社員・パート等の不安定労働者グループ)

この翌年の96年には「労働者派遣法」が改正され、その後、派遣適用対象の職種を徐々に拡大してく形で、いわゆる「雇用の自由化」(裏を返せば、仕事の不安定化と賃金の減少)が推進されて行くようになったのです。と聞いても、「はあ、そうか」という程度にしか思われないかも知れませんが、これは、後で述べますが、実に大きな転換点となったのです。

さて、いま上げた事実を眺めてみれば、95年を境に、日本がどう変わって行ったかが見えてくるのではないでしょうか? 要約すれば、グローバル経済に飛び込む中で、労働者への締め付けが強化されて行った。そしてそれは、アメリカ政府の対日戦略であったということです。また日本がそれを受容した背景には、当時の政権内に(そして今も)アメリカの手先となって動く一派がいたということです。

これら一連の政策によって、日本国民の暮らしぶりが良くなったのならいいです。しかし、いわゆる「失われた20年」というものと、95年を境にした一連の制度改革の時期とが、ぴったり合うということに注目してください。今日の日本の衰退は、先行するアメリカ社会の衰退とまるでそっくりです。日本は、ダメになり方において、アメリカの後追いをするようになったのです。

そして95年初頭の、あのザワザワとした時代の雰囲気を覚えておられるでしょうか? 阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件という、世の中を震撼させる大事件が連続して起きたのです。時代の底が抜けた感じがしました。こうして、それまでの日本人が持っていたあるものが弾け、「金、金、金」の世の中へとチェンジして行ったのです。(つづく)
支払いはすべて価値の交換と心得るべし
昨年秋、すったもんだの末やっと山の家のトイレ工事を終えました。一般に水廻りはお金が掛かるといいますが、本当に腰が抜けるくらいのお金が掛かりました。特に、配管工事をしてくれた設備屋さんからの請求が、予想金額の3倍以上で、請求書を見た途端に「ウッ」となりました。

「なんだ、見積りをとらなかったのか?」と言われそうですね。そう、取らなかったのです。最初に頼んだ設備屋さんが逃げてしまい、急遽、無理を言ってお頼みしたので、そういう話はできなかったのです。

その逃げた設備屋さんが言い残していた概算見積りを念頭に置いていたので、3倍以上の数字を見てたまげてしまいました。この瞬間に、「払いたくない」という気持ちが、自分の中にパッと浮かんだんですね。「惜しい」という気持ちが、一瞬生じてしまった。

後から頼んだ設備屋さんは、とてもよくやってくれたんです。考えてみれば、その金額は妥当なんですね。自分が相手の立場だったら、やっぱりそれくらい請求したかもしれません。

ところがビジネスの場から去って久しいし、自分の生活レベルがうんと下がって、金銭感覚が世間一般の10分の1位になってしまったので、その妥当な請求額が、もの凄く高く感じてしまったのです。

その時に、「支払いはすべて価値の交換と心得るべし」という声が聞こえて来たんです。ああそうだった、それを忘れていた。「お金」の魔物に引っ掛かるところだった。
「お金」というのは、価値の仲介をする道具に過ぎない。設備屋さんが一週間も通ってしてくれたことの、お返しをもし自分がするとしたらどういうことができるか? 何にもできそうもないから、その代わりにどこでも使える「お金」を渡すことにするんですよね。

それで翌日すぐに振り込んで、その一件は終わりにしました。税金にしろ、健康保険料にしろ、電気代にしろ、請求が来た時には、一瞬「いやだな、払いたくないな」と思うこともあるでしょうけれど、どうせ支払うものはとっとと払った方がいい。その方が引き摺らないし、追い詰められなくて済むんですよね。