by Rainbow School
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真の “貧困” 問題とは

・「経済成長、経済成長!」と言い続けながら、なぜ日本経済は25年も停滞し続けているのでしょうか?

・グローバル化が更なる富をもたらすと言っていたのに、なぜ先進国の多くが財政危機を迎えるようになったのでしょうか?

・生産力が飛躍的に高まり、物が溢れかえっているというのに、世界にはなぜそれらを手にできない人がいるのでしょうか?

・IT化やロボット化の進展で、人力に頼る労働は激減しているはずなのに、なぜ今なお、人は長時間労働を強いられているのでしょうか?

 

答えはシンプルです。今の社会の根本に「分かち合う」という考えがないからです。競争に勝った者のみが成功と富を手にできる。この間違った思想に、骨の髄まで染まった人が、政治、経済、教育分野の指導者として社会に君臨し、社会全体をこの思想で覆い尽くし、結果として、このカラクリに気づかされぬまま、一般の民衆がその犠牲となっているのです。

 

その行いが「宇宙の法則」に適っているかどうかは、自然に照らしてみれば判る。

 

自然界には食物連鎖というものがあります。これは一見、ただの弱肉強食のように見えますが、見方を変えれば、命を引き継ぐ法則です。食物連鎖の上位に位置する種も、下位を構成するシステムがあるからこそ生きていけるのです。そのことを彼らは知っています。もしこのバランスが崩れてしまったら、上位に位置する種も絶滅してしまう可能性があるのです。

 

ところが人間だけはそう考えない。個人でも、会社でも、国でも、みんな競争にただ勝つことしか考えておらず、勝者の陰には、たくさんの敗者がいることなど微塵も考えない。その人たちが、回り回ってお客さんとして、自分を養ってくれているのかも知れないのに、そういう想像力が働かない。そして富を貪り尽くそうとする。

 

最近、二つのテレビ番組を観ました。一つは「NHKスペシャル」の『見えない “貧困”  〜未来を奪われる子どもたち〜』、もう一つは『ゴミ処分場のオーケストラ』というドキュメンタリーです。どちらも “貧困” 問題を扱っているのですが、二つを観比べて、「貧困」に対するアプローチがこうまで違うのかと、大いに考えさせられました。

 

日本では今、6人に1人の子どもが、相対的貧困率でいうところの “貧困” に陥っていると言われています。Nスペの『見えない “貧困”  〜未来を奪われる子どもたち〜』は、そういう現状を踏まえて、では具体的に、どんなところにその「貧困」の実態が見られるのかに迫った番組です。

 

相対的貧困率の指標では、夫婦と子ども二人の標準世帯で年収244万円以下、一人世帯では122万円以下が「貧困」家庭ということに分類されます。私の年収は一時期は30万円くらいでしたが、国民年金が頂けるようになってから飛躍的に増え、昨年は110万円くらいになりました。でもこの指標に照らせば、今なお、私も立派な「貧困」。

 

今や列記とした、押しも押されもせぬ、誰がなんと言おうと、世界に冠たる、他の追従を許さぬ、まごうことなき「貧困」です! って、ちと強調し過ぎかな?

 

この番組を観て違和感を覚えたのは、「見えない “貧困”」の可視化(見えるようにすること)の試みとして、「剥奪指標」なるものが設定され、全国で大規模調査が行われているというのです。えっ、「剥奪指標」?、どなたが思いついたのか知りませんが、全くもっていやなネーミングだなぁ。(どうも社会学用語の「deprivation」の訳語のようですね)

 

この「剥奪指標」なるものは、普通の家庭だったら当たり前のように子どもが享受できている事柄が、どれだけ〈奪われているか〉を見るもので、「新しい服や靴が買えない」「病院に行かせることができない」「本を買ってあげることができない」「塾に行くことができない」「家族旅行に行けない」等々の項目が並んでいます。

 

これらが満たされていない場合、それは「剥奪」されたものとしてカウントされ、そして、例えば3つ以上ある家庭には「支援」が必要だ、という議論になっているのです。

 

驚いたのはそればかりではありません。番組では何人かの子どもたちを取材していたのですが、少しでも家計を助けようとアルバイトをしたり、服はお古で我慢したり、母親に代わって家事をしたり、弟や妹の世話をしたりと、みんな粘り強く賢い子たちなのです。それなのに、大人たちは「早く大人にさせてしまって申し訳ない」などと口々に言うのです。

 

自慢じゃないですが、私の子ども時代は、先の「剥奪指標」は全部当てはまります。満点のキンコンカンだ。上が姉二人だったので、お下りのセーターが臙脂色だったのを学校でからかわれたことがある。いったい誰が、男は青系、女は赤系と、色を差別することを決めたのだ。どんな色だって平等な筈じゃないかと、その時は反発しました。

 

中学校の学生服も、全校でただ一人オフクロの手作り。生地がギャバジンだったので、集合写真を撮ると、自分だけがつや消しのブラックで目立つこと。オフクロが時たま送って来る手紙の封筒は、晩年になっても広告チラシの裏を使って糊付けした手作りでした。我が家はそんな風だったので、3人姉弟の誰も大学には行けなかった。

 

オヤジが死ぬ間際になって、虫の息で何を言うのかと思ったら、「あんまり貧乏で、イヤか?」とポツリ。思わず「そんなことはないよ」と返したのですが、その気持ちは本当でした。貧乏で辛いと思ったことなどありません。それがフツーでしたから。ただ、(親父はそんなことを気にしていたんだなぁ)と分かったのが、ちと悲しかった。

 

私の子ども自分には、その程度の貧乏は当たり前だったのです。家電製品などラジオしかない時代。そして世界には、今も同様の子どもたちがいっぱいいる。それなのに、何が「剥奪指標」でしょうか? 「早く大人にさせて申し訳ない」でしょうか? 子ども時代に背伸びをして、大人の真似をしたことが一度も無かったのでしょうか?

 

家が貧しかったことをバネにして、立志伝中の人物となった偉人は大勢います。番組に出ていた子どもたちも、みなそれぞれが自分で考え、工夫して生きている素晴らしい子たちです。

 

貧しき者は幸いである。

 

なぜ貧しき者は幸いなのでしょう? それは、貧しさゆえに、満たされた者では到底気づかないような「気づき」に出会えるチャンスがあるからです。そのチャンスを、「支援」の名の下に奪っていいのでしょうか? これこそが「剥奪」です。

 

その行いが理に適っているかどうかは自然を見ればいい。

 

あなたが困った時、自然は「支援」というおせっかいをして来るのでしょうか? 自然はいつもあるがままです。Silent(沈黙)です。でも、いつでもあなたをしっかりとホールドし、生かしてくれているのです。そこに気づきなさい。

 

現代に暮らす日本人の不幸は、真の問題に眼を向けずに、なんでも「支援」で片づけようとするところにあります。そもそも「貧困」世帯がこれほど増えてしまった原因はどこにあるのでしょうか? そのように、政治が舵取りをして来たからです。そこを変えずして、「支援」でなんとかしようとしても、根本の問題は解決しません。

 

今の日本社会は、雇用にせよ、年金にせよ、医療にせよ、教育にせよ、およそありとあらゆる分野で「政治」が問題を作り出しておきながら、それをまた「支援」で解決しようとするやり方が蔓延しているのです。これを称して「マッチポンプ(自分で火をつけ、自分で消火活動をするの意)」と言います。

 

それが、真の問題から眼を逸らさせるとともに、裏で巨大な利権構造を生んでいることに、いい加減に気づきましょうよ。私はこのブログで、何度も大衆洗脳について書いてきました。それを読んで、「このオッサン何を言うてんねん」と思っておられる方も多いとは思いますが、「洗脳」というものは、正にこのように進展していくのです。

 

*真の問題:これには結局二つある。社会システムと、個人の心のあり方と。

 

「剥奪指標」というものを考案した人も、調査を行った人も、またそれを報じたNHKも、そこで話すアナウンサーも、スタジオで「子どもなのに大人にさせて申し訳ない」と語るゲストも、これから「支援」をしていかなければならないと考えている人も、みんな「善意」でそれをしていると思っているのです。でも、真の問題には、決して迫ろうとはしません。

 

これが「洗脳」の実に恐ろしいところで、「剥奪指標」なるものが今後一般化し、それが「相対的貧困率」と結びつけて語られるようになると、〈みんなが持っているものを持たない人間はおかしいんだ〉〈その原因は「お金」がないことにあるんだ〉〈「お金」がない者は「支援」を受けない限り、ずっと不幸のままなんだ〉という考えを植え付けてしまいます。

 

事実、「介護保険」なるものを考え出したために、〈齢をとったらみんな介護の世話になってしまうんだ〉〈だから、そうなった時のために「お金」をたっぷり蓄えておかなければならないんだ〉〈老後でものを言うのは、結局「お金」だ〉という考え方がすっかり浸透してしまいました。ですから、子どもの「貧困」問題もいずれ必ずそうなる。

 

今の社会では、すべての問題が「お金」に還元されるように仕向けられ、これがあらゆる分野で「マッチポンプ」の手段によって操作されているのです。こうして人類は、すっかり「お金」の奴隷にされてしまいました。これは、そうすることで人類を「支配」しようというグループが、闇の奥深くにいるからなのです。

 

「お金」というものは、そもそもは、価値の仲立ちをする単なる便利ツールに過ぎません。山の人が山の幸を、海の人が海の幸を互いに物々交換する。けれども「えっ、ジャガイモ? ジャガイモは間に合っているよ」ということだってある。毎回それじゃあ不便なので、「これを出せばいつでも交換できることにしようよ」と、仲立ちをするものを作ったのです。それが「お金」。

 

ところが、ずる賢い人がいて、この「お金」を他人に貸し、「利子」を付けて返して貰うことにした。この「利子」とは、いったい何なのか? 無から生み出された「お金」です。すると返済する側は、新たに創造された「お金」に相当する「価値」をどこかで工面して返さなければならなくなる。ジャガイモをいつもより1個多くとかネ。

 

これが、人類がいつまでも奴隷労働から解放されない根本原因なのです。今の「お金」は、今の人類全体が合意して創り上げた、実は壮大なフィクションなのです。そのフィクションに、人間は奴隷にされているのです。

 

さて、一方の『ゴミ処分場のオーケストラ』というドキュメンタリー。これは「貧困」問題に対して、今まで語ってきたアプローチとは全く異なるアプローチを示していて、私はとても感銘を受けました。なぜかといえば、この映画に登場した人たちが人間の本質というものをよく解っておられるからです。

 

パラグアイの首都アスンシオンの郊外に位置するカテウラは、パラグアイ最大のゴミ埋立地です。ここはパラグアイ川の流域にあり、洪水の危険があるので居住には適さない土地でしたが、ゴミの中からリサイクルできる物を拾って売り、それで生計を立てるガンチェロと呼ばれる人たちが2500世帯も暮らしています。もちろん彼らは貧しく、衛生状態も、環境汚染もひどい。

 

この劣悪な生活状態を改善しようと、ゴミ処分場に関わるシステムを再構築すべく、一人の環境技術の技師(Favio Chávezさん)がこの地に着任してきます。ところが、問題の根が深くてなかなか歯が立たない。一度挫折感を味わったファビオさんは、アプローチを変えて、ここで暮らす子どもたちを先ず元気にしようと思い立つのです。

 

そこで、Luis Szaránさんが始めた「大地の音プロジェクト」を真似、ゴミの中から空き缶などを拾っては楽器を自作。無料の音楽教室を開いて子どもたちに音楽を手ほどきして行きました。それが、演奏活動を続けるうちにメキメキと腕を上げ、ついにこの楽団「リサイクル・オーケストラ・オブ・カテウラ」は世界中から招待されるまでになったのです。

 

何よりも私が素晴らしいと思ったのは、指導するファビオさんも、楽器を作ってくれるニコラおじさんも、子どもたちも、みんな眼が明るく輝いていること。「剥奪指標」というものを創作し、「困った、困った」と顔をしかめている日本の大人たちとは、何という違いでしょうか。これこそが「貧困」問題の最初の解決策だと、どうして気づかないのでしょうか?

 

いつも言っているように、人は「表現」せずにはいられないのです。「表現」の面白さと喜びを知れば、人は自らその能力を使って、困難を克服して行きます。その能力を「支援」というおせっかいによって、奪ってはならないのです。このことを、日本でずっと以前に、正に実践したのが、ねむの木学園の宮城まり子さんでした。

 

「支援」という言葉を使いたいのであれば、「不足を補う」という発想は一切捨てるべきです。そして「創造活動」を行う「環境づくり」を手助けすることを「支援」と言うべきなのです。自然が、正にそうであるように。行動は、あくまで本人の自主性に任せなければなりません。これは、一般家庭での子育てにも言える鉄則です。子どもの意思決定に、大人が介入してはならないのです。

 

なぜ人は、「表現」せずにはいられないのでしょうか? それは、あなたの本質である「魂」が〈存在すること〉をやめられないからです。あなたという「魂」は、永遠の存在です。その永遠を、「魂」は「表現」し続けることの変化によって継続させて行くのです。

 

だから、自分に相応しい「表現」ができた時、あなたには喜びが満ち溢れ、その活動を制限された時、あなたは憂鬱に沈むことになるのです。私は、大人たちに言いたい。物事を複雑にしてはならない、と。どこにでも「問題」を探し出し、額に皺をよせては「支援」や「対策」や「治療」を考え出すクセを、止めなければなりません。あなたを輝かせる道は別のところにある。

 

世の常識や決まりごとを、まだそれほど信じていない分、子どもたちは素直で敏感です。驚くほど正確に大人たちを見ているんですよ。このお兄さんお姉さんは優しくて親切か、このオジさんオバさんは正直か嘘つきか、このおジイさんおバアさんは甘えても許されるか。キッチリ見抜かれているのは大人たちの方なのです。

 

もっとシンプルでいいのです。あなたが楽しい時はどんな時ですか? あなたが笑顔を浮かべる瞬間はどんな瞬間ですか? それを思い浮かべ、いつも周囲の子どもたちに振り撒きなさい。なにより、あなた自身が子どもになりなさい。そうすれば、ハッピーとは、こんなに簡単なことなんだと解りますから。

 

お手本になる

私を含めて数人という現在の活動は、ごくごく小規模なものです。それでも、私はよく「私たちが先ず、みんなのお手本にならなければいけないね」と仲間内に話しています。どんなにエラそうなことを言ったところで、その人の「生き方」がお手本となっていなければ、説得力を持たないと思うのですよ。

 

病弱な医者、我欲にまみれたお坊さん、しょっちゅう生徒を怒鳴りつけている教師、年がら年中ピーピー言ってる経営者、ファッションセンスのないコーディネーター、審美眼のないコレクター、真っすぐにノコギリを引けない大工、だしの取り方を知らない料理人、乱暴な運転のトラックドライバー等々。これじゃあ、説得力がありませんよね。

 

『虹の学校』は「生き方」を模索しているわけですから、当然、自分が「生き方」のお手本になっていなければいけない。私が「業界」というか、いわゆるスピリチュアルな世界や宗教界に愛想を尽かしたのは、言ってることとやってることがまるで違うという現実を、数多く眼にして来たためです。

 

私が考える「お手本」というのは、名声を得たり、尊敬の眼差しを集めたり、近寄り難い人物になったりすることじゃない。まったく逆です。大して取り柄もないダメ人間だけれども、それでも自分を活かして、楽しく、元気よく、生きる道があるんだよと示すことです。自分を活かして、周囲も生かせば、平安と愛の世界が創れるんだよと、実証することです。

 

よく「こうすれば、もっと多くの人を取り込めるのに‥‥」な〜んて、言われることもあるのですが、全く興味はありません。そんな策を弄したところで、波動が合わない人とは、所詮は一緒になれません。たとえ一時的に縁が生じたとしても、自然とその縁は解消されて行くものです。

 

逆に言えば、『虹の学校』が持つバイブレーションの幅に近い人は、自然と引き寄せられ、集まって来ます。その時に、我々が先ず「お手本」になっていなければいけないねと、仲間内で切磋琢磨しているわけです。Open heart で、健康で、エネルギッシュで、向上心に溢れ、親切で、いつも行動している人でありたい、とそう思っています。

 

『虹の学校』には上下関係なんてない。先輩後輩もない。会員制度もなければ、お免状もない。試験もない。資格だ参画だなんてこともない。豪華絢爛な社殿もない。規則もない。一切何も強制しない。手取り足取り指導するなんてこともしない。わたしはわたし、あなたはあなただ。すべては自由だ。

 

弟子を友とし、友を師とする。そういう関係をステキと感じる人しか、だから残らない。でもそれで充分じゃありませんか。なぜって、自分の今のレベルは自分で判るわけだし、いつでもマスターが見てくれているわけですからね。

 

ああ、それ以上、何が必要だろうか? 「お手本」になるように生きることだけで、毎日が、それはそれは忙しいよ。

体罰の是非(3)

「体罰」を容認してしまうことによって起きるもう一つの問題点は、「体罰」を与えることを面白がるという人が居て、そういう人に、歪んだ自己表現の場を与えてしまうことです。

 

桑田真澄さんがプロ野球関係者に行ったアンケートでは、83パーセントが「体罰」を容認するという結果が出ました。これには、自分自身の体験から、それによって成長したという思いが反映しているのでしょう。あるいは、言葉で言って分からない者には体で覚えさせるしかない、という考えもあるかも知れません。

 

しかし、「気づき」を促す手段は他にもあるし、何より本人が「自分で考える」ようにならなければいけない。そのためには「体罰」は不適当である、という私の考えを昨日述べました。また、「体罰」の容認の前には「罰」の容認があり、これがそもそもおかしいのだ、という持論も述べました。

 

もし「罰」というものを認めてしまいますと、それが合意のもとにルール化されたものでない限りは、「罰」を行使する側にその場の絶対的な支配権を与えてしまいます。ところが、その支配する側の心理や考えというものは、外側からは容易に窺い知ることはできません。それなのに、〈これは「罰」なんだからね〉というお墨付きを与えることになってしまいます。

 

中学校に入学して、私は剣道部に入部しました。へなちょこコンプレックスをなんとか払拭したかったのです。最初の1カ月が過ぎ、防具を着けて練習をする頃になると、連日面を叩かれて頭頂部が腫れ上がり、夜は湿布をしないと眠れなくなりました。でもこれにはまだ耐えられたのです。

 

ところが2カ月が過ぎた頃、上級生に言われて、一年生全員が蓋のない下水溝の上に正座をさせられました。太腿とふくらはぎの間に竹刀を挟み込んで、下水溝の両端に、膝とくるぶしを載せて正座するのです。そうやった上で、上級生が代わる代わる、竹刀の両端を思いっきり踏んづけて回るのです。

 

どうやらそれは「伝統行事」らしく、二年生の顔には、やられる側からやる側にやっと回れたという喜びが溢れていました。これには猛烈に腹が立ち、私はその後すぐにクラブをやめました。足の痛さよりも、「こんなバカな連中と付き合えるか」と思ったのです。

 

そういう不条理な場に、自分を同化させて行くというのが、反吐が出そうなほど嫌でした。しかし一方で、上級生たちはみんなその洗礼をくぐり脱けて来たわけで、「俺は脱落した」という、へなちょこコンプレックスがさらに強化されて、その後もずっと心の底に住み着くことになったのです。

 

小学生のころ、友達と川で立ちションをしていた時の話です。この一件は前にも書きましたが、突然一人が、私のおチンチンにヒョイとカブト虫を乗っけたのです。もうビックリです。カブト虫の足の爪がおチンチンに食い込んだ時の感触を今も思い出します。

 

私はズボンをビショビショにして、泣きながら家に帰ったのですが、理解できませんでした。「いったい何が面白くてそんなことをするんだろう?」と。でも、他人を弄んで、傷つけて、それを喜ぶ、それが楽しいと思う人間がいることは、もう仕方がないんですよね。

 

戦争中の日本陸軍などは、その連鎖的構造によって組織が維持されていたということが、『真空地帯』や『陸軍残虐物語』『兵隊やくざ』といった映画を観るとよく解る。ですから、他人を傷つけて喜ぶという心理が、集団になった時には、いとも簡単に自分の矩(のり)を超えて暴走してしまうんですね。

 

そこに、「罰」のお墨付きを与えたら一体どうなるでしょうか? 行き着く先は、集団リンチです。これは、連合赤軍事件をはじめ、数々の事例が示しています。これが人間というものの弱さ。

ですから、「体罰」など、決して認めてはならないのです。(了)

体罰の是非(2)

「体罰」という言葉に、(それは暴力ではないかという意味で)みな惑わされてしまうのですが、昨日も書いたように「体罰」がいけないのではないのです。「罰」という考えがそもそもおかしいのです。「罰」を与えると称する側は、その瞬間、絶対的な支配者になっている。これこそが暴力というもの。手を出す・出さないは、関係ないのです。

 

ボクシングの殴り合いは暴力なのでしょうか? 柔道の投げ合いは暴力なのでしょうか? 西部劇では、反目する二人が殴り合いをしてから仲よくなるというシーンがよくあります。これは暴力でしょうか? これらは、肉体を通じたコミュニケーションです。Sex だってそう。ところが、合意がない時には、同じ行為が暴力になるのです。

 

野球で、ピッチャーの投げた球が、指にうまく掛からずに打者に当たってしまった。これはルール上のデッドボールです。でもピッチャーによっては、最初から当てようと狙って投げる場合がある。これは合意を逸脱した行為ですから、もはや暴力です。ところが、その線引きは微妙で難しい。ですから、肉体を通じたコミュニケーションには、手加減や思いやりというものが必要になって来るのです。

 

「体罰」の是非ということを問題にする際には、いま書いたことをみんなゴッチャにしてしまって、手を出す・出さない、という点にフォーカスを当てて議論をしています。しかし、そうではないということです。

 

ですから、スポーツ選手の中には「あの時の体罰が、自分を成長させた」と、「体罰」を是認する人が出て来るのです。それは、その行為によって、自分に「気づき」が起きたということを評価しているからです。しかしそれは、「体《罰》」だったのでしょうか? 合意の上に成立していた、肉体を通じたコミュニケーションだったのではないでしょうか?

 

先ほども書いたように、両者の線引きは難しい。ボクシングをはじめスポーツにはみな「ルール」という合意事項がありますから、それを逸脱したか・しないかで判定ができます。ところが、コーチングにはルールというものがありません。そこで、そこは慣習とか、あうんの呼吸というものになっているのです。スポーツでの練習、学校での授業、職場の先輩後輩、家庭でのしつけ、みんな「あうんの呼吸」です。

 

その曖昧さが、時に問題を起こします。相撲部屋で、入門者を殺した事件がありましたね。殺された側は「体罰」が辛い。ところが、やっている親方や兄弟子たちは「これくらい、いいだろう」と思ってやっているわけです。手加減や思いやりというものがないので、肉体を通じたコミュニケーションから遥かに逸脱していても気づかないのです。コーチ失格です。

 

さて、肉体上の痛みを味わったことによって、始めて何らかの「気づき」を得た、という証言がたくさんあることは確かです。それが「体罰」容認論の支持につながっています。しかしその「気づき」は、本当に「体罰」を与えられなければ、気づけなかったものなのでしょうか? ここで、コーチングというものに対する考え方の差が出て来ます。

 

桑田真澄さんや落合博満さんは、指導者というのは環境を用意してあげるだけ、という考え方です。気づくか、気づかないかというのは本人の問題であると。どんなに環境を用意してあげても、気づけない人は成績が出ませんし、向上もして行きません。プロ野球ですから、そこはシビアな世界で、そういう人は脱落してしまいます。そこで痛みを味わうのは誰なのでしょうか? 本人です。

 

これ以上の「痛み」が、果たしてあるでしょうか? 「痛み」というのは、知覚ですから、本人にしか分りません。本人が自覚するものなのです。ですから、わざわざ与えてやる必要などない。下手に「体罰」などしたら、怪我を負わせてしまうかもしれませんし、練習メニューもガタガタになってしまいます。それは、指導者がやるべきこと(育つ環境の整備)に反する行為です。

 

それよりも、愛情を持って接し、見守ることに徹した方が、本人の「気づき」につながるという考え方を、桑田真澄さんや落合博満さんは採っているのです。

 

「罰」という考え方が最もいけない点は、それが本人の「考える力」を奪ってしまうことです。「罰」が怖いからこれをする、「罰」を受けたくないないから言いつけに従う、という条件反射になってしまって、自分がやっていることの意味を考えなくなる。外面的には、それで上手く回っているように見えても、「考える力」がなければ、イレギュラーの問題には対処できません。

 

ですからそういうチームは、結局、勝てない。試合はイレギュラーの連続ですし、グラウンドで野球をやっているのは、監督ではなくて選手ですから。職場でも、家庭でも、それは同じこと。条件反射で得られた「気づき」は、それ以上に発展することはありません。考えることをしないからです。ですから、自分もまた「体罰」を是認し、同じように「体罰」で「気づき」を与えようとして行く。

 

私たちの大半は、もちろんプロスポーツ選手ではありません。でも、誰でも人生のプロには成れるし、また成っていかなければいけないと思うのです。だから「体罰」などは不用。自分で「気づく」ことができるし、自分で「考える」ことができるし、「自立して」歩むことができるのです。さあ、あなたも、自分の人生のプロを目指して歩むのだ!

体罰の是非(1)

巨人軍のエースとして一時代を築き、大活躍された元プロ野球選手の桑田真澄さん。この方は、生まれながらにして高い徳を持った人だと、私は確信します。

 

合理性を重んじる独自の野球理論もさることながら、何より野球を愛し、野球を単なるスポーツを超えた人間形成の場として捉えているところが素晴らしい。指導者として、一段も二段も高いところに居て、野球界全体の向上と、野球に携わる人すべての幸福を考えている。いずれは、野球界でそれなりの役職を要請されることになるでしょう。

 

その桑田真澄さんが「体罰」について語っています。しかし大多数の人は、彼の深い考えを理解できないことでしょう。桑田さんの考えでは、もちろん「体罰」は100パーセントNOです。それは、コーチング技術の合理性から言っても意味がないというだけではなく、たぶん、もっと根源的な問題を彼は問うていると私は思います。

 

桑田さんは、この問題に関する論文を書くために、プロ野球選手300人に独自のアンケートをしました。すると、なんと83パーセントの人が「体罰」を容認するという結果が出たのです。指導のためには、時には「体罰」も許されるし有効だという考えが、プロ野球界に広く浸透しているのです。

 

これは野球に限らず、あらゆるスポーツがそのようです。現指導者のほとんどは、選手時代に「体罰」を受けた経験があり、「自分はそれを乗り越えて来て今があるわけで、「体罰」も時に有効である」と考えているようです。その結果、次の世代に、また「体罰」をともなった指導法が引き継がれて行っているのです。

 

さて、次の行為は「体罰」に当たるでしょうか? あなたはどう考えますか?

・集合時間に遅れたので、罰としてグランド3周を命じた。

・やる気のない態度に、言葉で、徹底的に人格をなじった。

・不甲斐ない成績に、愛情のこもったビンタをくらわせた。

 

おそらく、「体罰」の「体」という文字の意味する範囲について、悩まれることでしょう。桑田さんは、これらは全部「体罰」だと言います。私もまったく同感です。同感ですが、理由は、もしかしたら違っているかも知れません(たぶん同じだと思う)。私の考えでは、そもそも「罰」という考え自体が NG です。

 

なぜ世間では、「体罰」の是非が、しばしば問題になるのでしょうか? そこには「罰」は容認するけれども、「体罰」は容認できるのか、という線引きが、暗黙のうちに敷かれているように思えます。ですから、わざわざ「体」の字をくっつけて「体罰」と呼んでいるのです。

 

人間社会では、「罪」を犯せば「罰」を受ける、という考え方が当たり前になっています。法治国家はそれが前提となっていて、それゆえ人々は、「罰」を与えるという考えに抵抗がありません。しかし、そもそも「罰」とは何でしょうか? 立場の強い者が、立場の弱い者を、自分の価値観に強制的に従わせる行為です。「罪」を犯したからと言うが、「罪」の定義は多分に恣意的なものです。

 

強者は、自分が正しいと思い込んでいるので、その行為自体にはなんら疑問を持ちません。私は、幼少期に両親から「体罰」を受けました。そのときの両親は、そうすることが正しいことだと信じていたわけです。立場の弱い者が、その時にどんな気持ちになるかなんてことは考えていない。後々、それがどんな傷になるかなんて考えていない。

 

それどころか、世間では、それが教育である、しつけである、愛情である、と豪語する人もたくさんいるのです。

 

ここで、宇宙の法則から言及してみましょう。宇宙の法則では、「他者にしたことは、自分にしたことと同じ」です。なぜなら、全てが一つだからです。ということは、他者に「罰」を与えることは、自分に「罰」を与えることと同じということです。なぜそんなことをする必要があるのでしょうか? なぜそんなことをしなければならないのでしょうか?

 

結局、自分を敬っていないのです。人間を敬っていないのです。愛の鞭などと言いながら、本当の愛を知らない。実体は、愛の無智なのです。

 

神は「罰」を与えません。「罪」と「罰」という概念を作ったのは人間です。神とは宇宙の全て。もし、神が「罰」を与えるのだとしたら、自分で自分に「罰」を与えるということになってしまいます。「罪」を犯したのも自分なら、「罰」を与えるのも自分。そんな馬鹿な話はありません。

 

立場の弱い者からすれば、また子どもたちからすれば、真実の愛を注いで欲しいのではないでしょうか? だったらなんで「罰」など与えるのでしょうか? 「他者にしたことは、自分にしたことと同じ」なんですよ。どうして無条件の愛を注いでやろうとはしないのでしょうか。無条件の愛を注げば、無条件の愛が返って来るというのに‥‥。

 

おそらく桑田真澄さんも、同じように考えておられると思います。

プリズン・スクール
貧しい国に暮らす、貧しい人たちを救うための最高の手段は、なんといっても教育です。すぐに結果が出るわけではありませんが、教育を受けた子どもたちが、十数年後には社会を構成する主役になることは確実なのですから、蒔いた種の成果は実り多いものです。

教育がとりわけ重要なわけは、貧困をはじめとした社会の歪みや矛盾の主要な原因が、結局は人々の「無智」に起因しているためです。ですから、「無智」からの脱出が、社会の歪みや矛盾を是正して行く上での最高の手段となるのです。義務教育の理想は、まさにそこにあったと思うのです。

しかしそこで問題になるのは、教育の「質」です。どういう社会を理想と考えるかによって、教育者の「質」が決まり、教育内容の「質」も決まる。ということは、もしこの「質」が悪ければ、あるいは誤っていれば、その負の成果も確実に社会に実るということです。

日本の戦後教育は経済発展を第一に考えて来たので、1980年代くらいまでは、それを担う人材を育成することに主眼を置いていました。しかし90年代以降はそのモデルが機能しなくなりました。人件費の関係で、製造業が海外に移転してしまったからです。では、それまでとは変わる次の「理想」を、それ以降に示せたのでしょうか?

「ゆとり教育」の是非というのは方法論の問題であって、どんな社会をこれから理想とするのか、その理想的な社会を担う人材をどうやって輩出して行くのか、という基本的課題を語ったものではありません。このことを見ても解るように、90年代以降の学校教育には、なんのためにとか、どういう理想のためにという視点が全くないのです。

ただただ、80年代までの、すでに機能しなくなったシステムを踏襲するだけになってしまったのです。義務教育制度を作った時の、そもそもの理念が失われ、ただの惰性で、教育システムを動かしている。こうした中で、学級崩壊や、不登校児童の急増、子どもの貧困などの問題が起きているのです。しかし理念そのものがないのですから、起きて来る問題に全く対処できていません。

最近、小学生を持つある親御さんから聞いた話です。先生がクラスの生徒たち全員に「宿題のノートを提出しなさい」と言った。その子は休みがちだったので、何も書いていないノートを提出した。すると戻って来たノートに、その教師の走り書きで、「何もやっていないのに提出するのは失礼です」と書かれてあったんだそうです。

その子は「出せ」と言われたから出しただけなのです。それなのに、返って来た言葉が「失礼です」なのですから。なんという教師ズラ目線なのでしょう? これがいったい教育なのでしょうか? 自分のカチンと来た気持ちを、子どもにぶつけるのが「先生」というものなのでしょうか?

まったくもって学校教育の「質」がヒドい。どうして、その子の心の状態に想いを馳せてやらないのでしょうか? どうして自分から近づいていってあげないのでしょうか? どうしてその子の可能性を引き出してやろうとはしないのでしょうか?

人間教育のまったく出来ていない者が、ただ教員免許を持っているというだけで、先生ズラして権威を振り回し、子どもたちに奴隷化を強いている。その奴隷化に反抗せずに従順に従った者が評価され次の先生になる。そしてまた子どもたちに奴隷化教育を施す。こうして、二代、三代、四代と経過して、今の公立学校は、すっかり子どもの自由を奪う「監獄」になってしまいました。

なぜみんな塾にいくのでしょうか? 塾の方が学べるし、熱心で、いい先生もいるからです。塾に行かなければ学べないんだったら、もう義務教育制度などいらないじゃありませんか。プリズン・スクールなどいらない。クソ教師などいらない。惰眠を貪るだけの教育委員会などいらない。日教組などいらない。文部科学省などいらない。みんないらない。

いや、学校は社会生活を学ぶ場としての意味もある、と言う人もいる。確かにそうです。スクールは社会の縮図だ。しかし、今そこで学べる社会は、腐った社会ではありませんか? 権威主義と、支配と、嘘つきと、不寛容と、奴隷化という、現代社会の縮図そのものではありませんか? そんなものを子どもたちに教えて何になる? 有害でしかない。

今の30代、20代の置かれた状況と苦悩を見よ。そこに90年代以降の「脅育」の成果が、ちゃんと表れているではありませんか。今の子どもたちに教えていることが、十数年後の日本の社会を確実に創るのです。そのことに、我々はもう一度、真剣に向き合わなくてはなりません。
登校拒否は、子どものストライキ
90年代の初頭、流通視察のために何度かアメリカに行きました。そこで、平日の昼間、ショッピングセンターに子どもがたくさん来ているのを見て首を傾げました。「はて? 学校はお休みなんだろうか?」ツアーガイドに訊いてみると、アメリカでは、日本みたいに「全員が学校へ行かなきゃ」という感覚が乏しいのだと言う。それを聞いて、当時はとても驚きました。

その日本も、90年代から2000年にかけて、不登校の児童数が急増し、4万人から3倍の12万人にもなり、その後は横這い状態が続いています。

なぜ登校拒否なのでしょうか? 文部科学省の調査結果を見ると、「登校拒否に陥ったきっかけ」という項目がいろいろ並んではいるのですが、私の見解は違います。一言で言えば「学校に魅力がない」から、「今の義務教育に魅力がない」からだと思うのです。もし魅力があれば、何をさておいても学校に行くでしょう。

調査をしている主体が、学校を仕切っている文部科学省なので、もちろんそんな項目はありません。それに、「登校拒否に陥った」とあるように、学校に行かないことを「問題視」する視点で貫かれています。この傲慢な姿勢こそが元凶なんだと、なぜ気がつかないのでしょうか?

ここに一軒の飲食店があったとします。このところ客足がパタッと落ちた。その時に、「なぜ客は、来店拒否に陥ったのか?」とは、ふつう考えないでしょう? 自分たちの店から魅力が失われているのではないかと、考えるのではないでしょうか。つまり文科省には、「子どもたちへのサービスをしている」という発想が、全然ないんですね。

「登校拒否」を問題視するよりも、そっちの「気づきのなさ」の方が重大な問題だと思います。客足が途絶えた理由を、客のせいにしてどうするんですか? 傾いた経営を立て直すために、もし土光さんが乗り込んだとしたら、真っ先にするのは、たぶん文科省と教職員の意識改革になると思います。

アメリカの民主主義は地域からの積み上げ型、日本の民主主義は中央からの落下傘型で、そもそも考え方が違うのですが、「登校拒否」児童を、システムからの脱落者のように言うのは誤りだと思います。「登校拒否」は、「拒否」という行動を通じた表現だし、それは「子どもたちのストライキ」なんだと、私は思う。「今のシステムには乗らないよ」という抵抗運動なんだと思う。

大人だって、長い物には巻かれろ式の体制順応型が多い中で、体制に逆らう勇気を持っているのだから、凄いことだと思います。そのエネルギーを、先ずは賞賛してあげて、後は眠っている才能を引き出す手助けを、周囲の人たちでしてあげられればいいと思う。そういう私設の寺子屋が、今こそ必要だと感じています。
遊びを発明させて貰えなくなった現代の子ども
私には、美少女キャラとか、アキバ系アイドルとか、コスプレとか、今の若い人たちが持っている共通感覚というものが解りません。いったいどこがいいのかなぁ? 私にはみんな同じに見えるのですが、解っている人同士は、微妙な違いを嗅ぎ分けて楽しんでいるんでしょうねぇ。

こうした感覚は世界中に広がっていて、「Cool Japan」の主要な輸出産業にまでなっているというんですから、凄いことだと思います。何が凄いかって、民族や言語の違いを超えた世界共通の感覚が育っているということに驚かされるんです。これは世界同時革命と言ってもいいんじゃないかな?

で、どうしてこういう共通感覚が育ったのかと考えていて、ピン!と来たのが、テレビゲームと、トイザらスと、インターネットの存在です。私の幼少時代にはこれらは無く、全部の体験がありませんでした。ですから、子ども時代の体験というのは地域によって全然違ったし、一人ひとりバラバラでした。今の状況と比べたら、まるで石器時代のようなものです。

子どもの仕事は遊ぶことですから、そこでどうしたかというと、「遊び」というものを自分で創っていたわけです。野っ原で虫を捕まえたり、隠れ家を作ったり、石けりやケンケンをしたり、空き缶や割り箸や輪ゴムを利用したり、木を削って何かを作ったりと、とにかく毎日が「遊びの発明」で忙しかった。

ところが、ファミコンと、ビックリマンチョコの登場以降、子どもたちの「遊び」が激変しました。従来の「遊び」があっと言う間に駆逐され、みんな博物館行きにされてしまいました。今や50年前の「遊び」は絶滅危惧種。どこかで「遊び」の伝統保存会の活動をされている方もたぶんおられることでしょう。

それくらい、従来になかった新しい「遊び」が、子どもたちを魅了したのです。自分たちで一々工夫したり発明したりしなくても、それらには魅力的な仕掛けがあらかじめたっぷり用意されていて、それに乗っかれば楽しい時が過ごせるようになったのです。

それによって何が起きたかといいますと、子どもの「遊び」というものが、完全に「市場化」されてしまった。そこに「産業」というものが見つかったわけですね。ということで、子どもは、一気に商業主義のターゲットにされてしまいました。

今や「遊び」だけじゃありません。「勉強」も「スポーツ」も「習い事」も「食べ物」も「精神医療」までもが、子どもを「市場」と見なしています。親は共稼ぎになってしまいましたから、子どもと関わっている時間が保てない。そこで必然的に、そういう外部サービスに子どもを預けるようになって行きました。

こんなことで本当にいいんでしょうかねぇ? パチンコをしている人は、自分はパチンコで遊んでいると思っていますが、本当は遊ばされているということに気づいていません。パチンコ産業からすれば、客は市場でありターゲットなのです。それと同じことが、今の子どもたちの世界にも出来上がっている。

それは「遊び」なんでしょうかねぇ? 単なる「ヒマつぶし」に過ぎないのではないでしょうか? 「遊び」というのは、誰かに与えられるものではなくて、自分から「発明」するものではないでしょうか? 「発明」の部分にこそ「遊び」があるんじゃないでしょうか?

もう自分で「遊び」を発明させては貰えなくなった、現代の子どもたち。「遊び」は、全部その道のプロが作って売っている。与えられるものばかりに馴れてしまったら、一人遊びができない大人になってしまうと思うんですよね。なんとかしてあげなくちゃ、と思うんですがねぇ。私の方が時代錯誤で、古臭いんでしょうかねぇ?
ありがたくないお説教
先日、友人から聞いた話です。都下某所の観光寺で毎年恒例のイベントが開かれ、集まった大勢の小学生を前に、住職がお説教をするのだそうです。その内容が毎年同じで、最初に「みなさんは、好き嫌いがありますかぁ?」と訊き、「どんなに嫌いなものでも、20回食べれば必ず好きになりま〜す」と言うんだそうです。

ほんまかいな。それを実験して、ちゃんと立証したのかな? だいいち、嫌いだから食べられないわけで、それを20回食べろって、どういうことなの? 私も子どもの頃、親から頬っぺたをギューっと手で挟まれて、そうすると痛いので口が開くんですが、「食べろ!」と、無理やりフキノトウを突っ込まれた記憶があります。ハッキリ言って拷問ですよ。

フキノトウが好きな子どもがいたら、逆におかしいでしょう。それじゃあ、子どもの時から通の人ですよ。酒呑みの食通だ。他にシイタケ、トマト、セロリ、銀杏、酢の物も食べられなかった。だけれど、今ではみんな好物になりました。それは、酒の味を覚えたから。酒に合う味も自然と学ぶことになったというわけです。(ちなみに、昨年11月から、そのお酒をやめました)

この齢になると、法事に出席することが多くなるのですが、これも拷問の時。「早く終わらねぇかなぁ」と、不謹慎な気持ちでいっぱいになりながら、じっと耐えています。ここで聞かされるお説教がまたひどい。西方浄土がどうたらこうたら。ビッグバンだ、ヒッグス粒子だ、超ひも理論だと言っている時代に、西方浄土が説得力を持つとでも思っているのかな?

法事の時のお坊さんは、単にマニュアルをこなしているだけ。コンビニ店員とちっとも変わらない。それで、「みなさんお忙しいでしょうから、四十九日の法要も一緒に行います」って言って、1回の法要の謝礼が7万円だから、掛ける2だとか3だとかって。いったいみんな何をしているの? こんな茶番劇をいつまで続けるのかな?

昔のことですが、息子が中学校に入った時、入学式に行って驚きました。式の間中、親たちはずーっとペチャクチャ喋りっぱなし。式場の体育館全体が反響してウォンウォン唸っている。入学式のその日から、すでに学級崩壊というか学校崩壊。

そのザワザワした雰囲気の中で、教頭がこう言う。「お寺に大きな釣鐘がぶら下がっている。 ちょっとやそっとでは動かない。でもそこで諦めたらダメです。1回では動かなくても、100回。100回でだめなら1000回、1万回って続けたら、どんな大きな釣鐘も必ず動く!」って、教頭、あんたはそれを自分で試してみたんですか?

もう、子どもより先に、親と教師が崩壊しているよ。こんな牢獄に押し込められる子どもたちが可哀想だよね。

ありがたくない説教など、百害あって一利なし。体験から掴んだこと以外は、なんの説得力も持たないということを、先ず大人たちが知るべきだ。だからこそ、子どもたちにも「体験が大事だよ」って言えるんだよね。
登校拒否、出社拒否は、勇気のある証拠
NHK『100分 de 名著』の内村鑑三の回で、江戸時代の陽明学者、中江藤樹(なかえ とうじゅ)のことを知りました。中江藤樹を紹介して、内村鑑三はこう記します。
「私どもは、学校を知的修練の売り場とは決して考えなかった。修練を積めば生活費を稼げるようになるとの目的で学校に行かされたのではなく、真の人間になるためだった。」

「真の人間になるため」
ここに教育というものの真髄、本来あるべき姿が余すところなく述べられています。「真の人間」は、もともとその人の内に備わっていて、それを「思い出させる」のが教育であると内村は述べました。

現在の学校教育のひどさは、この真髄を少しも理解していないばかりでなく、まさに「修練を積めば生活費を稼げるようになるとの目的」に拠って立っています。しかも、もっとひどいのは、学校や教師が世の中の変化のスピードについていけず、10年先でも生活費を稼げる方法が、もう誰にも教えられなくなっているのです。

めでたく卒業=失業という時代になってしまったのです。このような時代に、今の学校教育を受けても、ほとんど役に立たないばかりでなく、奴隷化教育の苦痛にさらされる無為な時間を過ごすだけです。今や社会生活そのものが奴隷であり、職場で奴隷にされ、学校で奴隷化教育が行われる。どれにしようかなと選んでも、全部に(い)がついて、どれいになって行く。

今、登校拒否、出社拒否をしている人というのは、「魂」は本来自由なんだということを直感で知っていて、その「魂」の声に従順な人たちなんですよ。しかも、学校に行かないと将来大変なことになるぞ、会社に行かないと社会から爪弾きにあうぞ、という世間の脅しにも屈しない、とても勇気のある人なのです。

あとはその勇気を、あたたかな光の方向に振り向けるだけ。先ずはじっくりと観察してください。周囲の人々を、自称大人たちを、自称先生を、自称リーダーを、学校を、会社を、あらゆる組織を、社会を。そして自分自身の内側を。あなたには革命家の素質がある!