by Rainbow School
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気候の極端現象が示しているもの

今日も雨降りです。昨日も一昨日も、梅雨入り以来もうずーっと。私が住んでいる山間の部落では、梅雨が明けないまま秋になってしまいました。『夏は来ぬ(きぬ)』という唱歌がありましたが、(これは「夏が来たよ」という意味ですけれど)、今年は「夏は来ぬ(こぬ)」です。赤とんぼが飛んでいる下でアジサイの花が咲いているんですから、もうメチャクチャ。

 

「異常気象」ということが言われ出したのは、確か30年くらい前からだったと思うのですが、今や「異常気象」が当たり前。異常が通常。毎年々々「異常気象」で、もう何が正常なのかも分からなくなってしまいましたねぇ。農家さんはどうされているのかなぁ? 対策を講じられているとは思うのですが、きっとお困りだと思うし、ひいては食卓にも影響して来ることですから心配です。

 

「地球温暖化」をめぐっては、温暖化などしていないという学者もおりますし、炭酸ガスとの因果関係などないという人もおられます。平均気温の経年データを見れば、確かにそうなのかも知れません。ですが、あまり言われていないことで、みなさんがお感じになっていることがあります。それは、気候の「極端現象」ということ。

 

猛暑と極寒、干ばつと洪水といったブレが大きくなっていて、しかも今まで起きたことがなかった地域に突如として起こる。あるいは、台風やハリケーン、竜巻などの勢力が非常に強くなって来ていることも特徴です。平均気温を見るというのは、極端なブレを中和してしまうわけですから、いま地球に起きている現象を正しく見ていない気がします。

 

振り子を思い浮かべてみてください。平穏で静かにしているときは中間点付近でほぼ止まっています。ところが片方に振れると、安定を取り戻そうとして今度は逆方向に振れます。その振れ幅がどんどん大きくなっているというのが、今の気候に見られる「極端現象」です。人間にとってはこれは脅威ですが、地球という生命体にとっては、ホメオスタシス的な活動をしているだけなのです。

 

ではなぜ、振り子の振れ幅が、大きくなる一方のままで沈静化していかないのでしょうか? それは地球に対して、片側に振ろうとする力が、人間によって引き続き加えられているからです。資源奪取のための環境破壊、放射能や化学物質による汚染、都市やレジャー施設の建設のための大規模な開発、そして戦争行為による地球破壊がいたるところで行われています。

 

これらのストレスが、全部、物言わぬ地球に向けられています。もしあなたが地球さんだったらどうするでしょうか? きっと「人間どもよ。もう、いい加減にしろ!」と、怒って叫ぶと思うのですけれど。

 

人間というのは、つくづく不思議な生き物だと思います。生物の第一義は「生存すること」です。生存して子孫を残そうとするのは、生物の本能です。ところが人間だけは違うのです。人間だけは、ありとあらゆる面から見て、種としての生存が危うくなる方策を次々に選択していく。そして子孫には、今よりさらに過酷な環境を残そうとするのです。

 

さらに不思議なのは、なぜそうするかと問えば「自分が生き残るため」だと言うのですから、まったくもってわけが解りません。地球はもうダメだからと、さっさと見切りをつけて、火星への移住計画を練っているグループさえいます。どうして、いま自分たちがいるこの地球を、パラダイスに還そうとしないのか、そういう発想を持たないのか、本当に不思議でなりません。

 

あなたが見る現実は、あなたが創っています。そう言うと、「意味がわからん!」と仰る方もおられるでしょうから、言い方を変えますと、あなたが「現実」だと思っている世界は、あなたが知覚して意味を付与した世界です。あなたの知覚と認識なしに、「現実」が存在していると証明することは不可能です。知覚と認識があってこそ、はじめて「こう在る」と決めることができるからです。

 

仮に、あなたの知覚認識とは別個に「現実」というものがあるとしても、その総体を知ることは不可能です。あなたが見ている「リアリティ」は、あなたが自分の意思で選び取って、知覚し、意味を与えた、あなた独自の限定された世界なのです。ゆえに、あなたが見る現実は、あなたが創っているのです。人間社会が「現実」と呼ぶものは、こうした個々の人間の総和が創り出したものです。

 

さて、気候変動の「極端現象」は、人間にとって脅威であることは疑いようもありません。しかしそれが、なぜ起きているかと言えば、いま言ったように、人間の総和がそうした現実を創り出しているからです。あなたも既にお気づきでしょう。世界各地で起こる事件、事故、メディアに表れる人々の怒りに満ちた言動、マネーの儲け話、平気で嘘をつく人々など。今やあらゆることが極端化していることを。

 

そうです。気候変動に見られる「極端現象」は、まさしく、人間の心と行動の「極端化」を正確に映し出しています。人間が極端に走るから、環境も極端に変化しているのです。生命というものは一体だということに気づいている人は、その因果関係を直感的に理解しています。しかし地球は単なる物体で、空気も水も土もタダで、いくらでも奪えばいいと考えている人は、そうは考えません。

 

今の地球人類にとっての最大かつ真の脅威は、実は環境変化にあるのではなく、生命というものが何かを知らない人たちが、政治、経済、科学技術の指導者となって、人類を先導していることにあります。環境というのは、人間の意識が外に表現されたものです。ですから、人間の意識が変われば、それに合わせて変わっていくものなのです。ここを取り違えてはなりません。

 

あなたが、今のような種としての存続をもしこれからも望むのであれば、地球人類の総和としてのマインドが、それを実現するような方向へと梶を切ることに、少しでも貢献していくことが大切です。あなたのマインドが先ず変われば、あなたが触れる周囲の世界が変わり、周囲の世界が変われば、それに触れる世界がさらに変わる。こうして人類の集合意識が変わっていくのです。

 

これから、周囲のものを見る時には、そこに振り子を重ねて見てください。世界各地で起きる事件の報道、政治家やコメンテーターの言動、企業のコマーシャル等々。それらに振り子を重ねて見て、どの程度の振れ幅かを計ってください。大きく振っているものは、すべて無視することです。それらは害しか与えません。ほとんど揺れていないものや人、それこそが人類の未来を変えうる本物です。

 

ここであなた方に言っておきます。霊的には、宇宙から安心や安定が失われるということは絶対にありません。理屈から言ってあり得ません。その「因の世界」を、物質世界に表出した状態が、いわゆる「Middle Way(中庸)」なのです。つまり、振り子がほとんど振れていない状態。これこそが、神の世界の様相を映し出した世界なのです。

 

ところが、残念なことに多くの人が逆を行ってしまいます。中庸はいかにも刺激がないので、どれほど重要かに人々は気づかないのです。そこで極端なことを求め、それに慣れてしまうと、もっと極端を求めてみんな右往左往している。そういう人たちを、ひとつ引っ掛けてやろうと、釣り糸を垂らしてる人たちが大勢いることに気づかない。そうやって「極端化」がグルグルと回っているのです。

 

彼らは「必要」ということを言って迫ってきます。逆に言えば「そのままでは足りないよ」と人々に思わせるのです。

 

幸福のためには経済成長が必要、経済成長のためには安定した電力すなわち原発が必要、豊かな老後のためにはウン千万円が必要、病気予防のためには定期健康診断が必要、ワクチン接種が必要、若さと健康のためにはサプリメントが必要、財政健全化のためには消費税の増税が必要、防衛のためには新兵器が必要、核戦争に備えてシェルターが必要、etc.。

 

こんな罠には落ちないように。もう一度言います。あなたの現実は、あなたが創るのです。あなたが「足りない」「これがないと幸福になれない」と思っていれば、そういう現実をあなたが創り上げます。でも「足りないものは何もない」「何もなくたって幸福だ」と思っていれば、あなたはそういう現実を創るのです。幸福とは、条件ではなく、そう感じる心です。

 

これからは、平和を信じて本当に平和に暮らす人と、平和ボケではいかんと言って恐怖や不安を撒き散らす人を信じ、罵り合いや傷つけ合いの中に暮らす人と、完全に二分されていくことでしょう。これもまた「極端現象」なのです。宇宙から安心や安定が失われるということは、絶対にありません。ですから、あなたには安心して、よき未来の創造(想像)に貢献していただきたいのです。

高僧と言われる人よりも、農村で暮らすお婆さんの方が人間的にずっと先を行っているように思えるのはなぜか?

多くの人は便利さを求めるので、人口が必然的に都市部に集中し、今や日本人の大半は、「生きる」ということを都市生活を前提として考えています。田舎と言っても今はクルマ社会ですから、30分も走ればショッピングセンターがあって、感覚的には都市部とそれほど違いがありません。そのような中で、取り残されたように、ますます過疎化している農村が点在しているのです。

 

そんなわけで、農村に暮らす人との接触も今は殆どないとは思うのですが、たまに旅に出た時、あるいはテレビ番組などで、毎日々々、黙々と畑仕事や手仕事をしているお婆さんの姿を見て、「この人は凄い!」と思わされたことはないでしょうか? 確か、司馬遼太郎さんも、「高僧よりも、農村で暮らす人間の方が、人間的にずっと先を行っているように思えるのはなぜだろう」と仰っていたと記憶しています。

 

私も、以前NHKで放送された『秩父山中 花のあとさき ムツばあさんの秋』を観た時には、大変な感動を覚えました。「ああ、自分もこうなりたいなぁ」と思ったのです。少しでも、その心境に近づきたいと思いました。50代の半ばから、段々とそういう気持ちが膨らんでいったのですが、それで自分も、戸数6戸という今の限界集落に移り住むことを決心したのです。

 

巷で言われているような、いわゆる「老後」などは全く考えませんでした。

人生設計はもうしない。今を生きる。ただそれだけです。

そこにどれだけ集中できるか、命を燃やせるか、瞬間々々を喜びに感じられるか、それが自分のテーマです。

 

老後破産が心配だ、病気になった時を思うと不安で仕方がない、一人暮らしじゃいかにも寂しい、と多くの人は言う。そんなものがなんだというのだ。瞬間々々を、心配と不安と寂しさで満たしてしまって、一体どうしようというのか? あなたの「今の気持ち」の連続が、あなたの人生だというのに。あなたの行動の軌跡が、あなたが何者かを決めるというのに。

 

農村で暮らすお婆さんは、身をもって教えてくれているよ。そんな心配は無用だって。土と水とお天道様があれば、それで充分だって。

 

高僧よりも、農村で暮らすお婆さんの方が、人間的にずっと先を行っているように思えるのは当然なんです。なぜって、実際にそうだから。人間性というのは、霊性の、この世における顕現です。つまりは、世間で高僧と言われる人たちよりも、農村の名もなき(名前はあるんですが、高名ではない)お婆さんの方が、霊的には遥か先を行っているということです。

 

なぜだか解りますか? より多くのものを捨てているからです。この世で生活しながら、この世の梯子段をもうほとんど降りている。そして自然を感じながら、自然と一体となって毎日を過ごしている。そのお婆さんにとっては、それが当たり前で、特別意識していることではないでしょうが、これこそが、宇宙に生きる、神とともに生きるということです。

 

でも高僧と言われている人から、その拠って立つ基盤(組織や神殿や財力や衣装)と、階位を取ってしまったらどうなるのでしょう? 全部はぎ取って素っ裸にしてしまっても、なおその人は高僧でいられるのでしょうか?

 

そう考えると、高僧といわれる人は(必ずしも全部が全部とは言いませんけれども)、世間と同じ梯子段を、宗教界に移築した上に乗っかっているだけなのではありませんか? なぜお付きの者をズラズラと従えるんですか? なぜ儀式の動員数を誇るのですか? なぜ信者数を誇るのですか? 多い方が他宗よりも上だとでも言うのですか? それは世俗の価値観そのものではありませんか?

 

つまり高僧とは、高層マンションのペントハウスに住んでいる人です。だからこそ、尊敬が集められる。同じ価値観の、遥か上にいる存在のように思えるから。けれども、その豪華絢爛たる神殿は、その人のものではありませんよ。よく言えば信者の寄進、悪く言えば信者からの搾取によって建てたものではありませんか。

 

果たしてそんなものが必要でしょうか? 霊性向上にとって、それが無くてはならないものなのでしょうか?

 

どうして気づかない? あなたの目の前に、自然という神殿があるではありませんか。宇宙という神殿があるではありませんか。これ以上のものが他にあるでしょうか?

 

いいですか、宇宙は、そして自然は、神の顕現なのですよ。神の想いが、物理的な結果として顕れた世界です。あなたは、すでにその神殿の中に暮らしているんです。最初から暮らしていたんです。この幸福、この有り難さ。それをじっくりと噛み締めてごらんなさい。そしてその感謝の目で、周囲を見てごらんなさい。

 

輝きが見えませんか? あなたを見守り、いつも応援してくれているのを感じませんか?

 

それ以上、いったい何が必要だというのでしょうか? 土と水とお天道様があれば、それで充分だとは思いませんか?

あなたは今、この瞬間を、確かに生きているのですよ。

神はかくも雄弁に語る

このブログを書き始めたころは、まだ「神(God)」という言葉を使うことに抵抗があって、かなり慎重になっていました。というのも、人によって「神」という言葉から受けるイメージや定義は様々ですし、各宗教・宗派がこの言葉に込めて教えて来た手垢がたっぷりと付いているからです。そこで、最初のころは「それ(It)」と言うように心がけていました。

 

実際、「それ」には名前というものが無いからです。なんでもかんでも名前を付けずにはいられないというのは人間の性(サガ)で、人間以外の動物は、物や概念にいちいち名前を付けたりはしません。自分が産んだ子どもに「ミーちゃん、モモちゃん」なんて名前を付ける親猫は、たとえ『世界ネコ歩き』をしたって見つからない。人間だけが、つねに名前を欲し、名前を付けているのです。

 

それは人間が、思考やコミュニケーションというものの大半を「言葉」を主体としたものに頼るようになってしまったからです。このことは、他の動物には出来ない複雑な思考や想像力というものを発達させていった一方で、本来誰にでも備わっていたテレパシー能力、直観力といったものを著しく後退させてしまうことにもなりました。

 

その意味で、現代人の「意識」は酷くバランスを欠いた状態にあり、ますますこの傾向が強まっているというのが実情です。本当は、顕在意識(心)と深層意識(魂)を融合させなければならないんですけれど‥‥。まあ「あの世」へ逝ってしまえば、みんなテレパシーで会話できるということが解るわけですが、できれば「この世」にいるうちに訓練して、思い出していただきたいんですよね。

 

でももう何年も書いてきて、「それ」とは宇宙全体を指すということ、また宇宙を創った「意識」でもあるということ、さらには宇宙を創った「意識(創造主)」と創られた宇宙(被創造物)とは同一であること、を充分ご理解いただけたと思い、最近ではシンプルに「神」という言葉を使うようになっています。そこには、使い古された「神」概念を改めたいという思いも、ちょこっとあったりします。

 

さて、前回『沈黙』という映画のことを少し書きましたが、この「沈黙する神」というテーマは、「一神教」にとっては大問題であったのです。

 

*三大一神教:ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。これらの宗教が奉じている「神」は基本的には同一で、解釈がちょっとずつ違うのです。ですから、これら宗教間の対立というのは、いわば「神(父)」の取り合いをしている兄弟喧嘩、近親憎悪のようなものなのです。

 

あなたも、今までにこんなふうに思ったりしたことはありませんか? 自分がもの凄く困っている時に、どうして神様は助けてくれないんだろう。こんなにも祈っているのに、どうして優しい声を掛けてくれないんだろう。ちゃんと姿を現して自分を救ってはくださらないんだろう。

 

古代の人々もそう考えました。そして神が「沈黙」しているのは、自分の祈りが足りないせいだ、帰依への決意が充分ではないからだ、と考えたのです。そこで、絶対的な帰依と熱心な信仰をする代わりに、自分を天国に救い上げてくれることの保証を「神」に求めたのです。これが「一神教」同様、日本人には馴染みのない「契約」という概念なのです。

 

よく知られたキリスト教の『新約聖書』、ユダヤ教の『旧約聖書』というのは、これら「神」との新旧二つの「契約」についての内容を語った書物なのです。(『旧約聖書』というのはキリスト教徒から見た場合の、ユダヤ教教典に対する蔑称で、ユダヤ教徒はもちろん「旧」は付けません。これは仏教でも、新興の大乗仏教がそれまでの仏教を小乗仏教と呼んだのと同じです。)

 

西洋がよく「契約社会」と言われる背景には、思考の根本にこうした「神」との「契約」の概念がデンと横たわっているからなのです。人間同士が取り決めをする政治や法律というものは、その下部(Under The God)にあるという考え方になっている。そして、そのさらに下に自然界がある。ですから自然界というものは、人間が好きなようにコントロールしてよい(産業革命以降は特に)という考えがあるのです。

 

エンヤ(Enya)さんというアイルランドの女性歌手がおられますよね。最初に「Orinoco Flow」を聴いた時には、不思議な感覚の歌だなぁと思ったのですが、なにか妙にピタっと来たんですね。あとになって調べてみて、ケルト民族というものが、ローマ帝国の支配に追われて今のアイルランド地方に生き延びた民族だということが判った。

 

このケルト民族というのは元々は太陽崇拝で、ということは天照大神を崇拝して来た古代の日本人と同じ。そして自然にはすべて神性が宿っているという考え方なんですね。ですから日本人の心にピタッと響くものがある。5世紀ころになってカトリック教会がこの地を制圧すると、それ以後はキリスト教と融合してしまいます。そのためアイルランドの十字架は、太陽神の◯とキリスト教の+が合体したケルト十字というものになっています。

 

この自然崇拝や太陽崇拝(自然は太陽からエネルギーを得ているから)の感覚は、「アニミズム(animism)」といって、古代信仰の典型的なものですが、世界各地で見受けられます。ところが「一神教」は、これらを本当の「神」を知らない原始的な信仰であると見なし、領土を乗っ取っては自分たちが信じる「一神教」に改宗させて行ったわけです。このようにして、今日に見る宗教世界が出来たのです。

 

ここで今日、考えていただきたいのは、自然崇拝というものが本当に低級で原始的な宗教なのか、ということです。

 

一神教の「神は一つ」という考え方は、別段、間違ってはいません。創造主は一つのはずですからね。ところが、その「一つの神」を、三大一神教はみんな「我が神」にアレンジしてしまったのです。これは、大いなる矛盾です。「我が神」にした途端、普遍性が無くなってしまいますから。あっちにもこっちにも「我が神」ができ、「神は一つ」では無くなる。こうして、「一神教」同士が争うようになってしまったのです。さて改めて、

 

自然とは何でしょうか? 万物とは何でしょうか?

 

それは、この世に形として現れたもの。つまりは「結果」の世界です。あなたが今晩の夕食を作る時、作る前には必ずアイデアというものがあるでしょう。アイデアなしで、突如テーブルの上に夕食が出現したりはしません。実現化に先立っては、必ず「こうしよう」という意思がある。じゃあ、今あなたが居る部屋の中にあるものを見回してみてください。果たして、アイデアなしに創られたものが一つでもあるでしょうか? ないはずです。

 

ではあなた自身はどうでしょう? あなたは、誰のどのような「意思」によって創られたのでしょうか? もちろん父母の意思はありました。でも「自己意識的に活動するあなた」を、父母は前もって計画することは出来ません。出来ないのに、時々そうしようと想う親がいるので、そこで親子問題が起きるのです。では「自己意識的に活動するあなた」を創ったのは誰なのか? どこにそのアイデアがあったのでしょうか?

 

唯脳論者は、脳の発達に従って、あなたという自我を持つ意識的存在がしだいに形成されていったのだと主張します。生殖によって生じた物体が、その後に「意識」を持つようになったと言うのです。これこそトンデモ理論です。だとしたら、あなたという個性が生じた理由はなんでしょうか?

 

全ての理由を遺伝子に帰することは可能なのでしょうか? もし父母の遺伝子の合体が、あなたという個性を創ったのだとしたら、そもそもあなたという存在、およびそういう意識体が存在する理由は、どこにあるのでしょうか? あなたという意識体は、単なる脳の操り人形だとでも言うのでしょうか? それを認めたとして、ではあなたを操る脳、その脳を動かしているものは、何なのでしょうか?

 

まったく馬鹿げた理屈です。ところがこの馬鹿げた理屈が堂々と世間一般でまかり通り、脳科学者と称する人々がテレビなどで自説をしきりと展開しています。断じて言っておきますが、意識を先にせずに生まれるものは、宇宙になに一つありません。意識が体を創るのであり、体が意識を生み出すのではないのです。あなたという身体は、あなたの意識が創ったのであり、今もあなたを創造し続けています。

 

では、自然はどうして出来たのでしょうか? 宇宙はどうして出来たのでしょうか? 全く同様です。それに先立って、そういうものを生み出したいという意識があったからです。これが「宇宙意識(Cosmic Consciousness)」です。「宇宙意識」は、「神」なるものが示す多様な性質の一つで、古くには「全智」と呼ばれていました。

 

唯物論の宇宙物理学者は、138億年前のある日、突然、無からビッグバンという大爆発によって今の宇宙が誕生したのだと主張します。では「無」とは何なのでしょうか? どうして「無」から、とてつもないエナルギー量の「有」が一気に出現したのしょうか? 「ある日」と言いますが、「無」には時間も空間もないのですから、どうやって突如「ある日」が誕生したのしょうか?

 

全く説明のつかない矛盾だらけです。その矛盾を、ひとこと「無」という言葉に全部おっかぶせている。「犯人はお前だ!」と。「無」って便利な言葉だなぁ。誰もそれを見たことがないのに。「無」が聞いたら、きっと「ムッ」とすると思うんですけれど。

 

そうじゃないんですよ。もの凄く簡単なこと。夕食のプランを巡らすのと同じように、今見ている宇宙や自然という「結果の世界」を創る前には、ちゃんとプランがあったということなんです。これが「因の世界」です。「意識」の先行なしに、宇宙に物や出来事が生じることは絶対にありません。

 

さあ、ここまで聞いて、ピン!と来た方もおられることでしょう。「神」は果たして「沈黙」しているのでしょうか? いえいえ、とんでもない。「宇宙」こそが、そして「自然」こそが、結果の世界における「神」の表現物なのだということです。「神」は決して、隠れてなどいない。全身全霊をもって表現しているのです。

 

私たちが見るもの、触れるもの、聴くもの全てが「神」の表現だということ。「神」はいつでも雄弁に物語っているとのです。もちろん、あなたとて例外ではありません。あなたも「神」の表現の一部分を担っているということなのです。いいですか、あなたは「神」の落とし子なのですよ。だからこそ、あなたは自分が何者であるかを知るために、「表現」せずにはいられないのです。

 

ですから、勇気をもって、日々表現をしなさい。自分の喜びを他者の喜びに変えなさい。他者の喜びを自分の喜びとして掴みなさい。才能は使わなければ何の価値もないのですよ。自分なんて、私なんて‥‥。そんなことはない。梅は桜になろうとはしません。桜は梅になろうとはしません。梅は梅の花を咲かせようとして生き、桜は桜の花を咲かせようとして生きているだけです。

 

前に私はこう言いましたね。そのことが「宇宙の法則」に適っているかどうかは、「自然」に照らして見ればいいと。実に「自然」こそは、「神」の完全なる表現なのであり、ゆえに「宇宙の法則」を余すところなく映しているのです。ひまわりの花をじっくり観察したことがありますか? ひまわりの種の螺旋状の配列は、フィボナッチ数列に完全に従っています。なぜでしょう? 数式、音楽、芸術は、いずれも「神」の言葉なのです。

 

なのに、どうして人間は、これまでずっと「神」が「沈黙」し続けていると思って来たのでしょうか? それは、人間が「因の世界」を見ようとして来なかったからです。「結果の世界」しか見て来なかったからです。今ある「結果」の答えを、同じ「結果の世界」の中に見つけようとあがいて来たからです。「宇宙」創造の理由を、物質世界の中にいくら探しても、見つからないのと同じように。

 

今日から、周囲の物事の、また身の上に起きた出来事の、奥にあるものをいつも意識して見るようにしてご覧なさい。そうすれば、「因の世界」が見えるようになりますから。路傍に咲く花や、街路樹の命の輝きが見えるようになりますから。一見、不愉快に思える出来事の裏に示された、実は愛に溢れたあなたへのメッセージが、理解できるようになりますから。

 

「神」は「沈黙」などしていません。これほど雄弁に語りかけてくれているものはないのに。人間の方がいつもそっぽを向いているのです。差し出された手を振り払っているのです。ああ、なんてもったいないことでしょう。

何が正しいか、判断に迷った時には自然を見ればいい

多くの人は、自分を信頼することができなくて、フォロワーの道を選んでしまいます。この人間心理を巧みに利用して他者を従えさせることの出来る人が、この世では「ヒーロー」と呼ばれているのです。自分一人では「ヒーロー」には決して成れません。自分を崇めたてまつる仕組みを下部構造に持ってこそ、それが成り立つのです。

 

普段、私たちは、そのことをあまり意識していません。けれども、組織や、広告や、マスコミや、選挙や、金融や、スマホや、「いいね!」ボタンや、複製ビジネスや、宗教や、教育や、権威や、ブランドや、家元制度などの、自分を取り巻くありとあらゆるものによって、そういう構造の中に、あたかもそれが当然の如く思わされ、放り込まれているのです。

 

なぜかと言えば、その仕組み自体が巨大な「集金」マシーンになっていて、構造の上部に居る人たちには大きなお金が転がり込むからです。では、上位に居る人たちが、その構造を本当に解ってやっているのかと言えば、解らないでやっているのです。彼らも大衆同様に、いや大衆以上に「洗脳」された人々であるのです。このようにして、人間は共同して、今日ある社会を造り上げたのです。

 

この「洗脳」状態があまりにも強固なものですから、「人類はみな兄弟」「分かち合えばいいのに」「そんなに働かなくてもいいんだよ」「平和がいちばんだ」「自然を愛せよ」「人生を楽しめ」と、いくら言ったところで、言うそばから否定され、ノーテンキだの、平和ボケだの、今ある脅威を解っていないだのと、ありとあらゆる悪罵を投げつけられるようになっています。

 

代わって、「人間同士はそもそも解り合えないんだ」「ウカウカしてたら、誰かに先を越されるぞ」「だから乗り遅れるな、競争に勝て」「そのためには必死に学んで、働かなくちゃダメだ」「敵は大きくなる前にやっつけろ」「土地や資源やパテントは早い者勝ちで奪い取れ」「そうすればヒーローになれるぞ!」と説く者が、有識者や指導者として時代の寵児となり、尊敬を集めるのです。

 

でもね、それこそが、現代人特有の「苦悩」の正体なんですよ。現代の民衆支配は、ステルス(stealth:隠密)になっているんです。もう以前のような、暴力弾圧や、植民地化や、奴隷化や、特定のものへの崇拝の強制や、言論統制のような、分かりやすい形は決して取らない。とても巧妙なんです。支配者も、学習して、進歩してるんですよ。

 

そして、暴力の代わりに「教育(という名の洗脳)」、植民地化の代わりに「貿易自由化」、奴隷化の代わりに「雇用の自由化(非正規社員化)」、特定のものへの崇拝の代わりに「オタク化(蛸壺化させてカウンターパートを作らせない)」、言論統制の代わりに「マスコミ活用」という構造を作り、民衆が、自ら進んで、喜んでそこに参加するようにしているんです。自分の首を括る縄を、自分で用意させるようにしているんです。ああ、憐れ人間たちよ。

 

あなた方は、もっとあなた自身を信頼すべきだ。自分の直感や身体が発する声に耳を傾けるべきだ。そうすれば、間違えることはない。絶対にない! どうして他人の後を着いていくのだろう? どうして他者が語った言葉を鵜呑みにしてしまうのだろう? どうして主人に忠誠を誓うのだろう? どうして聖書・聖典・仏典に書かれてあることを信じようとするのだろう?

 

「どうして、自分で考えて、自分で判断しようとしないんですか?」

ある時、そう尋ねたら、「自分が判断したら、間違えるかも知れないし‥‥」という答えが、その人から返って来ました。

 

「間違える」とは何でしょうか? 何を「間違える」のでしょうか? 「事の善悪」を間違えるということでしょうか? 「生き方」を間違えるということでしょうか? 「チャンス」を掴み損ねるということでしょうか? では、あなたに代わってその判断をしてくれる他者は、絶対に「間違えない」存在なのでしょうか? 同じ人間なのに、どうしてそうだ言い切れるのでしょう。

 

「生きる」ということは、「選択」の連続です。その「選択」権は、いつでもあなたにある。ゆえに、あなたの人生は、あなたがクリエイトするしかない。それなのに、「選択」権を誰かに預けて放棄してしまって、一体どうするのでしょうか? それは、ご自分の人生を放擲したに等しい。自分に対して全くの無責任です。それでは、今世に与えられた機会を何も学ばないことになってしまいます。

 

人間ですから、判断に迷う時はありますよ。でもその時こそが、自分を見つめる、自分の生き方を問う、そして明日の自分をクリエイトするチャンスなんじゃありませんか。迷った時は「困った時」じゃないんですよ。迷った時こそ「チャンス」なんです。あなたが、ご自身の「魂」を成長させるためのね。それは宇宙からのギフトなんです。

 

成功するか、失敗するかなんて、どうでもいいこと。成功・失敗は、その時の人間の価値基準に過ぎません。人間万事塞翁が馬で、大切なのは、その経験を通じて「魂」が成長するかどうかという、ただそれだけなんです。裕福な家庭に生まれたがゆえに、人生を狂わせてしまったという人はたくさんいる。成功で有頂天になった後に、転落してしまったという人だって大勢いる。もちろん逆パターンもある。要は、ギフトの機会に何を学ぶかということなんですね。

 

どう転んだところで、宇宙の理法には逆らえません。なぜなら、あなたは紛れもない宇宙の一員なのですから。逆に言えば、宇宙の理法(つまり真理)によって、常にしっかりと守られているということでもある。それはどんな「魂」も決して逃さない、万人に公平なセーフティーネットなんです。天網恢々疎にして漏らさず。だから安心して、ギフトの機会に臨めばよいのです。

 

あなたが「真理」に寄り添った生き方をすれば、あなたは喜びと幸福感に満たされるし、「真理」に逆らった生き方をすれば、何らかの出来事の発生によって、それを修正するように促されます。つまり、どっちの道を行ったところで、(早い遅いの違いはあるでしょうが)最終的には同じ「真理」の道へと辿り着くのです。

 

これで、自分で考え判断し、行動するということが、いかに重要であるかがお解りいただけるのではないでしょうか。あなたが下した判断が、たとえ「真理」に適っていなかったとしても、ご自分で考えていれば、後にあなたはどこがいけなかったかを振り返ることが出来ます。でも、その判断を誰かに預けてしまったら、あなたは自分の反省せずに、その人を恨むことになってしまうでしょう。

 

何が「真理」に適っていることなのか? これを判断するのは、実はとても簡単なこと。自然を見ればいいのです。自然に教えて貰えば、それこそ自然と解ります。

 

中国の都市部は今、急激な経済成長のツケとして、深刻な大気汚染に覆われています。先日、ドキュメンタリーを見ていましたら、こんなことを言う人がいました。「部屋の片付けと、飯を喰うのと、どっちを優先する? 誰もが飯だろう」と。これは本当でしょうか? 日本でも、「電力需要に応えるためには、原発は不可欠」と未だに主張する人がいます。これは「真理」に適っているのでしょうか?

 

自然界を見てください。呼吸困難になっても、まだ繁栄を目指すことを優先する動物はいますか? 生存のための環境が、もはや取り返しのつかないほどに汚染されても、なお生存のためにはそれが必要なんだと言い張る植物はいますか? 実に簡単なことです。ところが、この簡単なことすら、今の人間たちには解らない。それほど無智蒙昧になってしまったということです。

 

なぜ、「自然」に習えばよいのでしょう?

 

「自然」とはなんでしょうか? 「宇宙」とはなんでしょうか?

それは、この世に現れたもの。つまり、その奥にある「因」の世界の、物質界における「表現」なのです。何事も、先ずアイデア(idea)があって、物が創られる。「宇宙」という壮大な物を創るのにも、最初にアイデアがあった。それが「因」の世界です。

 

ですから、「因」の世界のことを、もし「創造主」と呼ぶとすれば、「宇宙」は、そして「自然」は、まごうことなき「創造主」の表現物なのです。あなたが見る自然、夜空、生命、それら一切が「創造主」の今その瞬間の言葉なのだということ。ですから、そこに全く嘘はない。すべてが「真理」を映したものになっているのです。

 

私たちはそこに、「結果」の世界としての「法則」を見ます。それは、「創造主」から私たちに宛てたメッセージだということ。ああ、幸せかな人間たちよ。

 

「宇宙」は、あなたに、これ以上ない判断基準を示してくれているのです。そしてあなたも、「宇宙」の一員である以上、まごうことなき「創造主」の表現物なのです。ですから、ご自分を信頼して、自分の中の「自然」に静かに耳を傾ければ、それはいつでも「真理」を反映したものになっているのです。

 

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*天網恢々疎にして漏らさず

辞典のほとんどは、これを「天はどんな小さな悪事も見逃さずに、自ら天罰を下す」と説明しているのですが、これは半分間違いです。天がどんなことも見逃さないのは確かですが、それを人間の善悪概念や天罰の便法に置き換えて解釈しようとするから「老子」が理解できないのです。「老子」が語っていることはもっと深く、間違いなく宇宙の真理を語っています。

 

 

自然災害に「悪」のレッテルを貼っているのは人間

台風シーズンになりました。台風やハリケーンや竜巻の威力の巨大化が、近年指摘されています。世界各地で、大きな地震も頻繁に起きています。自然も、地球も、宇宙も、みんな生きているので、暑くなれば冷やそうとしますし、歪みが溜まれば解消しようとします。人間と同じようにホメオスタシス(homeostasis:恒常性)を働かせているのです。

 

ところが、こんな当たり前のことが解らない。予言者は大災害の預言ばかりに心をくだき、人々は不安を募らせながら生活している。そして、ひとたび自然災害が起こると、人間はみな「困った、困った」と言い、ひとによっては「神の怒り」ではないかという人も出てくる始末です。自然を悪者にし、大災害が起きると「神」のせいにするのです。

 

けれども、それ以前に、人間の方がいかに自然を痛めつけて来たのか? あちこちほじくり返しては穴ぼこだらけにし、地球の財産を勝手に横取りし、食料をかすめ取り、自然界にはない化学物質を大量に作っては撒き散らし、気の遠くなるような半減期を持つ放射性物質を産み出しては自然を汚染し、宇宙開発と言っては宇宙をゴミだらけにしている。

 

地球から見ればまったく身勝手もいいところで、思わず「いい加減にしろ!」と言いたくなると思うのです。それなのに未だに、経済成長しなければ幸福にはなれないと言い、エネルギー需要を賄うためには原発が必要と言い、日夜グルメに明け暮れている。「母なる大地」という言い方がありますが、人間は地球という母親に甘え過ぎではないでしょうか?

 

地球は、どんなにそこからものを奪われても、対価を要求したりはしません。いつでもタダで必要なものを供給してくれています。それをいいことに、現代の人間は、感謝もせずに早い者勝ちで奪い尽くしている。この領土は俺のものだ、領海は俺のものだ。だから、そこから取れる資源は全部俺のものだ。ここに入って来る奴らは容赦しないぞ!

 

全くなんという浅ましい兄弟同胞たちでしょうか? 同じ食卓の食べ物を分け合うことすら出来ない。母の深いため息と、嘆きが聞こえて来ませんか?

 

人間がどうしようもなく馬鹿なのは、地球は、自然は、自分たちの生存環境そのものなのに、その生存環境を慈しむどころか、自ら破壊していること。こんな生物は他にはありません。生存環境を破壊すれば、生きられなくなるのは火を見るよりも明らかですから。それなのに、この自殺行為を止めようとはしない。

 

破壊を大声で叫び、率先して行う者に、みんな同調して、気を高ぶらせて着いていく。この愚かさに、いったいいつになったら気がつくのでしょうか?

 

地球は言っていますよ。「私は、何もみんなを恐怖で震え上がらせようとしているわけじゃないんですよ。私はただ自分の役割を果たしているだけ。ただね、みんなに気づいて欲しいんです。生きるというのは、調和の世界の出来事なんだということに。」

無視できない

蒸し蒸しする暑い日々が続いています。ど田舎暮らしで困るのは(人間の立場で勝手に言っていることですが)虫の凄いこと。都会ではお目にかかれない、訳の分らない虫が、昼夜を問わずうじゃうじゃと家の中に入って来ます。何しろスキマだらけのボロ家なもので。

 

地球に存在する生物種では昆虫が最も多いそうですが、さもありなんと思わされます。一度など、夜にトントンと窓を叩く音がしたので何かと思ってみたら、どでかい蛾が光に誘われて、窓を叩いているんですね。仰天しました。でもなぜかゴキブリが全くいない。寒い冬を越せないからでしょうか?

 

虫嫌いの人には、とても田舎暮らしは出来ませんね。玄関を出た途端に蜂と鉢合わせ。川べりを歩くとアブが容赦なく襲って来て、非常に危ない。ということで、虫は無視できない。瞑想をしていると、羽音があっちからもこっちからも聞こえて来て、無私になって無心に至ろうとするのですが、なかなか集中できません。

 

月末は東京に帰るので、そうしたら、久しぶりにゴキブリに遭えるかな?

ミネラルショー

巷では、パワースポットとか、パワーストーンとか、パワーと付くものが大人気のようですね。先日、友人に誘われて、私も久しぶりに「ミネラルショー」に行って来ました。「ミネラル」というのは鉱物のことで、早い話が「石」の展示即売会です。平日だったのにも関わらず、人でいっぱいでした。

 

そう言えば、パワーストーンのブレスレットをしている人をよく見かけますね。オシャレとして楽しむ分にはいいとは思うのですが、神頼みならぬ「パワー頼み」のような使い方をしても、無意味とまでは言いませんが、ちょっと違うんじゃないかなと思います。

 

」については、私も一時期、随分勉強しました。でも今は、それほど強い関心は持っていません。もちろんパワーの強い物や場所というのはあります。神社に行って、御神木といわれるような古い木に近づいて行くと、さすがにグワーッと来ます。でもこういうものは、受信能力が伴ってのものです。

 

空中には様々な電波が飛び交っていますが、たとえばNHKの総合テレビを見たいのなら、テレビ受像機とアンテナがあって、かつその周波数にチャンネルを合わせなければ、その番組は見られないのです。これと同じで、目の前にパワーストーンがあっても、自分のチャンネルを開いて、かつ同調しなければ、パワーにアクセスすることは適わないのです。

 

そのことを理解すれば、パワーのある物を身につけたり側に置いたりすることよりも、先ずご自分の受信能力を磨いた方が、余程いいということがお解りでしょう。なにしろ宇宙エネルギーは無尽蔵で、そこかしこに充満しているわけですから。

田舎暮らしも楽じゃないヨ
ゴールデンウィークと14・15の土日を過ぎて、やっと落ち着きを取り戻しました。ちょうど義理の姉からメールが来て「久しぶりに食事でもどうですか?」と。「今は山にいて東京にはいないから」と返事すると、「あらいいわねぇ、今の時期、ステキでしょうねぇ」。

田舎暮らしの話をすると、必ずこう言われるんだよね。もし逆の立場だったら、私も同じように言うだろうから責められないけど、そんなんじゃないんだってばさ。特に今の時期はツラいよぉ。

先ず朝の7時前から、ブイーン、ブイーン、ブイーン、と草刈機のエンジンの音があちこちで響き出す。ついで、代掻きのトラクターが、ブォオオオン、ブォオオオンと一日中。その間を、道路補修の資材を運搬するトラックがズゴゴゴゴゴー。反対からは、ワインディング・ロードを楽しもうと大型バイクの軍団が、ズドドドドド、ズドドドドド(×台数)。

でもどうして大型バイクの軍団は、ああやって連なって行くのかねぇ? 単騎で行く人はまずいない。必ず集団をつくるよね。前世が騎馬軍団だったりするのかな?

ブイーン、ブイーン、ブイーン、ブォオオオン、ブォオオオン、ブォオオオン、ゲコゲコゲコゲコ(これは蛙ちゃんの大合唱ね)、ズゴゴゴゴゴー、ズドドドドド、ズドドドドド、ズドドドドド、ズドドドドド、ハクション!(これはヒノキの花粉症)。

とにかく、一日中やかましいったらありゃしない。おかげで各種排気ガスもいっぱい吸い込みましたよ。
ああ、静かで空気のきれいな大都会へ行きたい、って本気で思いました。

村の電信柱に防災スピーカーが設置されていて、7時、10時、12時、15時、17時に必ず時報が鳴ります。時たまお知らせ事項が流されるんだけど、ガーガーピーピー言っているし、山で反響されるからほとんど何を言っているのか聞き取れないの。最初と最後の、ピンポンパンポンというチャイムしか分からない。

先日も、どうやら、どこかで火事が起きたらしいということだけは分かった。3時間くらいして「鎮火しました」というアナウンスがまたあったから、「消火にずいぶん時間が掛かったんだなぁ」くらいに思っていたんだけど、いつも行く温泉に行ってみてびっくり! なんと火元は温泉のボイラー室だったの。ボイラー室全焼で、温泉営業は停止。そんなぁ。

うちは風呂がないから、そこだけを頼りにしていたのにィ。聞けば修繕費に1億円掛かるそうで(本当?)、長野市の補助金運営の施設だから、予算申請して、議会に図ってと、復旧がいつのことになるやら見当がつかないんだって。さて、どうする?

まあ、どうせ体を洗ったことがないし、ま、いいか。洞窟暮らしの古代人なんて、風呂に入る習慣なかっただろうし、風呂がなくたって死にぁしないよね。
ひっくりカエル
今日は、部落のお祭りです。この日のために5日間、産土神を祀ったお宮さんの清掃と草取りを続けて来ました。一面に苔が生えたところがあって、その中の草を抜こうとすると、苔が持ち上がり、中からミミズが這い出して来ることがあります。最初は「うわっ」と思ったけれど、だんだんと慣れていきました。

そんなことが続いてしばらくしたとき、いつものように草を抜いていたら、「うぎゃー」という赤ん坊の泣き声のような声を聞いてびっくり! 見ると、4センチくらいのカエルが苔の下から飛び出して、腹を上にしてひっくり返っているのです。どうやら、冬眠していた寝床を、私が勢いよく持ち上げてしまったようです。

ところが、このカエル、腹を上にしたままグーグー眠りこけていてピクリとも動かない。気温は6℃。まだ活動できないのかも知れませんが、だったらあの「うぎゃー」の一声はなんだったの? 春眠暁を覚えずと言うけれど、よっぽど眠かったんだね。ゴメンゴメン。

上下を返して、苔の中に戻してやりました。これで無事、彼も寝床にカエル。
めでたし、めでたし。
天災を心配したところでキリがない
天災も人災も、起きる時には起きます。人類の歴史をたどってみれば、それは明白です。起きない方がむしろおかしい。なぜなら、すべては変化しているから。地震だって、火山の噴火だって、台風だって、地球が生きていて活動しているのですから、その表現としてそれは起きます。起きたことの中で、自分たちにとって都合が悪いことを、人間が「天災だ」と言っているだけです。

世界各地で地震が頻発していることから、明日は我が身かと、心配されている方もおられるでしょう。中には、心霊的な予知に関心を集中させている方もおられるかも知れません。しかし、以前にも書きましたが、高い霊性を持った「魂」は、そのような予言を決して行いません。なぜなら、人々の不安をそこに集合させることになり、それが本当に実現してしまうからです。

想念というものはエネルギーです。このエネルギーが一つのイメージに集中すると、それは巨きなパワーを持って、この世を、現実化の方向へと動かします。地球でいま起きている現実は、地球という生命体と、人間の想念の集合および活動が、共同して創り上げている結果なのです。

「やっつけてやろう」と思う人が多くなれば戦争が起き、「奪い取ってやろう」と思う人が多くなれば環境は破壊され、「心配でしょうがない」と思う人が多くなれば、天変地異、事件事故、病気が頻発します。反対に、「みんな仲よく、分かち合って、平和に暮らそう」と思えば、そういう社会が実現します。地球人類は未だヨチヨチ歩きであり、今は、そのせめぎ合いの状態にあります。

なぜ天災を心配するのでしょうか? ここに、サバイバル(Survival)ということに関して、重大な誤解があるのです。人間がこの世に誕生した目的の一つは、「生き残り」にあります。しかしその「生き残り」は、生き残るプロセスを通じて、どのように生きるかを体験することにあるのです。つまり「生き方」の選択です。ただ生き残るのではなく、どう生きるかが課題なのです。

生死のことを言えば、「魂」に死はないと何度も言っているように、一つの人生は、輪廻転生の中で繰り広げられる壮大なドラマの中の、一バージョンに過ぎません。その中には、戦争で殺されたり、癌で死んだり、天災で生き埋めになったりすることもあります。その時に、その瞬間を「どう生きるか」が、あなたという「魂」の今度の体験なのです。

天災を心配して、「何がなんでも生き残ってやる」「他人を押しのけても、自分だけは生き残ってやる」そう考えるのも一つの生き方です。もしもの時があったら「何よりも、子どもを助けよう」そう思うのも一つの生き方です。船やホテルが被災した時に「自分のことなどどうでもいい。先ずはお客さまの安全誘導だ」と考えるのも一つの生き方です。何を選ぶかは、あなたの自由。

瞬間々々をどう生きるかということが、真の「生き残り」の意味であり、その選択が、明日のあなた、未来のあなたを創るのです。そこに「愛」の学習があるのです。

お解りでしょうか?
「天災」というものは起きます。むしろ起きなければおかしい。いつ訪れるか分らないその日をめぐって、心配するのも、楽観するのも、あなたの自由です。

さて心配して生きますか? それとも楽観して生きますか? あなたはそのどちらでも自由に選ぶことができます。
そしてその選択に応じた結果を、願望通り、あなたは手にすることになるのです。