「人を差別するな!」とみんなが言う。もちろん、してはいけません。「差別」は人を悲しませ、傷つけるからです。差別された人だけではなく、差別した方の「魂」までも。「差別」は、人を傷つけるだけではなく、「魂」が目指す「自由」への扉を遠ざけてしまうのです。でも、「差別はいけない」と言っているだけでは「差別」は無くなりません。世の中を見ても分かるように、一つの「差別」を封じ込めたつもりになっても、すぐにまた別の「差別」が登場する。そうなるワケは、「差別」というものへの視点が、そもそもズレているからです。
「差別」は〈原因〉ではなく〈結果〉です。多くの人は、「差別」が社会に様々な問題を引き起こしている、と考えます。それはその通りですが、なぜ「差別」が生じるのか、ということにはあまり眼を向けません。「差別」の現象面や、いま起きている軋轢だけを見て問題視し、それを押さえ込もうとしたり、引き剥がそうとしたりしています。それはまるで、病いの根本原因を知らないまま、熱冷ましや痛み止めの薬を飲んで解決しようとするようなものです。
「差別」の問題を考えるにあたって、重要な視点は二つあります。一つは「差別」が作られる構造です。もう一つは「差別」を生み出す心理です。「心理」が「構造」を伴うとき、社会に「差別」が生じるのです。
と言うことで、先ずは「構造」の面から見て行きましょう。
「差別」は、一般的に外面的な差異や、出自や、所属グループに対して向けられます。ここには、第一に、それらと自分たちとを「区別」して見るという前提があります。しかし「区別」が、直ちに「差別」になるわけではありません。物事を「区別」して捉えるというのは、この地上世界を生きようとした際に、生物が必然的に生み出した方法です。簡単な話、食べられる物と、毒のある物を「区別」しなければ、地球で生きて行くことは出来ません。
ですから、「区別」というものは自然と起こるのですし、また「区別」の多様さが文化の豊かさをも生み出して来たのです。
では、「区別」が「差別」に変わるのは、どのような時でしょうか? 「区別」は必然であるのに、どこからそれが「差別」へと変わるのでしょうか?
今から35年前、私はひょんなことから「マーケティング業界」に首を突っ込むようになりました。が、そこでいきなり聞かされた言葉に、当時まだウブだった私は、心底びっくりしたのです。「差別化」というのがそれで、この言葉が会議でごく普通に飛び交っているのです。えっ、「差別」ですって? それっていけないことじゃ‥‥。最初は抵抗感を覚えた私も、やがてすっかり感化され、自分でも平気で「差別化」と言うようになって行ったのです。
というよりも、「マーケティング業界」においては、「差別化」が常に第一の命題だったのです。それは、他社のものよりも、自社のものの方が「優れている」という点を見つけ出し、それを製品化して、知らしめる、ということでした。業界にいた間、私はそれをまともに信じ、完全にその思想の虜になり、日夜そればかりを考え続けるという生活をしていました。今とはまるで正反対です。「宇宙」の真理のことをまったく知らなければ、気づきもしていませんでした。
その頃を振り返って言えるのは、「区別」に「優位性」をプラスした時に、それが「差別」になるということです。人が、この世界を認識しようと思った時には、必ず「区別」が生じる。しかし「区別」は、その段階ではまだ単に「区別」です。ところが、「区別A」と「区別B」の間に、「優位性」のモノサシと評価を持ち込むと、それが途端に「差別」に変わるのです。要は、「区別」の背後にある「概念」に、「優位性」の考え方が含まれているかどうかです。先ずこれが第一の観点です。
つまり、「差別」=「区別」+「優位性」という公式です。
しかし、ここにもう一つの要素が加わると、それが広く社会化されてしまうことになるのです。その要素とは、「シンボル」です。通常、何かのまとまりとして「区別」されたものには「名前」が付けられます。この「名前=レッテル」も、「シンボル」の一つに数えられますが、さらに特定のカラーや記号などが「区別」の印として用いられると、「シンボル」化はさらに強力なものとなります。よく知られたところでは、共産党の「赤」、ユダヤ人の「✡」などがあります。
このような「シンボル」がさらに加えられ、
「差別」=「区別」+「優位性」+「シンボル」
の形で社会にジワジワと浸透して行くと、遂には、
「シンボル」=「差別」
の公式が出来上がってしまうのです。つまり、ある「シンボル」を見ただけで、直ちに背後にある「差別」の「概念」を想起するようになるのです。そして、一度この公式が出来上がると、共鳴の法則によって同種の波長を集め、それへの「差別」意識が強力な集合エネルギーを持つようになるのです。そうなってしまうと、人は、その背後にある肝心の「優位性」の問題には触れることなく、「シンボル」だけを見て、反射的に恐れ慄いたり、攻撃的になったり、引け目を感じたりするようになるのです。
これは人間心理の一面で、為政者はしばしば、この人間心理を突いた巧妙な「差別」を、人々の間に意図的に仕向けます。戦時中の「鬼畜米英」というスローガンや、今度の「コロナ」や「三密」といったキーワードもまさにそうで、あらゆる「シンボル」化は、常に危険な特性を有しています。真実について、人々にそれ以上深く考えることを止めさせ、一つの思想や、単純な行動パターンに従うよう強いることが出来るからです。
しかし、いったんこの構造に嵌められてしまった後で、その過ちに気づくことは容易ではありません。何しろ、従うことが是であり本流ですから、逆らったりすれば、たちまちゲシュタポの餌食にされてしまいます。熱狂や、洗脳から覚めて、初めて「あれは何だったのか?」とか「二度と過ちは繰り返しません」と人は言うのです。でもまたしばらくすると、同じことを繰り返す。
人間はまだ、このメカニズムの不毛には完全には目覚めていません。それは宗教も含めて、指導者の言に添う、あるいは従うということを、大多数の人は、今でも肯定的に捉えているからです。ですから「忖度」ということも起こる。「忖度」というのは、別に「我が身かわいさ」だけで起きているのではないのです。本人は、そうすることが「正しい」と信じてやっているのです。
しかし、そのような中でも、時代の変化は着実にやって来ています。JOC元会長の女性蔑視発言も、本人の認識と、世の中の認識とがだいぶズレている、ということを浮き彫りにしました。でも、言葉を発したご本人は、それが「差別」であるとは少しも思っていないことでしょう。
今はこうして、時々「差別」発言が問題視されたり、かつての制度的「差別」に対して訴訟が提起されたり、「差別」からの解放を訴えるパレードが行われたり、といった状況です。ということで、「差別」問題に関してはまだまだ学習の過渡期にある。その中には、いわゆる「差別語」狩りのように、いささか方向性を間違えたアクションも見受けられます。けれども、それら一切を含めて、問題が表面化するのはよいことです。そのようにして、悪戦苦闘しながらも、人類はちょっとずつ「差別」問題の本質に近づこうとしているのです。
「差別」問題の本質は「シンボル」にあるのではありません。ですから、「差別」発言を見つけては叩いたり、「差別語」の排除を徹底化したところで、「差別」の本質には迫れません。問題は、「区別」に「優位性」のモノサシを当てはめて見たい、というその人の「欲求」です。そして、その人の内に、どうしてそのような「欲求」が生じるのかということです。なぜ、その「区別」に拘るのか? なぜそこに「優位性」の尺度を持ち込みたいのか?
これは、「承認欲求」の変形なのです。自分を認めて欲しいという「承認欲求」が、「差別」という歪んだ形を取って表出しているのです。「あいつらは劣っている」というモノサシを所持して、差別対象の相手に押し当てれば、相対的に自分は優位な立場に立てます。そのことで、自分の「承認欲求」が満足させられるのです。つまり、「差別」意識というのは、とどのつまりは、その人の個人的な「承認欲求」の歪みなのです。
ですから、「差別」意識を強く持った人のバイブレーションを見ますと、背景には必ず親の愛情不足という問題があります。親から愛されて来なかったという潜在的な思いが、大人になって、他者「差別」に転化してしまうのです。
強い「差別」意識を持つ人は、特定のある集団を排斥したくて、「差別」しているのではないのです。結果的にはそのように見えますが、自分の「承認欲求」の充足感のために、先ず「差別」したいという意識が先にあって、そこに当てはまる都合のよい「シンボル」を「発見」するのです。このようにして、特定のターゲットが「発見」できた時、「親から愛されて来なかった」という潜在的な憎悪のトバッチリを、その相手に向けてぶつけるのです。
これは極めて理不尽な話で、本来ならばちゃんと親と対峙すべきなのですが、大抵の場合、親とはすでに死別か離別していて、復讐の対象がいなくなっているので、その代わりを見つけるのです。そしてこの「発見」は、多少なりとも「(歪んだ)承認欲求」を満足させますので、一度快感を覚えると、麻薬と同じでまた快感が欲しくなり、特定対象への「差別」がエスカレートして行くのです。
およそ、あらゆる心の歪みは、自分が幼少期に体験した「親との関係」より発しています。しかし、人はそれを認めたくありません。幼少期の体験を話すことは、自分の恥部を曝け出すようなもので、特にインテリにとっては耐え難いことです。なぜなら、周囲にインテリだと認めさせて来た今までの評判が、そのことで一挙に剥がれ落ちてしまいかねないからです。そこで、無意識のうちにこれを隠そうとして、意固地になったり、周囲に対して強圧的な態度を取ったりするインテリが少なくありません。
そんなことは気にせず曝け出してしまえば、別にどうってこともないのですが、それがみな出来ないのです。喉に刺さった小骨のようなもので、取りたいんだけれども取れない。しかし、明言しておきます。どんな人も、最後は「親との関係」の清算に帰る。どんなインテリも、一人になった時にはそこに立ち戻るのです。
両親が離婚、片親に育てられた、ネグレクト児だった、そもそも親を知らない、団欒を知らない、虐待された、ずっと抑えつけられて育った、型に嵌められた、行動をコントロールされた、過重な期待を掛けられた、価値観を押し付けられた、あまりにも大甘でベッタリだった、etc. いわゆる不幸な生い立ちばかりではありません。一見、人が羨むような裕福な家庭に育っても、また何の問題もないような家庭に見えても、「自由」を奪われた子供時代というのは、子どもにとって、なんでもトラウマになり得るのです。
「差別」された側は、「自由」を奪われて、もちろん苦しみます。しかし、「差別」する側も、本当の「自由」というものを知らないのです。本当の「自由」を知らないからこそ「差別」できるのです。
子どもは、先ずなによりも親に認められたいのです。親から褒めて貰いたいのです。それによって、初めて、この世での自分の「存在」意義が確認できるからです。そして、その行為を通じて、入れ替わりに、親の「モノサシ評価」というものを学習して行く。ある子は、その「モノサシ評価」に応えようとして必死に努力し、別の子は逆に反発し、親のいない子は他の場所に「モノサシ評価」を探そうとする。それさえも見つからない子は、自傷行為に及んでまで、自己の「存在」理由を見い出そうとするのです。
それほど、親の、この「モノサシ評価」の影響力には凄まじいものがあります。
こうした学習の結果、自分が大人になった暁には、それまでの体験を通じて得た自分なりの「モノサシ」基準を、次には自分で拵えるようになるのです。そして、それをまたわが子に押しつけ、一部は歪んだ「差別」意識に発展させてしまうという連鎖が続く。このようにして生まれた「差別」意識の、連鎖が止まない理由は、ひとえに、人が、本当の「自由」というものを知らないからです。
本当の「自由」とは、地上の何ものにも価値の基盤を持たないことです。
すべての「モノサシ」を、完全放棄することなのです!
だから、「自由」に羽ばたける。
子ども時代に味わったトラウマ。しかしそれは、いつも言っている通り、見方を変えれば「魂トレ」の試練として用意されたものです。ただ、その認識に、いつの時点で立てるかは、その人しだい。若くしてそれに気づく人もいれば、歳を重ねて死ぬ間際になっても、まだ気づかないという人もいる。ましてや、自分の「親との関係」を、他者への「差別」に置き換えている人は、二重に「気づき」が遅れているということになる。
人類は今、「差別」問題の解消の学習途中にあります。しかし、真にこの問題が解決されるためには、「差別」の現象面だけを見ていたのでは、一向にラチがあきません。差別する側も、される側も、双方にネガティブな集合意識を生み出すだけなのです。
現象面よりも、もっと奥の「魂」の問題としてこれを捉えることが必要です。なぜなら、「魂」の源は一つであるということにみんなが気づけば、この先「差別」などは起こりようがないからです。「いたわり」や「思いやり」しか、起こりようがないからです。
自然界の多様性はなぜあるのでしょう? 人類の多様性はなぜあるのでしょう? それは「差別」するためではありません。「いたわり」や「思いやり」を経験するためです。一人ひとり異なっているからこそ、それが経験できるのです。一人ひとりみな違っているからこそ、共通性を見い出せるのです。そして、それぞれに個性があるからこそ、他者の表現に感動を覚えるのです!
「差別」されて、嬉しい人はおりません。それなのになぜ「差別」するのですか? 「憎悪」の眼を向けられて嬉しい人はおりません。それなのになぜ「憎悪」するのですか? 「小馬鹿」にされて、嬉しい人はおりません。それなのになぜ「小馬鹿」にするのですか? 「暴力」を受けて、嬉しい人はおりません。それなのになぜ「暴力」を行使するのですか?
自分が嬉しいと思うこと、楽しいと思うことを、他の人にしてあげる方が、みんなを幸せにする道だとは思いませんか?
あなたが、辛い過去を背負って来たとしても、その過去体験の使い道には大きくふた通りがあります。やられたらやり返す道と、やられたら自分は決してやらないぞと誓う道です。
誰からも愛されたことが無かった。愛を知らずに育った。しかし、この先それを呟き続けていても、事態は少しも変わらないのです。けれども、自分が「愛」を与える人になれば、今からでも、知らなかったその「愛」を知ることが出来るのです。ああ、なんと素晴らしいギフトでしょう。そして見事「愛」を与える人になった時、その人は、なぜ自分が誰からも愛されて来なかったのか、その深い意味を知るでしょう。