by Rainbow School
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差別の原理

「人を差別するな!」とみんなが言う。もちろん、してはいけません。「差別」は人を悲しませ、傷つけるからです。差別された人だけではなく、差別した方の「魂」までも。「差別」は、人を傷つけるだけではなく、「魂」が目指す「自由」への扉を遠ざけてしまうのです。でも、「差別はいけない」と言っているだけでは「差別」は無くなりません。世の中を見ても分かるように、一つの「差別」を封じ込めたつもりになっても、すぐにまた別の「差別」が登場する。そうなるワケは、「差別」というものへの視点が、そもそもズレているからです。

 

「差別」は〈原因〉ではなく〈結果〉です。多くの人は、「差別」が社会に様々な問題を引き起こしている、と考えます。それはその通りですが、なぜ「差別」が生じるのか、ということにはあまり眼を向けません。「差別」の現象面や、いま起きている軋轢だけを見て問題視し、それを押さえ込もうとしたり、引き剥がそうとしたりしています。それはまるで、病いの根本原因を知らないまま、熱冷ましや痛み止めの薬を飲んで解決しようとするようなものです。

 

「差別」の問題を考えるにあたって、重要な視点は二つあります。一つは「差別」が作られる構造です。もう一つは「差別」を生み出す心理です。「心理」が「構造」を伴うとき、社会に「差別」が生じるのです。

 

と言うことで、先ずは「構造」の面から見て行きましょう。

 

「差別」は、一般的に外面的な差異や、出自や、所属グループに対して向けられます。ここには、第一に、それらと自分たちとを「区別」して見るという前提があります。しかし「区別」が、直ちに「差別」になるわけではありません。物事を「区別」して捉えるというのは、この地上世界を生きようとした際に、生物が必然的に生み出した方法です。簡単な話、食べられる物と、毒のある物を「区別」しなければ、地球で生きて行くことは出来ません。

 

ですから、「区別」というものは自然と起こるのですし、また「区別」の多様さが文化の豊かさをも生み出して来たのです。

 

では、「区別」が「差別」に変わるのは、どのような時でしょうか? 「区別」は必然であるのに、どこからそれが「差別」へと変わるのでしょうか?

 

今から35年前、私はひょんなことから「マーケティング業界」に首を突っ込むようになりました。が、そこでいきなり聞かされた言葉に、当時まだウブだった私は、心底びっくりしたのです。「差別化」というのがそれで、この言葉が会議でごく普通に飛び交っているのです。えっ、「差別」ですって? それっていけないことじゃ‥‥。最初は抵抗感を覚えた私も、やがてすっかり感化され、自分でも平気で「差別化」と言うようになって行ったのです。

 

というよりも、「マーケティング業界」においては、「差別化」が常に第一の命題だったのです。それは、他社のものよりも、自社のものの方が「優れている」という点を見つけ出し、それを製品化して、知らしめる、ということでした。業界にいた間、私はそれをまともに信じ、完全にその思想の虜になり、日夜そればかりを考え続けるという生活をしていました。今とはまるで正反対です。「宇宙」の真理のことをまったく知らなければ、気づきもしていませんでした。

 

その頃を振り返って言えるのは、「区別」に「優位性」をプラスした時に、それが「差別」になるということです。人が、この世界を認識しようと思った時には、必ず「区別」が生じる。しかし「区別」は、その段階ではまだ単に「区別」です。ところが、「区別A」と「区別B」の間に、「優位性」のモノサシと評価を持ち込むと、それが途端に「差別」に変わるのです。要は、「区別」の背後にある「概念」に、「優位性」の考え方が含まれているかどうかです。先ずこれが第一の観点です。

 

つまり、「差別」=「区別」+「優位性」という公式です。

 

しかし、ここにもう一つの要素が加わると、それが広く社会化されてしまうことになるのです。その要素とは、「シンボル」です。通常、何かのまとまりとして「区別」されたものには「名前」が付けられます。この「名前=レッテル」も、「シンボル」の一つに数えられますが、さらに特定のカラーや記号などが「区別」の印として用いられると、「シンボル」化はさらに強力なものとなります。よく知られたところでは、共産党の「赤」、ユダヤ人の「✡」などがあります。

 

このような「シンボル」がさらに加えられ、

 

「差別」=「区別」+「優位性」+「シンボル」

 

の形で社会にジワジワと浸透して行くと、遂には、

 

「シンボル」=「差別」

 

の公式が出来上がってしまうのです。つまり、ある「シンボル」を見ただけで、直ちに背後にある「差別」の「概念」を想起するようになるのです。そして、一度この公式が出来上がると、共鳴の法則によって同種の波長を集め、それへの「差別」意識が強力な集合エネルギーを持つようになるのです。そうなってしまうと、人は、その背後にある肝心の「優位性」の問題には触れることなく、「シンボル」だけを見て、反射的に恐れ慄いたり、攻撃的になったり、引け目を感じたりするようになるのです。

 

これは人間心理の一面で、為政者はしばしば、この人間心理を突いた巧妙な「差別」を、人々の間に意図的に仕向けます。戦時中の「鬼畜米英」というスローガンや、今度の「コロナ」や「三密」といったキーワードもまさにそうで、あらゆる「シンボル」化は、常に危険な特性を有しています。真実について、人々にそれ以上深く考えることを止めさせ、一つの思想や、単純な行動パターンに従うよう強いることが出来るからです。

 

しかし、いったんこの構造に嵌められてしまった後で、その過ちに気づくことは容易ではありません。何しろ、従うことが是であり本流ですから、逆らったりすれば、たちまちゲシュタポの餌食にされてしまいます。熱狂や、洗脳から覚めて、初めて「あれは何だったのか?」とか「二度と過ちは繰り返しません」と人は言うのです。でもまたしばらくすると、同じことを繰り返す。

 

人間はまだ、このメカニズムの不毛には完全には目覚めていません。それは宗教も含めて、指導者の言に添う、あるいは従うということを、大多数の人は、今でも肯定的に捉えているからです。ですから「忖度」ということも起こる。「忖度」というのは、別に「我が身かわいさ」だけで起きているのではないのです。本人は、そうすることが「正しい」と信じてやっているのです。

 

しかし、そのような中でも、時代の変化は着実にやって来ています。JOC元会長の女性蔑視発言も、本人の認識と、世の中の認識とがだいぶズレている、ということを浮き彫りにしました。でも、言葉を発したご本人は、それが「差別」であるとは少しも思っていないことでしょう。

 

今はこうして、時々「差別」発言が問題視されたり、かつての制度的「差別」に対して訴訟が提起されたり、「差別」からの解放を訴えるパレードが行われたり、といった状況です。ということで、「差別」問題に関してはまだまだ学習の過渡期にある。その中には、いわゆる「差別語」狩りのように、いささか方向性を間違えたアクションも見受けられます。けれども、それら一切を含めて、問題が表面化するのはよいことです。そのようにして、悪戦苦闘しながらも、人類はちょっとずつ「差別」問題の本質に近づこうとしているのです。

 

「差別」問題の本質は「シンボル」にあるのではありません。ですから、「差別」発言を見つけては叩いたり、「差別語」の排除を徹底化したところで、「差別」の本質には迫れません。問題は、「区別」に「優位性」のモノサシを当てはめて見たい、というその人の「欲求」です。そして、その人の内に、どうしてそのような「欲求」が生じるのかということです。なぜ、その「区別」に拘るのか? なぜそこに「優位性」の尺度を持ち込みたいのか?

 

これは、「承認欲求」の変形なのです。自分を認めて欲しいという「承認欲求」が、「差別」という歪んだ形を取って表出しているのです。「あいつらは劣っている」というモノサシを所持して、差別対象の相手に押し当てれば、相対的に自分は優位な立場に立てます。そのことで、自分の「承認欲求」が満足させられるのです。つまり、「差別」意識というのは、とどのつまりは、その人の個人的な「承認欲求」の歪みなのです。

 

ですから、「差別」意識を強く持った人のバイブレーションを見ますと、背景には必ず親の愛情不足という問題があります。親から愛されて来なかったという潜在的な思いが、大人になって、他者「差別」に転化してしまうのです。

 

強い「差別」意識を持つ人は、特定のある集団を排斥したくて、「差別」しているのではないのです。結果的にはそのように見えますが、自分の「承認欲求」の充足感のために、先ず「差別」したいという意識が先にあって、そこに当てはまる都合のよい「シンボル」を「発見」するのです。このようにして、特定のターゲットが「発見」できた時、「親から愛されて来なかった」という潜在的な憎悪のトバッチリを、その相手に向けてぶつけるのです。

 

これは極めて理不尽な話で、本来ならばちゃんと親と対峙すべきなのですが、大抵の場合、親とはすでに死別か離別していて、復讐の対象がいなくなっているので、その代わりを見つけるのです。そしてこの「発見」は、多少なりとも「(歪んだ)承認欲求」を満足させますので、一度快感を覚えると、麻薬と同じでまた快感が欲しくなり、特定対象への「差別」がエスカレートして行くのです。

 

およそ、あらゆる心の歪みは、自分が幼少期に体験した「親との関係」より発しています。しかし、人はそれを認めたくありません。幼少期の体験を話すことは、自分の恥部を曝け出すようなもので、特にインテリにとっては耐え難いことです。なぜなら、周囲にインテリだと認めさせて来た今までの評判が、そのことで一挙に剥がれ落ちてしまいかねないからです。そこで、無意識のうちにこれを隠そうとして、意固地になったり、周囲に対して強圧的な態度を取ったりするインテリが少なくありません。

 

そんなことは気にせず曝け出してしまえば、別にどうってこともないのですが、それがみな出来ないのです。喉に刺さった小骨のようなもので、取りたいんだけれども取れない。しかし、明言しておきます。どんな人も、最後は「親との関係」の清算に帰る。どんなインテリも、一人になった時にはそこに立ち戻るのです。

 

両親が離婚、片親に育てられた、ネグレクト児だった、そもそも親を知らない、団欒を知らない、虐待された、ずっと抑えつけられて育った、型に嵌められた、行動をコントロールされた、過重な期待を掛けられた、価値観を押し付けられた、あまりにも大甘でベッタリだった、etc. いわゆる不幸な生い立ちばかりではありません。一見、人が羨むような裕福な家庭に育っても、また何の問題もないような家庭に見えても、「自由」を奪われた子供時代というのは、子どもにとって、なんでもトラウマになり得るのです。

 

「差別」された側は、「自由」を奪われて、もちろん苦しみます。しかし、「差別」する側も、本当の「自由」というものを知らないのです。本当の「自由」を知らないからこそ「差別」できるのです。

 

子どもは、先ずなによりも親に認められたいのです。親から褒めて貰いたいのです。それによって、初めて、この世での自分の「存在」意義が確認できるからです。そして、その行為を通じて、入れ替わりに、親の「モノサシ評価」というものを学習して行く。ある子は、その「モノサシ評価」に応えようとして必死に努力し、別の子は逆に反発し、親のいない子は他の場所に「モノサシ評価」を探そうとする。それさえも見つからない子は、自傷行為に及んでまで、自己の「存在」理由を見い出そうとするのです。

 

それほど、親の、この「モノサシ評価」の影響力には凄まじいものがあります。

 

こうした学習の結果、自分が大人になった暁には、それまでの体験を通じて得た自分なりの「モノサシ」基準を、次には自分で拵えるようになるのです。そして、それをまたわが子に押しつけ、一部は歪んだ「差別」意識に発展させてしまうという連鎖が続く。このようにして生まれた「差別」意識の、連鎖が止まない理由は、ひとえに、人が、本当の「自由」というものを知らないからです。

 

本当の「自由」とは、地上の何ものにも価値の基盤を持たないことです。

すべての「モノサシ」を、完全放棄することなのです!

だから、「自由」に羽ばたける。

 

子ども時代に味わったトラウマ。しかしそれは、いつも言っている通り、見方を変えれば「魂トレ」の試練として用意されたものです。ただ、その認識に、いつの時点で立てるかは、その人しだい。若くしてそれに気づく人もいれば、歳を重ねて死ぬ間際になっても、まだ気づかないという人もいる。ましてや、自分の「親との関係」を、他者への「差別」に置き換えている人は、二重に「気づき」が遅れているということになる。

 

人類は今、「差別」問題の解消の学習途中にあります。しかし、真にこの問題が解決されるためには、「差別」の現象面だけを見ていたのでは、一向にラチがあきません。差別する側も、される側も、双方にネガティブな集合意識を生み出すだけなのです。

 

現象面よりも、もっと奥の「魂」の問題としてこれを捉えることが必要です。なぜなら、「魂」の源は一つであるということにみんなが気づけば、この先「差別」などは起こりようがないからです。「いたわり」や「思いやり」しか、起こりようがないからです。

 

自然界の多様性はなぜあるのでしょう? 人類の多様性はなぜあるのでしょう? それは「差別」するためではありません。「いたわり」や「思いやり」を経験するためです。一人ひとり異なっているからこそ、それが経験できるのです。一人ひとりみな違っているからこそ、共通性を見い出せるのです。そして、それぞれに個性があるからこそ、他者の表現に感動を覚えるのです!

 

「差別」されて、嬉しい人はおりません。それなのになぜ「差別」するのですか? 「憎悪」の眼を向けられて嬉しい人はおりません。それなのになぜ「憎悪」するのですか? 「小馬鹿」にされて、嬉しい人はおりません。それなのになぜ「小馬鹿」にするのですか? 「暴力」を受けて、嬉しい人はおりません。それなのになぜ「暴力」を行使するのですか?

 

自分が嬉しいと思うこと、楽しいと思うことを、他の人にしてあげる方が、みんなを幸せにする道だとは思いませんか?

 

あなたが、辛い過去を背負って来たとしても、その過去体験の使い道には大きくふた通りがあります。やられたらやり返す道と、やられたら自分は決してやらないぞと誓う道です。

 

誰からも愛されたことが無かった。愛を知らずに育った。しかし、この先それを呟き続けていても、事態は少しも変わらないのです。けれども、自分が「愛」を与える人になれば、今からでも、知らなかったその「愛」を知ることが出来るのです。ああ、なんと素晴らしいギフトでしょう。そして見事「愛」を与える人になった時、その人は、なぜ自分が誰からも愛されて来なかったのか、その深い意味を知るでしょう。

友人を自分のゴミ箱に使わないように

あら、この人ったらまた同じ話をしているわ。友人たちとの会話の中で、そう気づいて、辟易したという経験はありませんか。よっぽど親しい間柄でもない限り「それ、前にも聞いたわ」なんて不粋なことは言いにくいので、多くの場合、周囲の人たちはみな初めて聞くフリをして聞き流しているのではないでしょうか。もしかしたら、その辟易させている側の人間というのが、あなただったりしてネ。

 

人が、何度も同じ話を語るのは、その人の、そのことについての強い「執着」を証明しています。この場合、聞いて貰いたいわけではないのです。とにかく話したい。ですから、その場に居合わせた人は、交通事故に遭ったようなものです。夢や理想や、今しているチャレンジについて語るのならまだしも、友人たちを前にすると、つい人間関係の問題を夢中になって語り始める人がいるというのは困ったものです。

 

いま自分が抱えている悩みや、葛藤状態にあるエネルギーを放出することで、楽になりたいという気持ちは解ります。また、有効なアドバイスを求めたいという考えも理解できます。しかしそれが許されるのは、一度きりです。何度も何度も同じ話をするのは、周囲のアドバイスには決して耳を傾けるつもりはない、ということを同時に証明しているのです。

 

このような、人間関係にともなう「執着」には、大きく二つのタイプがあります。一つは、特定の人物に向けられているケースです。このタイプは、親兄弟や配偶者、恋人などの身近な人物のことをのべつ幕なしに語りたがります。それは殆どが「こんなことがあって困った」という内容なのですが、そんなにしょっちゅう困るのなら、さっさと絶縁してしまえばよさそうなものなのに、決してそうはしません。

 

理由は簡単で、口では「困った」とは言っていますが、相手の人間が「好き」だからです。別の言い方をすると、その「関係」に依存しているからです。「嫌い」は「好き」の反対ではありません。それはカードの裏表に過ぎず、どちらも相手に関心があるということでは同じなのです。「好き」とか「嫌い」の本当の反対は、無関心です。つまり、無関心では到底いられない状態にある、その腐れ縁を続けているというのがこのタイプです。

 

もう一つのタイプは、相手はいろいろと変わるのですが、いつも特定の性向やリアクションを示した話を語るタイプです。例えば、人間関係を闘争的にしか見られない人は、自分がいつも誰かから攻撃されており、このように反撃したといった話を繰り返し語ります。また被害者意識の強い人は、自分がいかに周囲から痛めつけられ、不運で幸の薄い人生を歩んでいるか、といった話を語りたがります。

 

しかし、この両者ともが、自分にそのような傾向があるということにはよもや気がつかないでしょう。こうして、このブログを読んだ後でも、それが自分のことだと気がつく人は、極めて稀なことでしょう。人は、その渦中にある間は、自分がその中にいるとは気がつかないものです。そこから出て初めて、「ああ、自分はあの時、あんな場所にいたんだな」と気づくのです。

 

そこで、「よき友人」というものが重要になってきます。よく、「他人は自分の鏡」だと言われますが、これは真実です。自分の内奥を見つめるためには、一人で心を静かにして、瞑想をするということが欠かせません。一方、言動というものは、自分の内奥の外部への表出ですから、自分の言葉や行動を知れば、内奥とのブリッジ関係に気づけるのです。それを映してくれるのが、他者のリアクションです。

 

ですから、「よき友人」というのは、そこをちゃんと指摘してくれる人のことを言います。おべっかを使ったり、お世辞を言ったり、ナアナアの関係にある人というのは、一見あなたをソフトに扱ってくれて、いい気持ちにさせるかも知れませんが、本当の意味で「よき友人」とは呼べません。なぜなら、あなたの成長を考えていないわけですから。ともに成長して行こうという意志もないわけですから。

 

人間を観察していて、時々「ああ、可哀想になぁ」と思う人に出会います。「この人は、今まできっと、誰からも叱られたことが無かったんだろうな」と。叱られるということは、関心を持たれているということです。誰からも叱られたことが無い、それはネグレクト(無視)されて来たということを意味します。でもそうなった裏には、聞く耳を持たない性向がどこかに隠れていたはずです。

 

だから、自分を真剣に叱ってくれる人こそを大切にしなさい。

そして何よりも、素直であることと、いつでも変われる勇気を持つことを、心がけなさい。

 

それと、あなた方が、まだよく解っていないことがあります。解っている人は解っています。でもそれは、ごく少数の人たちだけです。それは、前にも書いた「波動の法則」のことです。ある人が、自分の苦悩や葛藤、闘争的な気分、被害者的な気分などの「執着」を、夢中になって周囲に話している時、その人は、四次元世界(第四霊性密度、心霊界、魔界)に雇われたテロリストになっているのですよ。

 

敏感な人にはその波動が解りますから、気分が悪くなってきて、その場に居続けるということが出来ません。そこでスーッと離れて行くことになります。

 

よく、職場の休憩所や食堂などで、不在の人の悪口や噂話を夢中になって交わしているグループを見かけますが、それはお互いに波動を低め合っているのです。その人たちにとっては、そうすることが逆に心地よいのです。それが性に合っている人たちだからこそ、そういうグループを形成できるのです。意識をボーッとさせて眺めてみれば、その一角には、不穏な波動がドーム状に形成されているのがあなたにも分かるはずです。

 

しかし、一人の人間を考えた場合に、全くの善人という人もいなければ、全くの悪人という人もいないのです。みな両方の性質を併せ持っているのです。ですから、四次元世界からのテロリストがやって来た場合には、その策略に引っ掛からないようにすることが大切です。自分の中にもあるネガティブなエネルギーを、パッと簡単に同調させないように注意しなければなりません。

 

テロリストとなっている人は、まさか自分がテロリストになっているとは、露ほども思っていません。ただ衝動が沸き起こって来て、そのような苦悩や葛藤、闘争的な気分、被害者的な気分などの「執着」を、辺り構わずに語り出すのです。自分の思考や感情をコントロールしているもう一つの意識が、その瞬間、どこかへ吹っ飛んでしまっているのです。これは、その人のカルマがなせる業なのです。

 

ですから、その場に居る人たちは、その話に相槌をうったり、同情を示したり、同じような自分の体験を語り出したりしないように注意しましょう。その途端、場の雰囲気はサッと変わってしまいます。すぐに話題を変えてしまうか、あまりしつこいようであればピシャリと言って封じ込めてください。そうすることが、その場の全員を救うことになりますし、その人に気づきを与えることにも繋がります。

 

傷つけたり、傷ついたりを怖れて、その場の空気に流されてしまっては、傷つくよりも、もっと悪い結果に堕ちてしまいます。いわゆる「忖度(そんたく)」というものは、こうしたネガティブなエネルギーの伝播なのです。ですから、「忖度」ばかりしている人というのは、その内奥が表に出て、顔つきがどんどん悪くなって行くのです。

 

他方、あなたが、周囲の人たちに自分の人間関係の体験を語る際には、決してテロリストにはならないように、よくよく注意してください。〈話したい!〉という衝動が沸いたら、ひとまず(待てよ)と、心の中で呟いて、この濁流の流れをストップさせてください。そして、一呼吸おいてから考えてみるのです。その体験は、はて、自分にどんな課題を与えていたのかと。

 

『死ぬ瞬間』を書いたエリザベス・キューブラー・ロス医師は、最晩年、脳溢血の後遺症で全身が麻痺し、ベッドに寝たきりとなりました。彼女は、エイズ患者のためのホスピスを建設したものの、周辺住民の理解が得られず、二度も焼き討ちに遭って全部を失いました。その彼女が、最期を覚悟して書いた著作の中でこう語っています。「自分がこうなったことの意味はすぐに解った。それは、患者の立場を味わうことだった」と。

 

自分の身の上に起こるどんなことにも、必ず、その人のための課題が隠されています。人間関係で生じる苦悩や葛藤を語る際にも、そこに注目することが大切なのです。多くの人は、相手のことを一方的に語ったり、「関係」の今の状態を語ることに夢中で、自分のことはすっかり忘れています。しかし相手の存在だけでは「関係」は築けないのです。「関係」には、あなたも関与しているということを忘れてはなりません。

 

ある日、ある女性から、夫が浮気をしているという話を聞かされました。夫の携帯電話を盗み見したところ、愛人へ宛てたメッセージが見つかったのだそうです。そこには、自分をボロクソにけなし、君だけを愛していると語る言葉があったと。その女性は「わが夫は、なんて卑劣で幼稚な人間なのか」と言います。でも、厳しい言い方ですが、ご主人だけを責めるわけにはいきません。その理由は、もうお解りでしょう。

 

人間関係を語る時に、人はみな、自分のことを棚に上げて、相手を一方的に非難したり、「関係」の今の問題点を並べ立てます。しかしそれでは、自分の成長の機会に、ちゃんと向き合わないことになってしまいます。ですから、冒頭に書いたように、このような傾向に陥った人は、またその習性にすっかり慣れてしまった人は、いっつも同じ話を周囲に語りゲンナリさせてしまうという、テロリストとなってしまうのです。

 

大切な友人たちを、あなたのゴミ箱にしてはなりません。他の人と交わる時には、意識して、つねに建設的な話をするようにしてください。失敗や、辛い体験や、葛藤を語るな、と言っているのではありません。語ってもいいのです。ですが、語る時には、起きた出来事そのものではなく、その出来事を通じて自分がどんな気づきを得たのかを語って欲しいのです。そこにフォーカスを当てて欲しい。

 

それでこそ、体験を語る意義がある。あなたが得た気づきが、他の人の気づきを誘発するかも知れません。それによって、人間関係における新たな理解が進み、愛の人へと近づく一歩を手助けすることになるかも知れません。

 

要は、ハサミの使いようさ。

 

辛い出来事、苦しい体験、それらはすべて過ぎ去ってしまったもの。驚くなかれ、今まさに体験していること(-ing)さえもだ。1秒後にはそれは過ぎている。だから、自分が「辛い」とか、「苦しい」と思っている体験は、今は過ぎ去ってしまって、もうどこにもない体験に対して、そういう「意味」を、自分が与え続けているに過ぎないのだよ。解るかな? 

 

いつも言っているように、体験自体が良いとか悪いとかではなく、その時の判断、意味づけが、あなたというパーソナリティを日々創造しているのだよ。不謹慎だと思うかもしれないが、あなたが大切に思っていた人の死すらも、笑い飛ばすことだって出来るんだよ。それが解ったなら、いつまでも魔羅(マーラ)の手先のテロリストとなっているよりも、その体験を使って天使のメッセンジャーとなってみてはどうかな?

 

最後に、あなたに大切なことを言おうね。これは究極の一本だ。

 

すべてを楽しみなさい。

苦しい体験、辛い体験さえも。

 

あなたが笑って話せるようになった時、ジョークにして話せるようになった時、あなたはその「執着」をすでに手離している。

 

*魔羅(mara):修行の邪魔をする悪魔

この世の生きにくさ -----「波動」敏感者の生きる道

私には、特別な霊能といったものは殆どありません。でも一つだけ、少々困ったちゃんの、特異な面があります。それは、いわゆる「波動」にとても敏感だということ。「波動(vibration)」が何かということについては、またいつか詳しくお話ししようと思っていますが、人、人の言動、表現物、場所、といったものが発する振動の状態が判るのです。

 

これは多かれ少なかれ、誰もが持っている知覚能力なのですが、普通、人はそれを意識せずに暮らしているために、大多数の人は「そんなものはない」と思い込んでいます。それはある意味、生きやすいいことではあります。なぜかと言いますと、「波動」に敏感であることは、日々、全身に鋭い矢先を受けながら、それでもなお耐えて生きるようなものだからです。

 

以前、アール・ブリュット(生の芸術)のドキュメンタリーを観ていた時に、一人の絵描きさんの、ある行動に目が止まりました。いつものように彼女が散歩を楽しんでいると、数十メートル先の神社から、急にドンドコドンドコと太鼓を叩く祭のお囃子の音が流れて来たのです。その途端、彼女はめまいを起こしてその場にうずくまりました。「あ、それ解る」と私は思いました。

 

ドキュメンタリーの監督が「大丈夫ですか?」と声を掛けました。彼はその時、彼女が抱える精神的障害の一端をそこに見たと思ったことでしょう。確かに、彼女は太鼓の音に反応して気持ちが悪くなった。しかし彼女が知覚したものは、太鼓の響きに載せて一緒にやって来る、その場に集まる人々の想念なのです。彼女は障害者とされていましたが、私には、絵で宇宙を表現するメッセンジャーであることがすぐに分かりました。

 

私も、子どもの頃から、あらゆる儀式的なことや、集団的行動が大の苦手でした。お祭りというのはその最たるものです。でも「お祭り」が嫌いとはとても言えません。みんなが楽しみにしているもの、というのが常識ですから。それを他人に言えば、偏屈、協調性のない奴、と言われてしまいます。事実、いろんな面でつんぼ桟敷に置かれ、すっかり孤独な少年となり、中学を卒業して家を出るまで夜尿症で苦しみました。

 

今では、なぜそうだったのかということを説明できますし、自分が儀式や集団的行動が嫌いな理由も分かったのですが、子ども時分にはもちろんそんなことは分かりません。私がこのブログを始めたのは、一つには、同じような悩みを抱えている人がいるのではないかと思ったからです。この絵描きさんにも言ってあげたかったです。あなたは障害者ではないんですよ。メッセンジャーなんですよと。

 

人の世は、乱暴で粗雑な「波動」で満ち溢れています。敏感な人には、これが非常に辛い。チクチクと体を突き刺し、ハートをキューッと締め付ける。そこで反射的に避けるということになるのですが、世間的には、この行動が、対人恐怖や、不登校、引きこもり、鬱、自信喪失、精神障害といったものとして映るのです。すると、周囲の人々や社会はどう対処して来るでしょうか?

 

例外なく、社会に押し戻そうとします。中にはそれを「支援」と称して。本人は、乱暴で粗雑な「波動」で溢れた世界がたまらなくイヤだから、それを避けているのに、そこに戻れと、それのみが正当な「社会復帰」であると、何の疑いもなく同調圧力を掛けて来るのです。しかし、こうは考えられませんか? 学校の方がおかしいんだと。会社の方がおかしいんだと。社会の方がおかしいんだと。

 

しかし、それが上手に言えなくて、どれだけの人が悩み、社会の底辺に沈み、活躍の機会を失っていることか。そこに、「波動」に敏感な人たちの孤独感があります。けれども、そういう人たちにも思い直して欲しいのです。あなたの役割がちゃんとあるということを。あなたが地上に生まれたのは、やはりこの世界で生きる目的や理由があるわけで、単に逃走や隠遁だけしていたのでは「魂」の成長がありません。

 

「波動」に敏感であることは苦しい。この世を生きにくい。でもその特質は、ある種の「目利き」だということです。それは、一流の料理人だけが持つ舌のような。ですから、その特質を善用なさい。これまでは、ただ生きにくさを感じていただけであったものから、今後は上手に遣り繰りしながら生きる術を身につけて欲しい。そして、「宇宙の法則」や「因の世界」や「波動の科学」のことをよく知って、あなたにも光の道を歩んでいただきたいのです。

 

そこで、そういうあなたに先ずお伝えしたいのは、社会が提示する価値観に自分を合わせる必要など微塵もないということです。あなたはあなただし、あなたのままでよいのです。何より、あなたは「自由」です。自分の身の周りに起きる事のすべての意思決定権はあなたが握っている。そこに誰も介入することは出来ません。たとえ誰かの強い影響下にあったとしても、それを受容することを決定するのは、結局はあなたですから。

 

いま言ったことを先ず理解してください。

そして、納得がいったあなたには、次の問いかけをしましょう。

人生は、果たして生きるにあたいするものなのか?

さて、あなたは、何と答えますか?

 

社会が提示する価値観に「自分を合わせない」といったん決めると、「自由」になれる一方で、今度は別の生きにくさが生じます。周囲との摩擦や軋轢です。しかし、ここで負けてしまってはダメです。

 

職場の昼休みに、一つのテーブルでお喋りに花が咲いている。そのうち、その場にいない誰かさんの悪口が出て、それで話題が一気に盛り上がる。あなたはそれを見て「イヤだなぁ」と思う。さてどうする? それをたしなめたり、その場を離れたりしたら、今度は自分が悪口のネタにされるかも知れない。しかし、だとしても、あなたの感覚が「イヤだなぁ」と思うのなら、あなたは何らかの拒絶の態度をそこで示すべきです。

 

それが、自分の「自由」を生きるということだから。

あなたが、あなたのままの生き方を創造するということだから。

だから、「自由」に生きるためには、少しばかりの勇気が必要になってくる。

それは、ほんのちょっとの勇気に過ぎないのだけれど、「宇宙の法則」を知らない者にとっては、とてつもない勇気に感じられるだろうね。

でも、いいかい。自分の生き方を決めるということは、宇宙に「あなたという存在を創る」ということと同義なんだよ。そこを、よく考えてごらん。

 

あなた方は、肉体を持ち、物質世界に暮らしているので、みな「物質世界の法則」の制約を受けます。しかしそれは、ごく狭い領域での出来事であって、背後にはもっともっと大きな世界が控えているのです。その大きな世界を支配する法則が「宇宙の法則」です。ですから、「物質世界の法則」など、「宇宙の法則」という大海から見れば、波間に浮かぶ小さな舟のようなもの。

 

ところが人間は、肉体の自分こそが自分であり、心臓が拍動している間が生きていることと信じる一方で、「宇宙の法則」については、ほとんど何も知りません。でもね、霊的世界から地上を見ると、あなた方の暮らしは、まさに生き霊が蠢く世界なのですよ。身体という衣をまとった生き霊が、地球の上を右往左往しているだけのこと。そこにも、しっかりと「宇宙の法則」が生きているのです。

 

そこで、似た者同士は引きつけ合うという「波動の法則」の一端が地上でも見られるのです。ただ、地上と霊界とで決定的に違うところは、地上においては、似ていない者同士にも出会いがあるということ。それが、仏教で言う「怨憎会苦」を引き起こすわけです。これに対して霊界は、純然たる階層世界ですから、「波動」の高さが違う「魂」は同じ階層の世界では出会えないのです。

 

*怨憎会苦:怨んだり憎んだりする人とも出会わなければならない苦しみ。

 

例を挙げましょう。地上では、詐欺師が善良な人から金品を巻きあげます。嘘つきの政治家が正直な国民を騙します。欲得に駆られた人が誠実な人を裏切ります。粗暴な人が穏やかな人を苦しめます。ところが、霊界ではそうはいきません。詐欺師は詐欺師同士が集まって一つの世界を作り、互いに騙しっこをし、嘘つきは嘘つき同士が集まって嘘をつき合い、共にそれを喜びとして生きているのです。

 

そして、「こんなことをしていても、なんだか空しいなぁ」と本人が悟るまで、それが地球時間で何百年も何千年も続くのです。何しろ想念だけの世界ですから、何かを奪ったつもりになっても、実体物がありません。誰かをやっつけたつもりになっても、相手はピンピンしていて死なないのです。そこで、奪いたい、騙したい、やっつけたいという気持ちだけが、延々と続くことになるのです。

 

ある人は、その世界を称して「地獄」と呼ぶわけですが、何度も言って来たように、宇宙には罪も罰もありません。それは、その人の「信念」が形づくる世界。同じ「信念」を持つ人たち同士が集まって、そういう世界を創り上げているのです。ですから、「地獄」と言っても、本人が好きで行ったのであって、その人たちにとってはまるで天国のようなものなのです。

 

その姿を、どうぞ想像して見てください。地上世界と、何ら変わりがないとは思いませんか。この世にも、嘘をついたり、騙したり、奪ったり、脅したり、偉そうにしたり、暴力を振るったり、ということが大好きな人がいっぱいいますね。そして、少しも反省がない。そういう「魂」は、地上での生を終えてあの世へ行っても、本人の望み通りにまたそれを続けるのです。あらステキ! なんてね。

 

「魂」にとって、地上生活がチャンスだと言うのは、地上では実体物や手応えがあるからです。すると、想念だけの世界とは違って「あ、悪いことしたな」「悲しい目に合わせちゃったな」ということに気づきやすいわけですね。そこで初めて、霊的な成長が起きる。ですから、地上生活で反省の起きない人というのは、あの世に行っても、改心するというのは望み薄です。

 

総じて言えば、地上においては、「波動」の低い「魂」の多くが、高い人からエネルギーを奪いとることによって生きているのです。ではどうして、地上には霊界と同じ境界がないのでしょうね? まさにそれが、「波動」が読めないということと関わりあってくるのです。解る人には解ります。けれども、解らないからこそ境界を超えた接触があり、それが霊的学習のチャンスにもなっているということです。

 

だからこそ、「魂」はわざわざ地上に生まれ出る。霊界にいたのでは決して経験できない、地上でしか味わえない体験をするために。人は何度も輪廻転生を繰り返すのです。「波動」に敏感な人は、このメカニズムをよく頭に入れてください。その上で、問いかけをもう一度思い出してみてください。人生は、果たして生きるにあたいするものなのか?

 

地上での一つの生を終えて、霊界にまで引き継いでいけるものは、あなたが為した体験と、それへの意味づけだけなんですよ。それなのに、どれほど多くの人が、奪い合う人生、騙し合う人生、攻撃し合う人生、馬鹿にし合う人生、自慢し合う人生を歩んでいることか。

 

その人たちは「波動」が読めません。読めないからこそ、そういったことが出来るのです。自分たちが、どれほど低い「波動」を出したり、受け取ったりしているかを知らないのです。お互いに低め合っている友なのです(本人たちはそう思っていませんが‥‥)。まさにそれは、地上に出現した「地獄」そのもの。

 

しかし、敏感なあなたは、そうした「波動」にイヤなものを感じます。「もう止してくれ」と思う、「ウンザリだ」とも思う。さてそこで、あなたはどうしたらいいのでしょうか?

 

第一には、巻き込まれないようにすることです。最初に言ったように「勇気」を持ってください。共感するにせよ、反撃するにせよ、低い「波動」を出すものにちょっとでも興味を抱いた途端、あなたの「波動」はそれと同調して一気に下がります。その落差分のエネルギーを「よし、いただきィ」と相手側が奪い取っていくのです。

 

とても腹立たしいことがあったとしましょう。しかし、同じ土俵に乗ってはいけません。賢いと言われている人たちが、メディアで互いに罵り合っているのを、あなたもよく目にするでしょう。罵り合いは、霊界における一つの境界内の出来事を、地上でも同じようにやっているだけなのです。真に賢い人は反論をしません(自論や真実を述べることはあっても)。エネルギーのムダ遣いだということを知っていますから。

 

最初からイヤだなと解っているものとは、出来るだけ接触しないことです。しかし、接触をどうしても避けられないという場合には、自分の中の「イヤだなぁ」という気持ちを出来るだけ縮小させて(他の楽しいと思える事柄に意識を移せばよい)、来たものは受け取らずに、自分を透明にして、風のように後ろに流してください。

 

さて、これまで言ったことは、聞きようによっては、事なかれ主義に聞こえるでしょう。しかし、そうではありません。ここからが、「波動」に敏感なあなたにお願いしたい、ちょっとした「勇気」に続く、第二の意識転換点です。人類は、今までずっとこれが出来なかったのですよ。こんな何でもないことがね。さあ、今がラストチャンス。

 

目には目を歯には歯を、とやっている限り、あなた方人類の霊性は向上しません。戦争を終結させるためには新たな戦争が必要である、と固く信じ込んでいるのがあなた方です。少なくとも、世界の指導者と言われる人たちの多くが、こぞってそう主張しています。そして、どんな攻撃も、防禦を口実にして行われているということに目を向けてください。そのうえで、あなた方に聞きたい。それで平和は実現されたのかと。

 

あなたが「波動」に敏感な体質に生まれついたのにはワケがあります。あなたにしか出来ないことをやるのです。世の中は、確かに、乱暴で粗雑な「波動」で溢れかえっています。でも、それらに打ちひしがれるために、あなたの敏感な能力があるのではありません。あなたは「波動」というものが解るのだから、暴力には優しさで、怒りには笑顔で、奪うには分け与えるで、悲惨さには慈愛で対抗して欲しいのです。

 

あなたなら出来る。いや、そういう生き方しか、もはやあなたには出来ない。あなたの敏感さを活かすには、これしかない。第二の視点は、完全なる愛の奉仕者となって生きることです。しかし、そうしたところで、人々からは理解されないでしょう。でも、それでもやるのです。どんなに馬鹿にされようが、傷つけられようが、完全なる奉仕者として生きるのです。そして、それが喜びと感じられた時、あなたは本物になる!

 

自分は何のために生まれて来たのか?

人生は、生きるにあたいするのか?

あの世に持っていけるものは(いや、持って生かされるものは)、自分が為した体験と、そこで得た解釈だけである。

よいかな。これですぞ。

だから、一日一日を、倦まず弛まず励むのだ。

Q.人は「普通」じゃなければいけないの?

Q.職場で、上司から「あなたは、普通じゃない」と言われて、叱責されました。普通? 確かに、自分にはひとと変わった面があると思います。しかしそれは「個性」なのではないですか? 職場でそれを出すのは、いけないことなのでしょうか? そもそも「普通」とはどういうことなのでしょう? 人は「普通」でなければいけないのでしょうか?

 

A.その時の状況がどうで、どういう言われ方をしたのかが把握できませんので、あくまで一般論でしか語れません。しかし逆に、一般論で考えた方が、この問題の本質により迫れると思い、お返事を差し上げます。

 

「普通」という言葉は、普通(←ホラこんな風に)、曖昧に使っていますし、私もよく使います。大方の意味は、大多数の人々が合意している意識や行動のことを差しています。ご相談内容には、この「普通」概念の曖昧さと、そのような「普通」に対して、自分を合わせるべきか否かという課題の、両方が含まれています。

 

混乱が生じるのは、前者の曖昧さと、後者の課題とがゴッチャになってしまっているためです。早い話が、後者の課題に、前者の定義の曖昧さが被ってしまうのですね。ですから、先ずこれは分けて考えることが必要です。

 

私の近年の目標は、「普通のことが普通に出来るようになる」だったのですが、その意味は、毎日の掃除や洗濯をしたり、家の前の道を掃いたり、食事後にお茶碗を洗ったり、散歩時にゴミ拾いをしたり、高速道路を運転したりすることでした。自分には、そういう普通のことが(つまり何でもないことが)、普通に(この場合は、イヤだなぁと思わずに)することが、出来なかったのです。

 

この課題に意識して取り組むようになって、お陰さまで、だいぶ自分を変えることが出来ました。ひとによっては、「還暦過ぎて、馬鹿げた目標だなぁ」と思われるかも知れませんが、自分にとっては、それが「今を生きる」上での大きな課題でした。

 

結局、「行動」というものは、その人の今の「意識」の表現活動ですから、「行動」が目に見えて変わったということは、その人の「意識」が変わったというバロメータになっているわけです。我が家がゴミ屋敷だった頃は、私の心も、アラヤ識ならぬゴミヤ識でした。

 

さて、いま上げた「普通」は、私が勝手に「普通」だと思っている事柄に過ぎません。これに一般的とか、めずらしくない、といった定義を被せたとしたら、果たして「普通」であるかどうか? 掃除洗濯や食後の後片づけなどは、多くの人が苦もなく出来るでしょうが、まったく出来ないというかやらない人もいます。中には、「そんなものは女の仕事だ」と思っている男性だっている。

 

家の前の道を掃くというのは、京都では今も当たり前の習慣のようですが、東京ではもう見かけませんね。道路はゴミだらけです。散歩をするときには、出来るだけゴミを拾いながら歩いているのですが、拾っても拾っても、同じところにまたゴミが捨てられています。おそらく同じ人が捨てているのでしょう。その人にとっては、そうすることが「普通」なのですね。

 

このように「普通」の定義は、元来が、極めて曖昧模糊としたものです。けれども、月木は生ゴミを出す日だとか、赤信号になったら停止線でストップするといった、ほとんど総意とも言える「普通」も中にはある。これは、みんながそれを守った方が、社会生活が円滑に機能するということを、大多数の人が経験的に知っていて合意が形成されているからです。

 

では、次のようなケースはどうでしょうか? 義務教育を受けるために、小中学校へ通うことは「普通」だ。確かに、殆どの子どもたちが学校に行っていますし、大多数ということを基準に考えたら、それが「普通」ということになります。でもそうすると、行きたくない、行かない、という子どもは「普通」じゃないということにされてしまいます。それでよいのでしょうか?

 

事実、不登校の子どもを抱え、悩んでいる親御さんがたくさんいらっしゃいます。でも、「ロクでもない教師ばかりの、ロクでもない学校になど、行きたくない」と思っている子どもだっているのです。その子にとっては、世間的には「不登校」のレッテルが貼られていたとしても、実は「不登校」ではなく、「非登校」の意志を示した行動なのかも知れませんよ。

 

つまり「普通」など、定義が曖昧であるばかりでなく、見る立場によっても違って来るのです。このことは、相談者の事例のような職場でも言えることです。ある職場では、その仕事が、合理的また円滑に、かつ気持ちよく進められるよう手順やルールが設定されます。その中には、「月木は生ゴミの日」のようなものもあれば、そうでないグレーゾーンのものも含まれている可能性があります。

 

一時期、私はパチンコ店の清掃のアルバイトをしました。閉店後の11時から入って深夜に黙々と作業をします。5カ月ほど経った頃、私はウェスの手を滑らせて、陶製の灰皿を床に落とし割ってしまいました。ちょうど同時期にトイレの洗剤入れの破損(これは別の人のミス)などが重なったこともあって、数日後、清掃を請け負っている会社から役員がやって来ました。そして終礼の際に、「たかが灰皿だと思うなよ!」と言ったのです。

 

この価値観や「普通」概念は、私には合いませんでした。たかが灰皿です。アホくさ〜と思いました。それで、その後すぐにそこを辞めました。その会社の人々にとっては、アルバイトの怪我を心配するよりも、灰皿の破損の方が重大な問題なのです。その信念のためには、アルバイトのオッサンひとりを怒鳴りつけても一向に構わない。これが、彼らの「普通」です。

 

こういう「普通」に合わせる必要があるのでしょうか? ブラック企業、ブラック組織が掲げる「普通」に、「こうじゃなきゃいけないんだ」といちいち適応していたら、気がつかないうちに奴隷にさせられてしまうし、自分もブラックに染まってしまいます。ですから、会社や上司が言う「普通」に対しては、常に疑ってみる姿勢が大事です。

 

さてここからが、本質に迫る問い掛けです。「あなたは、普通じゃない」と言われた際に、そこにあなたの人格を否定するような、また侮蔑するようなニュアンスが含まれていたかどうかです。おそらく含まれていたのでしょう。ですから、あなたも反発心を持ったのでしょう。しかしうまく言い返せなかった。そこで、冒頭のような相談になったのでしょう。

 

あなたの中には、「普通じゃなくて、一体どこが悪い?」という思いがある反面、「普通」というスケールをほっぺたにギュッと押し当てられて、「あんたはね、規格外なんだよ」という評価を下されたことで、「えっ、そうなの?」という揺らぎもあるのです。その意味では、あなたは、相手が提示した土俵(スケール)の上に乗っかってしまったわけですね。そんなものは、無視してしまえばよかったのに‥‥。

 

あなたの本質が、個別化した「魂」であるということは、何度も語って来ましたね。そして、なぜ個別化したのかという理由も、最近のメッセージで示しました。そうです、個別の体験をするためです。いいですか、もう一度よく考えてみてください。「魂」が個別化した以上、「個性」が生じるのは当然なのですよ。このことは、誰も否定できません。

 

ところがこの時、みんなそれぞれに「個性」があることを、素晴らしいと思う人と、苦々しく思う人とがいるのです。通常はこの両方の意識を、ほとんどの人が同時に持っていて、中間を揺れ動いています。その典型例は、子を持つ親で、我が子の個性の芽生えを嬉しく思う反面、親の言うことをちっとも聞かないと言っては、始終グチをこぼしているではありませんか。

 

なぜ「個性」を苦々しく思うかと言えば、自分の思い通りにすることが難しいからです。周囲の人々を思い通りに動かしたい、自分の支配下に置きたい、コントロールしたい、と強く願う人にとっては、「個性」など、人間の目障りな資質です。これは、歪んだ「oneness」の願望とも言えるでしょう。結局この二律背反も、「融合 / 分離」という「魂」の根源的存在理由より発しているのです。

 

ところで、この相談者は、自分が「普通じゃない」と言われたことに傷ついているわけですが、実は逆の人の方がずっと多いんですよ。それは、「自分が特別ではない」という思いです。自分には特別な才能など何もない。周囲を唸らせるような光る個性がない。平凡だし、優れた点もないし、何をしていいかも分からない。そう悩んでいる人の方が、圧倒的に多いのです。

 

でもここで、この両極端で、ともに悩んでいる人たちに、ハッキリ宣言しておきます。「特別」でない人など、この世に誰ひとりいません。全員が Special なのですよ。あなたも、そしてあなたも。だからこそ、あなたという個別化した「魂」が、この宇宙に存在しているのです。そのように創られたのですよ、あなたは。先ずそのことに、全幅の信頼を置いてください。しかしここで、同時に、錯覚しないようにしなければいけません。

 

全員が「特別」な存在である。だが、そのことは少しも特別ではない

 

解りますか? 全員が「特別」な存在であるということが、宇宙では「普通」のことなのですよ。それは、自然を見ればすぐに解るはずです。山茶花は寒椿に勝ろうとしているのでしょうか? 寒椿は、山茶花よりも、俺の方がチト偉いんだぜと主張しているのでしょうか? どちらも、あらかじめその種子の中に織り込まれていた「自分」を、この物理世界でただ表現しているだけです。

 

そして、同じ寒椿どうしでも、また山茶花どうしでも、枝ぶりや花の付き方は1本1本ぜんぶ違う。いいですか、優があって、劣があるのじゃないのですよ。全員が Special な存在なのですよ。その Special の現れ方が、ちょっとずつ全員違うというだけです。

 

優劣のスケールなど、他者を支配したい人たちが持ち込んだ一つのツールに過ぎません。優劣を認めたら、たちまちにしてその奴隷にされてしまいます。このツールを、満遍なく信じ込まされたために、人類は、本来しなくてもいい苦労を、今なお際限なく続けているのです。でも、もうそろそろ目覚める時です。

 

全員が Special な存在としてある。ああ、それは、なんという圧倒的な愛なのでしょうか。このことを、今ここで、胸に深く刻み込んでください。その限りない愛を受け取ってください。いったい何者が、あなたという存在を創ったのでしょうか? あなたと、このあなたと、あのあなた。そこに差別や優劣があろうはずはありません。

 

全員が「特別」な存在である。しかしそのことは、何も特別ではない。これが、あなたの胸にしっかりと刻まれた時、人間関係に対するあなたの見方は、きっと一変するでしょう。これまでの悩みがまるで嘘のように氷解し、あなた自身が、全き愛の人に生まれ変わっているに違いありません。

 

友よ、そこにこそ、真実のあなたがいるのですよ。

孤独を楽しむ

「孤独」と「独りぼっち」は違います。この二つを混同しないようにしましょう。辞書で「孤独」を引くと、〈独りぼっちでさびしいさま〉と出ていたりして、世間一般でも同じように捉えられていますが、この二つは、次元を異にするものです。この違いを、しっかり認識することが大切です。

 

「孤独」というのは、「孤として独立した存在」という意味であり、人間存在論の、根元的あり方を示したものです。それは単に「状態」を示した言葉であって「孤独」それ自体は善でも悪でもありません。また、根源的あり方ですから、誰もこれは否定できません。否定しようとしても無意味ですし、不可能です。よって、「孤独」から逃れるということは、人間には出来ません。

 

けれども、よ〜く考えてみてください。「孤独」であるからこそ、人間には「個性」というものが生じているのです。「孤として独立した存在」でなければ、「個性」は生じません。つまり「孤独」とは、「個性」を保証する条件なのです。なんて素晴らしいギフトだとは思いませんか。「孤独」な存在だからこそ、あなたは、「自分」という認識に立てるのですよ。

 

でもこれに「感」を付けて、「孤独感」ということになると意味は違ってくる。「孤独」は存在論ですが、「孤独感」は感情を示した言葉です。そこで、「独りぼっち」にちょっと近くなる。それでも両者は同じではありません。「孤独感」というのは、あくまで「孤独」な存在ということへの「感じ方」。その中には、「独りぼっち」という感情もあるかも知れませんが、それが決して全てではありません。

 

さて、「孤独感」と言ったときに、あなたはどのような情景を思い浮かべるでしょうか? 頭を垂れ、沈痛な表情で膝を抱えてうずくまっている人でしょうか? あるいは、気にかけてくれる人が誰もおらず、閉め切った部屋に一人さびしく暮らしている人でしょうか? 確かに、それらも「孤独感」の一断面です。そして、そのまま息を引き取ってしまうことを、世間では「孤独死」と呼ぶ!

 

でも、ちょっと待っていただきたい。このネーミングはすご〜〜〜く変です。「孤独」というのは、人間存在論における根元的あり方ですから、死ぬときは、全員が最期は「孤独死」です。たとえ心中したとしても、相手の死を、自分が死ぬことは出来ません。自分の死は、自分しか味わうことは出来ないのです。ですから、全員が「孤独死」します。これは疑いようのないセオリーです。

 

世間が「孤独死」という言葉に込めたものを、もしも、より適切に言うとしたら、それは「独りぼっち死」です。「孤独死」と「独りぼっち死」とはまるで違う。この区別はとても重要です。別に言葉遊びをしているわけではありません。「孤独」と「独りぼっち」とは全然違うもの、次元を異にするものなのです。

 

山の頂きに登って、雲間からパーッと朝日が昇る瞬間を見る。あるいは、夕凪の向こうに赤々と染まった夕陽がゆっくりと落ちるの見る。それらを前にじっと佇むシーンを想像してみてください。それを、たった一人で眺める時と、恋人と肩を並べて二人で眺める時と、気の合う仲間と大勢で眺める時とでは、そこで感じ取るものがみな違って来るのではありませんか?

 

心が迷いに迷った時、「ひとり旅」に出掛けるという人は多いです。でもなぜ「ひとり旅」なのでしょう? それは「孤独」と向き合いたいからです。「孤独」になりたくて人はそうする。あえて「孤独」になることを通じて、また「未知」のものに触れることを通じて、己の生き方を見つめ直したい。だから、人は節目節目で「ひとり旅」に出る。いや、人生そのものが、ずっと「ひとり旅」なのだ。

 

ムシャクシャした気分の時に、思わずこう言いたくはなりませんか? 「私のことは、ほっといてちょうだい!」。また、手のつけられないほど荒れた状態の人に対しては、みんなこう言うでしょう。「しばらく、そっとしておきましょうよ」。どちらも、「孤独」が、最高の「癒し」になることを知っているのです。

 

他の人の人生を、自分が代わって生きることは出来ないのです。このことが解れば、「孤独」に対する見方もきっと変わって来るはずです。じっくりと本を読む時、何かの思索に耽る時、好きな音楽を心の底から楽しむ時、絵を描いたり物を作ったり創作活動に打ち込む時、目標を設定してひたすら練習に励む時、人はみな「孤独」です。「孤独」としっかり向き合っている。

 

お解りですか? 「孤独」こそが、その人を、成長させるための入り口なのですよ。人は、「孤独」を通じて、その先にある、「実は孤独というものはない世界」を見るのです。ですから、孤独な画家、孤独な作家、孤独な音楽家、孤独なアスリート、孤独な科学者、孤独な経営者、孤独な冒険者は、みな壮大な「孤独というものはない世界」を表現して来たのです。

 

「孤独」とは、人間存在の根元的あり方です。ではなぜ人は「孤独」となったのでしょうか? それは「普遍的な生命(大霊)」を知るため。「普遍的な生命」を知るために、あえて「魂」は個別化した。これが、Singular Outflow of Universal Life、つまり「SOUL」です。あなたという「魂」は、あなたという「孤独」を通して、「全体」を経験する。その行動の軌跡が人生であり、誕生から人が死と呼ぶ瞬間までのたゆまぬ変化なのです。

 

もちろん「魂」に死はありません。「魂」に死があるということは、「普遍的な生命」に死があるということになってしまいますから。「死」という言葉こそ「死語」にしなければならない。ですから、旅はその後も続きます。あなたは、この世でいう誕生と死を通じて、行ったり来たりを続けながら、「全体」を知るための「ひとり旅」を永遠に続けていくのです。

 

「孤独」を怖れてはなりません。「孤独」を敵に回すのではなく味方につけるのです。「孤独」を避ける旅は、実りなき旅です。ご自分の「孤独」にしっかりと向き合い、「孤独感」をこの上なく楽しいものに変えなさい。幼い頃、自然とやっていた「一人遊び」の感覚を、再び思い出すのです。それが、今世での、あなたの飛躍的な成長を保証します。

 

「独りぼっち」というのは、群れていなければさびしいと思う感情です。そのような思いになることも、時にはあるでしょう。でも、いつもいつも「群れていなければさびしい」と思い、そのように行動していたとしたら、あなたは自分を見失い、ますます「独りぼっち」感を強めていくことになるでしょう。なぜなら、あなたが「何者」であるかは、あなたの行動が規定することだからです。

 

現代という社会は、「孤独」に向き合うことをなかなか許してくれません。それどころか、「孤独」であることをまるで「悪」であるかのように決めつけます。いつも誰かと繋がり、群れている状態が推奨され、「支援」と称して、これをサポートするツールやプログラムやアプリやロボットが山ほど登場しています。これらに頼り切りになることによって、逆に、現代人はアイデンティティ・クライシスに陥っている。

 

体験とは何でしょうか? 自己の行動に対する反作用です。解りやすく言えば、行動=体験です。その行動が、いつもいつも何かのサポートを通じてしか得られないとなれば、そこで得る体験は次第に画一化してい ってしまいます。それでは、せっかく「孤独」に生まれた甲斐がありません。巨大システムに呑み込まれて、洗脳されて、奴隷にされて、ロボットになるだけです。

 

だから、現代人よ。もっと「孤独」になりなさい。「孤独」を見つめなさい。自分の「孤独」を誇りなさい。そして「孤独」を楽しみなさい。「孤独」を楽しめる人は、他者との出会いや、仲間といられる瞬間に、ますます大きな喜びや感謝が持てるようになるでしょう。なぜなら、その奥に、「実は孤独というものはない世界」を見出すから。あなたもそれを目指して、今日一日を、元気で、楽しく過ごしてください。

 

いつも、あなたとともに、わたしはある。

支援(Support)ということについて

困っている人を助けることは良いことです。人間がみんな、そのような優しい心根を持って生き、行動していたとしたら、どれほど素晴らしい社会が出現しているでしょうか? しかし残念ながら、現実はそのようにはなっていません。

 

これは地球人類が、霊的にまだまだ未熟なためです。学校で言えば、小学校入学のレベルにも至っていません。助けるよりはむしろ虐げる、平等よりは優劣、与えるよりは奪う、融和よりは闘争、正直よりは欺瞞を好む人間が、社会のリーダーとなって、民衆をその価値観で染め上げ、引率しています。彼らがリーダーになれるのは、それを支える大衆に、結局は同じ心根を持つ人が多いからです。

 

でも心ある人たちは、内心それはおかしいと感じています。ある意味、それは当然です。なぜなら、その人の「本質」は、虐げるよりは助ける、優劣よりは平等、奪うよりは与える、闘争よりは融和、欺瞞よりは正直の方が、人は幸せに生きられるということを知っているからです。この〈心ある人たち〉というのは、自己の「魂」が発する声に素直な人たちなのです。

 

けれども、「魂」の声に素直な人たちにとっては、今は非常に生きにくい時代です。ちょっとニュースを見れば、暴力事件や紛争やテロで人が何人殺されたといった話ばかり。一方で、株価がどうしたこうした、ビットコインが史上最高値をつけたとかと言って人々を儲け話に誘う。イヤな世の中だなぁと思いながらも、多勢に無勢で世の流れには逆らえない。こんな状況に、きっと胸を痛めておられることでしょう。

 

先日、ある人からこんな相談を受けました。その方の職場近くの路上に、ホームレスの男性がいたのだそうです。彼女は気の毒に思って、最初、食べ物をその人に渡してあげていた。そのうちに話をするようになったというのですが、ある時、男性から「500円くれないか?」と言われて、それで急に怖くなったというのです。さて、あなたがその彼女だったらどうしますか?

 

そんなつもりで始めたことじゃないのに‥‥。自分はただ困っていると思って、ちょっと食べ物をあげただけなのに‥‥。一人ぼっちじゃないよ、と言いたくてお話しただけなのに。どうして今、彼はそんなことを言って来るのだろう? 500円。うーん、どうしよう。あげるべきなのだろうか? でもここでお金をあげたら、これから会うたびに無心されるかも知れない。もしかして、最初は500円だったのが、次には1000円になるかも知れない。そして段々と私の生活に入り込んで来るかも? あーイヤだ、自分は何を怖れているんだろう。500円が惜しいのか? いや、そうじゃない。やっぱり彼を、本当のところでは受け入れていないんだ。自分の愛が足りない、ということか? 最初の思いが、単なる偽善者に過ぎない、自己満足に過ぎなかったということを、いま突き付けられているのだろうか?

 

きっと、こんな思いが頭の中を駆け巡るのではないでしょうか? 私にも、若い頃に同じような経験があります。一緒に切磋琢磨して来た友人の一人が、鬱になって仕事が出来なくなってしまった。無収入になった彼を憐れんで、私は彼に10万円をあげました。当時、10万円もあれば1箇月生活できたのです。倹約すれば2箇月は持ちます。その間に、打開策を見つけられるだろうと思ったのです。

 

ところが10日ほど経った頃、当時住んでいたアパートに彼からのハガキが届きました。そこには「お金が無くなりました。」と、一言だけ書かれてありました。これにはびっくりすると同時に、私は腹を立てました。私の3倍のスピードでお金を使っている! いったいどういうことだ。それ以来、彼とは一度も会っていません。今でも時々、どうしているかなぁと思うことがあります。

 

もう30年も前の話で、当時は、私も今のような智恵を持ってはいませんでした。それで、自分のしたことに、やはり激しく自己嫌悪し、悶々とした日々をしばらく送りました。

今の私なら、昔の自分にどう言ってあげるでしょうか? また彼にはどうしてあげるでしょうか?

 

これから書くことは、世間的な、また処世術的な回答にはならないと思います。ですが、この『気づきの啓示板』の読者なら、きっと解ってくださるだろうと思います。

 

近年、「支援(Support)」という言葉が一般に広く浸透し、そうした行為、行動、考え方が当たり前のような感覚になりつつあります。冒頭にも書いたように、困っている人を助けてあげることは、基本的には良いことです。でも、その人が、何に困っているのか、その困っている部分を何をもって助けてあげるのか、を見極めることが非常に大切です。

 

お腹が空いていたら、おにぎりを作って食べて貰えばいいですし、寝るところがなかったら、部屋の一部を提供して布団を使って貰えばいい。ところが「お金」となると、何か気分がザワザワするのは、「お金」というものがいろんなサービスに代替できてしまうからです。その結果、ひもじいのだろうと渡してあげた500円を、お酒を買って飲んでしまったということが起こり得る。

 

*逆に、災害発生直後には、何にでも代替可能な「お金」がいちばん良くて、毛布や古着ばっかり送って来られても困る、という話もあります。

 

このズレは、本当に困っていることの原因が見抜けていないことと、対処の仕方が適切でないことの両方が合わさって生じます。この場合、「500円くれないか?」と言った人は、ひもじかったのではなく、実はお酒を飲みたかったのです。でもそれだって、違うかも知れません。本当のところは、孤独感に打ちひしがれていて、それをお酒で紛らわそうとしたのかも知れません。だとすれば、お金もお酒も何の解決にもなりません。

 

「支援(Support)」という言葉の、今の一般化や常識化は、どうも、この視点がスッポリ抜けているような気がしてなりません。現代においては、「支援」というものが何か制度化、イベント化してしまって、却って、本当に困っていることは何か、というものを見抜く目を失わせているのではないでしょうか? 沈鬱な表情に沈み切った人を助けるのに必要なことは、ただ優しく抱擁してあげることだけなのかも知れません。

 

若い頃の私に、そしてこの500円騒動の相談者に、共に欠けていた視点は、「課題の区別」ということです。私も相談者も、「どうしたらいいのか?」という対処方法にばかり目を向ける余り、相手の課題とは関係ない課題まで自分の中に創り出し、それと闘う羽目に陥っている。そのことに気づかないのです。500円をあげるべきか、あげざるべきか。そのことで、果たして自分が苦しむ必要があったのか? いったいそれは、誰の課題なのか?

 

もちろん、「あなたの現実はあなたが創っている」とこれまで言って来ましたし、「何事にも偶然はない」とも言って来ました。だとすれば、そういう状況に遭遇したのは、何か自分にとっての意味があるはずだ、と生真面目なあなたは思うでしょう。それは、その通りです。ですが、ここからが問題です。「真の援助とは何か?」ということを、あなたは考えなくてはなりません。

 

ここで、世間的な常識からは大きくズレます。宇宙でいう「真の援助」とは、たった一つ。相手の「魂」が、今この瞬間(be here now)の自己の課題に気づいて、成長することを促すことだけなのです。そう聞いて、「なんだ、また『魂』かよ」と呆れられる方もおられるでしょう。でも「なるほどそうか!」と、今までモヤモヤしていたものが、スッキリされる方も多分おられることでしょう。

 

「魂」は、すべて個別のパーソナリティを持っています。あなたが誰かに会う。その時、あなたは、その関係性の中にご自身の課題を発見します。が同時に、相手もその人自身の課題を発見しているのです。これは、当然ながら、同じではありません。そして、その時の境遇や事件は、たとえどんなに悲惨で可哀想なものに見えたとしても、宇宙的に見れば、すべてがギフトなのです。

 

この考え方には、きっと激しい抵抗を覚える方もおられることでしょう。ではこう言い直します。ギフトに変え得る力を、各々の「魂」は最初から持っている。そして、ギフトに変え得た者のみが、それこそが「神の恩寵」だったと気づく。これが、いわゆる『沈黙する神』という命題の答えなのです。

 

神は沈黙している。何もしてくれないように見える。しかし、あなたがハッと気づけば、あなたは、元々が神の一部なのですから、その瞬間に、自分の恩寵を自分で受け取るのです。解りますか? これが、これまでの宗教では決して説かれることがなかった奥義なのです。なぜ説かれなかったのか? みんながこれを知ってしまったら、組織宗教が成り立たなくなってしまうから。

 

ですから、「真の援助」とは、その人の「魂」の課題を見抜いて、今ある状況から、相手が何を学び取るのか、どういう至らなさに気づくのかを、促してあげることなのです。そのためにこそ、お互いの出会い、人間関係というものがあるのです。このことが解れば、いわゆる「支援(Support)」というものの多くが、時に逆効果しか生み出していないことの理由がお解りでしょう。

 

一生懸命「支援」しているつもりが、依存・共依存の関係を創り出しているだけに終わっているケースがあまりにも多い。また、支援する側のちょっとした満足とは裏腹に、支援された側が却って孤立感を深めてしまうケースも見られる。今の親子関係の多くが、自助グループと称するものの多くが、こうした罠に陥っています。それは、互いの「気づき」を遅らせ、「魂」の成長を阻むものになっていることに、それこそ気づいていただきたいのです。

 

課題=成長へのチャンスであることに着目してください。介入し過ぎることによって、相手の課題を奪ってはならないのです。それは、天からのギフトを取り上げてしまうということです。もちろん、相手の課題まで自分が引き受ける必要はありません。あなたにはあなたの課題があるのですから。だから、そこに集中しなさい。そして、それはエゴではありません。

 

そう行動することは、「情」が支配する人間社会から見れば、一見、何か冷たいものに映るかも知れません。がしかし、「宇宙の法則」とはそういうものなのです。「愛情」から「情」を取り去れば、真の「愛」だけになる。宇宙の人になる。時には、何にもしないことが、最大の援助だということがあり得ます。まさに、それは『沈黙する神』のように。

 

ですから、誰かを助けてあげられなかったからと言って、悲しんだり、自分を責めるのはお止しなさい。それぞれの「魂」には、それぞれの課題があって、そうなっているのですから。たとえあなたが助けられなくても、その人は、最初から助けられているのですよ。だから、あなたはあなたの課題に、ちゃんと向き合いなさい。そして自分を助けなさい。それが、結果的には多くの人を助けることに繋がるのですから。

舌禍と正直であること

「全員受け入れることはさらさらない」「排除いたします」。この言葉が波紋を呼んで、選挙戦の潮目が大きく変わってしまいましたね。そこにはやはり驕りがあったと思います。言ったご本人も、後から大いに反省したということなのですが、その反省がもし「舌禍」という面に留まっているのだとしたら、それは充分ではありません。なぜなら、人は思っていないことは表現できないのですから。

 

権力者には二種類がいて、権力そのものが欲しくて権力者になる人と、理想社会の実現のために、権力が持つ統治機構を利用しようとする人です。「権力」など、本当は社会には必要がありません。しかし残念ながら、地球人はまだそこまでは進歩していません。そのため、大勢の民衆を統治するためには、やむなく暫定的に今のような権力機構が必要となっています。

 

そうした状況下では、権力を握った者が、どれだけ真摯に民衆の奉仕者(Public Servant)として生き抜くかが問われるのです。けれども、これも残念ながら、そのように生きる人物は圧倒的に少ない。自分が奉仕者であることを忘れて、まるで王様か貴族のように振る舞う人がほとんどです。選挙公約など、今や有って無きが如し。当選後は平気で嘘をつきまくって私利私欲に邁進する。

 

「こんな人たち」発言も「排除いたします」発言も、その根底にあるのは同じ「分離」という意識です。「人は同じではない」という考え方です。確かに、全員が独立した個体であり、顔かたちも違うし、考え方も立場も境遇も主義主張もみんな違う。でも、それでもなお「みんな同じ」「全部は一つ」という確信を持つことは、先ほど言った霊的進歩の段階において、一段高い飛躍となるのです。

 

ことに、この違いが政治のトップを占める人たちの意識の根底に強くある場合、社会は大きな影響を受けます。「分離」という考え方を推し進めますと、自分と他人を分ける、自分たちの仲間と他の人たちを分ける、ひいては味方と敵を分けるという考えに行き着きます。さらには、自分たちさえ良ければいい、自分の地位や財産を守りたい、そのためには邪魔する敵をやっつけろとなって行きます。

 

これが何をもたらすかは、歴史をちょっと概観してみれば、もう明らかではありませんか? ですが人間は、本当に深いところでの反省というものをなかなかしませんし、いつも情動に突き動かされてしまうので、「あいつは敵だ」「敵をやっつけろ!」と勇ましいことを言って旗を挙げる人には、簡単に「そうだ、そうだ」と同調して、後先あまり考えずに着いて行ってしまうのです。

 

口の利き方は、もちろん慎重にあるべきです。思わず口を突いて出た言葉が、情動に左右されたものでないかを客観視してみる習慣をつけるといい。でもそれは、単に戦術とか、手練手管とか、テクニックとかという問題なのではありません。自分の本性を隠して、いくらテクニックを弄しても、それは「自分自身に嘘をつく」ということにしかなりません。

 

自分自身に嘘をつくことは、とても簡単です。場合によっては、周囲の人々や、大衆を騙すことさえも可能でしょう。でも、天(宇宙)を欺くことだけは、絶対に出来ません。なぜなら、誰もが最初から宇宙に包含された存在であり、かつ深いところでは常に宇宙意識と繋がっているからです。

 

これまで何度か、「正直に生きる」ことの大切さを語って来ました。これは、倫理的意味合いで語っているのではありません。また「嘘をつかない」という意味なのでもありません。倫理なるものは、所詮は人間が定めた基準であり、文化や時代が違えば内容も違ってしまいます。また「嘘をつかない」ということも、ダブる部分はかなりありますが、意味していることの次元が違う。

 

「正直に生きる」とは、自分の「魂(Soul)」に従うということです。自分の「魂」を裏切らないということです。それぞれの人の「魂」は、もともと一つだった宇宙意識から、分かれたピース(一片)ですから、宇宙意識の完全性を知っているのです。ですから、その「魂」の声に耳を澄まして、「魂」が喜ぶことを素直に行っていれば、それがすなわち「正直に生きる」ということなのです。

 

このようにして「正直に生きる」ことは、宇宙の真理にそのまま合致しているわけですから、自分自身の中に葛藤を起こすことがなく、従ってストレスもありません。ですから、ただただ正直に生きれば、その人は平安でハッピーに生きられるのです。

 

ところが、地球に住む人間たちは、どうもそのような生き方が嫌いなようです。「全部が一つ、一つが全部」というのが、揺るぎない「宇宙の真理」であるのに、それには耳を貸さず、他者と比べ、優劣を競い、他者を自分に従わせるために命令し支配し、逆らう者は攻撃し、粉砕することに情熱を燃やそうとする。そのどこが楽しいのでしょうか? 宇宙の不思議よりも、この人間の方がよっぽど不思議です。

 

あなた方に言っておきます。それほどまでに、他者と闘争をし、誰かを殲滅することがお望みであるのなら、あなた方は、遠からず、それを望み通りに地球規模で実現することでしょう。すでに、その集合意識の行方を、あなた方はニュースで見て知っています。でも、いよいよの時になって、「天罰だぁ!」などと言わないで下さいね。天は罰を与えないし、天に罰はありません。みんな、そうしたいと人間が望んだ結果なのですから。

 

剣を取る者は、みな剣によって滅びる」。この意味がお解りですか? 武力を持った者はその武力によって滅びる、と読めます。でもそれだけじゃない。剣を取った瞬間から、その人は、自分の「魂」を信じることを拒否してしまう、という意味なんですよ。剣の方を信じてしまうということです。それが、自分という存在が何者かを分からなくさせる。つまりはせっかくの自分(真我)を滅ぼす。

 

あなたが、ご自分の心の中に常時「剣」を抱くようになってしまったら、当然のことながら、その時点で、宇宙意識とは繋がれなくなってしまいます。そうなれば、その人の「魂」は、今世での霊性向上の機会を失うだけでなく、日常的に「心」に絶えず葛藤を抱えるようになり(なぜなら「魂」の生き方と「心」が望む生き方とが相克するので)、さらには、カルマまで積むことになります。

 

ですから、「反省」という機会(ギフト)を得た時には、「魂」のレベルにまで遡って自分を深く見つめ、自分のどこがいけなかったのかを整理し、宇宙に懺悔し、許しを請うことが大切です。それでこそ「反省」の機会を活かすことが出来ます。

 

人間、誰しも道を誤るものです。大切なことは、たとえ道を誤っても、その「反省」から学ぶことです。逃げてはなりません。成功よりも、失敗の方がより多く学べるのです。誤りに際して、そうやって、自分ときちんと向き合った時、それが本当に自分へのギフトであったことにあなたは気づくことでしょう。

 

ここで、よく知られた、『黄金律』と言われる、あの真理の言葉を改めてお伝えしておきます。

自分がしてもらいたいことを、他の人にも行いなさい

実にこれこそは、シンプルで、「宇宙の法則」をこれ以上余すことなく表した聖なる言葉です。でもこのシンプルな理想を、日常的に実践している人は、極めて稀です。たったこれだけのことが、今の人間には出来ないのです。

 

反省を、もし「舌禍」というレベルで捉えていたとしたら、せっかくの機会を活かすことは出来ません。ですから、「素直さ」が、人間にとって何よりも大切な資質なのです。それが、虚勢を張って嘘で誤魔化したり、誰か他の人のせいにしたりした日には、もうどうにもなりません。一度嘘をつけば、嘘に嘘を重ねなければならなくなり、「反省」の機会はどんどん遠ざかってしまいます。

 

後々になってから、やっと「反省」しようという気になったとしても、それまでに、多くの人を騙したり陥れて来たネガティブな行為の堆積は、いったいどうやって償うというのでしょうか?

 

社会機構の重要ポストに就く人を見る時には、出自や学歴や経歴などで判断するのではなく、ただただ、次のことだけを見てください。この人は、「自分がしてもらいたいことを、他の人にも行う」という資質を持った人であるのかどうか。

そしてあなたも、「自分がしてもらいたいことを、他の人にも行う」人であってください。

他者に支配されない生き方

みなさんは、今のご自分の心を、自分で自由に選ぶことができます。これがいわゆる「自由選択」というもので、それは天から与えられた、これ以上ないギフトなのです。このことは、これまでにも何度も語ってきました。この意味とメカニズムをよく理解し、宇宙の法則に合致した生き方を選択することが、自分で自分を支配するということです。言い直せば、他者に支配されない生き方です。

 

ところが、ほとんどの人が、このメカニズムをよく解っていません。自分の意識が意識化されていない状態で生活しているのです。先日もこのようなご相談がありました。夫婦関係がうまくいかずに困っているが、ご主人にどうもコミュニーケーション障害の疑いがあると言うのです。私は即座に、そのようなレッテル貼りは、お互いに何の益ももたらさないと申し上げました。

 

ご主人に、もしそのような診断を伝えたら、ご主人は「俺ってコミュニーケーション障害者なのか?」と思うでしょうし、奥さんの方は「こういう障害を持つ夫と暮らし続けていくにはどうしたらいいのか」という発想から逃れられなくなってしまうでしょう。あるいは、ご主人が怒って、「バカにするな。おかしいのはお前の方だろう」とやり返してくるかも知れません。

 

このような、誰かが誰かを診断する(言い換えれば「裁く」)という行為が、今や世間広く、当たり前のように行われていて、「◯◯障害」という新語がどんどん発明されている状況です。そしてなんと、このような新語を仕入れることが、現代人の教養であるかのような錯覚がまかり通っています。これは実に由々しき事態です。

 

人は、よく解らないものに対し名前を付けると、それだけで解ったような気になってしまうものです。典型例は、お医者さんの診断および病名の付与です。多くの人たちが、自分を「◯◯病」だと診断して欲しくて、せっせと医者通いをしています。現代のお医者さんとは、病気を治す人ではなく、病名を探して付ける人になっています。

 

ですが、あらゆるレッテル貼りは、対象物の本質を、本当に余すところなく表現しているのでしょうか? 夫を、妻を、子どもを、「◯◯障害」という枠組みに嵌める。それは、その人の本質なのでしょうか? いいえ、そのように見る人の、見たい人の、創り出した意識です。対象物に意味を与えたのは、その人が決定したレッテルです。つまり、「問題」はその人が創っているのです。

 

このことを、人は全くと言っていいほど意識していません。ですから、自分がいま感じている諸問題は、すべて外からやって来ていると信じ込んでいます。わたしがこうなったのは、あの人のせい。正しく評価されないのは組織のせい。恵まれないのは社会のせい。不安にさせられているのは隣国のせい。世の中をメチャクチャにしているのは◯◯人のせい。

 

そして、これを声高に叫ぶ人たちで世の中が溢れかえっている。みんなが、己の満たされぬ感情の捌け口を、自分以外の誰かにぶつけている。そして何より、政治の指導者である人間とマスコミが率先してこれを行っています。しかしここで、根本的な点を指摘しておきます。「関係」は、片方だけでは作れない。「関係」とは、AとBとの「間(あいだ)」に生じるものなのです。

 

この自明の理を、多くの人が理解していません。自分のことは自分にはなかなか見えないので、みんな相手ばかりを非難しています。相手が悪いから、ちっとも「関係」が改善しないんだと思っているのです。ですが、そうではありません。「関係」とは、常に「間」に生じるものです。この「間」は、キャッチボールをする時と一緒で、自分が想うもの、願うものがそのまま返って来るのです。

 

私が『世界入りにくい居酒屋』やコウケンテツさんの食の旅番組、『世界ふれあい街歩き』や関口知宏さんの旅番組が好きで「いいなぁ」と思うのは、初対面の人どうしがすぐに打ち解けて、お互いの文化の話に花が咲き、互いに学び合っている点です。もしも、世界中がこうだったとしたら、なんとステキだろうとは思いませんか?

 

でもなぜ、そんな「関係」がすぐに構築できるのでしょうか。それは番組を見ての通りです。相手を疑っていないからです。胸襟を開き、子どものような好奇心を前面に出して、遠慮なく話し掛けて行っているからです。だから、それに応じた球がすぐに返って来るのです。

 

関口知宏さんやコウケンテツさんが、もしも銃を腰に下げ、疑いの眼で旅先の人を見て、ファイティングポーズをとりながら飛び込んでいったとして、同じことができると思いますか? この当たり前のメカニズムを、どうして夫婦関係や、親子関係や、職場の人間関係や、外交に当てはめてみようとはしないのでしょうか?

 

多くの人が、自分の今の意識は、実は自分が選んでいるのだということを意識していません。これを、「肉(身体)に埋没した状態」と言います。五感がキャッチした、外からやって来た情報に、ただ反応しているだけなのです。けれども、自分の意識は自分が創っているということを意識する習慣をつけるだけで、あなたは自分を劇的に変えることができます。

 

たとえば、あなたが誰かに殴られたとしましょう。殴られた箇所には瞬間的に痛みが走ります。でもその直後の気持ちを、あなたは自由に選ぶことができるのです。「コノヤロー!」と反射的に殴り返すこともできますし、その場に蹲って泣くこともできますし、「さあ、もう一発殴れ」と言ったっていいですし、微笑むこともできますし、有り難いなぁと思うことだってできるんです。

 

その意識の選び方いかんで、あなたが経験する現実が、まったく変わってしまうのです。もう一つの例を言いましょう。職場で、イヤだなと思う仕事を命令されたとします。どっちみちそれはやらなくてはならない。だとしたら、イヤイヤするよりも、その体験を通じて絶対に何かを掴んでやろうと、気持ちを切り替えてやった方がずっといいし、実際それはできるのです。

 

ここで、あなたを劇的に変える重要なポイントをお教えしましょう。どんなことでも、それを、あなたが自分でハンドリングしているという意識を、常に持って行動することです。あの人からこう命令された。これをやらされた。こんな目に遭わされた。このようなパッシブな気持ちは一切捨てて、どんな時も、その中にアクティブに自分が関われる要素を見出してください。

 

探せば必ずあります。たとえば、人付き合いが苦手なのに大勢の人の接客を頼まれたとしましょう。「いやだなぁ。うまく話せるだろうか、粗相なくできるかどうか心配だ」と思う。これを、「よーしこの機会だ。人間観察をして、客の行動にパターンがないかどうか、一つ分析してみよう」となれば、その体験が、その後のあなたにとって、貴重な肥やしになるかもしれません。

 

このように、何事も表向きは「ハイハイ」と聞いておいて、内心では全部を自分がハンドリングする要素に変えてしまうのです。これが、自分で自分を支配するということです。そうすれば、「今を生きる(be here now)」ことの感覚があなたにしだいに入って来て、あなたの人生がハッピーなものに変わっていきます。そして実際、その方が仕事がうまくいき、感謝だってされることでしょう。

 

さてメカニズムが解ったところで、冒頭に示した「宇宙の法則に合致した生き方」とは何でしょうか? これは、愛を与えれば愛が返って来るということです。逆に言えば、憎悪を与えれば、憎悪が返って来るのです。さて、あなたはどちらを望むでしょうか? 当然、前者でしょう。‥‥と言いたいところですが、世の中はまるでそうなってはいません。

 

その理由は、「宇宙の法則」を知らないということもありますし、自分の意識を意識化できていないということもあります。でももっと大きな、根本的な原因があります。それは、あなた方の選択行動に影響を与えている動機が、ほとんど「恐怖」から出発しているということです。「愛」と「恐怖」とを比べたら、「恐怖」の方が、100倍ものモチベーションを与えることができるのです。

 

所有欲は失うという恐怖から生じ、金銭欲は貧困への恐怖から生じ、戦争は攻撃されることへの恐怖から生じ、医療保険は病気や死ぬことの恐怖から生じ、健康食品やスキンケアは老化への恐怖から生じる。そしてそれらに備えれば「恐怖」から逃れられると、みんな思っています。いや、思わされている。社会のシステムが、すべてそのような「恐怖」をモチベーションとして構築されているからです。

 

こんな状況下で、「愛」に基づく選択行動をとる人が、いったいどれだけいるでしょうか? 本当にお寒い話です。でも、だからこそ、ご自分の意識の意識化に取り組んでいただきたいのです。人間の選択行動をプッシュするものとしては、「恐怖」が圧倒的な優位にあります。しかしそれを利用し、大衆を支配しようと企む人たちの尻馬に、やすやすと乗ってはいけません。

 

たとえ1パーセントが支配しようとしても、99パーセントが「No!」と言って従わなければ、それは成立しないのです。長い長い歴史の中で、人類はこれまで、一度たりともそれができませんでした。しかしそれを、今度こそ乗り越えることが、人類に向けられた大いなる課題です。

 

核の惨劇は、一度経験すれば充分ではないでしょうか?

原発事故の災厄は、一度経験すれば充分ではないでしょうか?

ナチズムの集団洗脳は、一度経験すれば充分ではないでしょうか?

戦争したがりの人たちが、国民をどのように誘導していったかは、一度経験すれば充分ではないでしょうか?

世界大戦は、二度も経験すれば、もう充分ではないでしょうか?

政府は必ずウソをつく。マスコミは真実を伝えない。これも、もう充分に経験したのではないでしょうか?

 

ああ、愚かな人たちよ。

世界を、人類を、我欲のために、破滅にまで導きたい人がいることは確かです。

でも、なぜ、そういうリーダーたちに好んで着いて行こうとするの?

着いて行き、わざわざ心を不安と怒りでいっぱいに満たし、

わたしが与えた、愛の輝きを棄てようとすることを選ぶの?

99パーセントが着いて行かなければ、1パーセントはどうすることもできないのですよ。

優越意識

自分がまだ10代だったころ、オフクロは、私によくこんなことを言っていました。「ひとの良いところだけを見なさい」。これは当時、イヤな奴との軋轢に悩んでそれを吐露した際に諭された言葉です。でも当然、そんな言葉で納得するわけがありません。ますますぶんムクれて「そんな問題じゃねーんだよ」と悪態をついていたと記憶しています。

 

しかし今にして思うと、その通りだなと思うのです。その言葉は、10代の自分を直ちに変えさせるまでにはいたりませんでしたが、でもこうして今も頭の隅にずっと残っている。真実の言葉というのはそいうものだと思うのです。決して古くはならない。そして受け入れる準備が整った時に、パッとそれが解る。

 

「良いところだけを見ろ」と言われても、もちろんそんなわけにはいきませんよね。たとえば、コーヒー豆の選別を考えてみるとすると、良い豆を選ぶということは、悪い豆を取り除くということですから、この2つはいつも同時に起こるのであって、良いところだけを見るということは実際には不可能です。ま、屁理屈を言えば。

 

でも価値の置き方を選ぶことができます。ひとの粗探しばかりしていたら、その人の良い点が目に入らないし、だいいち自分の心の中をネガティブでいっぱいにしてしまうわけですから、気分がよかろう筈がありません。逆に悪い点はスルーして、良い点だけを見ていれば、こちらの心の中をいつも快適にしておけるというわけですね。

 

インターネット社会になって、嘆かわしいなぁと思うのは、この粗探しや、他者を罵倒するという行為が、もはや当たり前の感覚に育ったことです。誰も彼もが、特定のターゲットを決めては悪罵を投げつけている。節度なんて、もうどこにもない。

 

最初にこれをやったのはテレビでした。次いで夕刊紙。それ以前に週刊誌というものがあったのですが、週刊誌はあくまで裏の道でしかありませんでした。ところがテレビが、表の道でそれを解禁してしまった。とにかく、ターゲットにした人物を徹底していじめ続ける。このいじめが終わるのは、賞味期限が切れた時か、次のいじめのターゲットが見つかった時だけです。

 

そして、インターネットで匿名で個人発信が出来るようになってからは、雪崩を打ったようにその感覚が広がり、子どもたちの間でネットいじめまでが登場するようになってしまいました。皆さんは覚えておられるでしょうか? 2チャンネルが登場した当時、これに眉をひそめる人は多かったんですよ。今は全部が2チャンネル化してしまいました。

 

政治では、ジョージ・ブッシュ大統領が登場してから、タガが外れてしまいましたね。今のドナルド・トランプ大統領をご覧なさい。安倍晋三首相をご覧なさい。節度なんてどこにもない。これが今の時代の風潮。国会の場を見てください。テレビのコメンテーターを見てください。みんな、自分以外の誰かをこき下ろすことに血眼になっているじゃありませんか。

 

結局、そうした言動の奥にあるのは優越意識です。あるいは、自分が優越だと(思いたい)意識です。現代社会では、人々の間に、こうした優越意識が、異常とも言えるほど肥大してきています。この主原因は、今の人間社会から、皮膚感覚のコミュニケーションが失われてしまったためです。血縁、地域縁、職場縁、etc.。かつてあった共同体がことごとく崩壊し、みな孤立してしまった。

 

するとどうなるでしょうか? 自分を定義づける場がないのです。活躍の場がないと言ってもいい。たとえばコミュニティでお祭りか何かのイベントをするとしましょう。気心が知れた人間が集まった時には、Aさんは字がうまいから看板を書いてもらおうとか、Bさんは料理が得意だからまかないをやってもらおうとか、自然と役割が決まりました。つまり自分を定義づけられたわけです。

 

ところが、今はそれがありません。そこで、根拠のない優越意識を振りかざすことで自分を定義づけたいと思うのです。「こいつ、なんにもわかっちゃいねーぜ」とか、「ただのハゲのおっさんだろ」とか、ワンフレーズでこき下ろす。こき下ろすのですが、その理由については説明がないし、「My opinion(私の考え)」をきちんと話すこともないのです。

 

そして、この優越意識が、国家、民族、人種、ジェンダー、血筋、学歴、企業名、役職、財産、スタイル、美貌、若さ、宗教、政党、軍事力、経済システム等々、ありとあらゆるものに仮託され、自分たち以外の者をこき下ろす際の道具(ツール)となっているのです。今の世界がメチャクチャなのは、これを他ならぬ、指導者層にいる人たちが、最も率先して行っている異常さです。

 

なぜ世界から戦争と貧困がなくならないのか。なぜ地球の環境破壊が止まないのか。これらの原因は、最も強烈な優越意識を振りかざす人間が、政治、経済、教育、宗教等の指導者となって、民衆を優劣の差別意識へと駆り立てているからです。これが社会の劣悪さを生み出している元凶なのに、彼らは優越意識を正当化する言葉と行動しかしないのです。

 

そこに、一般の民衆が巻き込まれて、さらには自分たちも優劣意識の論理に染まり、その中で自由を奪われ拘束されている。これが、人類の最大の不幸であり、この不幸が、今や種としての生存さえ危うくさせる段階にまで来ているのです。人間が、種としての存続をこのまま望むのであれば、この自滅行為をストップさせねばなりません。この構造に気づくのです。

 

優越意識を持つことは、そりゃあ気持ちのよいものでしょう。周囲の人たちの尊敬を集めることができるでしょうし、人々を支配することだって可能でしょう。けれども、自分よりも優越を主張する存在が出現した時、この気持ちよさはたちまち不快に変わります。相対的に劣位に転落してしまうからです。そこで優越意識を保つために、目障りな奴は徹底して攻撃しようとするのです。

 

世の中をよくよく眺めてご覧なさい。国家 vs 国家、企業 vs 企業、政党 vs 政党、政治家 vs 政治家、宗教 vs 宗教、学者 vs 学者、コメンテーター vs コメンテーター、全部がそのような不毛な争いを延々と繰り返しているのが解るでしょう。その裏にあるものは、実に単純な衝動です。俺よりも優れた人間がいることなど絶対に許さんぞ。

 

そんなことをして苦しむのは誰でしょうか。みんなです。勝者などいない。優越意識に浸って、一時いい気持ちを味わうこともあるでしょう。ですが、これを覚えて置きなさい。他人に為したことは自分に為したことと同じである。なぜなら、全部が一つだから。他人を叩けば、自分を叩いたことと同じであり、他人を愛せば、自分を愛したことと同じになるのです。

 

あなたには個性があります。その個性は、何のためにあるとお思いですか? 優劣を確認するためにあるのではありませんよ。あなたを定義づける道具(ツール)としてあるのです。

 

あなたが編み物を始めたとしましょう。あなたはその日から「編み物をする人」になる。それが好きになって、どんどん研鑽を積んだとしましょう。あなたは「編み物が上手な人」になる。さらに研鑽を積んで独自の技を身につけたとしましょう。あなたは「編み物の達人」になる。そして、個性が輝く。あなたの個性を、他の人々に、社会に、役立てることができる。

 

それは優劣ではないのです。個性なのです。一人ひとりが、みんな素晴らしいのです。周囲に違った個性があるからこそ、あなたも個性的でいられるのです。ですから自信を持ちなさい。あなたの個性は誰にも真似できないのですから。そして、周囲の個性を讃えなさい。みんな違っていることを喜びなさい。

 

お手てつないで一緒にゴールすれば平等なのではありません。そんなことをしたら個性を圧殺してしまいます。駆けっこが速い子はそれを讃えてあげなさい。ビリの子は、剽軽でひとを笑わせるのが得意かもしれない。植物の観察に熱心かも知れない。学校では目立たないけれど家ではお母さんの手伝いを黙々とやる子かも知れない。それを見出してあげるのがエデュケーションです。

 

バラはバラであり、ユリはユリであり、ユリはバラになる必要はなく、バラよりも劣っているのではないことを、自然を手本にして子どもたちに伝えてあげなさい。バラはバラとして咲けばよいのであり、ユリはユリとして咲くことが、美しさのハーモニーを形づくっていることを伝えてあげなさい。そして、最初からそのように花咲くことが約束されていることも。

 

ひとの粗探しはもう止めにしましょう。誰かの粗探しを一つする。それは、自分の心の中に「不快」を一つこしらえたということなんですよ。自分の気分を自分で悪くするような、そんなバカなことは、もう金輪際やめましょう。

 

だから、粗探しではなくて、ひとの良いとこ探しをしなさい。そうやっていつも他者を見なさい。一つすれば、あなたの心は一つ豊かになる。いっぱいいっぱいすれば、あなたの心は豊かさでいっぱいになる。周囲の物、周囲の人に意味を与えているのは、つねにあなただということに気づきなさい。自分がどういう意味を与えるかで、不幸にも幸福にもなれることに気づくのです。

ヘイトとハグ ‐‐‐ どっちを選ぶ?

「フリーハグ」という言葉があることを、あるインターネットの動画を観ていて知りました。K国に対するヘイトデモが行われてる中で、K国のひとりの女性がそれを行っているのです。私もしょっちゅうハグをしています。日本人には全く馴染みのない習慣ですが、外国人がやっているのを見て「これはいいことだ」と思ってから、真似して積極的に行うようになったのです。

 

私はこういうシンプルさが好きです。ねぇハグしようよ。そんな簡単なアクションだけで、友愛のコミュニケーションが図られる。相手を値踏みしたり、疑心暗鬼でいては、ハグはとてもじゃないができないと思うんですよ。

 

それに比べて、「ヘイトデモ」とか「ヘイトスピーチ」とか、なんてイヤな言葉が流行っているのでしょうか。このような憎悪の表現行動が、今や世界中を席巻しています。

 

国家主義、民族主義、排他主義、人種差別、異教徒排斥の傾向が、世界各地で盛り上がっています。その根っこには、グローバル経済がもたらした歪みに対する人々の反動があると、私は分析します。地域固有の文化を破壊されることに対する潜在的な怖れが、背景にはある。そのことには同情します。でも、矛の向け先が間違っていると思うのです。

 

K国やC国をヘイト(hate:憎悪)するという時、それは何に対して言っているのでしょうか? その国の領土のことを言っているのでしょうか? それには領海も含むのでしょうか? そうではなくて政治体制のことを言っているのでしょうか? 特定の政治指導者のことを言っているのでしょうか? あるいは国歌や国旗のことを言っているのでしょうか?

 

それともその国の国籍を持つ人たち全員を言っているのでしょうか? その中には外国から帰化した人は含まれるのでしょうか? 反対にその国から日本に帰化した人は含まれるのでしょうか? その二世や三世はどうでしょうか? そうではなくて、風俗や習慣や文化のことを言っているのでしょうか? 言葉や食べ物や服装や、その国の輸出品のことを言っているのでしょうか?

 

いいや、そんなしちめんどくさいことはどうでもよく、ともかく、一切合切全部が嫌いだとでも言うのでしょうか?

 

結局、「自分が抱いているイメージ」が嫌いなのだということにはなりませんか? では、そのイメージを創ったのは誰でしょうか? その人です。ですから、憎悪を剥き出しにする人というのは、結局、自分が嫌いなんですね。自分の中に、どうしても許せない、イヤな部分がある。でもそれを、外側にある身近な対象者に転嫁してしまうのです。イジメの構造は、全部これです。

 

自分を信頼できない。自分を愛せない。自分を敬うことが出来ない。でもそれを素直に認めることが出来ないから、その憤りのエネルギーを、外側にある適当な対象者を見つけては、それに対してぶつけているのです。そこに、本人は全く気づいていない。

 

他者を見下すことで、自分が優位に立てる道理はありません。他者を憎悪することで、自分を愛することは出来ないのです。他者を憎悪する人は、自分を憎悪する人です。他者を愛することの出来る人だけが、自分を愛することが出来るのです。自分を愛することの出来る人だけが、他者を愛することが出来るのです。これが道理です。

 

憎悪の炎を燃やせば、結局、自分を傷つけます。ニュース報道などで、ヘイトの雄叫びを上げる人たちの顔をよく見てください。心の苦しさに耐えかねて激しく歪んでいるのが分かるはずです。自分の感情は、いつだって自由に選ぶことが出来るのに、なぜわざわざ「憎悪」の感情を選ぶのですか? それでハッピーになれるわけがないじゃありませんか? あまりにも愚かです。無智です。

 

ハグをしている瞬間の人たちの、顔をよく見てください。ハッピーが溢れているじゃありませんか。こんな簡単なことなのに‥‥。愛とは、こんなに簡単な理屈なのに。なぜ人間はいつまでも解ろうとはしないのでしょうか?