by Rainbow School
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優越意識

自分がまだ10代だったころ、オフクロは、私によくこんなことを言っていました。「ひとの良いところだけを見なさい」。これは当時、イヤな奴との軋轢に悩んでそれを吐露した際に諭された言葉です。でも当然、そんな言葉で納得するわけがありません。ますますぶんムクれて「そんな問題じゃねーんだよ」と悪態をついていたと記憶しています。

 

しかし今にして思うと、その通りだなと思うのです。その言葉は、10代の自分を直ちに変えさせるまでにはいたりませんでしたが、でもこうして今も頭の隅にずっと残っている。真実の言葉というのはそいうものだと思うのです。決して古くはならない。そして受け入れる準備が整った時に、パッとそれが解る。

 

「良いところだけを見ろ」と言われても、もちろんそんなわけにはいきませんよね。たとえば、コーヒー豆の選別を考えてみるとすると、良い豆を選ぶということは、悪い豆を取り除くということですから、この2つはいつも同時に起こるのであって、良いところだけを見るということは実際には不可能です。ま、屁理屈を言えば。

 

でも価値の置き方を選ぶことができます。ひとの粗探しばかりしていたら、その人の良い点が目に入らないし、だいいち自分の心の中をネガティブでいっぱいにしてしまうわけですから、気分がよかろう筈がありません。逆に悪い点はスルーして、良い点だけを見ていれば、こちらの心の中をいつも快適にしておけるというわけですね。

 

インターネット社会になって、嘆かわしいなぁと思うのは、この粗探しや、他者を罵倒するという行為が、もはや当たり前の感覚に育ったことです。誰も彼もが、特定のターゲットを決めては悪罵を投げつけている。節度なんて、もうどこにもない。

 

最初にこれをやったのはテレビでした。次いで夕刊紙。それ以前に週刊誌というものがあったのですが、週刊誌はあくまで裏の道でしかありませんでした。ところがテレビが、表の道でそれを解禁してしまった。とにかく、ターゲットにした人物を徹底していじめ続ける。このいじめが終わるのは、賞味期限が切れた時か、次のいじめのターゲットが見つかった時だけです。

 

そして、インターネットで匿名で個人発信が出来るようになってからは、雪崩を打ったようにその感覚が広がり、子どもたちの間でネットいじめまでが登場するようになってしまいました。皆さんは覚えておられるでしょうか? 2チャンネルが登場した当時、これに眉をひそめる人は多かったんですよ。今は全部が2チャンネル化してしまいました。

 

政治では、ジョージ・ブッシュ大統領が登場してから、タガが外れてしまいましたね。今のドナルド・トランプ大統領をご覧なさい。安倍晋三首相をご覧なさい。節度なんてどこにもない。これが今の時代の風潮。国会の場を見てください。テレビのコメンテーターを見てください。みんな、自分以外の誰かをこき下ろすことに血眼になっているじゃありませんか。

 

結局、そうした言動の奥にあるのは優越意識です。あるいは、自分が優越だと(思いたい)意識です。現代社会では、人々の間に、こうした優越意識が、異常とも言えるほど肥大してきています。この主原因は、今の人間社会から、皮膚感覚のコミュニケーションが失われてしまったためです。血縁、地域縁、職場縁、etc.。かつてあった共同体がことごとく崩壊し、みな孤立してしまった。

 

するとどうなるでしょうか? 自分を定義づける場がないのです。活躍の場がないと言ってもいい。たとえばコミュニティでお祭りか何かのイベントをするとしましょう。気心が知れた人間が集まった時には、Aさんは字がうまいから看板を書いてもらおうとか、Bさんは料理が得意だからまかないをやってもらおうとか、自然と役割が決まりました。つまり自分を定義づけられたわけです。

 

ところが、今はそれがありません。そこで、根拠のない優越意識を振りかざすことで自分を定義づけたいと思うのです。「こいつ、なんにもわかっちゃいねーぜ」とか、「ただのハゲのおっさんだろ」とか、ワンフレーズでこき下ろす。こき下ろすのですが、その理由については説明がないし、「My opinion(私の考え)」をきちんと話すこともないのです。

 

そして、この優越意識が、国家、民族、人種、ジェンダー、血筋、学歴、企業名、役職、財産、スタイル、美貌、若さ、宗教、政党、軍事力、経済システム等々、ありとあらゆるものに仮託され、自分たち以外の者をこき下ろす際の道具(ツール)となっているのです。今の世界がメチャクチャなのは、これを他ならぬ、指導者層にいる人たちが、最も率先して行っている異常さです。

 

なぜ世界から戦争と貧困がなくならないのか。なぜ地球の環境破壊が止まないのか。これらの原因は、最も強烈な優越意識を振りかざす人間が、政治、経済、教育、宗教等の指導者となって、民衆を優劣の差別意識へと駆り立てているからです。これが社会の劣悪さを生み出している元凶なのに、彼らは優越意識を正当化する言葉と行動しかしないのです。

 

そこに、一般の民衆が巻き込まれて、さらには自分たちも優劣意識の論理に染まり、その中で自由を奪われ拘束されている。これが、人類の最大の不幸であり、この不幸が、今や種としての生存さえ危うくさせる段階にまで来ているのです。人間が、種としての存続をこのまま望むのであれば、この自滅行為をストップさせねばなりません。この構造に気づくのです。

 

優越意識を持つことは、そりゃあ気持ちのよいものでしょう。周囲の人たちの尊敬を集めることができるでしょうし、人々を支配することだって可能でしょう。けれども、自分よりも優越を主張する存在が出現した時、この気持ちよさはたちまち不快に変わります。相対的に劣位に転落してしまうからです。そこで優越意識を保つために、目障りな奴は徹底して攻撃しようとするのです。

 

世の中をよくよく眺めてご覧なさい。国家 vs 国家、企業 vs 企業、政党 vs 政党、政治家 vs 政治家、宗教 vs 宗教、学者 vs 学者、コメンテーター vs コメンテーター、全部がそのような不毛な争いを延々と繰り返しているのが解るでしょう。その裏にあるものは、実に単純な衝動です。俺よりも優れた人間がいることなど絶対に許さんぞ。

 

そんなことをして苦しむのは誰でしょうか。みんなです。勝者などいない。優越意識に浸って、一時いい気持ちを味わうこともあるでしょう。ですが、これを覚えて置きなさい。他人に為したことは自分に為したことと同じである。なぜなら、全部が一つだから。他人を叩けば、自分を叩いたことと同じであり、他人を愛せば、自分を愛したことと同じになるのです。

 

あなたには個性があります。その個性は、何のためにあるとお思いですか? 優劣を確認するためにあるのではありませんよ。あなたを定義づける道具(ツール)としてあるのです。

 

あなたが編み物を始めたとしましょう。あなたはその日から「編み物をする人」になる。それが好きになって、どんどん研鑽を積んだとしましょう。あなたは「編み物が上手な人」になる。さらに研鑽を積んで独自の技を身につけたとしましょう。あなたは「編み物の達人」になる。そして、個性が輝く。あなたの個性を、他の人々に、社会に、役立てることができる。

 

それは優劣ではないのです。個性なのです。一人ひとりが、みんな素晴らしいのです。周囲に違った個性があるからこそ、あなたも個性的でいられるのです。ですから自信を持ちなさい。あなたの個性は誰にも真似できないのですから。そして、周囲の個性を讃えなさい。みんな違っていることを喜びなさい。

 

お手てつないで一緒にゴールすれば平等なのではありません。そんなことをしたら個性を圧殺してしまいます。駆けっこが速い子はそれを讃えてあげなさい。ビリの子は、剽軽でひとを笑わせるのが得意かもしれない。植物の観察に熱心かも知れない。学校では目立たないけれど家ではお母さんの手伝いを黙々とやる子かも知れない。それを見出してあげるのがエデュケーションです。

 

バラはバラであり、ユリはユリであり、ユリはバラになる必要はなく、バラよりも劣っているのではないことを、自然を手本にして子どもたちに伝えてあげなさい。バラはバラとして咲けばよいのであり、ユリはユリとして咲くことが、美しさのハーモニーを形づくっていることを伝えてあげなさい。そして、最初からそのように花咲くことが約束されていることも。

 

ひとの粗探しはもう止めにしましょう。誰かの粗探しを一つする。それは、自分の心の中に「不快」を一つこしらえたということなんですよ。自分の気分を自分で悪くするような、そんなバカなことは、もう金輪際やめましょう。

 

だから、粗探しではなくて、ひとの良いとこ探しをしなさい。そうやっていつも他者を見なさい。一つすれば、あなたの心は一つ豊かになる。いっぱいいっぱいすれば、あなたの心は豊かさでいっぱいになる。周囲の物、周囲の人に意味を与えているのは、つねにあなただということに気づきなさい。自分がどういう意味を与えるかで、不幸にも幸福にもなれることに気づくのです。

ヘイトとハグ ‐‐‐ どっちを選ぶ?

「フリーハグ」という言葉があることを、あるインターネットの動画を観ていて知りました。K国に対するヘイトデモが行われてる中で、K国のひとりの女性がそれを行っているのです。私もしょっちゅうハグをしています。日本人には全く馴染みのない習慣ですが、外国人がやっているのを見て「これはいいことだ」と思ってから、真似して積極的に行うようになったのです。

 

私はこういうシンプルさが好きです。ねぇハグしようよ。そんな簡単なアクションだけで、友愛のコミュニケーションが図られる。相手を値踏みしたり、疑心暗鬼でいては、ハグはとてもじゃないができないと思うんですよ。

 

それに比べて、「ヘイトデモ」とか「ヘイトスピーチ」とか、なんてイヤな言葉が流行っているのでしょうか。このような憎悪の表現行動が、今や世界中を席巻しています。

 

国家主義、民族主義、排他主義、人種差別、異教徒排斥の傾向が、世界各地で盛り上がっています。その根っこには、グローバル経済がもたらした歪みに対する人々の反動があると、私は分析します。地域固有の文化を破壊されることに対する潜在的な怖れが、背景にはある。そのことには同情します。でも、矛の向け先が間違っていると思うのです。

 

K国やC国をヘイト(hate:憎悪)するという時、それは何に対して言っているのでしょうか? その国の領土のことを言っているのでしょうか? それには領海も含むのでしょうか? そうではなくて政治体制のことを言っているのでしょうか? 特定の政治指導者のことを言っているのでしょうか? あるいは国歌や国旗のことを言っているのでしょうか?

 

それともその国の国籍を持つ人たち全員を言っているのでしょうか? その中には外国から帰化した人は含まれるのでしょうか? 反対にその国から日本に帰化した人は含まれるのでしょうか? その二世や三世はどうでしょうか? そうではなくて、風俗や習慣や文化のことを言っているのでしょうか? 言葉や食べ物や服装や、その国の輸出品のことを言っているのでしょうか?

 

いいや、そんなしちめんどくさいことはどうでもよく、ともかく、一切合切全部が嫌いだとでも言うのでしょうか?

 

結局、「自分が抱いているイメージ」が嫌いなのだということにはなりませんか? では、そのイメージを創ったのは誰でしょうか? その人です。ですから、憎悪を剥き出しにする人というのは、結局、自分が嫌いなんですね。自分の中に、どうしても許せない、イヤな部分がある。でもそれを、外側にある身近な対象者に転嫁してしまうのです。イジメの構造は、全部これです。

 

自分を信頼できない。自分を愛せない。自分を敬うことが出来ない。でもそれを素直に認めることが出来ないから、その憤りのエネルギーを、外側にある適当な対象者を見つけては、それに対してぶつけているのです。そこに、本人は全く気づいていない。

 

他者を見下すことで、自分が優位に立てる道理はありません。他者を憎悪することで、自分を愛することは出来ないのです。他者を憎悪する人は、自分を憎悪する人です。他者を愛することの出来る人だけが、自分を愛することが出来るのです。自分を愛することの出来る人だけが、他者を愛することが出来るのです。これが道理です。

 

憎悪の炎を燃やせば、結局、自分を傷つけます。ニュース報道などで、ヘイトの雄叫びを上げる人たちの顔をよく見てください。心の苦しさに耐えかねて激しく歪んでいるのが分かるはずです。自分の感情は、いつだって自由に選ぶことが出来るのに、なぜわざわざ「憎悪」の感情を選ぶのですか? それでハッピーになれるわけがないじゃありませんか? あまりにも愚かです。無智です。

 

ハグをしている瞬間の人たちの、顔をよく見てください。ハッピーが溢れているじゃありませんか。こんな簡単なことなのに‥‥。愛とは、こんなに簡単な理屈なのに。なぜ人間はいつまでも解ろうとはしないのでしょうか?

見透かされる恐怖心

何かを極めた人、深い知恵や知識を持った人の前に立つと、自分がなにか見透かされるような気がして来る。そんな経験はないでしょうか? 若い頃の私は、そのような場面に遭遇するたびに、恐怖心でしょっちゅう怯えていました。なんとかこれを克服したいと思った私は、ある時から積極策に出ました。

 

セミナーや会議の席などで、そういう人が「何か質問はありませんか?」と声を掛けると、たいていはみんな押し黙っていますよね。そこで私は、一番最初に質問の手を挙げるというノルマを自分に課したんです。そうやって、一人がブレイクスルーすれば、後から手を挙げる人も出てきます。

 

日本人は、その場の「空気」というものを優先する傾向があるので、自己主張することに馴れていません。アホな質問をしてしまって、恥をかくのは嫌だという思いが先に立つのでしょう。特に男性は、「沽券にかかわる」などと言って、恥をかくことを極端に嫌う。

 

結局それは、社会が提示したスケール(物差し)から、脱け出てみる冒険をしないということなんですよね。そのスケールの価値観を信じてしまっているから、スケールの上層部に立ちたいと思い、自分はまだスケールの下層にいると思うから、それを思い起こさせるような恥はかきたくないんだよね。

 

でも、真っ先に手を挙げてアホ役になることくらい、別にどうってことはない。それよりも、ひとに「聞く」ということは、仲よくなるための最高のコミュニケーション手段なんだけどねぇ。胸襟を開いて聞けば、たいていの人が質問に応えてくれるものだよ。

 

つまらないスケールなんか捨てて、自分が「素」になってしまえば、見透かされる恐怖なんて逆に無くなるよ。なぜなら透明人間になってしまうから。見透かされるものが、もう何も残ってない! 相手の視線が背中を突き抜けちゃう。だから、素直でありのままでいれば、いつでも最強なのさ。

 

別に小利口ぶらなくたっていいじゃないか。アホで結構じゃないか。後ろ指さされたっていいじゃないか。いつでも素直でありのままでいれば、ずっと楽だし、すぐに人とも仲よく打ち解けられるし、いろんなことが学べるし、ハッピーな毎日が送れるものだよ。

 

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明日は、お休みをいただきます。

他者が自分を嫌うのは、嫌う人の問題

自分を嫌う人が居るというのは仕方のないことです。みなそれぞれが個性を持っていて、顔つきも体つきも違えば、境遇も思想信条も、考え方も感受性も違う。「魂」の出どころは一つだということをしっかり理解していれば、人類みな兄弟であることが解り、融和が生まれるのですが、残念ながら人間は、外面的なものに囚われていて、「違い」の方ばかりを強調してしまうのですね。

 

私も年に数回、ひとから激しい罵声を浴びせられることがあります。理由は様々でしょうが、インターネットを見ていれば、そんなものばかりで、しかも「炎上」と称する事態も起きるのですから、今の世の中は、他者を誹謗、中傷、罵倒したいというエネルギーで溢れかえっているということなのでしょう。ではもし自分が、ひとから嫌われた時には、一体どう対処したらよいでしょうか?

 

先ず大事なことは、あなたが落ち込む必要は全くないということです。2・3日は気持ちも動揺して不安定になるでしょうが、これから言うことをしっかり頭の中に入れていれば、回復も早くに元の元気さを取り戻せます。

 

他者から自分が嫌われる。そういう事態になると、嫌われた人は大抵、自分の中に嫌われた理由を探そうとします。そして自尊心が傷つけられたと思った場合には反撃に出たり、自信を失った時には落ち込んだりします。しかしよ〜く考えてみてください。そうやって嫌っている「心」は、相手側の持ち物なのです。相手側の「心」が「嫌い」という感情を持ったのです。これに、あなたがお付き合いをする必要はないのです。

 

「嫌い」という感情を出現させた相手は、それで楽しくなったか、嬉しくなったのと言いますと、実は逆で,その時「不快」を抱えているのです。ではなぜ「不快」を、わざわざ自分の中に持とうとするのでしょうか? それは、そうせざるを得ない衝動が働くからです。その人の「魂」はまだまだ未熟で、自分の中の処理しきれない感情のエネルギーを、そうやって他者にぶつけることで放出しようとするのです。

 

このような段階にある人は、「不快」の根本原因が、実は自分にあるということに気づくまでは、何度でも同じ行為を繰り返します。自尊心があるので、自分の過ちを認めたくないのです。それで、代わりとなる「原因」を探し出し、ターゲットを見つけては、その人に憎悪の感情を向けたり、悪罵を投げつけたりするのです。こうしたエネルギーが集中すると、いわゆる「炎上」が起こるのです。

 

このことですでにお解りのように、誰かを「嫌い」だという感情は、その人の「心」の状態を映したものです。しかし覚えておいて欲しいのは、宇宙の法則は、それ以上のことを冷徹に示すということです。それは、自分が為したことは、自分に返って来るということです。法則としては単純です。これを、いわゆる「カルマの法則」というのです。

 

ですから、他者に投げつけた誹謗、中傷、罵倒のエネルギーは、宇宙を巡り巡って、必ずその人の元へ返って来ます。そうすると、当然、自分が攻撃されたような気分になって反撃したくなる。そこでまたターゲットを見つけて、誹謗、中傷、罵倒の声を浴びせ、これがグルグルと自分の中で続くのです。こういう人は、どん底の気分にまで落ちるか、病気にならない限りは、なかなか気づきません。

 

そのようなわけですから、そういう人にお付き合いをして、一緒になって自分の波動まで下げる必要は全くないということです。いちばん良いのは無視することです。友人のRさんが言うのを聞いて「なるほどな」と思ったのは、街角で配っているティッシュと同じだと思えばいいんだと。「はいどうぞ」と差し出されても「いいえ、結構です」と、受け取らなければいいんだと。

 

あなたを攻撃して来る相手は、受け取ってくれることを想定しているわけですから、受け取らなければ、そのエネルギーは通過して行って、すぐにその差出人に返ります。それで、その人は苦しみます。別に苦しませることが目的ではありませんが、あなたは自己防衛でそうすればいいのです。相手が苦しむのは、自分が為したことは自分に返って来るという法則を学習するために与えられたものです。

 

今これを相手の立場で言いましたが、あなたについても同じことです。あなたが、誰かの「嫌い」という感情を受け取れば、あなたの「心」は、その感情に同調して波動が下がります。また反撃に転じれば、闘うということは土俵を同じにするということですから、これも同じく波動を下げます。しかも今度は、自分の「私だって嫌いよ」という「不快」な感情を宇宙に向かって放ち、それが返って来るのを受け止めることになるのです。

 

お解りですか? ですから先ずは無視。受け取らないこと。そして、そのような苦しみの段階にある相手には、温かなエネルギーを送ってあげましょう。相手が微笑んでいる顔を、脳裏に強くイメージすればよいのです。そうすれば、今度は、その温かなエネルギーが、自分のもとへ返って来ることになります。ね、簡単でしょう?

「レッテル貼り」について

前回の14日の投稿で「レッテル貼り」について少し触れました。人間というものは、「レッテル貼り」が大好きです。なぜ好きかと言いますと、これも結局は、自分を知らないからなのです。自分は何者なのか、自分の本質は何なのか、どこから来て、どこへ行くのか、こういったことを知らないために、自分の外側に価値判断の基準を置こうとするのです。

 

もし、自分は何者であって、本質は何であって、どこから来て、どこへ行くのかが解っていたら、自分にレッテルを貼る必要などはありませんし、他者に対しても、レッテルを貼ることの無意味さが分っているので、そんな行為はしない筈です。毎日が、ただ自分の生きる目的を全うしようとするだけで精一杯ですから。

 

「レッテル貼り」というのは、何もネガティブな面だけではないのです。世間的に栄誉とされたり、崇拝されたり、憧れを持って見られたりすること、「名声」や「肩書き」や「ブランド」といったものも、同じく「レッテル貼り」なのです。つまり、「レッテル貼り」というものは、優劣という評価基準の、「優」側に対しても「劣」側に対しても共に行われる行為なんですね。

 

これが、人間が住む三次元世界(別名「相対的世界」)の、特徴なのです。ですから、他者をヨイショして持ち上げるような性癖が強い人は、反対側に、必ず他者を蔑視したり、差別したりする心を隠し持っています。両者は、一本の「物差し」の右と左なのです。ですから、あなたを変に持ち上げる人が現れた時には注意してください。ちょっとしたきっかけで、それが侮蔑に変わることがあります。

 

今の人類の大きな課題は、この「物差し」そのものを捨てることです。「物差し」を捨てたとき、真に人間が平等であって、生命はみな尊いということの本当の意味が解る。しかしこのままでは、その日は遠い。何よりマスメディアが、この「物差し」が大大大好きで、ヨイショとバッシングを繰り返している。こんなものを毎日見ていたら、あなたの心も、ズタズタになってしまいます。

 

先ずあなたから、自分をよく知って、「わたしはわたし」を生きることに徹して欲しい。世間で確立された「物差し」など、今日から全部ポイ捨てだ。そうすれば、他者のありのままが見えるようになるし、腹も立たないし、他者と慈しみを持って接することが出来るようになります。

 

他人を「物差し」で計り、「レッテル貼り」で貶めて、それであなたが相対的に浮上するなんてことは絶対にない。始終、他人を評価し貶めていたら、そのネガティブで低い波動に、自分をずっと付き合わせることになってしまうんだよ。そんなムダな時を過ごしたいかい? あなたには、好奇心と賞賛の二つの言葉さえあればいい。そうすれば、一日中、ハッピーでいられるじゃないか。

自分を信じれば、周囲の人の「ありのまま」が見えるようになる

ある方から、「あなたを100パーセント信用している訳ではない」というメールをいただき、少し悲しい気分になりました。自分が「信用されていない」からではありません。「話が通じていない」ということに対してです。セミナーを休止したのもそれが理由でした。これほど言葉を尽くしても、解って貰えないのかと、無力感を感じたのです。

 

私は今まで、「私を信じろ」などと言ったことは一度もありません。外から来る情報は何も信じるな、と繰り返し言って来ました。そこに例外はありません。ですから当然、私が言うことも、書いたことも、信じてはならないのです。

 

しかし頭のいい人は、こう考えるかも知れません。じゃあ「信じるな」という言葉はどうなんだと。これも「信じない」としたら、「信じるな」ということを「信じない」ということで、それは「信じる」ということになりはしないか? いや、そこまでは意図していません。とにかく、外から来る情報は、一切合切「信じるな」ということです。

 

「通じない」「理解されない」ということに対する悲しみは、こういう活動をやっている以上は仕方のないことです。以前はひどく落ち込むこともありましたが、最近は立ち直りが早くなったので、「ま、こんなもんよね」と水に流しています。休止してしまったセミナーも、自己反省を踏まえて、いずれ違った形で再開するつもりです。

 

人間関係は、100パーセントの信用がなければ、できないものなのでしょうか? 私は、他者を「信用できる・できない」という眼で見たことは一度もありません。そんな基準は無意味だからです。でも「正直か、嘘つきか」ということは見ます。というよりも、すぐに判ります。その人の今の「心」の状態は、会った瞬間に把握できます。

 

他者を「100パーセント信用する」とは、一体どういうことでしょうか? その他者の思想や言動に、「洗脳」されることだとは、お気づきになりませんか?  100パーセント信用している主体は自分だと思っているかも知れませんが、そうじゃありません。逆です。自分を失っているんです。「洗脳」されるから、「この人は100パーセント信用できる」と思い込んでしまうのです。

 

だから、その「洗脳」が解けた時に、裏切られたとか、騙されたとか、みんな言い出すのです。一体それは誰のせいなのでしょうか? 自分が「100パーセント信用した」からではありませんか? 他者が、あなたを騙したのではない。あなたが、あなたを騙したのです。そして「裏切られた、騙された」と言っているのです。

 

そもそも、他者を「信用できる・できない」で見ることが間違っているのです。どうして他者を信じようとするのでしょうか? それは、自分を信じていないからです。自分を信じていないから、代わりに、外側に「100パーセント信じられるもの」を見つけようとするんです。そして常に、他者に対して、疑いの眼を向け続ける。

 

これでどうして、安心が得られるでしょうか? そういう眼をした人間の姿を想像してみてください。そういう人と、あなたはお近づきになりたいですか? 「信用できるか、できないか」でいつも他者を見ている人は、その視線が、自分に反射して来ていることに気づいていないんですね。何よりも、自分がいちばん「信用できない」光線を発射しているんですよ。

 

こんなことを繰り返していては自立はありません。「信用」しては裏切られ、また「信用」しては裏切られる。それで、遂には「信用」することが怖くなって、人間不信に陥る。一体どこに問題があるのでしょうか? 「信用できる」ものを外側に追い求めるからだということに、いい加減気づいていただきたいのです。そしてその根本原因には、自分を信じていないという問題があるのです。

 

私は、他者を「信用できる・できない」という眼で見ることはありません。好奇心がありますし、自分が知らないことを教えて貰いたい、自分に出来ないことを助けて貰いたい、一緒に楽しい時間を過ごしたい、といつも思っているからです。Open your heart.  自分が「心」を開けば、「心を開け」光線が、反射して返って来るんです。

 

いつも他者を疑いの眼で見ている人は、いま言ったことが本当かどうか、実験してみるといいです。そうすれば解ります。人間関係というのは、本当にバイブレーションなんだということが、実感できます。

 

あなたがすべきことは、「100パーセント信じられるもの」を探し続けて歩き回ることではなく、最も身近な友である、ご自分を信頼することです。自分のこれまでの努力をねぎらい、してきた体験をすべて肯定し、自分を敬い、「わたしはわたし」でいいということを、信じることです。素直な自分に帰ることです。

 

あなたが自分を信じれば、周囲に疑いの眼を向けるようなことはもうなくなります。不必要だからです。そして、他者の「ありのまま」が見えて来るようになります。やがては、その「ありのまま」に、いとおしささえ感じるようになるでしょう。その時には、あなたもまた「ありのまま」の自分になっているのです。

相手から予想を裏切る反応が返って来たら

人間関係の中で、自分が発した言葉に対し、相手から予想だにしない反応が返って来た、という経験はありませんか? 私も、誠意が通じずに誤解されたり曲解されたりして、悲しい思いをすることが度々です。でもひとのことはあまり言えないかな。私だって、たぶんそういうことをしている筈。お世辞は決して言わないので、時に辛辣な物言いになり、悲しい思いにさせていると思います。

 

科学者は、先ず仮説を立ててから、それを実験や計算で確かめようとして行くわけですが、一つの理論を導き出すためには、膨大な量の実験や計算を延々と繰り返さなければなりません。予想通りになるよりも、そうならないことの方がずっと多いわけですね。ですから科学者というのは、よほど忍耐強くないと務まらないと思います。

 

では、予想を裏切る結果が出た時に、科学者は心理的にどう対処しているのか? この話を聞いた時、「うん、これは人間関係にも使えるぞ」と思いました。彼らはこう考えるというのです。「とりあえず、こっちの方向はない、ということがこれで証明された」と。だからいいんだと。多様な可能性の中の、あり得ない部分を一つ取り除けたので、ゴールに近づいたんだというわけですね。

 

ですから、人間関係においても、相手から予想を裏切る反応が返って来た時には、「あ、そうか、こっちの方向はないんだな」と。それが証明されたんだなと、思えばいい。そうすれば、ガッカリや、悲しい思いを引きずることなく、早めに気持ちを転換できます。

 

その気持ちをひきずったところで、相手の心を変えることはできないんですから。あの人はあの人、私は私。気持ちを切り替えて、元気よく参りましょう。

ポジティブな依存と、ネガティブな依存

「依存」というものが、すべて悪いわけではありません。そもそも人間は、というよりも生物は、何かに「依存」しなければ生きてはいけません。

 

このブログで書かれてあることを字義どおり受け取って、まるで「お札」のように目の前に貼ってしまわれる方が、時々いらっしゃいます。「依存」についても、そこからの脱却ということをこれまで何度も強調して来ましたので、中には「依存しちゃダメ!」と、ご自分に言い聞かせていらっしゃる方もおられるのではないかと、多少危惧しています。

 

改めて言っておきますが、このブログで書かれていることは、一切、何も信じないでください。むしろ徹底して疑ってください。それは、このブログの内容に限らず、外から来る情報すべてに対しての基本的な態度でなければいけません。

 

何かを「信じている」あいだは、あなたのものではないのです。あなたのものではないので、「信じる」ことで、疑いの心に蓋をしようとするのです。それは、今の自分を誤摩化すことですし、あなたの成長の機会を奪ってしまいます。これを強要したものが、いわゆる「信仰」です。世の中には「信仰」のためにムダな時を過ごしている人が、いかに多いことでしょうか。

 

何も「信じ」なくても、あなたの「魂」が同調し蓋が開かれ瞬間には、自然に「ああ、そうだったんだ」と思い出します。それは「教えられた」わけではなく、あなたの中に元々あったもの、知っていたことに「自分で気づいた」ということなのです。このブログを含めて、外の情報というものは、その扉を開けるノックに過ぎません。扉をあけるのは、いつでもあなた自身なのです。

 

さて「依存」ということですが、そもそも生物は、他の生命(いのち)を捕食しなければ、「生きている状態」を維持し続けることは出来ません。これは物質的組成を新陳代謝させるためと、活動エネルギーを得るために必要だからです。この全体のシステムが、「生命(いのち)」というものであって、そこには明らかに「依存」関係が認められます。

 

そこで、このように言うことが出来ます。「生命」とは「依存」関係のことである。ですからあなたが、もし「生命」の尊さというものに深く思いを馳せるのであれば、当然それは、「依存」関係のありがたさに深く感謝するということになるのです。これが、いわばポジティブな「依存」です。

 

あなたは、他の生命や、物や、環境や、人に「依存」して、生かして貰っています。しかし同時に、他の人の「依存」のために、あなたも役立っているのです。

 

このような関係の中で、自分の生が、また他者を生かすということに健全に使われた場合には、その「依存」は、信頼や、自己有用感や、喜びや、感謝を、その関係にもたらします。そして、日々のこの訓練が、やがて「無条件の愛」へと至る道に通じているのです。

 

けれども、「生命」がそもそも「相互依存」しているという「真理」を知らないでいると、自己の利益や損得勘定を真っ先に考えるということになって、健全な「依存」を逸脱した、いわばネガティブな「依存」が幅を利かすようになってしまいます。

 

このような状態での「依存」は、「支配」と同じことなのです。自分の役割をまだ知らない。ただ自分の思い通りに、周囲のものを動かしたいのです。この、不可能なことに、心をくだいて埋没してしまう‥‥。ですから、そのような「依存」関係には、信頼も、自己有用感も、喜びも、感謝も、生じません。ただ、苦しさと、空しさがあるのみなのです。

 

ということで、あなたには、毎日をぜひ、ポジティブな「依存」に生きていただきたいと思います。

ちなみに「信仰」は、ネガティブな「依存」の最たるものです。

内観する

利他と利己は同じことで、他者の中の「魂」を見るようにしなさい。そう昨日のブログで書きました。でもこれには順番があります。先ず、自分の中に「魂」を見ることが出来なければ、相手の中の「魂」を見ることは出来ません。なぜなら、利他と利己は同じことなのですから。

 

あなたは誰ですか? ご自分に問いかけてみてください。

Who am I ? 私は誰か? と。

あなたなら、どのように答えるでしょうか?

 

続けて質問です。

あなたは、どこから来ましたか?

さて、あなたは、どのように答えますか?

 

さらに質問です。

あなたは、どこへ行くのですか?

さて、どのように答えますか?

 

自分というものを、あなたは解っているでしょうか? 自分が解らない人に、他者を理解することは出来ません。多くの人は、この単純な理屈に眼をつむり、一緒に生活していく必要性から、周囲の人たちに「ああしろ、こうしろ」と要求を突きつけようとします。周囲が、自分の思い通りに動いてくれれば、平安が実現されると思っているのです。

 

でも勿論、そんな関係が上手くいく筈がありません。相手にも、自由意志があるわけですから、同じように「ああしろ、こうしろ」と要求を返して来ます。結局、この意地の突っ張り合いが、すべての「人間関係」における軋轢の原点なのです。自分を解っていないのに、その自分に、周囲の人たちを従わせようとしているのです。

 

これを拡大していけば、グループの衝突、人種の衝突、宗教の衝突、国家の衝突にまで発展して行ってしまいます。このことから解るのは、現在それらを率いているリーダーたちの大半が、いかに無智かということです。国家間の対立というと凄く大きなことのように思えるかも知れませんが、根っこにあるものは全て一緒です。自分を解っていないということから出発しています。

 

人間の眼は、外側を見るように取り付けられています。ですから、自分の眼で自分を見ることは出来ません。ここに錯覚が生じるのです。自分は自分なのだから、見なくても解っていると思ってしまう。けれども、冒頭に掲げたシンプルな質問にすら答えられません。つまり、何も解っていないのです。

 

自分を理解するためには、内側を見る眼、いわゆる「心眼」を働かせなければなりません。外側を見る眼を閉じて、心の眼の方を開くのです。この行為が「内観」です。自分の内側を見るということ。それによって、自分の「心」の動きを観察し、手当てしてあげることが出来るようになるのです。

 

内観のない状態の「心」は、手入れを怠った庭のようで、雑草は伸び放題。枯れてしまった木や、虫食い状態の葉っぱで、見るも無残な荒れ方です。「怒り」をどうやって鎮めるのか、「嫉妬」をどうやって追い出すのか、「憂鬱」からどうやって脱け出すのか、「悲しみ」をどうやって乗り越えるのか。そういう手入れをした経験がないのです。

 

いつもいつも、相手をなんとか遣り込めようとばかり考えていて、自分自身をコントロールしようと考えたことがない。このような人が、社会のリーダーになった時は悲劇です。でも人間社会では、他を従えて君臨する人をもてはやす傾向があるので、民衆は、自ら選んだリーダーに、搾取され、蹂躙され、隷属化させられるという悲劇を歴史的に繰り返しているのです。

 

それとは逆に、「内観」の成果が上がり、「心」をコントロール出来るようになった人は、相手の今の「心」の状態を冷静に見ることが出来るようになります。そして、自分の経験に照らしてアドバイスして上げることも出来るようになるのです。ここに初めて、「相互理解」というものの基盤が築かれ、円滑な人間関係が実現できるのです。

 

ですから、何においても、先ずは自分の本質が「魂」にあることを知ることです。テクニックだけで、円滑な人間関係を築くことは不可能です。そのようなものは上辺のものに過ぎず、深いコミュニケーションは出来ません。先ずは、あなたが自己の「魂」に気づくこと。そうすれば、周囲の人々の中にも「魂」を見ることが出来るようになるのです。

利他と利己は同じこと

利己心というのは、自分に利することを考える心です。一方、利他心というのは、他者を利する(つまり他者のためになる)ことを考える心です。さて、あなたは、どちらを優先して生きますか?


自分の利益だけしか考えないというのは、人間関係における学習の初歩の初歩であって、それを貫こうとしても、結局は行き詰まります。なぜなら、人間は関係性の中でしか生きられないからです。他者を利さない関係は継続していくことが難しく、いずれ壊れてしまいます。


ですから、利己的な人というのは、次から次へと関係を乗り換えて生きて行かなくてはなりません。これが、詐欺師的な人がたどる孤独な運命です。彼らは、その不毛にハッと気づく瞬間が来るまで、その行脚を止めません。ある意味それは、その段階にある人の「修行体験」なのです。


一方、利他を徹底するという生き方は難しいものです。先ず、自分の中での利己心との葛藤がある。それを超越して生きる人も稀にはいますが、そういう人は、心ない人の批判、非難を覚悟しなくてはなりません。


なぜかと言うと、葛藤段階にある人には、その純粋性がどうしても理解できないのです。自分の基準でしかものを見られないので、純粋に生きてる人を「おかしい?」と思ってしまうのです。「何か裏があるんじゃないか?」「きっと狡猾なことを考えているに違いない」と、自分に引き寄せて考えるのです。


そこで、大多数の人は、利己心と利他心のバランスの中に生きています。5:5とか、6:4とか、7:3という割合の中で。このバランスの中で、様々な出来事を体験して行くのが、「修行体験」の第二段階です。利他心に触れた際の喜びや、感謝の念を学ぶことで、自分もだんだんと利他に目覚めて行くのです。


では、「100パーセント、利他に生きられるのか?」を考えてみましょう。自己が他とは独立した存在である以上、利他10割というのは無理のように思えます。しかし、これを超越することは出来る。ジャンプすることは出来るのです。それが完成に至る道です。


自分を愛せない者は、他者を愛せない。自分を許せない者は、他者を許せない。この言葉を、これまで、たぶん聞かれたことがお有りでしょう。このブログでも、何度も語ってきています。これは、一体どういう意味なのでしょうか?


私たちの本質は「魂」です。そしてその「魂」は、一つの大きなものから分かれたものです。ですから、元々は一つですし、肉体感覚を離れれば、繋がっている感覚を取り戻すことも出来ます。このような感覚の中に生きることが、実は「修行体験」の第三段階であり、人間関係の学習における、完成に至る道なのです。


お解りでしょうか? 自己と他者を分けて考えている限りは、この世で、いくら利他心を増やす学習体験を続けていても、真の意味で完成には至れないのです。100パーセントの利他に生きる。これを、完全に我がものとするためには、自己と他者を分ける考え、そのものから脱しなければならないのです。


私たちの本質は「魂」であり、それは繋がっています。ですから、他者にしたことは、自分にしたことと同じであり、自分にしたことは、他者にしたことと同じなのです。利他と利己は、結局、同じなのです。他者を傷つければ自分も傷つき、自分を傷つければ、他者も傷つく。他者を愛せば、自分が愛され、自分を愛せば、他者も愛されるのです。


そこで、「自分を愛せない者は、他者を愛せない」「自分を許せない者は、他者を許せない」と言うのです。そしてそれを、真に理解するためにはジャンプが必要だということ。自己と他者を分けて考えている限りは、あなたは「まだまだ」だということです。


人間関係の中で、他者を見るときには、外見や行動や性格を見るのではなくて、相手の「魂」を見るように努力してください。いつも「魂」を見よう、見よう、と心がけていれば、やがて見えるようになります。

 

そうすれば、どんなことがあったとしても、相手をすんなり許せます。その時、あなたは自分も許しているのです。そして実感として解る筈です。ああ、ジャンプ出来たと。あなたも、早くそうなれ!