by Rainbow School
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この世の生きにくさ -----「波動」敏感者の生きる道

私には、特別な霊能といったものは殆どありません。でも一つだけ、少々困ったちゃんの、特異な面があります。それは、いわゆる「波動」にとても敏感だということ。「波動(vibration)」が何かということについては、またいつか詳しくお話ししようと思っていますが、人、人の言動、表現物、場所、といったものが発する振動の状態が判るのです。

 

これは多かれ少なかれ、誰もが持っている知覚能力なのですが、普通、人はそれを意識せずに暮らしているために、大多数の人は「そんなものはない」と思い込んでいます。それはある意味、生きやすいいことではあります。なぜかと言いますと、「波動」に敏感であることは、日々、全身に鋭い矢先を受けながら、それでもなお耐えて生きるようなものだからです。

 

以前、アール・ブリュット(生の芸術)のドキュメンタリーを観ていた時に、一人の絵描きさんの、ある行動に目が止まりました。いつものように彼女が散歩を楽しんでいると、数十メートル先の神社から、急にドンドコドンドコと太鼓を叩く祭のお囃子の音が流れて来たのです。その途端、彼女はめまいを起こしてその場にうずくまりました。「あ、それ解る」と私は思いました。

 

ドキュメンタリーの監督が「大丈夫ですか?」と声を掛けました。彼はその時、彼女が抱える精神的障害の一端をそこに見たと思ったことでしょう。確かに、彼女は太鼓の音に反応して気持ちが悪くなった。しかし彼女が知覚したものは、太鼓の響きに載せて一緒にやって来る、その場に集まる人々の想念なのです。彼女は障害者とされていましたが、私には、絵で宇宙を表現するメッセンジャーであることがすぐに分かりました。

 

私も、子どもの頃から、あらゆる儀式的なことや、集団的行動が大の苦手でした。お祭りというのはその最たるものです。でも「お祭り」が嫌いとはとても言えません。みんなが楽しみにしているもの、というのが常識ですから。それを他人に言えば、偏屈、協調性のない奴、と言われてしまいます。事実、いろんな面でつんぼ桟敷に置かれ、すっかり孤独な少年となり、中学を卒業して家を出るまで夜尿症で苦しみました。

 

今では、なぜそうだったのかということを説明できますし、自分が儀式や集団的行動が嫌いな理由も分かったのですが、子ども時分にはもちろんそんなことは分かりません。私がこのブログを始めたのは、一つには、同じような悩みを抱えている人がいるのではないかと思ったからです。この絵描きさんにも言ってあげたかったです。あなたは障害者ではないんですよ。メッセンジャーなんですよと。

 

人の世は、乱暴で粗雑な「波動」で満ち溢れています。敏感な人には、これが非常に辛い。チクチクと体を突き刺し、ハートをキューッと締め付ける。そこで反射的に避けるということになるのですが、世間的には、この行動が、対人恐怖や、不登校、引きこもり、鬱、自信喪失、精神障害といったものとして映るのです。すると、周囲の人々や社会はどう対処して来るでしょうか?

 

例外なく、社会に押し戻そうとします。中にはそれを「支援」と称して。本人は、乱暴で粗雑な「波動」で溢れた世界がたまらなくイヤだから、それを避けているのに、そこに戻れと、それのみが正当な「社会復帰」であると、何の疑いもなく同調圧力を掛けて来るのです。しかし、こうは考えられませんか? 学校の方がおかしいんだと。会社の方がおかしいんだと。社会の方がおかしいんだと。

 

しかし、それが上手に言えなくて、どれだけの人が悩み、社会の底辺に沈み、活躍の機会を失っていることか。そこに、「波動」に敏感な人たちの孤独感があります。けれども、そういう人たちにも思い直して欲しいのです。あなたの役割がちゃんとあるということを。あなたが地上に生まれたのは、やはりこの世界で生きる目的や理由があるわけで、単に逃走や隠遁だけしていたのでは「魂」の成長がありません。

 

「波動」に敏感であることは苦しい。この世を生きにくい。でもその特質は、ある種の「目利き」だということです。それは、一流の料理人だけが持つ舌のような。ですから、その特質を善用なさい。これまでは、ただ生きにくさを感じていただけであったものから、今後は上手に遣り繰りしながら生きる術を身につけて欲しい。そして、「宇宙の法則」や「因の世界」や「波動の科学」のことをよく知って、あなたにも光の道を歩んでいただきたいのです。

 

そこで、そういうあなたに先ずお伝えしたいのは、社会が提示する価値観に自分を合わせる必要など微塵もないということです。あなたはあなただし、あなたのままでよいのです。何より、あなたは「自由」です。自分の身の周りに起きる事のすべての意思決定権はあなたが握っている。そこに誰も介入することは出来ません。たとえ誰かの強い影響下にあったとしても、それを受容することを決定するのは、結局はあなたですから。

 

いま言ったことを先ず理解してください。

そして、納得がいったあなたには、次の問いかけをしましょう。

人生は、果たして生きるにあたいするものなのか?

さて、あなたは、何と答えますか?

 

社会が提示する価値観に「自分を合わせない」といったん決めると、「自由」になれる一方で、今度は別の生きにくさが生じます。周囲との摩擦や軋轢です。しかし、ここで負けてしまってはダメです。

 

職場の昼休みに、一つのテーブルでお喋りに花が咲いている。そのうち、その場にいない誰かさんの悪口が出て、それで話題が一気に盛り上がる。あなたはそれを見て「イヤだなぁ」と思う。さてどうする? それをたしなめたり、その場を離れたりしたら、今度は自分が悪口のネタにされるかも知れない。しかし、だとしても、あなたの感覚が「イヤだなぁ」と思うのなら、あなたは何らかの拒絶の態度をそこで示すべきです。

 

それが、自分の「自由」を生きるということだから。

あなたが、あなたのままの生き方を創造するということだから。

だから、「自由」に生きるためには、少しばかりの勇気が必要になってくる。

それは、ほんのちょっとの勇気に過ぎないのだけれど、「宇宙の法則」を知らない者にとっては、とてつもない勇気に感じられるだろうね。

でも、いいかい。自分の生き方を決めるということは、宇宙に「あなたという存在を創る」ということと同義なんだよ。そこを、よく考えてごらん。

 

あなた方は、肉体を持ち、物質世界に暮らしているので、みな「物質世界の法則」の制約を受けます。しかしそれは、ごく狭い領域での出来事であって、背後にはもっともっと大きな世界が控えているのです。その大きな世界を支配する法則が「宇宙の法則」です。ですから、「物質世界の法則」など、「宇宙の法則」という大海から見れば、波間に浮かぶ小さな舟のようなもの。

 

ところが人間は、肉体の自分こそが自分であり、心臓が拍動している間が生きていることと信じる一方で、「宇宙の法則」については、ほとんど何も知りません。でもね、霊的世界から地上を見ると、あなた方の暮らしは、まさに生き霊が蠢く世界なのですよ。身体という衣をまとった生き霊が、地球の上を右往左往しているだけのこと。そこにも、しっかりと「宇宙の法則」が生きているのです。

 

そこで、似た者同士は引きつけ合うという「波動の法則」の一端が地上でも見られるのです。ただ、地上と霊界とで決定的に違うところは、地上においては、似ていない者同士にも出会いがあるということ。それが、仏教で言う「怨憎会苦」を引き起こすわけです。これに対して霊界は、純然たる階層世界ですから、「波動」の高さが違う「魂」は同じ階層の世界では出会えないのです。

 

*怨憎会苦:怨んだり憎んだりする人とも出会わなければならない苦しみ。

 

例を挙げましょう。地上では、詐欺師が善良な人から金品を巻きあげます。嘘つきの政治家が正直な国民を騙します。欲得に駆られた人が誠実な人を裏切ります。粗暴な人が穏やかな人を苦しめます。ところが、霊界ではそうはいきません。詐欺師は詐欺師同士が集まって一つの世界を作り、互いに騙しっこをし、嘘つきは嘘つき同士が集まって嘘をつき合い、共にそれを喜びとして生きているのです。

 

そして、「こんなことをしていても、なんだか空しいなぁ」と本人が悟るまで、それが地球時間で何百年も何千年も続くのです。何しろ想念だけの世界ですから、何かを奪ったつもりになっても、実体物がありません。誰かをやっつけたつもりになっても、相手はピンピンしていて死なないのです。そこで、奪いたい、騙したい、やっつけたいという気持ちだけが、延々と続くことになるのです。

 

ある人は、その世界を称して「地獄」と呼ぶわけですが、何度も言って来たように、宇宙には罪も罰もありません。それは、その人の「信念」が形づくる世界。同じ「信念」を持つ人たち同士が集まって、そういう世界を創り上げているのです。ですから、「地獄」と言っても、本人が好きで行ったのであって、その人たちにとってはまるで天国のようなものなのです。

 

その姿を、どうぞ想像して見てください。地上世界と、何ら変わりがないとは思いませんか。この世にも、嘘をついたり、騙したり、奪ったり、脅したり、偉そうにしたり、暴力を振るったり、ということが大好きな人がいっぱいいますね。そして、少しも反省がない。そういう「魂」は、地上での生を終えてあの世へ行っても、本人の望み通りにまたそれを続けるのです。あらステキ! なんてね。

 

「魂」にとって、地上生活がチャンスだと言うのは、地上では実体物や手応えがあるからです。すると、想念だけの世界とは違って「あ、悪いことしたな」「悲しい目に合わせちゃったな」ということに気づきやすいわけですね。そこで初めて、霊的な成長が起きる。ですから、地上生活で反省の起きない人というのは、あの世に行っても、改心するというのは望み薄です。

 

総じて言えば、地上においては、「波動」の低い「魂」の多くが、高い人からエネルギーを奪いとることによって生きているのです。ではどうして、地上には霊界と同じ境界がないのでしょうね? まさにそれが、「波動」が読めないということと関わりあってくるのです。解る人には解ります。けれども、解らないからこそ境界を超えた接触があり、それが霊的学習のチャンスにもなっているということです。

 

だからこそ、「魂」はわざわざ地上に生まれ出る。霊界にいたのでは決して経験できない、地上でしか味わえない体験をするために。人は何度も輪廻転生を繰り返すのです。「波動」に敏感な人は、このメカニズムをよく頭に入れてください。その上で、問いかけをもう一度思い出してみてください。人生は、果たして生きるにあたいするものなのか?

 

地上での一つの生を終えて、霊界にまで引き継いでいけるものは、あなたが為した体験と、それへの意味づけだけなんですよ。それなのに、どれほど多くの人が、奪い合う人生、騙し合う人生、攻撃し合う人生、馬鹿にし合う人生、自慢し合う人生を歩んでいることか。

 

その人たちは「波動」が読めません。読めないからこそ、そういったことが出来るのです。自分たちが、どれほど低い「波動」を出したり、受け取ったりしているかを知らないのです。お互いに低め合っている友なのです(本人たちはそう思っていませんが‥‥)。まさにそれは、地上に出現した「地獄」そのもの。

 

しかし、敏感なあなたは、そうした「波動」にイヤなものを感じます。「もう止してくれ」と思う、「ウンザリだ」とも思う。さてそこで、あなたはどうしたらいいのでしょうか?

 

第一には、巻き込まれないようにすることです。最初に言ったように「勇気」を持ってください。共感するにせよ、反撃するにせよ、低い「波動」を出すものにちょっとでも興味を抱いた途端、あなたの「波動」はそれと同調して一気に下がります。その落差分のエネルギーを「よし、いただきィ」と相手側が奪い取っていくのです。

 

とても腹立たしいことがあったとしましょう。しかし、同じ土俵に乗ってはいけません。賢いと言われている人たちが、メディアで互いに罵り合っているのを、あなたもよく目にするでしょう。罵り合いは、霊界における一つの境界内の出来事を、地上でも同じようにやっているだけなのです。真に賢い人は反論をしません(自論や真実を述べることはあっても)。エネルギーのムダ遣いだということを知っていますから。

 

最初からイヤだなと解っているものとは、出来るだけ接触しないことです。しかし、接触をどうしても避けられないという場合には、自分の中の「イヤだなぁ」という気持ちを出来るだけ縮小させて(他の楽しいと思える事柄に意識を移せばよい)、来たものは受け取らずに、自分を透明にして、風のように後ろに流してください。

 

さて、これまで言ったことは、聞きようによっては、事なかれ主義に聞こえるでしょう。しかし、そうではありません。ここからが、「波動」に敏感なあなたにお願いしたい、ちょっとした「勇気」に続く、第二の意識転換点です。人類は、今までずっとこれが出来なかったのですよ。こんな何でもないことがね。さあ、今がラストチャンス。

 

目には目を歯には歯を、とやっている限り、あなた方人類の霊性は向上しません。戦争を終結させるためには新たな戦争が必要である、と固く信じ込んでいるのがあなた方です。少なくとも、世界の指導者と言われる人たちの多くが、こぞってそう主張しています。そして、どんな攻撃も、防禦を口実にして行われているということに目を向けてください。そのうえで、あなた方に聞きたい。それで平和は実現されたのかと。

 

あなたが「波動」に敏感な体質に生まれついたのにはワケがあります。あなたにしか出来ないことをやるのです。世の中は、確かに、乱暴で粗雑な「波動」で溢れかえっています。でも、それらに打ちひしがれるために、あなたの敏感な能力があるのではありません。あなたは「波動」というものが解るのだから、暴力には優しさで、怒りには笑顔で、奪うには分け与えるで、悲惨さには慈愛で対抗して欲しいのです。

 

あなたなら出来る。いや、そういう生き方しか、もはやあなたには出来ない。あなたの敏感さを活かすには、これしかない。第二の視点は、完全なる愛の奉仕者となって生きることです。しかし、そうしたところで、人々からは理解されないでしょう。でも、それでもやるのです。どんなに馬鹿にされようが、傷つけられようが、完全なる奉仕者として生きるのです。そして、それが喜びと感じられた時、あなたは本物になる!

 

自分は何のために生まれて来たのか?

人生は、生きるにあたいするのか?

あの世に持っていけるものは(いや、持って生かされるものは)、自分が為した体験と、そこで得た解釈だけである。

よいかな。これですぞ。

だから、一日一日を、倦まず弛まず励むのだ。

Q.人は「普通」じゃなければいけないの?

Q.職場で、上司から「あなたは、普通じゃない」と言われて、叱責されました。普通? 確かに、自分にはひとと変わった面があると思います。しかしそれは「個性」なのではないですか? 職場でそれを出すのは、いけないことなのでしょうか? そもそも「普通」とはどういうことなのでしょう? 人は「普通」でなければいけないのでしょうか?

 

A.その時の状況がどうで、どういう言われ方をしたのかが把握できませんので、あくまで一般論でしか語れません。しかし逆に、一般論で考えた方が、この問題の本質により迫れると思い、お返事を差し上げます。

 

「普通」という言葉は、普通(←ホラこんな風に)、曖昧に使っていますし、私もよく使います。大方の意味は、大多数の人々が合意している意識や行動のことを差しています。ご相談内容には、この「普通」概念の曖昧さと、そのような「普通」に対して、自分を合わせるべきか否かという課題の、両方が含まれています。

 

混乱が生じるのは、前者の曖昧さと、後者の課題とがゴッチャになってしまっているためです。早い話が、後者の課題に、前者の定義の曖昧さが被ってしまうのですね。ですから、先ずこれは分けて考えることが必要です。

 

私の近年の目標は、「普通のことが普通に出来るようになる」だったのですが、その意味は、毎日の掃除や洗濯をしたり、家の前の道を掃いたり、食事後にお茶碗を洗ったり、散歩時にゴミ拾いをしたり、高速道路を運転したりすることでした。自分には、そういう普通のことが(つまり何でもないことが)、普通に(この場合は、イヤだなぁと思わずに)することが、出来なかったのです。

 

この課題に意識して取り組むようになって、お陰さまで、だいぶ自分を変えることが出来ました。ひとによっては、「還暦過ぎて、馬鹿げた目標だなぁ」と思われるかも知れませんが、自分にとっては、それが「今を生きる」上での大きな課題でした。

 

結局、「行動」というものは、その人の今の「意識」の表現活動ですから、「行動」が目に見えて変わったということは、その人の「意識」が変わったというバロメータになっているわけです。我が家がゴミ屋敷だった頃は、私の心も、アラヤ識ならぬゴミヤ識でした。

 

さて、いま上げた「普通」は、私が勝手に「普通」だと思っている事柄に過ぎません。これに一般的とか、めずらしくない、といった定義を被せたとしたら、果たして「普通」であるかどうか? 掃除洗濯や食後の後片づけなどは、多くの人が苦もなく出来るでしょうが、まったく出来ないというかやらない人もいます。中には、「そんなものは女の仕事だ」と思っている男性だっている。

 

家の前の道を掃くというのは、京都では今も当たり前の習慣のようですが、東京ではもう見かけませんね。道路はゴミだらけです。散歩をするときには、出来るだけゴミを拾いながら歩いているのですが、拾っても拾っても、同じところにまたゴミが捨てられています。おそらく同じ人が捨てているのでしょう。その人にとっては、そうすることが「普通」なのですね。

 

このように「普通」の定義は、元来が、極めて曖昧模糊としたものです。けれども、月木は生ゴミを出す日だとか、赤信号になったら停止線でストップするといった、ほとんど総意とも言える「普通」も中にはある。これは、みんながそれを守った方が、社会生活が円滑に機能するということを、大多数の人が経験的に知っていて合意が形成されているからです。

 

では、次のようなケースはどうでしょうか? 義務教育を受けるために、小中学校へ通うことは「普通」だ。確かに、殆どの子どもたちが学校に行っていますし、大多数ということを基準に考えたら、それが「普通」ということになります。でもそうすると、行きたくない、行かない、という子どもは「普通」じゃないということにされてしまいます。それでよいのでしょうか?

 

事実、不登校の子どもを抱え、悩んでいる親御さんがたくさんいらっしゃいます。でも、「ロクでもない教師ばかりの、ロクでもない学校になど、行きたくない」と思っている子どもだっているのです。その子にとっては、世間的には「不登校」のレッテルが貼られていたとしても、実は「不登校」ではなく、「非登校」の意志を示した行動なのかも知れませんよ。

 

つまり「普通」など、定義が曖昧であるばかりでなく、見る立場によっても違って来るのです。このことは、相談者の事例のような職場でも言えることです。ある職場では、その仕事が、合理的また円滑に、かつ気持ちよく進められるよう手順やルールが設定されます。その中には、「月木は生ゴミの日」のようなものもあれば、そうでないグレーゾーンのものも含まれている可能性があります。

 

一時期、私はパチンコ店の清掃のアルバイトをしました。閉店後の11時から入って深夜に黙々と作業をします。5カ月ほど経った頃、私はウェスの手を滑らせて、陶製の灰皿を床に落とし割ってしまいました。ちょうど同時期にトイレの洗剤入れの破損(これは別の人のミス)などが重なったこともあって、数日後、清掃を請け負っている会社から役員がやって来ました。そして終礼の際に、「たかが灰皿だと思うなよ!」と言ったのです。

 

この価値観や「普通」概念は、私には合いませんでした。たかが灰皿です。アホくさ〜と思いました。それで、その後すぐにそこを辞めました。その会社の人々にとっては、アルバイトの怪我を心配するよりも、灰皿の破損の方が重大な問題なのです。その信念のためには、アルバイトのオッサンひとりを怒鳴りつけても一向に構わない。これが、彼らの「普通」です。

 

こういう「普通」に合わせる必要があるのでしょうか? ブラック企業、ブラック組織が掲げる「普通」に、「こうじゃなきゃいけないんだ」といちいち適応していたら、気がつかないうちに奴隷にさせられてしまうし、自分もブラックに染まってしまいます。ですから、会社や上司が言う「普通」に対しては、常に疑ってみる姿勢が大事です。

 

さてここからが、本質に迫る問い掛けです。「あなたは、普通じゃない」と言われた際に、そこにあなたの人格を否定するような、また侮蔑するようなニュアンスが含まれていたかどうかです。おそらく含まれていたのでしょう。ですから、あなたも反発心を持ったのでしょう。しかしうまく言い返せなかった。そこで、冒頭のような相談になったのでしょう。

 

あなたの中には、「普通じゃなくて、一体どこが悪い?」という思いがある反面、「普通」というスケールをほっぺたにギュッと押し当てられて、「あんたはね、規格外なんだよ」という評価を下されたことで、「えっ、そうなの?」という揺らぎもあるのです。その意味では、あなたは、相手が提示した土俵(スケール)の上に乗っかってしまったわけですね。そんなものは、無視してしまえばよかったのに‥‥。

 

あなたの本質が、個別化した「魂」であるということは、何度も語って来ましたね。そして、なぜ個別化したのかという理由も、最近のメッセージで示しました。そうです、個別の体験をするためです。いいですか、もう一度よく考えてみてください。「魂」が個別化した以上、「個性」が生じるのは当然なのですよ。このことは、誰も否定できません。

 

ところがこの時、みんなそれぞれに「個性」があることを、素晴らしいと思う人と、苦々しく思う人とがいるのです。通常はこの両方の意識を、ほとんどの人が同時に持っていて、中間を揺れ動いています。その典型例は、子を持つ親で、我が子の個性の芽生えを嬉しく思う反面、親の言うことをちっとも聞かないと言っては、始終グチをこぼしているではありませんか。

 

なぜ「個性」を苦々しく思うかと言えば、自分の思い通りにすることが難しいからです。周囲の人々を思い通りに動かしたい、自分の支配下に置きたい、コントロールしたい、と強く願う人にとっては、「個性」など、人間の目障りな資質です。これは、歪んだ「oneness」の願望とも言えるでしょう。結局この二律背反も、「融合 / 分離」という「魂」の根源的存在理由より発しているのです。

 

ところで、この相談者は、自分が「普通じゃない」と言われたことに傷ついているわけですが、実は逆の人の方がずっと多いんですよ。それは、「自分が特別ではない」という思いです。自分には特別な才能など何もない。周囲を唸らせるような光る個性がない。平凡だし、優れた点もないし、何をしていいかも分からない。そう悩んでいる人の方が、圧倒的に多いのです。

 

でもここで、この両極端で、ともに悩んでいる人たちに、ハッキリ宣言しておきます。「特別」でない人など、この世に誰ひとりいません。全員が Special なのですよ。あなたも、そしてあなたも。だからこそ、あなたという個別化した「魂」が、この宇宙に存在しているのです。そのように創られたのですよ、あなたは。先ずそのことに、全幅の信頼を置いてください。しかしここで、同時に、錯覚しないようにしなければいけません。

 

全員が「特別」な存在である。だが、そのことは少しも特別ではない

 

解りますか? 全員が「特別」な存在であるということが、宇宙では「普通」のことなのですよ。それは、自然を見ればすぐに解るはずです。山茶花は寒椿に勝ろうとしているのでしょうか? 寒椿は、山茶花よりも、俺の方がチト偉いんだぜと主張しているのでしょうか? どちらも、あらかじめその種子の中に織り込まれていた「自分」を、この物理世界でただ表現しているだけです。

 

そして、同じ寒椿どうしでも、また山茶花どうしでも、枝ぶりや花の付き方は1本1本ぜんぶ違う。いいですか、優があって、劣があるのじゃないのですよ。全員が Special な存在なのですよ。その Special の現れ方が、ちょっとずつ全員違うというだけです。

 

優劣のスケールなど、他者を支配したい人たちが持ち込んだ一つのツールに過ぎません。優劣を認めたら、たちまちにしてその奴隷にされてしまいます。このツールを、満遍なく信じ込まされたために、人類は、本来しなくてもいい苦労を、今なお際限なく続けているのです。でも、もうそろそろ目覚める時です。

 

全員が Special な存在としてある。ああ、それは、なんという圧倒的な愛なのでしょうか。このことを、今ここで、胸に深く刻み込んでください。その限りない愛を受け取ってください。いったい何者が、あなたという存在を創ったのでしょうか? あなたと、このあなたと、あのあなた。そこに差別や優劣があろうはずはありません。

 

全員が「特別」な存在である。しかしそのことは、何も特別ではない。これが、あなたの胸にしっかりと刻まれた時、人間関係に対するあなたの見方は、きっと一変するでしょう。これまでの悩みがまるで嘘のように氷解し、あなた自身が、全き愛の人に生まれ変わっているに違いありません。

 

友よ、そこにこそ、真実のあなたがいるのですよ。

孤独を楽しむ

「孤独」と「独りぼっち」は違います。この二つを混同しないようにしましょう。辞書で「孤独」を引くと、〈独りぼっちでさびしいさま〉と出ていたりして、世間一般でも同じように捉えられていますが、この二つは、次元を異にするものです。この違いを、しっかり認識することが大切です。

 

「孤独」というのは、「孤として独立した存在」という意味であり、人間存在論の、根元的あり方を示したものです。それは単に「状態」を示した言葉であって「孤独」それ自体は善でも悪でもありません。また、根源的あり方ですから、誰もこれは否定できません。否定しようとしても無意味ですし、不可能です。よって、「孤独」から逃れるということは、人間には出来ません。

 

けれども、よ〜く考えてみてください。「孤独」であるからこそ、人間には「個性」というものが生じているのです。「孤として独立した存在」でなければ、「個性」は生じません。つまり「孤独」とは、「個性」を保証する条件なのです。なんて素晴らしいギフトだとは思いませんか。「孤独」な存在だからこそ、あなたは、「自分」という認識に立てるのですよ。

 

でもこれに「感」を付けて、「孤独感」ということになると意味は違ってくる。「孤独」は存在論ですが、「孤独感」は感情を示した言葉です。そこで、「独りぼっち」にちょっと近くなる。それでも両者は同じではありません。「孤独感」というのは、あくまで「孤独」な存在ということへの「感じ方」。その中には、「独りぼっち」という感情もあるかも知れませんが、それが決して全てではありません。

 

さて、「孤独感」と言ったときに、あなたはどのような情景を思い浮かべるでしょうか? 頭を垂れ、沈痛な表情で膝を抱えてうずくまっている人でしょうか? あるいは、気にかけてくれる人が誰もおらず、閉め切った部屋に一人さびしく暮らしている人でしょうか? 確かに、それらも「孤独感」の一断面です。そして、そのまま息を引き取ってしまうことを、世間では「孤独死」と呼ぶ!

 

でも、ちょっと待っていただきたい。このネーミングはすご〜〜〜く変です。「孤独」というのは、人間存在論における根元的あり方ですから、死ぬときは、全員が最期は「孤独死」です。たとえ心中したとしても、相手の死を、自分が死ぬことは出来ません。自分の死は、自分しか味わうことは出来ないのです。ですから、全員が「孤独死」します。これは疑いようのないセオリーです。

 

世間が「孤独死」という言葉に込めたものを、もしも、より適切に言うとしたら、それは「独りぼっち死」です。「孤独死」と「独りぼっち死」とはまるで違う。この区別はとても重要です。別に言葉遊びをしているわけではありません。「孤独」と「独りぼっち」とは全然違うもの、次元を異にするものなのです。

 

山の頂きに登って、雲間からパーッと朝日が昇る瞬間を見る。あるいは、夕凪の向こうに赤々と染まった夕陽がゆっくりと落ちるの見る。それらを前にじっと佇むシーンを想像してみてください。それを、たった一人で眺める時と、恋人と肩を並べて二人で眺める時と、気の合う仲間と大勢で眺める時とでは、そこで感じ取るものがみな違って来るのではありませんか?

 

心が迷いに迷った時、「ひとり旅」に出掛けるという人は多いです。でもなぜ「ひとり旅」なのでしょう? それは「孤独」と向き合いたいからです。「孤独」になりたくて人はそうする。あえて「孤独」になることを通じて、また「未知」のものに触れることを通じて、己の生き方を見つめ直したい。だから、人は節目節目で「ひとり旅」に出る。いや、人生そのものが、ずっと「ひとり旅」なのだ。

 

ムシャクシャした気分の時に、思わずこう言いたくはなりませんか? 「私のことは、ほっといてちょうだい!」。また、手のつけられないほど荒れた状態の人に対しては、みんなこう言うでしょう。「しばらく、そっとしておきましょうよ」。どちらも、「孤独」が、最高の「癒し」になることを知っているのです。

 

他の人の人生を、自分が代わって生きることは出来ないのです。このことが解れば、「孤独」に対する見方もきっと変わって来るはずです。じっくりと本を読む時、何かの思索に耽る時、好きな音楽を心の底から楽しむ時、絵を描いたり物を作ったり創作活動に打ち込む時、目標を設定してひたすら練習に励む時、人はみな「孤独」です。「孤独」としっかり向き合っている。

 

お解りですか? 「孤独」こそが、その人を、成長させるための入り口なのですよ。人は、「孤独」を通じて、その先にある、「実は孤独というものはない世界」を見るのです。ですから、孤独な画家、孤独な作家、孤独な音楽家、孤独なアスリート、孤独な科学者、孤独な経営者、孤独な冒険者は、みな壮大な「孤独というものはない世界」を表現して来たのです。

 

「孤独」とは、人間存在の根元的あり方です。ではなぜ人は「孤独」となったのでしょうか? それは「普遍的な生命(大霊)」を知るため。「普遍的な生命」を知るために、あえて「魂」は個別化した。これが、Singular Outflow of Universal Life、つまり「SOUL」です。あなたという「魂」は、あなたという「孤独」を通して、「全体」を経験する。その行動の軌跡が人生であり、誕生から人が死と呼ぶ瞬間までのたゆまぬ変化なのです。

 

もちろん「魂」に死はありません。「魂」に死があるということは、「普遍的な生命」に死があるということになってしまいますから。「死」という言葉こそ「死語」にしなければならない。ですから、旅はその後も続きます。あなたは、この世でいう誕生と死を通じて、行ったり来たりを続けながら、「全体」を知るための「ひとり旅」を永遠に続けていくのです。

 

「孤独」を怖れてはなりません。「孤独」を敵に回すのではなく味方につけるのです。「孤独」を避ける旅は、実りなき旅です。ご自分の「孤独」にしっかりと向き合い、「孤独感」をこの上なく楽しいものに変えなさい。幼い頃、自然とやっていた「一人遊び」の感覚を、再び思い出すのです。それが、今世での、あなたの飛躍的な成長を保証します。

 

「独りぼっち」というのは、群れていなければさびしいと思う感情です。そのような思いになることも、時にはあるでしょう。でも、いつもいつも「群れていなければさびしい」と思い、そのように行動していたとしたら、あなたは自分を見失い、ますます「独りぼっち」感を強めていくことになるでしょう。なぜなら、あなたが「何者」であるかは、あなたの行動が規定することだからです。

 

現代という社会は、「孤独」に向き合うことをなかなか許してくれません。それどころか、「孤独」であることをまるで「悪」であるかのように決めつけます。いつも誰かと繋がり、群れている状態が推奨され、「支援」と称して、これをサポートするツールやプログラムやアプリやロボットが山ほど登場しています。これらに頼り切りになることによって、逆に、現代人はアイデンティティ・クライシスに陥っている。

 

体験とは何でしょうか? 自己の行動に対する反作用です。解りやすく言えば、行動=体験です。その行動が、いつもいつも何かのサポートを通じてしか得られないとなれば、そこで得る体験は次第に画一化してい ってしまいます。それでは、せっかく「孤独」に生まれた甲斐がありません。巨大システムに呑み込まれて、洗脳されて、奴隷にされて、ロボットになるだけです。

 

だから、現代人よ。もっと「孤独」になりなさい。「孤独」を見つめなさい。自分の「孤独」を誇りなさい。そして「孤独」を楽しみなさい。「孤独」を楽しめる人は、他者との出会いや、仲間といられる瞬間に、ますます大きな喜びや感謝が持てるようになるでしょう。なぜなら、その奥に、「実は孤独というものはない世界」を見出すから。あなたもそれを目指して、今日一日を、元気で、楽しく過ごしてください。

 

いつも、あなたとともに、わたしはある。

支援(Support)ということについて

困っている人を助けることは良いことです。人間がみんな、そのような優しい心根を持って生き、行動していたとしたら、どれほど素晴らしい社会が出現しているでしょうか? しかし残念ながら、現実はそのようにはなっていません。

 

これは地球人類が、霊的にまだまだ未熟なためです。学校で言えば、小学校入学のレベルにも至っていません。助けるよりはむしろ虐げる、平等よりは優劣、与えるよりは奪う、融和よりは闘争、正直よりは欺瞞を好む人間が、社会のリーダーとなって、民衆をその価値観で染め上げ、引率しています。彼らがリーダーになれるのは、それを支える大衆に、結局は同じ心根を持つ人が多いからです。

 

でも心ある人たちは、内心それはおかしいと感じています。ある意味、それは当然です。なぜなら、その人の「本質」は、虐げるよりは助ける、優劣よりは平等、奪うよりは与える、闘争よりは融和、欺瞞よりは正直の方が、人は幸せに生きられるということを知っているからです。この〈心ある人たち〉というのは、自己の「魂」が発する声に素直な人たちなのです。

 

けれども、「魂」の声に素直な人たちにとっては、今は非常に生きにくい時代です。ちょっとニュースを見れば、暴力事件や紛争やテロで人が何人殺されたといった話ばかり。一方で、株価がどうしたこうした、ビットコインが史上最高値をつけたとかと言って人々を儲け話に誘う。イヤな世の中だなぁと思いながらも、多勢に無勢で世の流れには逆らえない。こんな状況に、きっと胸を痛めておられることでしょう。

 

先日、ある人からこんな相談を受けました。その方の職場近くの路上に、ホームレスの男性がいたのだそうです。彼女は気の毒に思って、最初、食べ物をその人に渡してあげていた。そのうちに話をするようになったというのですが、ある時、男性から「500円くれないか?」と言われて、それで急に怖くなったというのです。さて、あなたがその彼女だったらどうしますか?

 

そんなつもりで始めたことじゃないのに‥‥。自分はただ困っていると思って、ちょっと食べ物をあげただけなのに‥‥。一人ぼっちじゃないよ、と言いたくてお話しただけなのに。どうして今、彼はそんなことを言って来るのだろう? 500円。うーん、どうしよう。あげるべきなのだろうか? でもここでお金をあげたら、これから会うたびに無心されるかも知れない。もしかして、最初は500円だったのが、次には1000円になるかも知れない。そして段々と私の生活に入り込んで来るかも? あーイヤだ、自分は何を怖れているんだろう。500円が惜しいのか? いや、そうじゃない。やっぱり彼を、本当のところでは受け入れていないんだ。自分の愛が足りない、ということか? 最初の思いが、単なる偽善者に過ぎない、自己満足に過ぎなかったということを、いま突き付けられているのだろうか?

 

きっと、こんな思いが頭の中を駆け巡るのではないでしょうか? 私にも、若い頃に同じような経験があります。一緒に切磋琢磨して来た友人の一人が、鬱になって仕事が出来なくなってしまった。無収入になった彼を憐れんで、私は彼に10万円をあげました。当時、10万円もあれば1箇月生活できたのです。倹約すれば2箇月は持ちます。その間に、打開策を見つけられるだろうと思ったのです。

 

ところが10日ほど経った頃、当時住んでいたアパートに彼からのハガキが届きました。そこには「お金が無くなりました。」と、一言だけ書かれてありました。これにはびっくりすると同時に、私は腹を立てました。私の3倍のスピードでお金を使っている! いったいどういうことだ。それ以来、彼とは一度も会っていません。今でも時々、どうしているかなぁと思うことがあります。

 

もう30年も前の話で、当時は、私も今のような智恵を持ってはいませんでした。それで、自分のしたことに、やはり激しく自己嫌悪し、悶々とした日々をしばらく送りました。

今の私なら、昔の自分にどう言ってあげるでしょうか? また彼にはどうしてあげるでしょうか?

 

これから書くことは、世間的な、また処世術的な回答にはならないと思います。ですが、この『気づきの啓示板』の読者なら、きっと解ってくださるだろうと思います。

 

近年、「支援(Support)」という言葉が一般に広く浸透し、そうした行為、行動、考え方が当たり前のような感覚になりつつあります。冒頭にも書いたように、困っている人を助けてあげることは、基本的には良いことです。でも、その人が、何に困っているのか、その困っている部分を何をもって助けてあげるのか、を見極めることが非常に大切です。

 

お腹が空いていたら、おにぎりを作って食べて貰えばいいですし、寝るところがなかったら、部屋の一部を提供して布団を使って貰えばいい。ところが「お金」となると、何か気分がザワザワするのは、「お金」というものがいろんなサービスに代替できてしまうからです。その結果、ひもじいのだろうと渡してあげた500円を、お酒を買って飲んでしまったということが起こり得る。

 

*逆に、災害発生直後には、何にでも代替可能な「お金」がいちばん良くて、毛布や古着ばっかり送って来られても困る、という話もあります。

 

このズレは、本当に困っていることの原因が見抜けていないことと、対処の仕方が適切でないことの両方が合わさって生じます。この場合、「500円くれないか?」と言った人は、ひもじかったのではなく、実はお酒を飲みたかったのです。でもそれだって、違うかも知れません。本当のところは、孤独感に打ちひしがれていて、それをお酒で紛らわそうとしたのかも知れません。だとすれば、お金もお酒も何の解決にもなりません。

 

「支援(Support)」という言葉の、今の一般化や常識化は、どうも、この視点がスッポリ抜けているような気がしてなりません。現代においては、「支援」というものが何か制度化、イベント化してしまって、却って、本当に困っていることは何か、というものを見抜く目を失わせているのではないでしょうか? 沈鬱な表情に沈み切った人を助けるのに必要なことは、ただ優しく抱擁してあげることだけなのかも知れません。

 

若い頃の私に、そしてこの500円騒動の相談者に、共に欠けていた視点は、「課題の区別」ということです。私も相談者も、「どうしたらいいのか?」という対処方法にばかり目を向ける余り、相手の課題とは関係ない課題まで自分の中に創り出し、それと闘う羽目に陥っている。そのことに気づかないのです。500円をあげるべきか、あげざるべきか。そのことで、果たして自分が苦しむ必要があったのか? いったいそれは、誰の課題なのか?

 

もちろん、「あなたの現実はあなたが創っている」とこれまで言って来ましたし、「何事にも偶然はない」とも言って来ました。だとすれば、そういう状況に遭遇したのは、何か自分にとっての意味があるはずだ、と生真面目なあなたは思うでしょう。それは、その通りです。ですが、ここからが問題です。「真の援助とは何か?」ということを、あなたは考えなくてはなりません。

 

ここで、世間的な常識からは大きくズレます。宇宙でいう「真の援助」とは、たった一つ。相手の「魂」が、今この瞬間(be here now)の自己の課題に気づいて、成長することを促すことだけなのです。そう聞いて、「なんだ、また『魂』かよ」と呆れられる方もおられるでしょう。でも「なるほどそうか!」と、今までモヤモヤしていたものが、スッキリされる方も多分おられることでしょう。

 

「魂」は、すべて個別のパーソナリティを持っています。あなたが誰かに会う。その時、あなたは、その関係性の中にご自身の課題を発見します。が同時に、相手もその人自身の課題を発見しているのです。これは、当然ながら、同じではありません。そして、その時の境遇や事件は、たとえどんなに悲惨で可哀想なものに見えたとしても、宇宙的に見れば、すべてがギフトなのです。

 

この考え方には、きっと激しい抵抗を覚える方もおられることでしょう。ではこう言い直します。ギフトに変え得る力を、各々の「魂」は最初から持っている。そして、ギフトに変え得た者のみが、それこそが「神の恩寵」だったと気づく。これが、いわゆる『沈黙する神』という命題の答えなのです。

 

神は沈黙している。何もしてくれないように見える。しかし、あなたがハッと気づけば、あなたは、元々が神の一部なのですから、その瞬間に、自分の恩寵を自分で受け取るのです。解りますか? これが、これまでの宗教では決して説かれることがなかった奥義なのです。なぜ説かれなかったのか? みんながこれを知ってしまったら、組織宗教が成り立たなくなってしまうから。

 

ですから、「真の援助」とは、その人の「魂」の課題を見抜いて、今ある状況から、相手が何を学び取るのか、どういう至らなさに気づくのかを、促してあげることなのです。そのためにこそ、お互いの出会い、人間関係というものがあるのです。このことが解れば、いわゆる「支援(Support)」というものの多くが、時に逆効果しか生み出していないことの理由がお解りでしょう。

 

一生懸命「支援」しているつもりが、依存・共依存の関係を創り出しているだけに終わっているケースがあまりにも多い。また、支援する側のちょっとした満足とは裏腹に、支援された側が却って孤立感を深めてしまうケースも見られる。今の親子関係の多くが、自助グループと称するものの多くが、こうした罠に陥っています。それは、互いの「気づき」を遅らせ、「魂」の成長を阻むものになっていることに、それこそ気づいていただきたいのです。

 

課題=成長へのチャンスであることに着目してください。介入し過ぎることによって、相手の課題を奪ってはならないのです。それは、天からのギフトを取り上げてしまうということです。もちろん、相手の課題まで自分が引き受ける必要はありません。あなたにはあなたの課題があるのですから。だから、そこに集中しなさい。そして、それはエゴではありません。

 

そう行動することは、「情」が支配する人間社会から見れば、一見、何か冷たいものに映るかも知れません。がしかし、「宇宙の法則」とはそういうものなのです。「愛情」から「情」を取り去れば、真の「愛」だけになる。宇宙の人になる。時には、何にもしないことが、最大の援助だということがあり得ます。まさに、それは『沈黙する神』のように。

 

ですから、誰かを助けてあげられなかったからと言って、悲しんだり、自分を責めるのはお止しなさい。それぞれの「魂」には、それぞれの課題があって、そうなっているのですから。たとえあなたが助けられなくても、その人は、最初から助けられているのですよ。だから、あなたはあなたの課題に、ちゃんと向き合いなさい。そして自分を助けなさい。それが、結果的には多くの人を助けることに繋がるのですから。

舌禍と正直であること

「全員受け入れることはさらさらない」「排除いたします」。この言葉が波紋を呼んで、選挙戦の潮目が大きく変わってしまいましたね。そこにはやはり驕りがあったと思います。言ったご本人も、後から大いに反省したということなのですが、その反省がもし「舌禍」という面に留まっているのだとしたら、それは充分ではありません。なぜなら、人は思っていないことは表現できないのですから。

 

権力者には二種類がいて、権力そのものが欲しくて権力者になる人と、理想社会の実現のために、権力が持つ統治機構を利用しようとする人です。「権力」など、本当は社会には必要がありません。しかし残念ながら、地球人はまだそこまでは進歩していません。そのため、大勢の民衆を統治するためには、やむなく暫定的に今のような権力機構が必要となっています。

 

そうした状況下では、権力を握った者が、どれだけ真摯に民衆の奉仕者(Public Servant)として生き抜くかが問われるのです。けれども、これも残念ながら、そのように生きる人物は圧倒的に少ない。自分が奉仕者であることを忘れて、まるで王様か貴族のように振る舞う人がほとんどです。選挙公約など、今や有って無きが如し。当選後は平気で嘘をつきまくって私利私欲に邁進する。

 

「こんな人たち」発言も「排除いたします」発言も、その根底にあるのは同じ「分離」という意識です。「人は同じではない」という考え方です。確かに、全員が独立した個体であり、顔かたちも違うし、考え方も立場も境遇も主義主張もみんな違う。でも、それでもなお「みんな同じ」「全部は一つ」という確信を持つことは、先ほど言った霊的進歩の段階において、一段高い飛躍となるのです。

 

ことに、この違いが政治のトップを占める人たちの意識の根底に強くある場合、社会は大きな影響を受けます。「分離」という考え方を推し進めますと、自分と他人を分ける、自分たちの仲間と他の人たちを分ける、ひいては味方と敵を分けるという考えに行き着きます。さらには、自分たちさえ良ければいい、自分の地位や財産を守りたい、そのためには邪魔する敵をやっつけろとなって行きます。

 

これが何をもたらすかは、歴史をちょっと概観してみれば、もう明らかではありませんか? ですが人間は、本当に深いところでの反省というものをなかなかしませんし、いつも情動に突き動かされてしまうので、「あいつは敵だ」「敵をやっつけろ!」と勇ましいことを言って旗を挙げる人には、簡単に「そうだ、そうだ」と同調して、後先あまり考えずに着いて行ってしまうのです。

 

口の利き方は、もちろん慎重にあるべきです。思わず口を突いて出た言葉が、情動に左右されたものでないかを客観視してみる習慣をつけるといい。でもそれは、単に戦術とか、手練手管とか、テクニックとかという問題なのではありません。自分の本性を隠して、いくらテクニックを弄しても、それは「自分自身に嘘をつく」ということにしかなりません。

 

自分自身に嘘をつくことは、とても簡単です。場合によっては、周囲の人々や、大衆を騙すことさえも可能でしょう。でも、天(宇宙)を欺くことだけは、絶対に出来ません。なぜなら、誰もが最初から宇宙に包含された存在であり、かつ深いところでは常に宇宙意識と繋がっているからです。

 

これまで何度か、「正直に生きる」ことの大切さを語って来ました。これは、倫理的意味合いで語っているのではありません。また「嘘をつかない」という意味なのでもありません。倫理なるものは、所詮は人間が定めた基準であり、文化や時代が違えば内容も違ってしまいます。また「嘘をつかない」ということも、ダブる部分はかなりありますが、意味していることの次元が違う。

 

「正直に生きる」とは、自分の「魂(Soul)」に従うということです。自分の「魂」を裏切らないということです。それぞれの人の「魂」は、もともと一つだった宇宙意識から、分かれたピース(一片)ですから、宇宙意識の完全性を知っているのです。ですから、その「魂」の声に耳を澄まして、「魂」が喜ぶことを素直に行っていれば、それがすなわち「正直に生きる」ということなのです。

 

このようにして「正直に生きる」ことは、宇宙の真理にそのまま合致しているわけですから、自分自身の中に葛藤を起こすことがなく、従ってストレスもありません。ですから、ただただ正直に生きれば、その人は平安でハッピーに生きられるのです。

 

ところが、地球に住む人間たちは、どうもそのような生き方が嫌いなようです。「全部が一つ、一つが全部」というのが、揺るぎない「宇宙の真理」であるのに、それには耳を貸さず、他者と比べ、優劣を競い、他者を自分に従わせるために命令し支配し、逆らう者は攻撃し、粉砕することに情熱を燃やそうとする。そのどこが楽しいのでしょうか? 宇宙の不思議よりも、この人間の方がよっぽど不思議です。

 

あなた方に言っておきます。それほどまでに、他者と闘争をし、誰かを殲滅することがお望みであるのなら、あなた方は、遠からず、それを望み通りに地球規模で実現することでしょう。すでに、その集合意識の行方を、あなた方はニュースで見て知っています。でも、いよいよの時になって、「天罰だぁ!」などと言わないで下さいね。天は罰を与えないし、天に罰はありません。みんな、そうしたいと人間が望んだ結果なのですから。

 

剣を取る者は、みな剣によって滅びる」。この意味がお解りですか? 武力を持った者はその武力によって滅びる、と読めます。でもそれだけじゃない。剣を取った瞬間から、その人は、自分の「魂」を信じることを拒否してしまう、という意味なんですよ。剣の方を信じてしまうということです。それが、自分という存在が何者かを分からなくさせる。つまりはせっかくの自分(真我)を滅ぼす。

 

あなたが、ご自分の心の中に常時「剣」を抱くようになってしまったら、当然のことながら、その時点で、宇宙意識とは繋がれなくなってしまいます。そうなれば、その人の「魂」は、今世での霊性向上の機会を失うだけでなく、日常的に「心」に絶えず葛藤を抱えるようになり(なぜなら「魂」の生き方と「心」が望む生き方とが相克するので)、さらには、カルマまで積むことになります。

 

ですから、「反省」という機会(ギフト)を得た時には、「魂」のレベルにまで遡って自分を深く見つめ、自分のどこがいけなかったのかを整理し、宇宙に懺悔し、許しを請うことが大切です。それでこそ「反省」の機会を活かすことが出来ます。

 

人間、誰しも道を誤るものです。大切なことは、たとえ道を誤っても、その「反省」から学ぶことです。逃げてはなりません。成功よりも、失敗の方がより多く学べるのです。誤りに際して、そうやって、自分ときちんと向き合った時、それが本当に自分へのギフトであったことにあなたは気づくことでしょう。

 

ここで、よく知られた、『黄金律』と言われる、あの真理の言葉を改めてお伝えしておきます。

自分がしてもらいたいことを、他の人にも行いなさい

実にこれこそは、シンプルで、「宇宙の法則」をこれ以上余すことなく表した聖なる言葉です。でもこのシンプルな理想を、日常的に実践している人は、極めて稀です。たったこれだけのことが、今の人間には出来ないのです。

 

反省を、もし「舌禍」というレベルで捉えていたとしたら、せっかくの機会を活かすことは出来ません。ですから、「素直さ」が、人間にとって何よりも大切な資質なのです。それが、虚勢を張って嘘で誤魔化したり、誰か他の人のせいにしたりした日には、もうどうにもなりません。一度嘘をつけば、嘘に嘘を重ねなければならなくなり、「反省」の機会はどんどん遠ざかってしまいます。

 

後々になってから、やっと「反省」しようという気になったとしても、それまでに、多くの人を騙したり陥れて来たネガティブな行為の堆積は、いったいどうやって償うというのでしょうか?

 

社会機構の重要ポストに就く人を見る時には、出自や学歴や経歴などで判断するのではなく、ただただ、次のことだけを見てください。この人は、「自分がしてもらいたいことを、他の人にも行う」という資質を持った人であるのかどうか。

そしてあなたも、「自分がしてもらいたいことを、他の人にも行う」人であってください。

他者に支配されない生き方

みなさんは、今のご自分の心を、自分で自由に選ぶことができます。これがいわゆる「自由選択」というもので、それは天から与えられた、これ以上ないギフトなのです。このことは、これまでにも何度も語ってきました。この意味とメカニズムをよく理解し、宇宙の法則に合致した生き方を選択することが、自分で自分を支配するということです。言い直せば、他者に支配されない生き方です。

 

ところが、ほとんどの人が、このメカニズムをよく解っていません。自分の意識が意識化されていない状態で生活しているのです。先日もこのようなご相談がありました。夫婦関係がうまくいかずに困っているが、ご主人にどうもコミュニーケーション障害の疑いがあると言うのです。私は即座に、そのようなレッテル貼りは、お互いに何の益ももたらさないと申し上げました。

 

ご主人に、もしそのような診断を伝えたら、ご主人は「俺ってコミュニーケーション障害者なのか?」と思うでしょうし、奥さんの方は「こういう障害を持つ夫と暮らし続けていくにはどうしたらいいのか」という発想から逃れられなくなってしまうでしょう。あるいは、ご主人が怒って、「バカにするな。おかしいのはお前の方だろう」とやり返してくるかも知れません。

 

このような、誰かが誰かを診断する(言い換えれば「裁く」)という行為が、今や世間広く、当たり前のように行われていて、「◯◯障害」という新語がどんどん発明されている状況です。そしてなんと、このような新語を仕入れることが、現代人の教養であるかのような錯覚がまかり通っています。これは実に由々しき事態です。

 

人は、よく解らないものに対し名前を付けると、それだけで解ったような気になってしまうものです。典型例は、お医者さんの診断および病名の付与です。多くの人たちが、自分を「◯◯病」だと診断して欲しくて、せっせと医者通いをしています。現代のお医者さんとは、病気を治す人ではなく、病名を探して付ける人になっています。

 

ですが、あらゆるレッテル貼りは、対象物の本質を、本当に余すところなく表現しているのでしょうか? 夫を、妻を、子どもを、「◯◯障害」という枠組みに嵌める。それは、その人の本質なのでしょうか? いいえ、そのように見る人の、見たい人の、創り出した意識です。対象物に意味を与えたのは、その人が決定したレッテルです。つまり、「問題」はその人が創っているのです。

 

このことを、人は全くと言っていいほど意識していません。ですから、自分がいま感じている諸問題は、すべて外からやって来ていると信じ込んでいます。わたしがこうなったのは、あの人のせい。正しく評価されないのは組織のせい。恵まれないのは社会のせい。不安にさせられているのは隣国のせい。世の中をメチャクチャにしているのは◯◯人のせい。

 

そして、これを声高に叫ぶ人たちで世の中が溢れかえっている。みんなが、己の満たされぬ感情の捌け口を、自分以外の誰かにぶつけている。そして何より、政治の指導者である人間とマスコミが率先してこれを行っています。しかしここで、根本的な点を指摘しておきます。「関係」は、片方だけでは作れない。「関係」とは、AとBとの「間(あいだ)」に生じるものなのです。

 

この自明の理を、多くの人が理解していません。自分のことは自分にはなかなか見えないので、みんな相手ばかりを非難しています。相手が悪いから、ちっとも「関係」が改善しないんだと思っているのです。ですが、そうではありません。「関係」とは、常に「間」に生じるものです。この「間」は、キャッチボールをする時と一緒で、自分が想うもの、願うものがそのまま返って来るのです。

 

私が『世界入りにくい居酒屋』やコウケンテツさんの食の旅番組、『世界ふれあい街歩き』や関口知宏さんの旅番組が好きで「いいなぁ」と思うのは、初対面の人どうしがすぐに打ち解けて、お互いの文化の話に花が咲き、互いに学び合っている点です。もしも、世界中がこうだったとしたら、なんとステキだろうとは思いませんか?

 

でもなぜ、そんな「関係」がすぐに構築できるのでしょうか。それは番組を見ての通りです。相手を疑っていないからです。胸襟を開き、子どものような好奇心を前面に出して、遠慮なく話し掛けて行っているからです。だから、それに応じた球がすぐに返って来るのです。

 

関口知宏さんやコウケンテツさんが、もしも銃を腰に下げ、疑いの眼で旅先の人を見て、ファイティングポーズをとりながら飛び込んでいったとして、同じことができると思いますか? この当たり前のメカニズムを、どうして夫婦関係や、親子関係や、職場の人間関係や、外交に当てはめてみようとはしないのでしょうか?

 

多くの人が、自分の今の意識は、実は自分が選んでいるのだということを意識していません。これを、「肉(身体)に埋没した状態」と言います。五感がキャッチした、外からやって来た情報に、ただ反応しているだけなのです。けれども、自分の意識は自分が創っているということを意識する習慣をつけるだけで、あなたは自分を劇的に変えることができます。

 

たとえば、あなたが誰かに殴られたとしましょう。殴られた箇所には瞬間的に痛みが走ります。でもその直後の気持ちを、あなたは自由に選ぶことができるのです。「コノヤロー!」と反射的に殴り返すこともできますし、その場に蹲って泣くこともできますし、「さあ、もう一発殴れ」と言ったっていいですし、微笑むこともできますし、有り難いなぁと思うことだってできるんです。

 

その意識の選び方いかんで、あなたが経験する現実が、まったく変わってしまうのです。もう一つの例を言いましょう。職場で、イヤだなと思う仕事を命令されたとします。どっちみちそれはやらなくてはならない。だとしたら、イヤイヤするよりも、その体験を通じて絶対に何かを掴んでやろうと、気持ちを切り替えてやった方がずっといいし、実際それはできるのです。

 

ここで、あなたを劇的に変える重要なポイントをお教えしましょう。どんなことでも、それを、あなたが自分でハンドリングしているという意識を、常に持って行動することです。あの人からこう命令された。これをやらされた。こんな目に遭わされた。このようなパッシブな気持ちは一切捨てて、どんな時も、その中にアクティブに自分が関われる要素を見出してください。

 

探せば必ずあります。たとえば、人付き合いが苦手なのに大勢の人の接客を頼まれたとしましょう。「いやだなぁ。うまく話せるだろうか、粗相なくできるかどうか心配だ」と思う。これを、「よーしこの機会だ。人間観察をして、客の行動にパターンがないかどうか、一つ分析してみよう」となれば、その体験が、その後のあなたにとって、貴重な肥やしになるかもしれません。

 

このように、何事も表向きは「ハイハイ」と聞いておいて、内心では全部を自分がハンドリングする要素に変えてしまうのです。これが、自分で自分を支配するということです。そうすれば、「今を生きる(be here now)」ことの感覚があなたにしだいに入って来て、あなたの人生がハッピーなものに変わっていきます。そして実際、その方が仕事がうまくいき、感謝だってされることでしょう。

 

さてメカニズムが解ったところで、冒頭に示した「宇宙の法則に合致した生き方」とは何でしょうか? これは、愛を与えれば愛が返って来るということです。逆に言えば、憎悪を与えれば、憎悪が返って来るのです。さて、あなたはどちらを望むでしょうか? 当然、前者でしょう。‥‥と言いたいところですが、世の中はまるでそうなってはいません。

 

その理由は、「宇宙の法則」を知らないということもありますし、自分の意識を意識化できていないということもあります。でももっと大きな、根本的な原因があります。それは、あなた方の選択行動に影響を与えている動機が、ほとんど「恐怖」から出発しているということです。「愛」と「恐怖」とを比べたら、「恐怖」の方が、100倍ものモチベーションを与えることができるのです。

 

所有欲は失うという恐怖から生じ、金銭欲は貧困への恐怖から生じ、戦争は攻撃されることへの恐怖から生じ、医療保険は病気や死ぬことの恐怖から生じ、健康食品やスキンケアは老化への恐怖から生じる。そしてそれらに備えれば「恐怖」から逃れられると、みんな思っています。いや、思わされている。社会のシステムが、すべてそのような「恐怖」をモチベーションとして構築されているからです。

 

こんな状況下で、「愛」に基づく選択行動をとる人が、いったいどれだけいるでしょうか? 本当にお寒い話です。でも、だからこそ、ご自分の意識の意識化に取り組んでいただきたいのです。人間の選択行動をプッシュするものとしては、「恐怖」が圧倒的な優位にあります。しかしそれを利用し、大衆を支配しようと企む人たちの尻馬に、やすやすと乗ってはいけません。

 

たとえ1パーセントが支配しようとしても、99パーセントが「No!」と言って従わなければ、それは成立しないのです。長い長い歴史の中で、人類はこれまで、一度たりともそれができませんでした。しかしそれを、今度こそ乗り越えることが、人類に向けられた大いなる課題です。

 

核の惨劇は、一度経験すれば充分ではないでしょうか?

原発事故の災厄は、一度経験すれば充分ではないでしょうか?

ナチズムの集団洗脳は、一度経験すれば充分ではないでしょうか?

戦争したがりの人たちが、国民をどのように誘導していったかは、一度経験すれば充分ではないでしょうか?

世界大戦は、二度も経験すれば、もう充分ではないでしょうか?

政府は必ずウソをつく。マスコミは真実を伝えない。これも、もう充分に経験したのではないでしょうか?

 

ああ、愚かな人たちよ。

世界を、人類を、我欲のために、破滅にまで導きたい人がいることは確かです。

でも、なぜ、そういうリーダーたちに好んで着いて行こうとするの?

着いて行き、わざわざ心を不安と怒りでいっぱいに満たし、

わたしが与えた、愛の輝きを棄てようとすることを選ぶの?

99パーセントが着いて行かなければ、1パーセントはどうすることもできないのですよ。

優越意識

自分がまだ10代だったころ、オフクロは、私によくこんなことを言っていました。「ひとの良いところだけを見なさい」。これは当時、イヤな奴との軋轢に悩んでそれを吐露した際に諭された言葉です。でも当然、そんな言葉で納得するわけがありません。ますますぶんムクれて「そんな問題じゃねーんだよ」と悪態をついていたと記憶しています。

 

しかし今にして思うと、その通りだなと思うのです。その言葉は、10代の自分を直ちに変えさせるまでにはいたりませんでしたが、でもこうして今も頭の隅にずっと残っている。真実の言葉というのはそいうものだと思うのです。決して古くはならない。そして受け入れる準備が整った時に、パッとそれが解る。

 

「良いところだけを見ろ」と言われても、もちろんそんなわけにはいきませんよね。たとえば、コーヒー豆の選別を考えてみるとすると、良い豆を選ぶということは、悪い豆を取り除くということですから、この2つはいつも同時に起こるのであって、良いところだけを見るということは実際には不可能です。ま、屁理屈を言えば。

 

でも価値の置き方を選ぶことができます。ひとの粗探しばかりしていたら、その人の良い点が目に入らないし、だいいち自分の心の中をネガティブでいっぱいにしてしまうわけですから、気分がよかろう筈がありません。逆に悪い点はスルーして、良い点だけを見ていれば、こちらの心の中をいつも快適にしておけるというわけですね。

 

インターネット社会になって、嘆かわしいなぁと思うのは、この粗探しや、他者を罵倒するという行為が、もはや当たり前の感覚に育ったことです。誰も彼もが、特定のターゲットを決めては悪罵を投げつけている。節度なんて、もうどこにもない。

 

最初にこれをやったのはテレビでした。次いで夕刊紙。それ以前に週刊誌というものがあったのですが、週刊誌はあくまで裏の道でしかありませんでした。ところがテレビが、表の道でそれを解禁してしまった。とにかく、ターゲットにした人物を徹底していじめ続ける。このいじめが終わるのは、賞味期限が切れた時か、次のいじめのターゲットが見つかった時だけです。

 

そして、インターネットで匿名で個人発信が出来るようになってからは、雪崩を打ったようにその感覚が広がり、子どもたちの間でネットいじめまでが登場するようになってしまいました。皆さんは覚えておられるでしょうか? 2チャンネルが登場した当時、これに眉をひそめる人は多かったんですよ。今は全部が2チャンネル化してしまいました。

 

政治では、ジョージ・ブッシュ大統領が登場してから、タガが外れてしまいましたね。今のドナルド・トランプ大統領をご覧なさい。安倍晋三首相をご覧なさい。節度なんてどこにもない。これが今の時代の風潮。国会の場を見てください。テレビのコメンテーターを見てください。みんな、自分以外の誰かをこき下ろすことに血眼になっているじゃありませんか。

 

結局、そうした言動の奥にあるのは優越意識です。あるいは、自分が優越だと(思いたい)意識です。現代社会では、人々の間に、こうした優越意識が、異常とも言えるほど肥大してきています。この主原因は、今の人間社会から、皮膚感覚のコミュニケーションが失われてしまったためです。血縁、地域縁、職場縁、etc.。かつてあった共同体がことごとく崩壊し、みな孤立してしまった。

 

するとどうなるでしょうか? 自分を定義づける場がないのです。活躍の場がないと言ってもいい。たとえばコミュニティでお祭りか何かのイベントをするとしましょう。気心が知れた人間が集まった時には、Aさんは字がうまいから看板を書いてもらおうとか、Bさんは料理が得意だからまかないをやってもらおうとか、自然と役割が決まりました。つまり自分を定義づけられたわけです。

 

ところが、今はそれがありません。そこで、根拠のない優越意識を振りかざすことで自分を定義づけたいと思うのです。「こいつ、なんにもわかっちゃいねーぜ」とか、「ただのハゲのおっさんだろ」とか、ワンフレーズでこき下ろす。こき下ろすのですが、その理由については説明がないし、「My opinion(私の考え)」をきちんと話すこともないのです。

 

そして、この優越意識が、国家、民族、人種、ジェンダー、血筋、学歴、企業名、役職、財産、スタイル、美貌、若さ、宗教、政党、軍事力、経済システム等々、ありとあらゆるものに仮託され、自分たち以外の者をこき下ろす際の道具(ツール)となっているのです。今の世界がメチャクチャなのは、これを他ならぬ、指導者層にいる人たちが、最も率先して行っている異常さです。

 

なぜ世界から戦争と貧困がなくならないのか。なぜ地球の環境破壊が止まないのか。これらの原因は、最も強烈な優越意識を振りかざす人間が、政治、経済、教育、宗教等の指導者となって、民衆を優劣の差別意識へと駆り立てているからです。これが社会の劣悪さを生み出している元凶なのに、彼らは優越意識を正当化する言葉と行動しかしないのです。

 

そこに、一般の民衆が巻き込まれて、さらには自分たちも優劣意識の論理に染まり、その中で自由を奪われ拘束されている。これが、人類の最大の不幸であり、この不幸が、今や種としての生存さえ危うくさせる段階にまで来ているのです。人間が、種としての存続をこのまま望むのであれば、この自滅行為をストップさせねばなりません。この構造に気づくのです。

 

優越意識を持つことは、そりゃあ気持ちのよいものでしょう。周囲の人たちの尊敬を集めることができるでしょうし、人々を支配することだって可能でしょう。けれども、自分よりも優越を主張する存在が出現した時、この気持ちよさはたちまち不快に変わります。相対的に劣位に転落してしまうからです。そこで優越意識を保つために、目障りな奴は徹底して攻撃しようとするのです。

 

世の中をよくよく眺めてご覧なさい。国家 vs 国家、企業 vs 企業、政党 vs 政党、政治家 vs 政治家、宗教 vs 宗教、学者 vs 学者、コメンテーター vs コメンテーター、全部がそのような不毛な争いを延々と繰り返しているのが解るでしょう。その裏にあるものは、実に単純な衝動です。俺よりも優れた人間がいることなど絶対に許さんぞ。

 

そんなことをして苦しむのは誰でしょうか。みんなです。勝者などいない。優越意識に浸って、一時いい気持ちを味わうこともあるでしょう。ですが、これを覚えて置きなさい。他人に為したことは自分に為したことと同じである。なぜなら、全部が一つだから。他人を叩けば、自分を叩いたことと同じであり、他人を愛せば、自分を愛したことと同じになるのです。

 

あなたには個性があります。その個性は、何のためにあるとお思いですか? 優劣を確認するためにあるのではありませんよ。あなたを定義づける道具(ツール)としてあるのです。

 

あなたが編み物を始めたとしましょう。あなたはその日から「編み物をする人」になる。それが好きになって、どんどん研鑽を積んだとしましょう。あなたは「編み物が上手な人」になる。さらに研鑽を積んで独自の技を身につけたとしましょう。あなたは「編み物の達人」になる。そして、個性が輝く。あなたの個性を、他の人々に、社会に、役立てることができる。

 

それは優劣ではないのです。個性なのです。一人ひとりが、みんな素晴らしいのです。周囲に違った個性があるからこそ、あなたも個性的でいられるのです。ですから自信を持ちなさい。あなたの個性は誰にも真似できないのですから。そして、周囲の個性を讃えなさい。みんな違っていることを喜びなさい。

 

お手てつないで一緒にゴールすれば平等なのではありません。そんなことをしたら個性を圧殺してしまいます。駆けっこが速い子はそれを讃えてあげなさい。ビリの子は、剽軽でひとを笑わせるのが得意かもしれない。植物の観察に熱心かも知れない。学校では目立たないけれど家ではお母さんの手伝いを黙々とやる子かも知れない。それを見出してあげるのがエデュケーションです。

 

バラはバラであり、ユリはユリであり、ユリはバラになる必要はなく、バラよりも劣っているのではないことを、自然を手本にして子どもたちに伝えてあげなさい。バラはバラとして咲けばよいのであり、ユリはユリとして咲くことが、美しさのハーモニーを形づくっていることを伝えてあげなさい。そして、最初からそのように花咲くことが約束されていることも。

 

ひとの粗探しはもう止めにしましょう。誰かの粗探しを一つする。それは、自分の心の中に「不快」を一つこしらえたということなんですよ。自分の気分を自分で悪くするような、そんなバカなことは、もう金輪際やめましょう。

 

だから、粗探しではなくて、ひとの良いとこ探しをしなさい。そうやっていつも他者を見なさい。一つすれば、あなたの心は一つ豊かになる。いっぱいいっぱいすれば、あなたの心は豊かさでいっぱいになる。周囲の物、周囲の人に意味を与えているのは、つねにあなただということに気づきなさい。自分がどういう意味を与えるかで、不幸にも幸福にもなれることに気づくのです。

ヘイトとハグ ‐‐‐ どっちを選ぶ?

「フリーハグ」という言葉があることを、あるインターネットの動画を観ていて知りました。K国に対するヘイトデモが行われてる中で、K国のひとりの女性がそれを行っているのです。私もしょっちゅうハグをしています。日本人には全く馴染みのない習慣ですが、外国人がやっているのを見て「これはいいことだ」と思ってから、真似して積極的に行うようになったのです。

 

私はこういうシンプルさが好きです。ねぇハグしようよ。そんな簡単なアクションだけで、友愛のコミュニケーションが図られる。相手を値踏みしたり、疑心暗鬼でいては、ハグはとてもじゃないができないと思うんですよ。

 

それに比べて、「ヘイトデモ」とか「ヘイトスピーチ」とか、なんてイヤな言葉が流行っているのでしょうか。このような憎悪の表現行動が、今や世界中を席巻しています。

 

国家主義、民族主義、排他主義、人種差別、異教徒排斥の傾向が、世界各地で盛り上がっています。その根っこには、グローバル経済がもたらした歪みに対する人々の反動があると、私は分析します。地域固有の文化を破壊されることに対する潜在的な怖れが、背景にはある。そのことには同情します。でも、矛の向け先が間違っていると思うのです。

 

K国やC国をヘイト(hate:憎悪)するという時、それは何に対して言っているのでしょうか? その国の領土のことを言っているのでしょうか? それには領海も含むのでしょうか? そうではなくて政治体制のことを言っているのでしょうか? 特定の政治指導者のことを言っているのでしょうか? あるいは国歌や国旗のことを言っているのでしょうか?

 

それともその国の国籍を持つ人たち全員を言っているのでしょうか? その中には外国から帰化した人は含まれるのでしょうか? 反対にその国から日本に帰化した人は含まれるのでしょうか? その二世や三世はどうでしょうか? そうではなくて、風俗や習慣や文化のことを言っているのでしょうか? 言葉や食べ物や服装や、その国の輸出品のことを言っているのでしょうか?

 

いいや、そんなしちめんどくさいことはどうでもよく、ともかく、一切合切全部が嫌いだとでも言うのでしょうか?

 

結局、「自分が抱いているイメージ」が嫌いなのだということにはなりませんか? では、そのイメージを創ったのは誰でしょうか? その人です。ですから、憎悪を剥き出しにする人というのは、結局、自分が嫌いなんですね。自分の中に、どうしても許せない、イヤな部分がある。でもそれを、外側にある身近な対象者に転嫁してしまうのです。イジメの構造は、全部これです。

 

自分を信頼できない。自分を愛せない。自分を敬うことが出来ない。でもそれを素直に認めることが出来ないから、その憤りのエネルギーを、外側にある適当な対象者を見つけては、それに対してぶつけているのです。そこに、本人は全く気づいていない。

 

他者を見下すことで、自分が優位に立てる道理はありません。他者を憎悪することで、自分を愛することは出来ないのです。他者を憎悪する人は、自分を憎悪する人です。他者を愛することの出来る人だけが、自分を愛することが出来るのです。自分を愛することの出来る人だけが、他者を愛することが出来るのです。これが道理です。

 

憎悪の炎を燃やせば、結局、自分を傷つけます。ニュース報道などで、ヘイトの雄叫びを上げる人たちの顔をよく見てください。心の苦しさに耐えかねて激しく歪んでいるのが分かるはずです。自分の感情は、いつだって自由に選ぶことが出来るのに、なぜわざわざ「憎悪」の感情を選ぶのですか? それでハッピーになれるわけがないじゃありませんか? あまりにも愚かです。無智です。

 

ハグをしている瞬間の人たちの、顔をよく見てください。ハッピーが溢れているじゃありませんか。こんな簡単なことなのに‥‥。愛とは、こんなに簡単な理屈なのに。なぜ人間はいつまでも解ろうとはしないのでしょうか?

見透かされる恐怖心

何かを極めた人、深い知恵や知識を持った人の前に立つと、自分がなにか見透かされるような気がして来る。そんな経験はないでしょうか? 若い頃の私は、そのような場面に遭遇するたびに、恐怖心でしょっちゅう怯えていました。なんとかこれを克服したいと思った私は、ある時から積極策に出ました。

 

セミナーや会議の席などで、そういう人が「何か質問はありませんか?」と声を掛けると、たいていはみんな押し黙っていますよね。そこで私は、一番最初に質問の手を挙げるというノルマを自分に課したんです。そうやって、一人がブレイクスルーすれば、後から手を挙げる人も出てきます。

 

日本人は、その場の「空気」というものを優先する傾向があるので、自己主張することに馴れていません。アホな質問をしてしまって、恥をかくのは嫌だという思いが先に立つのでしょう。特に男性は、「沽券にかかわる」などと言って、恥をかくことを極端に嫌う。

 

結局それは、社会が提示したスケール(物差し)から、脱け出てみる冒険をしないということなんですよね。そのスケールの価値観を信じてしまっているから、スケールの上層部に立ちたいと思い、自分はまだスケールの下層にいると思うから、それを思い起こさせるような恥はかきたくないんだよね。

 

でも、真っ先に手を挙げてアホ役になることくらい、別にどうってことはない。それよりも、ひとに「聞く」ということは、仲よくなるための最高のコミュニケーション手段なんだけどねぇ。胸襟を開いて聞けば、たいていの人が質問に応えてくれるものだよ。

 

つまらないスケールなんか捨てて、自分が「素」になってしまえば、見透かされる恐怖なんて逆に無くなるよ。なぜなら透明人間になってしまうから。見透かされるものが、もう何も残ってない! 相手の視線が背中を突き抜けちゃう。だから、素直でありのままでいれば、いつでも最強なのさ。

 

別に小利口ぶらなくたっていいじゃないか。アホで結構じゃないか。後ろ指さされたっていいじゃないか。いつでも素直でありのままでいれば、ずっと楽だし、すぐに人とも仲よく打ち解けられるし、いろんなことが学べるし、ハッピーな毎日が送れるものだよ。

 

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明日は、お休みをいただきます。

他者が自分を嫌うのは、嫌う人の問題

自分を嫌う人が居るというのは仕方のないことです。みなそれぞれが個性を持っていて、顔つきも体つきも違えば、境遇も思想信条も、考え方も感受性も違う。「魂」の出どころは一つだということをしっかり理解していれば、人類みな兄弟であることが解り、融和が生まれるのですが、残念ながら人間は、外面的なものに囚われていて、「違い」の方ばかりを強調してしまうのですね。

 

私も年に数回、ひとから激しい罵声を浴びせられることがあります。理由は様々でしょうが、インターネットを見ていれば、そんなものばかりで、しかも「炎上」と称する事態も起きるのですから、今の世の中は、他者を誹謗、中傷、罵倒したいというエネルギーで溢れかえっているということなのでしょう。ではもし自分が、ひとから嫌われた時には、一体どう対処したらよいでしょうか?

 

先ず大事なことは、あなたが落ち込む必要は全くないということです。2・3日は気持ちも動揺して不安定になるでしょうが、これから言うことをしっかり頭の中に入れていれば、回復も早くに元の元気さを取り戻せます。

 

他者から自分が嫌われる。そういう事態になると、嫌われた人は大抵、自分の中に嫌われた理由を探そうとします。そして自尊心が傷つけられたと思った場合には反撃に出たり、自信を失った時には落ち込んだりします。しかしよ〜く考えてみてください。そうやって嫌っている「心」は、相手側の持ち物なのです。相手側の「心」が「嫌い」という感情を持ったのです。これに、あなたがお付き合いをする必要はないのです。

 

「嫌い」という感情を出現させた相手は、それで楽しくなったか、嬉しくなったのと言いますと、実は逆で,その時「不快」を抱えているのです。ではなぜ「不快」を、わざわざ自分の中に持とうとするのでしょうか? それは、そうせざるを得ない衝動が働くからです。その人の「魂」はまだまだ未熟で、自分の中の処理しきれない感情のエネルギーを、そうやって他者にぶつけることで放出しようとするのです。

 

このような段階にある人は、「不快」の根本原因が、実は自分にあるということに気づくまでは、何度でも同じ行為を繰り返します。自尊心があるので、自分の過ちを認めたくないのです。それで、代わりとなる「原因」を探し出し、ターゲットを見つけては、その人に憎悪の感情を向けたり、悪罵を投げつけたりするのです。こうしたエネルギーが集中すると、いわゆる「炎上」が起こるのです。

 

このことですでにお解りのように、誰かを「嫌い」だという感情は、その人の「心」の状態を映したものです。しかし覚えておいて欲しいのは、宇宙の法則は、それ以上のことを冷徹に示すということです。それは、自分が為したことは、自分に返って来るということです。法則としては単純です。これを、いわゆる「カルマの法則」というのです。

 

ですから、他者に投げつけた誹謗、中傷、罵倒のエネルギーは、宇宙を巡り巡って、必ずその人の元へ返って来ます。そうすると、当然、自分が攻撃されたような気分になって反撃したくなる。そこでまたターゲットを見つけて、誹謗、中傷、罵倒の声を浴びせ、これがグルグルと自分の中で続くのです。こういう人は、どん底の気分にまで落ちるか、病気にならない限りは、なかなか気づきません。

 

そのようなわけですから、そういう人にお付き合いをして、一緒になって自分の波動まで下げる必要は全くないということです。いちばん良いのは無視することです。友人のRさんが言うのを聞いて「なるほどな」と思ったのは、街角で配っているティッシュと同じだと思えばいいんだと。「はいどうぞ」と差し出されても「いいえ、結構です」と、受け取らなければいいんだと。

 

あなたを攻撃して来る相手は、受け取ってくれることを想定しているわけですから、受け取らなければ、そのエネルギーは通過して行って、すぐにその差出人に返ります。それで、その人は苦しみます。別に苦しませることが目的ではありませんが、あなたは自己防衛でそうすればいいのです。相手が苦しむのは、自分が為したことは自分に返って来るという法則を学習するために与えられたものです。

 

今これを相手の立場で言いましたが、あなたについても同じことです。あなたが、誰かの「嫌い」という感情を受け取れば、あなたの「心」は、その感情に同調して波動が下がります。また反撃に転じれば、闘うということは土俵を同じにするということですから、これも同じく波動を下げます。しかも今度は、自分の「私だって嫌いよ」という「不快」な感情を宇宙に向かって放ち、それが返って来るのを受け止めることになるのです。

 

お解りですか? ですから先ずは無視。受け取らないこと。そして、そのような苦しみの段階にある相手には、温かなエネルギーを送ってあげましょう。相手が微笑んでいる顔を、脳裏に強くイメージすればよいのです。そうすれば、今度は、その温かなエネルギーが、自分のもとへ返って来ることになります。ね、簡単でしょう?