by Rainbow School
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結婚とはチームワーク

未婚や独身の人が増えています。私の周囲にも大勢いるし、私も独身です。(ついでに言っておきますと、ただいま変人募集中。ただし当方、財産、収入ともに殆ど無しです。あ、間違えた。変人ではなくて恋人です。女性の、)

 

未婚や独身者が増えているというのも、地球に現れた「変化の一つ」で、それにはやはり理由があります。しかし私は、そういう「変化」を問題だとは思っていません。「変化」は必ず起きるものです。けれどもこれを問題視する人がいるんですねぇ。政府も「少子化対策」と言っていて、まったく実効が上がらないのに、そういう大臣ポストをずーっと設けています。

 

問題視するワケは、年金システムが成り立たなくなるとか、高齢者福祉のための財源確保ができないとか、経済が縮小するとか、過疎地が増えるとか、活力が失われるといったことで、その反対側であり続けることを、「よいこと」と考える人たちにとっては、それが即「問題」だということになってしまうわけですね。

 

でも、宇宙の悠久を考えれば、そんなものは一瞬の「変化」に過ぎません。人類の歴史を見たって、滅亡した都市や文明や島はたくさんあるでしょう。ですから「変化」に抵抗したってムダなんです。それよりも、理由を見なくちゃいけない。「変化」というものは、みんな何かの「理由」の結果なんです。ですから「理由」を変えれば、自ずと「変化」の方向も変わって行きます。

 

政府の「少子化対策」に実効性がないのは、この「理由」を、すべて物理的なものに還元してしまおうとするからです。確かに、収入の減少は「結婚できないこと」の大きな要因になっています。しかし、「結婚できないこと」と「結婚しないこと」は別です。「結婚しないこと」の理由は、多分に心理的なもので、政府はその領域までは入り込めない。そこを全く解っていないと思います。

 

結婚しないこと、また子どもを生まないこと(両者は一体ではありませんが)の理由は、それで果たして「幸福」になれるのかという疑問が、適齢期にある人に浸透しているためなのです。一昔前なら、「結婚は女の幸せ」とか「子宝に恵まれる」といった言葉が、なんの疑問もなく語られていました。でも今は、果たしてそうなの?という疑問を、多くの人が持つようになったのです。

 

もう無条件に、「結婚は女の幸せ」とか「子は宝」とは言えない。つまりそれは、条件付きになってしまったのです。「条件付き賛成派」が多くなってしまったのです。自分の親や、周囲の友だちや、自身が育って来た家族体験などを考えると、「幸福」とはとても思えないような人がいっぱいいる。だから、もはや結婚や家庭を築くことに対して、無条件での「幸福」イメージなどは持てないのです。

 

これは、何事をするにしても、バーター取引や、損得をいちばんに考えるという風潮が蔓延してしまったということが一つ。その一方で、結婚して幸せを手に入れたい、ずっと一緒に居たいと思えるような人と結婚したい、というバーチャルな願望だけが肥大してしまい、(結婚後の)生活のリアリティが描けない中で、願望と失望とのギャップが大きくなっているのです。

 

そこに、現代の「婚活産業」というものが成立する条件が生まれて来ます。今の「婚活産業」は、お互いの希望条件のマッチングというものをコンピュータを使って行います。つまり、相手の値踏みを、コンピュータの助けを借りてやるわけです。こんな風にして、結婚することで「幸福」を「手に入れる」という発想が非常に強くなって来ていると思います。

 

だから、結婚しない人が増えているのです。リスク要因を考え始めたら、必ず一つや二つは上がりますから。でも60年、70年前には、写真だけを見て結婚したという人も大勢いました。それでも仲のいい夫婦がいっぱい誕生した。今は、情報がはるかに豊富になって、審査も厳しくなっているのに、離婚率は3組に1組にまで上昇している。これは一体どういうことなのか?

 

昔とは何が違うのかと言いますと、昔の結婚は「共に協力して家庭を築く」ということが、暗黙のうちに、目的としてあったのです。つまり結婚は、チームを作ることだったのです。ですから、結婚式はオマケのようなものに過ぎず簡素なものでした。ところが今は、タレントと見紛うばかりのド派手な演出の式を挙げて、それで生活をし始めると「こんな筈じゃなかった」と言ってあっさり離婚してしまう。

 

何か勘違いしていませんか?と言ってあげたいです。結婚とはチームワークなんです。一緒に「生活」を創っていく行為なのです。ですから欧米では、一緒に「生活」していける相手かどうかを見極めるために、結婚前にいわばインターンシップ期間を前提としている国も多い。早い話が、同棲ですな。私は、これは非常に合理的な考えだと思います。

 

加えて、「魂」的に言えば、結婚生活というものは一つの学習機会なんです。家族や家庭もそうです。そういうクラスに入ることで、そこでしか体験できないこと(主として「愛」というもの)を学習する。ですから、そういう学習が今世において必要だと直感した人は、そこに飛び込まないと、その学習機会を失って、また来世に持ち越しとなってしまいます。

 

それは「生活」ですから、世間的に言う良いことも悪いことも起こります。様々な困難や軋轢にも遭遇します。でもそういうものを全部ひっくるめて「魂」の学習機会になっているのだということを、知っておいて欲しいのです。そうしたら、生活はかつかつで苦しいが、赤ん坊の寝顔に無上の喜びを感じた、などという至福体験を味わうことだってあるかも知れない。

 

結局、そういうものが「魂」の成長ということであって、これは、政府も婚活産業もハンドリング出来ないものなのです。ですから、ご自分の内なる声に従って、結婚したいと思う人はすればいいし、そう思わない人はしなくたっていい。要は、今世の自分の学習課題は何かを思い出せということです。そして思い出したら、つべこべ言わずに、それを存分に味わえということです。

Q.「無償の愛」の人になるには?

Q.私には「無償の愛」の人になるためにはどうすればよいのか、どこまでがそれなのかよく理解できません。子どもや家族への愛、職場の部下との関わり方など、見返りを求めないことは、すべて面倒を見てやるということなのでしょうか。どのように考えれば「無償の愛」の人になれるのでしょうか。

 

A.これはもう核心を突く質問で、これが解れば、人類はもうちょっとマシな道を歩んで来ただろうと思います。過去2600年くらいは宗教の時代でしたが、宗教ですらこれを間違って捉えて来ました。いや、故意に歪めて大衆に伝えて来たのです。

 

この問いに対する答えの大部分は、すでに過去の記事の中で書いています。けれどもバラバラに散ってしまっているので、全体像が見えにくいことは否めません。そこで改めて、この問いに答えてみたいと思います。

 

先ず「愛」ということなのですが、この「愛」にもいくつかの段階があります。人間がふだん「愛」と言う場合には、それは「情愛(愛情)」を指している場合が多いのです。そして「愛情」が深いことは、人間社会では、通常よいこととされています。

 

動物はみな、習わなくても生殖をし、自然と子育てをします。それは本能に基づくからなのですが、人間だけは「感情」をつねに働かせて生きていますので、ここに「感情」を絡めます。その結果、本能を超えた「愛情」という意識が生まれてゆくのです。これには功罪があります。

 

「感情」は人間を成長させるための一つのツールですから、人間に「愛情」があること自体は、「愛」の学習にとっては必要な段階なのだと言えます。しかし「情愛」深きことは、しばしばネガティブに作用してしまう場合もあるのです。本人がその感情を「愛情」だと思っていても、実は「支配」の変形であることに気づかないケースが多いのです。

 

多くの動物では、子育て期を終えると、子は後腐れなく巣立って行ってしまいます。しかし人間の親子関係は、その後も長く続きます。また子育て期に、「あなたの為を思って」と言って、子どもをコントロールしようとする親も多いです。恋人関係や夫婦関係においても、見返りを要求する「愛情」行為が頻繁に見られます。

 

このように、人間が普通「愛」という場合には、殆どが「情愛」絡みの感情を「愛」と捉えているのです。そこで組織宗教は、これを神との関係にも当てはめ、神の「愛」を語ったのです。しかしここでハッキリ言っておきますが、神の「愛」は、通常の人間の「愛(情愛)」とはレベルの違うものです。

 

そこに行き着く段階の中に「無償の愛」がある。しかし本来ならば、この言い方はおかしいわけですね。なぜなら「愛」は「愛」だからです。それをわざわざ「無償の愛」と言っているのは、人間が語る「愛」が、あまりにも「有償」だらけ、バーター取引のようになっているために、それに先ず気づいていただく必要があり、「無償」を強調しているのです。

 

さて、「愛」の段階とは何か? これには大きく言って三段階があります。「情愛」→「博愛」→「神の愛」です。他にもいろんな言い方がありますが、意味しているところは、みなこの三段階です。古代ギリシャでは、これを、エロス(ερως, eros)、フィリア(φιλια, philia)、アガペー(αγαπη, agapee)と言って、区別していました。

 

ご質問の「無償の愛」の人になるとは、先ず「博愛」の人を目指すということになります。もちろん「神の愛」も「無償の愛」なのですが、先ほども書きましたように、そのレベルに至れば、わざわざ「無償の愛」と断ることもない。「愛」は「愛」で、Universal Love(宇宙愛)に行き着いているわけです。

 

ではどうしたら「無償の愛」の人になれるのか、「博愛」の人になれるのか、という問いかけです。ここでじっくり考えてみてください。なぜ、多くの人間が「情愛」レベルに留まっているのでしょうか? そこには、先ほど書いたように「支配」の錯覚もあるのですが、根本的な問題は「情」が捨てられない、また捨てようとしないからです。

 

わが子が可愛い。これは親としては当たり前です。しかし「情」が強く入りますと、わが子以外はそれほど可愛くない、となってしまいます。しかし、もし「情」を捨てれば、子どもはみな可愛いとなり、その人は「博愛」の人に近づくのです。この理屈が分かりますか?

 

「情愛」から「情」を取れば、文字通り「愛」だけになるのですよ。

言われてみれば簡単なこと。

でも人間には、これがなかなか出来ないんですねぇ。

 

どうしてでしょうか? 人間社会では、「愛情」深きことが、よいこととして推奨されているからです。ですから、「博愛」の人は、しばしば激しい非難の的となります。一般の人には、「博愛」が理解できないのです。「博愛」の人は「情」のない人、「薄情」の人に見える。一般の人というのは、エゴの裏返しで「私だけを愛して欲しい」のです。

 

ですから、「博愛」の人となるためには、こうした非難覚悟で「薄情」の人とならなければならない。「博愛」と「薄情」とは、ちょうどトレードオフの関係になっているんですね。でも、それでもなお、あなたは「博愛」の人を目指すべきだ。それが道なのだから。

 

「博愛」は、何も困難ばかりではありません。「博愛」の人には「博愛」の人にしか解らない幸福感がある。これこそ光。至福への道。

 

「無償の愛」という言葉から、「見返りを求めない」という部分に、どうしてもひっかかりが出てくることは否めません。私も誤解を与えたかも知れません。しかし今ご説明したように、そこがポイントなのではないのです。「情」を捨てれば、自動的に「見返り」などは求めなくなっている。だからこそ「博愛」の人なのです。

 

しかしこれも、「愛情」を信じている人からは、誤解や反発を生むかも知れませんね。「情」を捨てるというよりも、「情」を超えると言った方がいいでしょうか?

 

ですから、「すべて面倒を見てやる」ことが、「博愛」ではないということは明白です。もし逆の立場だったら、あなたはひとから「すべて面倒を見て貰いたい」でしょうか? それが、あなたという個性を活かす道へと通じることなのでしょうか?

 

あなたがもし誰かを援助したいと思ったら、相手の状態をよく見極めて、適切に判断することが必要です。心に深い傷を負った人には、先ず寄り添って癒してあげることが必要でしょう。けれども、自分の足で歩み始めた人にまで過干渉してしまったら、自立の道を絶ってしまいかねません。

 

どうしたらいいかに迷った時には、お手本を見習えばよいのです。これ以上ない、最高のお手本‥‥。それは「神の愛」です。

 

「神」は、手取り足取り何かしてくれたでしょうか? 「神」は、ああしろこうしろと、あなたに迫ったでしょうか? 「神」は、これが出来ないとお前を罰するぞ、と脅したでしょうか? 「神」は、私がこうしてやるからその分お前はこう返せ、と迫ったでしょうか?

 

何も言わない。ただ、あなたに限りない自由を与えて、静かに自立を見守っているだけだ。それは、この上なく「薄情」だとは言えないでしょうか? でも全部を掌握している。なぜなら、「神」は創造された全部であり、かつ創造者自身でもあるからです。この「愛」。「愛」しかない「愛」。これが「神の愛」。

 

困っている人を前にして、あなたが全部を見てあげようと思い詰めなくても、あなたに専任の守護霊が居て、背後には「神」の存在があるのと同じように、相手にも守護霊が居て、背後には「神」の存在があるのです。すべては一つ。その人には、その人の学びがあり、その人は、その学びの瞬間を、いま生きているのです。

 

ですから、大いなる安心の上に立って、相手の状態をよく見極めて、あなたがいま出来ることを、した方がよいと思われることを、相手が喜び、そしてあなたも喜びながら行えば、それで充分なのです。そして、その一歩々々が、「博愛」への道へと通じているのです。

 

●参考

Universal Love

エロスの愛について

仏教が「愛」を説かない理由

「我」という意識の進化

博愛の人は、薄情な人のように見える

「博愛」を Wikipedia で引くと、《「博(ひろ)く愛すること」の意であり、「平等愛」のこと》と出ています。しかしこれは、私に言わせると、ちょっと違うんですね。「博く愛する」はその通りですが、「平等愛」というのは、結果としてそうなるということです。「平等愛」を目指して「博愛」を実現しようと思っても、それは無理というもので、下手をすれば偽善に流れてしまいます。

 

そうではなくて、「博愛」の前には、「無条件の愛」が無ければならないのです。「無条件の愛」であるからこそ、それは自然と「博く愛する」ことになり、結果として「平等愛」になるわけです。

 

ところが、一般に「愛」と言った場合には、それは「情愛」のことを差しています。「私だけを愛して欲しい」「あなただけを愛する」という具合に、それは限定的で、しかも「条件付き愛」(私がこうして上げるから、あなたはこう返してくれ)である場合が、大半なのです。

 

これは悪いことではありません。動物を見ても、親子愛、家族愛というのは、そこから出発しています。ペンギンやアホウドリなど、群れを作って繁殖する鳥がいますが、あれほど大きなコロニーを作っていても、餌を取りに行った親鳥は、ちゃんと我が子を見つけます。人間から見たら、全部同じに見えてしまうのに、凄い能力です。

 

ですから「情愛」というのは、繁殖と生き残りのためには必要なものです。けれども、この「情愛」を拡大していって、周囲の人々を平等に愛せば「博愛」になるかというと、それは無理なんです。「情愛」というのは、そもそも限定的なものですから、これを拡大して「博愛」を目指そうとすると、矛盾から葛藤が生じてしまいます。結果として、それは偽善的になる。

 

ですから、「博愛」の人となるためには、いつも言っているようにジャンプが必要になるのです。「無条件の愛」の人に、変身しなければならないのです。ある意味、それは「情愛」を捨てて行くということでもあります。

 

楽しみにしていた韓国ドラマの『ホジュン』が終わってしまい、ちと寂しいのですが、この『ホジュン』は、イ・ビョンフン監督の作品の中でも最高のものだと思います。だからこそ、その後2回もリメイクされているのでしょう。

 

『ホジュン』では、他のイ・ビョンフン作品にはある復讐譚といった要素がなく、徹底した「博愛」と、それに対する「迫害」というものが描かれています。連続ドラマを引っ張って行く主軸を、復讐劇ではなくて、「博愛」と「迫害」という対比に据えているんですね。そこが、『チャングムの誓い』『トンイ』『イサン』『馬医』『商道』などとは違う。

 

『ホジュン』の主人公であるホ・ジュンと、その医術の師であるユ・ウィテは、共に医療を通じて「博愛」を目指しているのですが、これが周囲の人たちからは殆ど理解されません。ユ・ウィテは妻や息子からは薄情な親と思われて軽蔑され、ホ・ジュンもまた、息子からは家族のことを考えない薄情な親と思われ、非難されています。

 

宮廷の両班たちは、ホ・ジュンの才能の妬み、「博愛」が理解できずに、「裏に何か策略があるのではないか」と邪推して、ホ・ジュンを引き摺り落とそうとしたり、逆に利用しようとしたりします。ホ・ジュンの評判を聞いて押し寄せる患者たちに至っては、ただ己の病気を治して貰いたいだけで、「治せなければ罪を償って貰うぞ」と脅す始末です。

 

これらの「分からず屋」の迫害にひたすら耐えながら、ホ・ジュンは「博愛」の人であり続けようとするんですね。ここに、迫害・弾圧というものが起きる典型的な要因が示されています。要は、人は自分の眼鏡でしかものを見られない、ということです。

 

ジャンプしていない者にジャンプした者は理解できない。まさに「準備ができた者だけに、それは与えられる」と言われる通りです。普通の人には、「博愛」と「偽善」の区別すらつきません。むしろ「偽善」の方が、ストレートで解りやすい分、好まれるのです。

 

ですから、「博愛」の人というのは、「分からず屋」さんたちから見れば「薄情」に見えます。〈自分だけを愛して〉はくれないからです。もっとすると「無情」にすら思える。そこで、蔑み、小馬鹿にし、罵声を浴びせる。「博愛」であり続けようとする人は、それでもなお、そういう人たちにも「無条件の愛」を降り注いでいかなければならないのです。

 

でもね、「神」の愛というものを考えてみてくださいよ。それが、〈あなただけ〉を愛するものなのでしょうか?

 

あなたには、これまで生きて来て、「神も仏もあるものか!」と思った瞬間が、一度ならずなかったでしょうか? 一生懸命お頼みしたのに、呼びかけにちっとも応えてくれないじゃないか。なんて「薄情」なんだ。「無情」な奴なんだ。どうして苦しみばかり自分に与えるんだ。神様のバカヤロウ!

 

そう、罵声を浴びせたことがなかったでしょうか? 同じじゃありませんか。それが「博愛」、つまり「無条件の愛」の発露ということなんですよ。

草食化
ある調査によると、今の大学生の中で Steady(決まった交際相手)のいる割合は、男性でも1割、女性ではわずか3パーセントに留まるのだそうです。この数値は、10年前と比べて3分の1ということで、昨今「草食化」していると言われるのにも無理はないなと納得させられました。

背景にあるのは、どうも「怖さ」のようです。言葉は悪いですが、「がっつく」気持ちよりも「怖さ」の方が勝ってしまっているということですね。それだけ、動物としての本能が弱まっているということでしょう。

そして、一時は下火だった「三高(高学歴、高収入、高身長)」のような、ふるい落としのための条件付けがまた復活しているというのです。ただし経済不況を反映してか「三平(平均的年収、平凡な外見、平穏な性格)」とか、「4低(低姿勢、低依存、低リスク、低燃費)」といったショボンとしたものに、条件が変わっているということなのですが‥‥。

いずれにしろスペック重視になっていて、そのスペックを満たしている相手でなければ、怖くて怖くて、とてもじゃないが恋愛も結婚もできないということらしいです。こういう傾向は随分前から見られてはいたのですが、最近はより顕著になっている。その理由は、同性の仲間内で「えっ、あいつとあいつが? ありえねぇー」などと、簡単に断じられてしまうからなのだそうです。それが怖い。

そうなると、そのグループ内での承認が得られる相手とでなければ付き合えないということになってしまい、ますます異性との接触の可能性は低くなっていく。そして代わりに、スペックがますます重要視されていくわけです。このスパイラルがグルグルと回って、それが先に上げたような数字の激減となって表れている、ということのようです。

そうなる理由というのもよく解ります。雇用が不安定になって、10年先、20年先の将来設計など、今は全く描けない。そうなれば、できるだけリスクテイクを避けて安定を選ぼうとするのは人の常です。しかしそこで、むしろそういう時代だからこそ、「幸福とは何か」ということを、原点に帰って考える必要があると思うのです。

すでにこうなってしまった世の中を、すぐに変えることは出来ませんが、自分の意識を変えることはすぐにでも出来ます。前にも何度か書きましたが、「幸福」というものは、その時の「心」の状態をいうのです。ある条件が満たされれば「幸福」ということではなくて、いついかなる時でも「幸福感」を抱きさえすれば、それがすなわち「幸福」なのです。

問題は、大多数の人々が、「幸福」というものと、そのために必要な「条件」とを結びつけて考えているところにあります。長年そのように教育されて来たし、周囲を見て育っているし、あらゆる広告がそのようなメッセージを毎日送り続けて来ている。「三高」「三平」といった条件も、婚活産業というところが、そういうキーワードを作っているわけです。

ですから、ジャンプが必要だと、繰り返し言っているのです。こういう一切合切の構造やシステムから自由になるためには、それらを無視するしかない。ここまで歪んだ社会になってしまっては、通常の範囲内で「幸福」を求めようとしても、格差社会の現実に打ちひしがれるだけです。ですから原点に帰って、「幸福」というものを見つめ直す必要があるのです。

「がっつく」のがなぜいけないのでしょうか? がっついたっていいじゃありませんか。他の動物を見てください。恋の季節にはみんながっついて、オス同士が喧嘩までしてるじゃありませんか。それが動物として、人間として、自然なことだとは思いませんか? なぜスペックなどにこだわるのでしょうか? ピン!と来た相手と、どんどん「がっつく」恋愛をすればいいじゃありませんか。

「魂」の世界では、体験がすべてなのです。体験しないことには、なにしろ成長は図れないのです。結果など問題ではなく、体験にこそ意義があるのです。この世にせっかく生まれて来たことを、ムダにしないようにしてくださいね。それに「魂」の世界では、「ピン!」と来ることには深〜い意味があるのですよ。そのチャンスもムダにしないように。

スペックよりもピン!を重視して。さあ、どんどんがっつけ! 男も女も。
結婚、出産は女の幸せ?
年ごろになって、「いつ結婚するんだ」「子どもはまだか」と、周囲から何かと責められてウンザリしている人も多いことでしょう。特に女性に対しては、出産年齢に限りがあるため、この圧力が非常に強い。何より政府が無責任にそれをほざいています。子育てが困難な社会状況を、自分たちで作っておきながらねぇ。

でもどうして、こういう紋切り型の圧力言葉が横行するのでしょうか? 適齢期の人が親から責められるのは、それぞれの「家」の事情や、DNAを継続させたいという本能的欲望もあるのかも知れません。しかし一番の理由は、その人が「両親」から生まれたということにあると思います。

えっ、意味が解らないですって? その人が、いまこの世に存在しているということは、両親がいて、結婚して、Sex したからです。ですから親は、そういう経験を経て来た自分を、潜在意識下で肯定したいし、それが最も自然だと思い込んでいるのです。そこであまり深く考えずに、冒頭のような発言になるのです。

けれども、「結婚、出産は女の幸せ」という単純な思いの中には、次元を異にした複数の問題が、一緒くたにして放り込まれています。そのことに当の発言者たちは気づいていません。それに人間は、他の動物とは違って、社会システムを随時変革しながら生きているので、この変革の影響を非常に強く受けます。

先ず「結婚」ということですが、これは単なる制度に過ぎません。そのため、国や民族によって、また時代によって、定義が異なります。日本で今「結婚」と言ったとき、それは何を意味するのでしょうか?

生活の実体があろうがなかろうが、書類を役所に提出すれば「結婚」と認められるのでしょうか? それとも結婚式を挙げれば「結婚」なのでしょうか? あるいは初夜を迎えた時なのでしょうか? では同棲しているカップルは「結婚」したことにはならないのでしょうか? 同性のカップルは「結婚」とは言えないのでしょうか?

動物には「結婚」はありません。動物番組を観ていると、繁殖のためにカップルが出来たとき、それを「結婚」と言ったりしていますが、それは人間のアナロジーを動物に当てはめて言っているだけです。動物は本能に生きていて、繁殖のためにつがいを作るだけです。

人間にも、繁殖して子孫を残すという動物的側面は確かにあります。しかし人間は社会の影響を強く受けるので、自ら変革する社会システムによって、この繁殖行動は大きく変化させられて来ました。特にこの半世紀の変化は凄まじく、一世代違えば、考え方も感覚も行動も大きく異なり、親の結婚観を子に押し付けることなど、もはや不可能です。

ですから、「結婚、出産は女の幸せ」などと、もう単純に言える状況下にはありません。さてそこで、もう一つの問題が絡んで来ます。それは「幸福感」と「幸福観」です。一般論として、「結婚、出産」は本能的な「幸福感」を女性にもたらしてくれるかも知れませんが、人間は同時に社会的な生き物ですから、「幸福観」というものが各人に育っています。

この「幸福感」「幸福観」というものは、大脳が感じているものであって、大脳を発達させてきた人間は、単なる本能を超えた感情を持つのです。ですからそこには、育って来た環境や、教育や、社会システムが何重にも影響を与えていて、個人それぞれの「幸福感」「幸福観」を形成しているのです。そのことを、先ず認めてあげなければなりません。

ここでいったん整理しますと、人間というものは、他の動物と同じように繁殖行動の本能を有してはいるけれども、それが(近年特に)弱まっており、代わりに大脳が発達して、本能に勝る「幸福感」「幸福観」を個人個人が抱くようになった。ですから一括りにすることはもはや出来ず、個々人の考え方を、先ずは認めてあげなくてならないということです。

政府が「希望出生率1.8」などと言うのは、出産というものを、マクロな観点から、単純に「国力」に結びつけて考えているわけで、私などはそういう発想があることにびっくりです。社会環境の変化と、個人の「幸福感」「幸福観」の変化を最初から無視して語っているわけですから、まったくお話になりません。

ではここで、「結婚、出産」問題を、「魂」の観点から見たらどうなるかをお話しましょう。政府がどんなに熱烈に「希望」をしようが、社会変化は止められないのですから、いま置かれた状況の意味をもっと大きく捉えるためには、やはり「魂」の観点から見なければならないということです。

先ず「魂」は、輪廻転生するということを思い起こしてください。「魂」は、性別や立場を替えて、何度も輪廻転生を重ねながら、様々な感情体験を経ることによって成長して行きます。ですから今世、結婚・出産を経験しないからといって、誰からも責められる理由はないし、本来的にそれはあなたの自由なのです。

過去世ですでに充分経験して来たかもしれませんし、来世に経験することにして、今世では違う人生経験を「魂」が希求したのかも知れません。子どもが大好きなのに赤ちゃんが出来ないという人は、もっと博愛的な愛の学習機会が用意されているのかも知れません。このようにして、「魂」の学習経験は人それぞれですし、一概に何かを断じることはできないのです。

また「幸福感」「幸福観」というものも、(まさにそれが学習テーマなのですが)何を選ぶかは、あなたの完全な自由なのです。その自由意志の行使の仕方が、今世におけるあなたという人間を最終的に創り上げます。ですから重要なのは、何がいいとか悪いとかではなくて、いつも自分が意識的に行動することなのです。社会通念や親の期待などは無視して構わないのです。

さて、マクロで見た場合、人口動態の変化には、やはりそれなりの意味というものがあります。目の前の「結果」というものは、すべて背後にある意志の繁栄ですから、社会全体の結果には、集合した意識が関係しています。日本を含めて先進国で出生数が低下しているのは、やはりそれなりの意味があるということです。

それが何であるかは、各人で考えていただきたいと思いますが、国力だけの観点から「希望出生率1.8」などと言っても、どうにもならないということだけは申し述べておきます。それよりも、少子高齢化を悪いことだとは思わないでください。そこにも意味があるのです。それを感じ取って、少子高齢化の中で素晴らしい社会を創るために、自分が出来ることをなさって行ってください。
不倫? どんどんやれ!
セミナーが終わって懇親会をしている最中、「そういえば、ジカ熱って今どうなったの?」と訊いてみました。すると「不倫に変わった」という答えが返って来ました。今は不倫につぐ不倫で、「不倫の連鎖」なんだそうです。そうなんですか? だとすれば、パンデミックの恐怖を煽ることと不倫とは、テレビ局にとって同レベルのネタなんですね。

「不倫ってそんなに悪いことなんですか? 不倫も文化ですから」と、かつて石田純一さんが語ったとされているのですが、私はその発言に、全面的に賛同します。

動物を見てください。動物たちは「不倫」でギャーギャー騒いでいるのでしょうか? 騒いでいるのは人間だけです。「倫理」に反するから「不倫」だという。しかしその「倫理」は、民族や宗教や価値観によってみんな違うじゃありませんか。そんなものが人類にとって普遍的な、守らなければいけない掟だとでもいうのでしょうか? 馬鹿げています。

飽きの虫、リンリリンリと やかましい

なぜもっと本質を見ようとしないのでしょうか? 「不倫」だって、「愛」の学習じゃありませんか。くっ付いたり離れたり、傷ついたり傷つけたり、反省したり無償の愛に目覚めたり、そうやって成長していくんじゃありませんか。それをなぜ、咎め立てしようとするんでしょうかねぇ?

私は、そんなことで騒ぐのは、みんな「羨ましい」からだと思います。私はすごーーーーく「羨ましい」です。(長音をあと10個くらい追加しても可)
「羨ましい」んだったら、「羨ましい」と言って、自分に出来ないことが出来る人を、賞賛すればいいじゃありませんか。

賞賛しないから、自分の中に壁を作って、モテない人間になってしまって、モテる人を見ると嫉妬に狂って、自分がますます魅力を失うんじゃありませんか?
Make Love にタブーなんかありませんよ。動物を見習え!ですよ。

還暦過ぎた私だって、やれば出来る! 現在「恋人募集中」ですから、われと思わん人はどんどん来てください。ただし言っておきます。私にだって、選ぶ権利はありますから。
同棲のすすめ
身近な人で結婚適齢期を迎えている人がいたら、結婚を決める前に、ぜひ同棲することをすすめていただきたいと思う。特に親御さんたちは。そうすれば、結婚後に生じる夫婦間の不和や離婚は、かなりのていど減らせるのではないかと思うのです。

前にも書いたのですが、NHKの『COOL JAPAN』を観ていた時にこの問題が取り上げられ、結婚前に同棲を経験しないというのは、世界の中ではどうやら少数派だということを知りました。もっとも番組に出演していた20カ国くらいの中での話ですが。

結婚前の同棲がタブー視されているのは日本と韓国くらい。韓国は儒教が根づいているために倫理にうるさい。日本は、戦前の家制度的なものはさすがに無くなりましたが、でもまだ、結婚前に同棲することは、女性にとってかなり勇気を必要とするのではないでしょうか。

世間や親に「ふしだら」という感覚がいまだ残っている感じがします。でも、恋愛して付き合ってみて、結婚を意識し始めたら、互いに「お試し期間」を置くというのは自然なことだし、とても合理的だと思います。

そして合理的なだけでなく、もっと大きなメリットがある。それは、「愛」というものの変化を実体験できること。いちばん最初は惹かれる「愛」。これを一般的には「恋」と言っているわけですが、この背景にあるものは、実は所有願望です。ですから「愛」と言ってもまだ未熟で、錯覚が多分にある。

同棲を経験すれば、これが、分かち合う「愛」、いたわり合う「愛」、育てる「愛」にしだいに変わって行きます。その変化を経験することで、最初の錯覚に気づかされるかも知れません。

そうやって、変化を通じてお互いに成長していければ、大きな学習になるのですが、どちらか一方、あるいは両方が所有願望のまま(つまり支配欲の段階)に留まっていると、一緒にいても癒されることがなく、関係はだんだんと冷えて行ってしまいます。そういうことが「お試し期間」で発見できます。

これが同棲経験なしに結婚して、子どもが生まれ、後から錯覚に気づいて離婚したりすれば、そのしわ寄せが子どもにも及んでしまいます。実際、そういう例が後をたたないわけですね。それで得をする人は誰もいません。

ですから、「愛」というものは「変わる」ということを、先ず念頭に置く必要があるのです。「変わらない」「変わらないでいて欲しい」と思うから、自分が望むような変化でなかった場合に、裏切られただの、心が離れただのと言って、相手を非難することになるのです。

そうではなくて、「変わる」ことを前提にして、どのような方向に変えて行くかということが「愛」の学習です。そのように捉え、恋愛関係という経験を通じて、人としての成長を図っていって欲しいものです。その合理的な手段として、同棲経験を上手に使っていただきたいと思います。
『ロッキー』の “I love you.”
シルヴェスター・スタローンの『ロッキー』という映画を観たのは39年前。すぐに主題曲のEP盤レコードを買って腕立て伏せなどをやり始めました(バカだね)。最後の場面は、物まねが出来るほどです。

「エイドリアーン、エイドリアーン」潰れた眼の瞳を彷徨わせて、必死に恋人の名を呼ぶロッキー。
「ロッキー、ロッキー」観客席から、リング上のロッキーのもとに駆け寄るエイドリアン。
互いを確認し、ロッキーの眼をしっかり見詰めてエイドリアン言う。「アイ・ラービュー」
ロッキーがそれに低い声で答える。「アイラブ・ユー」

映画史に残る、とても感動的な場面。でもその時自分は、本能的に「違うでしょ!」と心の中で叫んでいた。天の邪鬼といえば天の邪鬼。でもハリウッド映画を観るたびに、「なんだ、また最後は愛かよ」と、その「LOVE」の押し売りにはもうウンザリしていました。以来、「愛」という言葉を口にすることさえ憚(はばか)れるようになってしまいました。

ところが、今は堂々と「愛」と言う。「愛」がもっとも大切とまで言う。このブログでも何度も強調しています。以前と比べたらもの凄い変化なのですが、でもハリウッド式の「愛」を認めたわけじゃないんですよ。やっぱりあれは違う。

特定の人が愛しい、恋しい。いつも一緒に居たい。離れていると寂しい。私がこれほど求めるのだから、同じように私にも返して欲しい。そうやって一体感を共有したい。自分が価値あるものだということを確かめたい。

これは果たして「愛」なのかということです。互いがそれを欲し、与え合うという関係が続いている間はそれでもいい。いわゆる「ラブラブ」という期間です。ところが、相手が自分以上には与えてくれないと感じ出した途端、そこに亀裂が入ってしまう。それが更に進めば、「愛」だと思っていたものが「憎しみ」にまで転じてしまう。

そんなものが「愛」なのかということです。仏教の方では、これを「渇愛(タンハー)」と言って、煩悩の一種だとしました。「愛」という一見美しい言葉で包んでいても、それは自分の中の所有欲、支配欲、依存心、性欲、等々を満足させたいだけなんですよね。

だから、芸能人カップルが「ラブラブ」の期間が終わった途端、みなあれほど破局へと進むのです。芸能人というのは、基本的に自己顕示欲が肥大した人たちですから、本当の「愛」というものに対しては、そもそも感覚が鈍い。逆に言えば、その分本当の「愛」への渇望も強いわけで、これがしょっちゅうくっついたり離れたりする理由です。

男と女が出会う時には(同性の場合もありますが)、先ずは本能というものがあるので、最初はハリウッド式の「LOVE」であっても構わないとは思います。しかしいつまでもそうであっては成長がありません。

「愛」の本質というものは「獲得」にあるのではなく、むしろ「滅私」にあるのであって、自分の中に眠る所有欲、支配欲、依存心、性欲等々を、逆に手放して行くようでなければならない。これがいわゆる「無償の愛」です。ですから、少しずつそのような心境になれるように、自分というものをコントロールして行くことです。

そこに自覚のない人は、いくつになっても「いい男がいない」だの「私はDV男にばっかり会う」などと言い続けている。そんなものは根本的に間違っている。原因はその人自身にあると気づかなければ、始まるものも始まらない。
結婚観・恋愛観
40代のある女性からこんな話を聞きました。その方はちなみに独身です。
大学の入学時に、親からこうきつく言われたのだそうです。「学費を出して上げるんだから、四年間しっかり勉強しなきゃダメだよ。学業が本分なんだから。言い寄る男がいたとしても、そんなのにうつつを抜かしてちゃダメだよ」と。そして、彼女はその言いつけを忠実に守ったのです。

ところがめでたく卒業したら、親から今度はこう言われた。「これで大学も無事卒業できたし、あなたも早くいい人見つけて、さっさと結婚しなさいよ」。
そこで彼女はハタと困ってしまったんですね。急にそんなことを言われても、男との付き合い方が分らない!

それを聞いて、私は「なるほどねぇ」と思いました。同じような経験をした人が、結構おられるかもしれませんね。

動物を見れば分かるように、お年ごろになれば、オスとメスはくっつくものです。それが自然な流れというものです。ところが人間は、そこに余計な観念を持ち込んで、その自然な営み、流れを断ち切ろうとする。「結婚」とか「純潔」といった概念です。なぜそんなものを押し付けようとするのか、それによって、何が得られるのか。

「結婚観」とか「恋愛観」というものは、体験をいろいろと重ねることによって、その人の中に自然と醸成されていくものです。それが人生における学びというものでしょう。その中には当然、選択ミスや判断ミスもある。しかし失敗経験こそが、その人を大きく成長させる基になるということを忘れてはなりません。

要は、あのとき「失敗」に思えた経験を、その後に、どう自分の中でプラスに転換して活かすかということです。その意味では、人生に何一つ「失敗」などありません。ですから「失敗」を怖れて、社会通念が示す既定路線、親が示す規定路線をそのまま受け入れたのでは、人生における学びがほとんど得られないことになってしまいます。

可哀想に、彼女は大学生時代に受けた親からの刷り込みが、あまりに深く入ってしまったために、その後は男性恐怖症に陥って、結局「結婚」というものが出来ずに来てしまったわけです。

社会通念など、国や地域や宗教によって大きく異なります。以前にも書きましたが、日本や韓国では結婚前の同棲はタブーですが、逆の考えの国も多い。一緒に暮らしてみて、伴侶として相応しいかを見極めずしてどうして「結婚」が出来るのかというわけです。私は、こちらの方が合理的な考え方だと思います。

ですから、個々人の思考や行動を信じずに、借り物の観念を押し付けるということは、またそれを受け入れてしまうということは、その観念に負けてしまって、自分から自由を奪い、自分で自分を牢獄に入れるということなんですよね。なぜ、自分に鍵を掛けるのですか?

あなたはどこまでも自由であり、自分で思考し、行動する権利が、あなたには本来的にあるのです。
エロスの愛について
愛には、エロス(性愛)、フィリア(隣人愛・博愛)、アガペー(真の愛・神の愛)と、三段階があるということを別のところで述べましたが、今日は七夕ということで、エロス(ερως, eros)の愛についてもう少し深くお話したいと思います。

エロス(エロース)は、男女間の恋心にからむ愛のあり方を言っていることから「性愛」と訳されるのですが、そこには当然ながらセックスも含まれています。これはエロスの愛が、感情を司る第三チャクラ(マニピューラ)だけではなく、その下部にある第二チャクラ(スワディスターナ)の影響も受けているからです。

スワディスターナ・チャクラに対応した内分泌腺は男女ともに性腺であり、日本語でいう「エロ」は、元々はエロスのことなのですが、肉欲的な部分に特にフォーカスを当てた言葉になっているわけです。しかしエロスは、相手を恋しいと思う気持ちからセックスまでの、一連の意識のあり方を言っている言葉です。

さてこの恋心なのですが、「恋しい」という気持ちは、その相手を獲得したいという願望なのです。運よく両者の思惑があって、結婚に漕ぎつけ、式場で永遠の愛を誓う。この誓いには、浮気をしないということと、どちらかが死ぬまで喜びも悲しみも共に分かち合う、ということが含まれていて、みんなその時はしおらしく「ハイ」と言うのですが‥‥これが守られないんですよねぇ。

アメリカでは結婚したカップルの2組に1組が、日本では3組に1組が、その後離婚しています。しかしこれは、現代社会では仕方がないとも言えます。

「恋しい」という気持ちは、自分の相手に対する恋慕を、何としてでも満足させたいという感情であって、多分に自己中心的なのです。だから「恋しい」相手が、他の異性の方を振り向いたりすると、嫉妬心が沸いて腹が立ってくる。これは本当に相手を愛しているわけではなくて、自分を満足させたい、要は自分を愛しているだけなんですね。

ところが、ラブラブの間は、熱くなって錯覚しているものだからそこに気づかない。結婚して一緒に生活してみて、初めて「あ、この人は自分を愛しているわけじゃないんだ」「独善的なだけだったんだ」と気づく。そして破局を迎える。しかしそう言っている本人自身が、独善的なことに気づいていないわけで、まぁお互い様だったということです。

そのように、自己愛とか自己執着が非常に強い段階では、感情が激しく揺れ動きます。自分というものを客観視する余裕がまだないのです。そして激しく揺れ動く気持ちを「大恋愛」などと錯覚している。ですから自己愛が強い人ほど、心が不安定で、満足というものを知らず、自分が愛されることばかり考えており、他者を愛するということができないのです。

心が治められないという人は、一度じっくり自分を振り返ってみるといい。その背後に、自己愛、自己執着、自分を守ろうとする気持ちが、どの程度まだ残っているかを。両者は完全にリンクしており、このことは、心を治める上での重要なヒントを与えてくれます。つまり、自己愛を手放して、利他愛に目覚めれば、自動的に心も治まっていくということです。

これが本当に解った人は、「なぁんだ、こんなに簡単なことだったのか」と思うはずです。ところが、これがなかなかできないのですね。自己愛の自己愛たるゆえんです。