by Rainbow School
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熟年世代の婚活事情
NHKの『クローズアップ現代』で、熟年世代の婚活事情というものを取り上げていて、興味があったので観てみました。番組タイトルは「老いて 恋して 結ばれて 〜超高齢社会の“男と女”〜」。う〜ん、いただけません。私はこの「婚活」という言葉が好きじゃないです。同じく「就活」も嫌いだな。誰がこんな言葉を作ったのだろうかと思います。

一括りにして語れないものを一括りにするのは、それを「産業化」したい人の欲望が働いているから。そんなものに乗っかって行ったら、たちまちシステムに嵌め込まれて、個人というものを失ってしまいます。婚活産業のマッチングシステムに登録したとたん、その基準で、自分が裁かれることになる。人間が、商品と同じ扱いになるということです。

番組の中で、契約婚と言えばいいのでしょうか、女性が食事など男性の身の回りの世話をする代わりに、男性側は自分が死ぬまで生活を保証し、死後も財産を分与するという約束で、一緒に生活をされているカップルの例が紹介されていました。それはそれで合理的な選択だし、私も「あり」だとは思います。

でもその女性が、「愛だけでは成り立たない。きれいごとだけでは生活できない」と語るのを聞いて、情けない気持ちになりました。その女性の言葉に、「そうよね」と同感される人たちも、たぶん多いのでしょう。女性は、一度結婚相談所に登録すると、何度でもお見合いをして、条件のいい男性を探し続けるのだそうですし‥‥。

その人たちからすれば、人間、齢をとればとるほど「愛だけでは成り立たない」と思っているのでしょうねぇ。でも私は真逆です。人間、齢をとればとるほど「愛だけ」の人に成っていけると思っている。そうでなければ、様々な人生経験を積んできた意味がないでしょう。だからその言葉を聞いて、「還暦過ぎてまだこれかよ」と、情けない気持ちになりました。

「婚活」のシステムに登録する人たちが忘れていることがある。自分は選ぶ側だけではなくて、選ばれる側でもあるということを。もし私が、そこに登録していたのだとしたら、「愛だけでは成り立たない。きれいごとだけでは生活できない」などと言う人とは、絶対に結婚しません。御免こうむる。

しかしそれ以前に、私の方が篩(ふる)いに引っ掛からないから、心配ご無用。7年間、ほぼ無収入ですから。
ユーモア
先日、ある市民活動グループの懇親会にお邪魔しました。私の住んで居るところはその地域とは離れているのですが、会長さんからの頼まれ事があって、時々その会にお邪魔したりしています。

レストランのテーブルで、Kさんと隣りになったのですが、Kさんとお会いするのは1年ぶりくらいです。会長さんからご病気だと伺っていたので、私は挨拶代わりに「もう、お加減はいいのですか?」と訊いてみました。

そうしたら、それは私の早とちりで、ご病気だったのはKさんではなくて、Kさんの奥さんと、実の母親だったというのです。そして4ヶ月前に、二人は相次いで亡くなったのだと。最近はやっと家事もこなせるようになってきたが、最初は預金通帳がどこにあるかも知らなかった、と言います。

私は「花の独身生活、じゃあ僕と同じですね」とKさんに言ったのですが、その後、Kさんがこう返されたのです。
「これで、嫁姑問題が一挙に解決!」
それを聞いて、同じ席に居た女性がゲラゲラ笑い出し、私は「笑いすぎだろ」とツッコミを入れたんですけど。

こういうユーモアは好きです。過ぎたことは、もうどうにも仕方のないことです。それならば、いつまでもクヨクヨせず、新しい生活に早く進みだした方がいい。そのきっかけに、ユーモアを使うのは賢いやり方です。

それで周囲の者も大いに助かる。訃報に接し、いくら周囲が悲しみへの同情を見せたところで、所詮、近親者の心情には迫れないのですから。
痛い言葉
15日の『午後の瞑想教室』は参加者が2人でした。「誰も来てくれないのかなぁ〜」と覚悟していましたが、見捨てない人がいらしてくださって感謝です。テーマを「心の大掃除大会」としたのですが、各人が「あなたになら言える秘密のこと」を話し、ゲラゲラ大笑いして楽しかったです。

不謹慎に聞こえるかも知れませんが、他人の辛い体験談ほど面白いものはありません。もちろん私だってTPOは考慮するのですが、辛い体験を真面目くさって聴くの好きではありません。もっと言えば、大笑いできるようになっていなければいけないということです。

なぜかと言うと、不幸体験というものは、本人の「認識」次第だからです。起きた事件は変わらないとしても、「認識」次第で事件の解釈は変わります。それを楽しいものにするのも、不幸なものにするのも、みんな自分の「認識」であって、事件そのものではないからです。

ですから、辛い体験談を大笑いして語られるようになったということは、自分の「認識」が変わったということを意味します。つまり、気づきと、成長がそこで得られたわけです。それを出来るだけ早く達成することが大切で、いつまでもいつまでも、自分を悲劇のヒロインにしていることには、何の益もありません。

さてその中で、夫婦間の『それを言っちゃ〜お終いだよぉ!』という「禁句」の話になりました。恋人や夫婦間のケンカは、実にこの「禁句」がグサッと刺さって尾を引くのです。かくいう私も、どれだけ夫婦ゲンカをしてきたことか‥‥。反省。

その夜、NHKのBSで『だから荒野』の6話目があって、観ていたら、まぁこの「禁句」の凄まじいこと。1話目にも辟易しましたが、6話目も観ていて耳が痛いのなんのって。耳が痛いのは、身に覚えがあることだから ( =´ω`)。
ということで、主な「禁句」を並べてみました。

「男なんでしょう? しっかりしなさいよ」
「そんなことも知らないの?」
「さんざん人の世話になっておいて」
「誰のおかげで食わせてもらっているんだ」
「子供が俺になつかないのはお前のせいだ」
「あることないことしゃべってただろう」
「あなたは嘘つきよ」
「もっと大人になったら」
「誰もお前のことなんか見てないよ」
「私より給料が安いくせに」
「お前のパートと俺の仕事とどっちが重要だと思ってるんだ」
「元カレはそんなこと絶対にしなかったわ」
「俺の足を引っ張ってるのはお前だろう」
「だからあなたとなんか結婚したくなかったのよ」
「あなたと私とは所詮合わないのよ」
「本当に好きな人と結婚すればよかった」
「あなたの子なんて産むんじゃなかったわ」
「じゃあ別れようか」

あー耳が痛い。

*『あなたになら言える秘密のこと(The Secret Life of Words)』は2005年のスペイン映画。単館系がお好きな方にはオススメです。切ない映画です。
喪失のレッスン
「私、ここで死ぬの?」
8年前のその日、日の出町のホスピスにタクシーが到着すると、窓外に立つビルを見上げて、そうカミさんが呟きました。
私はちょっと考えてから、「うん、そうだね」と小声で答えました。他の言葉も探しましたが、うまく見つかりませんでした。

日の出町のホスピス(正確にはホスピス部門もある総合病院)に入れることが出来たのは幸運でした。その2ヵ月前にKO大学病院を退院させられてからは、行く当てがなくなってしまいました。いわゆる癌難民です。まさにノックアウト状態。

それからは近くの外来の診療所に行って、その助けを借りながら自宅で私が点滴の交換などをしていました。でもそのうち、膨らんだ癌で胃が完全に閉じてしまい、1時間ごとにゲーゲー吐くようになったので、本人も「もう限界だね」と言っていました。

KO大学の先生からは「ここは治すための病院だから」と言われ、「あとのことは、ここの系列病院もあるから、看護師さんから話を聞いて」と指示されました。結局、看護師さんからは、病院名のリストを書いた一枚のコピーを渡されただけでした。

そのリストにあった病院に問い合わせてみて、やっとその時置かれた状況というものが解りました。入院先は一つも見つかりませんでした。ホスピスはどこもいっぱいで、予約が3ヵ月待ちだと言うのです。

それを聞いて、考え込んでしまいました。はたしてホスピスを、予想された死の3ヵ月以上前の時点で予約できるものかどうか。これは難しい決断です。でも、いま入院されている方たちは、その難しい決断をみなされた人たちなんですよね。

「限界」を迎えて、いよいよ困った私は、インターネットを頼りにどこか受け入れてくれるところはないかと探しに探しました。そして、ロンヤス会談で有名な日の出町にホスピスがあることを知ったのです。

問い合わせてみると、もしかしたら空きが出るかも知れないということで、とりあえず面接に行きました。面接審査に通らないと、入院ができないのです。一応それをクリアし、空きの連絡があったのは、死の一週間前でした。ギリギリ間に合ったのです。

一般の病院とホスピスとでは何が違うかと言いますと、いわゆる緩和ケアのノウハウが全く違うのです。入院してすぐ、1時間ごとに吐くという症状は治まりました。それと、充分とは言えませんでしたが、心のケアを行うプログラムも用意されていました。

8年前の私は今と違って、「死」のことをそれほどよく解ってはいませんでした。今なら、もっと違う対応が出来たんでしょうが、その時はそうするしかなかったのです。初体験だったんです、私も。でも都会から離れて、静かな環境の中で共に一週間を過ごせたのはありがたかった。

病室を掃除に来たおばさんが、何も知らないのか、掃除をしながらこう呟きました。「ここの病棟、変なんですよね。患者がしょっちゅう変わるんです。」私とカミさんは、思わず(この人、困ったちゃんだねぇ)と顔を見合わせました。

入院して5日め、日中に雨が降りました。でもすぐに雨は上がり、強い日が射して来ました。ふと窓外を見ると、鮮やかな虹が出ていました。「虹が出ているよ」と私は言い、カミさんを車椅子に乗せて窓辺にまで運び、一緒にその虹を眺めました。

カミさんもじっと虹を見つめていました。その横顔が今も忘れられません。スッキリしていてなにか神々しい美しさに満ちていました。私は思わず言いました。「君って、本当にきれいな人だねぇ」会話をしたのはそれが最後でした。

そうやって、私は「喪失のレッスン」の最初の段階を受講したのでした。それからいくつかの段階を経て今に至ります。一段階目のことを書きたいと思いながら、今まで書けませんでした。息子とも振り返って話したことがありません。でも今日こうして書けました。8年経ち「喪失のレッスン」もやっと次の段階に向かったということです。

あ、そうそう。笑えない笑い話があるんです。日の出町のホスピスにタクシーが着いた時、カミさんがこう言ったんです。
「このタクシー代、私のカードで払うわ」
意味がつかみかねている私に、続けて彼女がこう言いました。
「ポイントが付くから」

女ってやつはいったい何を考えているんだろう、と思いました。カミさんの死後、そのポイントはもちろん無効になりました。
「支配」を「見守り」に、「隷属」を「上手な甘え」に変える
人間関係は思うようにはいきません。なぜなら、他の人の心は自分の心ではないからです。個人というのは、それぞれ別個の自我(ego)であり、その他者の心を支配することはできないのです。ですから、人間関係を改善しようと思ったら、先ずこの前提に立たなければ、なにも始まりません。

ところが多くの人が、この前提にすら気がつかないのです。相手が一方的に悪いと思っている。相手のせいで自分が苦しめられていると思っている。でもそうじゃないのです。

逆三角形(▽)を描いてみてください。上の辺の片方に位置するのが<私>、もう片方に位置するのが<相手>です。人間関係の今の状態は、下に突き出た頂点にあるのです。

この単純な図形は多くの示唆を与えてくれます。先ず相手か自分か、どちらかが変われば、人間関係も変わるということが解ります。逆に人間関係が変われば、人も変わるということが解ります。さらに、上辺のどちらか片方が消えれば、三角形は描けないということも解ります。

このような単純な理屈すら理解しようとしないのが人の心というものなのです。そこで、多くの人はどう考えるか? そもそも思いどおりにならないことなのに、「支配」を目論むのです。力で支配する、地位で支配する、権力で支配する、因習で支配する、わがままで支配する、敬わせて支配する、弱さを見せて支配する。

しかしそれでは「人間関係」の問題にフタをしただけで、問題に何も向き合ってはいません。中東革命が民主主義を実現するどころか、重しのフタを取った途端、宗派対立が表に噴き出し、泥沼の戦争状態に陥っているというのは、このことをよく表しています。

「支配」が一見うまくいってるように見えるのは、相手が「隷属」しているからです。でも「隷属」している以上は、そこに不満がマグマのように溜まっていく。夫が定年になった途端、妻が離婚を決意。退職金の分け前を貰ってさっさとオサラバする。熟年離婚の背景にあるものは、中東革命と一緒です。

さて、そうならないために、「支配」を「見守り」に、「隷属」を「上手な甘え」に変える努力をしてみましょう。これは、夫婦関係でも、親子関係でも、その他でもみな一緒です。

「支配」⇔「隷属」の関係と、「見守り」⇔「上手な甘え」の関係では、いったいどこがどう違うのでしょう。それは、相手の自我(ego)を認めているかどうかです。信頼しているかどうかです。前者は、基本的に認めない、後者は基本的に認める、という違いです。

さてそこで、もう一歩考えていただきたいのです。どちらが楽でしょう?「基本的に認める」という立場に立った方が、ずっと楽だということに気づきませんか? 余計な手出しをして心を煩わせることがないので、その分を自分のことに使うことができます。自分を磨くことにもっと集中できるじゃないですか。

もうお解りでしょう。「人間関係」の悩み、問題は、自分が作っているのだということに。
妻の出産に立ち会えないバカげた理由
友人に誘われて『うまれる』という映画を観に行きました。両親の不仲や虐待の経験から親になることを戸惑う夫婦、出産予定日に我が子を失った夫婦、子どもを望んだものの授からない人生を受け入れた夫婦、完治しない障害を持つ子を育てる夫婦、四組のそれぞれの生き方を綴ったドキュメンタリーです。


今日はこの映画の感想を書こうと思ったのじゃないのです。感想はきっと多くの人が書いておられると思いますから。この中に、こんなエピソードがあったのが私には引っ掛かりました。四組の夫婦のうちで、これから子どもが生まれるという夫婦に起こったことです。


妻は幼児虐待を受けて育ったということがあり、その連鎖が自分にも起きるのではないかと、出産には少し不安があります。優しい夫は、その不安を少しでも和らげてあげたいと、助産院での立ち会いを希望します。そこで、出産予定日に会社を休ませて欲しいと上司に願い出るのですが‥‥


その時、上司がこう言ったというのです。

「出産に立ち会って、売上げが上がるのか?」

彼は答えます。「いいえ、上がりません」

「だったら、あとは自分で考えろ」


私はそいつを殴ってやろうかと思いました。もちろんヘナチョコなので殴れませんけどネ。(´_;

いつも思うことですが、つくづく、地位や権力や学歴や能力と、人間性は関係がないと思います。


夫は、「人として」の行動を模索している。でもその上司が言っていることは「会社人として」ですらない。もっと狭い「売上げ」のことしか頭にないのです。さらに言えば、それすら口実で、やりたかったのは上司ズラしたかっただけのこと。要するにイジメたい願望です。戦争中の日本陸軍の体質となんら変わらない。


私がもしその上司だったら、「そりゃいいことに気がついたね。しっかり寄り添って上げなさい」と言います。それがコーチングというもの。「規律に従え」しか言えない人間に、コーチをやる資格などない。そんなもの誰でも言えるんですから。もっともイージーな指導です。その上司は、間違って上司になっちゃったんだな。


「だったら、あとは自分で考えろ」ですって? 私がその夫なら、考えた末に会社を休みます。なぜって一日や二日休んでも会社は無くならないけれど、出産立ち会いという瞬間はもうその時にしかありません。会社でやる仕事はルーティンだけれど、出産立ち会いは一生でもまれな体験なわけですから。


と、まあ大言壮語を吐きましたが、それは今だから言えること。実は私にも全く同じ経験があるのです。息子が生まれるときに、カミさんは両親のいる田舎へ行きました。私は当時デザイン会社に勤めていて東京に残って仕事をしていたわけですが、休んだのは年に45日というありさま。


でもその時ばかりは勇気を出して社長に言ったんです。「子どもが生まれるんで休ませてください」と。そうしたら、社長がこう返した。

「俺と専務は、子どもが生まれたからって休まなかったよ」


結局、立ち会えなかった私は、後でカミさんから「ぜーんぜん来てくれないし、心細かったよぉ」と言われ、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。それに何より、大切な瞬間を逃したという後悔が後をひきました。


この話には後日談があって、ある時、会社の倉庫を整理していると、社長が自分の長男誕生のときに出したハガキがひょっこり出て来た。そこには、なんと「『生まれ』たという知らせを聞いた瞬間、喜びでいっぱいになり、取るものも取りあえず病院に駆けつけました」とあったのです。


「なーんだ、ウソじゃん!」「自分は嬉しくてハガキまで出しているじゃん!」ひでぇなぁ、と思いました。

けっきょく社長は、その時ぱっと心に浮かんだ「イジメたい願望」を、立場を利用して行使しただけだったのです。

夫婦の亀裂
どんな悩みや問題も、霊的世界の法則にまで迫らなければ、本当に深いところは解りません。病気のこと、人間関係のこと、お金のことから、数学や物理学や生物学や天文学に至るまでです。本当は、答えはみな用意されているのですが、そこに見向きもせずに右往左往しているのが「この世」の住人たちです。

たいていは、せっぱつまった状況になって初めて「もしかしたら、今まで考えていたこととは、違う真理があるのではないだろうか?」と思い当たるのですが、そこを掘り下げて一歩進む人と、「この世」の論理に引き戻されて、また右往左往する世界に戻って行く人がいるのです。

これが家族の中で、とりわけ夫婦間で違いが生じて来ますと、なかなかやっかいな問題を引き起こします。片方が「今までの私の生き方は間違っていたのかも。少しでも真理の道に迫りたい」と考えて行動を開始しますと、もう片方は「どうも最近おかしい。何か変な考えに取り憑かれたのではないか」と疑心暗鬼に駆られるようになるのです。

三つ又の交差点に立って、二本に分かれた道を、さてどっちを歩もうかと思う。それで試しに、夫婦で別々の道を歩み出す。最初のうちは声を掛け合って「おーい、そっちはどんな具合だ」などと、探り合いながら進むのですが、そのうち道はどんどん離れて、声も姿も見えなくなる。

ここまで至ると、価値感の違いが、生活上の隅々にまで表れて来るようになります。それは、食事の摂り方であったり、祈りや瞑想習慣であったり、と。

それを目の前にすると、拒否感の強い人は「私のパートナーは、どうもおかしな思想に洗脳されてしまったようだ。大事にならないうちに引き戻さなければ」と焦って来るし、もう片方は「どうしてあの人は、別の世界があることに気がつかないのだろう」と、これまた焦燥感を募らせて、両者の亀裂がどんどん大きくなって行くのです。

正に、私がそうでした。うちの奥さんは、私に対し「自分をちっとも楽しませてくれない。現実を見ようとしない」という恨みの思いをどんどん募らせて行き、あまりに激しい恨みから、遂には癌に罹ってあっさり死んでしまいました。これほど、極端な事態に発展する例はあまりないかも知れません。そして、そこに至るまでの地獄のような葛藤の日々。

しかし、「救い」があったのは、そのような激しい反発を見せていた彼女も、最後には感謝の言葉を残して死んで行ったことです。「私、病気になってやっと解ったの。だから、病気も悪いことばっかりじゃないよ」と、話していました。こと、ここに至って、彼女も気づいたのです。パッと掴んだのです。真理への扉を。最後に立ち上がって、彼女が窓外を見た時、空には虹が掛かっていました。

彼女の死は、ギフトで、だから私が今こうして、そのギフトを皆さんにお返ししたいと思っているのです。それが、彼女に返すことになりますから。

だからどうか、精神世界への扉をきっかけに夫婦の危機が生じても、私が経験したような「極端」には進まないように努力していただきたい。ハンドルの遊び部分を多くして、ゆるゆると相手に接し、スマイルとジョークで乗り切っていただきたいと思うのです。