by Rainbow School
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人類が、歴史から学ぶこと

記憶力が人一倍劣っている私にとって、小中学校時代の地理・歴史の授業は、苦痛、拷問以外の何物でもありませんでした。人の名前や年月日が覚えられないのです。カミさんの誕生日すら覚えられず、当てずっぽうで言ったところ違っていて、もの凄く怒られたことがあります。命日がいつだったかも、もう覚えていない。その理由が最近になってやっと分かりました。そういうものに関心がない!

 

歴史教育が大切だと言います。確かに、歴史から学ぶことには大いに意味があります。でも、世の識者が「歴史教育が大切だ」と言っていることについては、異議を唱えたいです。ロゴスとしての歴史(記述された歴史)に、所詮真実などありません。というよりも、そもそもこの世に真実などない。ですから、「歴史教育が大切だ」と言った場合、それらは例外なく、ある特定方向に思想を導きたいということを意味しています。

 

よいですか、大切なのは「教育」ではなく、自分が「学ぶ」ことなのですよ。これは全ての分野について言えます。「教育」と「学ぶ」とでは、180度も違う。「教育」とは人間をロボットにすることであり、「学ぶ」とはロボット状態から脱することです。ところが、「教育基本法」なるものが定められているのを見ても分かる通り、誰もが「教育」を無条件で是として考え、これをベースにどうあるべきかを語っているのです。

 

こうした思考法が、人類に、どれほどの歪みをもたらして来たことか。「教育」と言えば、即よいことと思ってしまう。これだけじゃありません。「倫理・道徳」と言えば、即よいこと。「経済発展」と言えば、即よいこと。「防衛」と言えば、即よいこと。「愛国」と言えば、即よいこと。「薬」と言えば、即よいこと。etc.。これらはみんな、そう思わせたいと願った支配者が作った、プラットフォームなのですよ。

 

歴史は大の苦手という私でしたが、NHKの大河ドラマや、戦国武将ものや、三国志といったものにも、全く興味が持てませんでした。一体どこが面白いのか、さっぱり解りませんでした。でもそれを口に出して言えない。多くの人が熱狂する中で、自分は歴史が苦手だし、教養はないし、ずっとコンプレックスになっていました。でもこれも、最近になって、やっとその理由が分かりました。

 

これから100年、200年経た時に、歴史の教科書に、今の政治を司っている宰相たちの名前は載るのだろうかと考えてみたのです。そして、その権力の攻防史を学習することに、果たしてどんな意味があるのかと考えてみました。結論はひとこと。バカバカしい。でも、そうならないとも限りませんよね。時が経つにつれて、寓話化され、銅像が建立され、遺品が博物館に納められ、記念小学校が造られ、郷土が誇る偉人に奉りあげられるかも知れません。

 

今やっている過去の歴史教育といったものも、これと大差がないのではないでしょうか。よく言われることですが、History というのは his story であると。つまりは男の物語、もっと言えば支配者、権力者の物語です。A国とB国が戦争をして、A国が勝ったとしましょう。すると、A国の視点から都合よく作られた「歴史」だけが残るのです。私たちは、こうした権力者の攻防史を、それが「歴史」だと言われて覚え込まされていくわけです。

 

大事な合戦で、いかなる策略を持って敵に勝利したか。どこで誰を味方につけ、誰が裏切ったのか。忠誠心の篤い優秀な家来がどれだけ適材適所されていたのか。それらを紐解くことが歴史研究ということになっています。でも、前線で槍を持って戦った足軽のC助はどうなったのでしょうか? 日報を点けていたけれど無かったことにされてしまったD作はどうなったのでしょうか?

 

歴史の藻屑と消えてしまって、語られることはありません。考えてみてください。これほど理不尽なことがあるでしょうか? 同じ人間なのに、同じ生命を宿しているのに、みんな同じ神の子なのに‥‥。戦争でどれだけ大勢の人が死のうとも、原発事故でどれだけの人が故郷を追われようとも、また生活苦でどれだけ自殺者が出ようとも、その人たちの名前が、歴史で語られることはありません。

 

いつの時代でも、歴史に名を残すのは、人々をまるで消耗品のように扱った、支配者であり、権力者であり、お金の亡者なのです。もっと言えば、非道の殺人者をヒーローとして教え込むことが「歴史教育」になってしまっている。こんな歴史など、別に、私は知りたいとは思いません。私は、今の権力者たちの顔を見るよりは、普通の人、名もなき(本当はあるんだけど)人、我が愛する友たちの方がずっと好きです。

 

歴史学習で大切なことは、そこに(自分が)何を見出すかなのです。言い換えれば、自分がその歴史に、どんな意味を与えるか、です。それが、歴史から「学ぶ」ということの意味です。これ以外に、歴史から「学ぶ」意義はありません。客観的事実などは幻想に過ぎません。「客観」も誰かの主観に過ぎませんから。ですから、誰かが意図的に与えた意味に習うのではなく、自分が意味を与えてこそ、初めて「学んだ」ということになるのです。

 

例を上げましょう。ご存知のように、日本は広島と長崎で、あの悲惨な原爆の被害を体験しました。ここで起こったことをよく知れば、またどういう経緯でそうなったのか、そして体験者がその後どうなったのかをよく知れば、同じことを、自分が再び体験して味わう必要はありません。「こんなことは、もう絶対に嫌だ」と思うだけでよいのです。そこに、歴史から「学ぶ」ことの意義がある。

 

ところが、そう思わない人もいるのです。戦争の抑止のためには「核」が必要だ。自分たちに敵対する国を時々「核」で脅してやることも必要だ。場合によっては、小型の「核」を使ってもいい。あるいは、史上最悪の原発事故を経験しても、日本には原発が必要だ、再稼働を急げ、と言う人もいる。こういう人は、いったい歴史の、どこに、何を学んでいるのでしょうか?

 

この数年で、歴史の裏側や、闇の勢力の存在について、多くの人が本当のことを知るようになりました。このブログを書き始めた当初は、私もかなりぼかした言い方をしていたのですが、もうそんな必要もないかも知れません。これは、既に何度か語って来たように、地球に対して、宇宙から今、アセンションの強い光が注がれているために、隠されていた闇がどんどん明るみに出ているのです。

 

そして、これも何度も書きましたが、ジョン・レノンが「世界は狂人によって操られている」と言いました。今の日米を見れば、「本当にそうだなぁ」と思うのではないでしょうか。世界史は謀略の歴史です。謀略に次ぐ謀略で、人々が表で信じ込まされて来たことと、裏側はまるで違うのです。日本でも、明治維新にまつわる闇や、日露戦争開戦の裏側などを知る人が随分と増えて来ましたね。

 

しかしこの謀略が、以前ほどは、すんなりとは通らなくなっているのです。「シリアが化学兵器を使用した」と言って、トランプ大統領は国連決議も経ずに、また米国議会の承認も得ずにシリアを爆撃しました。これに日本は、精査もせずに、直ちに支持を表明しました。しかし、この化学兵器使用の証拠とされる映像が、ヤラセの演出であったことがすぐにバレてしまいました。

 

謀略が拙速なのです。すぐにバレるような嘘をつかざるを得なくなっているのです。ケネディ暗殺の闇は50年間もちました。ベトナム戦争の闇は40年間もちました。でもイラク戦争の闇は10年間しかもたなかった。そして今は、一週間ももたない。だから、嘘に嘘を塗り重ねるしかなくなっている。それほど彼らは追い詰められているのです。強い光が、闇を照らし出すようになって。

 

いったい何の権利があって、デッチ上げを「正義」と偽り、他国に爆弾を落とせるのでしょうか? 人の命を、人々の生活を、何と思っているのでしょうか? 米英仏は、いったい何様のつもりなのでしょうか? そして日本は、国際的な信用をどこまで落とすつもりなのでしょうか? 歴史に決して学ぼうとしない者たちが、そろって歪んだ「歴史教育」を説くのです! ああ、この人類の終わりなき錯誤。カルマの連鎖。

 

今の世界がメチャクチャなのは、陣痛の時を見ているのです。それは、来るべき世界への産みの苦しみ。今までの秩序(のように見えていたもの)の大崩壊。世界史は謀略の歴史であり、それは闇の勢力が仕組んだものであり、時の権力者たちは、ただの操り人形。その操り人形に、さらに大衆が操られ、奴隷にされ、搾取され、戦争に駆り出され、ぼろ雑巾のように使い捨てにされてしまうことの悲劇。

 

この悲劇の原因は、一体どこにあるのかを、人類はよくよく見つめねばなりません。今の権力者たちを叩いたところで、どうにもなりません。政権が別のパーティーにスイッチしたところで、どうにもなりません。戦争を武力によって無くそうと思っても、どうにもなりません。紙幣が仮想通貨に替わっても、どうにもなりません。そういう「仕組み(System)」そのものに、欠陥があると気づかない限りは。

 

実に、ここが人類の分かれ道。何もかもが信じられない「Post-truth」の時代に、それでも「真理」を探し求める人たちに言おう。全ての因は洗脳にある。深い深い洗脳に。あまりにも深い洗脳に。

 

洗脳とは、洗脳されている間は、それが洗脳とは気づかないものだ。大衆を洗脳しているマスコミや教育が、すでに洗脳されている。そしてそれらをコントロールしている政府もまた洗脳されている。さらには、それらを陰で操っている闇の支配者たちも、実は洗脳されているのだよ。何によってか? 一なるものからの「分離」意識によって。人々はバラバラであり、人間には、優れた者とそうでない者とがいるという意識によって。

 

ゆえに、彼らは、大衆支配という道を選んだのだ。そうすることが当然だと考えたのだ。だから、平等に分配しない仕組みを創ったのだよ。そして、富者になるイメージをチラつかせて、欲望に火を点け、このシステムの俎上にあげて互いを競わせ、そのリングから落ちる恐怖を与えて自由を奪い、馬車馬のように働かせ、その後で富を奪い取る壮大な仕組みを構築したのだよ。

 

しかも始末の悪いことに、多くの宗教は、この「分離」意識の構造に、「善と悪の戦い」という図式を与えて、これを容認どころか、なお一層強化してしまったのだ。この世には善と悪があって、悪を叩くことが善を保証するのだと言って。寛容を教えるべきはずの宗教が、こぞって真反対のことを教えたのだよ。これが、今日、地球文明を破滅させかねないほどの火種となって燻っているのだ。なんと愚かな人々であろうか。

 

神の名を語って戦争をすることは、もういい加減にしてもらいたいものだ。本当に、神がそんなものを望んでいると思っているのかね。人々が流す血をわたしが見たいと、本気で思っているのかね。いいかい、善も悪もないのだよ。みんな我が子なのだよ。あるのは、「分離」という意識から、「合一」という意識に至る、意識の発達度合いの違い、つまりは霊性の向上度合いの違いだけなのだ。

 

そして、この学習の機会は、つまり霊性向上の機会は、全部の「魂」に等しく与えられているのだよ。そこに差別は一切ない! 以前に、保母さん保父さんの視点に立って世の人々を見て欲しいと言ったよね。実にいろんな人がいるんだよ。「分離」意識と、そこから派生する敵対意識、被害者意識でまだガチガチの人から、「合一」意識を体現するに至った人まで。

 

未だ幼稚園の年少レベルという甘えん坊しゃん。年中レベル、年長レベルにまでちょっとだけ進歩した人。そこを終えて小学生に上がった人。そしてごく稀に中学生レベルに達した人も。と、ここまでが地上の義務教育。これ以上は、肉体を持っている間は行けない。だが、ついでに言っておく。まだまだ道は続くんだよ。高校、大学、大学院とね。

 

幼稚園の年少組の霊性にある「魂」の横暴に、いつまでも引っ掻き回されたままでいて、どうするんだい? そして、それが許せないと言って、今度は年少組をやっつけるのかい? 違うだろう。あなたの課題は、自分がステップアップすることじゃないのかい? 自分がステップアップするとはどういうことなんだろうね。また言わせるのかい? 無条件の愛の人を目指すということなんだよ。

 

愛を与えれば、愛が返ってくる。疑いの目で見れば、疑いの目が返ってくる。敵視すれば、敵視が返ってくる。ヘイトスピーチをすればヘイトスピーチが返ってくる。異次元の圧力を加えれば、異次元の圧力が返ってくる。簡単なことだよ。みなさんが今、見ているままさ。なのに、なぜこんな簡単なことが解らないのかねぇ。いいかい、人を助けることで自分が助けられ、人を癒すことで自分が癒されるのだよ。

 

だから、わき目を振らず、ひたすらここを目指しなさい。無条件の愛に生きる人が、一人でも二人でも増えれば、洗脳に騙される人がそれだけいなくなる。何度も同じ過ちを繰り返していてはダメだ。歴史の裏、裏の裏、裏の奥、奥の奥を見るのだよ。光が射している今がチャンスだ。「魂」の世界からのみ歴史を見なさい。そして、歴史に学んで、自己の「魂」の糧としなさい。

 

あなたの健闘を祈る。

正直に生きるということ

今の国会で行われていることを見ていると、つくづく、これが人間なんだなと思わされます。「地球人は、霊的レベルからみれば、未だ小学校入学の域にも達していない」。これは、霊界のマスターたちがしばしば漏らす嘆き節です。ですから、今の国会を、大人たちがやっていることではなくて、幼稚園内での出来事だと思えば、この尋常ではないドタバタ劇も理解ができます。

 

どの人が嘘をついているかなど、ピュアな視線で見れば、誰にでも直ぐに分かること。ところが、嘘が見逃されるどころか、嘘がバレているというのに、嘘に嘘を重ねることが是認されてしまうという異常さです。駄々っ子のグループにくっついていけば飴玉が貰え、逆らったらイジメられる。みなさんは、これを園児としてではなくて、保母さん保父さんの視点に立って見てくださいよ。

 

何度も言って来ましたが、騙す人と騙される人は、持ちつ持たれつの関係です。騙される人がもしも一人もいなければ、詐欺師という商売は成り立ちません。人が詐欺の被害に遭ってしまうのは、詐欺師が繰り出す甘言に、心惹かれる部分があるからです。つまりは、自分の中に眠るエゴが刺激され活性化されるからこそ、そこに同調というものが起こり、持ちつ持たれつの関係が成立するのです。

 

今の国会を見て驚くのは、嘘を是認してしまう人の、あまりの多さ。この人たちは「嘘をつく」ことの過ちよりも、もっと大切なものがあると考えているのです。「正直である」ということを、単に方便のようなものとしか捉えていません。「正直」は単なるポーズでしかありませんから、「真摯に受け止め」とか「丁寧に説明する」とかの紋切り型の「嘘」を、平気でまた言えるのですね。

 

あなた方の殆どは、「嘘をつく」ということを、もっぱら他者に対しての作為として捉えています。けれども、霊的世界から見た場合はそうではありません。霊的世界から見た場合、その人の生き方として最もしてはいけないことは、「自分に嘘をつく」ことなのです。何より、これが最悪。そして、その怖さというものを、殆どの人が知りません。ですから、嘘に嘘を重ねて、自分を裏切り続けても平気でいられるのです。

 

多くの場合、「自分に嘘をつく」ことは、「他者に嘘をつく」ことと同時に行われています。しかし、他者についた嘘の場合には、他者の誰かがその嘘を見抜いたり、無視したりすれば、嘘は暴かれてしまって成立しません。ところが、自分についた嘘はそういうわけにはいかない。この嘘を暴く方法は一つしかないのです。それは、自分自身で暴くこと。つまり懺悔することです。

 

これが、未だ幼稚園の域にいる人には出来ない。「嘘をつきました。ごめんなさい」この一言が言えない。こんな簡単なことが、今の霊的レベルの人間には難しいのです。一度ついた嘘がバレるのが(それこそ自殺することよりも)怖い。そこで、嘘に嘘を重ねて雪だるまのようにして自分を保護しようとする。でもそれは、自分を自分で縛り付ける手枷足枷になってしまっているということに、本人は全く気がついていないのです。

 

この人は嘘をついている。大抵の人なら誰でも判ります。ところが有識者の中にも国民の中にも、これを是認してしまう人たちが大勢います。なぜでしょう? この人たちもまた「嘘をつく」よりも大切なことがある、との信念を持っているのです。それは、今の内閣が打ち出している、特定の国や集団に対する敵視政策です。これが、同じように、誰かを敵視し、貶めたいと願っている人々の感情面に火を点けて、燃え上がらせているのです。

 

つまり、その部分で、波長がぴったりと合っている。ですが、霊的に見てこれほど低いレベルの生き方はありません。人が、この物質世界に生まれて来た目的は、「分離」を超えた「融合」を再体験するためである、と繰り返し語って来ました。けれども、そのスタートラインにすら着けない人たちがいるのです。分離、敵視、闘争という感覚から、いつまでも脱け出ることが出来ない。

 

そして、最も倫理道徳観の薄い者が道徳教育の必要性を叫び、私利私欲で国を私物化しようとしている者たちが愛国を叫んでいる。ここまで来ると、もうジョークとしか思えません。ですから、倫理道徳も、愛国も、正義も、無用だと何度も言ってきたのです。そんなものは、為政者の道具に都合よく使われてしまうだけ。問題は、霊性にあるのです。霊性が高くなれば、そのような縛りは自ずと不必要になるのです。

 

「お前らは敵だ、圧力を掛けるんだ」と隣国に言い続ける。ですが、考えてみてください。そこにも同じ人間が暮らしているんですよ。「敵だ」「圧力だ」とずっと言われ続けた側は、そう言われてどう思うでしょうか? 「このヤロー」と思うのではありませんか。そこに同じ人がいるという想像力もなければ、相手の心理も考えていない。カルマの法則も、生まれ変わりの法則も知らない。全くの無知蒙昧。まさにマスターが嘆く幼稚園レベルです。

 

宇宙の法則は、究極的には次の一言しかありません。「全部が一つ、一つが全部」。何かに迷ったら、いつでもこの原点に返りなさい。そこに答えがあります。全部が一つなのですから、誰かを傷つけることは、自分を傷つけることです。誰かを貶めることは、自分を貶めることです。誰かを敵視することは、自分を敵視することです。そんなことが、人間たちには、なせそれほどまでに楽しいのですか?

 

ここで、これを読んで下さっているみなさんには、やさしい保母さん保父さんの視点に立ってみて欲しいのです。攻撃的にふるまう人たちを、攻撃によってやっつけようとしてはなりません。攻撃を反撃によって制圧できると思っているのは、あなた方に根強く浸透した幻想です。それでは、あなたも同じ土俵の上に落ちることになってしまいます。そうして、またしてもカルマが巡るのです。

 

いつもいつも闘争に身を置いている人の「魂」は、何年経っても成長が見られません。特定のセクトに先ず身を置き、その立場からものを語るクセをお辞めなさい。それは、真のあなた自身を捨てること。自分で自分を騙し続けていくことです。土俵を上から眺めて、保母さん保父さんになりなさい。未だ気づけない、幼いAくん、Bくん、Cくんらに、あなたならどういう声をかけてあげますか? どんな愛を示してあげられますか?

 

あなた方の意識は、一つの層だけで成り立っているのではありません。「心」が創る意識の奥には、「魂」の意識があります。この「魂」の意識は、さらに奥の部分で大宇宙(つまり神)と繋がっているのです。よく「神はすべてお見通しだ」と言うでしょう。それは本当です。あなたの思考も行動も、全部神は知っている。なぜ、お見通しなのかが、解りますか? 他ならぬ、あなたが「神」だからなのですよ。

 

「神」が、あなたの中に鎮座しているから。だから、あなたがしたことは、自動的に、すべてお見通しとなるのです。ですから、なんぴとも「神」を騙すことは出来ません。不可能です。それなのに、愚かな人間は、本当の自分である「魂」の声を無視して、「心」が創るエゴによって、自分の「魂」を騙そうとします。騙すことが出来ていると思い込んでいます。そうやって、自分に「嘘」をつくのです。

 

でもこれが、どんな結果になるかを、その人は知りません。あなたの左足が左へ行きたいと思っているのに、右足が右へ行けばどうなりますか? 股が裂けてしまうでしょう。自分に「嘘」をつくということは、日々、自分に股裂きの刑を課していることと同じです。それを、身体が、脳が、細胞が、苦痛として感じないわけはありません。顔つきも、どんどん悪人顏になっていってしまいます。

 

反対に、「魂」の意識と、「心」の意識がピタッと揃った時にだけ、人はピュアになり、大霊が流れ込むので「幸福」をしみじみと実感できるのです。そうすれば、顔つきも自ずと穏やかなものになり、周囲に明るい雰囲気をもたらすようになります。それが、正直に生きるということの本当の意味であり、意義です。

 

宇宙に罰はありません。罰のように思えることも、みんな、あなたがあなたに課していることなのです。そのことを知りなさい。自分が蒔いた種は自分が刈る。これは、冷徹な法則です。例外はありません。だとすれば、よい種を蒔いてみてはどうでしょうか。よい種から、よい花を咲かせてみてはどうでしょうか。

 

このあなたも、あのあなたも、みなが、かけがえのない種を持っているのですよ。なぜって、そのように創られたのだから。その種を、陽の当たるところに置きなさい。なぜ、わざわざ、陽の当たらない影の世界に身を置こうとするのですか? まるで成長のない、エゴでまみれた世界に、なぜいつまでも夢中になるのですか?

 

今の世界を、反面教師にしなさい。ダークな世界が発する誘惑には決して屈しないように。ご自分を信じなさい。自己の「魂」の成長を目指しなさい。力強く、そして限りなく。

 

あなたは生きている。今この瞬間をまごうことなく生きている。わたしと共に。

自分を信じる

信用できるものが何もない。今、多くの人を捉えている感覚は、たぶんそのようなものではないでしょうか。政府や官僚に対する信用度はもはや地に落ちました。三権分立など絵に描いた餅。警察や検察が本来の義務を果しているかどうかも定かでない。本来、権力の監視機関であった筈のマスコミも、真実を隠して意図的な情報操作を行っているということを、多くの人が知るようになりました。

 

医療制度も、学校制度も、信用できない。企業も、金融システムも、食品も信用できない。とにかく何もかもが信用できない。これは日本に限られた現象ではなくて、世界中で、特に資本主義を推進して来た西側諸国に共通して見られる現象のようです。俯瞰してみれば、現在の強欲な資本主義を基盤とした社会のあり方が、崩壊へと向かっていると言えるでしょう。

 

これまでの秩序が崩壊する。それは一見、悪くなって行くように見えますが、長い目で見れば良いことです。一時的には崩壊は大混乱をもたらしますが、それは産みの苦しみであり、人類の変革のためには避けては通れない道なのです。では、この先はカオスしかないのだろうか? そうではありません。何もかも信用できないというのは、一種の気づきです。しかも、大いなる飛躍への。

 

「信」をもう外に求めない。これは個人にとっても、人類全体にとっても、大ジャンプを意味します。代わりに、「信頼すべきものはすでに自分の内にあったのだ」と気づくきっかけを提供することになるからです。実に、ここが肝です。「信」を外側に置いている限り、人は、生きる不安から逃れることは出来ません。それは岸壁に垂れ下がったロープのようなもので、手放す恐怖が生じるからです。

 

自分を信じる。これは簡単なことのようであってとても難しい。ですから、現実に多くの人が「信」を外に求めているし、求めようとしているわけですね。でも、なぜ自分を信じることが出来ないのでしょうか? それは、自分が何者かが分からないからです。自分はいったい何者か。多くの人はその問い掛けから逃避し、外見や肩書きの中に「自分」を見い出そうとしています。

 

でもそれが虚飾に過ぎないということは、直ぐに解るのではないでしょうか? もしも、その外見や肩書きが取れてしまったら、その人は、たちまち自分が誰だか分からなくなってしまうことでしょう。だからこそ、多くの人がその恐怖に怯えて外見や肩書きを必死で守ろうとするのです。でもそれは、自分ではない自分で自分を縛っているということなんですよ。そこに少しも気づいていないのです。

 

1996年、英国で「post-truth(真実の後)」という言葉が、その年の流行語大賞として選ばれました。 このキーワードは、今の社会風潮や政治状況を端的に表しています。 

 

何が「真実」であるか判らなくなった現在(post-truth)では、人々は、自分の感情や主観的な思い込みにフィットする情報や知識だけを受け入れるようになり、自尊心をくすぐる言動には熱狂する一方で、異なる見解には敵意をむき出しにするようになったと言うのですが、まさにその通りですね。それが、今のような「不寛容な社会」を創り出しています。

 

こうした傾向は、バブル崩壊後の1990年代から徐々に強まり、当初は「タコツボ化」とか「オタク」というキーワードを生んだのですが、不況の深刻化と雇用の流動化によって、自分の将来像が描けなくなると、人々の不満が鬱積し、そのエネルギーを外に出すタイプの人は排他的、攻撃的になり、内に溜め込む人は鬱になる傾向が強まったのです。

 

これは「真実」だと確信できるものがない中で、情報だけは爆発的に増えました。また情報を得たり発信したりする手段も極めてイージーに行えるようになりました。その結果、物事の前後関係や、そこに至った経緯や、言った後での影響度を深く考えることなしに、多くの人が、その場の自分の思いつきや感情的な反応から出た言葉を、まるで速射砲のように繰り出すようになって行きました。

 

さてこれは、「自分」を信じていることになるのでしょうか? 信じていると言えば、言えないことはありません。でも問題は、その「自分」とは何か、ということです。感情を動かす自分、主観的な思い込みに拘泥する自分、確かにそれも自分です。でもそれらの「自分」は、しばしば自分自身に嘘をついたり、暴れたり、裏切ったりします。果たしてそれは本当の「自分」なのでしょうか?

 

人間の意識というものは一つの層のみで出来上がっているのではありません。潜在意識、顕在意識、超意識、超絶意識の四層*から成り立っています。人間は通常、この意識を意識化することなしに思考し、行動しています。その結果、潜在意識や顕在意識が創り出す「思い」に常に振り回され、それが「自分」だとみんな思い込んでいます。けれども、それは表層的なものに過ぎません。

 

本当の「自分」は、その奥にあります。それが、超意識、超絶意識です。これらは肉体を超越したもで、脳の活動が創り出しているものではありません。「魂」の意識、そして「魂」をさらに超えた意識と言えます。そこに本当のあなたがいるのです。しかし残念ながら、このことを殆どの人は知りません。知識として知らないだけではなく、その本当の「自分」に問いかけてみたこともあまりありません。

 

 

ところが実際には、多大な影響を受けているのですね。多大どころか、そもそも、あなたという個が存在しているのは、超意識、超絶意識があるからこそです。脳科学者は、人間の意識や行動をすべて脳の活動で説明しようとしますが、そこには無理があります。脳の活動の結果が意識なのだと彼らは言います。じゃあその脳を動かしているものは何かという問いに、彼らは答えることが出来ません。

 

ではどうして、人は本当の「自分」の声に耳を傾けるということが、なかなか出来ないのでしょうか? それは、五感刺激によって形づくられる意識(潜在意識、顕在意識)が、あまりにも優位に立ち過ぎているためです。対して、超意識や超絶意識は、非常に精妙で微かなものです。そのため通常の意識状態では、この精妙な超意識や超絶意識は、奥深くに埋もれてしまっているのです。

 

多くの人が、言葉としては「魂」を知っていても、実際には、自分の「魂」を意識する努力というものを殆どしていません。また、したとしても、すぐに諦めてしまいます。ここには盲点があって、いま言った理由から、「魂」の意識は、探ろう探ろうと努力しても、逆に掴むのは難しいのです。なぜなら、探ろう探ろうと必死に努力している意識は、「脳」が創った意識だからです。

 

「魂」の意識と「脳」が創る意識との関係は、実はトレード・オフになっているのです。つまり「魂」の意識を呼び出してくるためには、「脳」が創る意識は、逆に閉じていかなければならないのです。そうすれば、入れ替わりに「魂」の意識が(自動的に)浮かび出て来ます。これを、あまり考えずに行っているのが、みなさんが眠っている時に見る夢です。

 

人が眠りに落ちると、肉体は五感刺激の反応に蓋をしてしまいます。それと入れ替わりに、「魂」の意識が活動を開始するのです。ただし夢見は、意識する意識を失った状態ですのでコントロールが効きません。ですから、コントロール意識を保ちつつ、五感刺激の反応を抑えてしまう技術を身につければ、誰でも「魂」にアクセスできるようになるのです。このほとんど唯一とも言える手段が「瞑想」です。

 

「瞑想」と聞くと、多くの人は座禅修行を思い浮かべると思います。ですが、あんな苦行をする必要は全くありません。いつでもどこでも、ちょっとした時間に、リラックスして、静かに眼を閉じて、すべてお任せで、ボーッと身を委ねればそれでいいのです。これを繰り返し行って、習い性のようにしてしまえば、あなたは、本当の「自分」を発見する旅に立てます。

 

現代では、多くの人が「情報」にこそ価値があると思っています。そのため、いつも最新情報を仕入れようと、インターネットを血眼になって追いかけ、それで神経をすり減らしています。このような人にとっては、一日数時間をボーッと過ごすことなど、単なる時間のムダ使いにしか思えないことでしょう。かつては、私もそう思っていました。でもね、時間のムダ使いは、前者の方なんですよ。

 

情報にアクセスすることにアクセクしている時間、それでいったい何が得られるのでしょうか? 一年前の情報をあなたは記憶していますか? 一カ月前の情報を記憶していますか? 三日前の情報を記憶していますか? すべてはうたかた。川面に浮かぶあぶくです。そうやって過ごした時間だけ、本当の「自分」を発見する時が過ぎ去って行くのですよ。

 

便利なアプリは、恐ろしい麻薬です。人を虜にして、抜け出せなくしてしまいます。道具を使っているのではなく、道具に使われてゾンビにされていることに気づきましょう。

人生にとって大切なことほど、日常での優先度が低い。死の間際になって「死待った!」と言うことのないようにしましょうね。

誠実さを、どこまでも

還暦をとうに過ぎ、今までの人生を振り返ってみると、なんとまぁ自分は「ちゃぶ台返し」ばかり繰り返して来たんだと、半ば呆れます。カッとなると制止が効かず、一瞬にして、それまで築いたものを何もかもぶち壊して来ました。やけのやんぱちです。おかげで「成功」といったこととは無縁で、そのつど立場を悪くしては孤立し、地を這うような生活を送って来ました。

 

はて、どんなことが原因で、そんな「ちゃぶ台返し」ばかりして来たのかと改めて振り返ってみると、そこに共通項があったことに気がつきました。誠意でやったことを仇で返された時、理不尽さを強いられた時に、やけのやんぱちが爆発していました。自分にはそれらが耐えられませんでした。立場が悪くなるということは解っていても、「もう嫌だぁ!」と思う衝動がそれを上回ったのです。

 

そこで、ついクイっと「ちゃぶ台返し」をやってしまう。でも「ちゃぶ台返し」をやったら、その人は間違いなく今の立場を失いますね。ですから、人が保身に走るという心境はよ〜く解る。けれども「保身」には「おしん」が必要で、自分には、その手の「おしん(辛抱)」は出来ませんでした。誠実でありたい、正直でありたい、純粋でありたいは、子どもの頃からの、自分の理想だったのです。

 

しかしそれは、世の中的には殆ど通用しない。通用しないどころか、誠実さを仇で返される、正直さを誤解される、純粋さを罵倒されることもしばしばです。でも、それは仕方のないこと。世の中の中心が、エゴを主体に動いていますから。エゴの眼鏡を掛け慣れた人には、誠実さ、正直さ、純粋さというものは見えません。きっと裏に何かがあると、勝手に想像(創造)して、自分のエゴと同質のものを相手に見出してしまうのです。

 

最もひどいのが政界。誠実さ、正直さ、純粋さとはおよそ無縁。そして、政界に負けず劣らずひどいのがスピリチュアル業界(?)。エゴまみれの魑魅魍魎が跋扈し、人々を騙し、欺き、奪い、金と権力の亡者となり、派閥を作っては闘争を繰り広げ、誠実、正直、純粋であろうとする者たちをみな木っ端微塵に打ち砕いてしまう。それを「聖なる」という枕詞のもとに行うのですから、一般社会よりもずっとタチが悪いですね。

 

私も、あること無いこと陰口をきかれ、どれほど罵倒されて来たことか。こんな世の中なら、「いっそもう死んでやれ!」と何度思ったことか。(その時分には、まだ「死んでも、死なない」ということを知らなかったんですけどネ。)自分には、「罵倒観音(馬頭観音をシャレたつもりなんですけどネ)」が憑いているのかと思ったくらいですよ。昨年は、幸い罵倒されることなく過ぎましたが、でも二度ほどチト悲しい思いはしました。

 

しかし、随分後になって、自分のこの不運は、不運だと思う気持ちは、自分の「純粋さ」がまだまだ足りないせいだと考えるようになりました。昔から、物欲、金銭欲、名誉欲といったものにはほとんど関心がありませんでした。ですから、そういうものがあるということがとても不思議に思えます。でも、自分を「認めてもらいたい」という気持ち(認知欲求)は、強くありました。

 

ところが、どこへ行っても認められません。自分を理解してくれる人がいない。この事実は、私をひどく落胆させました。やがて生活の困窮もあって、自分の中に、成功者や能力の高い人を妬む心が生じていきました。その後、いろんなエゴを徐々に手離していく中で、嫉妬心だけは最後まで消えませんでした。それがとても恥ずかしく、自分にとってその克服は最後の難関となりました。

 

けれども、自分の不運は、自分の「純粋さ」が足りないせいだったと気づいた時、これまでの不運は、あらかじめ自分がぜんぶ設計して来たものであり、そして自分が望む通りに「ちゃぶ台返し」を繰り返していたのだと理解しました。なぜならば、もし自分が、何かのチャンスで「成功者」にでもなっていたとしたら、こんなことは今、絶対にしていないだろうと言えるからです。

 

私は「成功者」のお手本にはなれません。でも「落伍者」のお手本にはなれる。それが、いま自分がかろうじて出来ることであり、自分の役割なのだと、己に言い聞かせています。これまで繰り返してきた数々の失敗、恥ずかしいこと、幼少時の体験や、家族とのことや、鬱になったりパニックになったり、罵倒されたりして来たことが、そのために今ぜんぶ役に立っている。

 

それは、自分で自分に贈った得難いギフトです。

 

私は、「こうすれば成功者になれるよ」ということは言えません。でも、私と同じように、「自分は社会の落伍者ではないか」「取るに足らない人間ではないか」「生きるに値しない存在ではないか」と思い込んで来た人に対しては、確信をもって言える。「そんなことはないんだよ」と。力強く言える。「あなたは、そこにいるだけで、素晴らしい存在なんだよ」と。心を込めて言える。

 

「ちゃぶ台返し」は、私に不運の連続をもたらしましたが、でも私は、誠実でありたい、正直でありたい、純粋でありたいという理想を、ついに一度も曲げることは無かった。いつもカッとなったりして、やり方は上手くなかったかも知れませんが、私は、私が自分に課したテストを、そうやって潜り抜けて来ることが出来たのです。そして、今がある。

 

ですから、同じように、純粋さを希求する人たちに言ってあげたい。その道のりはたいそう辛いだろう、困難なことだろう。時には、誠実さを仇で返されたり、正直さを誤解されたり、純粋さを罵倒されたりすることもあるだろう。でも、くじけちゃいけないよ。そんな時には、誠実さを今の二倍にしなさい。正直さを五倍にしなさい。純粋さを十倍にしなさい。

 

理解されない時こそ、もっともっと励みなさい。そのようなあなたを受け止めてくれる人は、必ずいる。ほら、ここにだって。友よ、あなたに言おう。それが光の道なのだよ。それこそが真髄なのだよ。あなたは、どんどん近づいているよ。もう、他人の目を気にしたり、他人の言動に惑わされるのはやめなさい。あなたは、あなたなのだから。

 

先ずはオープンハートであること。そして、素直で、正直で、誠実で、純粋である自分を強くイメージしていつも生きなさい。そのことに揺るぎない確信を持ちなさい。そうすれば、あなたは、やがて無条件の愛の人に変わるから。

自己を解き放つとき

「自由」。この言葉を、おそらくこのブログの中で、これまでいちばん多く使って来たのではないでしょうか。それは、今の人間たちの苦しみや、不幸の原因、そのすべての根っ子が、同じ「不自由さ」に起因しているからです。しかもそのことに、人間は全くと言っていいほど気づいていません。あなたが日々感じている諸問題は、すべてあなたが「自由」でないところから生じているのです。

 

でも、ここで言っている「自由」は、一般的に考えられているものとはちょっと意味合いが異なります。宇宙では「自由」は「愛」と同義語なのです。この意味が解りますか? つまり、完全に「自由」であることは、イコール自分が、完全な「愛」の人になるということなのです。これが解れば、あなたは大きく飛躍します。今世生まれてきた目的を存分に果たし、そして帰ることが出来るでしょう。

 

人間たちは、「不自由さ」というものを、外から押し付けられる拘束だと考えています。そして「自由」を、自分の意のままに振る舞えることだと捉えています。ですから、人は「自由」になりたいと願う。ところが、人間を「自由」にしたら、社会秩序が破壊されてしまうと考える人たちがいて、これに「制限」を加えようとします。そこでいつも、「自由」と「制限」を巡って、綱引きが繰り返されるのです。

 

これは、本当の「自由」とは何かを知らないため、逆に言えば、「不自由さ」というものの根本原因を知らないためです。人間社会で言われている「制限」も、そして「自由」すらも、宇宙から見れば、実は、同じ「不自由さ」に他ならないのです。要は、両者が載っかっている基盤そのものが、「不自由」な領域にあるのです。ではいったい何が、また何から「不自由」だと言うのでしょうか?

 

それは、自分です。本当の自己です。真我です。

 

真の我(われ)は、つまり「魂」は、本当の「自由」というものを、生まれながらにしてちゃんと知っているのです。ところが、成長して知恵を持つようになると、その活動に意識的に「制限」を設けたり、〈欲望〉という名の偽物の「自由」によって、それを覆い隠してしまうのです。これが、その人に、根本的な「不自由さ」をもたらす原因となっているのです。

 

そこから、受肉すること(「魂」が肉体に入る=Reincarnation=転生)が、しばしば牢獄に入ることに例えられているのです。

 

我欲のままに生きることが「自由」なのではありません。むしろそれは真逆。自分を最も強く拘束させてしまうことに他ならないのですよ。あなた方も、それを半分は解っているはずです。だから、みんなよく言っているじゃありませんか。欲望に突き動かされて、何かに夢中になってしまうことを「ハマった」と。

 

肉体というのは、まことに不自由なもので、時空間の箱に閉じ込められ、移動が制限され、他人とコミュニケーションするのもやっかいだし、肉体を維持するためには、常に食事をしたり運動したりしなければなりません。霊界にいたときの、それまでの自由さがまったく失われてしまうのです。

 

その代わりに、肉体を持つことによって、「魂」はこの物質世界を知覚し、生きていくためのセンサーであるところの、いわゆる「五感」を獲得しました。けれども、幼少期はまだ「五感」の発達が未熟です。幼児は周囲にあるもの何に対しても興味を示し、見たり、聞いたり、触ったり、口に入れたりすることで、しだいに自分の外側にある世界を認識していきます。

 

この時期の「魂」は、本当の「自由」というものをまだ覚えているのですが、「五感」の発達とともに、外の世界に順応し、入れ替わりに、本当の「自由」を徐々に忘れていくのです。そして、家庭矯育、学校脅育、社会狂育によって、「魂」の真の「自由」は見事に歪められ、「幻の世界」を、しだいに真実だと思い込むように育てられていくのです。

 

でも、ここで想像してみてください。生まれたての無垢の赤ん坊は、そんな社会システムとはまだ無縁であったということに。

 

この、外に広がる世界観は、マス(mass)で構成されていて、多重構造である上に、かつ非常に強固なものですから、個人が異論を差し挟む余地がほとんどありません。自己の「魂」に素直な人は、なんとなく違和感を感じてはいるのですが、それを言ってもどうにもなりませんし、そういう人は、逆に「落ちこぼれ」と見なされ社会から排斥されてしまうのです。

 

一例を挙げましょう。今の世界においては「経済」というものが、政治上の一大問題となっています。不況の常態化、雇用問題、貧富の格差、貧困、飢餓、母子家庭問題、熾烈な競争、学歴差別、不正と汚職の蔓延、そして環境破壊まで。ほとんどのことが、「経済」が上手く回っていないことが原因で発生しています。しかしこれらの問題を、一挙に解決する道があるのです。

 

それは、「分かち合う」という考え方の導入です。「経済」活動の根底に、「分かち合う」という基本理念があるだけで、すべてが変わります。「分かち合う」という考え方があれば、富の偏在も、物の偏在もありませんし、ムダな競争をする必要もなく、それぞれに適切な雇用が見出され、貧困も飢餓もなく、学歴差別も必要なく、不正も汚職もなく、戦争のない世界が創られます。

 

これを、みなさんは夢物語だと思われるでしょうか? いいえ、そうではありません。成長した「魂」が創る世界は、いずれ必ずそのようになります。それが進化の法則だからです。ではなぜ、今はそれが実現できていないのでしょうか? その答えは簡単です。社会の基本に、出発点に「オレは、分かち合わない是」という思想が、当然のこととして横たわっているからです。

 

「分かち合わない」ことが「是」だという考え方が、「経済」活動の基盤を構成している。そのために、「経済」は富の奪い合いとなり、激しい競争が生じ、マスコミがこれを煽って人々に刷り込み、格差が生じ、この思想教育を学校で教え、学歴社会が生まれ、差別が生まれ、労働者は奴隷にさせられ、不正と汚職が蔓延し、環境破壊が止まらず、あまつさえ戦争まで起こしているのです。

 

複雑怪奇に見える世界も、元はたったこれだけなのです。人類が「分かち合う」という考え方を選ぶか、「分かち合わない」という考え方を選ぶか、そのどちらかなのです。今、人々の多くは、社会が上手く機能していないのは、現行のシステムがおかしいのではないかと思い始めています。そこで、あれを変えたら、これを変えたらと議論しています。

 

でも、根本はそこにあるのではありません。システムを構成している、元にある考え方こそを問うべきなのです。システムなど、元にある考え方がひっくり返れば、それに合わせて早晩変わっていくものです。こと経済に限らず、金融も、教育も、医療も、福祉も、環境問題も、全部があれよあれよという間に変わっていくことでしょう。重要なことは、どういう考え方の下に、システムを再構築するかなのです。

 

あらゆる面で破壊が進む地球。今のこの地球の混乱を治め、平和な世界を実現し、自然環境を元のように回復させ、人類という種が存続し、そして進化していくためには、根本にある考え方がどのように変わらなければいけないのか? その答えは、すべて共通しています。人類みんなが気づかなければならない、たった一つのこと。宇宙をつかさどる究極の答え。根本法則。

 

それは、「全部が一つ」ということ。あなた方に伝えたいことは、いつも繰り返し言っている言葉、ただこれだけ。あなたはわたしであり、わたしはあなた。ゆえに、あなたが為したことは、あなたに返る。他者を愛することは自分を愛することであり、自分を愛することは他者を愛すること。そこに分離はない。このことを根本に据えて、すべてを考え直しなさい。それが、今後のあなたの出発点になる。

 

その時に、忘れてならないのは、あなたも、現行の社会システムの成立に加担して来たという事実です。過去、何度も言って来たように、一部の富者が成立しているのは、それを支えている多くの貧者がいるからです。加害者がいて被害者がいるのではありません。みんなが合わさって、そういう社会を合意の下に創り上げて来たのです。ここに気づかないといけない。

 

いいですか、「」に目覚めるのです。

まさに気づき。気づきのジャンプです。

 

あなたの現実は、あなたが創っている。そう、これまでにも何度か言って来ましたね。これは、あなたが「現実」だと思って来たものは、あなたの「認識」に過ぎないからです。これが「現実」という、確固たる存在はどこにもない。あなたの「認識」の中にしかないものだからです。ですから、あなたの「想い」が、あなた固有の「認識」を創り上げ、あなたが思っている「現実」を、あなたに見せるのです。

 

そこで、こう言えます。

他者が選んだものに、自分が加担することをもうこれ以上やめるとき、それがその人の解放のときとなる。

そして、その人は、入れ替わりに本当の「自由」を思い出す。

 

友よ。そのようにして「自由」を思い出して欲しい。自分はそのように創られたということを思い出して欲しい。そうして、無限の「自由」を再び得て、無条件の「愛」の人になりなさい。その「愛」を周囲の人々に振りまきなさい。残された時間はもうあまりありません。あなたが目覚めて、周囲の人々に影響を与えれば、人類は変わります。地球も変わります。わたしがついています。だから勇気をもって、己の道を進みなさい。

想いは実現するということと、人生苦との狭間

想いは実現する。この言葉を、スピリチュアルなことに関心のあるあなたなら、きっとどこかで目にしたことがお有りでしょう。ところが言葉とは裏腹に、人生というのはままならないし、ちっとも思い通りにはいきません。いったいこれはどういうことなのでしょう? 若いころの私も、思い通りにならない現実に随分と苦しみました。苦しんで、苦しんで、とうとう還暦を過ぎちゃいましたよ〜。(・ω・`;)ノ

 

仏教学の権威である故中村元さんは、サンスクリット語の「苦(dukkha)」を、〈思い通りにならない現実〉と訳されました。これは名訳とされているのですが、仏教では、そもそもの出発点に「一切皆苦(いっさいかいく)」という捉え方を置いています。それからすると、〈人生ってのはねぇ、ぜーんぶが思い通りにならないんだよォ〉ということになってしまいます。う〜ん、暗い。

 

ま、そりゃそうなんですが、還暦を過ぎた今は、「これはちと言い過ぎだよな」と思うようになりました。確かに、人生は思い通りにならないことだらけです。でも最初から「一切皆苦」という認識を自分の中に置いてしまうと、常時「一切皆苦」という人生を自分の中に創り出してしまうことになってしまいます。皮肉なことに、まさにその意味で、思考は現実化してしまうのです。

 

仏教の限界はそこにある、と今の私は思っています。「苦」を努力してなんとか乗り越えるという発想。それで随分回り道をしましたね。その過程が無駄だったとは思っていませんが、これからの人たちが同じことをする必要はもうないと思います。生老病死が本当に深刻な苦しみであった時代には、その思想は慰めになったことでしょう。でもこれからは、本当の科学(因の科学)を知る時代です。

 

50代の半ばを過ぎた時に、私はそれまでの一切合切を捨てて、「これからは、普通のことが普通に出来る人を目指そう」と決めました。「普通のことが普通に出来る」とは、ご飯を作ったり、お茶碗を洗ったり、洗濯をしたり、買い物に行ったり、掃除をしたり、ゴミを出したり、草取りをしたり、花を育てたり、クルマを運転したりといったことです。これらが、当時の自分には出来ませんでした。

 

なぜ出来なかったかと言いますと、それらに「苦」を感じていたからです。どれも、やればやれないことではなかったけれど、半分「嫌だなぁ」と思いながらやっていた。ですから、それらを難なく普通にこなしている人を見ると、「凄いなぁ」といつも尊敬の眼差しで見ていました。その姿は、私にとっては大きな憧れであり、次の人生の大目標だったのです。

 

台所に、山のように洗い物が溜まっている。「これを洗わなくちゃいけないのか、嫌だなぁ」と思う。そう思うこと無しにスッと出来るようになりたい。そして遂には、喜んで出来るまでになりたい、とそう思ったのです。これはあくまで一般論ですが、そういう意味では、世の女性たちは、男性よりも遥かに進んでいると思います。「虹の学校」の門を叩くのも9割が女性ですし。

 

山奥で暮らして5年になりますが、家の近くに産土神を祀った小さなお宮があるのです。最初に来た時には、過疎地でもう誰も手入れをする人がなく、お宮全体に腰高までの草が生い茂っていました。「よ〜し、これを一つ、自分の『普通の人』になるプロジェクトの実験にしてみよう」と決めた私は、その年から、少しずつ手入れを始めました。

 

最初は、鎌で草を刈っていました。ひとりですので、一日では全部刈れません。しかも、刈っても刈っても、また草が生えてくる。春から夏に掛けては大量の花が地面に落ち、秋になると落ち葉でたちまちいっぱいになってしまいます。それでも続けていたら、2年目から草の背丈が低くなり、地面が見えて来ました。そして3年目になると、草の代わりにうっすらと苔が生えて来たのです。

 

4年目になると、これが逆転し、苔の間に生えた雑草をピンセットで引く抜くスタイルへと変わり、今ではあたり一面に苔が生え、すっかり苔神社に生まれ変わってしまいました。そして、何かしっとりした、凛とした空気があたりに満ちて来るまでになったのです。そうなってみて「ああ、これか!」と、私はやっと気がつきました。「想いは実現する」ということの意味がです。

 

苔を生やしたのは私ではありません。自然にそうなったのです。「自然て、なんて凄い庭師なんだろう」と思いました。苔神社にしようというプランが私にあったわけではありません。今できることをコツコツやっていたら、だんだんと姿形が変わっていった。そして驚くことに、いつの間にか自分も、普通に草取りや掃除ができる、掃除喜爺さんに変身していたのです。

 

ああ、想いは実現する。

 

でも想っただけでは、もちろん実現はしなかったでしょう。行動したからこそ、そうなった。しかしそれは、こうも言えます。先ず「想わ」ないことには、次のステップである「行動」は生じない。そこで、〈人生思い通りにならない〉ことの原因の一段階目は、「想っても行動しない」か、「想いそのものを抱かない」か、そのどちらかだということです。耳が痛い人、おられるのではありませんか?

 

いや、俺は強烈に想っていたし、それなりに行動もした。それでも実現しなかった。そう仰る方もおられるでしょう。かく言う私もその一人でした。20歳の時に映画監督になる夢を抱き、東京に出てきてそのための努力を必死にした。でもいつも、あと一歩というところでなぜか道が閉ざされてしまうのです。

 

泣きたい気持ちに押し潰されそうになる中で、私は自分の運命を呪いました。その不運の才(?)が、その後もずっと自分にまとわりついて離れませんでした。

 

さてそこで、〈人生思い通りにならない〉原因の二段階目です。今になって思うのですが、そのように図られたということです。誰に? 天によって。いや、もっと正確に言えば、自分の「魂」が、そのような軌道修正を選んだと言うことです。あの時もし、自分の「心」が望んだようにスンナリ映画監督になっていたら、今このようなことはしていなかったでしょう。また出来なかったでしょう。

 

そう考えると、不運の日々、屈辱の日々、貧乏に喘いでいた日々、悲しみに打ちひしがれた日々、この世の不条理に憤っていた日々、うつ病で死ぬことしか考えなかった日々、そしてカミさんの病死、それらがみんな今の自分の役に立っているのです。

 

また、もし自分に、生まれつきの霊能でもあったなら、きっと錯覚して、道を誤っていたことでしょう。無能だからよかった。無智だからよかった。だから選ぶことが出来た。お宮さんの掃除を始めた時と同様、ゆくゆくはメッセンジャーになろうなどとは露ほども考えたことはなかった。でもコツコツやっていたら、いつの間にかそうさせられていたのです。天の手足となったのです。

 

あなた方はみな、この世に転生して来る際に、一人ひとりが、自分の今世における「課題」を設定して誕生しています。この「課題」は、自分という「魂」の霊的成長を図るためのもので、前世までのカルマの刈り取りが半分と、今世で新たに味わいたい領域の体験が半分含まれています。そしてそれが体験できる国や環境や両親や自分の肉体を選んで、この世に誕生して来るのです。

 

「魂」は、そのことをもちろん覚えているのですが、成長してこの世を体験し、五感に操られる「心」の方がしだいに優勢になるに従って、大多数の人は、自分が設定して来た転生の目的を忘れてしまいます。このブログで、しばしば「思い出すだけ」と言っているのは、そのためです。何かを掴まなければと思う必要は何もないのです。思い出せば「魂」に帰れるのであり、それが「真我」の発見、つまり自分探しということなのです。

 

ということで、あなたの「想い」が、この「魂」が設定してきた目的に合致し、かつ「宇宙の法則」に則っていることであれば、それは自ずと実現することになります。と、今書きましたが、正確には、あなたの「魂」の初期設定に合致するだけでよいのです。なぜなら、転生時における各「魂」の課題設定そのものが、「宇宙の法則」に則った上で創られているからです。

 

ですから、自分の今の境遇や運命を呪ってはなりません。全部、自分が計画したことです。よくよく見つめてみれば、そこには必ず何らかの学びが含まれていることが解るはずです。それを素直に受け取りなさい。そして感謝しなさい。間違っていたならば修正しなさい。それでこそ、あなたの「魂」が成長できる。カルマも試練も、あなたがご自分に贈ったギフトなのです。だから、自分を愛しなさい。

 

想いは実現する。この言葉を、世に言う「成功者」の方々が発しているのを時々見かけます。また、この手のハウツー本やスピリチュアル系の教材も山のようにあります。それらと、いま言った意味とを、混同しないようにしてください。「成功者」などという概念は、「不成功者」の上に立ってこそあるものだということに気づいてください。そんなものが「宇宙の法則」だと、あなたは本気で思うのですか? わたしが、わたしの子らの差別を望むとでも言うのですか?

 

あなたの本質は「魂」です。「魂」は不死不滅であり、今世で行き着いた霊性のレベルと、この世で体験したことに付随した思いと、身につけた技能と、積んだカルマだけが、次の転生にも運ばれます。境遇や、体験や、物資的なものは、全部、それらのプレイの「道具」に過ぎないのです。このことが解れば、人生にとって、いったい何が重要なことなのかが解ることでしょう。

 

なぜちょっと前のブログで、今度の選挙のことを書いたのか。人は、そしてメディアは、受かったとか落ちたとか、大勝したとか惨敗したとか、そんなことばかりに注目します。でも、それらの何一つ、あの世へも、そして来世へも運べないのですよ。議員の椅子もバッチも、私利私欲で得た財産も名声も、何一つ運べないのですよ。運ばれるのは、その「行動」に至った「想い」だけなのです。

 

そして、自分が蒔いた種は自分で刈り取るという法則があるだけ。だから反省が大事なのです。「因の世界」にまで遡った反省が必要なのです。自分が犯した間違いに直ぐに気がついた者は、その場で直ぐに刈り取れます。でも、間違いに、更に間違いを重ねて生きる者は、雪だるまのようにそれを膨らまし、来世にまで持ち越して、大きく実ったカルマを刈り取らなければなりません。

 

賢明なあなたなら解るでしょう。それは「罰」ではないということが。ただ、自分が為したことは自分に返るという「宇宙の法則」を学ぶチャンスに過ぎないということが。そしてそれは、自分で自分に贈ったギフトなのです。このことが心底解った時、あなたの「魂」は大きく成長する。

 

だから、自分の今の境遇を、嘆かず、朗らかに、精一杯生きなさい。瞬間瞬間の思いを大切にしなさい。そして、何気ない「今この瞬間」に喜びを見出した時、あなたは宇宙の奥義を理解することでしょう。

 

これこそが「神の恩寵」であったということが。

“God bless you” だったのだということが。

 

残念ながら、多くの人が、成功や、物質的な充足を、この世での「想い(願望)」にしているために、それが実現しないと言っては嘆いています。かつての私のように。でもそうではないのです。あなたの真の「想い」は、ソウルの「想い」にこそある。そこに気づけば、そして自分自身を発見できれば、あなたの「想いは実現する」のです。宇宙とは、最初からそのように創られています。

 

だから、友よ。あなたもそのように生きるのだ。

努力ということについて

Q.私は、人間が進歩していくためには「努力」が欠かせないと思っていました。ところが、先日読んだスピリチュアル関係の書籍には「努力は必要ない」と、まるで全面否定するような言葉が書かれてあり、エッと思いました。一体どういうことなんでしょうか? 霊的世界から見れば、「努力」なんかしても意味がないということなのでしょうか?

 

A.これは、「努力」という言葉が何を指しているかによって違って来ます。それが、あなたの「ありのまま」を変容させようとする行為であれば、その書籍で語っている通り、「努力」は必要ありません。むしろ、あなたの「自分探しの旅」を阻害してしまうという意味において、害となってしまう可能性もあります。(しかしこれとて心配はありません。時間はたっぷりありますから)

 

もう少し詳しく説明しましょう。あなたが地球に生まれて来たことの目的は、地球という場で、肉体を持ってしか為し得ない体験を積むことによって、あなたの本体である「魂」を進化させて行くことです。「魂」の進化は一足飛びには行きませんが、人は輪廻転生をしますし、他の生命とのつながりを理解することによって、少しづつですが、進化を果たして行きます。

 

この時の「進化」という意味は、あなたが生きてする様々な体験の奥に、普遍的な「宇宙の真理」「真理の法則」というものが隠れていることに気づくということです。この「気づき」によって、あなたは、自分自身が、確かに宇宙の法則の中に生かされているということを実感し、自分自身の本体が「魂」にあることを理解するのです。

 

本当はこれらのことを、あなたの本体である「魂」は既に知っているのですが、地上に生を受けて、地球環境に適応するにしたがって、生まれてきた目的のことも、前世のことも、霊界のこともみんな忘れてしまいます。そこで、「気づき」という形で、実際には、「魂」である自分を「思い出す」のです。

 

ところで、忘れていた何かを思い出す時、あなたは「努力」をするでしょうか? しないでしょう。「あ、そうだった!」と突然パッと思い出すのではありませんか? どこからか、おいしそうな香りが流れて来て、それを嗅いだ瞬間、以前に食べた料理の記憶がまざまざと甦ったなんて経験はありませんか?

 

このように、自分を知る瞬間は、努力なしに訪れるのです。また、あなたという「魂」は、元々が一つのものから分かれたピース(かけら)ですから、あなたのこの体験は直ちに全体に組み込まれて行き、宇宙そのもの(別の言葉で言えば「創造主」)を進化させることに役立つのです。このようにして、宇宙は、永遠に進化を続けているのです。

 

さて、この説明で、「気づき」というものがいかに重要なポイントであるかが理解されたことでしょう。では、どうすれば「気づき」を得ることが出来るのでしょうか? これは、静寂の中に身を置いた時に、瞬間的に訪れます。この時、あなたの意識は、宇宙の叡知とテレパシーでつながって、ここからの情報をパッと受け取るのです。これが「気づき」です。

 

そして、そのような状態になるためには、余計な「努力」を捨てて、「ありのまま」でいることが大切なのです。「ありのまま」ということは「魂」の欲求に素直に従うということですから、そのような生き方をしていれば、「魂」がいつも活性化していることになり、自分自身の今の課題を知ったり、その課題にとって有用な「気づき」も受け易くなるのです。

 

けれども、「ありのまま」を無視した「努力」を重ねようとしますと、今世の「魂」の課題からは遠ざかってしまいますし、「こうありたい」「こうあらねば」という歪んだ目的意識が、外側からあなたを縛ってしまうことになります。それによって、自分の内側を見つめる、内側の声を聞く、自分自身に帰る、といった進歩の機会を逃してしまいかねないのです。

 

先ずここまで、ご理解いただけましたでしょうか? でも、あなたが「ありのまま」の自分を発見したとして、あなたは次にそういう自分を「表現」しなくてはなりません。

 

ならないというよりも、「表現(創造)」欲求は「魂」の基本欲求であり、これによって、自己のアイデンティティと、他とのつながりの両方が確認できるのです。ですから、この自己表現(創造)が上手に為されない限り、あなたの心(mind)は、生き生きと活動することが出来ません。死んだも同然になってしまうのです。

 

このことは、とても重要ですので、しっかりと頭の中へ入れておいてくださいね。人間にとって、衣食住よりももっと重要なことは「創る」ということです。創って「表現する」ということです。あなたが本当に困った時には、この「真理」をどうか思い出してください。あなたを救ってくれるヒントが、きっと見つかるはずです。

 

人が「鬱」に陥っている時というのは、みなこの「創る、表現する」という欲求が(何らかの理由によって)果たされていない時なんですね。歌を忘れたカナリアです。ですから、ここに気づいて、「創る、表現する」という行動を取り戻して行けば、「鬱」は治ります。

 

さて、あなたが、複雑な自己をどのように表現して行くか? これは外部とのコミュニケーションの問題ですから、これには熟達が必要です。文字で伝えようと思ったら、それなりの文章力がなければうまく伝わりませんよね。楽器を奏でるのなら、やはり聴く者をうならせるようでないと。物を作るのなら、あっと言わせるような完成度が欲しいですよね。つまりここでは「努力」が必要なのです。

 

その「努力」は、すでに「ありのまま」を発見したあなたにとっては、辛く、苦しいものとはなりません。きっと、楽しくて、ワクワクするような、探究心に満ちたものとなります。傍から見れば、そうしている姿は、大変な努力家に見えるかもしれません。でもあなたは、それを「努力」だとは、もはや思わないことでしょう。

 

まとめますと、あなたが「ありのまま」の自分を発見するためには「努力」は不要です。でもその自分を表現するためには、内面が深ければ深いほど、意識の幅が多様であればあるほど、それを伝えるために「努力」が必要になって来るということです。でもそれは、辛く苦しいものではなくて、楽しいものになるということです。

 

そしてこの「努力」は、来世には、持って生まれた才能として、あなたをまた次の段階へと押し上げてくれる礎となるのです。

幸福とは

幸福というものは、

どこかに宝石が落ちていないかと、探しまわるものじゃないんだよ。

道端で蹴つまずいてコンチクショーと思い、でも気になって拾った石ころ。

その、ただの石ころだと思っていたものが、

磨いているうちに、実は宝石だったんだと気づくことなのさ。

何かを「解る」にも三段階がある

「わかる」という漢字には、分かる、判る、解ると三つがあって、当ブログでは、これを出来るだけ使い分けるようにしています。先ず「分かる」は分別がつくこと。「分」は陰陽の八の字広がりを刀で切るの意味で、物事の違いが分かるということです。「判る」は半分に「刂(カタナ)」で切るということで、ジャッジするという意味。

 

これに対し「解る」は、「解ける」ということで、謎が明らかにされるという意味です。「解」の字は、牛を刀でバラバラにするという意味で、へんは牛の角。複雑なものをバラすんですね。ということで、出来るだけ使い分けようと意識してはいるのですが、時に自分でも迷ってワケが分からなくなる時があります。あれ? ワケが分からないには、どれを使えばいいんだろう、ってな具合です。

 

さてこの「解る」にも三段階があるんですね。先ず頭で解る。それが体に入って来る。そして最後は一体となる。何かを「解る」という時、この最後の一体感まで到達しないと、それは本当に「解った」ことにはならない。

 

どういうことでそれが確かめられるかというと、何かについて一体感となるまで「解った」人は、その分野に関するどんな質問にも答えることが出来ます(その中には、その件については自分は「知らない、分からない」と答えることも含みます)。その人自身が、その世界の表現物となってしまうからです。

 

ですから逆に言うと、質問を受けても答えられない、あんちょこを見ないと答えられないという段階にある時には、まだ本当には理解できていないということです。

 

この「解る」ということの三段階を、「苦」ということについて見てみましょう。生きることがとても苦しい。「苦」とはなんだと、どうして「苦」があるのかと。若い頃の私が正にそうだったのですが、お釈迦様はどう言っているのだろうかと調べてみると、「四苦八苦」ということを言っているということが分かる。

 

えーと、四苦は生・老・病・死で、うんなるほど。でも「生」が苦しみってどういう意味なんだ? 生きることがそもそも苦しみというのか、それとも生まれたことが苦しみだというのか? もし生きることが苦しみというのなら、以下の老・病・死はその中にすべて含まれてしまうから、そういう分類は変だよなぁ。ということは生まれた苦しみということか。だから反対の「死」があるわけか。

 

で、八苦。残りの四苦は、ちと難しいぞ。愛別離苦=愛する者と別れなければならないこと、うんなるほど。怨憎会苦=怨み憎んでいる者に会ってしまうこと、うんあるある。求不得苦=求める物が得られないこと、そうなんだよなぁ、そればっかりなんだよなぁ。で、五蘊盛苦=五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと、それも解るけど、なんで「盛る」ってなってるの? これってジョーク?

 

てな具合で、一生懸命「解ろう」として、これを暗記したりして、ちょっと賢くなった気分になっていました。で、肝心の「苦」は無くなったのか? ぜーんぜん。「四苦八苦」が解ったって、それは「四苦八苦」の分類の構造と意味が分かったというだけで、「苦」というものがどうして生じて、どうすればそこから脱却できるのかは皆目解りませんでした。

 

そこで四諦の法門(苦・集・滅・道)です。あのね、君が苦しいのはね、苦しみの因を集めているからなんだよ。だからそれを滅すればいいのさ。どう滅すればいいのかって? そう、それが道なんだよ。ということで、そこから仏道修行に入ったわけなんですが、結局この段階では、仏道マニュアルに沿ってただ闇雲に歩いているだけでした。つまり「頭で解った」だけだったんです。

 

仏道修行は足掛け20年くらいやりましたけど、限界を感じてそれを捨ててしまったんです。つまり、最初の答えが得られなかったのです。そして、捨ててから「苦しまなくてもいいんだ」ということを知ったのです。えーーーーーっ!そんなぁ。まさに目から鱗。逆転の発想というか。「四苦八苦」を学べば学ぶほど「苦」にのめり込んでしまうんだなと気がついた。この時に、体に入ったんです。

 

そうだったんだ! まるっきり逆だったんだ。ということに気がついて、体の中にポッと灯りが点った。ちなみに、釈迦を否定しているんじゃないんですよ。釈迦は好きです。でも日本仏教が、変に歪めてしまって、宗旨宗派仏教になってしまったんですね。すべては一つ。真理は一つ。宇宙は一つです。日本仏教は釈迦の教えじゃないんです。そのことにも気がつきました。

 

さてそれからです。「苦」を乗り越える、「苦行」をして煩悩を滅する、ということを習い性にして生きて来た自分を、「苦しまなくてもいいんだ」「楽しめばいいんだ」に変えて行くのにはかなり時間が掛かりました。これはもう、ちょっとずつ慣れて行くしかない。

 

あれこれやって4年半が過ぎた時、やっと「Be here now(今ここ)」の感覚が一体となって来たんです。そうしたら、目に映るものが違って見えて来た。生命がメッセージを発していることが解るようになったんです。ああ、ユーミンが言っていることはこれか、と思いました。そうやって、一体となった。

 

考えてみれば簡単なことだったんですよね。一瞬一瞬をすべて「楽しみ」に生きていれば、「苦しみ」が入り込む余地など無かったんです。ただそれだけ。それを、あーでもない、こーでもないとみんな難しくしちゃっている。でもそうじゃないってことです。真理というのは、いつもシンプルなものです。なぜって、一つなんですから。

自分の直感・感覚を信じれば、他者からの評価は不必要になる

思考、感情、感覚という「心」の三つの働きの中で、なぜ「感覚」がそれほど重要視されないのか、むしろ軽視されているのかと言いますと、「感覚」は、それを他人に伝えたり、共通認識を持つということがとても難しいためです。「思考」は言語に置き替えられるので普遍化し易く、また「感情」は喜怒哀楽などの基本パターンが決まっていますので、共通認識を持ち易いのです。

 

けれども「感覚」はそうはいきません。たとえば、プロ野球のピッチャーは、変化球を投げる際の指先の微妙な感覚についてよくコメントをしています。がしかし、素人にはもちろんそんなものは分かりません。またプロ同士であっても、みんな「私の場合はこうだ、こうする」と言って、互いの「感覚」を披露し合うのが常で「まったく一緒だ」といったことは殆どありません。

 

ということで、「感覚」というものは、多分に曖昧さを有しているものと見なされ、それゆえ重視されることがないのです。けれども、思考、感情、感覚の中で、「感覚」こそが自己の「魂」とダイレクトにつながれるツールなのです。この感覚を重視し、直感を信じて行動するクセをつければ、他人の評価など、しだいに気にしなくなって行きます。

 

一般論として、人がなぜ他人の眼を気にするのか、評価を気にするのかと言いますと、自己のアイデンティティというものに関して、確固たる自信が持てないためです。そこで代わりに、他人に評価をして貰いたい、自分を認めてもらいたい、という欲求が生じて来るのです。しかし大元を辿れば、そこには自分の「感覚」や「直感」を重視していないという問題があるのです。

 

もしあなたが、ご自分の「感覚」や「直感」を重視していれば、それは固有のものですから、他人には説明できない代わりに、自分でその感覚の評価を下すことはできるのです。たとえば、イチロー選手の凄さというのは、バッティングに対する感覚が他の人よりも頭抜けているのです。それで日々、微妙な修正を行っている。でもその微妙な感覚というものは、イチロー選手にしか分からないのです。

 

このように、「技術」というものは「感覚」とセットになっているのですが、「技術」の差の方は目に見えて分かるのに対し、「感覚」の差というものは、外側からは分かりません。それは、それぞれの人に固有のものなのです。だからこそ、その部分を信頼することで、他人の言動に振り回されることなく、自己のアイデンティティを保つことが出来るのです。

 

ということで、何をするに際しても、「感覚」の変化、「感覚」の向上というところに、ご自分の意識をフッと向けるということを是非していただきたいのです。「技術」の向上というものは、「感覚」の向上の結果なのです。内側のものを外側に表現したものなのです。ですから、その癖をつけることで、自分の内側に入る、内面を見つめるということが楽に出来るようになって行きます。

 

そして、それは、ひいては「自分は何者なのか?」という答えの発見にまでつながって行くのです。

 

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