by Rainbow School
<< October 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
努力ということについて

Q.私は、人間が進歩していくためには「努力」が欠かせないと思っていました。ところが、先日読んだスピリチュアル関係の書籍には「努力は必要ない」と、まるで全面否定するような言葉が書かれてあり、エッと思いました。一体どういうことなんでしょうか? 霊的世界から見れば、「努力」なんかしても意味がないということなのでしょうか?

 

A.これは、「努力」という言葉が何を指しているかによって違って来ます。それが、あなたの「ありのまま」を変容させようとする行為であれば、その書籍で語っている通り、「努力」は必要ありません。むしろ、あなたの「自分探しの旅」を阻害してしまうという意味において、害となってしまう可能性もあります。(しかしこれとて心配はありません。時間はたっぷりありますから)

 

もう少し詳しく説明しましょう。あなたが地球に生まれて来たことの目的は、地球という場で、肉体を持ってしか為し得ない体験を積むことによって、あなたの本体である「魂」を進化させて行くことです。「魂」の進化は一足飛びには行きませんが、人は輪廻転生をしますし、他の生命とのつながりを理解することによって、少しづつですが、進化を果たして行きます。

 

この時の「進化」という意味は、あなたが生きてする様々な体験の奥に、普遍的な「宇宙の真理」「真理の法則」というものが隠れていることに気づくということです。この「気づき」によって、あなたは、自分自身が、確かに宇宙の法則の中に生かされているということを実感し、自分自身の本体が「魂」にあることを理解するのです。

 

本当はこれらのことを、あなたの本体である「魂」は既に知っているのですが、地上に生を受けて、地球環境に適応するにしたがって、生まれてきた目的のことも、前世のことも、霊界のこともみんな忘れてしまいます。そこで、「気づき」という形で、実際には、「魂」である自分を「思い出す」のです。

 

ところで、忘れていた何かを思い出す時、あなたは「努力」をするでしょうか? しないでしょう。「あ、そうだった!」と突然パッと思い出すのではありませんか? どこからか、おいしそうな香りが流れて来て、それを嗅いだ瞬間、以前に食べた料理の記憶がまざまざと甦ったなんて経験はありませんか?

 

このように、自分を知る瞬間は、努力なしに訪れるのです。また、あなたという「魂」は、元々が一つのものから分かれたピース(かけら)ですから、あなたのこの体験は直ちに全体に組み込まれて行き、宇宙そのもの(別の言葉で言えば「創造主」)を進化させることに役立つのです。このようにして、宇宙は、永遠に進化を続けているのです。

 

さて、この説明で、「気づき」というものがいかに重要なポイントであるかが理解されたことでしょう。では、どうすれば「気づき」を得ることが出来るのでしょうか? これは、静寂の中に身を置いた時に、瞬間的に訪れます。この時、あなたの意識は、宇宙の叡知とテレパシーでつながって、ここからの情報をパッと受け取るのです。これが「気づき」です。

 

そして、そのような状態になるためには、余計な「努力」を捨てて、「ありのまま」でいることが大切なのです。「ありのまま」ということは「魂」の欲求に素直に従うということですから、そのような生き方をしていれば、「魂」がいつも活性化していることになり、自分自身の今の課題を知ったり、その課題にとって有用な「気づき」も受け易くなるのです。

 

けれども、「ありのまま」を無視した「努力」を重ねようとしますと、今世の「魂」の課題からは遠ざかってしまいますし、「こうありたい」「こうあらねば」という歪んだ目的意識が、外側からあなたを縛ってしまうことになります。それによって、自分の内側を見つめる、内側の声を聞く、自分自身に帰る、といった進歩の機会を逃してしまいかねないのです。

 

先ずここまで、ご理解いただけましたでしょうか? でも、あなたが「ありのまま」の自分を発見したとして、あなたは次にそういう自分を「表現」しなくてはなりません。

 

ならないというよりも、「表現(創造)」欲求は「魂」の基本欲求であり、これによって、自己のアイデンティティと、他とのつながりの両方が確認できるのです。ですから、この自己表現(創造)が上手に為されない限り、あなたの心(mind)は、生き生きと活動することが出来ません。死んだも同然になってしまうのです。

 

このことは、とても重要ですので、しっかりと頭の中へ入れておいてくださいね。人間にとって、衣食住よりももっと重要なことは「創る」ということです。創って「表現する」ということです。あなたが本当に困った時には、この「真理」をどうか思い出してください。あなたを救ってくれるヒントが、きっと見つかるはずです。

 

人が「鬱」に陥っている時というのは、みなこの「創る、表現する」という欲求が(何らかの理由によって)果たされていない時なんですね。歌を忘れたカナリアです。ですから、ここに気づいて、「創る、表現する」という行動を取り戻して行けば、「鬱」は治ります。

 

さて、あなたが、複雑な自己をどのように表現して行くか? これは外部とのコミュニケーションの問題ですから、これには熟達が必要です。文字で伝えようと思ったら、それなりの文章力がなければうまく伝わりませんよね。楽器を奏でるのなら、やはり聴く者をうならせるようでないと。物を作るのなら、あっと言わせるような完成度が欲しいですよね。つまりここでは「努力」が必要なのです。

 

その「努力」は、すでに「ありのまま」を発見したあなたにとっては、辛く、苦しいものとはなりません。きっと、楽しくて、ワクワクするような、探究心に満ちたものとなります。傍から見れば、そうしている姿は、大変な努力家に見えるかもしれません。でもあなたは、それを「努力」だとは、もはや思わないことでしょう。

 

まとめますと、あなたが「ありのまま」の自分を発見するためには「努力」は不要です。でもその自分を表現するためには、内面が深ければ深いほど、意識の幅が多様であればあるほど、それを伝えるために「努力」が必要になって来るということです。でもそれは、辛く苦しいものではなくて、楽しいものになるということです。

 

そしてこの「努力」は、来世には、持って生まれた才能として、あなたをまた次の段階へと押し上げてくれる礎となるのです。

幸福とは

幸福というものは、

どこかに宝石が落ちていないかと、探しまわるものじゃないんだよ。

道端で蹴つまずいてコンチクショーと思い、でも気になって拾った石ころ。

その、ただの石ころだと思っていたものが、

磨いているうちに、実は宝石だったんだと気づくことなのさ。

何かを「解る」にも三段階がある

「わかる」という漢字には、分かる、判る、解ると三つがあって、当ブログでは、これを出来るだけ使い分けるようにしています。先ず「分かる」は分別がつくこと。「分」は陰陽の八の字広がりを刀で切るの意味で、物事の違いが分かるということです。「判る」は半分に「刂(カタナ)」で切るということで、ジャッジするという意味。

 

これに対し「解る」は、「解ける」ということで、謎が明らかにされるという意味です。「解」の字は、牛を刀でバラバラにするという意味で、へんは牛の角。複雑なものをバラすんですね。ということで、出来るだけ使い分けようと意識してはいるのですが、時に自分でも迷ってワケが分からなくなる時があります。あれ? ワケが分からないには、どれを使えばいいんだろう、ってな具合です。

 

さてこの「解る」にも三段階があるんですね。先ず頭で解る。それが体に入って来る。そして最後は一体となる。何かを「解る」という時、この最後の一体感まで到達しないと、それは本当に「解った」ことにはならない。

 

どういうことでそれが確かめられるかというと、何かについて一体感となるまで「解った」人は、その分野に関するどんな質問にも答えることが出来ます(その中には、その件については自分は「知らない、分からない」と答えることも含みます)。その人自身が、その世界の表現物となってしまうからです。

 

ですから逆に言うと、質問を受けても答えられない、あんちょこを見ないと答えられないという段階にある時には、まだ本当には理解できていないということです。

 

この「解る」ということの三段階を、「苦」ということについて見てみましょう。生きることがとても苦しい。「苦」とはなんだと、どうして「苦」があるのかと。若い頃の私が正にそうだったのですが、お釈迦様はどう言っているのだろうかと調べてみると、「四苦八苦」ということを言っているということが分かる。

 

えーと、四苦は生・老・病・死で、うんなるほど。でも「生」が苦しみってどういう意味なんだ? 生きることがそもそも苦しみというのか、それとも生まれたことが苦しみだというのか? もし生きることが苦しみというのなら、以下の老・病・死はその中にすべて含まれてしまうから、そういう分類は変だよなぁ。ということは生まれた苦しみということか。だから反対の「死」があるわけか。

 

で、八苦。残りの四苦は、ちと難しいぞ。愛別離苦=愛する者と別れなければならないこと、うんなるほど。怨憎会苦=怨み憎んでいる者に会ってしまうこと、うんあるある。求不得苦=求める物が得られないこと、そうなんだよなぁ、そればっかりなんだよなぁ。で、五蘊盛苦=五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと、それも解るけど、なんで「盛る」ってなってるの? これってジョーク?

 

てな具合で、一生懸命「解ろう」として、これを暗記したりして、ちょっと賢くなった気分になっていました。で、肝心の「苦」は無くなったのか? ぜーんぜん。「四苦八苦」が解ったって、それは「四苦八苦」の分類の構造と意味が分かったというだけで、「苦」というものがどうして生じて、どうすればそこから脱却できるのかは皆目解りませんでした。

 

そこで四諦の法門(苦・集・滅・道)です。あのね、君が苦しいのはね、苦しみの因を集めているからなんだよ。だからそれを滅すればいいのさ。どう滅すればいいのかって? そう、それが道なんだよ。ということで、そこから仏道修行に入ったわけなんですが、結局この段階では、仏道マニュアルに沿ってただ闇雲に歩いているだけでした。つまり「頭で解った」だけだったんです。

 

仏道修行は足掛け20年くらいやりましたけど、限界を感じてそれを捨ててしまったんです。つまり、最初の答えが得られなかったのです。そして、捨ててから「苦しまなくてもいいんだ」ということを知ったのです。えーーーーーっ!そんなぁ。まさに目から鱗。逆転の発想というか。「四苦八苦」を学べば学ぶほど「苦」にのめり込んでしまうんだなと気がついた。この時に、体に入ったんです。

 

そうだったんだ! まるっきり逆だったんだ。ということに気がついて、体の中にポッと灯りが点った。ちなみに、釈迦を否定しているんじゃないんですよ。釈迦は好きです。でも日本仏教が、変に歪めてしまって、宗旨宗派仏教になってしまったんですね。すべては一つ。真理は一つ。宇宙は一つです。日本仏教は釈迦の教えじゃないんです。そのことにも気がつきました。

 

さてそれからです。「苦」を乗り越える、「苦行」をして煩悩を滅する、ということを習い性にして生きて来た自分を、「苦しまなくてもいいんだ」「楽しめばいいんだ」に変えて行くのにはかなり時間が掛かりました。これはもう、ちょっとずつ慣れて行くしかない。

 

あれこれやって4年半が過ぎた時、やっと「Be here now(今ここ)」の感覚が一体となって来たんです。そうしたら、目に映るものが違って見えて来た。生命がメッセージを発していることが解るようになったんです。ああ、ユーミンが言っていることはこれか、と思いました。そうやって、一体となった。

 

考えてみれば簡単なことだったんですよね。一瞬一瞬をすべて「楽しみ」に生きていれば、「苦しみ」が入り込む余地など無かったんです。ただそれだけ。それを、あーでもない、こーでもないとみんな難しくしちゃっている。でもそうじゃないってことです。真理というのは、いつもシンプルなものです。なぜって、一つなんですから。

自分の直感・感覚を信じれば、他者からの評価は不必要になる

思考、感情、感覚という「心」の三つの働きの中で、なぜ「感覚」がそれほど重要視されないのか、むしろ軽視されているのかと言いますと、「感覚」は、それを他人に伝えたり、共通認識を持つということがとても難しいためです。「思考」は言語に置き替えられるので普遍化し易く、また「感情」は喜怒哀楽などの基本パターンが決まっていますので、共通認識を持ち易いのです。

 

けれども「感覚」はそうはいきません。たとえば、プロ野球のピッチャーは、変化球を投げる際の指先の微妙な感覚についてよくコメントをしています。がしかし、素人にはもちろんそんなものは分かりません。またプロ同士であっても、みんな「私の場合はこうだ、こうする」と言って、互いの「感覚」を披露し合うのが常で「まったく一緒だ」といったことは殆どありません。

 

ということで、「感覚」というものは、多分に曖昧さを有しているものと見なされ、それゆえ重視されることがないのです。けれども、思考、感情、感覚の中で、「感覚」こそが自己の「魂」とダイレクトにつながれるツールなのです。この感覚を重視し、直感を信じて行動するクセをつければ、他人の評価など、しだいに気にしなくなって行きます。

 

一般論として、人がなぜ他人の眼を気にするのか、評価を気にするのかと言いますと、自己のアイデンティティというものに関して、確固たる自信が持てないためです。そこで代わりに、他人に評価をして貰いたい、自分を認めてもらいたい、という欲求が生じて来るのです。しかし大元を辿れば、そこには自分の「感覚」や「直感」を重視していないという問題があるのです。

 

もしあなたが、ご自分の「感覚」や「直感」を重視していれば、それは固有のものですから、他人には説明できない代わりに、自分でその感覚の評価を下すことはできるのです。たとえば、イチロー選手の凄さというのは、バッティングに対する感覚が他の人よりも頭抜けているのです。それで日々、微妙な修正を行っている。でもその微妙な感覚というものは、イチロー選手にしか分からないのです。

 

このように、「技術」というものは「感覚」とセットになっているのですが、「技術」の差の方は目に見えて分かるのに対し、「感覚」の差というものは、外側からは分かりません。それは、それぞれの人に固有のものなのです。だからこそ、その部分を信頼することで、他人の言動に振り回されることなく、自己のアイデンティティを保つことが出来るのです。

 

ということで、何をするに際しても、「感覚」の変化、「感覚」の向上というところに、ご自分の意識をフッと向けるということを是非していただきたいのです。「技術」の向上というものは、「感覚」の向上の結果なのです。内側のものを外側に表現したものなのです。ですから、その癖をつけることで、自分の内側に入る、内面を見つめるということが楽に出来るようになって行きます。

 

そして、それは、ひいては「自分は何者なのか?」という答えの発見にまでつながって行くのです。

 

●関連

「自分を信じる」ための具体的方法

手応えが欲しい時

「報われない」思いから脱するためには、社会が提示するスケールに乗らないことと、「今ここ」の瞬間を楽しく生きることが何より大切です。けれども、そのように意識転換を図っても、日々の手応えというものが欲しくなってくる時があります。世間のスケールに乗らないということは、「自分の感覚」を生きるということですから、それを信じられる保証が欲しくなって来るのです。

 

アーティストというのは、それを「自己満足」の中に完結しようと努力する者のことです。「自己満足」と言うと、普通は悪いことの代名詞のように言われていますが、これは逆で「自己満足」こそが難しく、最も困難な道です。ここに「他者満足」を入れてしまうと、純粋性が失われてしまいます。それは、高い評価や名声を期待するということになって、アーティストの道を逸脱してしまうのです。

 

アーティストというのは職業のことではなくて、「道」を歩む人のことです。ですから、「道」を歩もうとする者は、みなアーティストです。さて今日は、その際、「自己満足」の世界の中に、どういうことによって「手応え」を感じられるか、ということを、自分の経験に基づいて考えてみたいと思います。

 

先ず、分かりやすいのは、技術が上がるということです。今まで出来なかったことが出来るようになる。おそらくこれは、大抵の人が経験していることだと思います。しかしそれを経験するためには、不断の努力、日々の訓練というものが欠かせません。ですから、それを最初から厭(いと)うような人は、技術の向上を体験することが出来ません。もったいないことです。

 

次に、技術の向上に伴って、自分の「感覚の変化」というものに気づくことがあります。しかしこれは、自分にしか分からないもので、目に見えて分かるというものでもありません。また、他の人に説明も出来ない。ということで、軽視されがちなのですが、この「感覚の変化」を自分でしっかりと認識するということが、非常に大切です。「感覚の変化」が、次の扉を開けるからです。

 

一つの「感覚の変化」は、次の「感覚の変化」をもたらし、これが連鎖的に続いていくと、やがては外の世界が違って見えてきたり、感じられて来ます。私たちが持っている「五感」は、外の世界を認識するためのセンサーなのですが、人間はこれを充分に使ってはいません。しかしセンサーの精度が研ぎ澄まされることによって、外の世界の認識も変わって来るのです。そして第六感が発達してゆく。

 

この「感覚の変化」と並行して、身体的トレーニングや特殊な呼吸法を行っていると、この変化はやがて全身に及び、肉体そのものが変化して来ます。そして肉体が変化すると、食事の好みや、量や、食べ方までが、自然と変わって行く。ただし身体的な変化は徐々に進むので分かりにくいですが、一年、二年、三年と経つにつれて、それ以前とは大きく変わって行きます。

 

外の世界が変わって見えて来ると、今まで許せなかったものが許せるようになり、また自分の心も安定して来るので、これが目立った変化をもたらします。人間関係の軋轢が減り、あなたによい人間関係が生まれて来るのです。そして、すべては「波動の法則」に基づいているということを、あなたは実感として知ります。

 

自分が、あたたかで、やさしい、愛のこもった波動を出していれば、それが自分に返ってきて、反対に、嫉妬や、憎悪や、怒りの波動を出していれば、それが自分にそっくり返って来る、という非常にシンプルなことに、実感として気がつくのです。すべては、自分に責任があったのだ、ということに気がつきます。そうして、あなたはジャンプする。

 

以上を「手応え」として、「道」を歩んで行って欲しいと思います。

「報われない」という思い

永年の不安感、焦燥感、絶望感から脱したという人に、「振り返ってみて、その時期には、何がネックになっていたと思う?」と訊いてみました。すると、一つは自分が抱えていた「観念」だったという答えが返って来ました。が、もう一つ「報われない」という思いも大きかったと聞き、「そういえば」と、私の中にも永年巣くっていたそれがなくなっていることに気づきました。

 

「報われない」人生。そういう思いを手離して、日々ハッピーだと感じるようになったのは、つい最近のことです。2年くらい前から、だんだんとそういう気持ちに変わって行きました。そして、いざそれがなくなってしまうと、以前のことはもうすっかり忘れているんですね。

 

ですから、ここでも証明されているんですが、手離せない人にいくら「手離しなさい」と言っても、通じないんですね。手離すということが、どういうことか解らない。実際に手離すことが出来て、はじめて「ああ、こういうことだったのか」と解る。ここが、人にアドバイスする場合の難しいところです。結局、本人の気づきしかないんですよね。

 

私は、先ず「才能」というものが報われませんでした。いつでも一生懸命に、丁寧な仕事をすることを心がけて来たつもりでした。それを信頼してくださる方も多少はおりましたが、世の中全体を眺めれば、その場かぎりを要領よくこなす人の方が圧倒的に多いんですよね。それでも仕事というのは出来てしまうものだし、ちょっと見には差など殆ど判らない。

 

誰かに取り入ったり、お世辞を言ったりすることは嫌いでしたし、ハッキリものを言うので、それを好んでくれる人としか付き合いがありませんでした。ですから、この時期には、「集団の中にうまく溶け込めない」という悩みを抱えていました。今のように、「溶け込まなくたって別にいいんだ」という発想はありませんでした。

 

要職に就いたこともなく、運やツキにも恵まれず、賞や名声とも全く無縁でした。私も若い時には、人並みにそれらを追い求めていましたので、「才能」や努力がちっとも報われない、という悲しみや焦りは大きかったです。20代のころは、毎日が、なにか蟻地獄の底に落ちていくような絶望感でいっぱいでした。

 

そのうち、自分の何がいけないのだろう、どこが不足しているのだろう、と思い詰めるようになった。そして、生き方を正す必要があると考え、精神世界に足を踏み入れる一方、苦手だったビジネス世界のことや、政治や、金融や、歴史や、人間関係をどうしたらいいかということも、必死で学ぶようにして行ったのです。

 

しかし、そうやって入った精神世界もドロドロで、自分はただ純粋に一生懸命やっていただけのつもりなのに、誤解され、罵倒され、攻撃され、排斥され、もう居場所がなくなってしまいました。この時期には、それまでの「才能」の報われなさに加えて、「純粋」であろうとすることも報われない、という思いに泣きました。

 

けれども、今になって考えてみると、若い頃にもし「才能」が認められていたとしたら、今のようなことはしていなかったでしょう。また、もしカミさんの死というものがなかったら、とてもこんな生き方は出来なかったことでしょう。そして、もし精神世界のドロドロを経験しなかったとしたら、逆に「真理」に目覚めることもなかったに違いありません。

 

そう考えると、すべては完璧に用意されていたと思えるのです。

 

「報われない」60年。これは本当に、本当に長い。ただひたすら忍耐を強いられた日々でした。けれども、悠久の宇宙から見たら、60年間などほんの瞬きする時間ほどのこともない。ですからそれは、最初から完璧に用意されていた時間だったとも思えるのです。ここに、いつも言っているように「瞬間々々を生きよ」という、もう一つの意味があります。

 

今ここ。「今ここ」がすべて。

 

「報われない」という思いは、一つには、世の中が提示する評価軸の中に、それをすっかり信じ込んで、自分もまさに生きているからそういう思いが生じて来るんですね。そしてもう一つには、過去・現在・未来という時間軸の中で「心」を動かしているから、そういう思いが生じて来るのです。

 

ですから、この二つから脱出すれば、「報われない」思いからも脱出できる。あなたはあなたであって、たとえ誰からも認められないとしても、独自の才能があり、その才能を活かし、瞬間々々を燃焼し尽くすことによって、その瞬間の喜びを感じるだけでいいのだということです。それでもう充分なのです。

 

いや、充分どころか、それ以上のものがあるでしょうか? あなたが感じる充実は、あなたにしか味わえない。それが一体どこから来ているのか‥‥。お解りですか? これこそが「神の恩寵」だと知った時、あなたはしみじみと「ああ、生きていてよかった」「自分はなんて幸せなんだろう」と思えるはずです。

 

私は、それに気づくまでに60年も掛かりました。でも、今これを読んでくださっているあなたは、この瞬間から、今までの「報われない」人生とはオサラバです。だから、自分の才能を信じて、人々に喜ばれ、また自分も共に喜ぶ瞬間々々を、元気に、そして逞しく生きるんですよ。

「自分を信じる」ための具体的方法

あなたは、瞬間々々を選んで生きています。その中には、無自覚の選択もあれば、直感による選択もあれば、何かの言いつけに従った選択もあれば、よくよく考えた上での選択もある。すべてはあなたの選択であって、その結果の連続があなたの人生の軌跡となるのです。つまりあなたは、ご自分の「現実」を日々創造しているのです。

 

ところが人間というものは、この基本的な事実をしばしば忘れてしまいます。自分が、自分の人生を選択している。自分が、自分の現実を創造している。このような単純な理屈を知らないし、教わったこともないし、意識したこともないのです。そこで、絶えず外から押し寄せて来る情報で夢中になり、自分というものの本質を忘れてしまうのです。

 

《選び・選ばれる》、というのは一つの「関係」ですが、これは相互に言えることなのです。たとえばあなたが、結婚相手を「選んだ」とする。では相手は「選ばれた」ただけなのか? そうではないのです。その時、相手もあなたを「選んだ」のです。お店でステキなワンピースを見つけて買った。その時、同じようにワンピースもあなたを選んだのです。解りますか?

 

あなたが、山林の投資話を信じてそれに乗り、騙されて、全財産を失ったとしましょう。詐欺師は、あなたをターゲットとして選んだ。一方あなたは、多くの選択の中からその投資話に乗ることを選んだのです。後から「騙された!」と言ったところで、それを「選んだ」のはあなただ。つまり現実というものは、つねに双方の「関係」があって、あなたの認識の中に創造されます。

 

さてそこで、この「関係」の「創造」というものを、〈いつも自分が選択している〉という自覚を持つことが、「自分を信じる」上での、第一番めの条件なのです。しかし、冒頭にも書いたように、人間はそれをしばしば忘れてしまいます。ですから、詐欺の被害に遭えば詐欺師を非難し、人間関係においてトラブルが生じれば、相手を一方的に非難する。

 

でもそうじゃない。現実の「すべては、あなたが選んでいる」のです。

 

《選び・選ばれる》は、相互関係であり、どちら側にとっても言えることなのに、自分を信じて生きることができない。崇拝する誰かや、本に書かれてあることや、常識や社会通念に従って生きようとしてしまう。よくよく考えてみれば、その「すべては、あなたが選んでいる」にも関わらず、その自覚がないのです。なぜか? 自分を信じていないから。

 

あなたが就職試験を受けて受かった。自分は「選ばれた」と思う。でもそれだけじゃない。あなたも同時に「選んだ」ということです。尊敬できそうな師や、本の中にピタッと来る一行を見つけた。それは、あなたが「選んだ」。その瞬間、あなたが自分の今を「創造」したのです。この自覚を持つだけで、隷属して生きることが、主体的に生きることに180度変わってしまうのです。

 

今ここで、凄く重要なことを言っているんですよ。それは、瞬間々々の選び方のパターンを変えれば、あなたの人生が、別のものに創造されるということです。この意味で、いつも言っている通り、あなたの本質は全く「自由」なのです。誰からも、何からも、一切束縛を受けない。あなたは、「ステキだ!」と思ったワンピースを買うことも出来るし、買わない選択もできるのです。

 

問題は、この「選択」を、どのようにして決するか、ということです。あなたには意志がある。その意志は、「心」の働きの結果として形づくられます。この「心」は、思考、感情、感覚の三つから構成され、相互間で活発に情報がやり取りがされます。この時、どの要素を強く働かせるかによって、冒頭に上げた選択行動の違いというものが生じて来るのです。

 

これまで私は、「脳」は単なるハードウェア、「魂」こそがソフトウェア、そしてそのアウトプットが「心」だということを再三申し上げて来ました。「自分を信じる」とは、この「魂」を信じ、「魂」が喜ぶ生き方に従うということなのです。そのようにしていれば、全く間違いはない。なぜなら、「魂」は「宇宙の真理」を知っているし、自分の生きる目的も知っているからです。

 

ところが人間は、「脳」を重視するようになってしまいました。この「脳」には、現世で刷り込まれた「観念」が大量にしまい込まれ、選択が必要な場面になると、引き出しの中に蓄えたこれらの各種データを参照しようとします。それによって、本来の「魂」の自由な生き方が、大きく歪められてしまうのです。しかも最悪なことに、現代社会はそうすることを推奨している始末なのです。

 

「感情」は嘘をつきません。「感情」自体は「魂」のアウトプットの一つの形態で、正直者です。ですから、「感情」は大いに働かせるべきです。けれども、「感情」をそのまま意志決定に持ち込むことは、普通はしません。「感情」というものは津波のようなもので、長く保持し続けることは出来ないのです。そのため、次のプロセスに移行する。

 

この時に、現代人は「観念」に牛耳られた「思考」を、あまりにも働かせ過ぎるのです。情報肥大は、その引き出しの中から、リスク要因を直ちに探し出します。そのため、行動しない、行動することが怖いという態度や、逆に刷り込まれた「観念」に盲目的に従うという行動を生み出すのです。このような意識で、現代人はがんじがらめになっているのです。

 

現代人が感じる「生きづらさ」とは、要するに「魂」が自由に生きられない辛さなのです。ですから「魂」本来の、自由の喜びを取り戻すためには、先ずガラクタの情報を遮断して、これまでの「観念」の枠組みから外に出なければなりません。その上で、つねに「自分が現実を創造している」ということをつねに意識しながら、「魂」の喜びに従った選択をして行くということが大切なのです。

 

そのために備わったツールが「感覚」です。現代人は「感覚」を疎かにし過ぎています。直感やインスピレーションや、わくわくする気持ち、パーッと晴れやかになる感じ、なぜかしら泣けてくる感じ、等々を大切にしてください。あなたにも第六感はある! それは「魂」の感覚器であり、「脳」を経由せずに、「魂」と直接つながった回路なのです。

 

あなたが「ふと」とか「なんとなく」と思う。その「ふと」や「なんとなく」が、すでにテレパシーなのですよ。いいですか? だからあなたも、その能力を大いに駆使して、自分を信じて、日々楽しく生きるんですよ。

 

●関連

「自分を信じる」ということを、信じるということ

社会システムという奴隷制度

Q.私の子どもは、重度の◯◯障害児なのですが‥‥。

Q.私の子どもは、重度の◯◯障害児です。魂はその状態のままで尊いのに、なぜ、現世に物質化して修行、もしくは真理を探究しようとするのでしょうか。なぜ、私は障害児の保護者として、子どもは障害者として、重荷(カルマ?)に強いられ生きて死んで行くのでしょうか。

 

A.このような問いを、ご自分に投げかけられている方はきっと多いと思います。ご質問の中には、三つの異なったレベルの要素が含まれています。一つは「障害」というものに対する捉え方の問題です。二つめは、それが自分の子および家族に与えた影響に関してです。三つめは、「カルマの法則」を考えた場合に、その状況をどう捉えたらいいかという問題です。

 

この三つは、きちんと区別して考えることが大切です。その問題下に、正に今ある当事者というものは、どうしても第一番めの(この問いであれば「障害」という)部分に意識がフォーカスしてしまうために、そこから推考を重ねて、二番め、三番めの問題を解釈してしまうことになります。すると、どうしてもネガティブな方向にしか考えが向いて行きません。

 

「カルマの法則」自体は厳然たるもので、一つの法則であることには間違いありませんが、現れ方というものは全く個別の問題で、千差万別なのです。その際に、先ずみなさんにお願いしたいのは、ご自分の身に降り掛かった状況を、世間と比べて「特殊(Special)」なものだと捉えるかどうかを、先ずご自分に問うてみて欲しいのです。

 

第一番めの「障害」というところには、様々な言葉を入れ替えることが可能です。病気や、先天性の疾患や、大借金や、生まれた家系のことや、幼い頃に受けた暴力や、両親のことや、パートナーのことや、容姿についての悩みというものだって、人によっては入って来ます。

 

そこで先ず気づいていただきたいことは、悩みというものはみな「特殊」だということです。けれども、みな「特殊」だということを認めれば、逆に、「特殊なものは何もない」と理解することが出来るのではないでしょうか? これを、理解出来るか出来ないかは、とても大きな違いです。なぜなら、理解出来たとき、その人は、エゴの人から愛の人に変わるからです。

 

その上で、考えていただきたいのは、起きている状況、現実というものがそこに「ある」としても、その認識の仕方は、各人でみな異なるということです。現実に「意味」を与えているのは、あなたの思考であって、そこにある現実そのものではないのです。そこで私は、認識された現実を「リアリティ」という言葉で区別しています。

 

ややこしい話に感じるかも知れませんが、これは大事なところですので、何度も読んで、しっかり理解してください。さてその際に、重要なことは、「よりよく生きる」ということを考えた場合には、その現実をどう受け止めれば(つまり「リアリティ」を創造すれば)いいのだろうか、ということになるのではないでしょうか?

 

以上が、冒頭に上げた三つの要素のうちの、一番めと二番めに対する回答です。回答というよりも、投げかけになっています。生き方を決めるのはあなたですから。

次に、三番めの「カルマ」に関係した問題を、一般論として回答します。

 

「魂は尊い」それはその通りで、「生命は尊い」ということと、これは同義です。しかし、想念の集合体である「魂」のあり方には、霊性の発達段階に応じた階層というものがあるのです。あの世が(つまり非物質的世界が)、すべて愛と慈しみに満ちた素晴らしい世界かというと、そうではないのです。

 

一般的に言って、人は「死」という瞬間に特殊な意味を込めるあまり、この世とあの世を単純に二分してしまう傾向にあります。しかし霊的世界というものは一律ではなく、霊性の高さに応じた階層構造になっているのです。実はこの階層は、この世にも同時にあるのです。なぜならば、我々は今、確かに肉体を持ってはいますが、同時に「生き霊」でもあるからです。

 

「魂」が肉体を離れた時に、その「魂」がすべて素晴らしい世界に帰れるかというと、そうではなくて、その「魂」の霊性に応じた階層に帰るのです。この、「あの世」における階層は、「生き霊」だった時に獲得した霊性を反映したものです。分り易く言えば、この世とあの世はまるで生き写しなのです。

 

ですから、この世で苦悩し続けている「魂」は、あの世でもまた苦悩し続けることになります。これがいわゆる「地獄」です。つまり、あの世での「地獄」と、この世での「地獄(生き地獄)」は、ただ肉体を持っているかどうかという違いがあるだけで、どちらも意識(観念)の問題であり、一緒だということです。

 

*そういう「魂」も、ガイドさんやマスターの導きによって、最終的にはみな引き上げられて行くのですが、それだけ進歩が遅く、転生回数も多くなることになります。

 

では、この世とあの世で何が違うかと言いますと、物質世界では、いろいろと制約があって、とても不自由だということです。一方、非物質世界は、想念だけの世界ですから、物質世界にいる時のような不自由さがありません。思ったことがすべて現実になってしまうのです。

 

そう聞くと、これはとても素晴らしいことのように思うかも知れません。しかし、思ったことがすべて現実になってしまうということは、あの世の生き場所は、その人の霊性の高さを如実に反映してしまうということになってしまうのです。愛の波動に包まれた人は、愛の波動の中に生き、苦しみの波動に包まれた人は、苦しみの波動の世界に生き続けるのです。

 

これが、「魂」が再生して来る理由です。あの世にいたままでは、カルマ解消の仕様というものがないのです。思った通りの世界に生き続けることになり、間違いに気づけないのです。でも物質界では、身体を持ち、物質的な制約を受けます。すると、身体からの働きかけ、物からの働きかけ、感覚を通じての他者からの働きかけに接することが出来ます。こうした制約のあることが、カルマ解消のチャンスを与えてくれるのです。

 

精神世界では、一般に「浄化」ということが盛んに喧伝されていますが、これには多分に誤解があります。「浄化」というのは、誰かに(たとえば霊能者に)身をきれいにしてもらうことではありません。「浄化」とは、自分が過去に作ったカルマを、自分が受けることです。受けることによって、カルマに気づき、反省をし、意味を悟るチャンスが初めて与えられるのです。

 

そして、自分の能力を使って、人々を助け、喜ばれることをし、世の中をよくし、なおかつ執らわれないで、明るく楽しく生きれば、そのカルマが解けて、霊性のステップアップが図られるのです。ですから、霊界にいたままではステージが上がらないために、いま地上にいるどんな人間も、自分が希望して、マスターの許可を貰って、この世に再生して来ているのです。

 

以上が、「カルマ論」からの説明です。

最後にお伝えしておきますが、宇宙に「障害者」という概念はありません。それらは、人間が作ったレッテルです。世間に押し切られて、ご自分や身近な人たちに、いかなるレッテルも貼ることがないようにしてください。レッテルを貼った瞬間から、そのアイデンティティに縛られ、レッテルを貼った人生をあなたは創造し始めます。

 

宇宙には、「個性」という言葉しかないのです。どうか「個性」を見てください。なぜなら、どんな「個性」も、神が創ったものだからです。

生きる意味

少し前に、「生きる目的」はあっても、「生きる意味」はない、と書きました。しかし、「生きる意味」をこれまで必死に求めていた人にとっては、この言い方はあまりにも冷ややかに感じられたかも知れません。そこで少し言葉を追加しておきます。

 

生きる目的は、簡単に言えば、過去世において積んだカルマを再び経験する機会を得て、それを超克し、霊性の向上を図ることです。しかしこの目的は封印されています。あらかじめ解っていたのでは、解決のための合理性を追求してしまって、体験にならないからです。やはり苦しんでこそ、自分のカルマに向き合うチャンスが生じるのです。

 

一方、「生きる意味」を考えますと、どうせいつかは死んでしまうわけですし、愛する者とは別れなければならないし、いくら財産を持ったとしてもあの世までは持っていけない。どんなに活躍し、偉大なる足跡を残し、名声を得たとしても、死んでしまえばそれまでだ。ということで、「生きる意味」など見いだせない。まさに仏教で言う、四苦八苦です。

 

この二つを重ねてしまうと、「生きる意味」がない中で、カルマ解消という「生きる目的」だけがあることになり、人生が辛いだけになってしまいます。仏教はそれを認めた上で、「行」への集中によって超えようとしたんですね。だからどうしても「苦行」のニュアンスが付きまとう。それがイヤだとなると「享楽」の考えが出て来て、「苦行」か「享楽」かという極端な選択になってしまう。

 

でも、第三の道があるんだよと。そしてこれは、これまでの宗教の歴史では殆ど言われて来なかったけれども、これこそが本当なんだよ、と伝えたいんです。

 

それは、瞬間々々を楽しむということです。ですから、あえて「生きる意味」を言えば、瞬間を生き生きと過ごすということだけなのです。これが、これまでも何度も繰り返し言って来た「Be here now(今ここ)」です。今ここ、この瞬間を、生き生きと過ごすことが「生きる意味」なのです。ここにフォーカスすれば、辛さは無くなるし、カルマ解消の道も軽くなるのです。

 

ところが人間は、直線的な時間軸の中に生きていて、過去・現在・未来を当然のように考えるために、どうしても「将来のために」という発想が抜けません。その結果、瞬間々々を生き生きと過ごすということが、まさか「生きる意味」だとは思いもよらないのです。「生きる意味」は for 〜 ではなくて、being そのものだということですね。

 

しかし考えてみれば、人間以外の生物はこれを知っているわけです。みんなただ生きている。でも人間だけが、それだけでは納得できない。そこに、そもそも間違いがあるのです。ですから、「ただ生きる」というところに、「楽しく生きる」「生き生きと生きる」をプラスすれば、人間に合った「ただ生きる」が実現できるわけです。

 

実にこれこそが、「魂」が喜ぶ生き方なんです。悩み苦しみが多いという人は、ただ今この瞬間から、瞬間々々を楽しむ生き方に変えてご覧なさい。その瞬間々々の連続が、結果的にあなたの人生になるわけですから。そうすれば、今世を終える瞬間に堂々と言える。「ああ、いい人生だった」とね。

内なる導きと、自分の考えを区別するようになるには

あたなたの「魂」は、自分が生きる目的を知っているのですから、その声に素直に従えば、あなたは本来の生き方ができます。これを見つけていく作業が、いわゆる「自分探し」です。「自分探し」について、脳科学者は、現代社会がそういうことをさせてしまっているといった説明をするのですが、彼らは「魂」のことを知らないで語っているのです。

 

脳という器官が何のためにあって、何を担っているかというと、(現代科学ではそうは言いませんが)「魂」と、物質的世界の認識との仲立ちをする器官(いわば翻訳機)としてあります。「魂」が持つメッセージを、脳が、現世で生きる自己に伝える一方、五感を通じて得た現世の情報を、脳で解釈して「魂」にフィードバックします。

 

脳は、このように両者の中間地点にあって、両方からの入りと出の情報を一括管理しているわけですが、今でいうハイブリッドカーのようなもので、今現在の思考や感情や感覚が、いったいどちら側からの情報なのか、区別がつきにくいのです。(ハイブリッドカーにはモニター表示がありますが)

 

すると、両者の流れが混じり合ってしまい、まるで鳴門の渦潮のように、脳の中で渦を描くのです。ですから、「自分探し」においては、今の自分の思考や感情や感覚が、果たして内なる導きから生じているものなのか、それとも自分が脳の中で考えた勝手な思いつきなのかを、区別していくということが課題となって行きます。

 

この点で、現代人の能力は非常に退化し、ますます追い詰められて来ている状況にあります。その大きな原因は、モバイルコンピュータとSNSの登場によって、自己を内観するという機会を、現代人が殆ど失ってしまったからです。自分の生き方を左右するのは、外から来る情報だと思い込み(思い込まされ)、みなそれに夢中になって精神が疲れ切っているのです。

 

ところが「内観」と言っても解らない。何をどうすればいいかも解らないし、現代社会は即効性を重視しますから、自分を静かに見つめるということを、一年、三年、十年と続けることができない。それどころか、わずか10分間、心静かに瞑想するといったことすらできない。そこに、価値や意義を見出せないのです。

 

日々、これでもかと情報を送り出す側も、それを血眼になって追いかける側も、いわば集団催眠に掛かっていて、そうすることが「よいこと」だと信じ込んでいるのです。それで、心を病んでいる人が増えているなどと言っているのですから、そうなるのは当たり前じゃありませんか。自分を見つめる機会を拒絶しているのですから、訳が分からなくなるのは当然です。

 

いいですか。ちっとも内観をせずに、始終、外から来る情報に振り回されているというのは、「自分を信じていない」ということなんですよ。「自分を信じていない」者に、「自分探し」など出来るわけがない。「自分探し」に着手しない者に、心の平安が訪れるわけがない。なぜなら、自己の「魂」の純な願望に逆らって生きているわけですから。

 

外から来る情報など、所詮ガラクタ。じゃあ、本を読んじゃいけないのか? そうじゃない。本を読んで、「これだ!」と思ったところに傍線を引く。それは、あなたの「気づき」が起きたところ。それはあなたが元々持っていたもので、今まで閉じていた蓋が開いて「気づき」が起こる。ですから「内観」とつながったということなんです。

 

ということで、我々が肉体を持って、この物質世界に生きているということは、物質世界でしか味わえない感覚、感情、思考を体験するためなのですが、たとえば一輪の花を見ても、美術館で絵を見ても、そこに何かの「気づき」を見る人がいれば、それをガラクタにしてしまう人もいるのです。あなたがガラクタを好めば、あなたはガラクタの収集家になるのです。

 

さて、今日のテーマに戻りましょう。内なる導きと、自分が考えた勝手な思いつきを区別するにはどうしたらいいか、ということです。先ず、不安や恐怖は、100パーセントNOです。ハイアーセルフや高次元の存在は、不安や恐怖を決して伝えません。なぜなら、元々それらのものはないからです。ですから、不安や恐怖はあなたが集めたガラクタです。

 

内なる導きは、あなたの脳を翻訳機として使い、感覚、感情、直感、インスピレーションといった表現方法を取って、あなたにメッセージを伝達します。これらのちょっとした「心」の動きに注目してください。普段とは違った、感覚や感情が湧き起こったり、直感やインスピレーションが湧いたときは、それが内なる導きである可能性が高いです。

 

その時に、ワクワクするような衝動や、楽しさや嬉しさが湧き上がって来るかどうか? もしそうであれば、それは内なる導きでしょう。でも思いついてみたものの、どこかしっくり来ない、視覚化(イメージ)できない、といった場合には、それはたぶん内なる導きではないでしょう。この時に、倫理や世間的な常識を判断に組み込まないようにしてください。

 

あなたが、思考を開始すると、それらのリンクは切れてしまいます。真っ白いキャンバスには、どこにも自由にどんな色でも形でも落とすことが出来ます。でもあなたが、そのキャンバスを、自己の観念や世間的常識や倫理観で埋め尽くしていたら、絵の具を落とす場所がありません。ですから大前提として、あなたはご自分を常にピュアにしておく必要があるのです。

 

さてその上で、内なる導きに従うことを、この世的な「良い・悪い」で、単純に判断しないでください。その人にとって、何がよい人生であるかは、すぐには判らないのです。この世的な成功や名声が、必ずしもよいこととは限りません。でもみな、この世的な成功ありきで、内なる導きを利用しようとするので、おかしなことになってしまうのです。

 

考えてみてください。それが自分をピュアにしておくことでしょうか? 精神世界でも、「成功」を餌にこのような誘惑をする人たちがたくさんいるので、気をつけてくださいね。

 

「成功」という言葉の定義にもよりますが、本来の自分を「活かす」ということを「成功」と定義するならば、人はみな「成功」を目指して行動するべきです。しかしそれは、いわゆる社会的な「成功」とは懸け離れた人生であるかも知れません。

 

大事なことは、心を穏やかにして、自分が出来ることによって、社会の役に立ち、かつ自分も楽しく生き、瞬間々々を喜ぶことなのです。努力研鑽さんは必要ですが、苦行をする必要はありません。この道に一歩踏み出せば、あなたはどんどんピュアになり、それに応じて、導きのメッセージもますます解るようになります。

 

それを目指して、今ここ、この時の、ご自分の「心」に向き合って、元気よく生きて行ってください。大丈夫、あなたにはいつも守護霊が付いていますよ。