by Rainbow School
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ポスト資本主義、ポスト宗教、ポスト・ポストアトランティス期

資本主義の崩壊が近づいています。信頼できる分析家の多くがその警告を発しています。米ドルの覇権の終わりについては、20年も前から繰り返し言われて来ました。ですが、一向にそれが現実化せぬまま今日に至ります。専門家はあれやこれやと理屈を説明しますが、要はモルヒネを打ち続けて延命を図って来たということです。その結果、資本主義そのものが、今や巨額な粉飾で膨らんだ風船のようになってしまっているのです。

 

風船は、どこまでも膨らませられるというわけには行きません。ほどほどのところで息を吹き込むのを止めればよいのですが、吹き続けていればいつかはパーンと破裂します。それが、無理に延命を図って来た分、より大きく膨らませて来た分、次の崩壊は、かつてない凄まじい破裂音となって鳴り響くだろうと予測されているのです。

 

今、冷静になって世の中を眺めて見ますと、非常におかしな現象がたくさん起きていることが判ります。片方に貧困世帯の増加という問題がありながら、投資熱は盛んでずっと株高が続いています。職を探しても正規雇用にはなかなかありつけないというのに、もう片方では人手不足だと言っています。環境問題が深刻な気候変動を惹き起こす事態にまでなっているというのに、資源開発という地球破壊は止みません。

 

こうした矛盾点は、数え挙げたらきりがありません。これらはみな、資本主義を延命させたいという無理が、無理に無理を重ねた結果、現実との著しい乖離を引き起こしているということの表れなのです。言ってみれば、激震前の予震のようなものです。それでも気づこうとしないのですから、地球人というものは、いやはや‥‥。

 

政治をあずかる者、経済をあずかる者に、もはや全体を俯瞰して見るだけの余裕がないのです。乖離が大き過ぎて、全体を見ようとしたら、股裂き状態になってしまう。そこで、自分たちが歩んで来た路線をゴリ押しするしか、もう手段が無くなっているのです。

 

「これからはグローバル経済だ、新自由主義だ」と言い始めていた95年から2000年代初頭にかけては、乖離はまだそれほど目立たず、資本主義の枠内にそれを吸収できました。ところが、今やあらゆるところで矛盾が吹き出し、市民生活を目に見える形で脅かすまでになりました。世界中が、そういう悪くなる一方の現実を直視するのか、それとも、これまで通りに権力者の言葉を信じ続けるのか、というせめぎ合い段階に至っているのです。

 

欧米では反グローバリズムの大きなうねりが起き、既成政党によるこれまでの政治を市民運動が揺さぶるまでになっています。日本は島国であり、世界情勢に関する情報にうといことや、政治的無関心が広く蔓延しているために、こうした事態はまだ起きていません。がしかし、日本でも、人類の支配構造の真の姿というものに気づき出した人たちが、ここへ来て随分と増えて来ました。

 

私がこのブログを書き始めた頃は、闇の支配者を「欧米の二つの貴族」といった言い方でボヤかして書いていました。ですが、今やこれらの名前が、ネット上で大っぴらに語られるまでになりました。この間の変化にはもの凄いものがあります。私がボヤかして書いていたのは、それがまだ市民権を得ていないということもありましたが、それよりも「暴く」という視点に意識を傾注したくなかったからでした。

 

「知る」と「暴く」とでは、近いようでいて、意識の置き方がかなり違うと思います。「暴く」というと、どうしても、やっつけてやろう、とっちめてやろうという思いがそこに付け加わってしまうのではないでしょうか。「○○の正体」といった言い回しも、ネット上でよく見かけます。そうしたものは一見、正義や善のように見えますが、本質を問えば、所詮は同列なのです。

 

闇のグループの存在や、企てを、世の人々に知らせたいとの熱意は解りますし意義もあることです。でも、方法論が間違っているのではないでしょうか。北風で外套を吹き飛ばすことは出来ないのです。やはり、暖かな日の光を当てることがいちばんです。ピューピュー北風を吹き散らしたら、その風に触れた人たちはみんな凍ってしまいますよ。そしたら、見事、闇の手先を果たしたことになる。「おう、よしよし。よくやった!」ってね。

 

あのね、あなたたちが思っている以上に、闇は狡猾なんですよ。遥かに頭がいいんです。人の心理を操ることなんて朝飯前。だから、「正義」はダメだと、何度も言って来たのです。彼らは、そこを巧みに利用して来る。「正義」を掲げた途端、その人は「光」から遠ざかってしまいます。そして、「闘争」という闇の領域に引っ張り込まれるのです。

 

彼らのことをサタニスト(悪魔崇拝主義者)の狂人と呼ぶ人がいますが、そうじゃないのです。それはやはり、この世的な見方の域を出ていません。闇の奥には、確かに魔がある。ですが、闇が魔を崇拝しているのではないのですよ。逆です。魔はれっきとした実体ある存在で、魔が闇を操っているのです。まっさか⁉ そう、そのマサカ(この場合は「魔逆」)です。

 

これで、魔→闇→影→裏→表へと、指令が一直線に伝わる。これが黒ルートのハイアラーキ(ヒエラルキー)です。では「魔」とは何か? そのような想念エネルギーを持った霊的存在、それが「魔」です。あなた方はどうしても物質世界をベースに物事を考えてしまいますが、一度、物を全部外して、物質は無いものと考えてみてください。そうすれば、魔→闇→影→裏→表が、同質の想念で一直線に繋がっている理由が解るでしょう。

 

物質界というのは、想念エネルギーが、振動数を下げて物質に実体化した世界なのです。そこに住む我々は、それが現実でありすべてだと思っています。でも、そうではないということです。昔から言われているように、現実だと思っているものが幻であり、幻だと思っているものが実は真実の世界だということ。これが解れば、「闇」に関する謎もすべて解けるのです。

 

大事なことは、闇を「暴く」ことではありません。そういう「人類支配の構造」を知り、ではどうしてそのような構造が出来上がってしまったのかという、人類に巣くっている根本原因を明らかにすることです。それでこそ、反省というものが起き、今までに経験した多くの悲劇を超えて、人類が、次の段階へと本当の進化を遂げることが出来るのです。

 

「人類支配の構造」は、大きく二つの面から成り立っています。一つはピラミッド構造(ヒエラルキー)です。ピラミッド構造であるがゆえに、ごく少数者によって全体が完全支配されてしまう。しかも、各階層に属する人々は、自分が属する階層のことしか知り得ません。その結果、全体の支配構造をよく知らないまま、今の状態を当然と思う洗脳支配が可能となっているのです。

 

もう一つは心理面です。ピラミッド構造を補強するために、より上位に居る者が偉いんだ、より優れているんだという思想を、あらゆる機会を通じて植え付けたのです。それによって、少しでも階層を上がりたいというモチベーションをエサに、社会のあらゆる面にこれを適用しました。その結果、人類の大多数は奴隷労働を当然のごとく強いられ、一部富者にのみ特権が与えられるようになったのです。

 

しかし、いま言った二つを、さらに遡って原因を探りますと、結局は、人類の創生に関連した「分離」と「合一」というアンビバレンツな問題に行き着くのです。人間という存在は、誰しもが、一つの「それ(=神)」から分かれた「魂」をベースにして、肉体を得て地上に誕生しました。そして、地上で様々な体験をすることで、霊性を成長させ、また元の「それ」へと帰還する旅を続けるています。

 

*アンビバレンツ(独:ambivalenz):相反する両極の気持ち

 

その時に、神から分かれたことによって、「自分は自由なんだ」という晴れ晴れした気持ちと、「一人じゃ寂しいよォ」という両極の気持ちのアンビバレンツが生じました。また、このアンビバレンツは、他者との関係において、自分以外の誰かを「愛することで、一緒になりたい」という欲求と、「支配することで、一緒になりたい」という欲求のアンビバレンツも育てることになったのです。

 

すると、「支配」から「愛」への両極の間に、段階的な「関係性」の在り方というものが生じます。すなわち、他者を暴力を使って支配したい → 隷属させて支配したい → 愛の名を語って実は支配したい → 条件付きで愛したい(情愛) → 無条件に愛したい(博愛)→ 完全なる奉仕の人となる、といった具合に。結局、この段階を体験学習していくことが、地球に生きる人間共通の、究極のテーマとなっているわけです。

 

*この最終段階を神秘学では「キリスト愛」と言っています。(キリスト教とは関係がありません)

 

さて、そのことが解りますと、今、権力者や闇の支配者となっているところの「魂」は、この「愛」の学習段階においては、未だ小学校にすら入学していない、幼稚園児の段階にあるのだということがお分かりでしょう。そのように、起きている現象そのものを見るのではなく(つまり巻き込まれることなく)、全体を俯瞰して見ることが大切です。あなた方は、保母さん保父さんの視点に立たなければならないのです。

 

彼らは、まだ「愛」ということへの、初歩の気づきすらもないのです。ですから、これを暴いてやろう、叩いてやろうなどとと思ってはいけません。そんなことをすれば、幼稚園児同士の喧嘩になってしまいます。人類の不幸は、そういう未熟な段階にある「魂」に、人類全体が支配される構造を創り、是認し続けて来たことです。その誤りに気づくことが、いま置かれた、人類全体の喫緊の課題なのです。

 

悪を為す人は、放っておいても、カルマの法則によって、いずれは自分がその報いを受けます。そうなる前に、少しでも早く気づいて貰えるように、愛の波動を送ってあげるというのが、保母さん保父さんの視点ではないでしょうか。闘争心を燃やせば、その波動が周囲に広がってしまいます。あなたが先ず「愛の人」になって、温かな波動を周囲に出していただきたいのです。

 

ではなぜ、そんな逆転のような支配構造が、人類の上に成立できたのでしょうか? それは、一人ひとりの中に眠る「分離」意識のかけら、つまりエゴの部分が支配者たちによってくすぐられ、これを道具に、人々がコントロールされてしまっているからです。みなさんは、ここに気づかなくてはなりません。自分自身の不徳に。騙される下心があるから、騙す人が成り立っているということを。

 

見てごらんなさい。今や支配者は、お金と地位をチラつかせ、闘争を煽ることでしか、取り巻きを信じ込ませられなくなって来ているのが分かりますか? 完全な末期症状です。それでしか人心を繋ぎ留められないから、そうしているのです。これらは強力な接着剤に見えて、実はとても脆弱なんですよ。もしそれらが無くなれば、たちまち逃亡と責任のなすり付け合いが始まりますから。本当に強い人というのは、純粋さと愛だけで人を惹きつける人です。

 

資本主義というものは、今の社会の根底を為しているものだけに、その崩壊は全世界に計り知れない打撃をもたらすことでしょう。しかしその過程で、お金や、銀行や、株や、民主主義や、医療制度や、教育や、マスコミや、戦争や、政府や、裁判所や、政治家や、有識者や、多国籍企業や、国際機関など、今まで信じて疑わなかったものが、実はことごとく茶番劇に過ぎなかったことに気づくことになります。そして、少しだけ目覚める。

 

そのプレリュード(序曲)が、すでにあちこちから聴こえていますよ。今はまだ、社会の表しか知らない人、裏まで知った人、裏の裏の影まで知った人、影の奥の闇まで知った人と、大変な温度差があり、ちっとも話が噛み合わないという状態です。ですが、資本主義の崩壊は、どの人の上にも例外なくやって来ます。さて、そこからです。重要なのは。

 

ポスト資本主義(資本主義後)の社会を、どう形づくっていくかということが、その後の人類の命運を左右することになるのです。これは、改築や増築では済まされませんよ。土台を全部ぶっ壊して、ひっくり返して、一から建て直さなければならない大変革事業となるのですよ。

 

例を挙げましょう。いまビットコイン(仮想通貨)なるものが登場して市場を賑わわせています。これは、果たして今までの「お金」を変革するものになって行くのでしょうか? なりません。ビットコインが既に投機商品になっているのを見れば明らかです。これでは、物珍しい投機市場が新たに出来たというだけであって、「お金」に対する考え方自体はまったく変わっていません。

 

ポスト資本主義に求められる変革とは、このようなものではないのです。「お金」とは何なのか、というところに立ち返って、まったく新たな仕組みが再構築されなければならないのです。

 

「お金」は単なる道具です。経済を円滑にするための仲介品です。ところが、「お金」に利息が付いたり、「お金」が「お金」を生む仕組みを作ったり、「お金」を発行する権限が私企業に独占されていたりするところから、「お金」がモンスターに化け、この仕組みを握った者たちが世界を支配し、大多数の人々が「お金」の奴隷にされてしまった。しかも、それが当然と思わされて来たのです。

 

「お金」が、全世界を牛耳っていますから、結局は、政治も、医療も、マスコミも、教育も、その他諸々が、全部この論理の下で動いている。この、諸悪の根源にある考え方と仕組みを、全部ぶっ壊してチャラにして、人々がみな仲よく、安心して、幸せに過ごせるにはどういう社会であればいいのかというところから、人類は再出発しなければならないのです。

 

奪い合う経済から、分かち合う、支え合う経済への根本的な転換です。

 

そうすれば、政治は苦しむ人を出さない、困っている人は助ける、そしてみんなが安心して暮らせる社会づくりを目指すようになるでしょう。医療は患者を作り出す医療から、救ける医療になるでしょう。また教育は、それぞれの人の個性を尊び、伸ばして活躍できるようにしてあげる恭育になることでしょう。

 

そのようにして、他者のために役立つことが自分の本当の喜びであり、真の幸福であるということに、人類は気がつくようになるでしょう。

 

なぜ、このような大変革が、これから必要とされている(予定されている)のか、なぜ小手先の変化ではもう済まされないのかと言いますと、これから来る資本主義崩壊のタイミングと、ポスト・ポストアトランティス期の始まりとが重なっているからです。重なっているというよりも、そうなることが必然だったと申し上げた方がよいでしょう。

 

現在の大西洋(Atlantic Ocean)上にあったアトランティス大陸は、数度の水没を経て、今から約1万2,000年前に完全に姿を消しました。それからの1万2,000年間が、ポストアトランティス期だったのです。そのポストアトランティス期の終盤に、今いよいよ差し掛かって、世界はアトランティス時代のカルマを再び体現しようとしています。

 

アトランティス時代の終盤には、一部特権階級のエゴと堕落、科学技術の発達のし過ぎから来る自然界との遊離と、大衆の無気力が、社会全体を覆い尽くしていました。今の状況は、それとそっくりです。そして益々酷くなる。これは、知ってか知らずか、アトランティスを滅亡に導いた「魂」が現代に多数生まれ変わり、同じ欲望を抱いて活動し、これに大衆を巻き込んでいるためです。

 

ですから、このカルマの清算が、今まさに行われつつあります。カルマの清算というものは、ある日突然訪れるというものではなく、幅を持って徐々に進行して行きます。しかし、宇宙の永遠からすればそれは一瞬の出来事。人類は、このカルマの清算を終えて、次の時代、つまりポスト・ポストアトランティス期に移行します。これが、『ヨハネの黙示録』で言われるところのニュー・エルサレムです。

 

それともう一つ。今という時期は、過去2,600年間続いた「宗教の時代」が終わりを迎えようとしている時期でもあるのです。宗教は本来、物質世界を超えた霊的世界に真理があることを人々に伝えようとして興ったものでした。しかし、組織宗教が幅を利かせるようになると、それぞれがみな勝手な救済理論や天国についての物語を説き始め、自分たち以外は邪宗・邪教と言って互いに攻撃し合うようになったのです。

 

それがどれほどおかしなことであるか、どれほど“宗教的”ではないか、少し距離を置いてみればすぐに解ることです。それなのに、組織宗教の内部にいる人たちにはそれが解りません。それが宗教の恐いところです。宇宙は一つ、真理は一つなのです。真理が二つも三つもある筈がありません。どんな人にも普遍性を持ったものしか「真理」ではあり得ないことは、自明ではないでしょうか。

 

よって「真理」は、宗教になる必要などいささかもないのです。「真理」は「真理」なのです。どこにでも普遍的に存在し、揺るぎない法であるがゆえに、誰が何と言おうが、それは「真理」であり続けるのです。来たるニュー・エルサレムの時代には、人類は、この点にも目覚めることになります。そうなれば、全部の「魂」が、共通の基盤に立っていることが解るので、本当の愛、キリスト愛に目覚めることになるのです。

 

お解りいただけたでしょうか。いま書いたシナリオは、霊的世界ではすでに実現していることです。あとは、地上でのみなさんの奮闘を願うばかりです。いま世の中で起きていること、そしてこれから起こることを、どうか宇宙的な視点で見てください。そして、この大変換期をジャンピングボードにして、あなたの使命達成に向けて邁進してください。

 

天はいつもあなたを見守り、あなたの活躍を応援していますよ。

無知と無智

無知と無智。この漢字を、私は意識的に区別して使っています。知識のないことが「無知」、智慧のないことを「無智」というふうに。言語学的にこの定義づけが正しいというわけじゃないのですが、一応、私の中ではそのように区別しています。なぜかと言うと、この二つが意味するものは、一見同じように見えて相反する面があるからです。

 

私が「無智」と書いていた場合、それは知識がないと言っているわけではありません。もちろん小馬鹿にしているわけでもありません。「無智」というのは、それを知らないということではなくて、「智」が「無い」状態にあるという意味です。「智」というものは、知って解るというものではありません。その人の中に「在る」のか「無い」のか、「内在する」かどうかという問題なのです。

 

「智」という漢字には、「知」の下に「日」がくっ付いていますね。ですから、「智」は単に知るということではないのです。敢えて言えば「日」を知る。「日」は「⦿」から生まれた象形文字です。見ての通り、「⦿」には先ず、お日さま、太陽の意味があります。そこから、暗闇を照らす光、不明だったものを明らかにするという意味が、「智」には付加されているのです。

 

また、「○」の中に「・」が付いた形は、中心太陽とか、宇宙そのものを表す象徴でもあります。中心太陽というのは、いわゆる太陽(恒星)のことではありません。これは神秘学用語で、宇宙の根源的エネルギーが流れ出している中心点のことを指します。その中心点を、太陽になぞらえて言ってるわけです。そして、この中心点から、全体(○)に広がっているという象徴図形が「⦿」なのです。

 

ですから、私の中では、「智」は宇宙の中心点から溢れ出ている光、すなわち「宇宙の真理」「生命」「愛」というものを意味しています。そして、それを未だ知らない、内在されていない状態にあることを「無智」と言っているわけです。この「無智」というものは、今の地球人類全体が背負った宿業のようなもので、視点を変えれば、その状態から脱することが、地球人類としての一大テーマになっているわけです。

 

*以上はみな、同じものを機能別に別角度から捉えて言ったもの

 

そこで釈迦は、嘘をつくとか、他人のものを盗むとか、殺生をするとか、人としてやっちゃいけないことは色々あるけれども、何よりいけないことは「無智」だと言ったのです。ハテ? 戦争よりも人殺しよりも、なんで「無智」がいちばんいけないのか、とそう思うでしょう。それは、もし「智」に明るくあれば、すべての悪など、起きようはずが無くなるからです。

 

無智。

 

人類が抱えるあらゆる問題の原因は、ただこの一点にあるのです。環境問題も、貧困問題も、エネルギー問題も、核も、戦争も、病気も、怒りも、憎しみも、満たされなさも、孤独も。

 

すべては人が「無智」なるがゆえに生じ、かつ乗り越えられずに、同じ過ちを延々と繰り返している。そこで私も、先人に習い、微力ながらも光を注ぐお手伝いをしているわけですけれど‥‥。この闇は手強い。

 

どうしてこれほど手強いのでしょう?

 

その理由は、みなさんが得た「知識」にあるのです。まことに、まことに、「知」は「真理」を粉砕する。「知」は、この宇宙に、物質世界を超えた「真理」が存在するということを認めない。「知」は、たとえ「真理」の一端を垣間見ても「そんなものはインチキだ」と直ぐに耳許で囁く。「知」は、「真理」に触れた瞬間があったとしても「今のは錯覚さ」と己の感覚を打ち消す。

 

一人の人間の中で、宇宙意識とつながった奥深い霊性の主が「お前の本質はわたしなんだよ」「さあ、このチャンスに真理に気づくんだ」といくら声を上げていても、「知識」を得た頭が、常識でそれを振り払い、木っ端微塵に粉砕してしまう。その習いを超えて、我が内なる声に従順になるには、もの凄い勇気を必要とする。まるで、天と地がひっくり返るほどの‥‥。

 

視点を変えれば、実にな〜んてこともないんですけれどネ。でも、地球人にはまだまだそれは大変なこと。何しろ、あらゆる物差しが「知識」に重点を置いて出来上がっているのですからね。「知識」そのものというよりも、「知識」に重点を置くという「知識」構造に、人類がすっかり支配されてしまっていることの方が遥かに大きな問題。ここから脱するのは、まさに至難のワザ。

 

物心ついた頃には、本人の興味関心とは関係なく、学校教育で「知識」の洗礼を受け、どれだけ覚えたかで優劣が決められる。上の学校に上がるのも、会社に入るのも同じ物差し。社会に出れば出たで、業界知識や社交術を知らねばならない。加えて、ニュースで世の動向を知り、株価に毎日眼を光らす。果ては、健康情報にグルメ情報、スポーツ情報、芸能界情報と大層忙しい。その各分野に、指南役としての知識人が存在し、人々をある方向へと導いてゆく。

 

よく、「知識は無いよりは有った方がいい」なんて言いますが、必ずしもそうとは言い切れないんですよ。世の中には、知らなくてもいい「知識」、知ったからといって別にどうということもない「知識」、知るとかえって有害になる「知識」がいっぱいある。むしろ、そっちの方がずっと多い。それなのに、そんなムダな「知識」に振り回されて、現代人はすっかり我を見失っています。

 

そして、世界須磨穂教の熱心な信者となった今は、一瞬たりとも「知識」から逃れるスキがない。分からないかなぁ、それが、心から「不安」というものが消えない根本原因なのですよ。ほっと一息つく時間がある時、あなたは、眼を閉じて静かに内観することを選びます? それとも、すぐに須磨穂大神様に手を伸ばします? 須磨穂大神様は、どんな有意義なご託宣を、あなたに授けてくださるのでしょうねぇ。

 

そうやって、次から次へと「知識」を仕入れて、少しは賢くなれましたか? 生きる目的が見つかりましたか? 不安がすっかり解消されましたか? あなたが「知識」を増やした時というのは、その世界に取り込まれたということなんですよ。あなたは、ご自分が、その「知識」を選び取ったと思っています。でもそうじゃない。その世界に引っ掛かったのですよ。

 

本当の「智慧」は、心静かに内観するとき以外には降りて来ません。周囲の情報を遮断して、静寂の中に身を置き、一人きりになる必要があるのです。そのようにして、自我を出来るだけ消滅させていく。そうすれば、入れ替わりに、宇宙とのチャンネルが開かれて行くのです。

 

ですから、いつもいつも自我をフル稼働させ、目を皿のようにして「知識」を追いかけているような人は、せっかくの「真理」にも出会うチャンスがありません。それどころか、「知識」を「悪観念」にまで育て上げてしまう人のなんと多いことか。ご覧なさい、ネット上に渦巻くヘイトの声の数々を。「知識」の罠に一度は引っ掛かったとしても、それをあなたの直観の秤(はかり)に掛けて、問い直すということが大切なのです。

 

やけくそになった人が、よく言うじゃありませんか。「俺のことなんか放っといてくれ」「今は誰にも会いたくないんだ」「俺は一人になりたいんだ」。それは、その人の「魂」の叫びです。「魂」はちゃんと知っているのです。ここ一番という大事な瞬間を。「真理」を掴むチャンスの時を。その方法を。やけくその混乱状態に陥入ればこそ、それをジャンピング・ボードに変える「智慧」が働くのです。

 

なぜだと思います? やけくそになったことで、図らずも、自我を正常に働かせることが出来なくなったためです。自我を滅するチャンスが、そこに生じたのです。そうやって、ちゃんと救いの手が差し伸べられているんですよ。凄いですねぇ。だからって、あなたも早く「やけくそ」にな〜れ、なんてことは言いません。この理屈さえ解っていれば結構。

 

知性は、しばしば「真理」を抹殺してしまいます。「知識」をいくら求めても「真理」には到達できません。「真理」は、「知識」の先にあるのではないのです。哲学などいくら学んでもムダ。むしろ「知識」から離れた時にこそ、「真理」と出会えるのです。

 

あなたに、一息つける間がある時、眼を閉じて、心を静かにして、安心して、神にその身を委ねなさい。そのような習慣を持ちなさい。そうすれば、やがて解ります。

 

私は誰か。どこから来て、どこへ行くのか。

霊能と霊能者について

世間には、様々な霊能(超能力)を主張する、自称「霊能者」がたくさんいらっしゃいます。しかし、「霊能」とはどういうものかということについても、また「霊能者」にもピンからキリまでいるということについても、その実体や詳細についてはあまり知られておりません。いや、まったく知られていないと言った方がよいくらいでしょう。そのため、この分野には、21世紀に入っても、未だに中世と同レベルの混乱状況が続いています。

 

20世紀の後半から、理論物理学や宇宙天文学が急速な発展を見せ、今や超ミクロの世界と超マクロの世界が一体のものとして明らかにされつつあります。これまでの「現象を追う科学」が、いよいよ「因の科学」に迫ろうかという段階に至っているのです。もう中世の時代ではありません。宇宙の構造について本当の知識が必要な時期にきているのと同様に、この分野にも本当の知識が必要となっているのです。

 

先ず、「霊能」というものは特殊な能力ではない、ということを知っていただきたいと思います。それは、誰にも備わっているものなのです。人間は本来、誰もが超能力者なのです。なぜなら、そのようにして創造されたのですから。ただしその能力には、人によって差があります。駆けっこを思い浮かべてください。早い人、遅い人、いろいろいるでしょう。それらと何も変わりがありません。

 

生まれつき足が早く、子どもの頃から大会に出場すればいつも一等という人もいれば、高校までの部活ではそれほど目立たなかったのに、その後よき指導者についてオリンピック選手にまでなったという人だっています。また、将来を嘱望されていたのに、悪い連中に捕まってしまい、曲がった道へ入ったという人だっています。それと、何ら変わりがありません。

 

つまり「霊能」は、人間がいろいろ持っている能力の一分野に過ぎないのです。それなのに、「霊能」だけが特別扱いされているのは、他の能力の多くが、いわゆる「五感」に基づいて構築されているのに対して、「霊能」は「五感」を超えた能力(いわゆる「第六感」以上)であるためです。大半の人々は、この分野についての知識が全くと言っていいほどありません。そこで、特殊な感じがするというだけなのです。

 

ところが、これは知られていないことですが、本人が通常の能力だと思ってやっていることでも、実は「第六感」以上の助けを借りてやっているという場面が少なくないのです。最近では「Zone に入る」という言い方をするようですが、いわゆる「神懸かり」という心境です。何かに没頭して作業をしている時に、信じられない力が湧く。ふとした瞬間に光が射したようにインスピレーションが入る。これらはみな、あなたが超能力者になった瞬間です。

 

超能力を意味する、英語の「psychic(サイキック)」、略して「PSY(サイ)」などと使われることも多いですが、この語源は、古代ギリシア語の「Ψυχή:Psyche(プシュケー)」から来ています。プシューというのは、息を吐く時の擬声語で、元々は「呼吸」を意味しました。それが、以前にも書いたように、息→生き→生命→魂→精神→心、といった概念にまで拡大使用されて行ったのです。

 

このような、言葉の成り立ちを見ても、「霊能」は決して特殊能力ではないということがお解りいただけるでしょう。泥(それは宇宙にあまねく存在する元素)をこねた(組み合わせた)人形に、息(SOUL 及び生命エネルギー)を吹き込んで人間が出来たという「神話」は、本当のことを模写したものなのです。ですから、人間は本来、誰もが超能力者なのです。

 

それなのに、なぜ、能力差が存在するのでしょうか? これには三つの理由があります。一つは先天的なものです。先天的ですから、DNAに秘密があります。しかし、そういうDNAの配列を、両親を選んで、組み合わせを決めて誕生して来たのはその人自身、つまりその人の「魂」です。ですから、先天的な違いというのは、元を辿れば、「魂」の成長段階や役割に違いがあったということになります。

 

同じ人間であるのに、DNAの配列に「霊能」差が生じているのは、人類の創生にその秘密があります。多くの人類学者が主張し、教科書で教えられている「人類誕生の物語」は正しくはありません。人間は、類人猿から進化したのではありません。これも神話に書かれているとおり、霊魂が堕落し(振動数を下げ)、楽園から追放された(流刑にあった)ことによって物質化し、肉体を持った「人間」というものが誕生したのです。

 

これは、わずか数世代で成し遂げられ、五色人(それぞれ黒、白、黄、赤、青色の肌を持つ人類)が、ほぼ同時期に地球上に誕生しました。しかしその後、人類を奴隷にして支配したい者が現れ、そのために「第六感」以上を切断された改造人間が、支配者層によって新たに創造されたのです。やがて「第六感」を持つ者と、持たない者との混血が進み、今のような能力差が生じるに至ったのです。

 

さて、二番めの理由は、今も少し触れたように、その人の「魂」の、成長度合いと役割に違いがあるためです。すべての「魂」は、ただ一者から生じ、地球人として地上に誕生した「魂」は、ここで「愛」についての実地学習体験を重ねながら、元の一者へと還る旅を続けます。その際に、輪廻転生を何度も繰り返す中で、先を歩む者、早く行く者と、遅れる者、遅い者との差がしだいに出て来るのです。

 

そして、三番めは、訓練です。いま言ったことを、自覚しながら生きるのと、知らないで生きるのとでは、「魂」の進み方が違って来るのです。今の自分にサイキックな能力は何もないと感じておられる方でも、訓練によって、切断された「第六感」を回復させることは可能です。ただし、これを「超能力開発」とは捉えないでください。実体は、「本来の自分に帰る」というただそれだけのことなのです。

 

*「超能力開発」は、決して誉められたものではありません。むしろ避けるべきもの、慎重に取り組むべきものです。その理由は、次に書くことから解っていただけるでしょう。

 

私たちの大半は、いま生きている、この物質世界が宇宙のすべてだと思い込んでいます。ところが、最新の研究成果によれば、物質的宇宙は、全宇宙のたった5パーセントに過ぎないという結論が導き出されているのです。あとの95パーセントは、どうやら物質ではないもので構成されているらしい、というところまで来ているのです。このことは、もっと詳しい数字で、前回にも触れました。

 

この「物質ではないもの」が何かについては、現代科学の学問上では未だ「謎」とされているのですが、「霊的な世界」と言って間違いはありません。その際に、注意しなければならないのは、この「霊的な世界」なるものは、決して「物質世界」と対峙するような形で存在しているわけではないということです。コインの裏表のような、「この世」に対する「あの世」ではないということですね。

 

実際には、宇宙全体が「霊的な世界」によって包含されているのです。それは無時間、無空間の、非局所的な世界です。その宇宙の中に、振動数の揺らぎが生じ、それによって塊りが生まれ、さらに振動数が下がることによって半霊半物質化して行き、ついには物質が現れるという、振動数によるヒエラルキーが構成されているのです。そういう全体構造の中で、物質化したものはたったの5パーセントに過ぎないということなのです。

 

ちょっと専門的になりますが、非局所的な、振動するエネルギーの海の中に、局所的な場が誕生するのです。私たちが「物」だと思って目にしているものは、局所的に出現した原子が、主張する縄張りのようなもので、物質の間はスカスカであり、その間にも実は「霊的な世界」が満ちているのです。これらの総量を計算すると、ざっと物質が5パーセント、半霊半物が25パーセント、霊的エネルギーが70パーセントになるということです。

 

さて、前回までの話を思い出してください。半霊半物界というのは、第4霊性密度(4次元)の領域(この振動数の帯域)です。そしてここは、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈する世界、別名「地獄」だということを申し上げたと思います。しかしこれは方便であり、実際には「地獄」というものはありません。これは、ロバート・モンローが言ったように、様々な「信念」体系を持ったグループが集まる帯域となっているのです。

 

サイキックな能力が出て来た(あるいは生まれつきある)と主張する人の大半は、この第4霊性密度(4次元)領域に波長を合わせることが出来るのです。それは、第3霊性密度(3次元)の領域にいる人間から見れば、通常の人にはない「超能力」のように見えます。そこで、「超能力」を有り難がる人と、「超能力」をウリにしたい人との需要と供給がガッチリ噛み合い、オカルティック・ワールドが、商売としてあちこちに成立するのです。

 

その中には、法外なお金を取って「霊視して上げるよ」と言ったり、「あなたには悪い霊が憑いているから」と言っては、「除霊して上げますから、ハイ、○万円」と言ったり、「この石を持てば幸福になれるよ」と説いたりする人もいるのです。また、「何月何日に大地震が来るぞ」「巨大隕石が衝突するぞ」などど言っては、大衆を震え上がらせる人もいます。

 

しかし、これも何度も言いましたが、高次元(第5、第6霊性密度)の存在が、そのような脅しをしたり、悪さをしたりすることは、絶対に絶対にありません。なぜ「絶対に」と言い切れるのか? 脅しや悪さをするようなレベルにある「魂」が、第5、第6霊性密度に上がることは、そもそも不可能だからです。霊界というところは、純然たる階層構造(その階層は、振動数=霊性の違いによる)から成り立っているのです。

 

あなた方に認識していただきたいのは、霊能の有無と、霊性の高さとは何の関係もないということです。ここを間違ってはいけません。駆けっこの早い人がみんな人間性が高いのかと言えば、決してそうじゃない。それと一緒です。霊能は、単なる一能力に過ぎないのです。けれども、アスリートとして抜群の能力を持ち、かつ人間性も高いという人が稀にいるように、霊能と霊性の高さが一致した人がごく稀にいるというだけの話です。

 

では、先の例に挙げたような霊能者は、いったい何とつながって、どんな情報を下ろしているのでしょうか。多くの霊能者は、第4霊性密度の存在とつながって、その言葉を下ろしています。第4霊性密度には、地上世界と同じように、ある「信念」を持った特定グループや宗教団体が数多くあって、こことコンタクトした霊能者が、それを「神」の言葉として称して、信者さんたちに下ろしているのです。

 

それは、その霊能者に、そういう自覚がないから出来ることです。本当に「神」の言葉だと思っているのです。驚くべきことに、自称「霊能者」の大半は、霊界の構造のことも、真理の法則についても、何も知識がありません。ましてや、人間の心理やそのケアについての技量も習熟しているわけではありません。ただただ、自分の感覚だけでやっているのです。けれども、一般の人も同様な無智の中にありますから、それでお互いが成り立っているのです。

 

こうした現象がちっとも是正されないのは、やはり、人々がまだ、「この世」に意識を留めたまま、「この世」の視点から、物資的世界を超えた不思議世界を垣間みようとする意識が抜けないためです。そうすると、このような人たちにとっては、第4も、第5も、第6霊性密度も、まったく区別がつかないわけですね。全部をひっくるめて不思議ワールドなわけです。

 

むしろ、高い次元の言葉ほど、当たり前に見えてつまらなく思え、素通りしてしまう。それよりも、4次元の話の方がずっとエキサイティングだし刺激的です。大地震とか、株価とか、UFOとか、古代ロマンとか、憑依とか、スプーン曲げとか、夢を叶えるとか、お肌スベスベとか。それで、残念ながら「光への道」を本当に歩もうとする人は、極めて少数になってしまうのです。

 

これで、なぜ「超能力開発」が誉められたものではないのか、もうお解りでしょう。オカルティックなものに興味を持った人は、すぐにその領域の虜にされてしまいます。それは、その帯域の波長(振動数)に、自分の波長を合わせてしまうということです。そのように誘導することで、支配を目論む輩がいるのですよ。彼らは、そうして集まる人々のエネルギーを吸い取って生活しているのです。

 

しかし、21世紀という時代、新しい神学が必要とされる時代に既に入ったのですから、これからは逆に見て欲しいということです。宇宙のすべては、先ず「霊的世界」というものが先にあり、そこに包含される形で、半霊半物界と、物質界がちょこっとだけある。その全体構造が俯瞰して見えれば、半霊半物界(オカルト世界)とつながって下ろされた言葉が、いかに中途半端なものであるかが、想像できるのではないでしょうか。

 

高次元の存在たちは、つねに、自分たちの手足となって働いてくれるメッセンジャーを求めています。そして、一人ひとりの成長を見守りながら、早くパイプ役になってくれないかなぁと期待しています。

 

そう、それはパイプ役。パイプに成り切るには、いかに「自分」を滅するかが問われるのです。エゴや、特定の信念や、オカルト的興味やらが残っていたのでは、先ずもってまったくお話になりません。それらを滅した上で、メッセンジャーにはさらに二つの資質が問われるのです。その人の「霊性進化」の度合いと、ツール(パイプ役)としての技量です。

 

「霊性進化」の度合いは、伝える内容のレベルを決定づけます。パイプ役になる者は、自分の振動数を上げて上に近づき、他方、高次元の存在たちは、振動数を下げてこちらと握手しようとして来ます。その握手地点を出来るだけ高いポイントで行うためには、パイプ役となる者が、つねに高い霊性を目指し、かつそれを保つように、自分を律して生きなければならないのです。

 

一方、技量というのは、例えば、言葉でメッセージを伝える役ならば、語彙の豊富さや、構成力、文章力、語り口などの影響が、メッセージに如実に反映されてしまうのです。ある「概念」が下りて来たときに、それを地上の言葉に置き換える方法は何百、何千通りとある。それをどうするかによって、個性が出てしまうわけですね。同様に、絵描きならば絵の技量、音楽家ならば音楽の技量、料理人ならば料理の技量に表現が左右されてしまうということです。

 

そこで常々、「完全なる奉仕の人となれ」と言っているわけです。しかし、いかに厳しく律したとしても、地上にある者は、所詮は「人間」であることを、メッセージを送る者も自覚し、メッセージを受け取る者も考慮することが大切です。いま述べたようなメカニズムから、どんなメッセージにも、必ず「歪み」が入るのです。ですから、どんなメッセージも、これを単純に絶対視したり、丸呑みしたりしてはいけません。

 

また、メッセンジャー本人を神格化してもいけません。イエスにしろ、ブッダにしろ、(決して貶めようというわけではないのですが)その時代のメッセンジャーの一人に過ぎないのです。同様に、言行録やリーディングによって書かれた聖書や聖典の類も、決して絶対視してはなりません。後世、人によってまとめられた書物というものは、「歪み」だらけなのです。なぜなら、それは「組織」の合意を経て表されたものなのですから。

 

あなた方には、先ず、本物と偽物を見分ける眼、霊的に高いものと低いものを嗅ぎ分ける鼻が必要です。どんなメッセージも、「これは、いま自分のために、自分に向けて届けられたものである」と読むことが大切です。実際にそうなのですから。すべてはグッド・タイミング。これを、あなたはまだ不思議現象だと捉えますか? いま言ったばかりでしょう。私たちのベースにあるものは、非局所的、無時間、無空間の世界なのだと。

 

それを、「この世」的に見ると、グッド・タイミングに見えるというだけの話です。この理屈が、解りますか? すべては、自分が創造しているのですよ。あなたの創造の瞬間に、いま必要な言葉が、オーダーメイドで用意されるのです。ああ、なんて素敵なのでしょう。だから、あなたは自分を信じて、より善き人となりなさい。瞬間、瞬間で受け取るギフトを、余すところなく受け取りなさい。

 

それが、あなたを成長させる。友よ、待っているよ。あなたの活躍を。

ワークショップ 初級・瞑想法講座

 


初心者を対象とした「瞑想」のワークショップです。
これは、自己の本質というものが、肉体を超えた「魂」にあるということを、先ず実感していただくことに主力を置いたものです。
真理探求への道に、ご興味のある方のご参加をお待ちしております。
 
日時:2018年 12月16日(日)13:30 〜 17:00
場所:多摩市 関戸公民館 8F 和室1
   京王線 聖蹟桜ヶ丘駅   徒歩2分
参加費:1,000円(当日お支払いください)
定員:6名
 
詳細およびお申し込みはこちら ▶
オクターブの法則

物質的なものから非物質的なものまで含めて、「宇宙」というものが階層構造からなるということは、いにしえの時代より繰り返し指摘されて来たことでした。ところが、この階層構造の分け方や名称というものに、まったく統一性がないのです。残念なことに、これが霊的な世界、とりわけ「真理の法則」への理解を阻む大きな要因となってしまっています。

 

例えば、このブログを読んでくださっている方なら、現界、幽界、霊界、神界といった名称を、多分どこかでお聞きになったことがあると思います。これは全体を4層に分けています。しかし、ひとによっては、神界を仏界と呼んだり、幽界を冥界と呼んだりもしています。また幽界と現界との間に幽現界を設ける人もあり、それですと5層ということになります。

 

仏教の方ですと、霊的世界を上品、中品、下品(品は “ぼん” と読む)の大きく3つに分け、さらにそれを上生、中生、下生に分ける分け方(これですと9層、現界を含めれば10層になる)や、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏陀という段階を設定した「十界論」が知られています。また親鸞は、霊界の上部を、化身土、真仏土、無上仏に分類しました。

 

『シャーロック・ホームズ』で有名なアーサー・コナン・ドイルは、霊界の研究家でもあったのですが、両端に地上界と天界を置き、その間を三品(さんぼん)と同じように大きく3×3の9層に分ける見方をとっています。神智学を顕したマダム・ブラヴァツキーは、全体を7層に分けていますが、最下層に物質界を置き、上の6層全部は霊的世界とし、各層に特殊な名称を付与しています。

 

また、神秘学やヨーガの方では、エーテル界、アストラル界、カラーナ界、プルシャ界といった名称を使うことが多く(英語とヒンディー語がごちゃまぜ)、ひとによっては、カラーナ界をコーザル界と言ったり、さらにはそれらを日本語訳した、原因、微細、粗大といった言葉もあって、とにかくもうバラバラ。何が何やらさっぱり解らないという混乱状態が今もって続いているのです。

 

さて、そうしますと、初めて三品説を聞かされた人は「ああ、そうなのか」と思うでしょうし、4層説を聞かされた人は「そういうものかなぁ」と思うでしょう。「十界論」を聞かされた人は「なるほど」と思うかも知れません。そして、ただ思うだけではなく、これこそが真実だと言って周囲に吹聴する人も現れるでしょう。

 

すると、宇宙が階層構造であるという考え方はみな共通しているのに、その理解を巡っては議論百出。下手をすると、争いが生じるということにも成りかねないのです。現に、宗教間ではそのような問題が生じています。そういうことがあるために、外から教えられた情報は何も「信じるな」と、私は言っているわけです。もちろん、ここで私が書いてることも「信じ」てはいけません。最後の最後は、あなたが自分に問うて欲しいのです。

 

けれども私は、この混乱状態をなんとかしたいと思いました。なぜならば、私自身が、初期においてこの混乱に巻き込まれ、大変な苦労をしたからです。およそ20年の回り道をしたと言ってもよいでしょう。前回も触れたように、アセンションというものがなぜ3次元から5次元へのジャンプなのか、ということすらも解らなかったのです。

 

そこで、この無用の混乱を解いて、もっとシンプルで解りやすい、普遍的な構造体系を示せれば、後に続く人たちは、自分と同じような回り道はせずに、すーっと「宇宙の真理」「宇宙の法則」「光への道」へと入って行けるだろうと考えました。またそれが、私に示された役割なのだろうと、後に思うようになりました。

 

その後、(それが、いつ、どのようにしてだったかは忘れてしまったのですが)電撃的に、前回に書いた「霊性密度(Spiritual Density)」の概念と、構造とを理解するに至ったのです。その結果、7つのチャクラとの関係性や、宇宙と人体が相似形であることや、ヘルメスの言った「下なるものは上なるもののごとく」の意味も、まるで明かりがポッと灯ったように解ったのです。無明からの脱出です。

 

ヒントになったのは、ロバート・モンローの「Focus」という概念とその数え方でした。「Focus」というのは「焦点」という意味であり、モンローは、霊的世界の階層構造に番号を付けて、瞑想を行う際に、この番号に意識を絞る(焦点を当てる)という技法を用いて、各階層への旅を恣意的に実現する道を開いたのです。それは、まさに画期的と言ってよい偉業でした。

 

このモンローの「Focus」番号が、1〜49番まで付けらているのです。49という数字は、7×7です。階層を大きく7つに分けて、さらにそれを7分するという考え方は、すでに有ったのですが、ロバート・モンローはこれを科学的かつ論理的に示した最初の人でした。

 

このモンローが示した「Focus」概念と、その他で示されていた情報を付き合わせると、ほぼ合理的な一致が見出せることを私は突き止めました。以来、「虹の学校」では、この7つの階層をチャート化したものをベースに、宇宙の構造をお話ししています。そして、このチャートを見れば、アセンションがなぜ3次元から5次元へのジャンプなのかということも、すんなり理解ができるのです。

 

*チャートは、それに関係したセミナーを行った際に、参加者にお渡ししています。

 

さて、以上が前置きです。この、宇宙が7×7の階層になっていること、そしてこの階層を決めているものは、ただ一つ「振動数(=密度)」の違いによるということを示したものが「オクターブの法則」です。オクターブ(octave)と聞いて、音楽用語にそれがあることを、みなさんすぐに思い浮かべられるでしょう。この語源は、ラテン語で8番めを意味する “octavus” です。ちなみに足が8本ある蛸は、英語で “Octopus” と言いますよね。

 

ハテ? 7階層なのに、なぜ8番めを意味する「オクターブ」なのか。とここで、疑問に思われた方もきっとおられるでしょう。そこで、解りやすくドレミファで示しますと、7番め(シ)の次の音階(つまり8番め)は、次のドの音となります。この時、1オクターブ上がったという言い方をします。その音の振動数は、元の1オクータブ下のドのちょうど2倍になるのです。これを「倍音」と言います。

 

つまり、振動数が1から2に至るまでの間を、7つに分けた階層が「オクターブ」なのです。ではこれを、いつ、誰が、どのようにして、何を理由に、7つに分けることを決めたのでしょうか? この「7音階」を定めた人が、誰あろう、みなさんよくご存知のピュタゴラスなのです。ピュタゴラスは、今日では数学者ということにされていますが、実際には「宇宙の真理」を届けるメッセンジャーでした。

 

ピュタゴラスは、振動数が1〜2倍に変化する間に、協和する振動数がないかを探ろうとしました。斉唱を男女混成で行いますと、普通は男女で1オクターブの音程差があります。場合によっては2オクターブ(3倍)、3オクターブ(4倍)の開きがあることもあります。でも、n倍音の差で斉唱を行っている場合には、まったく違和感がなく、協和しているように人は感じます。

 

そこでピュタゴラスは、1から2の間で、他に協和する音を探るために、3倍音に注目しました。これは倍音ですから無条件に協和します。しかしこのままでは2を超えていますので、3を2で割ったのです(3倍音を2倍音と考えてその半分にすればよいから)。こうして元の音に対して、1.5という数字が導き出されました。ドを1とすると、1.5の振動数に当たる音、それがソです。

 

次に、このソの振動数を元にして、再び3倍し、また2以下に収まるまで2で割るという繰り返し作業を行い、3×3=9、割ることの2×2×2=8、つまり9/8=1.125という数字が導き出されました。この音が、レに相当します。以下、同様にして、次々と音階を求め、この作業を12回行ったところで打ち止めにしたのです。

 

*ただしピュタゴラスのこの方法では、3のn乗/2のn乗=2に相当する数が、3も2もともに素数であるために存在しません。いちばん近い値は、3の11乗/2の18乗で、2.02729...と端数が出てきてしまうのです。そこで現在は、次に述べる¹²√‾2の周波数比をとった「平均律」が採用されています。これによって、響きは多少犠牲になるのですが、移調というものが可能になりました。

 

こうした結果、1オクターブ間に12の音階が並ぶことになりました。ピアノの鍵盤を見ますと、白鍵、黒鍵合わせて、1オクターブ間に12個の鍵盤があります。このうち白鍵の数は7個です。12個は周波数比で、¹²√‾2=1.0594...の間隔に配置されており、これが半音。半音2つの幅をとったものが全音となります。そして、全・全・全・半・全・全・半の間隔を選んでいった音が、ドレミファアソラシという白鍵の7音階なのです。

 

さて、12と7という数字が出てきましたね。これは別の回にも書きましたが、ともに神秘数であり、12は量的な総数を表し、7は段階的な総数を表しています。12は円形を分けるのに便利なのです。丸いケーキを思い浮かべてください。2にも、3にも、4にも、6にもすぐに分けられます。そこで、時計、1年、星座、方位など、円環を描くものが12分割されているのです。

 

一方の7という数字は、ドレミファだけでなく、一週間がそうですし、電子の軌道も7つです。また結晶構造の数も7つあることが知られています。このように7という数字は段階的なものを表している数なのです。では、「虹の七色」というのはどうなのでしょうか?

 

白色光をプリズムで分解しますと、波長別に屈折率の違いが出るために、いわゆる虹色が見えます。雨が上がった空に虹が見えるのは、空気中の水滴がプリズム効果をもたらすためです。

 

さて、「虹の七色」と言って、この言葉を何の疑問もなく使っているのですが、スペクトルをよく見ますと、虹色は実際にはグラデーション状に変化しており、決して七色の帯ではないことが判ります。つまり、「虹の七色」というのは、実際にはグラデーション状に連なっている色の変化を、人為的に7つに分けたものなのです。

 

さあ、これで冒頭に書いた、宇宙の階層構造には様々な異論がある、ということの理由がお解りでしょう。まったく同じ理由によります。実際には、振動数というものはグラデーション状に変化しているのですが、それをどう分けるか、切るかという見方の違いにより様々な説が生じているのです。当の「虹の七色」も、日本以外では6色に数えるところも多いんですよ。

 

さらに言いますと、このグラデーション状の振動数変化というのは、冪乗(べきじょう)で変化しているのです。これを示してくれたのが、大橋正雄さんとイームズです。この振動数の連続的変化を図示すると、対数螺旋(ベルヌーイカーブ)となり、結局、渦巻き状に無限縮小、無限拡大しているという構造になります。また、対数螺旋を部分で切り取ると、いわゆる黄金比(1:1.618)が現れます。それで神殿建築(神が宿る場所)には黄金比が多用されているのです。

 

では、なぜ7つに分けるのか、ということです。これも人為的に7つに切ったわけですが(7つに刀で分けたのが「切」という文字)、7つに分けると、7段階をそれぞれ象徴している意味が、非常に明快に解釈出来るためです。また、人体上のチャクラの数が7つであり(12説もある)その関連性も極めて明快に説明できるのです。もちろん7が神秘数であるということもあります。

 

さて、宇宙というものは、ただ一つの「振動するエネルギー体」が素となり、これが振動数を下げていくことで塊りをつくり、魂(Soul)となり、また他方では物質化という現象が起こっているということを前回に述べました。別の言い方をすれば、物質的なものも、非物質的なものも、宇宙のすべては「振動するエネルギー体」が変化したものだということです。

 

その時、7つの階層に対して下(振動数の低いもの)から番号を付けていくと、第1、第2、第3霊性密度が物質界、第5、第6、第7霊性密度が非物質界(霊界)となるのです。そして中間にある第4霊性密度は、文字どおり中間の、半霊半物質界ということになります。ですから、「アセンション」というものが3から5にジャンプするというのは、この領域を超えてしまうということを意味します。

 

ところで、最新の宇宙物理学では、今まで、それが宇宙のすべてであると思っていた「物質」(星々に代表されるもの)が、実際には、全宇宙のたった4.9%に過ぎないということが計算上から弾き出されています。そして、26.8%がダークマター(dark matter:暗黒物質)、68.3%がダークエネルギー(dark energy:暗黒エネルギー)であると、(今のところ)結論づけられているのです。

 

このダーク(暗黒)というのは、「悪いやつ」という意味ではなく、光学的に観測できない(遠くの星を観察するには、光を見ることになるのですが、その光が見えない)ために、その名がつけられています。それが何であるかは判らないけれども、宇宙には、見えな物質らしきものが26.8%あり、見えないし物質でもないエネルギーが、さらに68.3%あるというのです。

 

これも、これまで現象面をずっと追いかけて来た現代科学が、因の世界にグッと近づいた一つの例です。神秘学では、物質的世界など、全宇宙からすればほんの僅かなものであるということは、ずっと言い続けてきたことです。ダークマターが第4霊性密度の世界、ダークエネルギーが第5、第6、第7霊性密度の非物質界(霊界)のことだと考えてみてください。すんなり理解が出来るのではないでしょうか。

 

ではここで、第1から第7までの霊性密度にドレミファソラシを当てはめてみましょう。そうすると、第3から第4に移行する時に半音階、第7からその上の第8に移行する時に、また半音階が来ていることがお解りでしょう。ゲオルギイ・グルジエフは、これを「ショック」と呼びました。ミ→ファと、シ→ドへの移行部分に半音階の「ショック」があるのです。

 

*ゲオルギイ・グルジエフ:エニアグラムを世に紹介したことで有名。

 

さて、どんな「ショック」なのでしょうか? ミ→ファのショックは、物質界から非物質界へと突入するというショックです。シ→ドは、この宇宙の最高のもの、つまり創造神から、それよりも高い「何か」へとジャンプするというショックです。さて、創造神よりも高い次元のもの(第8霊性密度)とはいったい何なのでしょうか?

 

言うなれば、それが絶対神です。宇宙の創造神と、絶対神とは違う。宇宙の創造主は、現にこうして被創造物である宇宙がある以上、その創造者も、論理的に考えれば有る(在る)はずです。しかし有る(在る)ものは変化しますから、それは「絶対」とは呼べません。では「絶対」と呼べるものが、果たして宇宙にはあるのでしょうか? もしあるとすれば、それは「無」だけです。「無」は変化しませんから。そのような結論に至ります。

 

しかし、この論理は矛盾を孕んでいます。「無」が「有る」と言ってしまうと、それは「無」ではなくて「有」になってしまいます。ですから、「無」はどこまでいっても「無」です。「無」が何かと言われても答えようがない。「無」は「無」としか言いようがありません。しかし、「無」以外に変化しないもの、つまり「絶対」はないのです。

 

すると、私たちとしては、こう考えるしかありません。この「宇宙」の創造主すらも超えた、「絶対」なる何かがきっとおわすのだろう。しかしそれは「無」なのだから、あるとは言えない。結局、私たちがどう考えようが、その問題には結論が出ない。だから「無」だ。つまり考えても「無駄」(シャレです)。となってしまうのです。どうも、お後がよろしいようで。

 

今日のところはそこまでにしましょう。この第8霊性密度については、別の考えもあります。それはまた機会があればお話することにいたしましょう。

地球のアセンション

アセンション(Ascension)とは上昇すること。何が上昇するのかというと、いわゆる「次元」です。この「次元」が、三次元から、四を跳び越して、一気に五次元にジャンプする。それが「アセンション」です。

 

さて、この「次元」という言い方なのですが、この名称が多くの人に誤解を与え、「宇宙」の構造に関する理解を難しくさせてしまっています。私も時に、通例に倣って「人間は多次元的存在」などと書いたりしているのですが、誤解を増幅させてしまっているかも知れません。そこでこの際、ちゃんとしたことを書いておこうと思います。

 

これからお話することについては、簡単にですが、今までにも何回か触れたことがあります。けれども、数学や物理学に関連した話をちょっとでもすると、どうもドン引きする人が多くて、今までキチンとお伝えすることは遠慮していました。でも、今回はちゃんと話しますので、頑張って着いて来てくださいね。

 

そもそも、「アセンション」で言っているところの「次元」というのは、数学で言うところの「次元」とは、全く異なる概念なのです。これは「アセンション」に限らず、今後は、神秘学において「次元」という言葉を目にした際には、すべてそうだと考えてください。そうすれば、基本的な謎の一つが解けます。

 

数学で言うところの「次元(Dimension)」というのは、移動できる方向の数(自由度)を表しています。点は0次元(どの方向にも動けないため)、直線は1次元(直線上をどちらか一方向に動ける)、平面は2次元(タテ、ヨコの二方向に動ける)、立体は3次元(これに高さが加わり三方向に動ける)となるのです。ということは、私たちがいま住む物質世界は、数学的には3次元世界ということになります。

 

これに時間軸をプラスして、この世は4次元だとする考えもあります。ただし、時間軸は片方向にしか進めません。いわゆる「時間の矢」というものが存在するのです。しかも私たちは、“今” しか知覚・体験できません。“時間” という幅を見ることは出来ないのです。なぜ時間軸が逆行できないかは、今も物理学上の大きな謎とされています。

 

一方の神秘学で言うところの「次元」は、正しくは「霊性密度(Spiritual Density)」と言い、宇宙を構成するあらゆるものを、その振動数の違いによって七階層に分類したものなのです。さてここで、先ず「振動数」という言葉が出て来ました。非物質的なものも含めて、宇宙のあらゆるものが振動しており、霊性の高いものほど微細で精妙な振動数を持ち、低くなるほど大まかで粗雑になっていくのです。

 

この説明にピンと来られない方も多分いらっしゃるでしょう。目の前にあるコーヒーカップが振動しているようには見えないからです。あるいは空気が振動しているようには見えない(空気そのものが見えない)からです。またあるいは、銀河系が振動しているようには、宇宙全体が振動しているようには思えない(観測できない)からです。

 

しかしみなさんは、物質を構成しているものが分子であることをご存知でしょう。そして、その分子を構成しているものが原子であることもご存知でしょう。これら物体を形成している粒子は、目には見えないのですが、みな細かな振動をしているのです。みなさんがよく知っている「熱」というのは、この粒子の振動状態なのです。そこで、この粒子振動を熱運動と呼びます。

 

粒子の振動が激しくなるとその物は高温となり、振動が小さくなると低温となります。一例を挙げましょう。水は、温度が0度から100度までの間に、固体、液体、気体へと変化します。気化した水であるところの水蒸気が膨張圧力を生むのは、水分子が液体時よりも激しく振動するためです。逆に自由度があまり無くなっていくと、水は氷という固体になるのです。

 

さて、最新の物理学は、原子核を構成する陽子や中性子よりもさらに微小な素粒子を発見し、今ではクォークに代表される17個の素粒子からなる「標準モデル」が確立されています。そして、自然界にある四つの力の大統一理論を探る過程で、「標準モデル」の素粒子よりもさらに微細な「素」が存在し、それは「振動するひも」である(超弦理論)という説が主流を占めるに至っているのです。

 

しかしこの「振動するひも」は、理論物理学から出て来たもので、あまりにも微小なために、大型ハドロン衝突型加速器を使っても、実験で確かめることが(今のところ)不可能とされています。一方、神秘学では、古来より、宇宙を構成する「素」は、振動するエネルギー体であるとし、それを「霊(Spirit)」と言って来たのです。つまり現代物理学は、古来より連なる神秘学に、やっと追いついて来たというわけです。

 

*霊(Spirit)については、あまりにも多くの解釈や定義づけが存在し、それぞれの人がそれぞれの説を語っておりますが、ここでは、万物を形成する唯一根源の「素」を霊(Spirit)と定義づけます。

 

よく、霊界の話をすると「そんなもの科学的じゃない」とか「トンデモ話だ」といった決めつけをなさる方がおられるのですが、現代科学は、もはやそのレベルではありません。天文学、物理学、数学が融合し、超微小世界と超巨大世界への観測技術が共に発達したこともあって、この2・30年ほどで急速な進歩を遂げています。そして、そこで得られた推論は、因の科学(現象面の裏にある本当の原因科学)が示して来たものに、どんどん近づいて来ているのです。

 

「Spirit」と「振動するひも」が、同じものだと結論づけるにはまだ早計かも知れません。ですが、『超弦理論』が、この世の常識を超える世界に踏み込んだことは、これまでの科学(現象から現象の法則性を探る)の一線を超えたと言えます。その『超弦理論』は、私たちが住む世界が実は3次元なのではなく、9次元(時間軸を含めると10次元)であるという説を立てています。残りの6次元分は畳み込まれていて観測できないだけだと言うのです。

 

さて神秘学に話を戻しましょう。神秘学では、万物を構成する素は「Spirit」であると言います。しかしこれは、大本の「振動するエネルギー体」が有する機能面の一つであり、他に「根源的生命力」と「宇宙意識」なるものを、この「振動するエネルギー体」は併せ持っているのです。この、三つの要素が、たった一つのものから成るということが、真の「三位一体」の意味なのです。

 

さてその時、元はたった一つのこの「振動するエネルギー体」が、振動数を次第に下げて行きます。すると、水で示した例と同じ様に「Spirit」の自由度がだんだんと減って行き、同種の振動数を持ったエネルギー体が塊りを形成するようになるのです。こうして、非物質であったところの「Spirit」が、半霊半物質状となり、さらに振動数を下げると、遂には物質化という現象が起こるのです。

 

ですから、人間の肉体も、「Spirit」が振動数を下げて物質化して行き、原子となり、それが分子となり、細胞を形づくって肉体を形成したものなのです。ここに、同じく「宇宙意識」の振動数を下げた「魂(Soul)」が結びつき、さらに「根源的生命力」の振動数を下げたプラーナ(気)が供給されて、あなたという一人の人間が、この地上で、この宇宙に生かされているのです。

 

このように、元々は非物質的な「振動するエネルギー体」が、振動を下げることによって、半霊半物質化、さらには物質化という現象が起き、その物質も、様々な化合を経て巨大化し、この大宇宙が出来上がっているのです。宇宙のすべては「波動」であるという言い方は、ここから来ています。ですから、「波動の法則」が「真理」であると言えるのです。それは、たった一つのものから生じているのです。

 

この時、振動数の高低差を、便宜上、七つに分けたものが、よく言われる「次元」、正しく言えば「霊性密度(Spiritual Density)」なのです。密度と、振動数と、波長は、同じことを違った視点から述べたものです。ですから、俗に言う「次元」とは、数学的次元を指しているのではなく、「振動するエネルギー体」の密度、あるいは振動数、あるいは波長を述べたものだということを、しっかり覚えてください。

 

さて、なぜ七つに分けられるのかということなのですが、振動数の違いからなる七つの領域が所持するそれぞれの性質に、大きく七つの特徴があるためなのです。そしてこの特徴をそっくり人体に移したものが、いわゆるチャクラ(中枢)の各働きであり、スシュムナー管上(背骨に重なる場所)に、七カ所に分かれて位置しているのです。

 

このことから、大宇宙(マクロコスモス)と、人体(ミクロコスモス)の相似形が言われ、人間は「神」に似せて創られたという言い方が為されているのです。また、七つの「霊性密度(次元)」を、人体が最初から所持しているという意味から、人間は「多次元的存在」であるという言い方もされるのです。

 

ところが残念なことに、地球に生まれた人間は、このチャクラが充分に目覚めていません。そこでこのチャクラを、眠りから目覚めさせ、活性化させることが求められます。これが、いわゆる「覚醒」の意味であり、完全に目覚めた人を「ブッダ」と呼ぶのです。(この七つの階層については、次回に『オクターブの法則』と題して、詳しい説明をします。えっ、もう結構ですって? まあ、そう言わずに。)

 

七つの階層のうち、上の三つが非物質界(霊界)、下の三つが物質界、そして中間の四番めに位置しているのが半霊半物質界です。地上に生活している人間は、下から三番めの「第三霊性密度」の領域に暮らしているのですが、四番めの半霊半物質界を跳び越えて、非物質界の一番下である五番めの「第五霊性密度」にジャンプすることを「アセンション」と言うのです。しかも、この肉体を持ったまま、地上に現に生活をしながら。

 

*本当はそうではないのに、そこに捕まっている状態。物質を知覚するための五感刺激に嵌まり込み、第六感以上が塞がっている。当然、チャクラも閉じたまま。

 

ややこしいのは、「第三霊性密度」を「次元」と言ってしまうと、これが「三次元」となり、数学的に言うところの「3次元」とちょうど重なり、区別がつかなくなってしまうだけでなく、英語の「Dimension」も「Density」も共に頭文字が「D」ですから、同じ「3D」と表記される場合があるのです。

 

そうしますと、「はて、3次元から5次元にジャンプするとはどういう意味なのだろうか?」「5次元世界とは何なのか?」という話になり、まるでワケが分からなくなってしまうのです。たまたま、そういうものが一致したために、多くの人に混乱を与えてしまっているのです。ということで、今日、その点を解説いたしました。

 

では、「霊性密度」上、なぜ四番めを超えるのか、また超えなくてはならないかと言いますと、半霊半物質界である「第四霊性密度」というのは、いわゆる魑魅魍魎がいる世界なのです。地上に思いを残して死んだ魂や、悪意を持った霊たちがウジャウジャいる世界です。オカルティックなことに興味を持ってはダメだよ、というのはそこです。興味を持った途端、実は、その波動の領域に捕まっているのです。

 

すると、その領域にいるタチの良くない霊たちが、「神」の名を語っていろんなことを伝えて来るのです。それはみな、人間を不安と恐怖と混乱に陥れるためのもので、その理屈を知らない霊媒が、それをそのまま下ろしてしまうのです。人間というのは、残念ながら、宇宙の「真理」を求める人よりも、恐怖の「予言」に興味を抱く人の方が圧倒的に多い。そこで、需要と供給が一致するというわけです。

 

「第四霊性密度」の領域を怖れる必要は、いささかもないのですが(むしろ怖れない方がいい)、オカルティックな興味を抱き続けている限り、アセンションすることは不可能です。なぜなら、それ以上には、自分の波動が(振動数が)上がらないということですから。ここが盲点であり、この「第四霊性密度」の川を渡るということが至難の技なのです。

 

と、以上が前置きです。う〜ん、ずいぶん長い前置きになってしまいましたが、今日お話ししたいことは、別のことなのです。これも以前に書いたことがあると思いますが、今この時期にアセンションすることが運命づけられているのは、実は人間ではなく、地球なのです。地球のアセンションというものが、地球の誕生時から計画されていて、そのタイミングに、既に入ったということ申し上げたいのです。

 

地球というのは、宇宙的に見てどういう惑星であったかと言いますと、「愛の惑星」だったのです。そう聞くと、何か素晴らしい星のように思うでしょうが(実際、ある意味で素晴らしいのですが)、もう少し正確に言うと、「愛を学ぶための惑星」でした。「愛を学ぶための惑星」ということは、裏を返せば、未だ「愛」を知らないレベルの、霊的に低い星だったということです。

 

地球人というのは、私を含めてみな、霊的レベルが低い「魂」が集まっているのであり、この惑星の上に誕生することで、「愛」を学習する機会を与えられたということです。そのために、「分離」意識の非常に強い、エゴと闘争が闊歩する惑星が、太陽系の中に用意されたということなのです。一種の愛のムチと言いますか、実地体験して学びなさいという配慮です。

 

「愛」というのは、別名キリスト精神とも言って、宇宙的に見れば当たり前のものです。地球人からしますと、「愛」はホットな感じがすると思いますが、むしろクールなものです。なぜなら、それは「法則」ですから。ところが地球人は、これに「情」をつけて、「愛情」にしてしまうものですから、ホットな感じになるのです。しかし「愛情」というものは、よく見れば、煩悩そのものなのです。

 

憎悪や支配的感情よりは、「愛情」の方が一歩進んではいます。しかし、家族愛とか、民族愛とか、愛国とか、限定されたものに「愛情」を向けますと、まかり間違えば、それ以外は敵視する、排斥するということになりかねません。そこを超えて、隣人愛、博愛、全地球愛、全宇宙愛となって行けば、本当のキリスト精神に到達するのです。しかしながら、人間はなかなかそこに到達できません。

 

到達できない主原因は、前回のブログで述べました。地球のアセンションというのは、地球という惑星が、「第三霊性密度」から「第五霊性密度」にジャンプする時期にいよいよ入ったということ。それはどういうことかと言いますと、地球が「愛を学ぶための惑星」としての役割を、これで終了するということです。そして、もっと霊性の高い星へと生まれ変わる時がやって来たということです。

 

*正確に言えば、既に60年ほど前から移行期に入っており、その前半の最終章への扉が開いたという段階です。

 

さて、これから書くことを、次の点を頭に刻み込んだ上で、聞いてください。どれもみな言い古されたことですが。

・真の宇宙には、時間も空間もないのだということ

・人間の本質は「霊」にあり、肉体の消滅後も「霊」は生き続けるということ

・地上世界は、そこでしか出来ない体験をするためのものであり、霊的世界から見れば幻に過ぎないのだということ

 

この言い古された真理を、頭で理解するだけでなく、心底そうだなぁと思えるようになるまでには、長い時間がかかるかも知れません。けれども、これを前提とした上で、次にする話を聞くのと、知らないで聞くのとでは、受け取り方がまるで違って来てしまうことでしょう。

 

以上を頭に刻み込んでいただいた上で、地球がアセンションするとはどういうことかと言いますと、この地球のアセンション時期に合わせて、アセンション出来なかった「魂」は、アセンション後の地球には、もはや居られなくなるということを意味します。惑星地球からは一掃されるということです。地球に輪廻転生して来ることも、もはや出来なくなるということです。つまり、この機会が、地球学校におけるラストチャンスということになります。

 

また、これも言い古されたことですが(言い古されたということは、万事「神」のご計画どおり進んでいるという証明でもありますが)、アセンションまでの途中には、地球に大変革が起こるということです。いわゆる「浄化」です。新しいものを生み出す前の産みの苦しみの時期です。そして、これも以前に書きましたが、「浄化」とは、カルマを受けることを意味します。

 

受けることによって、「浄化」が為されるのです。個人にとっても、人類全体にとってもそれは同じです。そして、より広範囲なカルマの方が優先されますから、人類全体で作って来たカルマは、人類全体で受けることになります。このカルマの「浄化」から、自分だけ逃れて助かろうと思ってもそうは参りません。そもそも「助かる」ということが、地上的な欲であり、宇宙的には最初から全部の「魂」は救われているのです。

 

賢明なみなさんは、今後の数十年をどう過ごしていけばよいか、既にお解りでしょう。いつも言っている通りです。素直に、元気で、朗らかに、周囲に親切を尽くして生きなさい。もはや、個人的な悩みがどうのこうのと言っている段階ではないのです。個人的なカルマ、社会的・政治的なカルマ、地球環境的なカルマは全部一直線に繋がっているのです。そのことに思いを馳せなさい。じっくり瞑想してみなさい。

 

人類の集合意識とは、一人ひとりの意識の集合体です。あなたの意識もそこに影響を与えています。この機会を、ワープ航法のように使って、自分がアセンションするためのチャンスとしてください。

 

既に、アセンション後の次の人類(第五原人種)の先遣隊が50年ほど前からポツポツと誕生し、各地で成長しています。あなたもそのお一人かも知れません。この人たちが、次の地球の礎(いしずえ)を創ることになっています。今日のこのメッセージは、そういう「魂」にリーチすることを目的に書かれました。役割を思い出していただくためです。

 

一方で今、旧人類の、エゴを剥き出しにする人々の活動が、一層エスカレートしています。この最終段階に現出する二極化現象も、言い古された預言です。これは彼らの危機意識の顕れとも取れますが、より長い視点から見れば、アセンション前の「浄化」を促進させてくれているとも言えるのです。彼らも、そうやって「神」のご計画に参加しているのです。皮肉なことですが。

 

ということで、みなさんには、この地球のアセンションの機会を、ぜひ上手に使っていただきたいと思います。

人類支配の構造と、支配からの脱却

地球の未来は、今ある人々の意識の転換に掛かっています。今ある人々が、次代の社会基盤と環境を創り上げるのであり、次世代の人々の価値観や行動パターンをも左右してゆくのです。今ある我々も、前の世代が創り上げたそれらの影響を多分に受けて今あるのです。けれども、人々は、目の前の瑣末な変化のことに忙しく、かつ自分のことだけで精一杯なために、こうした長期的な視野にはなかなか立てません。

 

ところが、超長期的な視野に立って、人類の行く末を考え、実現に向けて代々行動し続けて来た少数の人たちがいるのです。それが「闇の支配者」です。「えっ、闇の支配者? 何それ?」と、初めて聞く人は、きっと思われるでしょう。ジョージ・アダムスキーは、彼らをシャドウ・グループと呼んでいました。皮肉なことに、人類の未来を真剣に考えて来た人たちは、地上においては、支配者が優勢だったのです。

 

このブログでは、しばしば洗脳とか、奴隷というちょっと過激な言葉を使っています。違和感を持たれる方もいらっしゃるでしょうし、冗談のように受け取っておられる方もいらっしゃるかも知れません。けれども、洗脳状態にある時には、人はそれが洗脳だとは気づかないものです。また、現代の奴隷制度は、かつてのような分かり易さを見せません。民主主義の名のもとに構築され、人々が、自ら進んで奴隷になるように仕立てられているのです。

 

支配の構造が見えにくいのは、一つにはそれが多段階になっていて、自分の所属領域以外の上下のことが分かりにくいということがあります。これに加え、この多段階構造が、社会システムとして是認されている。人々から当然視されていて、もはや誰も疑問に思わない、という面があるのです。つまり、社会システム自体が、巨大な「洗脳」システムを構成しているのです。

 

政府は国民を統率して当然。中央銀行は金融を操作して当然。経団連は経済界を仕切って当然。資本家は企業を売買して当然。メディアはニュースを流して当然。学校は生徒を教育して当然。医者が薬を出すのは当然。貧乏よりはお金持ちの方がよいのは当然。人間に優劣があるのは当然。と、みな思い込んでいる。思い込まされているとはよもや気がつきません。

 

そして宗教までもが、教祖、教主を頂点にピラミッド構造を作り、信者を支配しているのです。スピリチュアル業界だって、資格制度や家元制度を作り、高額の受講料の見返りにありがたい何かをお授けするといったことをやっている。これらの一体どこに、「魂」の平等があると言うのでしょうか? 神の下での、普遍的「自由」があると言うのでしょうか?

 

みんな、自ら進んで、束縛され、池に飛び込むように、支配される構造に飛び込んで行っている。そして、そのことに全く気がついていない。これが、実に、地球人が背負っている不幸の、大本なのです。自分で自分を、また自分たちで自分たちを、不幸に追い込んでいるということにちっとも気づかない。そこで、何度も何度も、同じカルマをグルグルと廻り続けているわけです。

 

だから、言うのです。地球の未来は、今ある人々の、意識の転換に掛かっていると。目覚めるのか、目覚めないのか。さあ、どっちに行くのだ。地球人は、もう一度、水没することを選ぶのか。

 

支配の構造が見えにくいのには、もう一つ理由があります。表の世界が多段階構造になっているだけではなく、その裏に隠れた世界もまた、多段階になっているのです。あなたがもし、マスコミのニュースを全面的に信じているとしたら、この構造は絶対に見えません。日本人の8割は未だマスコミを信じていますが、マスコが流すニュースなど、支配層による集団催眠ツールに過ぎません。

 

では、マスコミの中にいる人たちはそのことを解っているのでしょうか。中には解っている人もいるでしょうが、大多数の人たちは、全体構造を知らずに、それが自分の役割だと信じてやっているのです。自分の所属領域以外の構造は知らないのです。同様に、銀行に務める人も、病院に務める人も、学校に務める人も、自分がやっていることが正しいことだと思ってみなやっているのです。

 

けれども、マスコミが流しているニュースの裏には、大多数の人が知らない、隠れた世界というものがあるのです。しかもこの裏は、一段階では終わりません。裏の裏に影があり、影の奥に闇がある。そして闇のさらに奥には、魔があるのです。つまり、表←裏←影←闇←魔、という多段階の支配構造になっていて、最後は霊界にまで繋がっているのです。

 

スピリチュアルなことに関心のある方なら、ハイアラーキという言葉をお聞きになったことがあるでしょう。これは霊的な高所のことを指しています。このハイアラーキとヒエラルキー(ヒエラルヒー)とは同じ意味なのです。前者が英語、後者がドイツ語です。ヒエラルキー(ピラミッド構造)というのは、結局、霊界の階層構造を(宗教が先ず真似をして)地上にも当て嵌め、広がっていった構造なのです。

 

そしてこれも、表の世界と同様、表しか知らない人、裏も知っている人、影まで知っている人、闇まで知っている人、と段々少なくなっていき、魔まで知っている人となると、もう殆どいない。皆無に近い。すると、どういうことが起こるでしょうか。表しか知らない人にとっては、影の話は眉唾ものに見え、闇の話はトンデモ話に聞こえ、魔の話をしたら狂人扱いされてしまうことでしょう。

 

今、地球の転換期に際して、宇宙から強い光が当たるようになって来たことによって、今まで隠されていた影や闇が、表にどんどん炙り出されて来ています。そのため、これを語る人が多くなって来ています。しかし、それを語る人も、各階層の領域内で知っているものを語っているので、聞かされる方としては、多層階の断片的な情報をパッチワークしているような混乱した状態にあります。

 

こうした、今まで知らなかった支配の構造について知識を得ることは、強力な洗脳下にある現在の支配状況から脱出する糸口にはなります。このような情報は、今後もますます増え続けるでしょう。けれども、みなさんにお願いしたいのは、そこにあまり夢中にならないで頂きたいということです。

 

重要なのは、そこを暴くことではありません。ましてや影や闇の勢力に対して、報復をすることでもありません。一体どうして、人類がごく少数の者に支配されてしまうのか、という点です。そこに気づきがなければ、地球人としての進歩はありませんし、この構造はこれからも変わらずにずっと続くことになります。

 

大多数のみなさんは、「波動」というものを知覚できません。「波動」が何かということをきちんと説明しようとすると長くなってしまうので、ここではひとまず「思念」のエネルギーだと捉えてください。思いというものは、目には見えませんが塊りを創るのです。この思念エネルギーは、人からも、言葉からも、書かれたものからも、作られた物からも出ています。

 

敏感な人は、それをキャッチすることが出来ます。これは、生来、敏感な人もおられますが、訓練によって高めることが可能です。その時に、いわゆる「低い波動」というものは、ある種の気持ち悪さや、吐き気や、居たたまれなさ、肌を突き刺すような感じ、痛みなどとして知覚されます。ですから、波動が分かる人の前で「嘘」をつくことは出来ません。全部、見抜かれてしまいます。

 

*そのことを知らずに、人間恐怖症に陥った、自分は病気だ、社会不適合者、劣等者、無能者だと思い込んで(また周囲からもそういうレッテルを貼られて)悩んでいる魂がたくさんいます。かつての私がそうでした。人間社会は粗雑な波動で満ち溢れているので、それらをやり過ごす術を身につけるまでは、なかなか大変です。困っている方は相談してください。

 

さて、そうした時に、闇の支配者の存在を暴こうとして頑張っている人たちの多くからは、残念なことに、非常に「低い波動」が出ているのです。その理由は、この方たちが激しい「闘争心」を燃やしていることにあります。実に、ここが大切な点です。恨みや闘争心は、最も低い波動を出します。ですから、「闇」に対抗しようとして「正義」の戦いを主張していることが、逆に「魔」の格好の餌食になってしまっているということなのです。

 

霊能を自称する人たちの中には、アシュタール・コマンドとか、銀河連邦の名を持ち出して、白対黒、善が悪を叩くという図式を強調する人たちがおられます。ですが、高次元の存在たちが、地上の人間に対して、このような闘争を持ちかけて来ることは絶対にありません。なぜなら、その元は、一者ですから。一者であるということをよ〜く知っていますから。すべては一つなのです。

 

なにゆえ、自分で自分に脅威を煽る必要があるでしょう? なにゆえ、自分で自分を引っ叩かせる必要があるでしょう? このような馬鹿げた話を持ち出すのは、低次元の「魔」の存在の仕業だということに気づいてください。そのようなものに引っ掛からないように。光あるところ影あり、影あるところ必ず光あり。両者はつねにセットなのです。互いがあるからこそ、互いを認識できるのです。

 

ここで、北風と太陽の寓話を思い出してください。「闇」に、「闘争心」という「闇」をぶつければ、「闇」を太らせるだけなのです。「闇」を溶かすことが出来るのは、「光」しかありません。「光」を当てれば「闇」は消えるのです。この理屈を解ってください。人類が、これから乗り越えなければならない進化は、その点です。闘争で、闘争に終止符を打つことは出来ません。終わらせられるのは「愛」だけなのです。

 

実にここが、(簡単なことではあるのですが)人類にとっては大いなる飛躍です。今まで、何万年かかっても、どうしても成し得なかったのですからね。支配の階層構造という面だけではなく、人間は、もっと心理面のメカニズムに眼を向けるべきです。むしろ、こらに注目した方が、大ジャンプが果たせます。いくら階層構造に踏み込んで行っても、ラビリンスに迷い込んでしまいかねませんから。

 

なぜ、支配者が存在するのか? それは、彼らなりの One World への希求なのです。One World ですから、驚くなかれ Oneness への帰還という「魂」の基本欲求に沿っているのです。ところが、その為の方策が真反対を行こうとしているところが違う。多様性の認め合いによる Oneness ではなく、一部選民がゴイム(被支配者)を平定する Oneness を思い描き、愛による統合ではなく、支配による統合を目指す。

 

それは、その奥を覗けば、実に単純な話なのですが、「魂」の個別化、つまり一者から「分離」したことを、「愛」の学習のため(再統合)と捉えるのか、それとも、我ら選民による「支配」をすべき(分離意識の自己満足を追求する)と捉えるかの違いなのです。ですから、この支配構造というものが、表、裏、影、闇、魔と、霊界にまで一直線でつながっているというわけなのです。

 

さてここで、「支配者」のつもりになってみてください。あなたに操られる人たちが、もしも一人も居なかったとしたら、つまり全員がそっぽを向いてしまったとしたら、あなたはどんな気がするでしょうか? 幼稚園で、あなたは他の子たち全員を従えたい。でも誰も見向きもしてくれないとなったら、きっと、寂しい思いをするのではないでしょうか?

 

つまり、支配者だって、自分という存在に対するよき理解者を求めているのです。その理解者とは誰なのか。自分に操られてくれる人です。ですから、「支配」という構造を、心理面から逆に見ますと、「操られる心」「操られたい心」が、「支配」を創り出しているのだということが判るのです。この点で、支配者と被支配者は、持ちつ持たれつの関係を演じているのです。

 

人類が、今、気がつかなければならない点はそこです。先の大戦でも、戦後になってから、国に騙されたと言う人は多かったのです。けれども、操られる心理が多段階に構成されることによって、全体の「支配」構造が成り立っていたという点に注目してください。操られる者を操っている者も、その上から操られているのです。そしてその者も、また上から操られている。

 

こうした結果、悲劇が、いつもそのヒエラルキーの下部にいる者たちに集中するのです。ヒエラルキーの最頂部付近にいる人たちは、自ら戦場に行ったりはしません。自分で銃を持って戦ったりもしません。人々を操っているだけです。この多段階構造は、責任の所在を曖昧にする効果をも持ち、それゆえ最頂部にいる人たちは、形勢が悪くなると、最後は責任のなすり合いとなり、仲間割れを起こしてしまいます。

 

先の大戦後も、上層部で生き残った人たちの中には、米国の工作員にあっさり転向して、何食わぬ顔で政治経済の重鎮に収まった人が何人もいます。彼らは、脅威を煽り、防衛を訴え、盛んに「国家主義」を主張しますが、それらはみな人を操るための方便に過ぎません。そこに騙されてはいけません。本質は、どこまでもエゴにありますから、国民のことなど少しも考えてはいないのです。

 

ここで、繰り返しになりますが、だからと言って、そういう人たちに反撃を喰らわそうとしてはなりません。彼らもまた操られているのです。でも、あまりにもエゴが強過ぎて、そのことに気づく機会すら持てないのです。十字架に架けられたイエスが、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか、自分でもわからないのです。」と語った真意というのは、そこにあります。

 

それに、「闘争心」を燃やすことは、その人にとってもよくありません。顔つきが悪くなりますし、何よりその人の身体細胞を傷つけます。「あいつをやっつけろ!」という旗を立てて振り回せば、同じ思いの人々が惹かれて集まって来ます。すると、共鳴現象が生じて、その場の「闘争心」を高め合い、波動的には低め合い、身体細胞をますます傷つけて行くことになってしまうのです。

 

それよりも、なぜ、そのような人物を見抜けないのか。後になってから、騙されていたと言うのか。エゴの塊のような人物たちに、歴史上、大衆が何度も何度も操られ続けてしまうのか。という根本に眼を向けなければ、悲劇はこの先も無くなりませんし、人類の進歩もありません。

 

私たち一人ひとりの心の中には、誰にでも、「分離」意識と、「合一」意識が同居しています。ただ、その割合が違うというだけです。今ここで、「分離」意識を黒で、「合一」意識を白で表しましょう。支配欲に取り憑かれた人というのは、黒色が心の大部分を占めるに至っているのです。でも、真っ黒けということはありません。たとえ僅かでも、白部分は必ず残っています。

 

この限りなく真っ黒けに近い人物が、脅威や、国家主義や、防衛や、監視の必要性を訴えかけます。すると、同じように黒の割合の多い人たちが「そうだ、そうだ」と共鳴して、波動の法則によって惹き付けられるのです。このようにして「思念」の塊りが出来ると、白黒半々くらいの人たちの黒部分も刺激され、それを膨らませて行く人たちが出てきます。こうして、操られる方向性が決まるのです。

 

次の段階に入りますと、勢いを得た黒グループは、法律や社会システムを変えて、大衆操作へと突き進みます。すると、白の割合が多い人たちにまで効力が及ぶようになり、力づくでの支配体制がここに完成するのです。なぜ無意味な戦争が繰り返されるのか、なぜ無辜(むこ)の人を殺戮する悲劇が終わらないのか、といった根本問題は、複雑なように見えて、すべてはここに原因があるのです。

 

つまり、人々が、自分の中に潜在する「分離」意識を、誤用してしまった結果です。なぜ誤用してしまうのでしょうか? 無智だからです。宇宙の法則(真理)を知らないからです。愛に対する確信、平和というものへの確信がないからです。攻撃される恐怖が捨てられないからです。友愛、尊重、平等よりも、支配、差別、優越意識の方が気持ちがいい、と感じる人たちが地球にはまだまだ多いからです。

 

ですから、この心理操作に気づく人が増えて、容易には操られない人が多数を占めれば、支配の多重構造であるところの、裏、影、闇、魔と言うものの存在をたとえ知らなくても、人類は、永く続いた支配から脱却できるのです。そこで、あなたにはその先鞭となっていただきたいのです。こうして出会ったのも縁。あなたには、光への道を進む勇気を持って欲しい。

 

この道は楽ではありません。揶揄、嘲笑、蔑み、場合によっては、投獄や処刑までも覚悟しなければなりません。自分の中に未だ眠る、闘争意識も、被害者意識も、優越意識も、全部捨ててしまわなければ、光の道には入れない。「狭き門より入れ」とはこれです。しかしあなたは、ご自分の役割を誓って、この世に誕生して来られた筈です。今、それを思い出して欲しいのです。

 

あなたが、ご自分を高めて、光のバイブレーションを出せば、周囲はその影響を受けます。そのようにして影響を受けた人が、また自分の周囲を明るく変えます。そうやって、人類全体が変わる。支配の構造が終わる。その一人に、あなたにもなって欲しい。愛の宣士レインボーマンになっていただきたいのです。

生命の成り立ちへの誤解とは?

8月13日に掲載の『個人のカルマと人類のカルマ』に関して、次のようなご質問をいただきましたので、以下に回答いたします。

 

Q.これまで人類が積み重ねてきたカルマには大きく三つがあり、一つは「富への執着」、二つめは「他者支配への欲望」、そして三つめが「生命の成り立ちへの誤解」という記述がありましたが、三番めの意味するところについて、もう少し詳しく教えてください。

 

A.ここで挙げた三つは、強いて分ければということであって、元をたどればみんな同じであり、全てが人間のエゴに起因しています。しかしそのエゴも、なぜそれが生じているかと言えば、人類の創生に関係した根源的な問題にまで辿り着くのです。それは、一人ひとりがみな独立した「魂」であるということ。そして、そこから発した「分離」と言う意識の、行使の方向性の誤りにあるのです。

 

一人ひとりの「魂」は、みな一者から生じました。この一者を、人類は「創造主」とか「神」と呼び習わしました。ですから、これを突き詰めれば、自然と、私の中には「神」が宿っているということになるのです。そして、すべての人にもそれが言えるわけですから、人類はみな兄弟ということも解ります。このようにして、「分離」を起点として、再び一者に還って行くことが、地球における「愛」の学習となっているのです。

 

つまり、一者から「分かれた」ということは、人間に、「自己とそれ以外」というものの、両方の『認識』を育むに至ったのです。バラバラに「分かれた」からこそ、存在の多様性というものを知ることができ、存在の多様性があるからこそ、「愛」の学習ができ、そして、これらの仕組みを創った宇宙の創造主についての思索も同時に可能となったのです。

 

しかし、この肝心な点を、永らく人類は理解して来ませんでした。いま言ったような説明の仕方を受けたことが、これまで殆どないのです。宗教ですら、間違ったことを伝え続けて来ました。その結果、「分離」意識を、優劣、支配、排斥、闘争という、「愛」とは真逆のベクトル方向で発達させ、ひたすら行使し続けて来たのです。しかもこの逆ベクトルが、未だに人間社会では賞賛されているという状態です。

 

さて、ご質問の「生命の成り立ちへの誤解」という点ですが、確かに、三つの中ではこの点はあまり語られて来ませんでした。しかし逆に言えば、この点に関しては、それくらい逆ベクトルを向いていることへの認識が薄いということでもあります。「富への執着」や「他者支配への欲望」が、なんとなく「いけないことだなぁ」というのは解る。でも「生命の成り立ちへの誤解」とはどういうことなのか?

 

これは、このブログ上で繰り返し語って来た「生命」というものと、今の人類全般が考えている「生命」というもののギャップを考えていただければ、自ずと解ることですが、ひとことで言えば、今の地球人類が考える「生命」の認識は、非常に狭い概念に留まっているということです。それは、適用範囲ということにおいても、また時間概念においてもです。

 

今まで繰り返し語って来たのは、「生命」とは「宇宙」の代名詞であるということ。「宇宙」の代名詞には他にもたくさんあります。宇宙とは「愛」である。宇宙とは「エネルギー」である。宇宙とは「ヴァイブレーション」である。宇宙とは「智慧」である。宇宙とは「無常」である。宇宙とは「永遠」である。これらはいずれも正しく、一つのものを、それぞれ別の機能面から見た認識なのです。

 

その中に、「生命」というものもあるのです。「生命」とは何か? 「宇宙」そのものが「生命」なのだということ。これが解れば、「生命」の永遠も、循環も、みな支え合っていることも、進化ということも、なぜ愛なのかということも解る。ところが、この根本を、地球人類はまるで解っていないのです。「生命」を持つ存在は限られており、誕生と死があると思っているのです。

 

しかし、そうではありません。鉱物にだって、水にだって、空気にだって、「生命」はある。みなさんがそう認識していないだけであって、全てに「生命」があるのです。私が、地上で言うところの死を迎えたとしましょう。地面に放ったらかしにしておけば、肉の大半は獣や鳥に喰われ、残ったものも土に返って、それを栄養分としてそのうちそこに草が生えるでしょう。そのようにして「生命」は繋がれ、廻っているのです。

 

意識も、肉体と一緒に脱ぎ捨てる部分もありますが、死によって全部が消滅するわけじゃない。感情面や体験によって認識したことはカルマとなり、霊界に戻ってもそれを所持し続けます。そして、そのカルマを刈り取るために、また地上に生まれ変わるのです。このようにして「魂」の旅は続くのです。物質的にも、また意識という点においても、失われるものは何もないのです。「生命」は永遠なのです。

 

ところが、みなさんにはそれが解らない。いいえ、深いところでは解っているし、7歳位まではみな記憶していたのですが、大人になってしまうと、もう容易には思い出せない。そして、それと入れ替わりに、地上の論理を信じるようになって行くのです。死後の世界などない。死んだら無だ。生きているうちが花なのさ。だから、他人のことなど知ったこっちゃ無い。己の欲望を第一に生きるんだ。

 

*周囲に小ちゃな子がいたら「あなたはどうして生まれて来たの?」と訊いてみてください。ちゃんと説明しくれる子がいますよ。

 

この、「生きているうちが花」という捉え方、心臓が動いて息をしている間だけを「生命」と捉える考え方が、近年になって急速に拡大しました。昭和30年頃までは、亡くなる人の8割は自宅で息を引き取り、病院で死ぬ人は僅かでした。しかし今は、逆に8割の人が病院で亡くなります。そこでは、1分1秒でも長く生存していることをよしとする価値観が、暗黙の了解として、医師、患者、家族の間に出来上がっているのです。

 

これを読んでくださっているみなさんに言っておきますが、人間は、死のプロセスに入りますと、それ相応の準備を始めます。それは、苦痛を無くして、順調に霊界に帰還して行けるようにと、予め人間にプログラムされた道程なのです。ところが、1分1秒でも長く生存していることをよしとする現代の医療体制が、このプログラムの自然な進行を妨害し、却って死に逝く人に苦痛を与えているのです。

 

そして、死のプロセスや、死後世界のことを何も知らない無智な人々が、この、まさに道程にある「死に逝く人」の言動を見て、それを理解できずに、譫妄(せんもう)などという言葉を与えては精神障害扱いしている有様なのです。そして、いよいよ息が途切れると、待ってましたとばかりに葬式ビジネスが動き始め、型通りに葬儀が行われ、型通りに僧侶がお経を唱え、型通りに参列者がお悔やみを述べご焼香して終わりとなるのです。

 

これのどこに、生命の尊厳があるでしょうか? 誰もが、死を出来るだけ遠ざけようとする。誰もが、出来るだけ死に向き合わないでおこうとする。そして死を、専門家と称するビジネスにアウトソーシングして、総てお任せしてしまう。己の命を‥‥。いいですか。死に向き合わないということは、生にも真剣に向き合わないということなんですよ。せっかくの機会を、人間はいったい何をやっているのか。

 

わずか半世紀前には、殆どの人が持っていた「寿命が尽きるまでは、精一杯生きさせていただこう」といった慎ましやかさはとうに失われ、今や1分1秒でも長生きすることに、誰もが血眼になっています。そして、「生命」の本当の意味というものを知らないから、傲慢な人間たちの中には、自分たちが「生命」をコントロールすることが出来ると思い始め、これを実行に移す人が出て来ました。

 

臓器移植、遺伝子操作、クローン技術、万能細胞といった先端技術が注目を浴び、夢の医療の実現といった言い方もされています。これらにスポットライトが当たるのは、そこにビジネスが絡んでいるからなのですが、このようにして、知らず知らずのうちに、人間の価値観がさらに塗り替えられて行こうとしているのです。今のこの進展状況は、アトランティス末期に起きたこととそっくりです。

 

アトランティス文明は、紀元前20万年前くらいから2万年前くらいまで続きました。最初は、Oneness を体現した生命体が住んでいたのですが(それゆえ、永く続いたのですが)、B.C.5万年ほどからアトランティス人たちにエゴが芽生え、次第に堕落し始め、科学秘術の誤用によって大地震と津波を引き起こし、遂には大陸もろとも水没してしまったのです。その元あった海域に「Atlantic Ocean(大西洋)」の名が付けられています。

 

今、世界はそれとそっくりの状況を辿りつつあります。これは、1910年頃からアメリカ合衆国を中心にしてアトランティス人の生まれ変わりが多くなり、これらの「魂」をもつ人々によって、アトランティス人のカルマの清算であるところの辿り直しが、現在進行中であるためです。それゆえ、核爆弾も、武力による世界支配も、個人主義も、グリード(強欲)も、退廃も、みなアメリカ発によって世界に広がっているのです。

 

*世界各地で大規模な水害が多発しているのは、つまるところ、このアトランティスの辿り直しが、末期の段階に入り、カルマの清算が現れ出ているということです。結局、水というのは、浄化作用ですから。

 

日本人には、古来より、循環的な生命論や、自然との調和的生き方が、代々備わっていたのですが、アメリカによる戦後70年間に及ぶ植民地支配によって、このような思想は駆逐され、世代も交代し、すっかりアメリカナイズされた価値観に置き換わってしまいました。それは、アメリカ発のアトランティスのカルマが、東へ東へと廻って、東の端の日本で最終局面を迎えるに至ったということです。

 

地球人類の「生命の成り立ちへの誤解」という面に関しては、もう一つ大きな要因があります。それは、『創世記』の第1章26節、27節にある次の文言を、西洋人が誤って解釈したことによります。西洋文明の根源にあるものは、つまるところ、旧約、新約の『聖書』なのです。

 

1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地を這うすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 

『聖書』に記述されたこの文言から、二つの重大な誤解が生じました。一つは、人間は神に似せて創られたのだから、神の姿は人間に似ているはずだと、逆に捉えたのです。つまり、「神」を自分の外側に置いて、人格神のように考えたのです。西洋の物語に登場する「神」が、しばしば白い顎鬚を生やし、杖をついたお爺さんに描かれているのはその為です。

 

しかし、真実はそうではありません。ヘルメスが「下なるものは上なるもののごとく、上なるものは下なるものの如し」と言ったように、マクロコスモス(大宇宙=神)とミクロコスモス(小宇宙=人間)とは、同じホロニック構造にあるということが、その意味なのです。解りやすく言えば、共に、物質界と霊界とをブリッジする多次元的存在だということです。(う〜ん、あんまり解りやすくなかったかな)

 

もう一つの誤解は、神が、人間に「地球上の他の生命存在の支配権を与えた」という部分です。これに加えて、人間は神の似姿に創られた特別な存在なのだから、自然の王、生命の王として振舞ってもよいのだと解釈したのです。これによって、西洋人の中には、自然は人間の為に供せられるべきものだ、人間は自然に対し何をしてもよいのだ、という傲慢が生じたのです。

 

しかしこれも、マクロコスモスとミクロコスモスのホロニック構造を考えれば、それが誤解であることはすぐに解るはずです。マクロコスモスであるところの「神」は、確かに全宇宙を支配しています。しかしその「神」が、我欲のために、宇宙の生命を好き勝手にいじるでしょうか? いったい何のために? 自分が創造主なのにね。結局、西洋人たちは「支配」というものを誤って捉えているのです。

 

人間にとって、地球とは、生存を保障してくれる環境です。地球は、人間にとって、いわば揺り籠なのです。その揺り籠をメチャクチャにしてしまう赤ちゃんがどこの世界にいますか? それなのに人間は、温暖化で北極の氷が溶けたと聞けば、これで北極海の油田開発が容易になるぞ、シベリア開発も出来るぞと、さらなる生存環境破壊を考え出すのですから、もうどうしようもありません。まさに点ける薬がない。人類のカルマです。

 

結局、人類は、「生命」とは何かを知らない。そこに、富と支配への欲望がひっついて、いつまで経っても懲りない、水没まで進むカルマの連鎖を、何度も繰り返しているのです。

そこで、あなたにお願いしたいのは、あなたが先ず、この「生命」の成り立ちというものへの誤解を解いて欲しいということです。

 

「生命」とは、宇宙の全てを言うのです。全てが「生命」なのであり、それが組成を変え、バトンリレーして行くことによって、全体の永遠が成り立っているのです。あなたの「生命」を支えてくれているのは、他の「生命」です。ですから、そのことに思いを馳せ、感謝して、いつも周囲のものを、慈しんで見てください。その視線が、つまるところ「愛」なのですから。

 

「生命」と「愛」とは、同義語なのです。

10月からの講座のご案内

10月より、「虹の学校」のカリキュラムを次のように変更いたします。
・月末の日曜日に開催しておりました瞑想サロン『自由宇塾』は、8月をもって終了といたしました。
・これに代わり、霊性の向上をめざす生き方講座『レインボー・セミナー』をスタートいたします。
・また、自彊術、呼吸法、アーサナ、瞑想をセットにした、フィジカル・トレーニングのワークショップ『ヨガ・クラス』もスタートします。『ヨガ・クラス』は、月に2回、土曜日の午後の開催です。

詳しくは、「虹の学校」のホームページをご覧ください。

 

〈霊性の向上をめざす生き方講座〉

 

〈ハタヨーガから瞑想まで、人間完成を目指すエクササイズ〉

 

根本にある不安感から解放されるには?

今回お話することは、以前に、パニック障害や鬱病を患った人間が書いているということを先ず頭の隅に入れてください。ですから、その苦しさや辛さが痛いほど分かります。私がそうした状態から、本当の意味で解放されるまでには十数年間を要しました。その間に、段階的に少しづつ良くなって行ったのです。ですから、いまお苦しみになっている方も希望を捨てないでください。

 

先日、月末に開催しているサロンに、16年間向精神薬を飲み続けていたという男性が来られました。その方は、「16年間飲み続けていてダメなら、17年目もダメだろう」と思ってクスリを止めた、と話されていました。この『気づきの掲示板』は、いわゆる「心の病」を患っている方をサポートする目的で書いているわけではないのですが、きっとどこかに琴線に触れる部分があるのでしょう。

 

ただ、明確に意識しているのは、純粋であるがゆえに、傷つき、疲れてしまっている友人たちに「大丈夫だよ」と言ってあげたいということです。この世が、あまりにも粗雑で、汚れていて、悪意に満ちているために、純粋であり続けようとすることは、大変な生きにくさをもたらします。でもそれを決して曲げないでいただきたいのです。それは宇宙的に見て大きな価値であり、あなたに今の時期、大切な役割があるということを示しているのです。

 

つい一週間ほど前ですが、「自分を実験に使ったんだよ」という声が入って来ました。「ああ、なるほど‥‥」と納得が行きました。生まれてこのかたの苦しい経験、お恥ずかしい体験の数々は、すべて自分を使った人体実験だったと言うのです。その時にはもちろん分らなかったのですが、おかげで、それがいま役に立っている。成功物語を語ることは出来ませんが、どぶ板人生の方はこうして共感を持って語れる。結局それが、自分の役割だったということです。

 

さて、表題のテーマは、ある方からそのような質問を受けたからなのですが、その感じというのはよ〜く解るのです。私が、パニック障害と鬱から完全に抜けられたなと思えるようになったのは、ついこの間のことです。5年前には、まだパニックを起こしていました。

 

鬱症状はかなり改善していたのですが、それでも、質問者と同じように根本にある不安感というものがどうしても拭えないのですね。それが、何かのきっかけで調子を落とした時に、マグマのように下から沸き上がって来るわけです。すると、「いけない、またパニックを起こすんじゃないか」という気に襲われるのです。この辺りのことは、経験者なら多分みな首肯されることでしょう。

 

その状態から脱した今、言えるのは、先ず、「根本にある不安から解放されるにはどうしたらよいか?」という課題の設定、そのものをやめなければいけないということです。パニックや鬱になる人というのは、どちらかというと真面目な性格で、物事をとことん追求しようとする意識が強いのです。それ自体は悪いことではないのですが、ネガティブ方向にその性質が向けられると、思わぬ落とし穴に嵌ってしまいかねません。

 

別の方でしたが、以前に「アトピーを『完治』したが、どうすればいいでしょう?」という質問を受けたことがあったのですが、そのお気持ちもよ〜く解るのです。私にもそういう時期がありましたから。でも、このように「完全」を目標にするという設定は、物事を真面目に捉える傾向の人にとっては、自分を必要以上に追い詰めてしまうという結果になりやすいのです。

 

なぜならば、自分が想い描く「完全」と、それに比してあまりにも不完全な現状とのギャップが目について気になり、真面目な人は、「自分の努力が足りない、もっともっと努力しなければダメ」だと思ってしまうのです。ところが、そうやって、いろいろ手を尽くしても、思ったような成果が見られない。そこでさらに自分を追い込んで行き、ついには精神バランスを破壊してしまうのです。

 

これは男発想が陥りやすい罠で、男は、何をするにも「目標設定と努力が不可欠」とずっとそのように教育されて育ち、それがもう体に染み付いてしまっているのです。そうではなくて、もっと女発想を見習ってください。今ここを生きるということです。レース編みをひと針ひと針、根気よくやり、今日は少し進む。明日もまた少し進む。そうやって、半年後には大きなテーブルセンターが出来ているというように。

 

「根本にある不安から解放されるには?」といった大目標は捨てて、毎日を楽しく生きる工夫をなさってみてください。そうして、1年経ち、2年経ち、3年経ちしてふと思い出し、「そう言えば、最近は不安を気にかけなくなっていたな」と気づくというのが本当のあり方です。

 

これは何度も言っていることですが、「悩みが消えない」とか「不安が消えない」というのは、意識がそこに集中しっぱなしになっているからです。《ネガティブ+否定語》という語法もダメだと、これも何度も言って来ました。例えば、「病気を治す」「戦争に反対する」といった言い方です。「不安を解消する」も同じですし、「悩みが消えない」というのは、そもそもこの語法の罠に捕まっています。

 

この語法を、自分の中で繰り返し呪文のように唱えていると、絶えずそのネガティブが潜在意識に刻み込まれることになり、ついにはその潜在意識に支配されるようになるのです。その結果、ますます悩みが深まる、ますます不安が高まる、という神経症的な段階にまで至ってしまいます。真面目で完璧を求める人は、ここでさらに自分を追い込んでしまい、鬱の深みへと陥ってしまうわけです。

 

しかし、これを何度説明しても、そのループに嵌った人というのは、それがもう習い性(クセ)になってしまい、暫くするとまた「悩みが消えない」「不安が消えない」と同じことを言って来られるのです。そこで私としても、何度でも同じことをお話しするしかありません。そこで言います。神経症的な段階にある方は、完治とか完全解消といったことを求めずに、先ずは通常の不安、通常の悩みに戻すことを目標としてください。そのような、不完全な自分を許すのです。

 

根本的不安から解放された、という人は、おそらく1パーセントもいないのではないでしょうか。殆どの人が、ちょっぴりの不安を抱えながら、日常を遣り繰りして生きているのです。これは健康問題と同じことで、今日は肩がちょっと痛いとか腰が痛いとか、お腹の調子が悪いとか言いながら、みんなウェルネス(Wellness:Health と Sick の間)を生きているのです。

 

このことを、先ず認めることが大切です。要は程度問題であり、その中で、心の爽やかさ、楽しさ、喜びを増やしていく、身体の好調を増やしていく、それがよりよく生きるということです。

ではそのためには、何を心がければ良いのでしょうか?

 

数ヶ月前ですが、サロンに来られた方が、私に向かって「自分は、これまでずっとメンター(Mentor:指導者)を探し求めていました」と仰られたのです。その時に、思わず私の口から出た言葉は、「あなたの課題は、自分にはメンターなど必要なかったんだと知ることです」でした。言った後で、(ああ、自分はなんて冷たい人間なんだろう)とも思ったのですが、幸いにその方は、その意味を直ちに理解されたのです。

 

「虹の学校」の門を叩く方は、私が手取り足取りといったことは何もしないし、縛ることもしないし、その人に代わっての判断はしてあげないし、サイキックな能力はないし、ご託宣を授けたりもしないし、何よりも権威がない(*´-`)ので、みんな呆れて早々に去って行かれます。ですが、師というものは、崇拝の対象にしてはならないのです。師は、踏み台にして、蹴飛ばして、乗り越えていくものです。

 

そうでなければ進歩というものがありません。また、そうでなければ、本物の師は喜ばれないでしょう。自分をずっと崇拝の対象に置き続けておくような師、そんな人間は師とは呼べません。宗教のダメなところはそこで、信仰の名のもとに、人間の本来の自由を奪い、教義に縛りつけ、自分で考え判断することをさせなくしてしまうのです。そして、師を乗り越えることは決して許さない。宗教の怖さはそこです。

 

「杖を持てば、もっと楽に生きられるよ」と言う。そんなものかな?と思って持ってみると、なるほど何か楽に歩ける(ような気がする)。でも暫くすると、もっといい杖があるんじゃないかなと思い始めて、杖を取っ替え引っ替えしてみる。すると、あるとき出合った人が、「そんなやり方ダメよ、浮気しちゃダメ。一つの杖をもっとギュッと強く握るのがコツよ」と教えてくれる。

 

これも、そうかなと思って一つを選んで歩き続けていると、あまりにも強く握り過ぎて、今度はポッキリ折れたらどうしようとか、失くしてしまったらどうしようという不安に駆られるようになる。そこで先の先輩に相談すると「それはあなたが、まだまだ中途半端だからよ。心がフラフラしているからそんな迷いが起こるの。もっと杖を信頼して、全体重をここに掛けるの!」と言われてしまう。

 

あな恐ろしや。そして10年もすると、当たり前のことを、この人はすっかり忘れてしまうのです。

人間は、杖なしでも歩けるということを。

杖なしで、親の支えも振り切って、自分の足でしっかと歩き始めた日の瞬間が、この私にもあったということを。

 

あなたは叫ぶ。「杖、杖、杖をちょうだい」「私にもっとよい杖をちょうだい」「人間には杖が必要なのよ」。そして、杖なしで歩いている人を見かけると驚いて、「どうしてそんな無茶なことが出来るのよ。あなた、怖くないの? 杖を持てば一切の不安から解放されるのよ。この杖の良さがあなたには解らないの? あなたも絶対に持つべきよ!」と言う。

 

実に、これが「根本的な不安」というものの正体です。

 

頼るものを外側に求め続けているから、根本的な不安から逃れられないのです。そもそも、「頼りたい」気持ちが「不安」の裏返しです。ですが、何かに「頼りたい」人にとっては、それを失うことはもの凄い恐怖ですし、捨てることは大変な勇気を必要とします。でも、あなたは忘れてしまったでしょうが、ある日ハイハイからむっくりと立ち上がって、自分の足で歩いたのは、一体どうしてだったのでしょうか?

 

理由などありません。ただそうしたいから、そうしただけです。

その瞬間のあなたは。

ただ「魂」の命じるままに。

 

自然の中の動物たち、植物たちを見てください。杖を求めて生きているのでしょうか? 杖が無いと不安なのでしょうか? 自分が生きたいように生きているだけです。今ここ、この瞬間を、生きたいように生きているだけです。あなたが二足歩行を始めたあの日の感覚、その時の喜びを、ずっと継続して生きている。それなのに、人間だけが、それではいけないと思い始めるのです。

 

そんなことはない。断じてない。「今ここ」を生きた、その軌跡が人生になるのです。だから、喜びの瞬間々々を生き続ければ、その人の一生は喜びの人生になり、悲嘆と悩みの瞬間々々を生き続ければ、その人の一生は悲嘆と悩みの人生になるのです。さて、どちらをご希望でしょうか?

 

理想を追い求めることはよいことです。でもその理想と、今の自分とを比較して、ギャップに落胆してはなりません。理想は理想として置き、そこへ向けて走る「今」にフォーカスするのです。人間は、つねに「成ろう」としている存在です。つまり Being であることが当たり前なのです。だとしたら、これをもっと積極的にハンドリングして行った方が、よりよく生きられるということです。

 

理想の地に向かって、あなたは自転車に乗って走り出します。その時に、ペダルを漕ぎ続けるのを決して止めないこと。ペダルを漕ぐのをやめれば、自転車はフラつきますし、もし停止してしまったら、足を着かない限りパタンと倒れてしまいます。ですから、ペダルだけは漕ぎ続けること。言い知れぬ不安が沸き上がって来ている瞬間というのは、ペダルを漕ぐのを忘れてしまった時なのです。

 

ペダルを漕ぎ続けていれば、不安など忍び寄って来る隙がありません。毎日が忙しくて、不安になどなりようがありませんから。そのための一番よい方法は、「奉仕の人生をひたすら生きよう」と決めることです。一旦そう決めれば、周囲の評価など気にせず、誰に何と言われようと、己の喜びにのみ邁進できるのです。これが、持ち替えるということ。持ち替えれば、自動的に、前のものを手離しているのです。

 

そして、これが習い性になって数年した時、あなたは、ふと気づくはずです。「そう言えば、不安が消えている。いったいあれは何だったんだろう」って。