by Rainbow School
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舌禍と正直であること

「全員受け入れることはさらさらない」「排除いたします」。この言葉が波紋を呼んで、選挙戦の潮目が大きく変わってしまいましたね。そこにはやはり驕りがあったと思います。言ったご本人も、後から大いに反省したということなのですが、その反省がもし「舌禍」という面に留まっているのだとしたら、それは充分ではありません。なぜなら、人は思っていないことは表現できないのですから。

 

権力者には二種類がいて、権力そのものが欲しくて権力者になる人と、理想社会の実現のために、権力が持つ統治機構を利用しようとする人です。「権力」など、本当は社会には必要がありません。しかし残念ながら、地球人はまだそこまでは進歩していません。そのため、大勢の民衆を統治するためには、やむなく暫定的に今のような権力機構が必要となっています。

 

そうした状況下では、権力を握った者が、どれだけ真摯に民衆の奉仕者(Public Servant)として生き抜くかが問われるのです。けれども、これも残念ながら、そのように生きる人物は圧倒的に少ない。自分が奉仕者であることを忘れて、まるで王様か貴族のように振る舞う人がほとんどです。選挙公約など、今や有って無きが如し。当選後は平気で嘘をつきまくって私利私欲に邁進する。

 

「こんな人たち」発言も「排除いたします」発言も、その根底にあるのは同じ「分離」という意識です。「人は同じではない」という考え方です。確かに、全員が独立した個体であり、顔かたちも違うし、考え方も立場も境遇も主義主張もみんな違う。でも、それでもなお「みんな同じ」「全部は一つ」という確信を持つことは、先ほど言った霊的進歩の段階において、一段高い飛躍となるのです。

 

ことに、この違いが政治のトップを占める人たちの意識の根底に強くある場合、社会は大きな影響を受けます。「分離」という考え方を推し進めますと、自分と他人を分ける、自分たちの仲間と他の人たちを分ける、ひいては味方と敵を分けるという考えに行き着きます。さらには、自分たちさえ良ければいい、自分の地位や財産を守りたい、そのためには邪魔する敵をやっつけろとなって行きます。

 

これが何をもたらすかは、歴史をちょっと概観してみれば、もう明らかではありませんか? ですが人間は、本当に深いところでの反省というものをなかなかしませんし、いつも情動に突き動かされてしまうので、「あいつは敵だ」「敵をやっつけろ!」と勇ましいことを言って旗を挙げる人には、簡単に「そうだ、そうだ」と同調して、後先あまり考えずに着いて行ってしまうのです。

 

口の利き方は、もちろん慎重にあるべきです。思わず口を突いて出た言葉が、情動に左右されたものでないかを客観視してみる習慣をつけるといい。でもそれは、単に戦術とか、手練手管とか、テクニックとかという問題なのではありません。自分の本性を隠して、いくらテクニックを弄しても、それは「自分自身に嘘をつく」ということにしかなりません。

 

自分自身に嘘をつくことは、とても簡単です。場合によっては、周囲の人々や、大衆を騙すことさえも可能でしょう。でも、天(宇宙)を欺くことだけは、絶対に出来ません。なぜなら、誰もが最初から宇宙に包含された存在であり、かつ深いところでは常に宇宙意識と繋がっているからです。

 

これまで何度か、「正直に生きる」ことの大切さを語って来ました。これは、倫理的意味合いで語っているのではありません。また「嘘をつかない」という意味なのでもありません。倫理なるものは、所詮は人間が定めた基準であり、文化や時代が違えば内容も違ってしまいます。また「嘘をつかない」ということも、ダブる部分はかなりありますが、意味していることの次元が違う。

 

「正直に生きる」とは、自分の「魂(Soul)」に従うということです。自分の「魂」を裏切らないということです。それぞれの人の「魂」は、もともと一つだった宇宙意識から、分かれたピース(一片)ですから、宇宙意識の完全性を知っているのです。ですから、その「魂」の声に耳を澄まして、「魂」が喜ぶことを素直に行っていれば、それがすなわち「正直に生きる」ということなのです。

 

このようにして「正直に生きる」ことは、宇宙の真理にそのまま合致しているわけですから、自分自身の中に葛藤を起こすことがなく、従ってストレスもありません。ですから、ただただ正直に生きれば、その人は平安でハッピーに生きられるのです。

 

ところが、地球に住む人間たちは、どうもそのような生き方が嫌いなようです。「全部が一つ、一つが全部」というのが、揺るぎない「宇宙の真理」であるのに、それには耳を貸さず、他者と比べ、優劣を競い、他者を自分に従わせるために命令し支配し、逆らう者は攻撃し、粉砕することに情熱を燃やそうとする。そのどこが楽しいのでしょうか? 宇宙の不思議よりも、この人間の方がよっぽど不思議です。

 

あなた方に言っておきます。それほどまでに、他者と闘争をし、誰かを殲滅することがお望みであるのなら、あなた方は、遠からず、それを望み通りに地球規模で実現することでしょう。すでに、その集合意識の行方を、あなた方はニュースで見て知っています。でも、いよいよの時になって、「天罰だぁ!」などと言わないで下さいね。天は罰を与えないし、天に罰はありません。みんな、そうしたいと人間が望んだ結果なのですから。

 

剣を取る者は、みな剣によって滅びる」。この意味がお解りですか? 武力を持った者はその武力によって滅びる、と読めます。でもそれだけじゃない。剣を取った瞬間から、その人は、自分の「魂」を信じることを拒否してしまう、という意味なんですよ。剣の方を信じてしまうということです。それが、自分という存在が何者かを分からなくさせる。つまりはせっかくの自分(真我)を滅ぼす。

 

あなたが、ご自分の心の中に常時「剣」を抱くようになってしまったら、当然のことながら、その時点で、宇宙意識とは繋がれなくなってしまいます。そうなれば、その人の「魂」は、今世での霊性向上の機会を失うだけでなく、日常的に「心」に絶えず葛藤を抱えるようになり(なぜなら「魂」の生き方と「心」が望む生き方とが相克するので)、さらには、カルマまで積むことになります。

 

ですから、「反省」という機会(ギフト)を得た時には、「魂」のレベルにまで遡って自分を深く見つめ、自分のどこがいけなかったのかを整理し、宇宙に懺悔し、許しを請うことが大切です。それでこそ「反省」の機会を活かすことが出来ます。

 

人間、誰しも道を誤るものです。大切なことは、たとえ道を誤っても、その「反省」から学ぶことです。逃げてはなりません。成功よりも、失敗の方がより多く学べるのです。誤りに際して、そうやって、自分ときちんと向き合った時、それが本当に自分へのギフトであったことにあなたは気づくことでしょう。

 

ここで、よく知られた、『黄金律』と言われる、あの真理の言葉を改めてお伝えしておきます。

自分がしてもらいたいことを、他の人にも行いなさい

実にこれこそは、シンプルで、「宇宙の法則」をこれ以上余すことなく表した聖なる言葉です。でもこのシンプルな理想を、日常的に実践している人は、極めて稀です。たったこれだけのことが、今の人間には出来ないのです。

 

反省を、もし「舌禍」というレベルで捉えていたとしたら、せっかくの機会を活かすことは出来ません。ですから、「素直さ」が、人間にとって何よりも大切な資質なのです。それが、虚勢を張って嘘で誤魔化したり、誰か他の人のせいにしたりした日には、もうどうにもなりません。一度嘘をつけば、嘘に嘘を重ねなければならなくなり、「反省」の機会はどんどん遠ざかってしまいます。

 

後々になってから、やっと「反省」しようという気になったとしても、それまでに、多くの人を騙したり陥れて来たネガティブな行為の堆積は、いったいどうやって償うというのでしょうか?

 

社会機構の重要ポストに就く人を見る時には、出自や学歴や経歴などで判断するのではなく、ただただ、次のことだけを見てください。この人は、「自分がしてもらいたいことを、他の人にも行う」という資質を持った人であるのかどうか。

そしてあなたも、「自分がしてもらいたいことを、他の人にも行う」人であってください。

今の経済システムからの解放こそが、経済再生への道

又吉直樹さんがレギュラーを務めているEテレの番組に『オイコノミア』というのがあるのをご存知でしょうか? この奇妙なタイトルは、古代ギリシャ語の「οικονομία」から来ていて、これが後に英語の「Economy」になったということなんですね。というわけで、『オイコノミア』は、又吉さんがガイドする経済教養番組という内容になっています。

 

「οικος 」は家を意味し「νομία 」は規則・管理を意味することから、元来は「家政術(management of a house government)」の意味だったようです。英語で言う「Economy」は、これを集団的社会のマネジメントに拡大解釈して行ったんですね。ですが今、元々の意味を改めて知ることはとても重要だと思います。なぜなら、「経済」というものは、本来は家庭の幸福を願ってあったと考えられるからです。

 

日本語の「経済」という言葉も、明治期に「Economy」の訳語として使われるようになり、これが定着したということなのですが、この語は、中国由来の「經世濟民(けいせいさいみん)」<世を經(おさ)め、民を濟(すく)う>から造られたもので、「オイコノミア」と同じように、やはり「人々の幸福を追求する」という、下からの積み上げの意味合いが多分にあったと思うのです。

 

ところがどうでしょう。今はまったく違います。庶民の側には、まだ「経済」という言葉に「自分たちの暮らし向き」を仮託する意識が残っていますが、実際に動いている今の「経済」活動は、庶民を無視するどころの話ではなく、庶民の血を絞り上げる「強欲」を基本に置いて営まれています。大企業が儲かれば、その雫が中小零細企業にも滴り落ち、個人にも回るんだという理屈なのです。

 

2014年11月の衆議院選挙では、自民党が「アベノミクス解散」と言い、公明党が「デフレ脱却推進解散」と言って、与党はどちらも『経済再生』を強調して大勝しました。それを信じて投票した方もきっと多かったのではないでしょうか。でもその後、3本の矢、新3本の矢、合計6本の矢がどうなったのか、2パーセントのインフレ目標がどうなったのか、日銀の3倍ものマネーサプライがどこに消えたのか、誰も何も言わなくなったじゃありませんか。

 

有権者は、この当時のことをちゃんと思い出してみるべきです。公約を信用して投票し、公約が実現できなかったら、今度は別の人に投票する。有権者の投票行動というのは、それしか出来ないのですから。

 

国内での困った問題を、外敵を強調することで眼を逸らさせ、みんなチャラにしてしまう。これは権力者が使う常套手段です。何度も同じ手に引っ掛かってはなりません。『経済再生』のスローガンで当選し政権を担ったのであれば、有権者はその成果をちゃんと問うべきです。

 

91年にバブルが崩壊してから、すでに25年が経過しています。その間、日本経済はどんどん落ち込み、日本は借金のみを膨大な額に膨らませて来ました(これがみな、後の世代への負のプレゼントになるのです)。政府は嘘ばかりついていて、都合の悪い数字は出しませんが、日本の相対貧困率は、対米追随の成果により見事にアメリカに次ぐ第2位にまで躍進(?)しました。80年代には、「Japan as Number One」とまで言われた国がです。

 

でもこの貧困は、「見えない貧困」と言われています。なぜ見えないのでしょうか? それは「貧困」の実態が、昔と今とでは大きく異なっているからです。一昔前の「貧困」イメージはと言えば、飢餓と病気でした。ところが今はそうではありません。飢餓はむしろ肥満に変わり、病気は薬漬けに変わっている。これで解るように、現代の「貧困」とは「不足」なのではありません。良質な暮らしが営めないことなのです。

 

良質な暮らしが営めない原因は複合的です。雇用が不安定。賃金が安い。家を持たない人は家賃に多くの生活費を取られる。ダブルワークや長時間労働をしなければ生活費が稼げない。働く時間以外の時間を確保することが難しく、質の良い食事や睡眠を取ることが出来ない。コミュニティが崩壊し孤立している。伝承文化や知恵に無知。以上から、精神的な安定を維持し続けることが難しい。

 

憲法第二十五条(生存権)には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と謳われています。けれども、「文化的な最低限度の生活」というものがどういうものかは示されていませんし、憲法が制定されてからもう70年も経っているわけですから、「文化的生活」の意味を、もう一度考え直さなければならない時期にあると思います。

 

今はこれが、生活保障費というもっぱら「お金」に換算されて考えられているのですが、重要なのはそこではありません。その証拠に、災害復興で仮設住宅を作り生活費を支給しても、自殺されたりする人がいるのです。重要なのは「お金」ではありません。何らかのコミュニティに所属し、働くことを通じて、自分が役立っているという「実感」が持てることにあるのです。

 

これが、現代の「文化的な最低限度の生活」というものです。その基盤の上に立って、自分の身体をいたわり、心を平静にし、汚染されていない食料を手に入れ、手の籠った質の高い食事を作って摂り、清浄な空気を吸い、身体を動かし、自然や芸術にいそしみ、周囲の人々と和し、正直に、そして朗らかに生きることが、「良質な暮らし」を営むということです。

 

ところが、いま言った「良質な暮らし」はおろか、その前提となる基盤すらもが脅かされているのが現状の社会です。バブル崩壊から四半世紀。もういい加減、「経済成長が、人々の幸福をもたらす」という幻想を、人間は捨てるべきではないでしょうか? 今日にあっては、「経済成長」とは、一部の富者をますます金持ちにし、庶民を奴隷化することであると、気づくべきではないでしょうか?

 

そもそも、農産品にしろ工業製品にしろ、生産性は年々飛躍的に向上しているというのに、長時間労働がどうしてなくならないのでしょうか? 世の中に、物はたっぷりあるというのに、どうして貧困が拡大しているのでしょうか? おかしいとは思いませんか? 何かが決定的に間違っているとは思いませんか?

 

その直接的な理由は、労働者の賃金が(世界的規模で)抑制されているからです。生産性の向上分を、企業や投資家がみんな取っていってしまうのです。そのため、生活がギリギリ、カツカツという人がどんどん増えている。生産物は非常な勢いで増加していても、それを買える人というのは増えないのです。

 

するとどうなるでしょう。物は売れずに、常時、物余りになります。物価は下がり、限られた市場を巡って企業同士が争うものですから、力のない中小零細企業は戦いに敗れ、寡占化、独占化が進行して行きます。こうして寡占化、独占化を成し遂げた企業は、市場の支配権を握ってしまうので、賃金についても自社基準を業界スタンダードにしてしまえるのです。

 

これが、みなさんがいま見ている世界経済の動向です。そして競争が、国を超えて、全世界を同時に市場とみなす時代になりました。ファストフードにせよ、小売店チェーンにせよ、ファッションブランドにせよ、ネット通販にせよ、コンピュータにせよ、医薬品にせよ、日用雑貨品にせよ、およそありとあらゆる分野で、世界標準が生まれ、多国籍企業による寡占化、独占化が進行しています。

 

このような中で、労働者は絶望的に無力です。生産性が上がり、物は溢れかえっているというのに、貧困者が増え続けているという理由が、これなのです。つまり、今のこのシステムの基で「経済成長」を言うことは、富者をますます富ませることを意味するだけだということ。そして、全体を俯瞰してみれば、これが、人類の奴隷化、家畜化に他ならないということがお解りでしょう。

 

誰も彼もが疲れています。心を病んでいる人もいる。そうでない一部の人は憑かれている、今のこのシステムに。見えない貧困というのは、何も物理的次元だけのことではないのです。今の経済システムの裏側に存在する「強欲」の波動が、人々の精神を無意識のうちに疲れさせているのです。これこそ、もっと深刻な「見えない貧困」を社会にもたらしています。

 

この世界を支配しようと企図したグループは、人類の奴隷化と家畜化のために、「エリート」という概念を創り出しました。自分たちは表に出ずに、代わりにエリートに社会を治めさせたのです。エリートにはそれなりの報酬を与えて、かつ気分的満足を味わせる代わりに、大衆のコントロールをさせたのです。

 

そして一般人に対しては、「エリートは尊敬されるべき対象」であるという思い込みを植えつけました。これが下支えのために、教育分野にまで下され、子どもの時から優劣を競うことが奨励されていきました。間違った平等(個性を無視する)を説く一方で、自分たちの基準による優劣の判定を下したのです。そしてこの計画はまんまと成功しました。

 

今やあらゆる業界に「エリート」が存在し、一般の人々は、エリートを見ればちょっと身が竦むし、肩書きというものを非常に重んじるようになったのです。でも闇の支配者から見れば、このエリートたちも、失敗したら取り替えのきく単なる駒に過ぎないのです。当のエリートたちは、そのことを、そうなってみるまでは気づきません。

 

今までのシステムに基づく世界経済は、もう限界に近づいています。いつかは花火のように弾け飛ぶでことしょう。理由は簡単です。今のあり方が、自然の摂理、宇宙の法則に反しているからです。多様なものが互いに支え合っているのが、自然の姿です。ごく少数の者が、富の半分を独占するといういびつな姿が、そのままであり続けるわけがありません。

 

人間社会は、これまでの概念とは違う、まったく新しい「経済」の考え方に、今後早急に改めて行かなくてはなりません。それは、「強欲」から「仲良く」への転換です。もう一度、「オイコノミア」の出発点、「經世濟民」の出発点に戻るのです。「経済」は、いったい何のためにあるのか? 人類みなが幸福になるためではないのか。

 

物やサービスを買ってくれる人をとことん追い詰めてしまったら、物やサービスを売るところは無くなってしまいます。どうして人間は、いつも、ゆるやかに進む自殺の道ばかりを選択するのでしょうか。その不毛のシステムから、もう解放されるべきです。買って下さって、喜んでくれる人がいるからこそ、自分も喜べるのです。他者に為したことは自分に為したことと同じ。このシンプルな法則に気がつきましょう。

 

今までの人類を支配してきた「貪欲の法則」を、「平等の法則」に置き換えるのです。全部を平等にシェアするという考え方に、人類全体が今日から改めれば、一人一日4時間、週4日も働けば、全員が充分な生活費が得られて、かつ充分な物も得ることが出来ます。そうして残った時間を、自分の霊性の向上への学習と、楽しみに使うことができます。なぜそっちの道を選ばないのですか?

 

それだけの生産力はすでにあります。そもそも、宇宙に不足はありません。今の世の中の問題は不足ではなく、偏在にあるのです。しかも今後、AIの導入があらゆる分野で急速に進展することになります。そうなった時、問題になるのは、人間の働く場所がもうあまり残っていないということです。「働かざる者食うべからず」といった考え方は、根本から改めなくてはならなくなるでしょう。

 

これまでとは、分配の仕方を変えなくてなりません。でもその前に、人間の心が変わらなくてはどうにもなりません。お前とオレとは違うんだ。自分はエリート。皆を従える権力者である。オレの財産はオレが守らなければ。他人に奪われてなるものか。このような「分離」の概念が、極端な偏在と闘争を生み出しています。宇宙の法則は「偏在」を許しません。そうではなく、神はいつも「遍在」にあるのです。

 

どの「魂」も、根本でそのことを知っています。いま互いに殺し合うために使われている巨額のお金が、仲良くシェアすることに使われたならば、直ちに平和が実現するだけでなく、地上に天国が出現することでしょう。ですから、強欲に「心」に突き動かされるのではなく、ご自分の「魂」の声に耳を澄ましてください。そうすれば聞こえるはずです。

 

「みんな一つなんだよ」

「わたしはあなたで、あなたはわたしなんだよ」と。

選択の時 ― 選挙を前にして ―

「近ごろの世の中と来たら、物騒でイヤなニュースばかりだねぇ」こんな嘆き節が、茶飲み話で囁かれるようになったのは、20年ほど前からだったでしょうか。その当時、多くの人が「なんだかおかしい」という時代変化の雰囲気を感じ取っていたと思います。それがちょっとずつ加速されて行き、今では異常気象が当たり前になったのと同様、物騒でイヤなことだらけが当たり前の社会になってしまいました。

 

経済が停滞期に入っていたということもありますが、1997年には神戸連続児童殺傷事件、2001年6月には附属池田小事件といった世間を震撼させる猟奇的殺人事件が相次いで起こり、心に巣食う闇というものに世間の注目が集まりました。同じ年の9月にはアメリカ同時多発テロ事件、2011年には東日本大震災が起きました。そして今や、毎日、全世界でテロや暴力や猟奇的犯罪が荒れ狂っているのを我々は見ています。

 

ここで留意しなければならないのは、今の35歳以下、場合によっては40歳以下くらいの人たちは、ずーっと経済不況下の時代に生きて来たのであって、物心つく頃から、物騒でイヤな世の中しか見て来なかったということです。そして今、政府も、政治家も、投資家も、企業も、金融も、マスコミも、医者も、教育者も、宗教も、何もかもが信用できない、ということをこれら若い世代は学習しつつあります。これは表面に現れない、地底のマグマのような隠れた大変化です。

 

こうした状況下にあって、個々人の「心」は、いったいどこに落ち着き先を見つけるのでしょうか? ある人は、こんな世の中には背を向けて、自分の趣味世界に耽溺する道を選ぼうとするでしょう。安全と保証を求める人は、すでに壊れ掛けている世界で、なおエリートの道を目指そうとするかも知れません。一方で、競争に馴染めない人は、厭世的気分に深く沈み込んでしまうかも知れません。

 

そして、今の時代に見られる極めて顕著な「心」の表出として、条件反射的な他者攻撃があります。誰も彼もが、一拍置くということをせずに、ちょっとでも気にくわない奴をみつけると、すぐさま罵詈雑言を浴びせ掛けています。一国の最高指導者にしてそうなのですから、あとは右に倣えです。そうやって、自分以外の他者を貶めることによって、自分の存在意義を保とうとしているのです。

 

この意識を、拡大して「国家」概念にあてはめたものがナショナリズムです。ですから、他者攻撃の願望を心の奥に持っている人は、国家主義や愛国主義思想に簡単になびいてしまいます。けれども、今の日本で「国家主義」を標榜している人たちの大部分が、実は「国家主義」とは真逆の、そして「愛国」とは真逆の、「対米追随主義」でしかないことを彼らは知りません。

 

そして宗主国であるそのアメリカとは、民主主義の名のもとに、今なお世界を蹂躙し続け、世界中の人々を貧困と恐怖と混乱に陥れている元凶なのです。そんなアメリカに追随して来たからこそ、見習って来たからこそ、日本の相対貧困率は、遂にアメリカに次いで第2位になったのです。つまり、いま叫ばれている「愛国」とは、アメリカとの心中へのゆるやかな道です。

 

でもそんなディテイルは、彼らにとってはどうでもよいのです。自分の攻撃的感情を載せられる受け皿があればそれでいい。ですから、そもそも「国家」など一つの行政単位に過ぎない、ということを考えてみようとする余裕がありません。歴史地図帳を開けば、日本においてすら国境というものが変わって来たことは明白です。戦国時代をご覧なさい。列島内にたくさんの国があったじゃありませんか。

 

もし「愛国」を言うのなら、どうして全世界の国々を愛する「愛世界国」と言わないのでしょうか? 日本だけを愛して、隣国、周辺国には敵意を剥き出しにする。これは、我が家の家族だけを愛し、隣家や町内会には敵意を抱くということと何ら変わりがありません。自分の仲間たちだけを寵愛し、それ以外は「こんな人たち」と蔑むことと全く変わりがありません。

 

日本人が「愛国」を言うのであれば、他国にだって「愛国」があることを認めるべきだし、それを尊重すべきです。そこに至って、自分を愛するということは、他者が同様に自分を愛することを認めることであり、反対に他者を愛するということは、他者も他者を愛することが可能ということを認めることになります。そしてこれこそが、「Universal Love」であり、世界平和への唯一の道なのです。

 

「必要なのは対話ではない。圧力です!」

全世界を前にして、まったく何という愚かで恥ずかしい発言なのでしょう。

敵意を剥き出しにして来る訪問者に、あなたは玄関の扉を開けますか? 大人は、お金や肩書きや信念で目が曇っているので見抜けませんが、子どもは即座に見抜きますよ。この人、いい人か、悪い人か。地球人の気づきは、まだまだ遠い。

 

これから書くことに、お気を留める方は極く少数でしょう。きっと嘲笑される方もおられるでしょう。でも大事な大事な選択のステップです。あなた方は今後数十年のうちに、二段階のステップを踏んで気づいていかなくてはなりません。第一段階は「人類支配の構造」に関して、そして第二段階は、その奥にある「因の世界」の法則についてです。人類の覚醒は一挙には進みません。この二段階のステップとなります。

 

今の人類が経験している苦しみの大部分の要素は、太古の時代から繰り返し続いて来たもので、その主因は、ほんの一握りの支配者が、残りの大多数の人間を騙して、奴隷化、家畜化し、その上に君臨していることから生じています。ところがこの支配構造は非常に巧妙で、かつ支配者が表に顔を出さないために、長年に渡って「まさか、そんなことが‥‥」という事態が続いて来たのです。

 

簡単に言えば、壮大なるフィクションを人類全体が演じさせられているということです。しかし、みんな自分が演じさせられているとは、よもや気づかない。なぜなら、上から下までが完全な洗脳状態にあるからです。これがあまりにも強力なために、二段階めの気づきが起こるための、最大のネックとなっているのです。しかし一段階めの気づきが起これば、二段階めに気づくのは早い。

 

選挙で、たとえ誰を選ぼうとも、この構造は直ちには変わりません。アメリカ人は、ここ何度かの大統領選で、また議員の選挙で、このことを随分学習しました。政府や政治家やマスコミは信用できないという人が、かなりの規模に達しています。でも日本人は、まだそこまでは行っていません。何度騙されても、懲りずに今なお、政治家や国に「期待する」という感覚の人が多いのです。

 

今日、政治の行方を決めているのは、政治家や役人ではありません。政治家や役人をコントロールしている企業(なかでも多国籍企業)です。その企業をコントロールしているのは、所有者つまり株主や投資家たちです。この投資家たちをコントロールしているのが金融です。そして金融をコントロールしているのが、世にいう「闇の支配者」です。

 

このような構造の中で、配下にいる政治家たちは、自分たちや企業に都合のよいような法律を制定し、この法律を基に国家運営の基本的なシステムを構築しています。このシステムは、金融制度、軍隊、エネルギー、司法、警察、医療、教育、マスコミ等々、全産業に渡っていますから、結果として、あらゆるものを「闇の支配者」がコントロールできる仕組みになっているのです。

 

選挙制度は全くの茶番で、「民主主義」というものをさも実現しているかのようなポーズのためにあるだけで、いま言ったように、実際には「民主主義」とはほど遠いコントロールが水面下で行われているのです。選挙に「お金」が掛かるのは、「お金」の手当てが可能な人しか出馬できないようにするためであり、政治家は、結局は「お金」をくれる者の言いなりになる構造になっているのです。

 

そして、人類を支配するために考案された最大級の発明品が、この「お金」および利息なのです。「お金」が無いと生きていけないとみんなが思い込み、「お金」の魅力によって操られ、「お金」を得るためにあくせくと働き、住まいを得るためには借金をし、利息を取られ、いよいよお金が無くなれば路上生活を強いられるという風で、大多数の人間が、一生を「お金」の奴隷となって過ごすのです。

 

さて「お金」とは何でしょうか? 人類を、この発明品の奴隷にし、富を偏在化させるための仕組みです。あなたが働くと、その労働は賃金に換算されます。しかしその賃金は直ちには払われないし、雇い主に上前を撥ねられます。こうして、労働を賃金に置き換えることで、富の一部を奪い、それを集め、この「お金」を運用することで、富者がますます太る仕組みが確保されます。

 

そしてこの仕組みを維持するために、「お金」の魅力を方々で力説してシステムに誘い込み、富を巻き上げ、次にその富を使って、大衆をコントロールするのです。と聞いても、「なるほどそうか!」と思う人は少ないでしょう。ピンと来ないか、何か私が大袈裟なフィクションを語っていると思うでしょう。それほど、洗脳が隅々にまで行き渡っている。だから大変なのです。

 

でも考えてみてください。自然界に「お金」があるでしょうか? 「お金」の仕組みが存在するでしょうか? 「お金」がないのに、自然界は、互いのエネルギー交換だけで、ちゃんと全体が調和するシステムを実現し、維持しています。これが自然界の摂理です。それぞれが、自分のあるがままに自由に生きて、それでなおかつ調和が成り立っているのです。そして自然とは、神の表現物であったことに注目してください。

 

今までの「お金」のあり方に疑問を持ち、金融支配の構造の裏を知った人たちの中から、「お金」に関して新たな模索をする動きが出始めています。ドルに代わる基軸通貨とか、「お金」の価値を何をもって担保するかとか、ビットコインだとか。でも、ポイントはそこではありません。「お金」のチェンジではないのです。人類の支配者にとって、「お金」はいわば血流ですから、何があってもこの仕組みを手離そうとはしないでしょう。

 

重要な点は、その構造を支えている人類の「意識」なのです。「お金」の裏側には、人類に共通した「エゴ」というものがあって、これが今の「お金」の仕組みを根底で支えているのです。そこに気づかない限り、根本は変わらない。地球の人間たちは、「お金」が支配する「現実」という海を、自分たちは泳いでいるのだと思っています。しかしこれは、物質世界に創られた、全人類合意のもとに演じられている壮大なフィクションに過ぎないのです。

 

あなた方の本質は「肉体」にあるのではなく「魂」にあるのだと繰り返し語って来ました。あなた方が泳いでいる本当の場所は、実は目に見えない場所、霊性(つまり「宇宙の法則」)が支配している海なのです。みなさんの「魂」は、根本のところでこれに気づいています。ですから、何でも「お金」が支配する、今のような世の中との間で、始終摩擦を起こし、苦しまされているのです。    

 

なぜこんな不毛なことが繰り返されているのでしょうか? それは、人々を支配しようとしている者たちもまた支配されているからです。これが「洗脳」というものの実に奥深いところで、支配者層は、「お金」を持つことが自分の「幸福」を実現することだと信じて疑わないのです。ですが、そんなことはありません。肉体の死を迎えた後も運ばれるのは「お金」ではなくて、霊性の海に生きた体験だけなのです。これが、あなたというアイデンティティの唯一の保障です。

 

そして「宇宙の法則」は、いつも次のことを示しています。自分が為したことは自分に返って来る。自分の「エゴ」によって、多くの人々を苦しめた人には、次にその苦しみを自分が体験するチャンスが与えられます。でもこれは「罰」ではありません。チャンスです。宇宙に「罰」はありません。あるのは法則のみ。そのような山登りのルートを選んだ人には、望み通りのチャンスが与えられるというだけのことです。

 

自然界は、理想社会のあり方をいつも示してくれています。多種多様なものが存在し、それぞれがあるがままに自由に生きることで調和が取れている世界。人間はこれを見習って、もっと謙虚になって、親和と愛に生きることを目指さなくてなりません。一握りの権力者が、他の多くの人々を支配することなどあってはならないし、それは「宇宙の法則」に反していますから、必ず破綻します。

 

小さきもの、多種多様なもの、それらの集合体が「生命」なのです。宇宙も、自然界も、そしてあなたの身体も、すべてそのように出来ています。この事実に気づきなさい。小さきもの、多種多様なもの、自分とは違う個性に敬意を払いなさい。あなたを生かしてくれているものはそれらです。ご自分の身体の細胞を慈しみなさい。そして、細胞を慈しむように、隣人を、自然を、世界の人々を愛するのです。世界は一つ、宇宙は一つです。

大きな安心の上に立って、小さな心配の日々を生きる

人間、死ぬ気になれば何でもできる。これは本当です。この言葉は、何か大きなことにチャレンジをする際の常套句となっていますが、人間にとって、覚悟の最たるものとは「死ぬ気」であるということを端的に表しています。

 

誰もが日常的に抱くちょっとした不安や心配事。失うこと、傷つくこと、病気になること、奪われること、犯されること、不当に扱われること、間違うこと、罰せられること、etc.。これらのちょっとした不安が、どうして生じているかを「なぜ、なぜ?」と追求していくと、最後は必ず「もしかしたら、死ぬかもしれない」というところに落ち着きます。

 

嘘だと思ったら、試してみてください。あなたがいま不安に思っていること、その原因は何かと自分に問うて、考えた答えを紙に書きます。そうしたら、いま紙に書いた事柄は、どのような原因から生じてるのかを、また自分に問いかけてみてください。こうして、この作業を、梯子を掛けるように下へ下へと掘り下げていきます。

 

今のプロジェクトは、うまくいかないかも知れない。

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もし失敗したら、激しく叱責されるだろう。

    ↓

出世の道が閉ざされるだろうし、居場所もなくなるかも知れない。

    ↓

クビになったら、生活に困る。

    ↓

自分の年齢では再就職も難しい。

    ↓

家族の生活が維持できなくなる。

    ↓

ひょっとしてホームレスになってしまうかも。

    ↓

もう生きていけない。

    ↓

自分は、死んでしまうかも。

 

すると、およそどんなことでも、最後の最後は「自分が死ぬかもしれない」というところに辿り着くはずです。この作業を通じて解ることは、人間が抱く恐怖というものは、結局、みな「死」から出発しているということです。

 

では、なぜ「死」が恐怖の大元なのでしょうか? それは、「死」のさらに先にあると思われる原因が、「死」という言葉の裏側を支配しているからです。それが何か、分かりますか? 「消滅」です。何もかもが「消滅」して無に帰してしまうのではないか。これが、人間を支配している「恐怖」というものの根本です。そして、これは全くの幻想なのです。

 

人間は、「この世」に誕生した瞬間から、「この世」で言うところの「死」に向かって、直ちに走り始めます。ところが、人間はその事実を直視しようとはしません。赤ちゃんが生まれると、みんなが「おめでとう」と言って祝福する一方、死期が真近に迫り、いよいよとなって臨終を迎える時には、沈痛な表情で「ご愁傷様です」と言うのです。

 

誕生→成長→成熟→死というサイクルを、まるで植物の一生と同じように捉えていて、だからこそ、血縁の(自分の想いを託したDNAを持つ)子孫(次の種)を残すことに非常にこだわるのです。そして、成長することについては大いに喜び、死を迎えることについてはこれを忌み嫌い、出来るだけ触れないようにして生活しているのです。

 

だからこそ、「生きる意味が解らない」などと言う言葉が出るのです。直視しようとせずに逃げてばかりいるのですから、解るはずがないではありませんか? そして、矛盾に満ち満ちた行動を取っています。

 

人は、急激にもたらされる「死」はひどく怖れる一方、ゆっくりと進む「自殺」は自ら好んで選択しています。過食、喫煙、過労、過度の飲酒、薬物の摂取、夜ふかし、体を動かさない、等々。肉体は借り物という意識がないので、労わらないし、きちんとメンテナンスをしようという気もあまりありません。

 

これらはみな、「生命」というものを、ただ表面的にしか捉えていないために起きていることです。たとえ、地上で「死」と言われる現象が、いま直ちにあなたに起きようとも、宇宙から、あなたが「消滅」することは絶対にありません。それは、「生命」というものを、じっくり観察していれば自ずと解ることです。

 

春先に、一粒の種から芽が顔を出し、夏に大きく成長し、そして秋に豊かな実をつける。やがて冬枯れし、跡形も無くなったようになってしまう。でも、その植物は「消滅」したのではありません。その植物を構成していた元素は、一部は気体となり、一部は土に帰ります。そしてまた、他の植物や動物のために供されるのです。あなたの肉体を構成していた元素も、これとまったく一緒です。

 

「誕生」や「死」は、そうした変化のサイクルの、ある局面に、そうした名前を付けただけのものであって、自然界を冷静に観察すれば、トータルで失われるものは何もないのです。ただ「変化」のみがあるのです。これこそが「生命」の実相であり、「生命」とは「宇宙の変化」と同義語なのです。ですから、あなたの「生命」も、失われることは絶対にありません。

 

しかし、そう言ったとしても、あなたの中には釈然としないものが残るでしょう。図らずも、それは、「あなたという存在は何か?」という命題につながっています。あなたという存在は何か? あなたをあなた足らしめているものは「意識」です。“ Cogito, ergo sum ” 我思う、ゆえに我あり。あなたは、あなたという「意識」を持つ存在です。

 

さて、この「意識」が、どこから生じているかが問題です。現代科学の常識では、「脳」が「意識」を生じさせていると説明します。しかしこれは、これまでも繰り返し言ってきたように、完全な誤りです。もしそうだとして、ではその「脳」を動かしているものは何なのでしょうか? 「脳」が自発的に動いて、その人の「意識」を創り出すとでも言うのでしょうか?

 

そうだとすれば、その人の「脳」とは何なのでしょうか? 「意識」のあたかも支配者として振る舞う「脳」は、いったい何ものであって、何のためにそのようなことをするのでしょうか? まったく馬鹿げた仮説です。このような矛盾だらけの仮説を「科学」だと言って信じ込み、反対に真実である「魂」の実在を否定して、右往左往しているのが今の文明社会なのです。

 

あなたの「意識」は、物質世界という一つの次元(霊性密度)にだけ存在しているのではありません。あなたの「意識」は、階層化した多次元にまたがって、今のこの瞬間も、同時に存在しているのです。ところが、肉体を纏っている時には、五感というセンサーの刺激に強く引っ張られているために、他の次元で働いている「意識」があまり意識化されていないのです。

 

でも、皆無ではありません。パッとあかりが灯るようにやってくる、直感やインスピレーション。なんだか知らないけれども沸き上がるイヤーな気分。以前にも出会ったことがあるような懐かしい気持ち。「そっちじゃないよ」と危険を知らせる空耳。嬉しいわけでも悲しいわけでもないのに胸に沸き上がる感動。これらはみな、あなたの別の次元にある「意識」です。

 

あなたが、地上で言うところの「死」を迎えると、肉体を構成していた元素はバラバラになり、それまで物質世界を捉えるためにあった五感というセンサーがなくなります。そうなって初めて、あなたは、ご自分が本来の多次元的存在であることにハッキリと気がつくのです。この存在が、いわゆる「魂」です。つまり「本当のあなた」です。

 

肉体というのは、ある一つの時代の「生」を生き抜くドレスに過ぎず、次に生まれ変わる時には、また素材を集めて染色し(DNA)、糸を織り上げて(細胞分裂)、新しいドレスに着替えるのです。この間、母親は、自分の胎内に生じるものをコントロールすることは出来ません。それでも、赤ちゃんが創造され、誕生するのです。その「魂」自身の意思によって。

 

いま言ったこと(魂の永遠)を、私はここで証明しようとは思いません。前世の記憶を持つ人や、臨死体験の事例をいくら述べたところで、「そんなもの信じない」という人はどうしようもありません。そもそも、限定された世界から、多次元的世界の全容を知ることは不可能です。ですから、いつも通りこう申し上げるしかありません。解る人には解ると。解る人というのは、「信じている」のではないのです。知っているのです。

 

さて、このように、あなたの肉体を構成していた元素が、宇宙から「消滅」することはあり得ず、また、あなたという「意識的存在」が「消滅」することも、絶対にありません。それは、論理的に考えても解るはずです。

 

全智、全能、全存在は、宇宙(=神)というものを、それぞれ別の視点から眺めたものです。これらは一つのもので、それゆえ三位一体と呼ばれます。全智とはすべての知恵や知識。全能とはすべてのエネルギーであり力(Force)。全存在とは、文字通りあらゆるものです。この三位一体は、増えることも減ることもないし、ただ変化だけがあるのです。

 

なぜ変化し続けるのか? それ自身が、体験して成長するためです。そして、あなた方はそのための学徒として宇宙に放たれました。あなた方は、全員が、宇宙を構成する一員なのです。あなたの意識は「全智」の一部であり、あなたの活動エネルギーは「全能」の一部であり、あなたの身体は「全存在」の一部なのです。それがどういうことか、お解りですか?

 

宇宙には始まりも終わりもなく、ただ変化があるのみ(=無常)です。一見、誕生や死として見える局面も、この変化のサイクルの中の一つの場面に過ぎず、あなたが「消滅」することは、絶対にないのです。あり得ません。この大いなる安心の上に立ちなさい。いや、すでに立っていることに気づきなさい。「最初から救われている」という意味は、実にこれなのです。

 

何を不安に駆られているのですか?

何を怖れているのですか?

世間が繰り出す脅しに、何をそんなにビクビクしているのですか?

 

たとえ世界が破滅しようとも、あなたが消滅することはありません。あなたは、わたしの一部なのですよ。そのわたしが、どうして、あなたに恐怖を与えますか? 何のためにそんなことをしますか? 右手で左手を叩くとでも言うのですか? よく考えてみてください。

 

今の人間たちを見ていると、わたしですらも悲しくなってしまいます。なんのために地上に生を受けたのですか? あなたの役目を果たしなさい。宇宙の法則に則った生き方をしなさい。自分を愛し、そしてすべての人々を愛しなさい。もうグズグズしている暇はありません。あなたが世界を変えるのです。

 

いつまでもフォロワーであり続けていてはいけません。

誰かに期待したら、その誰かに裏切られます。

あなたはあなた。

わたしがそのように創ったのです。そのことを忘れたのですか?

 

繰り返し言います。

あなたの役目を果たしなさい。

そして今の混乱した世界を、愛の世界に変えなさい。

あなたをいつも見守り、応援していますから。

他者に支配されない生き方

みなさんは、今のご自分の心を、自分で自由に選ぶことができます。これがいわゆる「自由選択」というもので、それは天から与えられた、これ以上ないギフトなのです。このことは、これまでにも何度も語ってきました。この意味とメカニズムをよく理解し、宇宙の法則に合致した生き方を選択することが、自分で自分を支配するということです。言い直せば、他者に支配されない生き方です。

 

ところが、ほとんどの人が、このメカニズムをよく解っていません。自分の意識が意識化されていない状態で生活しているのです。先日もこのようなご相談がありました。夫婦関係がうまくいかずに困っているが、ご主人にどうもコミュニーケーション障害の疑いがあると言うのです。私は即座に、そのようなレッテル貼りは、お互いに何の益ももたらさないと申し上げました。

 

ご主人に、もしそのような診断を伝えたら、ご主人は「俺ってコミュニーケーション障害者なのか?」と思うでしょうし、奥さんの方は「こういう障害を持つ夫と暮らし続けていくにはどうしたらいいのか」という発想から逃れられなくなってしまうでしょう。あるいは、ご主人が怒って、「バカにするな。おかしいのはお前の方だろう」とやり返してくるかも知れません。

 

このような、誰かが誰かを診断する(言い換えれば「裁く」)という行為が、今や世間広く、当たり前のように行われていて、「◯◯障害」という新語がどんどん発明されている状況です。そしてなんと、このような新語を仕入れることが、現代人の教養であるかのような錯覚がまかり通っています。これは実に由々しき事態です。

 

人は、よく解らないものに対し名前を付けると、それだけで解ったような気になってしまうものです。典型例は、お医者さんの診断および病名の付与です。多くの人たちが、自分を「◯◯病」だと診断して欲しくて、せっせと医者通いをしています。現代のお医者さんとは、病気を治す人ではなく、病名を探して付ける人になっています。

 

ですが、あらゆるレッテル貼りは、対象物の本質を、本当に余すところなく表現しているのでしょうか? 夫を、妻を、子どもを、「◯◯障害」という枠組みに嵌める。それは、その人の本質なのでしょうか? いいえ、そのように見る人の、見たい人の、創り出した意識です。対象物に意味を与えたのは、その人が決定したレッテルです。つまり、「問題」はその人が創っているのです。

 

このことを、人は全くと言っていいほど意識していません。ですから、自分がいま感じている諸問題は、すべて外からやって来ていると信じ込んでいます。わたしがこうなったのは、あの人のせい。正しく評価されないのは組織のせい。恵まれないのは社会のせい。不安にさせられているのは隣国のせい。世の中をメチャクチャにしているのは◯◯人のせい。

 

そして、これを声高に叫ぶ人たちで世の中が溢れかえっている。みんなが、己の満たされぬ感情の捌け口を、自分以外の誰かにぶつけている。そして何より、政治の指導者である人間とマスコミが率先してこれを行っています。しかしここで、根本的な点を指摘しておきます。「関係」は、片方だけでは作れない。「関係」とは、AとBとの「間(あいだ)」に生じるものなのです。

 

この自明の理を、多くの人が理解していません。自分のことは自分にはなかなか見えないので、みんな相手ばかりを非難しています。相手が悪いから、ちっとも「関係」が改善しないんだと思っているのです。ですが、そうではありません。「関係」とは、常に「間」に生じるものです。この「間」は、キャッチボールをする時と一緒で、自分が想うもの、願うものがそのまま返って来るのです。

 

私が『世界入りにくい居酒屋』やコウケンテツさんの食の旅番組、『世界ふれあい街歩き』や関口知宏さんの旅番組が好きで「いいなぁ」と思うのは、初対面の人どうしがすぐに打ち解けて、お互いの文化の話に花が咲き、互いに学び合っている点です。もしも、世界中がこうだったとしたら、なんとステキだろうとは思いませんか?

 

でもなぜ、そんな「関係」がすぐに構築できるのでしょうか。それは番組を見ての通りです。相手を疑っていないからです。胸襟を開き、子どものような好奇心を前面に出して、遠慮なく話し掛けて行っているからです。だから、それに応じた球がすぐに返って来るのです。

 

関口知宏さんやコウケンテツさんが、もしも銃を腰に下げ、疑いの眼で旅先の人を見て、ファイティングポーズをとりながら飛び込んでいったとして、同じことができると思いますか? この当たり前のメカニズムを、どうして夫婦関係や、親子関係や、職場の人間関係や、外交に当てはめてみようとはしないのでしょうか?

 

多くの人が、自分の今の意識は、実は自分が選んでいるのだということを意識していません。これを、「肉(身体)に埋没した状態」と言います。五感がキャッチした、外からやって来た情報に、ただ反応しているだけなのです。けれども、自分の意識は自分が創っているということを意識する習慣をつけるだけで、あなたは自分を劇的に変えることができます。

 

たとえば、あなたが誰かに殴られたとしましょう。殴られた箇所には瞬間的に痛みが走ります。でもその直後の気持ちを、あなたは自由に選ぶことができるのです。「コノヤロー!」と反射的に殴り返すこともできますし、その場に蹲って泣くこともできますし、「さあ、もう一発殴れ」と言ったっていいですし、微笑むこともできますし、有り難いなぁと思うことだってできるんです。

 

その意識の選び方いかんで、あなたが経験する現実が、まったく変わってしまうのです。もう一つの例を言いましょう。職場で、イヤだなと思う仕事を命令されたとします。どっちみちそれはやらなくてはならない。だとしたら、イヤイヤするよりも、その体験を通じて絶対に何かを掴んでやろうと、気持ちを切り替えてやった方がずっといいし、実際それはできるのです。

 

ここで、あなたを劇的に変える重要なポイントをお教えしましょう。どんなことでも、それを、あなたが自分でハンドリングしているという意識を、常に持って行動することです。あの人からこう命令された。これをやらされた。こんな目に遭わされた。このようなパッシブな気持ちは一切捨てて、どんな時も、その中にアクティブに自分が関われる要素を見出してください。

 

探せば必ずあります。たとえば、人付き合いが苦手なのに大勢の人の接客を頼まれたとしましょう。「いやだなぁ。うまく話せるだろうか、粗相なくできるかどうか心配だ」と思う。これを、「よーしこの機会だ。人間観察をして、客の行動にパターンがないかどうか、一つ分析してみよう」となれば、その体験が、その後のあなたにとって、貴重な肥やしになるかもしれません。

 

このように、何事も表向きは「ハイハイ」と聞いておいて、内心では全部を自分がハンドリングする要素に変えてしまうのです。これが、自分で自分を支配するということです。そうすれば、「今を生きる(be here now)」ことの感覚があなたにしだいに入って来て、あなたの人生がハッピーなものに変わっていきます。そして実際、その方が仕事がうまくいき、感謝だってされることでしょう。

 

さてメカニズムが解ったところで、冒頭に示した「宇宙の法則に合致した生き方」とは何でしょうか? これは、愛を与えれば愛が返って来るということです。逆に言えば、憎悪を与えれば、憎悪が返って来るのです。さて、あなたはどちらを望むでしょうか? 当然、前者でしょう。‥‥と言いたいところですが、世の中はまるでそうなってはいません。

 

その理由は、「宇宙の法則」を知らないということもありますし、自分の意識を意識化できていないということもあります。でももっと大きな、根本的な原因があります。それは、あなた方の選択行動に影響を与えている動機が、ほとんど「恐怖」から出発しているということです。「愛」と「恐怖」とを比べたら、「恐怖」の方が、100倍ものモチベーションを与えることができるのです。

 

所有欲は失うという恐怖から生じ、金銭欲は貧困への恐怖から生じ、戦争は攻撃されることへの恐怖から生じ、医療保険は病気や死ぬことの恐怖から生じ、健康食品やスキンケアは老化への恐怖から生じる。そしてそれらに備えれば「恐怖」から逃れられると、みんな思っています。いや、思わされている。社会のシステムが、すべてそのような「恐怖」をモチベーションとして構築されているからです。

 

こんな状況下で、「愛」に基づく選択行動をとる人が、いったいどれだけいるでしょうか? 本当にお寒い話です。でも、だからこそ、ご自分の意識の意識化に取り組んでいただきたいのです。人間の選択行動をプッシュするものとしては、「恐怖」が圧倒的な優位にあります。しかしそれを利用し、大衆を支配しようと企む人たちの尻馬に、やすやすと乗ってはいけません。

 

たとえ1パーセントが支配しようとしても、99パーセントが「No!」と言って従わなければ、それは成立しないのです。長い長い歴史の中で、人類はこれまで、一度たりともそれができませんでした。しかしそれを、今度こそ乗り越えることが、人類に向けられた大いなる課題です。

 

核の惨劇は、一度経験すれば充分ではないでしょうか?

原発事故の災厄は、一度経験すれば充分ではないでしょうか?

ナチズムの集団洗脳は、一度経験すれば充分ではないでしょうか?

戦争したがりの人たちが、国民をどのように誘導していったかは、一度経験すれば充分ではないでしょうか?

世界大戦は、二度も経験すれば、もう充分ではないでしょうか?

政府は必ずウソをつく。マスコミは真実を伝えない。これも、もう充分に経験したのではないでしょうか?

 

ああ、愚かな人たちよ。

世界を、人類を、我欲のために、破滅にまで導きたい人がいることは確かです。

でも、なぜ、そういうリーダーたちに好んで着いて行こうとするの?

着いて行き、わざわざ心を不安と怒りでいっぱいに満たし、

わたしが与えた、愛の輝きを棄てようとすることを選ぶの?

99パーセントが着いて行かなければ、1パーセントはどうすることもできないのですよ。

宗教の和は成るか?

私の祖父は宗教家でした。山岳密教の修験道行者で、八海山を行場としていました。父は八人兄弟の次男で、幼い頃から寺(以前には本堂があったのですが今は消失)を継ぐように言われていたのですが、兵隊に取られてしまい、結局は医者になる予定だった伯父(長男)が後を継ぎました。そのような訳で、父は宗悦という宗教者の名を付けられ、その父から私は宗和という名を付けられたのです。

 

誰でも、自分に付けられた名前に、特別な関心を抱く一時期というものがあると思うのですが、私も〈宗の和が今成る〉という自分の名前については、ことあるごとに考え続けて来ました。父からは「名前負けしている(名前が立派過ぎて中身が追いついていない)」としょっちゅう言われ、「俺が付けたんじゃねぇ」と反発しましたし、自分の名が好きではありませんでした。

 

宗教的なものが大嫌いだったカミさんは、「宗」の字を毛嫌いし、生まれた息子には、「宗の字を付けたら絶対にダメ。宗ネームはあなたの代で断ち切ってください」と言うので、私はそれに従いました。息子の名は、自分の願望を押し付けるようなことはしないようにと、生まれた赤ちゃんに「どう呼ばれたい?」と聞いて、それを付けました。

 

「宗」という字は、ウかんむりに示と書きます。ウかんむりは家の屋根の象形で示は「神」ですから、この字は「家の神」を意味し、そのことから特定集団の信仰を表しています。ということで、その特定集団の教えが「宗教」ということになるのです。以前から、私は宗教的なものには強い興味がありましたが、けれども宗教にはどうしても馴染めないものがありました。

 

最近になって、その理由というものが、過去世との関係でようやく解って来たのですが、それは書かないことにします。とにかく「宗」の字がだんだんとイヤになって来たものですから、それに山をつけて(家を合わせた全体という意味がある)「崇」に変えてみたりしたのですが(でもこれ、タタリとも読むんですよね(´ρ`))、それもコダワリに過ぎないなと思い直して、元に戻したのです。

 

祖父の時代(明治、大正、昭和初期)には、宗教が必要だったと思います。今と違って、民衆の中に学識のある人というのは少なかったですし、疑問があったらキーワド検索をすればすぐに答えが得られるという環境もありませんでした。人々の悩みの主たるものは貧しさと病気であって、それに具体的に援助の手を差し伸べるものとして、山間の部落においては宗教が一定の役割を果たしたのです。

 

しかし今の時代は、宗教成立の前提となるもの(社会環境も、科学の進歩も、人々の学識も、悩みの質も)が大きく変わり、人々の精神的支柱、もっと言えば魂の支柱となるものが、もはや「宗教」では支えきれなくなっていると思うのです。

 

「宗教」は、物質世界を超えた Something を、信仰や預言や教義や戒律として人々に提示してきました。それは、無学な人が多かった時代、また科学が未発達な時代には仕方のないこと、むしろ必要なことだったと思います。けれども宗教は、同時に大きな弊害をもたらしました。それは、自分の頭で考えないようにさせるということ。つまり、人間をロボットにしてしまうということです。

 

宗教家は「信仰」の大切さを説きます。時に、「やっぱり信仰がいちばん大切ですか?」といった質問を私も受けることがあるのですが、「いえ、信仰は必要ありません」と答えると、その質問者はびっくりした顔をして、眼が空中を泳ぐのです。そりゃそうです。自分が昇って来た梯子を、いきなり蹴倒されたようなものですから。それで、呆れ返って去って行かれるわけですが‥‥。

 

信じて仰ぐ。私は、人類にとってこれは最悪な行動だと思っています。自分にはとうてい理解し難い、不可視、不可思議な現象については、もう信じて仰ぐしかないと、多くの人が考えているわけです。問題は、ではその「信じるもの」を誰が提供するのか、ということです。これが、教祖、教団、教義、教典になっている。でもなぜそれが、それのみが「信じる」に足ると言えるのでしょうか?

 

そこで、宗教者はこう言うのです。「ゴチャゴチャ言わんと帰依せい。あれこれ考えるヒマがあったら信仰しろ。他力におすがりするんだ」と。そこで、半信半疑のまま信仰の道に入る。そして、いったん入ると、周囲にも同じような人たちがいますから熱心になるし、理解し合える友だちが出来て救われたような気にもなる。そうして、ますます信仰にのめり込んで行く。

 

こうなるともう抜け出せません。「信仰」は自分を支える柱ですから、もしこれが倒れたら自分が自分でなくなるという恐怖が生じて来るのです。そこで、ただひたすら「信仰」に忠実であることを選ぶ。ところがその先には、避けては通れない関門が必ず待っているのです。その教団の霊的支柱(教祖や後を継いだ者)の死です。ここで、自分を支えていた柱がポッキリ折れる。

 

ですから、宗教教団というものは、その後の跡目争いを巡って、必ず内紛状態に陥り、担ぐ人を立てて、いくつかの宗派に分裂し、やがては互いを非難するようになります。シーアとスンニの争いもそれですし、日本のある大教団も今そうなりつつあります。いったい何のための「宗教」だったのか、「信仰」だったのか、という原点を、権力闘争の陰でみんな忘れてしまうのです。

 

これが「信仰」というものの恐ろしさです。自分で気がつくということをさせずに、他力にすがるようにさせる。それは他力のロボットになるということです。ですから、他力次第で、自分がいいように操られてしまう。今の世界を、混乱と破壊に陥れているものの元凶は、実にこれです。人々の「信仰」が、そして「信仰」の縄張り争いが、今の世界を破滅へと向かわせているのです。

 

「信仰」は、なにも宗教だけの世界とは限りません。資本主義、物質主義、拝金主義、グローバリズム、科学万能主義、国家主義、排他主義、その他もろもろ。あなたを信じ込ませ、自分の意識で気づかせないようにさせているものは、みんな「信仰」です。そしてこの「信仰」同士のぶつかり合いが、バトルロイヤル(battle royal)化してしまったのが、今の世界情勢です。

 

Love is blind.(恋は盲目)。無条件で「信じて」しまったら、人は盲目になってしまいます。どうして宗教どうしが争うのでしょうか? 宗教は、もともと、人々を幸福にしたいと願って始まったものではないのでしょうか? それが今、かつてないほどの殺し合いを、世界各地でまた始めているのです。

 

自分の頭で(あるいは心で、直感で)ちょっと考えれば、それがいかに矛盾したものであるか、愛の対極にある行為であるかはすぐに解るはずです。ところが、それすらも気づかせずに、人をロボットにしてしまう、殺人兵器にまでしてしまう「信仰」というものの恐ろしさ。そして、その恐ろしい行為を、みな「正義」だと信じていることの凄まじい狂気。

 

なぜこのようなことが起きてしまうのでしょうか? その原因は、各宗教が、自分たちの信じる「神」以外は「神」にあらずと、互いに主張し合うからです。これほど馬鹿げた、かつ矛盾した話はありません。なぜなら、「神」は万物の創造者であり、同時に被造物でもあり、よって一者であることは自明だからです。各宗教は、「家の神」と真実の「神」の、区別がついていないのです。

 

あなたも宇宙の被造物です。ですから全体の一員です。ということは、同時に創造者の一員でもあるのです。つまり「神」はあなたの中にある。あなたも「神」の一部なのだ。しかしこのことを、今まで、どの宗教も説いて来ませんでした。宗教は、「神」はあなたの外側にいると主張しました。だから、様々な神、我が神、我々だけを愛する神が創られたのです。そう信じる人間たちの手によって。

 

その結果、創られた神、人間が想像した神(想像神)どうしが戦うようになってしまったのです。これが、今の世界の現状です。私たち日本人にはとうてい理解し難いことですが、西洋社会ならびにイスラム社会においては、同じ中東より発した3つの一神教が、大衆の精神にあまりにも深く浸透しており、一神教であるがゆえに、互いの憎悪がますます酷くなって来ているのです。

 

このような中で、今後、宗教の和が成るのかどうか。和が実現しなければならないことは勿論ですが、そのためには、各宗教が「違い」ではなく「同じ」部分に気づく必要があるのです。果たしてそれができるかどうか。今まで他との「違い」ばかりを強調して来た各宗教にとって、それは180度違う展開になるわけですから、その宗教の解体につながりかねません。その勇気を持てるかどうか。

 

「SOUL」というのは、Singular Outflow of Universal Life の頭文字をとったものという説があります。魂というのは、全てであるものが個別化したものだというわけです。まさに言い得て妙。あなた方はみな、一つのもの(Univers には、宇宙という意味と、普遍的という意味があることに注意)から、物質的身体を纏うことによって、個別化したものなのです。

 

なぜ個別化したのか、それが鍵です。それを、よーく考えてみてください。ヒントはこの文章の中にすでに書かれています。あなた方は、大霊(神)と、個別の魂との間で、行ったり来たりするエレベーターに乗っているようなものなのです。上階(界)行きのボタンを押せば、一者に向けてどんどん融合して行き、下階(界)行きのボタンを押せば、どんどん分離が広がっていくのです。

 

重要なポイントは、各宗教が今どの階のボタンを押しているかということです。上階を押せば融合は深まり、下階を押せば分離が拡大する。個人においてもこれは同じです。あなたが上界行きのボタンを押せば、人はみな同じということに気づき、したがって融和と愛が深まっていく。でも下界行きのボタンを押せば、人はみな違うという意識が強まり、優劣と闘争意識が強まっていくのです。

 

けれども、もしあなたが、「神」は既にそれぞれの内にいるという真理を知ったとしたらどうでしょう? すべての人の中に「神」がいるのですから、最初から一つです。そこには分離はありません。最初から一つなのですから、改めて組織化する必要もないし、教祖、教団、教義、教典も、何も必要がないのです。あなたは最初から完璧であり、ただ在るだけで祝福されているのです。

 

実に簡単なことです。あまりに簡単過ぎて、今までほとんど知らされて来なかったのです。いや、知らそうとして来た人はいつの時代にもいたのですが、人々は、もっと有り難みのあるもの、権威のあるもの、自分が支配されることを求めるものですから、常にその声が無視されて来たのです。でも、人類はもう崖っぷちまで来ました。さあ、あなたはどうしますか? どうしたいですか?

不安と恐怖

すべての恐怖は、未知の状況が、私たちに否定的な影響をもたらすかも知れないという思い込みから生じます。かつては、私もこの思い込みに完全に支配された時期があり、パニック障害にもなりましたし、鬱病になった経験もあります。その頃、藁にもすがる思いで読んだ一冊の本に、こんな一言が書かれてあったのです。「先ずは、正常な不安に戻ることを目指しなさい」と。

 

正常な不安? そうか、今は異常な不安状態にあるから苦しいのであって、正常な不安のレベルに戻すことを目標にすればいいんだ。完治ということや、元気ハツラツというイメージを追い求めなくても別にいいんだ。その言葉は、パニックというループ、鬱というループに陥っている状況から、とりあえず脱するためには、大きな慰めとなったのです。

 

けれども、深い穴蔵からようやく脱してみると、「そもそも自分は、何でこんなにも怖がりなんだろう。恐怖の正体とは、いったい何なのだろう」という次の追究が始まりました。そこで得た結論が、冒頭に記した定義なのです。「未知の状況」「(自分に関しての)否定的な影響」「(それが起こるのではないかという)思い込み」、この3点セットが、恐怖を創り出しているものの原因だったのです。

 

だからこそ、多くの人々が未来予知に対して強い関心を抱くのです。それは、未来予知ができれば、もしかしたら自分に降り掛かる否定的な影響を回避できるかも知れない、という別の「思い込み」があるからです。しかしどっちにせよ、それは「思い込み」であって、恐怖を下敷きにしているという点ではまったく同じ土俵にあるのです。

 

そこで、この人間が持つ普遍的なスキに付け入って、これを利用してやろう、さらには支配してやろうと企む者たちが後を絶ちません。なぜなら、恐怖は、最も単純で、優先的で、かつ人間が強く心を揺さぶられる道具となり得るからです。

 

そこで、為政者は隣国からの侵略の可能性を口にし、核ミサイルが飛んで来るぞと脅し、メディアはテロ事件や殺人事件を大袈裟に報道し、医者は癌のリスクを声高に言い、保険屋は万が一の心配を強調し、教育者は落ちこぼれたら大変だぞと言い、金融機関は老後のお金の心配を訴えかけ、霊能者は大地震や人類滅亡の予言をするといったことが絶えないのです。

 

「備えておけば安心」とみな言います。でもそれは本当なのでしょうか? 大部分は、不安の種を増やしているだけなのではないでしょうか? ミサイルに怯えてアラートのシステムを作ったり、迎撃ミサイルを配備したりしても、それで不安や恐怖が消えるわけではないでしょう。むしろもっと恐怖を煽ることになってはいないでしょうか。そして正に、それこそが支配者の狙いなのです。

 

私の子どもの頃は、世の中に、かくも多くの恐怖の種は存在していませんでした。今よりも物はなかったし、ずっと貧しい生活でした。でも「なんとかなる」という感覚を、どこか持っていたような感じがします。それが今や、どこへ行っても、周囲は恐怖を呼び起こすもので溢れかえるようになってしまいました。小さな子を持った親御さんは、きっと大変な思いをされていると思います。

 

今やもう、個人の心の内ではなく、世の中の方が「異常不安」の状態にある。これは、「異常気象」が正常気象になってしまったこととソックリです。いや、ソックリどころか、この二つは実はリンクしているのだということは以前に書きました。今の世の中は、それ自体が「異常不安」なのですから、こんなものとまともに付き合っていたら、心がおかしくならない方がおかしいです。

 

ところが、それに敏感に反応して、今の世の中への適応を拒絶する者を、世間は決して許さない。落伍者のレッテルを貼り、「異常不安」の社会へと引き戻すことを、なんと治療と称している始末です。しかし、「異常不安」で溢れかえった社会の中で、個としてのアイデンティティを保とうとすれば、自分以外の他者を差別し、ヘイトし、攻撃するしかなくなってしまいます。

 

このようにして、異常な社会構造が、増々加速していっているのです。

 

「脅威」と「恐怖」とは違います。「脅威」というのは、人類という種の存続を脅かすような具体的な動きです。「恐怖」とは、恐れる心です。人類のおかしな点は、「脅威」を取り除こうとはせず、むしろこれを推進しながら、「恐怖」を増大させていることです。原発、核、新兵器開発、軍備増強、環境破壊、環境汚染、コンピュータハッキング、AI、遺伝子工学、金融工学、etc.。

 

いま人類がなすべきことは、「脅威」を取り除くことであって、「恐怖」を増大させることではありません。ここを履き違えてはなりません。為政者やメディアが、何をしようとしているかを冷静に見抜くのです。「恐怖」を煽る陰で、「脅威」に対してはどのような態度を取っているかを、注意深く見てください。実に、そこがポイントです。

 

いいですか、そういう支配者の奴隷になり続けていることが、人類にとっての最大の「脅威」なのですよ。人類史は、その連続でした。

 

支配者というのは、偉い人でも、未来を見通せる人でも、愛に溢れた人でもなんでもなく、ただ支配欲が強くて、自尊心を満足させたいがために人々を騙し続けている人たちです。ここに気づかなければ、そして目覚めなければ、人類はまたアトランティスの終末と同じ轍を踏んでしまうことでしょう。

 

不安に思うことはない、だが不安そのものを恐れよ。

 

不安や恐怖というのは心の持ちようです。自分の感じ方です。ですから、心の持ちよう次第で、それは消滅する。今の時代が、人々を不安だらけにさせているのは、「こうでなければならない」というルールや習慣が、このわずか半世紀で膨大なものに積み上げられて来た結果です。「こうでなければならない」と思うものが一つ増えれば、恐怖が一つ増えるのです。

 

この理屈が解りますか? そのルールや習慣が正しいことだと信じれば、次にそこから外れる恐怖が生まれるのです。毎年、定期健康診断を受けることが正しいと信じれば、次には受けないでいることの恐怖が生じます。ワクチン接種が正しいと信じれば、接種しないことの恐怖が生まれます。このようにして、今のあなた方は、自分の心身にたくさんの「恐怖」を積み上げて来ているのです。

 

これでは、体も心も悲鳴を上げてしまいます。果たして、江戸時代にそんなものがあったのでしょうか? 江戸時代と今と、どっちが太平楽なのでしょうか。人類は、この「恐怖」の積み上げを進歩だと信じ込んでいますが、冗談じゃありません。退歩そのものです。今の世界情勢を見てご覧なさい。いったいどこが進歩なんですか?

 

「未知の状況」「否定的な影響」そして「思い込み」。この3点セットが恐怖を創り出しているものの正体です。そして、そんなものは全くの不必要。

そこで、何度も繰り返し言っているのです。

 

あなたが見る現実は、あなたが創っている。

あなたの想いが、あなたの行動を決め、

あなたの行動の軌跡が、結果としてあなたの人生となる。

だから、未来など、あなたの意識でどうにでも変わる。

重要なのは、あなたがどういう存在でありたいかだ。

私は、こうでありたい。それを決めよ。

そうすれば、どんな瞬間が来ても、あなたの行動は、常にあなたのものとなる。

よって、外の世界から来る情報は、すべて効力を失う。

この時、あなたは奴隷状態から開放され、真の自由を獲得する。

そして、ただ今を、あるがままに生きる自分となるのだ。

自分探し、あなたという存在

自分は何者なのか、どこから来て、どこへ行くのか?

 

日常の喧騒から離れてひとり静かにしている時、ふとそのような思いが沸き起こって来た経験というものが、誰しもあると思うのです。そして大抵は結論を見出せぬまま「余計なことは考えないでおこう」とその思いを打ち消し、また日常の喧騒の中に戻っていく。なぜかと言えば、そんなことを相談できそうな人が、自分の周囲にいそうもないから。言い換えれば、誰しもが分からない。

 

あなたがもし、それを堂々と言葉に出して、周囲の誰彼となくぶつけたりしたら、下手をすると「この人、鬱病かしら」と思われかねない。あなたという「今の存在」の成立に手を貸した親に聞いたとしても、たぶん満足な答えは得られない。学校の先生に訊いてもおそらくは知らない。宗教家に尋ねたら、自宗のマニュアルに載っている見解を、ただ棒読みするだけでしょう。

 

でもね、あなたが「自分は何者なのか」と考えることは、決して無駄なことではないんですよ。それこそが大いなる旅の出発点なんです。この壮大な「宇宙」というものを知るための。そして、「宇宙」と「自分」との関係を知るための。

 

フランスの画家、ポール・ゴーギャンの作品に『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』とタイトルが付けられた、タヒチを題材とした大作があります。タイトルから分かる通り、ゴーギャンは人間存在のこの基本的な命題にストレートにアプローチしようとしていました。それはアーティストならではの直感によって、日常を超えた真理に迫ろうとしたのです。

 

あなたは何者なのか? 実はこの命題については、古(いにしえ)より答えは明かされているのです。しかしその答えを知るためには、あなたという存在が「霊主体従」であるということを、自覚する必要があるのです。なぜなら、この答えは霊的な世界にしか見出せないからです。

 

「この世」という物質世界だけから見ていたのでは、「誕生と死」という人間存在に関する両局面の意味を正しく解釈することはできません。なぜなら、扉の向こう側が、依然不明のままだからです。だからこそ「どこから来て、どこへ行くのか」という疑問も湧いてくるのです。

 

時空間というものが支配する、この物質世界だけから見れば、確かに、この世に肉体を持った「生」が、ある日誕生し、そしてまたある日消滅するように見える。しかし、それを見つめただけでは、この自分という「意識」が、その前後でどうなるのだという疑問は解けないのです。

 

これはちょうど、「宇宙」の創生ということと相似形を為した命題になっているのです。

 

今の『ビッグバン理論』では、ある日ある時、「無」から突如「宇宙」が誕生したのだと言い、誕生したからには消滅する日もきっとあるのだろうと言っています。では、「ある日ある時」というのは何なのでしょうか? その瞬間はどうやって決まるのでしょうか。どうすれば、「無」から突如「ある日ある時」が生じるというのでしょうか? それまでは「時間」も「空間」も無かったのですよ。

 

「無」から、ある日ある時、自発的に「有」が生じるということであれば、それは「無」ということにはならないのではないでしょうか? そうさせる何らかのフォースが加わらなければ、変化など起きようがないのではないでしょうか。そして、そのフォースが有ったということになれば、「宇宙」が誕生する以前は「無」だったという前提そのものが崩れてしまいます。

 

このように、宇宙の創世に関する疑問は、人間の誕生に関する疑問と、完全に相似形を為しているのです。どちらも、物質世界だけから説明しようとした際には必ず論理的矛盾にぶち当たる。そもそも「無」とは何なのでしょう? 「無」を簡単に口にする、科学者、哲学者、宗教家には、「これが無だ!」というものを、ぜひここに見せていただきたいと思います。

 

宇宙というのは、完全なホログラフィック構造を持っていて、大きいものも小さいものも、超巨大なものから極小のものまで、組成はみな同じなのです。大宇宙をマクロコスモスといい、人間をミクロコスモスというゆえんです。人間は神に似せて創られたということの意味はそこにあり、人間の肉体を構成している元素も、実際宇宙と同じものです。

 

「宇宙」には始まりも終わりもなく、したがって「無」もなく、「宇宙」はただただ「変化」し続けているのです。そしてこの「変化」こそが「生命」の実相なのです。「宇宙」の別名はまだまだあります。「宇宙」は真理、「宇宙」は自由、「宇宙」は愛、「宇宙」は知恵、「宇宙」はつながり、「宇宙」は永遠、「宇宙」はエネルギー、「宇宙」はバイブレーション、「宇宙」はプロセス。そのどれもが正しい。

 

これらの一切合切が「宇宙」。

よって「宇宙」は一つ。一つが全部。

All is one.  One is all.

全部が “それ” 。“それ” が全部。

この “それ” を、ある人は「神」と呼ぶ。

 

あなたは何者なのか? どこから来て、どこへ行くのか?

その答えが、ここにあります。

 

あなたは「全部」の一員だ。だから「全部」のことを、もし「神」と呼ぶのであれば、あなたはご自分のことを、堂々と「神の一部」だと言っていい。いやもっと「私が神だ」と言っても構わない。なぜって、それが事実なのだから。でも忘れちゃいけないよ。全員がそうなのだということを。全員が「神の一部」なのだということを。そしてその総体が「神」なのだということを。

 

あなたは「神」より出でて「神」に還る。地上での体験を、自由に行うために。その乗り物として借りたものが今のあなたの肉体だ。だから、乗り物をいたわってあげなさい。粗末に扱ってはいけないよ。乗り物が発する警告を聞きなさい。手入れを上手にしてあげなさい。そして、この乗り物を最大限使って、自分の想いを表現し、行動し、体験するのです。それが、あなたという人間を決める。

 

あなたは「神」だ、「神の一部」だ。これが一つの結論。でも、そこから一部(a part)となって分かれたあなたには、もう一つの「自分探し」が待っている。それが、今のあなたという存在、その意味だ。

 

人生に意味はあるのか? それを、いくら探そうとしてもダメだ。ジェネラルな意味なんて所詮ないのだから。人生に意味などないんだ。目的はあってもね。

 

「えっ」と驚くことはないし、途方に暮れることもない。目の前を見回してご覧なさい。コーヒーカップがあるとしましょう。でもそれがコーヒーカップだと決めたのは誰なんだろう。それにご飯をよそって食べたっていいし、味噌汁を入れたっていい。お米を量るのに使ってもいいんだ。いいかい、ここで重要なのは、周囲のものは全部あなたが意味を与えているってことなんだよ。

 

ものごころが付き始めた幼い子と付き合ってご覧なさい。うるさいくらいに「ねえ、これなあに?」って訊くよ。それは、まだ意味を与えていないってことなんだよ。典型例はゴミだ。その瞬間までは有効に使っていたものを、ある瞬間からあなたはゴミという意味に変えてしまう。でもそれを拾い上げた人が、骨董という新たな意味を与えるかも知れないよ。

 

ここに気づくんだ。今の世の中の不幸は、外側の条件が、自分というものを規定させていく(と思い込む)ように仕向けられていることなんだよ。いわく、あなたは金持ちだ、貧乏人だ、どこそこ出身だ、職業はこうだ、肩書きはこうだ、障害者だ、病気持ちだ、独身だ、老人だ、デブだ、ヤセだ、etc.。

 

「ねえ、これなあに?」と訊いた、無垢なあの日を、ほとんどの人間が忘れてしまったんだ。そして、外側からやってくる「意味」を、他の誰かが作り出した「意味」を、無条件に受け入れてしまっている。この状態を「洗脳」と言うんだよ。

もう一度言うよ。周囲のもの全部に意味を与えているのは、実はあなただ。

 

なぜ、自分にだけは、自分で意味を与えない?

 

いいかい、人生に意味などない。意味を与えるのは、あなたなんだよ。そしてそれは自由なんだ。大切なのは、「自分はこういう存在としてありたい」と、自分が決めることなんだよ。それが、実は「自分探し」ということなんだ。チルチルとミチルの話を何度かしたけど、自分を探そうとして、いくら外に旅に出たって発見などはできない。自分が自分に意味を与えた時、わたしが決まるんだ。

 

あなたが、「こういう存在でありたい」と決めた時、あなたの思考が決まり、あなたの行動が決まる。それを Be Here Now で生きて、その生きた連続した軌跡が、あなたの人生なんだよ。それがハッピーというものなんだよ。だから、あなたにはお願いしたいんだ。素直な存在、誠実な存在、苦しんでいる人を助ける存在、溢れんばかりの愛に包まれた存在となることを。

 

今ここで、そういう人になることを宣言して欲しい。

 

そう、分かった。あなたの宣言を受け止めたよ。

気候の極端現象が示しているもの

今日も雨降りです。昨日も一昨日も、梅雨入り以来もうずーっと。私が住んでいる山間の部落では、梅雨が明けないまま秋になってしまいました。『夏は来ぬ(きぬ)』という唱歌がありましたが、(これは「夏が来たよ」という意味ですけれど)、今年は「夏は来ぬ(こぬ)」です。赤とんぼが飛んでいる下でアジサイの花が咲いているんですから、もうメチャクチャ。

 

「異常気象」ということが言われ出したのは、確か30年くらい前からだったと思うのですが、今や「異常気象」が当たり前。異常が通常。毎年々々「異常気象」で、もう何が正常なのかも分からなくなってしまいましたねぇ。農家さんはどうされているのかなぁ? 対策を講じられているとは思うのですが、きっとお困りだと思うし、ひいては食卓にも影響して来ることですから心配です。

 

「地球温暖化」をめぐっては、温暖化などしていないという学者もおりますし、炭酸ガスとの因果関係などないという人もおられます。平均気温の経年データを見れば、確かにそうなのかも知れません。ですが、あまり言われていないことで、みなさんがお感じになっていることがあります。それは、気候の「極端現象」ということ。

 

猛暑と極寒、干ばつと洪水といったブレが大きくなっていて、しかも今まで起きたことがなかった地域に突如として起こる。あるいは、台風やハリケーン、竜巻などの勢力が非常に強くなって来ていることも特徴です。平均気温を見るというのは、極端なブレを中和してしまうわけですから、いま地球に起きている現象を正しく見ていない気がします。

 

振り子を思い浮かべてみてください。平穏で静かにしているときは中間点付近でほぼ止まっています。ところが片方に振れると、安定を取り戻そうとして今度は逆方向に振れます。その振れ幅がどんどん大きくなっているというのが、今の気候に見られる「極端現象」です。人間にとってはこれは脅威ですが、地球という生命体にとっては、ホメオスタシス的な活動をしているだけなのです。

 

ではなぜ、振り子の振れ幅が、大きくなる一方のままで沈静化していかないのでしょうか? それは地球に対して、片側に振ろうとする力が、人間によって引き続き加えられているからです。資源奪取のための環境破壊、放射能や化学物質による汚染、都市やレジャー施設の建設のための大規模な開発、そして戦争行為による地球破壊がいたるところで行われています。

 

これらのストレスが、全部、物言わぬ地球に向けられています。もしあなたが地球さんだったらどうするでしょうか? きっと「人間どもよ。もう、いい加減にしろ!」と、怒って叫ぶと思うのですけれど。

 

人間というのは、つくづく不思議な生き物だと思います。生物の第一義は「生存すること」です。生存して子孫を残そうとするのは、生物の本能です。ところが人間だけは違うのです。人間だけは、ありとあらゆる面から見て、種としての生存が危うくなる方策を次々に選択していく。そして子孫には、今よりさらに過酷な環境を残そうとするのです。

 

さらに不思議なのは、なぜそうするかと問えば「自分が生き残るため」だと言うのですから、まったくもってわけが解りません。地球はもうダメだからと、さっさと見切りをつけて、火星への移住計画を練っているグループさえいます。どうして、いま自分たちがいるこの地球を、パラダイスに還そうとしないのか、そういう発想を持たないのか、本当に不思議でなりません。

 

あなたが見る現実は、あなたが創っています。そう言うと、「意味がわからん!」と仰る方もおられるでしょうから、言い方を変えますと、あなたが「現実」だと思っている世界は、あなたが知覚して意味を付与した世界です。あなたの知覚と認識なしに、「現実」が存在していると証明することは不可能です。知覚と認識があってこそ、はじめて「こう在る」と決めることができるからです。

 

仮に、あなたの知覚認識とは別個に「現実」というものがあるとしても、その総体を知ることは不可能です。あなたが見ている「リアリティ」は、あなたが自分の意思で選び取って、知覚し、意味を与えた、あなた独自の限定された世界なのです。ゆえに、あなたが見る現実は、あなたが創っているのです。人間社会が「現実」と呼ぶものは、こうした個々の人間の総和が創り出したものです。

 

さて、気候変動の「極端現象」は、人間にとって脅威であることは疑いようもありません。しかしそれが、なぜ起きているかと言えば、いま言ったように、人間の総和がそうした現実を創り出しているからです。あなたも既にお気づきでしょう。世界各地で起こる事件、事故、メディアに表れる人々の怒りに満ちた言動、マネーの儲け話、平気で嘘をつく人々など。今やあらゆることが極端化していることを。

 

そうです。気候変動に見られる「極端現象」は、まさしく、人間の心と行動の「極端化」を正確に映し出しています。人間が極端に走るから、環境も極端に変化しているのです。生命というものは一体だということに気づいている人は、その因果関係を直感的に理解しています。しかし地球は単なる物体で、空気も水も土もタダで、いくらでも奪えばいいと考えている人は、そうは考えません。

 

今の地球人類にとっての最大かつ真の脅威は、実は環境変化にあるのではなく、生命というものが何かを知らない人たちが、政治、経済、科学技術の指導者となって、人類を先導していることにあります。環境というのは、人間の意識が外に表現されたものです。ですから、人間の意識が変われば、それに合わせて変わっていくものなのです。ここを取り違えてはなりません。

 

あなたが、今のような種としての存続をもしこれからも望むのであれば、地球人類の総和としてのマインドが、それを実現するような方向へと梶を切ることに、少しでも貢献していくことが大切です。あなたのマインドが先ず変われば、あなたが触れる周囲の世界が変わり、周囲の世界が変われば、それに触れる世界がさらに変わる。こうして人類の集合意識が変わっていくのです。

 

これから、周囲のものを見る時には、そこに振り子を重ねて見てください。世界各地で起きる事件の報道、政治家やコメンテーターの言動、企業のコマーシャル等々。それらに振り子を重ねて見て、どの程度の振れ幅かを計ってください。大きく振っているものは、すべて無視することです。それらは害しか与えません。ほとんど揺れていないものや人、それこそが人類の未来を変えうる本物です。

 

ここであなた方に言っておきます。霊的には、宇宙から安心や安定が失われるということは絶対にありません。理屈から言ってあり得ません。その「因の世界」を、物質世界に表出した状態が、いわゆる「Middle Way(中庸)」なのです。つまり、振り子がほとんど振れていない状態。これこそが、神の世界の様相を映し出した世界なのです。

 

ところが、残念なことに多くの人が逆を行ってしまいます。中庸はいかにも刺激がないので、どれほど重要かに人々は気づかないのです。そこで極端なことを求め、それに慣れてしまうと、もっと極端を求めてみんな右往左往している。そういう人たちを、ひとつ引っ掛けてやろうと、釣り糸を垂らしてる人たちが大勢いることに気づかない。そうやって「極端化」がグルグルと回っているのです。

 

彼らは「必要」ということを言って迫ってきます。逆に言えば「そのままでは足りないよ」と人々に思わせるのです。

 

幸福のためには経済成長が必要、経済成長のためには安定した電力すなわち原発が必要、豊かな老後のためにはウン千万円が必要、病気予防のためには定期健康診断が必要、ワクチン接種が必要、若さと健康のためにはサプリメントが必要、財政健全化のためには消費税の増税が必要、防衛のためには新兵器が必要、核戦争に備えてシェルターが必要、etc.。

 

こんな罠には落ちないように。もう一度言います。あなたの現実は、あなたが創るのです。あなたが「足りない」「これがないと幸福になれない」と思っていれば、そういう現実をあなたが創り上げます。でも「足りないものは何もない」「何もなくたって幸福だ」と思っていれば、あなたはそういう現実を創るのです。幸福とは、条件ではなく、そう感じる心です。

 

これからは、平和を信じて本当に平和に暮らす人と、平和ボケではいかんと言って恐怖や不安を撒き散らす人を信じ、罵り合いや傷つけ合いの中に暮らす人と、完全に二分されていくことでしょう。これもまた「極端現象」なのです。宇宙から安心や安定が失われるということは、絶対にありません。ですから、あなたには安心して、よき未来の創造(想像)に貢献していただきたいのです。

優越意識

自分がまだ10代だったころ、オフクロは、私によくこんなことを言っていました。「ひとの良いところだけを見なさい」。これは当時、イヤな奴との軋轢に悩んでそれを吐露した際に諭された言葉です。でも当然、そんな言葉で納得するわけがありません。ますますぶんムクれて「そんな問題じゃねーんだよ」と悪態をついていたと記憶しています。

 

しかし今にして思うと、その通りだなと思うのです。その言葉は、10代の自分を直ちに変えさせるまでにはいたりませんでしたが、でもこうして今も頭の隅にずっと残っている。真実の言葉というのはそいうものだと思うのです。決して古くはならない。そして受け入れる準備が整った時に、パッとそれが解る。

 

「良いところだけを見ろ」と言われても、もちろんそんなわけにはいきませんよね。たとえば、コーヒー豆の選別を考えてみるとすると、良い豆を選ぶということは、悪い豆を取り除くということですから、この2つはいつも同時に起こるのであって、良いところだけを見るということは実際には不可能です。ま、屁理屈を言えば。

 

でも価値の置き方を選ぶことができます。ひとの粗探しばかりしていたら、その人の良い点が目に入らないし、だいいち自分の心の中をネガティブでいっぱいにしてしまうわけですから、気分がよかろう筈がありません。逆に悪い点はスルーして、良い点だけを見ていれば、こちらの心の中をいつも快適にしておけるというわけですね。

 

インターネット社会になって、嘆かわしいなぁと思うのは、この粗探しや、他者を罵倒するという行為が、もはや当たり前の感覚に育ったことです。誰も彼もが、特定のターゲットを決めては悪罵を投げつけている。節度なんて、もうどこにもない。

 

最初にこれをやったのはテレビでした。次いで夕刊紙。それ以前に週刊誌というものがあったのですが、週刊誌はあくまで裏の道でしかありませんでした。ところがテレビが、表の道でそれを解禁してしまった。とにかく、ターゲットにした人物を徹底していじめ続ける。このいじめが終わるのは、賞味期限が切れた時か、次のいじめのターゲットが見つかった時だけです。

 

そして、インターネットで匿名で個人発信が出来るようになってからは、雪崩を打ったようにその感覚が広がり、子どもたちの間でネットいじめまでが登場するようになってしまいました。皆さんは覚えておられるでしょうか? 2チャンネルが登場した当時、これに眉をひそめる人は多かったんですよ。今は全部が2チャンネル化してしまいました。

 

政治では、ジョージ・ブッシュ大統領が登場してから、タガが外れてしまいましたね。今のドナルド・トランプ大統領をご覧なさい。安倍晋三首相をご覧なさい。節度なんてどこにもない。これが今の時代の風潮。国会の場を見てください。テレビのコメンテーターを見てください。みんな、自分以外の誰かをこき下ろすことに血眼になっているじゃありませんか。

 

結局、そうした言動の奥にあるのは優越意識です。あるいは、自分が優越だと(思いたい)意識です。現代社会では、人々の間に、こうした優越意識が、異常とも言えるほど肥大してきています。この主原因は、今の人間社会から、皮膚感覚のコミュニケーションが失われてしまったためです。血縁、地域縁、職場縁、etc.。かつてあった共同体がことごとく崩壊し、みな孤立してしまった。

 

するとどうなるでしょうか? 自分を定義づける場がないのです。活躍の場がないと言ってもいい。たとえばコミュニティでお祭りか何かのイベントをするとしましょう。気心が知れた人間が集まった時には、Aさんは字がうまいから看板を書いてもらおうとか、Bさんは料理が得意だからまかないをやってもらおうとか、自然と役割が決まりました。つまり自分を定義づけられたわけです。

 

ところが、今はそれがありません。そこで、根拠のない優越意識を振りかざすことで自分を定義づけたいと思うのです。「こいつ、なんにもわかっちゃいねーぜ」とか、「ただのハゲのおっさんだろ」とか、ワンフレーズでこき下ろす。こき下ろすのですが、その理由については説明がないし、「My opinion(私の考え)」をきちんと話すこともないのです。

 

そして、この優越意識が、国家、民族、人種、ジェンダー、血筋、学歴、企業名、役職、財産、スタイル、美貌、若さ、宗教、政党、軍事力、経済システム等々、ありとあらゆるものに仮託され、自分たち以外の者をこき下ろす際の道具(ツール)となっているのです。今の世界がメチャクチャなのは、これを他ならぬ、指導者層にいる人たちが、最も率先して行っている異常さです。

 

なぜ世界から戦争と貧困がなくならないのか。なぜ地球の環境破壊が止まないのか。これらの原因は、最も強烈な優越意識を振りかざす人間が、政治、経済、教育、宗教等の指導者となって、民衆を優劣の差別意識へと駆り立てているからです。これが社会の劣悪さを生み出している元凶なのに、彼らは優越意識を正当化する言葉と行動しかしないのです。

 

そこに、一般の民衆が巻き込まれて、さらには自分たちも優劣意識の論理に染まり、その中で自由を奪われ拘束されている。これが、人類の最大の不幸であり、この不幸が、今や種としての生存さえ危うくさせる段階にまで来ているのです。人間が、種としての存続をこのまま望むのであれば、この自滅行為をストップさせねばなりません。この構造に気づくのです。

 

優越意識を持つことは、そりゃあ気持ちのよいものでしょう。周囲の人たちの尊敬を集めることができるでしょうし、人々を支配することだって可能でしょう。けれども、自分よりも優越を主張する存在が出現した時、この気持ちよさはたちまち不快に変わります。相対的に劣位に転落してしまうからです。そこで優越意識を保つために、目障りな奴は徹底して攻撃しようとするのです。

 

世の中をよくよく眺めてご覧なさい。国家 vs 国家、企業 vs 企業、政党 vs 政党、政治家 vs 政治家、宗教 vs 宗教、学者 vs 学者、コメンテーター vs コメンテーター、全部がそのような不毛な争いを延々と繰り返しているのが解るでしょう。その裏にあるものは、実に単純な衝動です。俺よりも優れた人間がいることなど絶対に許さんぞ。

 

そんなことをして苦しむのは誰でしょうか。みんなです。勝者などいない。優越意識に浸って、一時いい気持ちを味わうこともあるでしょう。ですが、これを覚えて置きなさい。他人に為したことは自分に為したことと同じである。なぜなら、全部が一つだから。他人を叩けば、自分を叩いたことと同じであり、他人を愛せば、自分を愛したことと同じになるのです。

 

あなたには個性があります。その個性は、何のためにあるとお思いですか? 優劣を確認するためにあるのではありませんよ。あなたを定義づける道具(ツール)としてあるのです。

 

あなたが編み物を始めたとしましょう。あなたはその日から「編み物をする人」になる。それが好きになって、どんどん研鑽を積んだとしましょう。あなたは「編み物が上手な人」になる。さらに研鑽を積んで独自の技を身につけたとしましょう。あなたは「編み物の達人」になる。そして、個性が輝く。あなたの個性を、他の人々に、社会に、役立てることができる。

 

それは優劣ではないのです。個性なのです。一人ひとりが、みんな素晴らしいのです。周囲に違った個性があるからこそ、あなたも個性的でいられるのです。ですから自信を持ちなさい。あなたの個性は誰にも真似できないのですから。そして、周囲の個性を讃えなさい。みんな違っていることを喜びなさい。

 

お手てつないで一緒にゴールすれば平等なのではありません。そんなことをしたら個性を圧殺してしまいます。駆けっこが速い子はそれを讃えてあげなさい。ビリの子は、剽軽でひとを笑わせるのが得意かもしれない。植物の観察に熱心かも知れない。学校では目立たないけれど家ではお母さんの手伝いを黙々とやる子かも知れない。それを見出してあげるのがエデュケーションです。

 

バラはバラであり、ユリはユリであり、ユリはバラになる必要はなく、バラよりも劣っているのではないことを、自然を手本にして子どもたちに伝えてあげなさい。バラはバラとして咲けばよいのであり、ユリはユリとして咲くことが、美しさのハーモニーを形づくっていることを伝えてあげなさい。そして、最初からそのように花咲くことが約束されていることも。

 

ひとの粗探しはもう止めにしましょう。誰かの粗探しを一つする。それは、自分の心の中に「不快」を一つこしらえたということなんですよ。自分の気分を自分で悪くするような、そんなバカなことは、もう金輪際やめましょう。

 

だから、粗探しではなくて、ひとの良いとこ探しをしなさい。そうやっていつも他者を見なさい。一つすれば、あなたの心は一つ豊かになる。いっぱいいっぱいすれば、あなたの心は豊かさでいっぱいになる。周囲の物、周囲の人に意味を与えているのは、つねにあなただということに気づきなさい。自分がどういう意味を与えるかで、不幸にも幸福にもなれることに気づくのです。