by Rainbow School
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他者に支配されない生き方

みなさんは、今のご自分の心を、自分で自由に選ぶことができます。これがいわゆる「自由選択」というもので、それは天から与えられた、これ以上ないギフトなのです。このことは、これまでにも何度も語ってきました。この意味とメカニズムをよく理解し、宇宙の法則に合致した生き方を選択することが、自分で自分を支配するということです。言い直せば、他者に支配されない生き方です。

 

ところが、ほとんどの人が、このメカニズムをよく解っていません。自分の意識が意識化されていない状態で生活しているのです。先日もこのようなご相談がありました。夫婦関係がうまくいかずに困っているが、ご主人にどうもコミュニーケーション障害の疑いがあると言うのです。私は即座に、そのようなレッテル貼りは、お互いに何の益ももたらさないと申し上げました。

 

ご主人に、もしそのような診断を伝えたら、ご主人は「俺ってコミュニーケーション障害者なのか?」と思うでしょうし、奥さんの方は「こういう障害を持つ夫と暮らし続けていくにはどうしたらいいのか」という発想から逃れられなくなってしまうでしょう。あるいは、ご主人が怒って、「バカにするな。おかしいのはお前の方だろう」とやり返してくるかも知れません。

 

このような、誰かが誰かを診断する(言い換えれば「裁く」)という行為が、今や世間広く、当たり前のように行われていて、「◯◯障害」という新語がどんどん発明されている状況です。そしてなんと、このような新語を仕入れることが、現代人の教養であるかのような錯覚がまかり通っています。これは実に由々しき事態です。

 

人は、よく解らないものに対し名前を付けると、それだけで解ったような気になってしまうものです。典型例は、お医者さんの診断および病名の付与です。多くの人たちが、自分を「◯◯病」だと診断して欲しくて、せっせと医者通いをしています。現代のお医者さんとは、病気を治す人ではなく、病名を探して付ける人になっています。

 

ですが、あらゆるレッテル貼りは、対象物の本質を、本当に余すところなく表現しているのでしょうか? 夫を、妻を、子どもを、「◯◯障害」という枠組みに嵌める。それは、その人の本質なのでしょうか? いいえ、そのように見る人の、見たい人の、創り出した意識です。対象物に意味を与えたのは、その人が決定したレッテルです。つまり、「問題」はその人が創っているのです。

 

このことを、人は全くと言っていいほど意識していません。ですから、自分がいま感じている諸問題は、すべて外からやって来ていると信じ込んでいます。わたしがこうなったのは、あの人のせい。正しく評価されないのは組織のせい。恵まれないのは社会のせい。不安にさせられているのは隣国のせい。世の中をメチャクチャにしているのは◯◯人のせい。

 

そして、これを声高に叫ぶ人たちで世の中が溢れかえっている。みんなが、己の満たされぬ感情の捌け口を、自分以外の誰かにぶつけている。そして何より、政治の指導者である人間とマスコミが率先してこれを行っています。しかしここで、根本的な点を指摘しておきます。「関係」は、片方だけでは作れない。「関係」とは、AとBとの「間(あいだ)」に生じるものなのです。

 

この自明の理を、多くの人が理解していません。自分のことは自分にはなかなか見えないので、みんな相手ばかりを非難しています。相手が悪いから、ちっとも「関係」が改善しないんだと思っているのです。ですが、そうではありません。「関係」とは、常に「間」に生じるものです。この「間」は、キャッチボールをする時と一緒で、自分が想うもの、願うものがそのまま返って来るのです。

 

私が『世界入りにくい居酒屋』やコウケンテツさんの食の旅番組、『世界ふれあい街歩き』や関口知宏さんの旅番組が好きで「いいなぁ」と思うのは、初対面の人どうしがすぐに打ち解けて、お互いの文化の話に花が咲き、互いに学び合っている点です。もしも、世界中がこうだったとしたら、なんとステキだろうとは思いませんか?

 

でもなぜ、そんな「関係」がすぐに構築できるのでしょうか。それは番組を見ての通りです。相手を疑っていないからです。胸襟を開き、子どものような好奇心を前面に出して、遠慮なく話し掛けて行っているからです。だから、それに応じた球がすぐに返って来るのです。

 

関口知宏さんやコウケンテツさんが、もしも銃を腰に下げ、疑いの眼で旅先の人を見て、ファイティングポーズをとりながら飛び込んでいったとして、同じことができると思いますか? この当たり前のメカニズムを、どうして夫婦関係や、親子関係や、職場の人間関係や、外交に当てはめてみようとはしないのでしょうか?

 

多くの人が、自分の今の意識は、実は自分が選んでいるのだということを意識していません。これを、「肉(身体)に埋没した状態」と言います。五感がキャッチした、外からやって来た情報に、ただ反応しているだけなのです。けれども、自分の意識は自分が創っているということを意識する習慣をつけるだけで、あなたは自分を劇的に変えることができます。

 

たとえば、あなたが誰かに殴られたとしましょう。殴られた箇所には瞬間的に痛みが走ります。でもその直後の気持ちを、あなたは自由に選ぶことができるのです。「コノヤロー!」と反射的に殴り返すこともできますし、その場に蹲って泣くこともできますし、「さあ、もう一発殴れ」と言ったっていいですし、微笑むこともできますし、有り難いなぁと思うことだってできるんです。

 

その意識の選び方いかんで、あなたが経験する現実が、まったく変わってしまうのです。もう一つの例を言いましょう。職場で、イヤだなと思う仕事を命令されたとします。どっちみちそれはやらなくてはならない。だとしたら、イヤイヤするよりも、その体験を通じて絶対に何かを掴んでやろうと、気持ちを切り替えてやった方がずっといいし、実際それはできるのです。

 

ここで、あなたを劇的に変える重要なポイントをお教えしましょう。どんなことでも、それを、あなたが自分でハンドリングしているという意識を、常に持って行動することです。あの人からこう命令された。これをやらされた。こんな目に遭わされた。このようなパッシブな気持ちは一切捨てて、どんな時も、その中にアクティブに自分が関われる要素を見出してください。

 

探せば必ずあります。たとえば、人付き合いが苦手なのに大勢の人の接客を頼まれたとしましょう。「いやだなぁ。うまく話せるだろうか、粗相なくできるかどうか心配だ」と思う。これを、「よーしこの機会だ。人間観察をして、客の行動にパターンがないかどうか、一つ分析してみよう」となれば、その体験が、その後のあなたにとって、貴重な肥やしになるかもしれません。

 

このように、何事も表向きは「ハイハイ」と聞いておいて、内心では全部を自分がハンドリングする要素に変えてしまうのです。これが、自分で自分を支配するということです。そうすれば、「今を生きる(be here now)」ことの感覚があなたにしだいに入って来て、あなたの人生がハッピーなものに変わっていきます。そして実際、その方が仕事がうまくいき、感謝だってされることでしょう。

 

さてメカニズムが解ったところで、冒頭に示した「宇宙の法則に合致した生き方」とは何でしょうか? これは、愛を与えれば愛が返って来るということです。逆に言えば、憎悪を与えれば、憎悪が返って来るのです。さて、あなたはどちらを望むでしょうか? 当然、前者でしょう。‥‥と言いたいところですが、世の中はまるでそうなってはいません。

 

その理由は、「宇宙の法則」を知らないということもありますし、自分の意識を意識化できていないということもあります。でももっと大きな、根本的な原因があります。それは、あなた方の選択行動に影響を与えている動機が、ほとんど「恐怖」から出発しているということです。「愛」と「恐怖」とを比べたら、「恐怖」の方が、100倍ものモチベーションを与えることができるのです。

 

所有欲は失うという恐怖から生じ、金銭欲は貧困への恐怖から生じ、戦争は攻撃されることへの恐怖から生じ、医療保険は病気や死ぬことの恐怖から生じ、健康食品やスキンケアは老化への恐怖から生じる。そしてそれらに備えれば「恐怖」から逃れられると、みんな思っています。いや、思わされている。社会のシステムが、すべてそのような「恐怖」をモチベーションとして構築されているからです。

 

こんな状況下で、「愛」に基づく選択行動をとる人が、いったいどれだけいるでしょうか? 本当にお寒い話です。でも、だからこそ、ご自分の意識の意識化に取り組んでいただきたいのです。人間の選択行動をプッシュするものとしては、「恐怖」が圧倒的な優位にあります。しかしそれを利用し、大衆を支配しようと企む人たちの尻馬に、やすやすと乗ってはいけません。

 

たとえ1パーセントが支配しようとしても、99パーセントが「No!」と言って従わなければ、それは成立しないのです。長い長い歴史の中で、人類はこれまで、一度たりともそれができませんでした。しかしそれを、今度こそ乗り越えることが、人類に向けられた大いなる課題です。

 

核の惨劇は、一度経験すれば充分ではないでしょうか?

原発事故の災厄は、一度経験すれば充分ではないでしょうか?

ナチズムの集団洗脳は、一度経験すれば充分ではないでしょうか?

戦争したがりの人たちが、国民をどのように誘導していったかは、一度経験すれば充分ではないでしょうか?

世界大戦は、二度も経験すれば、もう充分ではないでしょうか?

政府は必ずウソをつく。マスコミは真実を伝えない。これも、もう充分に経験したのではないでしょうか?

 

ああ、愚かな人たちよ。

世界を、人類を、我欲のために、破滅にまで導きたい人がいることは確かです。

でも、なぜ、そういうリーダーたちに好んで着いて行こうとするの?

着いて行き、わざわざ心を不安と怒りでいっぱいに満たし、

わたしが与えた、愛の輝きを棄てようとすることを選ぶの?

99パーセントが着いて行かなければ、1パーセントはどうすることもできないのですよ。

宗教の和は成るか?

私の祖父は宗教家でした。山岳密教の修験道行者で、八海山を行場としていました。父は八人兄弟の次男で、幼い頃から寺(以前には本堂があったのですが今は消失)を継ぐように言われていたのですが、兵隊に取られてしまい、結局は医者になる予定だった伯父(長男)が後を継ぎました。そのような訳で、父は宗悦という宗教者の名を付けられ、その父から私は宗和という名を付けられたのです。

 

誰でも、自分に付けられた名前に、特別な関心を抱く一時期というものがあると思うのですが、私も〈宗の和が今成る〉という自分の名前については、ことあるごとに考え続けて来ました。父からは「名前負けしている(名前が立派過ぎて中身が追いついていない)」としょっちゅう言われ、「俺が付けたんじゃねぇ」と反発しましたし、自分の名が好きではありませんでした。

 

宗教的なものが大嫌いだったカミさんは、「宗」の字を毛嫌いし、生まれた息子には、「宗の字を付けたら絶対にダメ。宗ネームはあなたの代で断ち切ってください」と言うので、私はそれに従いました。息子の名は、自分の願望を押し付けるようなことはしないようにと、生まれた赤ちゃんに「どう呼ばれたい?」と聞いて、それを付けました。

 

「宗」という字は、ウかんむりに示と書きます。ウかんむりは家の屋根の象形で示は「神」ですから、この字は「家の神」を意味し、そのことから特定集団の信仰を表しています。ということで、その特定集団の教えが「宗教」ということになるのです。以前から、私は宗教的なものには強い興味がありましたが、けれども宗教にはどうしても馴染めないものがありました。

 

最近になって、その理由というものが、過去世との関係でようやく解って来たのですが、それは書かないことにします。とにかく「宗」の字がだんだんとイヤになって来たものですから、それに山をつけて(家を合わせた全体という意味がある)「崇」に変えてみたりしたのですが(でもこれ、タタリとも読むんですよね(´ρ`))、それもコダワリに過ぎないなと思い直して、元に戻したのです。

 

祖父の時代(明治、大正、昭和初期)には、宗教が必要だったと思います。今と違って、民衆の中に学識のある人というのは少なかったですし、疑問があったらキーワド検索をすればすぐに答えが得られるという環境もありませんでした。人々の悩みの主たるものは貧しさと病気であって、それに具体的に援助の手を差し伸べるものとして、山間の部落においては宗教が一定の役割を果たしたのです。

 

しかし今の時代は、宗教成立の前提となるもの(社会環境も、科学の進歩も、人々の学識も、悩みの質も)が大きく変わり、人々の精神的支柱、もっと言えば魂の支柱となるものが、もはや「宗教」では支えきれなくなっていると思うのです。

 

「宗教」は、物質世界を超えた Something を、信仰や預言や教義や戒律として人々に提示してきました。それは、無学な人が多かった時代、また科学が未発達な時代には仕方のないこと、むしろ必要なことだったと思います。けれども宗教は、同時に大きな弊害をもたらしました。それは、自分の頭で考えないようにさせるということ。つまり、人間をロボットにしてしまうということです。

 

宗教家は「信仰」の大切さを説きます。時に、「やっぱり信仰がいちばん大切ですか?」といった質問を私も受けることがあるのですが、「いえ、信仰は必要ありません」と答えると、その質問者はびっくりした顔をして、眼が空中を泳ぐのです。そりゃそうです。自分が昇って来た梯子を、いきなり蹴倒されたようなものですから。それで、呆れ返って去って行かれるわけですが‥‥。

 

信じて仰ぐ。私は、人類にとってこれは最悪な行動だと思っています。自分にはとうてい理解し難い、不可視、不可思議な現象については、もう信じて仰ぐしかないと、多くの人が考えているわけです。問題は、ではその「信じるもの」を誰が提供するのか、ということです。これが、教祖、教団、教義、教典になっている。でもなぜそれが、それのみが「信じる」に足ると言えるのでしょうか?

 

そこで、宗教者はこう言うのです。「ゴチャゴチャ言わんと帰依せい。あれこれ考えるヒマがあったら信仰しろ。他力におすがりするんだ」と。そこで、半信半疑のまま信仰の道に入る。そして、いったん入ると、周囲にも同じような人たちがいますから熱心になるし、理解し合える友だちが出来て救われたような気にもなる。そうして、ますます信仰にのめり込んで行く。

 

こうなるともう抜け出せません。「信仰」は自分を支える柱ですから、もしこれが倒れたら自分が自分でなくなるという恐怖が生じて来るのです。そこで、ただひたすら「信仰」に忠実であることを選ぶ。ところがその先には、避けては通れない関門が必ず待っているのです。その教団の霊的支柱(教祖や後を継いだ者)の死です。ここで、自分を支えていた柱がポッキリ折れる。

 

ですから、宗教教団というものは、その後の跡目争いを巡って、必ず内紛状態に陥り、担ぐ人を立てて、いくつかの宗派に分裂し、やがては互いを非難するようになります。シーアとスンニの争いもそれですし、日本のある大教団も今そうなりつつあります。いったい何のための「宗教」だったのか、「信仰」だったのか、という原点を、権力闘争の陰でみんな忘れてしまうのです。

 

これが「信仰」というものの恐ろしさです。自分で気がつくということをさせずに、他力にすがるようにさせる。それは他力のロボットになるということです。ですから、他力次第で、自分がいいように操られてしまう。今の世界を、混乱と破壊に陥れているものの元凶は、実にこれです。人々の「信仰」が、そして「信仰」の縄張り争いが、今の世界を破滅へと向かわせているのです。

 

「信仰」は、なにも宗教だけの世界とは限りません。資本主義、物質主義、拝金主義、グローバリズム、科学万能主義、国家主義、排他主義、その他もろもろ。あなたを信じ込ませ、自分の意識で気づかせないようにさせているものは、みんな「信仰」です。そしてこの「信仰」同士のぶつかり合いが、バトルロイヤル(battle royal)化してしまったのが、今の世界情勢です。

 

Love is blind.(恋は盲目)。無条件で「信じて」しまったら、人は盲目になってしまいます。どうして宗教どうしが争うのでしょうか? 宗教は、もともと、人々を幸福にしたいと願って始まったものではないのでしょうか? それが今、かつてないほどの殺し合いを、世界各地でまた始めているのです。

 

自分の頭で(あるいは心で、直感で)ちょっと考えれば、それがいかに矛盾したものであるか、愛の対極にある行為であるかはすぐに解るはずです。ところが、それすらも気づかせずに、人をロボットにしてしまう、殺人兵器にまでしてしまう「信仰」というものの恐ろしさ。そして、その恐ろしい行為を、みな「正義」だと信じていることの凄まじい狂気。

 

なぜこのようなことが起きてしまうのでしょうか? その原因は、各宗教が、自分たちの信じる「神」以外は「神」にあらずと、互いに主張し合うからです。これほど馬鹿げた、かつ矛盾した話はありません。なぜなら、「神」は万物の創造者であり、同時に被造物でもあり、よって一者であることは自明だからです。各宗教は、「家の神」と真実の「神」の、区別がついていないのです。

 

あなたも宇宙の被造物です。ですから全体の一員です。ということは、同時に創造者の一員でもあるのです。つまり「神」はあなたの中にある。あなたも「神」の一部なのだ。しかしこのことを、今まで、どの宗教も説いて来ませんでした。宗教は、「神」はあなたの外側にいると主張しました。だから、様々な神、我が神、我々だけを愛する神が創られたのです。そう信じる人間たちの手によって。

 

その結果、創られた神、人間が想像した神(想像神)どうしが戦うようになってしまったのです。これが、今の世界の現状です。私たち日本人にはとうてい理解し難いことですが、西洋社会ならびにイスラム社会においては、同じ中東より発した3つの一神教が、大衆の精神にあまりにも深く浸透しており、一神教であるがゆえに、互いの憎悪がますます酷くなって来ているのです。

 

このような中で、今後、宗教の和が成るのかどうか。和が実現しなければならないことは勿論ですが、そのためには、各宗教が「違い」ではなく「同じ」部分に気づく必要があるのです。果たしてそれができるかどうか。今まで他との「違い」ばかりを強調して来た各宗教にとって、それは180度違う展開になるわけですから、その宗教の解体につながりかねません。その勇気を持てるかどうか。

 

「SOUL」というのは、Singular Outflow of Universal Life の頭文字をとったものという説があります。魂というのは、全てであるものが個別化したものだというわけです。まさに言い得て妙。あなた方はみな、一つのもの(Univers には、宇宙という意味と、普遍的という意味があることに注意)から、物質的身体を纏うことによって、個別化したものなのです。

 

なぜ個別化したのか、それが鍵です。それを、よーく考えてみてください。ヒントはこの文章の中にすでに書かれています。あなた方は、大霊(神)と、個別の魂との間で、行ったり来たりするエレベーターに乗っているようなものなのです。上階(界)行きのボタンを押せば、一者に向けてどんどん融合して行き、下階(界)行きのボタンを押せば、どんどん分離が広がっていくのです。

 

重要なポイントは、各宗教が今どの階のボタンを押しているかということです。上階を押せば融合は深まり、下階を押せば分離が拡大する。個人においてもこれは同じです。あなたが上界行きのボタンを押せば、人はみな同じということに気づき、したがって融和と愛が深まっていく。でも下界行きのボタンを押せば、人はみな違うという意識が強まり、優劣と闘争意識が強まっていくのです。

 

けれども、もしあなたが、「神」は既にそれぞれの内にいるという真理を知ったとしたらどうでしょう? すべての人の中に「神」がいるのですから、最初から一つです。そこには分離はありません。最初から一つなのですから、改めて組織化する必要もないし、教祖、教団、教義、教典も、何も必要がないのです。あなたは最初から完璧であり、ただ在るだけで祝福されているのです。

 

実に簡単なことです。あまりに簡単過ぎて、今までほとんど知らされて来なかったのです。いや、知らそうとして来た人はいつの時代にもいたのですが、人々は、もっと有り難みのあるもの、権威のあるもの、自分が支配されることを求めるものですから、常にその声が無視されて来たのです。でも、人類はもう崖っぷちまで来ました。さあ、あなたはどうしますか? どうしたいですか?

不安と恐怖

すべての恐怖は、未知の状況が、私たちに否定的な影響をもたらすかも知れないという思い込みから生じます。かつては、私もこの思い込みに完全に支配された時期があり、パニック障害にもなりましたし、鬱病になった経験もあります。その頃、藁にもすがる思いで読んだ一冊の本に、こんな一言が書かれてあったのです。「先ずは、正常な不安に戻ることを目指しなさい」と。

 

正常な不安? そうか、今は異常な不安状態にあるから苦しいのであって、正常な不安のレベルに戻すことを目標にすればいいんだ。完治ということや、元気ハツラツというイメージを追い求めなくても別にいいんだ。その言葉は、パニックというループ、鬱というループに陥っている状況から、とりあえず脱するためには、大きな慰めとなったのです。

 

けれども、深い穴蔵からようやく脱してみると、「そもそも自分は、何でこんなにも怖がりなんだろう。恐怖の正体とは、いったい何なのだろう」という次の追究が始まりました。そこで得た結論が、冒頭に記した定義なのです。「未知の状況」「(自分に関しての)否定的な影響」「(それが起こるのではないかという)思い込み」、この3点セットが、恐怖を創り出しているものの原因だったのです。

 

だからこそ、多くの人々が未来予知に対して強い関心を抱くのです。それは、未来予知ができれば、もしかしたら自分に降り掛かる否定的な影響を回避できるかも知れない、という別の「思い込み」があるからです。しかしどっちにせよ、それは「思い込み」であって、恐怖を下敷きにしているという点ではまったく同じ土俵にあるのです。

 

そこで、この人間が持つ普遍的なスキに付け入って、これを利用してやろう、さらには支配してやろうと企む者たちが後を絶ちません。なぜなら、恐怖は、最も単純で、優先的で、かつ人間が強く心を揺さぶられる道具となり得るからです。

 

そこで、為政者は隣国からの侵略の可能性を口にし、核ミサイルが飛んで来るぞと脅し、メディアはテロ事件や殺人事件を大袈裟に報道し、医者は癌のリスクを声高に言い、保険屋は万が一の心配を強調し、教育者は落ちこぼれたら大変だぞと言い、金融機関は老後のお金の心配を訴えかけ、霊能者は大地震や人類滅亡の予言をするといったことが絶えないのです。

 

「備えておけば安心」とみな言います。でもそれは本当なのでしょうか? 大部分は、不安の種を増やしているだけなのではないでしょうか? ミサイルに怯えてアラートのシステムを作ったり、迎撃ミサイルを配備したりしても、それで不安や恐怖が消えるわけではないでしょう。むしろもっと恐怖を煽ることになってはいないでしょうか。そして正に、それこそが支配者の狙いなのです。

 

私の子どもの頃は、世の中に、かくも多くの恐怖の種は存在していませんでした。今よりも物はなかったし、ずっと貧しい生活でした。でも「なんとかなる」という感覚を、どこか持っていたような感じがします。それが今や、どこへ行っても、周囲は恐怖を呼び起こすもので溢れかえるようになってしまいました。小さな子を持った親御さんは、きっと大変な思いをされていると思います。

 

今やもう、個人の心の内ではなく、世の中の方が「異常不安」の状態にある。これは、「異常気象」が正常気象になってしまったこととソックリです。いや、ソックリどころか、この二つは実はリンクしているのだということは以前に書きました。今の世の中は、それ自体が「異常不安」なのですから、こんなものとまともに付き合っていたら、心がおかしくならない方がおかしいです。

 

ところが、それに敏感に反応して、今の世の中への適応を拒絶する者を、世間は決して許さない。落伍者のレッテルを貼り、「異常不安」の社会へと引き戻すことを、なんと治療と称している始末です。しかし、「異常不安」で溢れかえった社会の中で、個としてのアイデンティティを保とうとすれば、自分以外の他者を差別し、ヘイトし、攻撃するしかなくなってしまいます。

 

このようにして、異常な社会構造が、増々加速していっているのです。

 

「脅威」と「恐怖」とは違います。「脅威」というのは、人類という種の存続を脅かすような具体的な動きです。「恐怖」とは、恐れる心です。人類のおかしな点は、「脅威」を取り除こうとはせず、むしろこれを推進しながら、「恐怖」を増大させていることです。原発、核、新兵器開発、軍備増強、環境破壊、環境汚染、コンピュータハッキング、AI、遺伝子工学、金融工学、etc.。

 

いま人類がなすべきことは、「脅威」を取り除くことであって、「恐怖」を増大させることではありません。ここを履き違えてはなりません。為政者やメディアが、何をしようとしているかを冷静に見抜くのです。「恐怖」を煽る陰で、「脅威」に対してはどのような態度を取っているかを、注意深く見てください。実に、そこがポイントです。

 

いいですか、そういう支配者の奴隷になり続けていることが、人類にとっての最大の「脅威」なのですよ。人類史は、その連続でした。

 

支配者というのは、偉い人でも、未来を見通せる人でも、愛に溢れた人でもなんでもなく、ただ支配欲が強くて、自尊心を満足させたいがために人々を騙し続けている人たちです。ここに気づかなければ、そして目覚めなければ、人類はまたアトランティスの終末と同じ轍を踏んでしまうことでしょう。

 

不安に思うことはない、だが不安そのものを恐れよ。

 

不安や恐怖というのは心の持ちようです。自分の感じ方です。ですから、心の持ちよう次第で、それは消滅する。今の時代が、人々を不安だらけにさせているのは、「こうでなければならない」というルールや習慣が、このわずか半世紀で膨大なものに積み上げられて来た結果です。「こうでなければならない」と思うものが一つ増えれば、恐怖が一つ増えるのです。

 

この理屈が解りますか? そのルールや習慣が正しいことだと信じれば、次にそこから外れる恐怖が生まれるのです。毎年、定期健康診断を受けることが正しいと信じれば、次には受けないでいることの恐怖が生じます。ワクチン接種が正しいと信じれば、接種しないことの恐怖が生まれます。このようにして、今のあなた方は、自分の心身にたくさんの「恐怖」を積み上げて来ているのです。

 

これでは、体も心も悲鳴を上げてしまいます。果たして、江戸時代にそんなものがあったのでしょうか? 江戸時代と今と、どっちが太平楽なのでしょうか。人類は、この「恐怖」の積み上げを進歩だと信じ込んでいますが、冗談じゃありません。退歩そのものです。今の世界情勢を見てご覧なさい。いったいどこが進歩なんですか?

 

「未知の状況」「否定的な影響」そして「思い込み」。この3点セットが恐怖を創り出しているものの正体です。そして、そんなものは全くの不必要。

そこで、何度も繰り返し言っているのです。

 

あなたが見る現実は、あなたが創っている。

あなたの想いが、あなたの行動を決め、

あなたの行動の軌跡が、結果としてあなたの人生となる。

だから、未来など、あなたの意識でどうにでも変わる。

重要なのは、あなたがどういう存在でありたいかだ。

私は、こうでありたい。それを決めよ。

そうすれば、どんな瞬間が来ても、あなたの行動は、常にあなたのものとなる。

よって、外の世界から来る情報は、すべて効力を失う。

この時、あなたは奴隷状態から開放され、真の自由を獲得する。

そして、ただ今を、あるがままに生きる自分となるのだ。

自分探し、あなたという存在

自分は何者なのか、どこから来て、どこへ行くのか?

 

日常の喧騒から離れてひとり静かにしている時、ふとそのような思いが沸き起こって来た経験というものが、誰しもあると思うのです。そして大抵は結論を見出せぬまま「余計なことは考えないでおこう」とその思いを打ち消し、また日常の喧騒の中に戻っていく。なぜかと言えば、そんなことを相談できそうな人が、自分の周囲にいそうもないから。言い換えれば、誰しもが分からない。

 

あなたがもし、それを堂々と言葉に出して、周囲の誰彼となくぶつけたりしたら、下手をすると「この人、鬱病かしら」と思われかねない。あなたという「今の存在」の成立に手を貸した親に聞いたとしても、たぶん満足な答えは得られない。学校の先生に訊いてもおそらくは知らない。宗教家に尋ねたら、自宗のマニュアルに載っている見解を、ただ棒読みするだけでしょう。

 

でもね、あなたが「自分は何者なのか」と考えることは、決して無駄なことではないんですよ。それこそが大いなる旅の出発点なんです。この壮大な「宇宙」というものを知るための。そして、「宇宙」と「自分」との関係を知るための。

 

フランスの画家、ポール・ゴーギャンの作品に『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』とタイトルが付けられた、タヒチを題材とした大作があります。タイトルから分かる通り、ゴーギャンは人間存在のこの基本的な命題にストレートにアプローチしようとしていました。それはアーティストならではの直感によって、日常を超えた真理に迫ろうとしたのです。

 

あなたは何者なのか? 実はこの命題については、古(いにしえ)より答えは明かされているのです。しかしその答えを知るためには、あなたという存在が「霊主体従」であるということを、自覚する必要があるのです。なぜなら、この答えは霊的な世界にしか見出せないからです。

 

「この世」という物質世界だけから見ていたのでは、「誕生と死」という人間存在に関する両局面の意味を正しく解釈することはできません。なぜなら、扉の向こう側が、依然不明のままだからです。だからこそ「どこから来て、どこへ行くのか」という疑問も湧いてくるのです。

 

時空間というものが支配する、この物質世界だけから見れば、確かに、この世に肉体を持った「生」が、ある日誕生し、そしてまたある日消滅するように見える。しかし、それを見つめただけでは、この自分という「意識」が、その前後でどうなるのだという疑問は解けないのです。

 

これはちょうど、「宇宙」の創生ということと相似形を為した命題になっているのです。

 

今の『ビッグバン理論』では、ある日ある時、「無」から突如「宇宙」が誕生したのだと言い、誕生したからには消滅する日もきっとあるのだろうと言っています。では、「ある日ある時」というのは何なのでしょうか? その瞬間はどうやって決まるのでしょうか。どうすれば、「無」から突如「ある日ある時」が生じるというのでしょうか? それまでは「時間」も「空間」も無かったのですよ。

 

「無」から、ある日ある時、自発的に「有」が生じるということであれば、それは「無」ということにはならないのではないでしょうか? そうさせる何らかのフォースが加わらなければ、変化など起きようがないのではないでしょうか。そして、そのフォースが有ったということになれば、「宇宙」が誕生する以前は「無」だったという前提そのものが崩れてしまいます。

 

このように、宇宙の創世に関する疑問は、人間の誕生に関する疑問と、完全に相似形を為しているのです。どちらも、物質世界だけから説明しようとした際には必ず論理的矛盾にぶち当たる。そもそも「無」とは何なのでしょう? 「無」を簡単に口にする、科学者、哲学者、宗教家には、「これが無だ!」というものを、ぜひここに見せていただきたいと思います。

 

宇宙というのは、完全なホログラフィック構造を持っていて、大きいものも小さいものも、超巨大なものから極小のものまで、組成はみな同じなのです。大宇宙をマクロコスモスといい、人間をミクロコスモスというゆえんです。人間は神に似せて創られたということの意味はそこにあり、人間の肉体を構成している元素も、実際宇宙と同じものです。

 

「宇宙」には始まりも終わりもなく、したがって「無」もなく、「宇宙」はただただ「変化」し続けているのです。そしてこの「変化」こそが「生命」の実相なのです。「宇宙」の別名はまだまだあります。「宇宙」は真理、「宇宙」は自由、「宇宙」は愛、「宇宙」は知恵、「宇宙」はつながり、「宇宙」は永遠、「宇宙」はエネルギー、「宇宙」はバイブレーション、「宇宙」はプロセス。そのどれもが正しい。

 

これらの一切合切が「宇宙」。

よって「宇宙」は一つ。一つが全部。

All is one.  One is all.

全部が “それ” 。“それ” が全部。

この “それ” を、ある人は「神」と呼ぶ。

 

あなたは何者なのか? どこから来て、どこへ行くのか?

その答えが、ここにあります。

 

あなたは「全部」の一員だ。だから「全部」のことを、もし「神」と呼ぶのであれば、あなたはご自分のことを、堂々と「神の一部」だと言っていい。いやもっと「私が神だ」と言っても構わない。なぜって、それが事実なのだから。でも忘れちゃいけないよ。全員がそうなのだということを。全員が「神の一部」なのだということを。そしてその総体が「神」なのだということを。

 

あなたは「神」より出でて「神」に還る。地上での体験を、自由に行うために。その乗り物として借りたものが今のあなたの肉体だ。だから、乗り物をいたわってあげなさい。粗末に扱ってはいけないよ。乗り物が発する警告を聞きなさい。手入れを上手にしてあげなさい。そして、この乗り物を最大限使って、自分の想いを表現し、行動し、体験するのです。それが、あなたという人間を決める。

 

あなたは「神」だ、「神の一部」だ。これが一つの結論。でも、そこから一部(a part)となって分かれたあなたには、もう一つの「自分探し」が待っている。それが、今のあなたという存在、その意味だ。

 

人生に意味はあるのか? それを、いくら探そうとしてもダメだ。ジェネラルな意味なんて所詮ないのだから。人生に意味などないんだ。目的はあってもね。

 

「えっ」と驚くことはないし、途方に暮れることもない。目の前を見回してご覧なさい。コーヒーカップがあるとしましょう。でもそれがコーヒーカップだと決めたのは誰なんだろう。それにご飯をよそって食べたっていいし、味噌汁を入れたっていい。お米を量るのに使ってもいいんだ。いいかい、ここで重要なのは、周囲のものは全部あなたが意味を与えているってことなんだよ。

 

ものごころが付き始めた幼い子と付き合ってご覧なさい。うるさいくらいに「ねえ、これなあに?」って訊くよ。それは、まだ意味を与えていないってことなんだよ。典型例はゴミだ。その瞬間までは有効に使っていたものを、ある瞬間からあなたはゴミという意味に変えてしまう。でもそれを拾い上げた人が、骨董という新たな意味を与えるかも知れないよ。

 

ここに気づくんだ。今の世の中の不幸は、外側の条件が、自分というものを規定させていく(と思い込む)ように仕向けられていることなんだよ。いわく、あなたは金持ちだ、貧乏人だ、どこそこ出身だ、職業はこうだ、肩書きはこうだ、障害者だ、病気持ちだ、独身だ、老人だ、デブだ、ヤセだ、etc.。

 

「ねえ、これなあに?」と訊いた、無垢なあの日を、ほとんどの人間が忘れてしまったんだ。そして、外側からやってくる「意味」を、他の誰かが作り出した「意味」を、無条件に受け入れてしまっている。この状態を「洗脳」と言うんだよ。

もう一度言うよ。周囲のもの全部に意味を与えているのは、実はあなただ。

 

なぜ、自分にだけは、自分で意味を与えない?

 

いいかい、人生に意味などない。意味を与えるのは、あなたなんだよ。そしてそれは自由なんだ。大切なのは、「自分はこういう存在としてありたい」と、自分が決めることなんだよ。それが、実は「自分探し」ということなんだ。チルチルとミチルの話を何度かしたけど、自分を探そうとして、いくら外に旅に出たって発見などはできない。自分が自分に意味を与えた時、わたしが決まるんだ。

 

あなたが、「こういう存在でありたい」と決めた時、あなたの思考が決まり、あなたの行動が決まる。それを Be Here Now で生きて、その生きた連続した軌跡が、あなたの人生なんだよ。それがハッピーというものなんだよ。だから、あなたにはお願いしたいんだ。素直な存在、誠実な存在、苦しんでいる人を助ける存在、溢れんばかりの愛に包まれた存在となることを。

 

今ここで、そういう人になることを宣言して欲しい。

 

そう、分かった。あなたの宣言を受け止めたよ。

気候の極端現象が示しているもの

今日も雨降りです。昨日も一昨日も、梅雨入り以来もうずーっと。私が住んでいる山間の部落では、梅雨が明けないまま秋になってしまいました。『夏は来ぬ(きぬ)』という唱歌がありましたが、(これは「夏が来たよ」という意味ですけれど)、今年は「夏は来ぬ(こぬ)」です。赤とんぼが飛んでいる下でアジサイの花が咲いているんですから、もうメチャクチャ。

 

「異常気象」ということが言われ出したのは、確か30年くらい前からだったと思うのですが、今や「異常気象」が当たり前。異常が通常。毎年々々「異常気象」で、もう何が正常なのかも分からなくなってしまいましたねぇ。農家さんはどうされているのかなぁ? 対策を講じられているとは思うのですが、きっとお困りだと思うし、ひいては食卓にも影響して来ることですから心配です。

 

「地球温暖化」をめぐっては、温暖化などしていないという学者もおりますし、炭酸ガスとの因果関係などないという人もおられます。平均気温の経年データを見れば、確かにそうなのかも知れません。ですが、あまり言われていないことで、みなさんがお感じになっていることがあります。それは、気候の「極端現象」ということ。

 

猛暑と極寒、干ばつと洪水といったブレが大きくなっていて、しかも今まで起きたことがなかった地域に突如として起こる。あるいは、台風やハリケーン、竜巻などの勢力が非常に強くなって来ていることも特徴です。平均気温を見るというのは、極端なブレを中和してしまうわけですから、いま地球に起きている現象を正しく見ていない気がします。

 

振り子を思い浮かべてみてください。平穏で静かにしているときは中間点付近でほぼ止まっています。ところが片方に振れると、安定を取り戻そうとして今度は逆方向に振れます。その振れ幅がどんどん大きくなっているというのが、今の気候に見られる「極端現象」です。人間にとってはこれは脅威ですが、地球という生命体にとっては、ホメオスタシス的な活動をしているだけなのです。

 

ではなぜ、振り子の振れ幅が、大きくなる一方のままで沈静化していかないのでしょうか? それは地球に対して、片側に振ろうとする力が、人間によって引き続き加えられているからです。資源奪取のための環境破壊、放射能や化学物質による汚染、都市やレジャー施設の建設のための大規模な開発、そして戦争行為による地球破壊がいたるところで行われています。

 

これらのストレスが、全部、物言わぬ地球に向けられています。もしあなたが地球さんだったらどうするでしょうか? きっと「人間どもよ。もう、いい加減にしろ!」と、怒って叫ぶと思うのですけれど。

 

人間というのは、つくづく不思議な生き物だと思います。生物の第一義は「生存すること」です。生存して子孫を残そうとするのは、生物の本能です。ところが人間だけは違うのです。人間だけは、ありとあらゆる面から見て、種としての生存が危うくなる方策を次々に選択していく。そして子孫には、今よりさらに過酷な環境を残そうとするのです。

 

さらに不思議なのは、なぜそうするかと問えば「自分が生き残るため」だと言うのですから、まったくもってわけが解りません。地球はもうダメだからと、さっさと見切りをつけて、火星への移住計画を練っているグループさえいます。どうして、いま自分たちがいるこの地球を、パラダイスに還そうとしないのか、そういう発想を持たないのか、本当に不思議でなりません。

 

あなたが見る現実は、あなたが創っています。そう言うと、「意味がわからん!」と仰る方もおられるでしょうから、言い方を変えますと、あなたが「現実」だと思っている世界は、あなたが知覚して意味を付与した世界です。あなたの知覚と認識なしに、「現実」が存在していると証明することは不可能です。知覚と認識があってこそ、はじめて「こう在る」と決めることができるからです。

 

仮に、あなたの知覚認識とは別個に「現実」というものがあるとしても、その総体を知ることは不可能です。あなたが見ている「リアリティ」は、あなたが自分の意思で選び取って、知覚し、意味を与えた、あなた独自の限定された世界なのです。ゆえに、あなたが見る現実は、あなたが創っているのです。人間社会が「現実」と呼ぶものは、こうした個々の人間の総和が創り出したものです。

 

さて、気候変動の「極端現象」は、人間にとって脅威であることは疑いようもありません。しかしそれが、なぜ起きているかと言えば、いま言ったように、人間の総和がそうした現実を創り出しているからです。あなたも既にお気づきでしょう。世界各地で起こる事件、事故、メディアに表れる人々の怒りに満ちた言動、マネーの儲け話、平気で嘘をつく人々など。今やあらゆることが極端化していることを。

 

そうです。気候変動に見られる「極端現象」は、まさしく、人間の心と行動の「極端化」を正確に映し出しています。人間が極端に走るから、環境も極端に変化しているのです。生命というものは一体だということに気づいている人は、その因果関係を直感的に理解しています。しかし地球は単なる物体で、空気も水も土もタダで、いくらでも奪えばいいと考えている人は、そうは考えません。

 

今の地球人類にとっての最大かつ真の脅威は、実は環境変化にあるのではなく、生命というものが何かを知らない人たちが、政治、経済、科学技術の指導者となって、人類を先導していることにあります。環境というのは、人間の意識が外に表現されたものです。ですから、人間の意識が変われば、それに合わせて変わっていくものなのです。ここを取り違えてはなりません。

 

あなたが、今のような種としての存続をもしこれからも望むのであれば、地球人類の総和としてのマインドが、それを実現するような方向へと梶を切ることに、少しでも貢献していくことが大切です。あなたのマインドが先ず変われば、あなたが触れる周囲の世界が変わり、周囲の世界が変われば、それに触れる世界がさらに変わる。こうして人類の集合意識が変わっていくのです。

 

これから、周囲のものを見る時には、そこに振り子を重ねて見てください。世界各地で起きる事件の報道、政治家やコメンテーターの言動、企業のコマーシャル等々。それらに振り子を重ねて見て、どの程度の振れ幅かを計ってください。大きく振っているものは、すべて無視することです。それらは害しか与えません。ほとんど揺れていないものや人、それこそが人類の未来を変えうる本物です。

 

ここであなた方に言っておきます。霊的には、宇宙から安心や安定が失われるということは絶対にありません。理屈から言ってあり得ません。その「因の世界」を、物質世界に表出した状態が、いわゆる「Middle Way(中庸)」なのです。つまり、振り子がほとんど振れていない状態。これこそが、神の世界の様相を映し出した世界なのです。

 

ところが、残念なことに多くの人が逆を行ってしまいます。中庸はいかにも刺激がないので、どれほど重要かに人々は気づかないのです。そこで極端なことを求め、それに慣れてしまうと、もっと極端を求めてみんな右往左往している。そういう人たちを、ひとつ引っ掛けてやろうと、釣り糸を垂らしてる人たちが大勢いることに気づかない。そうやって「極端化」がグルグルと回っているのです。

 

彼らは「必要」ということを言って迫ってきます。逆に言えば「そのままでは足りないよ」と人々に思わせるのです。

 

幸福のためには経済成長が必要、経済成長のためには安定した電力すなわち原発が必要、豊かな老後のためにはウン千万円が必要、病気予防のためには定期健康診断が必要、ワクチン接種が必要、若さと健康のためにはサプリメントが必要、財政健全化のためには消費税の増税が必要、防衛のためには新兵器が必要、核戦争に備えてシェルターが必要、etc.。

 

こんな罠には落ちないように。もう一度言います。あなたの現実は、あなたが創るのです。あなたが「足りない」「これがないと幸福になれない」と思っていれば、そういう現実をあなたが創り上げます。でも「足りないものは何もない」「何もなくたって幸福だ」と思っていれば、あなたはそういう現実を創るのです。幸福とは、条件ではなく、そう感じる心です。

 

これからは、平和を信じて本当に平和に暮らす人と、平和ボケではいかんと言って恐怖や不安を撒き散らす人を信じ、罵り合いや傷つけ合いの中に暮らす人と、完全に二分されていくことでしょう。これもまた「極端現象」なのです。宇宙から安心や安定が失われるということは、絶対にありません。ですから、あなたには安心して、よき未来の創造(想像)に貢献していただきたいのです。

優越意識

自分がまだ10代だったころ、オフクロは、私によくこんなことを言っていました。「ひとの良いところだけを見なさい」。これは当時、イヤな奴との軋轢に悩んでそれを吐露した際に諭された言葉です。でも当然、そんな言葉で納得するわけがありません。ますますぶんムクれて「そんな問題じゃねーんだよ」と悪態をついていたと記憶しています。

 

しかし今にして思うと、その通りだなと思うのです。その言葉は、10代の自分を直ちに変えさせるまでにはいたりませんでしたが、でもこうして今も頭の隅にずっと残っている。真実の言葉というのはそいうものだと思うのです。決して古くはならない。そして受け入れる準備が整った時に、パッとそれが解る。

 

「良いところだけを見ろ」と言われても、もちろんそんなわけにはいきませんよね。たとえば、コーヒー豆の選別を考えてみるとすると、良い豆を選ぶということは、悪い豆を取り除くということですから、この2つはいつも同時に起こるのであって、良いところだけを見るということは実際には不可能です。ま、屁理屈を言えば。

 

でも価値の置き方を選ぶことができます。ひとの粗探しばかりしていたら、その人の良い点が目に入らないし、だいいち自分の心の中をネガティブでいっぱいにしてしまうわけですから、気分がよかろう筈がありません。逆に悪い点はスルーして、良い点だけを見ていれば、こちらの心の中をいつも快適にしておけるというわけですね。

 

インターネット社会になって、嘆かわしいなぁと思うのは、この粗探しや、他者を罵倒するという行為が、もはや当たり前の感覚に育ったことです。誰も彼もが、特定のターゲットを決めては悪罵を投げつけている。節度なんて、もうどこにもない。

 

最初にこれをやったのはテレビでした。次いで夕刊紙。それ以前に週刊誌というものがあったのですが、週刊誌はあくまで裏の道でしかありませんでした。ところがテレビが、表の道でそれを解禁してしまった。とにかく、ターゲットにした人物を徹底していじめ続ける。このいじめが終わるのは、賞味期限が切れた時か、次のいじめのターゲットが見つかった時だけです。

 

そして、インターネットで匿名で個人発信が出来るようになってからは、雪崩を打ったようにその感覚が広がり、子どもたちの間でネットいじめまでが登場するようになってしまいました。皆さんは覚えておられるでしょうか? 2チャンネルが登場した当時、これに眉をひそめる人は多かったんですよ。今は全部が2チャンネル化してしまいました。

 

政治では、ジョージ・ブッシュ大統領が登場してから、タガが外れてしまいましたね。今のドナルド・トランプ大統領をご覧なさい。安倍晋三首相をご覧なさい。節度なんてどこにもない。これが今の時代の風潮。国会の場を見てください。テレビのコメンテーターを見てください。みんな、自分以外の誰かをこき下ろすことに血眼になっているじゃありませんか。

 

結局、そうした言動の奥にあるのは優越意識です。あるいは、自分が優越だと(思いたい)意識です。現代社会では、人々の間に、こうした優越意識が、異常とも言えるほど肥大してきています。この主原因は、今の人間社会から、皮膚感覚のコミュニケーションが失われてしまったためです。血縁、地域縁、職場縁、etc.。かつてあった共同体がことごとく崩壊し、みな孤立してしまった。

 

するとどうなるでしょうか? 自分を定義づける場がないのです。活躍の場がないと言ってもいい。たとえばコミュニティでお祭りか何かのイベントをするとしましょう。気心が知れた人間が集まった時には、Aさんは字がうまいから看板を書いてもらおうとか、Bさんは料理が得意だからまかないをやってもらおうとか、自然と役割が決まりました。つまり自分を定義づけられたわけです。

 

ところが、今はそれがありません。そこで、根拠のない優越意識を振りかざすことで自分を定義づけたいと思うのです。「こいつ、なんにもわかっちゃいねーぜ」とか、「ただのハゲのおっさんだろ」とか、ワンフレーズでこき下ろす。こき下ろすのですが、その理由については説明がないし、「My opinion(私の考え)」をきちんと話すこともないのです。

 

そして、この優越意識が、国家、民族、人種、ジェンダー、血筋、学歴、企業名、役職、財産、スタイル、美貌、若さ、宗教、政党、軍事力、経済システム等々、ありとあらゆるものに仮託され、自分たち以外の者をこき下ろす際の道具(ツール)となっているのです。今の世界がメチャクチャなのは、これを他ならぬ、指導者層にいる人たちが、最も率先して行っている異常さです。

 

なぜ世界から戦争と貧困がなくならないのか。なぜ地球の環境破壊が止まないのか。これらの原因は、最も強烈な優越意識を振りかざす人間が、政治、経済、教育、宗教等の指導者となって、民衆を優劣の差別意識へと駆り立てているからです。これが社会の劣悪さを生み出している元凶なのに、彼らは優越意識を正当化する言葉と行動しかしないのです。

 

そこに、一般の民衆が巻き込まれて、さらには自分たちも優劣意識の論理に染まり、その中で自由を奪われ拘束されている。これが、人類の最大の不幸であり、この不幸が、今や種としての生存さえ危うくさせる段階にまで来ているのです。人間が、種としての存続をこのまま望むのであれば、この自滅行為をストップさせねばなりません。この構造に気づくのです。

 

優越意識を持つことは、そりゃあ気持ちのよいものでしょう。周囲の人たちの尊敬を集めることができるでしょうし、人々を支配することだって可能でしょう。けれども、自分よりも優越を主張する存在が出現した時、この気持ちよさはたちまち不快に変わります。相対的に劣位に転落してしまうからです。そこで優越意識を保つために、目障りな奴は徹底して攻撃しようとするのです。

 

世の中をよくよく眺めてご覧なさい。国家 vs 国家、企業 vs 企業、政党 vs 政党、政治家 vs 政治家、宗教 vs 宗教、学者 vs 学者、コメンテーター vs コメンテーター、全部がそのような不毛な争いを延々と繰り返しているのが解るでしょう。その裏にあるものは、実に単純な衝動です。俺よりも優れた人間がいることなど絶対に許さんぞ。

 

そんなことをして苦しむのは誰でしょうか。みんなです。勝者などいない。優越意識に浸って、一時いい気持ちを味わうこともあるでしょう。ですが、これを覚えて置きなさい。他人に為したことは自分に為したことと同じである。なぜなら、全部が一つだから。他人を叩けば、自分を叩いたことと同じであり、他人を愛せば、自分を愛したことと同じになるのです。

 

あなたには個性があります。その個性は、何のためにあるとお思いですか? 優劣を確認するためにあるのではありませんよ。あなたを定義づける道具(ツール)としてあるのです。

 

あなたが編み物を始めたとしましょう。あなたはその日から「編み物をする人」になる。それが好きになって、どんどん研鑽を積んだとしましょう。あなたは「編み物が上手な人」になる。さらに研鑽を積んで独自の技を身につけたとしましょう。あなたは「編み物の達人」になる。そして、個性が輝く。あなたの個性を、他の人々に、社会に、役立てることができる。

 

それは優劣ではないのです。個性なのです。一人ひとりが、みんな素晴らしいのです。周囲に違った個性があるからこそ、あなたも個性的でいられるのです。ですから自信を持ちなさい。あなたの個性は誰にも真似できないのですから。そして、周囲の個性を讃えなさい。みんな違っていることを喜びなさい。

 

お手てつないで一緒にゴールすれば平等なのではありません。そんなことをしたら個性を圧殺してしまいます。駆けっこが速い子はそれを讃えてあげなさい。ビリの子は、剽軽でひとを笑わせるのが得意かもしれない。植物の観察に熱心かも知れない。学校では目立たないけれど家ではお母さんの手伝いを黙々とやる子かも知れない。それを見出してあげるのがエデュケーションです。

 

バラはバラであり、ユリはユリであり、ユリはバラになる必要はなく、バラよりも劣っているのではないことを、自然を手本にして子どもたちに伝えてあげなさい。バラはバラとして咲けばよいのであり、ユリはユリとして咲くことが、美しさのハーモニーを形づくっていることを伝えてあげなさい。そして、最初からそのように花咲くことが約束されていることも。

 

ひとの粗探しはもう止めにしましょう。誰かの粗探しを一つする。それは、自分の心の中に「不快」を一つこしらえたということなんですよ。自分の気分を自分で悪くするような、そんなバカなことは、もう金輪際やめましょう。

 

だから、粗探しではなくて、ひとの良いとこ探しをしなさい。そうやっていつも他者を見なさい。一つすれば、あなたの心は一つ豊かになる。いっぱいいっぱいすれば、あなたの心は豊かさでいっぱいになる。周囲の物、周囲の人に意味を与えているのは、つねにあなただということに気づきなさい。自分がどういう意味を与えるかで、不幸にも幸福にもなれることに気づくのです。

高僧と言われる人よりも、農村で暮らすお婆さんの方が人間的にずっと先を行っているように思えるのはなぜか?

多くの人は便利さを求めるので、人口が必然的に都市部に集中し、今や日本人の大半は、「生きる」ということを都市生活を前提として考えています。田舎と言っても今はクルマ社会ですから、30分も走ればショッピングセンターがあって、感覚的には都市部とそれほど違いがありません。そのような中で、取り残されたように、ますます過疎化している農村が点在しているのです。

 

そんなわけで、農村に暮らす人との接触も今は殆どないとは思うのですが、たまに旅に出た時、あるいはテレビ番組などで、毎日々々、黙々と畑仕事や手仕事をしているお婆さんの姿を見て、「この人は凄い!」と思わされたことはないでしょうか? 確か、司馬遼太郎さんも、「高僧よりも、農村で暮らす人間の方が、人間的にずっと先を行っているように思えるのはなぜだろう」と仰っていたと記憶しています。

 

私も、以前NHKで放送された『秩父山中 花のあとさき ムツばあさんの秋』を観た時には、大変な感動を覚えました。「ああ、自分もこうなりたいなぁ」と思ったのです。少しでも、その心境に近づきたいと思いました。50代の半ばから、段々とそういう気持ちが膨らんでいったのですが、それで自分も、戸数6戸という今の限界集落に移り住むことを決心したのです。

 

巷で言われているような、いわゆる「老後」などは全く考えませんでした。

人生設計はもうしない。今を生きる。ただそれだけです。

そこにどれだけ集中できるか、命を燃やせるか、瞬間々々を喜びに感じられるか、それが自分のテーマです。

 

老後破産が心配だ、病気になった時を思うと不安で仕方がない、一人暮らしじゃいかにも寂しい、と多くの人は言う。そんなものがなんだというのだ。瞬間々々を、心配と不安と寂しさで満たしてしまって、一体どうしようというのか? あなたの「今の気持ち」の連続が、あなたの人生だというのに。あなたの行動の軌跡が、あなたが何者かを決めるというのに。

 

農村で暮らすお婆さんは、身をもって教えてくれているよ。そんな心配は無用だって。土と水とお天道様があれば、それで充分だって。

 

高僧よりも、農村で暮らすお婆さんの方が、人間的にずっと先を行っているように思えるのは当然なんです。なぜって、実際にそうだから。人間性というのは、霊性の、この世における顕現です。つまりは、世間で高僧と言われる人たちよりも、農村の名もなき(名前はあるんですが、高名ではない)お婆さんの方が、霊的には遥か先を行っているということです。

 

なぜだか解りますか? より多くのものを捨てているからです。この世で生活しながら、この世の梯子段をもうほとんど降りている。そして自然を感じながら、自然と一体となって毎日を過ごしている。そのお婆さんにとっては、それが当たり前で、特別意識していることではないでしょうが、これこそが、宇宙に生きる、神とともに生きるということです。

 

でも高僧と言われている人から、その拠って立つ基盤(組織や神殿や財力や衣装)と、階位を取ってしまったらどうなるのでしょう? 全部はぎ取って素っ裸にしてしまっても、なおその人は高僧でいられるのでしょうか?

 

そう考えると、高僧といわれる人は(必ずしも全部が全部とは言いませんけれども)、世間と同じ梯子段を、宗教界に移築した上に乗っかっているだけなのではありませんか? なぜお付きの者をズラズラと従えるんですか? なぜ儀式の動員数を誇るのですか? なぜ信者数を誇るのですか? 多い方が他宗よりも上だとでも言うのですか? それは世俗の価値観そのものではありませんか?

 

つまり高僧とは、高層マンションのペントハウスに住んでいる人です。だからこそ、尊敬が集められる。同じ価値観の、遥か上にいる存在のように思えるから。けれども、その豪華絢爛たる神殿は、その人のものではありませんよ。よく言えば信者の寄進、悪く言えば信者からの搾取によって建てたものではありませんか。

 

果たしてそんなものが必要でしょうか? 霊性向上にとって、それが無くてはならないものなのでしょうか?

 

どうして気づかない? あなたの目の前に、自然という神殿があるではありませんか。宇宙という神殿があるではありませんか。これ以上のものが他にあるでしょうか?

 

いいですか、宇宙は、そして自然は、神の顕現なのですよ。神の想いが、物理的な結果として顕れた世界です。あなたは、すでにその神殿の中に暮らしているんです。最初から暮らしていたんです。この幸福、この有り難さ。それをじっくりと噛み締めてごらんなさい。そしてその感謝の目で、周囲を見てごらんなさい。

 

輝きが見えませんか? あなたを見守り、いつも応援してくれているのを感じませんか?

 

それ以上、いったい何が必要だというのでしょうか? 土と水とお天道様があれば、それで充分だとは思いませんか?

あなたは今、この瞬間を、確かに生きているのですよ。

『虹の学校』のこれから

ホームページをリニューアルしました。春までには改変したいと思っていたのですが、他の作業もあって延び延びになってしまいました。『虹の学校』を開いたのは2012年の4月2日。以来5年経過したのですが、3年めくらいから自分自身のホームページに違和感を持つようになりました。早く改変したくて堪らなかったのですが、進むべき方向が定まらずに逡巡していました。

 

今回、作業をする中で改めて接してみて、5年前の自分が凄く恥ずかしかったです。うちの田舎の言葉で言うと、しょうしい(笑止)です。肩に力が入っているというか、当時はまだ、あんまり解っていなかった。見切り発車でした。それに、自分を「理解して欲しい」「認めて欲しい」というエゴや、怒りや嫉妬心や憂鬱がだいぶ残っていました。そこが特に恥ずかしいです。

 

自分の「根が恥部」のところがたっぷり出ている。あー恥ずかしい。穴があったら入りたい。入って生き埋めになりたい。生き埋めになってもう死んでしまいたい! ほらまた出た、「根が恥部」が。これを、もっともっと「保持智部」に置き替えていかないとね。あと数年したら、また今回のリニューアルが恥ずかしくなるかも知れません。

 

ついでに言っておくと、自分の「根が恥部」を解消するポイントは、それを笑いに変えて周囲に語ることです。そうすれば、自分は開放されるし、周囲の人たちを和ませることができる。まさに一石二鳥。周りの人たちが笑うのを見て、「ああ、自分の思い込みに過ぎなかったんだ」と気づかされることでしょう。逆に言うと、笑って話せない間は、まだまだだってことですねぇ。

 

それが、この『気づきの啓示板』の作業を通じて、徐々に鍛えられ変わっていきました。『気づきの啓示板』というタイトルも、スタート時はダジャレのつもりで付けたのですが、今にしてみれば、これ自体が啓示だったのかなぁ、と感慨深いです。初期のものはホームページ同様、恥ずかしい部分が多々あるのですが、合作部分もありますし、成長過程をさらけ出す意味で、これは削除せずに残しておきます。

 

今度のリニューアルで、間口がいっそう狭まったと思います。自分が成長するに連れて、セミナーに来てくださる方もどんどん減り、今は5・6人。今後はもっと減るでしょう。もちろん狭めることが目的ではなく、より多くの人が「宇宙の真理」について目を見開いてくれれば、平和でハッピーな社会が実現するとは思っているのですが‥‥。

 

この数年で、自分の役割は Re-creation ではない、と意識するようになりました。破壊と創造は、いっぺんには出来ないのです。先ず破壊した後に再創造が始まる。私の役割の一つは、たぶん「破壊」です。既存の秩序、既成のものの考え方、そしてスピリチュアリティに関する今までの刷り込みまでをも破壊する。

 

ですから私はハカイダー。「正義も悪もいらないぜ!オレの名はハカイダー」。まさにこのキャッチコピーの通りです。このコピーを考えた人は凄い、本質を突いている! 今は人知れず、日陰でひっそりしているからいいのですが、これがもし目に付く存在にでもなったら、共謀罪でしょっぴかれるかも知れませんねぇ。

 

それだけじゃない。こいつのインチキを暴いてやろう(どうぞどうぞ)。トンデモ性も暴いてやろう(だから最初から解る人にしか解らないって言ってるってば)。隠し財産を暴いてやろう(そんなのないって)。不倫を暴いてやろう(残念でした、カミさん死んじゃって独身なんですぅ)。という情熱に命を燃やす人が出てくるかも知れない。そこまで行けば本物だ!

 

とまあこれは冗談ですが、ある人から見れば、危険思想であることは間違いありません。過去世でも同じことをしていて、異端として宗教界から追い落としに遭ったり、古代ローマ時代には処刑されたこともあります。そういうことも、この5年でずいぶん思い出しました。そして「宇宙の真理」についても、かなりのことを思い出しました。

 

私の役割の二つめは、それを現代の言葉で、現在の科学で、そして今どきの感覚でひも解いてお伝えすることです。私がお伝えすることに、新しいことは何ひとつありません。全部、古代から言われて来たことの焼き直しです。どの時代にもメッセンジャーがいて、みなその時々の言葉で語って来ました。私はそれを、インターネットという現代のツールを使ってお伝えするだけです。

 

たとえば、「この世は幻である」。これは古代より言われて来た真理です。あなたも、これまでに、たぶんその言葉を耳にしたことがお有りでしょう。でもそれをただ言っただけでは、現代でもなお遠すぎるのです。この世の常識とは、余りにもかけ離れているから。きっと理解の糸口さえ掴めないことでしょう。私の役割は、そこに橋渡しをすることです。虹の架け橋となって。

 

英語の Education の意味は、その人が持っているものを「引き出す」ということで、私にはそれしか出来ません。というよりも、それ以上はやってはいけないのです。日本語の「教育」という言葉は最悪で、それが正しいと信じている人は、一生懸命「教え育てよう」とする。けれども、「魂」の世界ではそんなことは必要ないことですし、やってはいけないことなのです。

 

小学校に入学してまもなく、「ここは牢獄だ」と思いました。家が「地獄」だったので、「地獄」と「牢獄」の間を行ったり来たり。いつも怯えていて、それで中三まで夜尿症が治らなかった。ここから、私の「根が恥部」が始まったのです。ですから、義務教育や学歴といったものには、反発心しか持ちませんでした。予習や復習をしたことなど一回もなく、復讐心だけをたぎらせていました。

 

教師たちはみんな、「この答えが解る人は手を挙げて」とやっていました。ですが、これは最悪のやり方です。第一に、「答えは自分が持っているぞ」と、子どもたちに押し付けている。第二に、「ジャッジするのは私だからね」と言っている。第三に、「私の答えに近づけた人は、他の人より優秀なのよ」と思わせている。これぞ、ロボット化教育の最たるもの。Education とは真逆です。

 

見なさい。今の内閣を、大臣たちを、国会議員たちを。ロボット化教育のこれぞ成果ではありませんか。

 

ということで、教育一つ取ってみても、「宇宙の真理」から語ることは、この世の常識とはまるでかけ離れているので、常識人にはトンデモ話にしか映らない。これが、歴代のメッセンジャーたちが打ち壊せなかった人間世界の厚い壁なのです。私も同じことになってしまうかも知れませんが、しかし役割は役割。自分はハカイダーとしてこの先も生きます。

 

「宇宙の真理」を掴むことは、実は非常に簡単なことなのです。(これも、きっと遠くに聞こえるでしょうが)あなたは、最初から知っているのです。だから、それを思い出すだけでいい。『虹の学校』は、それをエデュケートする(引き出す)手助けをするだけです。ただし、そうするためには、あなたが自分で観察し、自分で考え、自分で行動することを決めなくてはならないのです。

 

「なんだ、そんなこと?」と思えるでしょうが、これが今の地球人には難しいのです。誰かがした観察結果を教えられて、それを信じ、誰かの考えに賛同し(いいね)、誰かの言いつけによって行動することが、身体の隅々にまで染み付いているからです。あまりにも深く染み付いているので、自分がロボットになっていることにすら気がつかないくらいです。

 

前にも書きましたが、みんなスマホやコンビニを使っていると思っているのでしょうが、それらに使われていることに気づいていない。自分の思考回路が、すでにそのシステムに組み込まれているんですよ。ですから、新しいツール(道具)は、よほど用心しないといけない。これからAI(人工知能)がさらに進化し、ロボットが生活の隅々にまで進出して行くでしょうが、その暁には、地球人類は存在意義を失ってしまうことでしょう。

 

あなた方は、みんな梯子段の上に乗せられているのです。人によって、今いるところの段数は違うのですが、「もっと上を目指すんだよ」「上に昇ると、きっといいことがあるよ」と言われて、既にそこまで昇って来ているのです。上の方にいる人たちの中には、下から上がって来る人たちを「もう来るな!」と言って蹴っ飛ばす人もいるのです。

 

しかしどうでしょう。人間、昇ることは比較的容易なのですが、降りる方が難しいのです。子どもの頃、木の上に昇ったはいいけれど、降りられなくなったという経験はありませんか? 一度昇ると、降りるのが怖い。高ければ高いほど怖い。ですから、しがみつくのです。見なさい。今の内閣を、大臣たちを、国会議員たちを。「地位に恋々として」いる人たちを。

 

「宇宙の真理」は、実に簡単で、たった一つのことから始まり、あなたが、ご自分で、そのたった一つのことを類推していけば、全部の答えが出てしまうのです。グル(導師)もいらなければ、信仰もいらなければ(むしろ邪魔)、聖典も教典もいらない。もちろん、このサイトだって、『虹の学校』だっていらない。秘儀も秘教もない。あなたの中に、最初から答えが全部ある!

 

えっ、「そのたった一つのこととは何か」ですって? いま言ったじゃないですか。気がつきませんでしたか? たった一つのことですよ。

そう、それです。

 

ところが、いま昇っている梯子段から降りるのが難しい。第一に怖い。第二に、果たして降りて行っていいものかどうか確証が持てない。そこで多くの人は、その梯子に乗ったまま、空中に手を伸ばして何かを掴もうとする。ですが、そんなところに「真理」はない。先にも言ったように、あなたが自分で観察し、自分で考え、自分で行動することを決めない限り、「真理」には出会えないのです。

 

あなた方は、親からの刷り込み、学校からの刷り込み、会社からの刷り込み、世間からの刷り込み、マスコミからの刷り込み等々で、がんじがらめの中に暮らしていて、「この社会はちょっとおかしい?」という直感は抱きながらも、思い切って梯子段を降り始めるということが出来ない。自分を信じ切ることが出来ないし、落ちてもセーフティネットがあることを信じられない。

 

でも、その中でも、ごく少数の人たちが勇気を出して梯子段を降り始め、少しずつ少しずつ降りて、数年かかってついに地上に降り立つ。これがホップ。次いで、自分の直感に従って、自分の好きな方向にステップを踏む。すると、そこに扉が開いている。そこをくぐると、あなたは自動的に光に導かれてジャンプする。なんの努力もいらない。そこで、「そうか、実に簡単なことだったんだ」と、やっと解る。

 

その少数の勇気ある人を探して、休止していたセミナーを再開することにしました。「アセンション・クラス」という年間講座です。9月から1年間、毎月最終土曜日の10時から16時半です。私はここで、自分が60年かかったことを1年間でお伝えしたいと思っています。そしてこの人たちが、将来の Re-creation の担い手になってくださることを願っています。これが私の三つめの役割。

 

ごくごく小さな集まりですが、ピン!と来る方は、必ずいらっしゃると信じています。

 

もし私が、由緒正しい家系の出で、有名大学を卒業して、成功者で、資産家で、大規模な組織の長で、著作が何点もあったら、人々の見る目は違うでしょう。また、霊視をウリにして、高い料金設定のセミナーをすれば、「ひょっとして何かあるかも」と思うでしょう。が、そのいずれも私にはありません。

 

もし私が、自分を「先生」と呼ばせて、これこれの講座の修了者には、しかじかのお免状を与えるし、マントラもお授けするし、チャクラも開いて上げると言えば、がぜん学習意欲が沸いて、元を取らなきゃと思うでしょう。「そうか、この人は先生か」と近寄り難く思うでしょう。が、そのいずれにも私は興味がありません。

 

実にそこが問題なのです。私ではなく、あなた方がです。私は馬の骨です。しかし私がこう言ったら、あなた方はどうするでしょうか? ここに、シャネルと、アルマーニと、ドルチェ&ガッバーナと、ZARAと、ユニクロと、GUと、しまむらの服を並べて、「どれでも好きなものを一つあげるよ。タダだよ」と言ったら。ただし、ネームタグは全部切ってあります。

 

誤解しないでくださいよ。しまむらよりシャネルの方が上だって言ってるんじゃないですよ。アルマーニを選んだあなたには審美眼があると言いたいんじゃないんですよ。(他と比べて)『虹の学校』を選べと言っているんじゃないんです。何を選んだっていい。どのみち自分の段階に応じたものしか選ばないし、選べない。

 

そうではなく、タダのものこそ、タダになった時こそ、自分にとっての本当の価値の意味が炙り出されると言いたいのです。

 

世間が決めた価値指標から離れたあなたは、きっとご自分の好みや直感を駆使して選ぶことになるでしょう。そうなってこそ、あなたが自分で観察し、自分で考え、自分で行動した一歩となったのです。それが、一つ自由になるということです。一段、梯子段を降りるということです。そして、梯子段をぜーんぶ降りた時、あなたは完全な自由を知る。そしてジャンプの準備が整う。

 

解りましたか? えっ、解らない? 困ったなぁ。でも、共感して下さる方が必ずいらっしゃると思っていますし、上の存在からは、「縁ある人は私がアレンジする」と明言をいただいています。ですから「この機会を待ってました!」という人は必ずいる。案内をお読みになって、「これだ!」という方は、どうそお問い合わせください。特に今回は、地方在住の方に来ていただきたいです。

 

それと、東京の自宅を開放して、ささやかな集会所を作りました。6人も入ればいっぱいになってしまうようなところですが、ここから温かな波動を日本全国に拡げたいと思っています。心の底からリラックスして、思い切り自由を感じられるような場にしたいと思っています。前に縁があったけど、その後、遠ざかってしまったという方も、よければ気楽にお越しいただければと思います。

権力者の末路

今の人間社会では、少数の権力者に統治を委ねるという形の政治機構が主流となっています。私たちはその前提のもとに暮らしているので、この政治機構自体について疑問を持ったりすることは殆どありません。けれども、これは人類の進化の過程で、少しずつ変化しながらそうなって行ったものであって、現在の形が最良だというわけではありません。

 

絶対君主制が主流だった中世の時代を経て、今は殆どの国が議会制民主主義を採用するようになりました。これは人類にとっては一つの大きな進歩です。主権は一部の特権階級にあるのではなく、民衆のもとにある(民主主義)ということを明確にしたわけですから。人間に優劣というものは無くみな平等だということに、それだけ接近したわけです。

 

ところが、その民主主義を実現させるための手段として採用した「選挙制度」なるものが、果たして理想的に機能しているかと言えば、とてもじゃないが合格点とは言えない。明らかに欠陥があります。選挙制度は、考え方としては悪くはなかったのですが、代表者を決めるのは、結局「得票数」ただ一本です。多数が勝るという考え方のみで、その内訳については問われないのです。

 

すると、「得票数」というものがいろんな面から操作できてしまうということと、選ばれた人の人間性は全く問われない、という大きな問題が生じてしまいます。現在の選挙制度は、正にそれが最大限悪用されています。そもそも選挙は、理想主義を母体として初めてうまく機能できるものですが、それに参加する人間の人間性(霊性)が、その理想主義にまるで追いついていないのです。

 

「信なくば立たず。国民の信頼の上に政治活動があり、政策実行も国民の信頼が基礎だ。そのためにも、国会議員、政治家は、しっかりと自らの行動を律する必要がある」これは、2016年2月10日の衆議院予算委員会で、答弁に立った安倍首相が述べた言葉です。私もその通りだと思います。安倍首相は『論語』のこの言葉がお好きなようで、今年7月19日の緊急記者会見でも「信なくば立たず」と言っています。

 

しかし、安倍さんのこれまでの言行を見てきてお分かりのように、この言葉は、この方の身体の中に全然浸透していません。「本当にその通りだ」という体験や感慨がない。英単語の暗記と同じような、単なるフレーズでしかないのです。『論語』の言葉は、理想主義に基づいていますが、「選挙」で選ばれて国会議員となり、そして最高権力者となった安倍さんには、理想主義の基盤はゼロです。

 

ですから平気で嘘をつける。有権者を愚弄できる。おそらく、安倍さんには自分が「嘘をついている」という感覚はないでしょう。自分は、自分の信念にしたがってやっている。祖父が成し遂げなかったことを自分が絶対にやって見せる。そのためには、人脈も、金も、接待も、裏社会も、法律も、警察も、国会も、内閣府も、メディアも、こんな人たちも、論語も、嘘をつくことも、みんな手段としか考えていないのです。

 

24日の衆議院閉会中審査でも、安倍さんは、前言とは矛盾のある嘘をつきシラを切り通すという道を選択しました。「この人の信念は凄い!」と、私は感心しました。「カルマの法則」を、たぶん安倍さんはご存知ないとは思いますが(知っていたら、とてもこんなことは出来ない)、自分で蒔いた種は自分で刈り取ることになるという重みを背負ってなお、嘘を貫き通すことなど、常人に真似の出来るものではありません。

 

「中途半端がいけなかった」という反省に基づいて、そのような道を選ばれたのでしょうが、安倍さんの「魂」は、時代の要請に答える役割を、正に身を挺して演じてくれていると思います。壁に空いた穴を補修しようとして土を塗る。でも塗り方を失敗してまた塗る。このようにして嘘の上塗りを続けていけば、厚塗りになったところがいつかは自重に堪え兼ね、ポロッと剥がれ落ちてしまいます。

 

何度も言って来ましたが、今の地球は、宇宙からの強い光が当たっている大きなサイクルに突入しています。この光に闇が照らされ、今まで隠されていたいろんなことが明るみに出ているのです。闇に暮らし、闇の世界を今まで謳歌してきた人たちは、この変化に戸惑っているのですが、急な明るさは眩しいので、今までの闇の暮らしをなんとか続けようとします。

 

しかしこのような試みは、まるで大河の流れに逆らうようなもので、どうやっても所詮は無駄なことです。ところが、闇の世界にいる人たちは今の宇宙サイクルを知らないので、河に突っ支い棒を立てて、なんとか今まで通りを維持しようとします。でも水の抵抗は増々大きくなって来るので、突っ支い棒を2本、3本と立て増しして急増の掘っ建て小屋を作ろうと焦る。

 

でも、河の流れ自体が止まるわけではないので、突っ支い棒は1本抜け、2本抜けして、結局、最後は時代変化の流れに全部流されてしまうことになるのです。ここで、「彼らにも、いつか天罰が下る」というようなことを言おうとしているわけではありません。宇宙には「天罰」などありません。それは人間が考え出したこと。宇宙にはただクールな法則があるだけです。

 

安倍さんを含めた内閣の人や、今度の事件の関係者の人々が、それぞれどうなるかは分かりません。人間社会から見れば、まんまと逃げおおせる人も、中にはいるかも知れません。けれども「宇宙の法則」から逃れることは、いかなる「魂」にも絶対に出来ません。自分が撒いた種は自分が刈り取る。これが冷徹な「カルマの法則」であり、自由と責任ということの意味なのです。

 

みなさんは今、安倍さんというキャラクターの登場を通して、人間社会が次に進歩していくべきプロセスを学習しています。一連の事件、そしてそれが明るみに出て来ている今の過程を、そのように見ていただきたいのです。安倍さんの踏ん張りは、今度のチェンジは上辺だけでは済まさないぞ、腐敗した権力構造の奥の奥まで見せてやるぞ、という時代の要請に応えてくれているのです。

 

すでに、日本国民はかなりのことを学習しました。メディアは内閣支持率のことばかり言っていますが、数字に表れないところで、人々の意識転換がかなり進んだのです。先ずはメディア・リテラシー(情報を見抜き、使いこなす技術)が上がりました。これには、政府御用メディアの頑張りも効いています。読売新聞も全社一丸となって、体質をさらけ出して貢献しました。

 

そして、人々の人間を見る目も上がったと思います。どの人が正直者で、どの人が嘘をついているかを、言葉ではなく、表情や態度や雰囲気で読めるようになりました。失言を見逃さず、その発言の裏にどんな人間性が隠れているかまで見抜くようになりました。

 

国会議員や地方議員の方々、メディア関係者の方々は、こうした人々の内面の変化、認識の変化に、気づいておられるでしょうか? これからは、そうしたリテラシーが前提となるのですよ。

 

私はマスコミは一切見ないのですが、インターネットを見ていますと、安倍政権をちょっとでも批判した人物に対しては、すぐにその人物の人格攻撃をする動画が作られています。一説によると、内閣によってそういうサイバー部隊が組織されているということなのですが、目的がそもそも歪んでいるために、その歪みが全部、言霊(ことだま)となって表れています。

 

「フルボッコ」とか「完全論破」とか「こいつの本性を暴いたぞ」とか、いかにも知性のない言葉を並べ立て、アクセス数の表示までも2万、5万と操作し、あたかもケタ違いの賛同者がいるように見せかける。その数が、ついには10万、50万とエスカレートしているアホらしさ。彼らも仕事なんでしょうが、そうやってやればやるほど、自分の本性が伝わるということを解っているのかな? 小賢しさに生きていては、本当の賢さに目覚めることは叶いません。

 

そんなわけで、インターネット・リテラシーもずいぶんと上がってきていると思います。これらはみな必然で、時代の要請に応じて、それぞれの役割をそれぞれが演じてくれているのです。すべてがドンピシャで、計画通りに進んでいます。でも、選挙という仕組み、統治というあり方にまで目覚めるのには、まだまだ時間が必要でしょう。

 

一連の流れを通じて、みなさんによくよく知っていただきたいのは、「波動は正直」ということです。「波動は嘘をつけない」ということです。政治家がどんな言葉を発しても、どんなに取り繕っても、もうあなたはそれを見抜く。あなたには「波動」を見抜く力が備わっているということです。

真理の世界は彼岸ではない

宇宙の真理は一つです。真理というのは、何かを成り立たせている根源的な理法(Fundamental  Theory)のことを言います。何かを成り立たせている背景には、必ず成り立たせている理由と法則があるのです。秋に庭に埋めておいた球根から、春先になって芽が出て花が咲く。このような現象一つとっても、そうなる理由と法則があってそうなっているのです。

 

では宇宙全体を考えたらどうなるでしょう。宇宙が成り立っているということは、そこにも成り立たせている理由と法則があるということです。そして宇宙は一つなのですから、当然、真理は一つということになります。理論物理学ではマルチ・ユニバース(複数の宇宙)という考え方も提唱されていますが、Multi-universe を包む全体を考えれば、やはり一つです。

 

仮に真理が二つあったとしましょう。AとBです。Aは我こそが真理だと主張する。BはBで、我こそが真理だと主張する。そうすると、AからすればBは真理ではないということになり、BからすればAは真理ではないということになって、矛盾が生じます。結局、AもBも包含するCを立てなければいけなくなり、結論は、やはり「真理は一つ」というところに帰着するのです。

 

既成宗教が犯してきた間違いは、そのほとんどが「我こそが真の道」と言って憚らないことです。そして我以外は邪宗、邪教だと言って攻撃してきました。これがどんなに欺瞞的な言葉であるかは、いま言ったことを考えていただければ容易にお解りでしょう。どんな道を通ってもよいのです。どんなルートを通っても、頂(いただき)は常に一つです。

 

あなたが富士登山をするとしましょう。先人たちが作った歩きやすいルートが、吉田ルート、須走ルート、御殿場ルート、富士宮ルートと4つある。あなたはこの中のどの道を選んでもいいし、あえて選ばなくてもいいのです。選ばずに、人跡未踏の道を、自分で開拓して行っても構わない。でも変わらないものがある。それは頂上は一つということです。

 

頂上は、どんな人にも頂上であり、そこに今あり、燦然と輝いている。これは素晴らしいことだとは思いませんか? どんな人も差別したりしていないんですよ。お前は来るなとは決して言わない。いつでもそこにあるんですよ。「さあ、どうぞ、いらっしゃい」と。

 

ただ「ある」ということを、意識して生活するかどうか、山登りをしてみようという気になるかどうか、そして実際に登り始めるかどうかで、歩みに差が出てきます。山登りにまったく興味がない人にとっては、目の前に後光が射す山が聳えていても、その人の目にはそれがありがたいものだとは、ちっとも映らないのです。でもその人だって、いつかは山登りを始めるのです。

 

私たちは宇宙の一員です。ということは、最初から真理の中にいたのです。以前にザルの例えを書きましたね。ザルで水を掬いに来ても、みんなジャージャーとこぼれてしまうんだと。ではザルを水で満たすにはどうしたらいいのか。それはザルごと水に沈めることだ、と書きました。実はこの話には、まだ続きがあったのです。

 

ザルは、最初から水の中に沈んでいるんです。ですから、自分の身を水の中に沈めるというのは、そんな断崖絶壁から湖に飛び込むというような、格別の勇気を必要とするものでもない。ただ、そこに気づくだけでよかったのです。

 

山は、いつでも目の前にあるんだと。自分は、その頂上に至る地平に、今まさに立っているんだと。

 

真理の世界というのは、彼岸(向こう岸)にあるのではありません。この世があって、あちら側にあの世があるのではないのです。あの世の中にこの世が最初から含まれている。この世というのは、物質的世界から霊的世界までを含む、すべての宇宙の、ごくごく限定された世界に過ぎないのです。私たちは最初から、真理の海の中に生かされているのです。

 

それなのに、どうしてこの世は、こんなにも混乱しているのでしょうか? それはこの構造に気づく人があまりにも少ないからです。みなさんから見れば、霊的世界というのは、とても不思議なものに思えるでしょう。でも多次元的世界にいる者たちからすれば、人間たちの方が不思議です。

 

人間たちは、どうして争いごとを止めないのでしょう。争いごとが決して幸福をもたらさないということはみんな分かっているはずなのに、せっせとそっちへ向かおうとする。あまつさえ、そういう人を賞賛する文化まである。平和を希求する人を「平和ボケ」と言って揶揄する人すらいますが、全世界の人が「平和ボケ」になったら、どんなに素晴らしい地球になるでしょうか。

 

全世界の富の半分を、わずか62人の大富豪が握っています。その一方で、貧困に喘ぐ人々の数は減るどころか、むしろ拡大しているという矛盾。一生かかっても使い切れないほどのお金を、大富豪たちが貯めこむ理由は、一体どこにあるのでしょうか? お金というのは、経済循環のための単なる道具です。動かないお金を分け与えて動くようにしたら、人々にどんなに笑顔が戻るでしょうか。

 

宇宙から見れば、人間たちの行動はとても不思議です。どうしてこんな簡単なことすら解らないんだろうか、と思うのです。競争をして、奪い合って、勝ち負けを作って、それで勝ちほこる人と負けて悲嘆にくれる人を分けて、みんな心をズタズタにして、それでも奴隷のようになって働いて、そして人生が解らない、生きる意味が見つからないと言っている。

 

宗教家ですら、この世における「成功」という幻想をエサに、霊的世界のドレッシングをかけて、「さあ、お食べ」「うちしか、こんなにおいしいものはないからね」と言っている。まったく不思議です。

その何が面白いのか、楽しのか、ハッピーなのか。

 

あなたの視点を、ずっとずっと上に上げて行って、宇宙にまで引っ張り上げて、地球に暮らす人間たちの姿を見てご覧なさい。今日もドタバタと、どうでもいいことに血眼になって騒いでいる人たちの姿が見えませんか? 内閣改造?あなたに何か関係がありますか? 松井一代さん?あなたに何か関係がありますか? 謙さんの不倫?あなたに何か関係がありますか? 

 

自分には何の関係もない、どうでもいい話にばかり振り回されて、しょっちゅう目をキョロキョロさせていたら、目の前にある山になど、気づくはずがないではありませんか。本物と偽物を見分ける目が、育つ筈がないではありませんか。自分が何者で、どこから来て、どこへ行くのか、解るはずがないではありませんか。

 

人間たちよ、目を覚ますのです。この集団催眠状態から抜け出すのです。気づいた人たちから、先ず歩み始めなさい。山はいつでも、変わらずにある。あなたのすぐ横にある。あなたが気がつき、登り始めるのをいつでも待っている。