by Rainbow School
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明るい老後破産、楽しい独居生活

クレジットカードの7月分の銀行引き落としが、残高不足のために落ちませんでした。通帳を見て一瞬ギョッとし、「あ、これがいま巷で話題の《老後破産》てやつかぁ」と思いました。ついには硬貨が入った貯金箱まで開ける始末。なんだか小学生に戻ったような気分でした。その後、追加入金して、ひとまずはしのげたんですけどね。

 

山奥で暮らしているために、周囲には全くお店がありません。それで、どうしても必要なものは、カードを使ってインターネットで購入するということになる。ですが、家計簿なんていちいち付けません。お金に関しては、高田純次さん見習って、テキトーで行くと決めてますから。でも6月は、部落恒例の草刈り行事のためにエンジン式草刈り機を購入したのが、ちとイタかったなぁ。それを忘れていた。

 

私、本当はあれ嫌いなんです。音はうるさいし、排気ガスは臭いし。危ないしね。それで、私だけ手動式の鎌(早い話が普通の草刈り鎌ね)を持って、みんなの後をウロチョロしていたんですけれど、5年も経って、さすがにこれ以上は水っ子(赤ちゃんのように手加減してもらうこと)を続けるわけにも行かなくなって来た。それで購入したという次第。年に一度の、その日のために。

 

2カ月に一度振り込まれる年金が、15万6千円。だから1カ月、7万8千円。これに臨時収入を合わせて平均10万円弱というのが私の今の生活費。ご覧の通り、これはいわゆる生活保護世帯よりも少ないです。ということで、お金の面だけを見れば、自分はれっきとしたビンボー人。ですが、気分まで貧乏人になったことはない。かつてはそういうこともあったが、今はない!

 

だから、時々、不思議に思うんですよ。よく、夫婦ふたりで月に23万円の年金だけじゃとても暮らしていけないとか、退職後には少なくとも3000万は用意しておかなくちゃとか、そうじゃないと生きていけないとかと、言っている人のいることが。現に、ただ今この瞬間、生きて、暮らせているのに、「暮らせない」とか「生きられない」って、一体どういうことなの? 自分の何を見てるのかな?

 

54歳の時、生き馬の目を抜くその業界で、もう自分は通用しない、引き際だと悟り、その年の正月、それまでの取引関係先全部に「廃業宣言」のハガキを出しました。その後の展望が見えていたわけではありませんでしたが、とにかく「辞める(それまであった状態を破壊する)」ことを、優先したわけです。そういう自分の、内なる声に従った。

 

不安は大いにありました。私も人並みに、ソフトランディング(軟着陸)を考えていました。それで、飲食店商売をしようかと考えて実際に店を作ったりもしましたが、これは3カ月と持ちませんでした。投資した1000万円が泡と消えました。借金が2500万円くらい残り、先行き不安から鬱病になった時に、今度はカミさんに癌が見つかって、10カ月後に死んでしまいました。

 

しかし、この10カ月間の看護生活は、私に鬱病から立ち直るきっかけを与えてくれました。そこに一生懸命にならざるを得なかったことが、思わぬ効をもたらしたのです。しかし仕事の方は相変わらずで、ネット販売に手を出したり、出版を手がけてみたり、短編映画を創ってみたりと、スケベ根性がなかなか抜けませんでした。そして、そのことごとくが上手く行かなかった。全部、一生懸命やったんですけどねぇ。

 

もうダメかと思って行き詰まり、深夜の清掃のアルバイトをしたり、ラブホの受付のアルバイトをし、次に『お風呂の王様』の面接に行って、不採用になった時、もう働くのは止めようと決心しました。この直後、渋谷のユーロスペースのカフェが面接に来いと言って下さったのですが、「へえ、度量があるなぁ」と思いましたが、その時には「もう働かない」と決めた後でした。

 

*フランス映画を見ると、カフェのギャルソン(給仕)に年配者がたくさんいるでしょ。自分もウェイターの経験があるし、カッコいいギャルソンなれるかもネ、と思ったのでした。でもフランス語のギャルソンて、元々は「少年」という意味なんですってね。><

 

それからです。眼を閉じるたびに、田舎の田園風景が浮かび上がるのです。これがあまりにも頻繁に続くものですから、「これは、田舎へ行けってことなのかなぁ」と思って意を決し、インターネットで見つけた今のボロ屋を購入したのです。資金は生命保険を解約しました。ついでに、定期購読の雑誌やら何やら、削れるところは全部削って身軽になりました。出来る限りお金の掛からない生活の、準備をしたわけです。

 

さて、現地へ行って直ぐに、「これはひょっとして、とんでもない失敗をしたかも」と思いました。アクセスは不便極まりない。天井には穴が開き、土壁は何箇所も崩落し、床は腐っていてベコベコになっている。そして、家の中にコンセントすら無かったのです。テキトーが災いしました。長年空き家だったので、もちろん照明器具もありません。持って来た裸電球を1個つけて、その下でサバ缶を食べていたら、動悸がして体がガタガタと震えて来ました。

 

おっ、この感じは経験があるぞ。そう、10年以上も忘れていた、パニック発作の再発です。この時は、もの凄く苦しく、怖かった。でも、やっちまったものはもう仕方がない。パニックは東京に戻っても続きましたが、前に進むしかないとあきらめて、諸費用込み30万円ポッキリの中古の軽自動車を買いました。けれども、運転は得意じゃないし、それまで高速道路というものを運転したことがなく、これももの凄く怖かったです。

 

気持ちが安定して来たのは、業者さんに電気工事をして貰い、そのあと自分で土壁の修繕をし始め、しばらく経ってからです。修繕には、「臭い物に蓋」式の修繕と、土台から直す修繕があります。「臭い物に蓋」式は、前のものを壊さずに、そこに見てくれだけは新しいものをおっ被せてしまうやり方。でも、土台から直すには、前のものをいちど壊さなければならないのです。

 

私は、やるからには後者で行こうと決めて、土壁の上の古い漆喰を剥がすところから始めました。この、今あるものを壊すというのは、ちょっとした覚悟が必要になる。いったんは、前よりもひどい状態になるのですから。しかも、左官作業など、今まで一度もやった経験がありません。予想される作業量の膨大さ、大変さを考えると、どうしても足許が竦んでしまうのです。でもそこで、「エイ、ヤッ」と一歩踏み出さないことには何も始まらない。

 

これをちょっとずつ、5年間続けて来て、私は次のことを学習しました。

 

・前のものを壊さないことには、決して新世界は実現しないのだということ。

・壊す際にともなう恐怖を乗り越えるには、その後の、理想世界の強いイメージを内に持って臨むことが肝心であること。

・そして、持った後はそれを忘れて、目の前の今できる作業に没頭すること。

・そうすれば、いつかは、思いが、形になっている。

 

それが、宇宙の仕組みであることを、身を以て体験しました。そのことが解った時に、軟着陸を画策していた頃の自分が、やること為すこと、どうしてことごとく上手くいかなかったのか、その理由も解ったのです。

 

何もかもが、天の配慮でした。そして、未だ残っていたスケベ根性、卑しさ、浅ましさ、怒り、嫉妬を、一枚ずつ脱ぎ捨てて行った時に、入れ替わりに、上からのメッセージが届くようになったのです。

 

今は、今までの人生すべて感謝しています。映画監督になれなかったことも。お金で苦しんだことも。やること為すことうまく行かなかったことも。パニック障害や鬱病になったことも。人からさんざん非難や罵倒を受けて来たことも。『お風呂の王様』を面接で落ちたことも。カミさんが死んでしまったことも。

 

あ、誤解しないでくださいね。カミさんが死んでくれてよかったと言っているわけじゃありませんよ。愛する人を失い一人になった。そうなったことにも、今は感謝しているという意味ですから。

 

貯金はほぼ使い果たしました。でも食べ物に困ることはありません。豪華な食事は要らないし、外食もしません。果物はなかなか買えないけれど、粗食で結構。時々、食べ物を持って来てくださる人もいますしね。旅行には行けませんが、別に行かなくなっていいです。洋服、要りません。今さらモテようとは思いません。最新式の須磨穂、要りません。心を破壊してしまう世界須磨穂教の信者になろうとは思いません。

 

この「お金」というものへのアバウトさは、昔からそうだったわけではありません。多くの人と同じように、いやそれ以上に、自分は「お金」というものが生み出すトリックに強く引っ掛かっていたのです。今とは真逆だったと言ってもいいです。結局そのことが、私に、パニック障害やら鬱病をもたらしたのです。どういうことかと言いますと、その時分には、生きることを、私は「時間軸」で考えていたのです。つまり、「今」を生きてはいなかった。

 

その頃、私は、下北沢近くで小さな企画事務所をやっていました。そうしますと、アシスタントへの給与やら、家賃やら、事務所経費やらを考えると、毎月300万円以上の売上がないことには事務所が回らないのです。これが、いつも頭の中を支配していて取れない。すると、いつの間にか、発想が逆転して行ってしまうのですね。

 

300万の売上が必要 → 今月は達成できるだろううか? → 何としても仕事が欲しい → でも最近、ちょっと売り上げが落ちている → ああ、大口を切られてしまった → このままじゃやって行けない → 給料も支払えなくなる → そうなったら事務所は閉鎖だ → もう死ぬしかない、とまあ、ざっとこんな具合です。どうです、笑えるでしょう? でもその時には、その考えに取り憑かれているから、滑稽さが分からないのです。

 

エジソンは、「必要は発明の母」と言ったけれど、これじゃさしずめ、「必要はパニック障害の父」ですな。もう何のために身を摺り切らしてまで働いているのか分からない。ということで、「お金」のドレイはもう充分経験しましたから、これ以上は結構なのです。ただ、ちと困るのは、家の修繕のための材料費がなかなか捻出できないことくらい。でもそれだって、きっと何とかなる!

 

私には夢がある。今の隠遁ライフを送るようになってから、自分の「行」が飛躍的に進みました。やはり、古来から言われているように、都会から離れて、情報を遮断して、自然の静寂の中に身を置くことが、非常に有効であったのです。繰り返し瞼に浮かんだ映像は、それへの導きでした。だから、同じく光への道を求める人に、このささやかな場を提供して、共に励まし分かち合いたいのです。

 

その思いは、最初からあったわけではありません。でも、修繕作業が進んでいくに連れて、だんだんとそのような構想が膨らんで来ました。すると、今までの全てのことは、このためにあったと思えるのです。まさに完璧。今年は、4名の方とテスト合宿を行いました。ようやく雨露しのげるレベルになっただけで、まだまだ理想イメージにはほど遠いです。ですが、来年にはなんとか合宿を実現させたいと思っています。いざ、友よ。来れ!

 

この『気づきの啓示板』には、「幸福とは条件ではなく、そう思う気持ち」なのだという指摘が、何度か為されています。私もそれに習って、たとえドビンボ・ライフを送っていても、心はいつも晴ればれと、豊かでいたい。夫婦ふたりで月に23万円の年金だけじゃとても暮らしていけない、という人は、「暮らしていけない」という思いを、毎日創造しているのですぞ。

 

ああ、そのことになぜ気がつかないの? そういう人は、きっと収入が50万円になったとしても、今度は、50万円じゃとても生きていけないと言うことでしょうね。お解りですか? 自分を不幸にしているのは、自分の「不足」という想いなんですよ。今の自分は不幸である。今の自分には○○が足りない。という思い込みが、「老後破産」の恐怖というものを駆り立てているのです。

 

だから私は、この先、自分が手本になろうと思っているのです。明るい老後破産、楽しい独居生活の。それが、気持ち一つで充分に可能なのだということを見せつけて。

 

いつも言っている通り、あなたの意識の連続が、今世というドラマにおける、あなたの人生を、結果的に決めてしまうのですよ。足りない、足りないと一生言い続けて終えるのか。それとも、もう充分だ、ハッピーだと言って人生を終えるのか。それはあなた次第。

 

だったら、後者を選んだ方が、ステキだとは思いませんか?

あなたの「仕事」は?

あなたは何者ですか? そう問われたとき、あなたならどう答えますか? 先ずは名前を言う。次いで年齢を言う。居住地を言う。既婚か独身かの別を言う。家族構成を言う。出自(家系)を言う。人によっては、出身大学や海外留学経験を言う人もいるかも知れません。でも大抵の場合、決定打は、今どんな「仕事」をしているかであり、それにプラス「肩書き」というものが加わる。それが、半ば常識になっていますよね。

 

そのことに、今ではほとんど誰も疑いを持ちません。典型的なのはビジネスの場での初対面。いきなり「肩書き」の入った名刺を交換し、互いの素性というものを判った気になる。という儀式が、今日もどこかでおごそかに行われています。でもそれって、その人を表しているのでしょうか? 名前は単にラベルだから別として、仕事や、肩書きや、年齢や、家族構成なんてものが、本当に「その人」が何者かをを表しているのでしょうか?

 

これが常識化している社会では、困った問題が生じます。何も職についていない人は肩身の狭い思いをしますし、周囲も、「いつまでも働きもせずにブラブラしている奴」という、まるで社会の落伍者であるかのようなレッテルを貼って見るからです。「引きこもり」という言葉もそれで、こうした社会的圧力が非常に強い時代となっています。「あのなぁ、室戸岬の洞窟に引きこもらなかったら、空海は誕生していないんだぞ」と、私は言っているのですがね。

 

書類の職業欄というのが困る。選択式になっている時には、「ほんとは違うんだけどなぁ」と思いながらも、仕方なく「無職」欄をチェックするのですが、フリースペースがある時には「隠居」と記入しています。すると、それを見た相手は、大抵びっくりした表情をしますね。何か変でしょうか? 職業、隠居。字の通りなんですけどねぇ。

 

半世紀前には、テレビの視聴者参加番組で、司会者から「お仕事は?」と聞かれて、「主婦です」と答える人がたくさんいました。若い女性は、大多数が「カジテツダイ」と答えていました。私は小学生だったものですから、その意味が解らずに、てっきり「火事手伝い」だと思い込み、世の中にはこんなにも火事が多くて、手伝いをする人もいっぱいいるんだなぁと思っていました。でもなぜかお姉ちゃんばかり。おい、火事場に飛び込む勇気ある男はいないのか!

 

な〜んて冗談を言える状況ではとうに無くなっていますよね。総務省の直近データを見ると、非正規労働者の割合は38.2パーセント。10人のうち4人に迫ろうとしています。25年前の1990年と比べると、その割合は2倍だそうです。裏にあるのは、言わずもがなの「派遣労働者」制度の解禁。お若い方には分からないと思いますが、これは25年前に、政府と産業界がそういう戦略に意図的に転換した結果なんですよ。

 

一世代分が経過して、当時のことを知らない若者が、理不尽なことにいま苦しめられているわけです。当時も、もちろん反対はありましたよ。でも政府は、どんなに反対があっても、ジャパン・ハンドラーズ(日本操縦者)のご意向だけは、しっかりと実現して行く。そうしないと、自分がクビになってしまいますし、甘い汁も吸えなくなってしまいますから。クビになるのがいいのか、甘い汁がいいのか、となったらみんな甘い汁の方を飲んじゃう。

 

急所となるのはいつも法律の改正。でも、一般国民は法律のことなんて解らないし、政府お抱えの有識者が必ず登場して、適当な理屈を並べ立てては世論の動きを誘導して行ってしまう。こうして法律が改正される。でも変化は徐々に進むので、それがどんなに重大なことかは、その時点では分からない。一世代経過した頃になってようやく気づいた時には、もう「手遅れ」となるのです。

 

こうして、悪辣な大人たちが結託し、次世代の若者(+最近は老人)を泥沼に突き落として行く。その中から這い上がった一部のエリートたちが、また悪辣な大人へと成長し、次世代の若者をさらなる泥沼へと突き落として行く‥‥。この連鎖が止みませんね。いったい何をどうしたらいいと、あなたは思いますか? それとも、そのような実情に、何も痛みを感じないでしょうか?

 

私は5カ月間、パチンコ屋の深夜清掃の職についた時に、使い捨て労働力にしか従事できない人たちを見て、共に働いて、ちょっとだけ悲惨さを体験しました。ましてや、寮のタコ部屋に住み込んで、賃金の中から家賃、光熱費、保険料を差っ引かれ、手取り僅かで貯金も出来ず、急な雇い止めにあって寮を追い出され、住所定まらず、そのせいで面接にも行けず、路頭に迷う人々の悲惨さは、どれほどのものかと思います。

 

私も、28歳までプータローでしたので、働いても働いても未来が見えない、当時の不安や焦りは、思い出すとゾッとするものがあるのです。しかし当時と今とでは、状況が全く違いますね。当時は、選ばなければ職はありました。もちろん正規雇用の。日本企業の中に、「人材は宝である」「次代の弊社を担う大切な財産」という考えが当たり前のようにあったのです。

 

それが1990年代に入って一掃された。終身雇用制など、もう時代遅れだ。それではグローバル競争の時代に生き残っていけない。先ずは、企業が収益を上げることが最優先だ。それがあってこそ、雇用もあるのだから。というもっともらしい理屈で、雇用の自由化(自由と聞くと、なんとなくいい感じがしますが、実質は使い捨て、不安定化)が推進されたのです。

 

その結果が今ですよ。それで、グローバル競争とやらに勝ったんですか? 政治も、経済も、科学技術も、教育も、何もかもが日本は三流国に転落しちゃいました。それだけじゃないです。正直で勤勉というかつての日本人イメージが薄らぎ、今や世界の嫌われ者になりつつある。日本のお粗末な政界スキャンダルは、海外にだって知らされているんですよ。日本国首相が国連で演説台に立っても、席はいつもガラガラ。まともに聞く人など誰〜れもいない。

 

今日、政府の発表やマスコミ記事は、基本的に全部ウソだと思っていた方がいいです。ウソをつくことが、彼らの日常業務になってしまっている。これ以上、そこにムダなお付き合いをし続ける必要はない!

 

でも、政治には無関心でいい、と言っているわけではありませんよ。政治は大事です。政治が、人々の生活のあり方を大部分左右してしまいますからね。政治は大事ですが、既存の枠組みの中で発想することの限界が、あちこちで露呈していることに、もういい加減に気づくべきだと言いたいのです。議院内閣制、政党、選挙、三権分立、法律、そういったものが、人々の幸福とは何の関係もないところで動いているということに。

 

それともう一つ。国際政治の裏舞台は、いま激しく揺れ動いているということ。私がテレビ、新聞、雑誌のニュースを見なくなってから、もう10年以上が経ちました。けれども、マスコミに一切触れなくなってから、国際政治のツボというものが却ってよく解るようになりました。ですから、マスコミが流すニュースがウソだらけということが非常によく分かるのです。その裏で(国民には知らされないところで)、日本は、国際的に孤立化を深めています。

 

このようなウソ報道、操作報道に、丸ごと身を預けている時代はもう終わったということです。今は、インターネットというものがあるのですから、自分で信頼できると思われるソースに当たって、自分の見解や考えをまとめ、かつ発信する時代になったということ。これからは。劇団ひとりならぬ「報道ひとり」です。それが、今日の、政治への新しい関わり方です。

 

さて、「働き方」ということについても、これまで同様、政府が言うことはウソだらけであり、これを既存の政治の枠内であれこれ行っても、もうどうしようもないところまで来ています。たとえ議論というものが行われたにせよ、政府がやることは皆、「そういうことを一応やりましたよ」というアリバイ作りのための茶番劇に過ぎません。辺野古基地移設問題を見れば、よく解るじゃありませんか。

 

労働者の奴隷化は、計画から25年で成就しました。次に政府が狙っているのは、国民の家畜化です。「何とまあ大袈裟な」と思われるかも知れません。でもね、これは、あらかじめ決められたシナリオなのですよ。今までだって、「そんなバカな」と思うことが、着々と、少しずつ実現されて来たのですから。茹でガエル状態で、ちょっとずつそうされて来たのですから。

 

年金制度などは明らかな詐欺です。政府が年金詐欺をやっている。支給開始年齢を一年ずつ繰り延べすると決定した時点で、もう詐欺開始。お得意の茹でガエル作戦による詐欺。そして今度は70歳にするのだと言う。その言い分が凄い! 「70歳まで働ける世の中にします」って。おいおい。その次は間違いなく80、次は90、その次は100歳になる。その裏で、集めたお金は博打に注ぎ込んでいるのですからねぇ。いやはや。

 

ですから、いつまでも政府の考えに身を任せていたら、本当に、やがては家畜にされてしまいますよ。すでにそういうしわ寄せが、力を持たない若者や、老人や、母子家庭に襲いかかっている。もちろん、こうした事態は、現行の制度が創り出した影の部分です。それらは、そうしたい人たちによって、意図的に創り出されたもの。ですから、その制度が変わらなければ、この状況は好転して行きません。

 

でもね。そこで本日のテーマとなるのです。そこに、発想の転換が望まれるのです。大胆な発想の転換が。

それは、「仕事とは何か?」を、もう一度問い直してみるということ。今がそのチャンスです。なぜなら、この先、雇用は今以上にどんどん無くなって行くことが予想されるからです。

 

現代人は、仕事=雇用という考えに、あまりにも深く染まっています。でもそうなったのは、つい最近になってからのことなんですよ。半世紀前には、「家事手伝い」が、「仕事」として堂々と言えたし、社会的に認知されていたのです。それで、誰にも恥じることはありませんでした。でも今、同じことが言えるでしょうか? 現在では、「仕事」と言えば即、大多数の人が「働き口」を考えるようになっています。

 

そうなると、「働き口がない」ことは、「仕事がない」と同義になってしまうのです。実際、その意味で、「仕事がない」という言葉をみんなが使うようになっています。また、それを当たり前だと思い込んだうえで、労働問題を議論したりしています。でも、果たしてそうなのでしょうか? これは、サラリーマン社会、ドレイ労働社会の洗脳が、極限にまで浸透した何よりの証拠だとは言えないでしょうか?

 

例えば、あなたの家が農家だったとしましょう。朝、市場に出荷するきゅうりを畑に取りに行くこと。それは「仕事」ではないのでしょうか? では、自家用のサラダにして食べるきゅうりを取りに行った場合はどうでしょう? また、それをサラダに仕立てて食卓に出す行為は、「仕事」ではないのでしょうか? 食事の後の皿洗いや布巾の洗濯は、「仕事」とは呼べないのでしょうか?

 

いいえ、そんなことはありません。全部が「仕事」です。ですから、「仕事がない」なんてことは決してあり得ないのです。私は、毎週20時間前後を費やして、この『気づきの啓示板』ブログを書いています。それは、今の私の「仕事」なのです。誰かに言われてやっているわけではありません。私が、それを「仕事」だと考えたから、それが自分の「仕事」になったのです。

 

ここで、原始人を想像してみてください。彼の、彼女の「仕事」とはいったい何でしょうか? 「雇用」など、まだどこにも無いのですよ。おそらく「仕事」という概念すらも無かったでしょう。言い換えれば、現代人が、いかに「仕事」というものを狭い範囲でしか捉えていないか、捉えなくなったか、またその概念に洗脳されているか、が解ろうというものです。どうしてそうなったと思いますか? いったい何がその原因なのでしょう?

 

そう、その通り。「お金」です。この半世紀で、「仕事」とは「お金」を得るためのものであり、人は「お金」が無ければ生きられない、という信念を、あらゆる場面を通じて、現代人は吹き込まれて行ったのです。よって、仕事がない → お金が得られない → 生きられない → 絶望しかない、という苦悩が生み出され、その苦悩から逃れるために、ドレイ労働であっても、自分から進んで従事する状況が創られたのです。

 

『ハローワーク』という制度すら、その信念の強化に寄与しています。私が、「○○支援」とか「○○サポート」という言葉に諸手を挙げて賛同しないのはそこです。ひとたび「支援」を制度化しますと、それがいつの間にかスタンダードとなり、概念がすっかり入れ変わってしまうのです。すると人々は、もう「支援」なしではいられなくなる。そこに、その市場を狙った利権が必ず発生して行くのです。

 

「お金」とは、単なるツールです。そのツールに、現代人はとことん汚染され、操られ、苦悩させられ、でもそのカラクリを知らず、今や家畜にまで落とされそうになっているのです。

 

ホームレスになって、都会で狩猟採集生活をしている人をみると、気の毒に思う半面、同じ狩猟採集生活を、どうして山に来て行わないのかな、と思います。発想を変えればいいのに‥‥。住居がない → 面接が受けれらない → 仕事に就けない → お金がない → 部屋を借りられない、というループから、山に来れば、直ぐにも抜け出せるのに‥‥。

 

今はどこの山村も過疎化しているから、家もたくさん余っているしね。自治体の中には、仕事を見つけてくれるところだってある。自然の中に身を置けば、自分がいかに、仕事=雇用=お金という概念に縛られていたかが分かると思うのです。そして本来、自分は「自由」なのだということも。何なら、落ち着くまで、私の家に来て貰ってもいい。ボロ屋だけど、まあ何とかなるさ。

 

宇宙的に言えば、あなたの「仕事」は、極めて明白なんですよ。誰にとっても同じ。原始人と同じ。犬猫とも同じ。ただ一つしかない。それは「生きる」こと。えっ、生きること? そう、生きること。生き延びること。それがあなたの「仕事」。それ以上でも、以下でもない。問題は、どうそれを「生きる」かということなのです。いわゆる「職」は、その「生き方」を構成する多くのファクターの、一つの要素に過ぎない。

 

みなさんは、社会の刷り込みもあって、「雇用」とか「適職」とか「自己実現」とか「社会的成功」とかに、あまりにも意識が傾き過ぎているのです。その歪(いびつ)さに気がついていないのです。気がつかぬまま巻き込まれている。そこにこだわり続けるものだから、それが実現できていない今の状況が、不満足だし、不安だし、卑小に思える。自分の存在価値がないように感じるのです。要は、自分で自分を苦しめているのです。

 

そこに気づきなさい。そんなつまらぬこだわりなど、さっさと捨てなさい。あなたの「仕事」は生きることだ。そして課題は、どう生きるかということ。あなたは、どう生きたいのですか? よく、自分の「適職」とか「使命」だとかを霊能者に尋ねる方がおられるのですが、そんなものは、自分が決めることなんですよ。あなたが、どういう意志を持つかということなのです。

 

そして、さらに宇宙的に言えば、その理想は、「愛」に生きるということ。全き愛の人になるということ。完全なる奉仕を己の「仕事」にするということ。それは、あなたの意識のあり方の問題、意識のあり方の転換、意識のあり方の成長を問うている。このことが、この先、嫌でもはっきりと自覚されるようになります。なぜなら、「職」が無くなるから。「雇用」がますます狭き門になるから。

 

その時、あなた方は、今までの考え方と、社会システムを根本から変更せざるを得なくなります。資本家と労働者、雇用者と被雇用者、富者と貧者、命令する者と命令に従う者、このアンバランスがもう機能できなくなる。そして、分かち合う経済システム、支え合う社会システムにドラスティックに転換してゆくことになる。その萌芽がもう現れているのですよ。

 

現行システムに君臨する者は、今までのシステムを何が何でも死守しようとします。その焦りと綻びが、あちこちに顔を出しています。ですから、これまでには信じられなかったようなことが、(例えば、ウソをつき続けて平気な政治家、民を苦しめても恥じない官僚、不正を黙認する警察・検察・裁判所、デタラメばかりを流しているマスコミなどの形に表れて)噴出しているのです。

 

あなた方は、その右往左往には巻き込まれないようにして、これから全体を、俯瞰して、穏やかに見て行くのですよ。創造の前には破壊が必要だということ。その役割を演じてくれている者もいるのだということ。光あるところには影があり、影あるところに光あり、ですぞ。そして、あなた方は、混乱の時期を超えて、光の創造の道へと進むのです。

 

いいですか。もう一度、言いますよ。あなたの仕事は「生きる」こと。そして、今世のあなたの課題は、どういう「生き方」を選択するかということ。別の言い方をすれば、あなたという個別化した「魂」の、今世における「表現のあり方」だ。それが、いま問われている。そしてそれは、あなたの自由意志に、すべて任されているのです。

食の大切さ、その奥にある深い意味

スーパーに行くと、小アジを詰めたパックが、「唐揚げ用」という表示を付けて安く売られていました。私はドがつく貧乏人ですので、目ざとくそれを買ったのですが、買いながら(今時こんなものを買う人は、居ないだろうなぁ)と思いました。家庭に出刃包丁がないでしょうし、ぜいごの取り方も知らないでしょうし、揚げ物もしないでしょう。

 

もう「料理」以前の問題で、その前提が崩壊してしまっている。出刃包丁を持っていなくちゃ魚は下ろせないですが、出刃は鋼ですから、しょっちゅう研いで手入れをしていないと直ぐに錆びてしまいます。その砥石も、今の家庭には無いでしょうし、刃物の研ぎ方だって知らないでしょう。でもね、わずか50年前は、そうしたものが各家庭に当たり前にあったんですよ。

 

インターネットを見ると、たくさんの料理レシピが載っています。ですがどれも、基本を無視した「なんちゃって料理」ばかりで驚きます。(ああ、これが今の人の普通の感覚なんだろうなぁ)と嘆かわしくなるし、これでは現代人の「心の問題」など、永遠に解決しやしないだろうなとつくづく思います。う〜ん、こんなこと言ってる私の方が、時代遅れの浦島太郎なんでしょうかねぇ?

 

私は、マクドナルドのハンバーガーというものは、むか〜し1回食べたことがあるだけ。コンビニ弁当というのは2回くらいあるかな。それは何かの会合で、他の人が買って来たものを「要らない」とは言えなくて、仕方なく食べました。レトルトとか冷凍食品とか「なんとかの素」の類は一切使いません。毎食、ささやかなものですが、自分で作って食べています。

 

先日、あるお母さんから聞いたのですが、小学生の息子さんが野球部に入っていて、次期卒業生のお別れ会があったんだそうです。そこで、親御さんたちが集まって食事を何にしようかという話になり、コンビニ弁当という案と、カップラーメンという案が出て、さすがにカップラーメンはないだろうということで、コンビニ弁当に落ち着いたと言うのです。

 

いやはや、もう私の想像を超えておりますな。私の中では、エプロンをして、お母さんたちが一緒に楽しそうにカレーライスを作っている姿が浮かぶのですけれどねぇ。そうすれば、子どもたちも匂いに惹かれて集まって来て、楽しく食事が出来ると思うんですけれどねぇ。いったいどうして、こんなことになってしまったんでしょうねぇ?

 

たぶんそれは、そうするのが面倒くさいというよりも、自分の調理技術のなさを他の人に知られるのがイヤで、お互いに牽制し合った結果、落とし所をそこに求めたのでしょう。日本人が伝統的家庭料理を捨ててから、二代、ないし三代が既に経過しています。核家族化の影響もあり、家庭の味の伝承がとうについえてしまって、もう戻れるところがありません。

 

同じ豊かな食文化を持つイタリアが、ファストフードの入国を拒否して、マンマの味をまんま守ろうとしたのに比べて、日本人は、まあなんとあっさり自国の伝統文化を捨ててしまったのでしょうねぇ。アメリカ文化を有り難がって、アメリカ流のプアーな食を真似して、それがおしゃれだと勘違いして、子どもたちをその習慣にすっかり馴染ませてしまいました。

 

今や “家庭”料理は「外食」でしか味わえないという、笑えない冗談みたいな時代になっちゃった。

 

それでいったい、何を代わりに得たのでしょう? 食事を作らなくなって、自由に使える時間が増えましたか? FFやコンビニがあるので、お弁当や水筒を持たなくても済むようになりましたか? 家族団欒はチェーンの居酒屋や回転寿しで出来るし、後片付けもしなくていいし。便利な世の中になって、本当によかったですねぇ。で、あなたは何を得ましたか?

 

病院の関係者から、今の恐るべき実態をお聞きしました。入院患者の食事は、外部の納入業者が運び込んで、病院側はただそれを温めるだけなんだそうです。栄養士はいろいろ計算しているのでしょうけれど、食べずに残す人がいっぱいいる。そりゃそうです。私はまずあのプラスティクの器がダメ。見ただけでげんなり。職員は、医師も看護師も時間に追われて、コンビニ弁当やカップラーメンが当たり前なんだそうですよ。

 

毎日の、家庭の食事や、団欒の場が崩壊していても、そこに危機意識を持たない。それどころか、忙しさを言い訳にして、さらなる崩壊の道を突き進んで行く。そして、その穴を埋めるように、健康食品の情報だけはやたらと詳しくなって、あれがいいとか、これがいいとか、ダイエットだとかと言って騒いでいる。何かが、根本的に間違っているとは思いませんか?

 

自然界に暮らす鳥を見てください。親鳥が雛に餌を与えるのは当たり前です。人間は、それをより美味しく、楽しく、また食卓に集う人が分かち合って食べられるようにと工夫し、各地固有の文化にまで発展させて来ました。その食文化を、現代人は、作るのが面倒くさいと言ってあっさり捨てたのですからね。もはや「生きる」意欲を見失ったとしか思えません。

 

子どもの頃に、家庭の味をしっかり覚えた人は、大人になっても決して身を崩すということがありません。どんなに辛い目にあったとしても、ギリギリのところで踏ん張れるのです。それは「家庭の味」というものの記憶が、体に刷り込まれているから。手作りの、我が家の味こそが、その人にとって、親から確かに「愛されていた」という自信と証明になるのですから。

 

愛のこもった食事。それは、ただのエサとは違うのですよ。そう聞いても、信じられないでしょうね。食べ物は食べ物だ。手作りであろうが何であろうが違いやしない。重要なのは成分だ、栄養価だ。それが今の風潮であり、主流の考え方です。いや、それ以上に、空腹を満たせればそれでいい、と考えてる人だって大勢いる。

 

でも、大切な点は、そこじゃないのです。人間にとって、食は確かに大切です。でもそれは、みなさんが考えているように、物質的な側面だけからの話ではないのです。むしろ、物質的側面は、さほど重要ではないのです。と言ったら、驚かれるでしょうね。中には反発を覚える人もいるかも知れません。今の栄養学の常識とは掛け離れておりますから。

 

一日何品目食べろとか、手のひらに当てて量を計れとかの「栄養指導」なるものが盛んに行われていますが、そこに神経質になる必要はありません。身体というものは素晴らしい化学工場で、摂取した食べ物はみんな、分子、原子レベルにまで細かく分解し、自分の身体に必要な栄養素へと再構成してしまう能力を持っているのです。

 

ですから、動物は極端な偏食にも耐え得るし、だからこそ、人類も古代より生き延びて来られたのです。ご覧なさい。情報過多で、飽食の現代人の方が、よほど病気持ちが多いではありませんか。その病気を脅しにしてまた、あれを食べろ、これを飲めと、情報洗脳している輩がいることが判りませんか?

 

それよりも重要なのは、分子、原子の間にあるものです。分子、原子の間? そう、間。スキマです。あなた方は、物質が目に見えるものだから、いや物質しか見えないものだから、物質が確固たるもの、目の前の物質がすべてだと思い込んでいます。そしてそこから、あらゆる考えを構築しようとする。でも、その固い物質というものは、実はスキマだらけなんですよ。

 

水素原子を例にとると、中心にある原子核の大きさは、原子のおよそ10万分の1でしかありません。東京駅に直径1m大のボールを置き、これを原子核だと仮定すると、電子の軌道は、なんと100km先の銚子あたりということになるのです。つまりその間はスカスカ。ニュートリノの検出が困難なのはそのためです。ほとんどがその間を通り抜けて行ってしまうのです。

 

さらに言えば、(これは現代物理学ではまだ認めてはいませんが)物質というのは、空間の縄張り的主張なのです。宇宙のベースになっているものは、超ミクロの振動するエネルギーです。このエネルギーが、振動数を下げて行った時に物質化して素粒子となる。その素粒子がさらに集まって原子を作る。この時に、無時間・無空間の宇宙に「時空間」が主張(produce)されるのです。

 

ですから、喩えて言いますと、超ミクロの振動するエネルギーの海に、ダスト(埃)のような素粒子がプカプカ漂っているような状態です。海流に乗って流されて行く小さな木片思い浮かべてみてください。すると、このダストは、海の流れ、波の影響といったものを当然受けます。影響を受けるどころか、海流にほぼ支配されていると言ってもよいくらいです。さてここからです。

 

人間の想念というものは、非物質的なエネルギーです。ですから、この超ミクロの振動するエネルギーの海に、想念が溶け込むということになるのです。それらは同質のものですから。あなたの出す想念エネルギーが、あなたの周囲に、想念の海流を創るのです。ですから、食事を構成している原子のスキマにもそれが入る。食事の際に、人はそれらを一緒に頂くことになるのです。

 

さあ、そこで考えてみてください。栄養価はしっかり考えられているけれども、工場で大量生産された食事と、粗末だけれども、愛のこもった手作りの食事。そのどちらが、食べた人を癒し、喜ばせてあげられるのでしょう? 当然ながら後者です。何しろ、原子核の大きさよりも、スキマの方が遥かに広大なのですからね。

 

人は、どうしても物に惑わされてしまいがちです。ですが、目をつむって、物が一切無い世界に、いま自分は居ると想像してみてください。それが真実の世界なのですから。そうすれば、直ちに解ります。あなたが食べているものは何なのか? あなたが食べたいと欲しているものは何なのか? あなたを癒し、勇気づけ、健康で、朗らかな気持ちにしてくれるものは何なのか?

 

現代社会の破壊的構造は、こうした面がほとんど顧みられなくなっていることにあります。みんなが「家庭の味」を忘れ、エサを食べることをよしとし、エサを供給する産業が大手を奮い、その中に平気で身を任せている。それがどれほど、精神を荒廃させ、生きる本能すらも奪っていることか。見よ! プアーな食先進国アメリカの、人々の精神の荒廃ぶりを。そしてそれを後追いする日本を。

 

今や、心を病んだ教師たちが、次代の子どもたちを脅育し、矯育している。心を病んだ医師たちが、訪れる人を薬漬けにしている。そして、インターネット・ゲームという麻薬が、子どもたちを幼い時から重症の中毒者に仕立てあげる。その仕組みを作ったのは、それを「よし」とする前の世代の大人たち。そして、その大人たちを育てたのは、その前の前の世代の大人たち。その大人たちを育てたのは‥‥

 

地球人たちよ。いい加減に目覚めるのです。この壮大なカラクリに。カラクリを作り上げているものの根本的な理由(ワケ)に。

 

こんな状態で、傷ついた心が癒されるわけがないではありませんか。悩み、傷つき、病んだ人を救えるのは、テクニックなどではありません。ましてや薬などではない。一杯のスープ。温かな心のこもった食事です。そのベースがあってこそ、人は初めて、生きている実感、生きていることのありがたさ、他の人から支えられて自分もある、ということが解るのです。

 

社会の風潮に流されるままであってはいけません。便利を追求すれば、便利の奴隷に成り下がってしまいます。不便の中にこそ、工夫と楽しみがあることを知りなさい。大切なのは「意識」の自由なのです。人間は本来的にクリエイティブな存在です。表現せずにはいられない存在なのです。そこに、どうでもよいような便利の蓋を被せて、自分を檻に入れてしまわないようにしなさい。

 

あなたはあなたです。ご自分の才能をもっと活かしなさい。他者に認められようが認められなかろうが、あなた自身を生きなさい。それでこそ、生きている甲斐があるというものです。自由は、そのために与えられたのですから。

「全託」ということについての誤解

自力が正しいのか、他力が正しいのか。一体どっちなのか? このことに迷った方が、少なからずおられるのではないでしょうか。一般社会通念としては、個人の生き方として、「他力本願じゃダメだよ」「自分の力でやるんだよ」と言われるのが普通です。ところが、宗教界の一部や宗教家の中には、まったく真逆の「他力」を力説する人たちがいます。

 

しかしこの考えは、一般社会通念とは真逆の思想なので、その高いハードルを打ち破るために、これこそが絶対なんだ、本当は正しいんだ、という意味を付け加えて「絶対他力」と言って強調する場合もあります。ある意味、これはコペ転です。この思想を、別の言葉で言うと「全託」ということになるのです。何もかも一切合切をお任せしてしまうということです。何に? 神仏に。

 

*コペ転(コペルニクス的転回):天動説から地動説に変わったように常識がひっくりかえること。

 

なぜ、そしてどこから、このような考え方が生じたのでしょうか? これは、宇宙と個人との関係を突き詰めていけば自ずと解ります。我々は誰一人、この宇宙から外に漏れ出てはいません。何もかもがこの宇宙の中にあるのです。では、その宇宙がどうして「在る」のか? よく分からないけれども、在るからには、創った「何ものか」がいるはずだ。それを、仮に「神」と呼ぼう。

 

というわけです。そうしますと、我々がみな宇宙の一員であることは否定しようがないわけですから、当然その「何ものか」、つまり「神」の手の内から出ることは絶対にない、という結論になるのです。筋斗雲に乗った孫悟空が、縦横無尽に動き回ったつもりであっても、お釈迦様の掌から少しも出ていなかったという、あれです。そこで、「全託」しておればよいという考えに行き着くのです。

 

ですから、これは論理的に言って正しいですし、間違ってはおりません。しかしその運用方法が、今日までの長い期間、間違って来たたのではありませんか、というのが私の主張です。

 

「全託」を説く人は、必ず「信仰」の大切さというものを強調します。両者はセットになっています。「信仰」の先に、一切合切を託せる存在としての「神(仏)」がいるのです。ですから、揺るぎない「信仰」であることが「全託」を保証する、という構造になっている。これは、宗教にとっては、もの凄い便利ツールと言いますか、求心力を支える土台になり得るのです。

 

しかしここで、前の回で言いましたように「多くの先の者はあとになり、あとの者は先になる」ということが起きてしまうのです。この言葉の中には、「信仰」という語こそありませんが、意味しているところはそれです。私は、「全託」思想と、「信仰」の熱心さとは、似て非なるものだと考えています。ここには、巧妙なゴマ化しとすり替えがある。

 

どこにそれがあるかと言いますと、先ほども言いましたように、「全託」思想それ自体は論理的に言って正しいのです。ところが「信仰」は、「全託」する対象を、自分の外側に置いているのです。外に見出しているのです。外側にある「神(仏)」に、自分の一切合切を預けるという感覚です。ここで、ズレが生じてしまうのです。

 

「全託」思想そのものは、自分も宇宙の一員である、という一体(oneness)の発想から始まっていたにも関わらず、「信仰」する対象を外側に見出した途端、そこには一体ではない「分離」が生じているという皮肉です。しかし、そのことによって、より「神(仏)」に近づくモチベーション、すなわち「信仰」が強化される構造というものが創り出されたのです。そして、祈りや、礼拝、聖典読誦が奨励されました。

 

しかし、一体(oneness)の発想を突き詰めれば、自分は宇宙の一員なのですから、宇宙を仮に「神」と呼ぶのであれば、自分もまた「神」である、少なくとも「神」の一部であるという結論の方が、論理的には正しいということになります。そこから、自分に祈る、自分を信じる、自分の中にある神を見出す、という「内観」が誕生するわけです。

 

その結果、出発点は同じだった筈なのに、外方向と内方向とで、180度、「信じる」向きが違ってしまいました。これは、結果として、もの凄い違いです。なにしろ真反対なのですから。

 

最近、私のところに、キリスト教系の某教団の方が、二人で布教活動にやって来られました。お相手したくはなかったのですが、邪険にするのもなにかなと会話をしているうち、私はつい「神はここにいる」と、自分の胸を指して本音を言ってしまいました。すると相手は、一瞬(信じられない!)という顔つきをし、たちまちそれが酷しい目つきへと変わりました。

 

(このオッサンなに言うてんねん。神を冒涜するにも程がある!)と、その目が語っていました。だから、話をしたくなかったのに‥‥ネ。そりゃそうでしょうよ。「私自身が神だ!」な〜んて言ったら、狂人扱いされてしまうのは必定。私の内に神が在るというよりも、外側に神様がいると唱えた方が、普通の人の気持ちには、よりよくフィットしますからね。

 

なぜなら、完全なる(と信じているだけで、実は見たことがない)「神」と、不完全な「自分」とのギャップがあり過ぎですから。そのため、昔からこの説を唱えるグループは、「カルト」のレッテルを貼られ、正統派宗教からは疎外され、虐待され、ひっそりと地下活動するしかなかったのです。ですが今も、全世界に脈々とその流れを汲む少数グループが生き続けているんですよ。

 

でも、時代は変わりました。私の目には、既成の組織宗教が、もはや求心力を無くしているのが分かります。多くの人が、ただ惰性でやっているだけで、何かそこにしっくり来ないものを感じているのです。その証拠として、あっちでもこっちでも、内紛騒ぎが勃発しているでしょう。それは、今までのやり方が効力を失ったことを示しています。

 

自分の「信仰」の対象を外側に置く、ということをしておりますと、その「対象となるもの」の〈保持〉ということが問題になって来ます。なぜなら、その永続性が、「信仰」し続けることの意味、価値を担保しているからです。逆に言えば、万が一永続性が失われた時には、「信仰」の意味や価値のみならず、運営システムや教団までもが瓦解してしまうということです。

 

組織宗教というものは、常にそういう内患を抱えているのですが、教団が拡大基調にある時には、その勢いによってマスキングされ、その問題があまり目立たないのです。ところが、拡大基調が止まったり、頂点に立つ指導者が重病になったり、亡くなったりすると、途端にこの問題が噴出して来るのです。それは、永続性を担保していた大黒柱がグラグラと揺れ出すためです。

 

この時に、何割かの人は気づきます。自分の「信仰」というものは、砂上の楼閣に過ぎなかったのだと。しかし大多数の人は、引き続き「信仰」の対象を求めます。「信」を失ったら、たちまち不安に襲われるからです。この結果、組織宗教は必ず、血脈(けちみゃく)派と、大幹部派と、教典派に分裂します。永続性はDNAに引き継がれると思う人と、高弟に引き継がれると思う人と、人間ではなく「教え」にこそあるのだと考える人々とにです。

 

そして、もともと同じであったことゆえの近親憎悪を募らせ、互いに非難応酬し合うという、まあ、一体どこが宗教なんだという、浅ましい状態になって行くのが常なのです。結局、「全託」の対象を自分の外側に置いた結果、それを操る者に操られてしまうのです。しかし、「全託せよ」とにかく「信じろ」とずっと言われて来たわけですから、内部にいる者にはそれが判らないわけですね。

 

百歩譲って「信仰」を認めるとしましょう。でもその成果が、果たしてあったのでしょうか? ご覧なさい。世界中の争い事の多くは、過去もそして現在も、宗教が基になって起きているではありませんか。宗教は、明らかに失敗したのです。「確かにそういう面もある。でも、うちと他の宗教とを一緒くたにしないでくれ」ですって? そう、それ、それ。その発想が、もう「oneness」から外れているのですよ。

 

「全託」思想のもう一つの大きな欠点は、自分が行動しないことのエクスキューズに使われがちだということです。何かを自分で為そうということを止めて、お祈りと礼拝ばかりしている人がいるのです。「全託」が正しいんだ、「全託」でいいんだと思うから行動しない。行動しない自分をよしとする。それが習い性になって、もう行動することが怖くなる。そしてお祈りばかりしている、という人をよく見かけます。

 

そういう方たちに言ってあげたいです。何のために、あなたに「自由意志」というものが天から与えられたのかと。お祈りばかりしている人は、教団から見たらいい金づるでしょうけれども、それでは地球学校に生まれた甲斐がありません。自分の意思で考えて、発言して、行動して、体験するからこそ、地上に生まれ落ちた意義というものがあるのです。失敗を怖がっていては何も学習できません。

 

鎌倉時代に立宗され、今日まで続いている念仏系の宗教があります。この教祖たちは、凄いことを考え出しました。「全託」思想をさらに推し進め、ただ一本の念仏や題目をひたすら唱えるだけで、みな救われるんだと説いたのです。なぜなら、その言葉の中に、既に「衆生を救いたい!」という仏の想いが全部含まれているからだと言うのです。だから、これで救われないわけがない!、と。

 

それが本当だとしたら、もの凄いマジックです。当時としては、仕方が無かったのかも知れませんが、何という論理のすり替えでしょうか? しかしこの単純さは、爆発的な信仰者を生みました。けれども、今の時代に、ロボットだ、AIだ、遺伝子操作だと言っている時代に、まだそれを、あなたは信じられるでしょうか? それで本当に救われ、不安も解消し、ハッピーになれるのでしょうか?

 

頼れるものを、自分の外側に探し続けているから、自分を信じられないのです。自分を信じられないから、不安が拭えないのです。不安が拭えないから、信じられるものを外に探して、また行脚を続けるのです。そうして、同じところをグルグル、グルグル回っている。何度、転生を繰り返しても。「信仰」が安心をもたらしているように見えて、実は不安から発し、それをより強化しているのです。

 

この方たちは「全託」を誤って解釈しています。「全託」というのは、何もしなくていい、ただ身を任せてお祈りしていればいいということではないのです。何のために地上に生まれて来たのか。そこは、自分の意思をしっかり持って、行動するところです。「全託」するのは、その後のこと。悩み事や不安は全部預けてしまう。やることをやって後の結果は考えない。その後は全てお任せする。それが「全託」です。

 

自力が正しいのか、他力が正しいのか、という二者択一ではないのです。両者は一つ。一つになった時が「全託」。そこを間違えないでくださいよ。

 

「全託」というのは、「自我」の放棄なのです。自分の中の「自我」部分をポーンと捨ててしまう。「自我」を捨てれば、「真我(本当のわれ)」が奥から顔を出し、ついには「神我」と一体となってしまう。この状態が「全託」ということです。それなのに、みんな逆をやっている。自分の願い事(つまり「自我」意識)を、向こうにいる「神(仏)」に一生懸命ゆだねようとしている。

 

これでは真逆です。気持ちは解りますよ。みんな「悩みから解放されたい」と口では言いながら、それを手放さずにしっかりと抱えようとしますしね。その一方で、自分の願い事(自我)のために「神(仏)」を利用しようと考える人の何と多いことか。中には、その秘策を伝授してやるというスピリチュアリストまでいるのですからね。いやはや。何もかもが逆。

 

いいですか。神性は、既にあなたの中にあるのですよ。いや、すべてのものにあるのです。でも、それを見えなくしているのが、あなたの「自我」なのだということ。やることはやりなさい。やるだけやりなさい。直感に導かれて。そして「自我」を上手にコントロールして。その後はゆだねなさい。結果を心配しないで。どんなことも受けとめて。それが「全託」です。

 

「全託」とは、完全なる奉仕の人となった、その際の生き方なのです。

後から来た者が先になる

今年の夏頃から、この『気づきの啓示板』へのアクセス数が急に増えました。と言っても、全部の数はやはり少ないのですけれど。宣伝っぽいことは何もしていないので(むしろ隠れるようにしているので)、影響力のあるどなたかが紹介してくださったのかも知れませんね。そのうちの何割かの方たちは、引き続きバックナンバーを熱心に読んで下さっているようです。ありがたいことです。

 

私はいつも、最後は排斥され、時に罵倒され、いじめられて孤立し、周囲の人たちの無理解というものに、子どもの頃から悲しい思いをして来ましたので、たとえ少人数でも、私の話に耳を傾けて下さったり、セミナーに来て下さったりする人がいることはとても嬉しいです。すべては、今あるための出来事であったと、その計らいに納得し、責任感に身が引き締まる思いでいます。

 

アクセス数のことは気にしないようにしています。ですが、投稿の際に、前日のアクセス数というものをイヤでも目にします。投稿スペースの横にそれが表示されるようになっていますので。それで時々、エッとびっくりすることがあるのです。これまでにも、そのようにして、階段を昇るように何段階かの突然の上昇というものがあり、読者が少しずつ増えていきました。

 

その突然の変化というのは、私にとっても同様で、ある日を境に、急に感覚的なものが変わるのです。その変化が、気持ち的にどんどん楽になって行けば良いのですが、ますます重苦しく、辛くなって来ています。以前は4、5時間で一篇が書けていたのですが、今は丸々2日、下手をすると3日を費やすこともあります。その間、集中力を切らさず、憑依状態を維持し続けるのは大変です。いつも逃げ出したい気持ちを半分抱きながら、なんとか凌いでいるというのが実情です。

 

なぜそんなに時間が掛かるのかと言いますと、一つには、一つ一つの言葉を選択するのに何回も試行錯誤を繰り返しているためです。自分は文章が下手なので、出来る限り破綻のないように、スッと読んで頂けるようにと、幾度も書き直しを行っています。ちょうど絵描きさんが、何度も筆を重ねるような感じでしょうか。「よし、これでいい」となるまでに、もの凄く時間が掛かってしまいます。

 

もう一つは、以前のようにはインスピレーションが入って来なくなったことです。左前頭部に感じていた、繋がっているという感覚が無くなってしまったのです。これには動揺しました。しかしこれまでにも、およそ半年スパンで次々と感覚的な変化が起きていたので、もしかしたら、入っては来ているのだけれど、その感覚が変わったというだけのことなのかも知れないと思い直し、勇気を鼓舞して続けました。

 

そのような時に、ホワイト・イーグルから、ずばり次のようなヒントを頂いたのです。「新しいことを知らせる時には、レコード板に新しい溝を刻まなければならないが、その者(霊媒)が既に理解している時には、われわれとしてはそちらの方向に針を押し出すだけでよい」と言うのです。そして、「霊媒を使えるようにするまでにはとても苦労する」とも語っていたのでした。

 

*レコード板を知らない世代には、この喩えは、聞いても解らないかもネ?

 

これには驚きました。私はずっと、自分がアクセスにあくせくしているのだと思っていました。ところが、そうじゃなかったのです。上の存在の方が苦労していたんですね。目を付けたこいつを、どうにか使えるようにしてやろうと、向こうが試行錯誤していたのです。それを知った時に、「なるほど」と深く納得し、指導に当たる存在の忍耐というものを知ったのでした。

 

とにかく、そんなこんなで、このワークを継続することが、自分にとって今は非常な難行苦行となっています。「苦行はダメだよ」と書きながら、自分では苦行にしちゃっているのですから情けないです。未熟です。ですが、そこを出来るだけ出さないように、今という時代における、自分の役割を信じて、爽やかな風と、暖かな光を、毎週お届けしたいと思っているのですが‥‥ネ。

 

さて、タイトルの「後から来た者が先になる」は、混んだエレベーターに乗り合わせた際によく見られる現象(先に乗り込んだ人は、後から来た人を入れてあげようと苦労しているのに、降りるに時は後から来た人の方がサッサと先に出て行く)‥‥を、別に言ってるわけじゃあないです。これは『マタイによる福音書』(19章30節)にある「多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」をもじったものです。

 

私としては、基本的には、旧約・新約の各『聖書』というものがどうしても好きにはなれません。歪みがあり過ぎるからです。ですが、このブログでも何度か『聖書』の中にある言葉を引用しています。それは、その言葉が、比較的よく知られているということと、中には真理を突いた言葉もあるからで、決して『聖書』に権威を置き、その内容を解説しようとしているわけではありません。念のため。

 

この『マタイによる福音書』(19-30)は、天国に行く(『虹の学校』流に言えばアセンションする)ことを目指して、以前からずーっと頑張ってきたような人の多くは、天国行きが後回しになってしまうのであり、そうではなくて、むしろぽっと出のような、new comer(新参者)の人の方が、先にアセンションすることになるだろうね、ということを言っているのです。

 

えーーーっ!と、ある意味で、これは衝撃的発言ですよね。これじゃまるで、本当に混雑時のエレベーターと同じことになってしまい、ひどく理不尽なように思えませんか? それで、『マタイによる福音書』では、それがどういう意味かということを解説するために、次の章に、喩えとしてぶどう園での日雇い仕事の話を持ち出して来るのです。

 

それはこんな話。夕方近くになっても仕事にありつけない人がいた。ぶどう園の主人は、その人を雇い入れ、作業終了後にみんなと同じように1デナリオンの報酬を支払ったというのです。これで、朝から働いていた人は怒っちゃった。「そんなの不公平じゃないか!」って。すると主人が言うのです。「私のお金を私がどうしようと、私の自由じゃないか。それをあなたは妬むのか」と。

 

この喩え話をした上で、もう一回「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(20-16)とわざわざ強調しているのです。

 

う〜ん、でもこの喩え話は、うまくいっているとは思えませんねぇ。一応、最初に「これは天国の喩え話だよ」と断ってはいるのですが、「仕事」と「報酬」ということを、(それは、誰もが解る身近な概念に置き換えて、ということだったのでしょうけれど)どうしても地上世界の論理で見てしまいますから、喩え話を聞くほど、却って訳が解らなくなっていってしまいます。

 

あなた、解ります?

 

ぶどう園というのは「天国」の喩えですから、そこの主人というのは「神」のことです。その「神」は、「みんなに等しく1デナリオンを与えることを、私は決めているんだよ」というわけです。この場合の「お金」とは、もちろん、愛とか救いとか祝福ということを言っています。ですから、そこに一切の不平等は無いのです。でもそれを不公平だと感じるのは、先に「仕事」に着いた者が、「報酬」を「労働」の対価だと考えていたからです。つまりは「契約」です。

 

早くから来た人は、「朝から夕方までちゃんと働くから、その分の報酬はきちんと頂きますからね」と思っている。そこへ、夕刻近くに来て、たった1時間くらいしか働かない人も同じ報酬を受け取ったものだから、「神」に文句を言ったわけですね。「よう、神さんよ。そりゃ、ねえだろう。俺は、朝からずっと働いていたのによ。後からちょこっと来たこいつにも同じ金額だなんて」。

 

もう、なぜ「多くの先の者が後になる」かがお解りでしょう。決して全員がそうなるとは言っていないのです。(多くの)と言っている。そうなりがちな傾向があるよ、というわけです。熱心な信仰者ほど、「自分はこれだけ信じているんだから、これほど熱心にやっているんだから、きっと神の祝福を貰える」と考える。そして、後から来る新参者には、先輩風を吹かす。

 

でも、ぶどう園の主人は、つまり「神」は、そんなの関係ないよ、というわけです。「私は、誰にも同じ報酬を(つまり祝福を)与えるんだよ」と。でも、その「受け取り方」に違いが出て来てしまうということです。同じ1デナリオンでも、「ああ、ありがたい」と思う者もいれば、「これほど信仰しているのに、これじゃ少ない」と思う者もいれば、「あの人に比べて、自分は損をしている」と思う者さえもいる。

 

もし、あなたが「神」の立場だったら、より熱心な人に、より古株の人に、より多くの報酬を与えますか? だとしたら、随分と狭量な神様ですねぇ。

 

でも、あなたなら、きっとそんなことはしないでしょう。どの人にも、分け隔てなく、慈愛の目を向けることでしょう。そして、人間社会を見て「おやおや、まあなんと、困ったものだねぇ」と、時々こぼすのではないでしょうか。さて、今度は地上にいるあなたです。そんな「神」の想いを汲むには、どう生きたらいいと、あなたなら考えますか? そう、その通り。いつも言っているそれですよ。

 

最近になって、「後から来た者が先になる」には、もう一つの意味があることに気づきました。これはインスピレーションで入って来ました。すべては波動です。波動の法則です。『虹の学校』だって、5年前よりは大きく成長しているのですよ。宇宙の真理への理解が、ずっと深まっているのです。ということは、後から来た人は、今のこの波動を受け取る用意が出来ている人、合っている人ということになります。

 

ですから、「後から来た者が先」になってしまうのです。先日、初期の頃からずっと残っていて下さるごくごく少数の方の前で(99パーセントの方は、早々に去って行かれます 。•́︿•̀。 )その話をしたら、「じゃあ、あたしたちはどうなんだ」と突っ込まれ、「それは‥‥、共に成長して来たということです」と、冷や汗をかく想いをしたんですけれどネ。あ、イヤ、それは本心ですよ。

 

結局、生きることが、すでに学校なんです。何も、必ず『虹の学校』に来て学ばなくちゃならない、な〜んてことは微塵もない。日々、体験する出来事、苦悩、辛さ、そういったものが激しければ激しいほど、あなたの「心」というものが耕やされ、鍛えられていっているわけです。そんな時に、どういうわけか『虹の学校』に縁が生じて、モヤモヤしていたことの理由が、まるでパッと灯りが点ったように解る。

 

それで、いいわけなんです。その一瞬でいい。そこに価値がある。

その後、また別の道に行ったっていいんです。

 

結局、時間というものは無いのです。

言い古されたことですけれど‥‥。

そして、相変わらず意味が解らないでしょうけれども‥‥。

 

「後から来た者が先になる」というのは、この世の時間軸概念の中で見た時に、そう見えることもある、というだけのこと。周囲に起こる出来事は、すべて、あなたにとってのグッドタイミングで動いているのです。でもその意味は、受け取る側のあなた自身のあり方と、解釈によって変わってしまうということ。グッドタイミングを、生かすも殺すもあなた次第。

 

ですから、捕球の仕方を、日頃からよく練習して起きなさい。

ふいに来た豪速球も、しっかりと受けとめられるように。

今この瞬間の気づきが、あなたを変えるんですからね!

ポスト資本主義、ポスト宗教、ポスト・ポストアトランティス期

資本主義の崩壊が近づいています。信頼できる分析家の多くがその警告を発しています。米ドルの覇権の終わりについては、20年も前から繰り返し言われて来ました。ですが、一向にそれが現実化せぬまま今日に至ります。専門家はあれやこれやと理屈を説明しますが、要はモルヒネを打ち続けて延命を図って来たということです。その結果、資本主義そのものが、今や巨額な粉飾で膨らんだ風船のようになってしまっているのです。

 

風船は、どこまでも膨らませられるというわけには行きません。ほどほどのところで息を吹き込むのを止めればよいのですが、吹き続けていればいつかはパーンと破裂します。それが、無理に延命を図って来た分、より大きく膨らませて来た分、次の崩壊は、かつてない凄まじい破裂音となって鳴り響くだろうと予測されているのです。

 

今、冷静になって世の中を眺めて見ますと、非常におかしな現象がたくさん起きていることが判ります。片方に貧困世帯の増加という問題がありながら、投資熱は盛んでずっと株高が続いています。職を探しても正規雇用にはなかなかありつけないというのに、もう片方では人手不足だと言っています。環境問題が深刻な気候変動を惹き起こす事態にまでなっているというのに、資源開発という地球破壊は止みません。

 

こうした矛盾点は、数え挙げたらきりがありません。これらはみな、資本主義を延命させたいという無理が、無理に無理を重ねた結果、現実との著しい乖離を引き起こしているということの表れなのです。言ってみれば、激震前の予震のようなものです。それでも気づこうとしないのですから、地球人というものは、いやはや‥‥。

 

政治をあずかる者、経済をあずかる者に、もはや全体を俯瞰して見るだけの余裕がないのです。乖離が大き過ぎて、全体を見ようとしたら、股裂き状態になってしまう。そこで、自分たちが歩んで来た路線をゴリ押しするしか、もう手段が無くなっているのです。

 

「これからはグローバル経済だ、新自由主義だ」と言い始めていた95年から2000年代初頭にかけては、乖離はまだそれほど目立たず、資本主義の枠内にそれを吸収できました。ところが、今やあらゆるところで矛盾が吹き出し、市民生活を目に見える形で脅かすまでになりました。世界中が、そういう悪くなる一方の現実を直視するのか、それとも、これまで通りに権力者の言葉を信じ続けるのか、というせめぎ合い段階に至っているのです。

 

欧米では反グローバリズムの大きなうねりが起き、既成政党によるこれまでの政治を市民運動が揺さぶるまでになっています。日本は島国であり、世界情勢に関する情報にうといことや、政治的無関心が広く蔓延しているために、こうした事態はまだ起きていません。がしかし、日本でも、人類の支配構造の真の姿というものに気づき出した人たちが、ここへ来て随分と増えて来ました。

 

私がこのブログを書き始めた頃は、闇の支配者を「欧米の二つの貴族」といった言い方でボヤかして書いていました。ですが、今やこれらの名前が、ネット上で大っぴらに語られるまでになりました。この間の変化にはもの凄いものがあります。私がボヤかして書いていたのは、それがまだ市民権を得ていないということもありましたが、それよりも「暴く」という視点に意識を傾注したくなかったからでした。

 

「知る」と「暴く」とでは、近いようでいて、意識の置き方がかなり違うと思います。「暴く」というと、どうしても、やっつけてやろう、とっちめてやろうという思いがそこに付け加わってしまうのではないでしょうか。「○○の正体」といった言い回しも、ネット上でよく見かけます。そうしたものは一見、正義や善のように見えますが、本質を問えば、所詮は同列なのです。

 

闇のグループの存在や、企てを、世の人々に知らせたいとの熱意は解りますし意義もあることです。でも、方法論が間違っているのではないでしょうか。北風で外套を吹き飛ばすことは出来ないのです。やはり、暖かな日の光を当てることがいちばんです。ピューピュー北風を吹き散らしたら、その風に触れた人たちはみんな凍ってしまいますよ。そしたら、見事、闇の手先を果たしたことになる。「おう、よしよし。よくやった!」ってね。

 

あのね、あなたたちが思っている以上に、闇は狡猾なんですよ。遥かに頭がいいんです。人の心理を操ることなんて朝飯前。だから、「正義」はダメだと、何度も言って来たのです。彼らは、そこを巧みに利用して来る。「正義」を掲げた途端、その人は「光」から遠ざかってしまいます。そして、「闘争」という闇の領域に引っ張り込まれるのです。

 

彼らのことをサタニスト(悪魔崇拝主義者)の狂人と呼ぶ人がいますが、そうじゃないのです。それはやはり、この世的な見方の域を出ていません。闇の奥には、確かに魔がある。ですが、闇が魔を崇拝しているのではないのですよ。逆です。魔はれっきとした実体ある存在で、魔が闇を操っているのです。まっさか⁉ そう、そのマサカ(この場合は「魔逆」)です。

 

これで、魔→闇→影→裏→表へと、指令が一直線に伝わる。これが黒ルートのハイアラーキ(ヒエラルキー)です。では「魔」とは何か? そのような想念エネルギーを持った霊的存在、それが「魔」です。あなた方はどうしても物質世界をベースに物事を考えてしまいますが、一度、物を全部外して、物質は無いものと考えてみてください。そうすれば、魔→闇→影→裏→表が、同質の想念で一直線に繋がっている理由が解るでしょう。

 

物質界というのは、想念エネルギーが、振動数を下げて物質に実体化した世界なのです。そこに住む我々は、それが現実でありすべてだと思っています。でも、そうではないということです。昔から言われているように、現実だと思っているものが幻であり、幻だと思っているものが実は真実の世界だということ。これが解れば、「闇」に関する謎もすべて解けるのです。

 

大事なことは、闇を「暴く」ことではありません。そういう「人類支配の構造」を知り、ではどうしてそのような構造が出来上がってしまったのかという、人類に巣くっている根本原因を明らかにすることです。それでこそ、反省というものが起き、今までに経験した多くの悲劇を超えて、人類が、次の段階へと本当の進化を遂げることが出来るのです。

 

「人類支配の構造」は、大きく二つの面から成り立っています。一つはピラミッド構造(ヒエラルキー)です。ピラミッド構造であるがゆえに、ごく少数者によって全体が完全支配されてしまう。しかも、各階層に属する人々は、自分が属する階層のことしか知り得ません。その結果、全体の支配構造をよく知らないまま、今の状態を当然と思う洗脳支配が可能となっているのです。

 

もう一つは心理面です。ピラミッド構造を補強するために、より上位に居る者が偉いんだ、より優れているんだという思想を、あらゆる機会を通じて植え付けたのです。それによって、少しでも階層を上がりたいというモチベーションをエサに、社会のあらゆる面にこれを適用しました。その結果、人類の大多数は奴隷労働を当然のごとく強いられ、一部富者にのみ特権が与えられるようになったのです。

 

しかし、いま言った二つを、さらに遡って原因を探りますと、結局は、人類の創生に関連した「分離」と「合一」というアンビバレンツな問題に行き着くのです。人間という存在は、誰しもが、一つの「それ(=神)」から分かれた「魂」をベースにして、肉体を得て地上に誕生しました。そして、地上で様々な体験をすることで、霊性を成長させ、また元の「それ」へと帰還する旅を続けるています。

 

*アンビバレンツ(独:ambivalenz):相反する両極の気持ち

 

その時に、神から分かれたことによって、「自分は自由なんだ」という晴れ晴れした気持ちと、「一人じゃ寂しいよォ」という両極の気持ちのアンビバレンツが生じました。また、このアンビバレンツは、他者との関係において、自分以外の誰かを「愛することで、一緒になりたい」という欲求と、「支配することで、一緒になりたい」という欲求のアンビバレンツも育てることになったのです。

 

すると、「支配」から「愛」への両極の間に、段階的な「関係性」の在り方というものが生じます。すなわち、他者を暴力を使って支配したい → 隷属させて支配したい → 愛の名を語って実は支配したい → 条件付きで愛したい(情愛) → 無条件に愛したい(博愛)→ 完全なる奉仕の人となる、といった具合に。結局、この段階を体験学習していくことが、地球に生きる人間共通の、究極のテーマとなっているわけです。

 

*この最終段階を神秘学では「キリスト愛」と言っています。(キリスト教とは関係がありません)

 

さて、そのことが解りますと、今、権力者や闇の支配者となっているところの「魂」は、この「愛」の学習段階においては、未だ小学校にすら入学していない、幼稚園児の段階にあるのだということがお分かりでしょう。そのように、起きている現象そのものを見るのではなく(つまり巻き込まれることなく)、全体を俯瞰して見ることが大切です。あなた方は、保母さん保父さんの視点に立たなければならないのです。

 

彼らは、まだ「愛」ということへの、初歩の気づきすらもないのです。ですから、これを暴いてやろう、叩いてやろうなどとと思ってはいけません。そんなことをすれば、幼稚園児同士の喧嘩になってしまいます。人類の不幸は、そういう未熟な段階にある「魂」に、人類全体が支配される構造を創り、是認し続けて来たことです。その誤りに気づくことが、いま置かれた、人類全体の喫緊の課題なのです。

 

悪を為す人は、放っておいても、カルマの法則によって、いずれは自分がその報いを受けます。そうなる前に、少しでも早く気づいて貰えるように、愛の波動を送ってあげるというのが、保母さん保父さんの視点ではないでしょうか。闘争心を燃やせば、その波動が周囲に広がってしまいます。あなたが先ず「愛の人」になって、温かな波動を周囲に出していただきたいのです。

 

ではなぜ、そんな逆転のような支配構造が、人類の上に成立できたのでしょうか? それは、一人ひとりの中に眠る「分離」意識のかけら、つまりエゴの部分が支配者たちによってくすぐられ、これを道具に、人々がコントロールされてしまっているからです。みなさんは、ここに気づかなくてはなりません。自分自身の不徳に。騙される下心があるから、騙す人が成り立っているということを。

 

見てごらんなさい。今や支配者は、お金と地位をチラつかせ、闘争を煽ることでしか、取り巻きを信じ込ませられなくなって来ているのが分かりますか? 完全な末期症状です。それでしか人心を繋ぎ留められないから、そうしているのです。これらは強力な接着剤に見えて、実はとても脆弱なんですよ。もしそれらが無くなれば、たちまち逃亡と責任のなすり付け合いが始まりますから。本当に強い人というのは、純粋さと愛だけで人を惹きつける人です。

 

資本主義というものは、今の社会の根底を為しているものだけに、その崩壊は全世界に計り知れない打撃をもたらすことでしょう。しかしその過程で、お金や、銀行や、株や、民主主義や、医療制度や、教育や、マスコミや、戦争や、政府や、裁判所や、政治家や、有識者や、多国籍企業や、国際機関など、今まで信じて疑わなかったものが、実はことごとく茶番劇に過ぎなかったことに気づくことになります。そして、少しだけ目覚める。

 

そのプレリュード(序曲)が、すでにあちこちから聴こえていますよ。今はまだ、社会の表しか知らない人、裏まで知った人、裏の裏の影まで知った人、影の奥の闇まで知った人と、大変な温度差があり、ちっとも話が噛み合わないという状態です。ですが、資本主義の崩壊は、どの人の上にも例外なくやって来ます。さて、そこからです。重要なのは。

 

ポスト資本主義(資本主義後)の社会を、どう形づくっていくかということが、その後の人類の命運を左右することになるのです。これは、改築や増築では済まされませんよ。土台を全部ぶっ壊して、ひっくり返して、一から建て直さなければならない大変革事業となるのですよ。

 

例を挙げましょう。いまビットコイン(仮想通貨)なるものが登場して市場を賑わわせています。これは、果たして今までの「お金」を変革するものになって行くのでしょうか? なりません。ビットコインが既に投機商品になっているのを見れば明らかです。これでは、物珍しい投機市場が新たに出来たというだけであって、「お金」に対する考え方自体はまったく変わっていません。

 

ポスト資本主義に求められる変革とは、このようなものではないのです。「お金」とは何なのか、というところに立ち返って、まったく新たな仕組みが再構築されなければならないのです。

 

「お金」は単なる道具です。経済を円滑にするための仲介品です。ところが、「お金」に利息が付いたり、「お金」が「お金」を生む仕組みを作ったり、「お金」を発行する権限が私企業に独占されていたりするところから、「お金」がモンスターに化け、この仕組みを握った者たちが世界を支配し、大多数の人々が「お金」の奴隷にされてしまった。しかも、それが当然と思わされて来たのです。

 

「お金」が、全世界を牛耳っていますから、結局は、政治も、医療も、マスコミも、教育も、その他諸々が、全部この論理の下で動いている。この、諸悪の根源にある考え方と仕組みを、全部ぶっ壊してチャラにして、人々がみな仲よく、安心して、幸せに過ごせるにはどういう社会であればいいのかというところから、人類は再出発しなければならないのです。

 

奪い合う経済から、分かち合う、支え合う経済への根本的な転換です。

 

そうすれば、政治は苦しむ人を出さない、困っている人は助ける、そしてみんなが安心して暮らせる社会づくりを目指すようになるでしょう。医療は患者を作り出す医療から、救ける医療になるでしょう。また教育は、それぞれの人の個性を尊び、伸ばして活躍できるようにしてあげる恭育になることでしょう。

 

そのようにして、他者のために役立つことが自分の本当の喜びであり、真の幸福であるということに、人類は気がつくようになるでしょう。

 

なぜ、このような大変革が、これから必要とされている(予定されている)のか、なぜ小手先の変化ではもう済まされないのかと言いますと、これから来る資本主義崩壊のタイミングと、ポスト・ポストアトランティス期の始まりとが重なっているからです。重なっているというよりも、そうなることが必然だったと申し上げた方がよいでしょう。

 

現在の大西洋(Atlantic Ocean)上にあったアトランティス大陸は、数度の水没を経て、今から約1万2,000年前に完全に姿を消しました。それからの1万2,000年間が、ポストアトランティス期だったのです。そのポストアトランティス期の終盤に、今いよいよ差し掛かって、世界はアトランティス時代のカルマを再び体現しようとしています。

 

アトランティス時代の終盤には、一部特権階級のエゴと堕落、科学技術の発達のし過ぎから来る自然界との遊離と、大衆の無気力が、社会全体を覆い尽くしていました。今の状況は、それとそっくりです。そして益々酷くなる。これは、知ってか知らずか、アトランティスを滅亡に導いた「魂」が現代に多数生まれ変わり、同じ欲望を抱いて活動し、これに大衆を巻き込んでいるためです。

 

ですから、このカルマの清算が、今まさに行われつつあります。カルマの清算というものは、ある日突然訪れるというものではなく、幅を持って徐々に進行して行きます。しかし、宇宙の永遠からすればそれは一瞬の出来事。人類は、このカルマの清算を終えて、次の時代、つまりポスト・ポストアトランティス期に移行します。これが、『ヨハネの黙示録』で言われるところのニュー・エルサレムです。

 

それともう一つ。今という時期は、過去2,600年間続いた「宗教の時代」が終わりを迎えようとしている時期でもあるのです。宗教は本来、物質世界を超えた霊的世界に真理があることを人々に伝えようとして興ったものでした。しかし、組織宗教が幅を利かせるようになると、それぞれがみな勝手な救済理論や天国についての物語を説き始め、自分たち以外は邪宗・邪教と言って互いに攻撃し合うようになったのです。

 

それがどれほどおかしなことであるか、どれほど“宗教的”ではないか、少し距離を置いてみればすぐに解ることです。それなのに、組織宗教の内部にいる人たちにはそれが解りません。それが宗教の恐いところです。宇宙は一つ、真理は一つなのです。真理が二つも三つもある筈がありません。どんな人にも普遍性を持ったものしか「真理」ではあり得ないことは、自明ではないでしょうか。

 

よって「真理」は、宗教になる必要などいささかもないのです。「真理」は「真理」なのです。どこにでも普遍的に存在し、揺るぎない法であるがゆえに、誰が何と言おうが、それは「真理」であり続けるのです。来たるニュー・エルサレムの時代には、人類は、この点にも目覚めることになります。そうなれば、全部の「魂」が、共通の基盤に立っていることが解るので、本当の愛、キリスト愛に目覚めることになるのです。

 

お解りいただけたでしょうか。いま書いたシナリオは、霊的世界ではすでに実現していることです。あとは、地上でのみなさんの奮闘を願うばかりです。いま世の中で起きていること、そしてこれから起こることを、どうか宇宙的な視点で見てください。そして、この大変換期をジャンピングボードにして、あなたの使命達成に向けて邁進してください。

 

天はいつもあなたを見守り、あなたの活躍を応援していますよ。

無知と無智

無知と無智。この漢字を、私は意識的に区別して使っています。知識のないことが「無知」、智慧のないことを「無智」というふうに。言語学的にこの定義づけが正しいというわけじゃないのですが、一応、私の中ではそのように区別しています。なぜかと言うと、この二つが意味するものは、一見同じように見えて相反する面があるからです。

 

私が「無智」と書いていた場合、それは知識がないと言っているわけではありません。もちろん小馬鹿にしているわけでもありません。「無智」というのは、それを知らないということではなくて、「智」が「無い」状態にあるという意味です。「智」というものは、知って解るというものではありません。その人の中に「在る」のか「無い」のか、「内在する」かどうかという問題なのです。

 

「智」という漢字には、「知」の下に「日」がくっ付いていますね。ですから、「智」は単に知るということではないのです。敢えて言えば「日」を知る。「日」は「⦿」から生まれた象形文字です。見ての通り、「⦿」には先ず、お日さま、太陽の意味があります。そこから、暗闇を照らす光、不明だったものを明らかにするという意味が、「智」には付加されているのです。

 

また、「○」の中に「・」が付いた形は、中心太陽とか、宇宙そのものを表す象徴でもあります。中心太陽というのは、いわゆる太陽(恒星)のことではありません。これは神秘学用語で、宇宙の根源的エネルギーが流れ出している中心点のことを指します。その中心点を、太陽になぞらえて言ってるわけです。そして、この中心点から、全体(○)に広がっているという象徴図形が「⦿」なのです。

 

ですから、私の中では、「智」は宇宙の中心点から溢れ出ている光、すなわち「宇宙の真理」「生命」「愛」というものを意味しています。そして、それを未だ知らない、内在されていない状態にあることを「無智」と言っているわけです。この「無智」というものは、今の地球人類全体が背負った宿業のようなもので、視点を変えれば、その状態から脱することが、地球人類としての一大テーマになっているわけです。

 

*以上はみな、同じものを機能別に別角度から捉えて言ったもの

 

そこで釈迦は、嘘をつくとか、他人のものを盗むとか、殺生をするとか、人としてやっちゃいけないことは色々あるけれども、何よりいけないことは「無智」だと言ったのです。ハテ? 戦争よりも人殺しよりも、なんで「無智」がいちばんいけないのか、とそう思うでしょう。それは、もし「智」に明るくあれば、すべての悪など、起きようはずが無くなるからです。

 

無智。

 

人類が抱えるあらゆる問題の原因は、ただこの一点にあるのです。環境問題も、貧困問題も、エネルギー問題も、核も、戦争も、病気も、怒りも、憎しみも、満たされなさも、孤独も。

 

すべては人が「無智」なるがゆえに生じ、かつ乗り越えられずに、同じ過ちを延々と繰り返している。そこで私も、先人に習い、微力ながらも光を注ぐお手伝いをしているわけですけれど‥‥。この闇は手強い。

 

どうしてこれほど手強いのでしょう?

 

その理由は、みなさんが得た「知識」にあるのです。まことに、まことに、「知」は「真理」を粉砕する。「知」は、この宇宙に、物質世界を超えた「真理」が存在するということを認めない。「知」は、たとえ「真理」の一端を垣間見ても「そんなものはインチキだ」と直ぐに耳許で囁く。「知」は、「真理」に触れた瞬間があったとしても「今のは錯覚さ」と己の感覚を打ち消す。

 

一人の人間の中で、宇宙意識とつながった奥深い霊性の主が「お前の本質はわたしなんだよ」「さあ、このチャンスに真理に気づくんだ」といくら声を上げていても、「知識」を得た頭が、常識でそれを振り払い、木っ端微塵に粉砕してしまう。その習いを超えて、我が内なる声に従順になるには、もの凄い勇気を必要とする。まるで、天と地がひっくり返るほどの‥‥。

 

視点を変えれば、実にな〜んてこともないんですけれどネ。でも、地球人にはまだまだそれは大変なこと。何しろ、あらゆる物差しが「知識」に重点を置いて出来上がっているのですからね。「知識」そのものというよりも、「知識」に重点を置くという「知識」構造に、人類がすっかり支配されてしまっていることの方が遥かに大きな問題。ここから脱するのは、まさに至難のワザ。

 

物心ついた頃には、本人の興味関心とは関係なく、学校教育で「知識」の洗礼を受け、どれだけ覚えたかで優劣が決められる。上の学校に上がるのも、会社に入るのも同じ物差し。社会に出れば出たで、業界知識や社交術を知らねばならない。加えて、ニュースで世の動向を知り、株価に毎日眼を光らす。果ては、健康情報にグルメ情報、スポーツ情報、芸能界情報と大層忙しい。その各分野に、指南役としての知識人が存在し、人々をある方向へと導いてゆく。

 

よく、「知識は無いよりは有った方がいい」なんて言いますが、必ずしもそうとは言い切れないんですよ。世の中には、知らなくてもいい「知識」、知ったからといって別にどうということもない「知識」、知るとかえって有害になる「知識」がいっぱいある。むしろ、そっちの方がずっと多い。それなのに、そんなムダな「知識」に振り回されて、現代人はすっかり我を見失っています。

 

そして、世界須磨穂教の熱心な信者となった今は、一瞬たりとも「知識」から逃れるスキがない。分からないかなぁ、それが、心から「不安」というものが消えない根本原因なのですよ。ほっと一息つく時間がある時、あなたは、眼を閉じて静かに内観することを選びます? それとも、すぐに須磨穂大神様に手を伸ばします? 須磨穂大神様は、どんな有意義なご託宣を、あなたに授けてくださるのでしょうねぇ。

 

そうやって、次から次へと「知識」を仕入れて、少しは賢くなれましたか? 生きる目的が見つかりましたか? 不安がすっかり解消されましたか? あなたが「知識」を増やした時というのは、その世界に取り込まれたということなんですよ。あなたは、ご自分が、その「知識」を選び取ったと思っています。でもそうじゃない。その世界に引っ掛かったのですよ。

 

本当の「智慧」は、心静かに内観するとき以外には降りて来ません。周囲の情報を遮断して、静寂の中に身を置き、一人きりになる必要があるのです。そのようにして、自我を出来るだけ消滅させていく。そうすれば、入れ替わりに、宇宙とのチャンネルが開かれて行くのです。

 

ですから、いつもいつも自我をフル稼働させ、目を皿のようにして「知識」を追いかけているような人は、せっかくの「真理」にも出会うチャンスがありません。それどころか、「知識」を「悪観念」にまで育て上げてしまう人のなんと多いことか。ご覧なさい、ネット上に渦巻くヘイトの声の数々を。「知識」の罠に一度は引っ掛かったとしても、それをあなたの直観の秤(はかり)に掛けて、問い直すということが大切なのです。

 

やけくそになった人が、よく言うじゃありませんか。「俺のことなんか放っといてくれ」「今は誰にも会いたくないんだ」「俺は一人になりたいんだ」。それは、その人の「魂」の叫びです。「魂」はちゃんと知っているのです。ここ一番という大事な瞬間を。「真理」を掴むチャンスの時を。その方法を。やけくその混乱状態に陥入ればこそ、それをジャンピング・ボードに変える「智慧」が働くのです。

 

なぜだと思います? やけくそになったことで、図らずも、自我を正常に働かせることが出来なくなったためです。自我を滅するチャンスが、そこに生じたのです。そうやって、ちゃんと救いの手が差し伸べられているんですよ。凄いですねぇ。だからって、あなたも早く「やけくそ」にな〜れ、なんてことは言いません。この理屈さえ解っていれば結構。

 

知性は、しばしば「真理」を抹殺してしまいます。「知識」をいくら求めても「真理」には到達できません。「真理」は、「知識」の先にあるのではないのです。哲学などいくら学んでもムダ。むしろ「知識」から離れた時にこそ、「真理」と出会えるのです。

 

あなたに、一息つける間がある時、眼を閉じて、心を静かにして、安心して、神にその身を委ねなさい。そのような習慣を持ちなさい。そうすれば、やがて解ります。

 

私は誰か。どこから来て、どこへ行くのか。

霊能と霊能者について

世間には、様々な霊能(超能力)を主張する、自称「霊能者」がたくさんいらっしゃいます。しかし、「霊能」とはどういうものかということについても、また「霊能者」にもピンからキリまでいるということについても、その実体や詳細についてはあまり知られておりません。いや、まったく知られていないと言った方がよいくらいでしょう。そのため、この分野には、21世紀に入っても、未だに中世と同レベルの混乱状況が続いています。

 

20世紀の後半から、理論物理学や宇宙天文学が急速な発展を見せ、今や超ミクロの世界と超マクロの世界が一体のものとして明らかにされつつあります。これまでの「現象を追う科学」が、いよいよ「因の科学」に迫ろうかという段階に至っているのです。もう中世の時代ではありません。宇宙の構造について本当の知識が必要な時期にきているのと同様に、この分野にも本当の知識が必要となっているのです。

 

先ず、「霊能」というものは特殊な能力ではない、ということを知っていただきたいと思います。それは、誰にも備わっているものなのです。人間は本来、誰もが超能力者なのです。なぜなら、そのようにして創造されたのですから。ただしその能力には、人によって差があります。駆けっこを思い浮かべてください。早い人、遅い人、いろいろいるでしょう。それらと何も変わりがありません。

 

生まれつき足が早く、子どもの頃から大会に出場すればいつも一等という人もいれば、高校までの部活ではそれほど目立たなかったのに、その後よき指導者についてオリンピック選手にまでなったという人だっています。また、将来を嘱望されていたのに、悪い連中に捕まってしまい、曲がった道へ入ったという人だっています。それと、何ら変わりがありません。

 

つまり「霊能」は、人間がいろいろ持っている能力の一分野に過ぎないのです。それなのに、「霊能」だけが特別扱いされているのは、他の能力の多くが、いわゆる「五感」に基づいて構築されているのに対して、「霊能」は「五感」を超えた能力(いわゆる「第六感」以上)であるためです。大半の人々は、この分野についての知識が全くと言っていいほどありません。そこで、特殊な感じがするというだけなのです。

 

ところが、これは知られていないことですが、本人が通常の能力だと思ってやっていることでも、実は「第六感」以上の助けを借りてやっているという場面が少なくないのです。最近では「Zone に入る」という言い方をするようですが、いわゆる「神懸かり」という心境です。何かに没頭して作業をしている時に、信じられない力が湧く。ふとした瞬間に光が射したようにインスピレーションが入る。これらはみな、あなたが超能力者になった瞬間です。

 

超能力を意味する、英語の「psychic(サイキック)」、略して「PSY(サイ)」などと使われることも多いですが、この語源は、古代ギリシア語の「Ψυχή:Psyche(プシュケー)」から来ています。プシューというのは、息を吐く時の擬声語で、元々は「呼吸」を意味しました。それが、以前にも書いたように、息→生き→生命→魂→精神→心、といった概念にまで拡大使用されて行ったのです。

 

このような、言葉の成り立ちを見ても、「霊能」は決して特殊能力ではないということがお解りいただけるでしょう。泥(それは宇宙にあまねく存在する元素)をこねた(組み合わせた)人形に、息(SOUL 及び生命エネルギー)を吹き込んで人間が出来たという「神話」は、本当のことを模写したものなのです。ですから、人間は本来、誰もが超能力者なのです。

 

それなのに、なぜ、能力差が存在するのでしょうか? これには三つの理由があります。一つは先天的なものです。先天的ですから、DNAに秘密があります。しかし、そういうDNAの配列を、両親を選んで、組み合わせを決めて誕生して来たのはその人自身、つまりその人の「魂」です。ですから、先天的な違いというのは、元を辿れば、「魂」の成長段階や役割に違いがあったということになります。

 

同じ人間であるのに、DNAの配列に「霊能」差が生じているのは、人類の創生にその秘密があります。多くの人類学者が主張し、教科書で教えられている「人類誕生の物語」は正しくはありません。人間は、類人猿から進化したのではありません。これも神話に書かれているとおり、霊魂が堕落し(振動数を下げ)、楽園から追放された(流刑にあった)ことによって物質化し、肉体を持った「人間」というものが誕生したのです。

 

これは、わずか数世代で成し遂げられ、五色人(それぞれ黒、白、黄、赤、青色の肌を持つ人類)が、ほぼ同時期に地球上に誕生しました。しかしその後、人類を奴隷にして支配したい者が現れ、そのために「第六感」以上を切断された改造人間が、支配者層によって新たに創造されたのです。やがて「第六感」を持つ者と、持たない者との混血が進み、今のような能力差が生じるに至ったのです。

 

さて、二番めの理由は、今も少し触れたように、その人の「魂」の、成長度合いと役割に違いがあるためです。すべての「魂」は、ただ一者から生じ、地球人として地上に誕生した「魂」は、ここで「愛」についての実地学習体験を重ねながら、元の一者へと還る旅を続けます。その際に、輪廻転生を何度も繰り返す中で、先を歩む者、早く行く者と、遅れる者、遅い者との差がしだいに出て来るのです。

 

そして、三番めは、訓練です。いま言ったことを、自覚しながら生きるのと、知らないで生きるのとでは、「魂」の進み方が違って来るのです。今の自分にサイキックな能力は何もないと感じておられる方でも、訓練によって、切断された「第六感」を回復させることは可能です。ただし、これを「超能力開発」とは捉えないでください。実体は、「本来の自分に帰る」というただそれだけのことなのです。

 

*「超能力開発」は、決して誉められたものではありません。むしろ避けるべきもの、慎重に取り組むべきものです。その理由は、次に書くことから解っていただけるでしょう。

 

私たちの大半は、いま生きている、この物質世界が宇宙のすべてだと思い込んでいます。ところが、最新の研究成果によれば、物質的宇宙は、全宇宙のたった5パーセントに過ぎないという結論が導き出されているのです。あとの95パーセントは、どうやら物質ではないもので構成されているらしい、というところまで来ているのです。このことは、もっと詳しい数字で、前回にも触れました。

 

この「物質ではないもの」が何かについては、現代科学の学問上では未だ「謎」とされているのですが、「霊的な世界」と言って間違いはありません。その際に、注意しなければならないのは、この「霊的な世界」なるものは、決して「物質世界」と対峙するような形で存在しているわけではないということです。コインの裏表のような、「この世」に対する「あの世」ではないということですね。

 

実際には、宇宙全体が「霊的な世界」によって包含されているのです。それは無時間、無空間の、非局所的な世界です。その宇宙の中に、振動数の揺らぎが生じ、それによって塊りが生まれ、さらに振動数が下がることによって半霊半物質化して行き、ついには物質が現れるという、振動数によるヒエラルキーが構成されているのです。そういう全体構造の中で、物質化したものはたったの5パーセントに過ぎないということなのです。

 

ちょっと専門的になりますが、非局所的な、振動するエネルギーの海の中に、局所的な場が誕生するのです。私たちが「物」だと思って目にしているものは、局所的に出現した原子が、主張する縄張りのようなもので、物質の間はスカスカであり、その間にも実は「霊的な世界」が満ちているのです。これらの総量を計算すると、ざっと物質が5パーセント、半霊半物が25パーセント、霊的エネルギーが70パーセントになるということです。

 

さて、前回までの話を思い出してください。半霊半物界というのは、第4霊性密度(4次元)の領域(この振動数の帯域)です。そしてここは、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈する世界、別名「地獄」だということを申し上げたと思います。しかしこれは方便であり、実際には「地獄」というものはありません。これは、ロバート・モンローが言ったように、様々な「信念」体系を持ったグループが集まる帯域となっているのです。

 

サイキックな能力が出て来た(あるいは生まれつきある)と主張する人の大半は、この第4霊性密度(4次元)領域に波長を合わせることが出来るのです。それは、第3霊性密度(3次元)の領域にいる人間から見れば、通常の人にはない「超能力」のように見えます。そこで、「超能力」を有り難がる人と、「超能力」をウリにしたい人との需要と供給がガッチリ噛み合い、オカルティック・ワールドが、商売としてあちこちに成立するのです。

 

その中には、法外なお金を取って「霊視して上げるよ」と言ったり、「あなたには悪い霊が憑いているから」と言っては、「除霊して上げますから、ハイ、○万円」と言ったり、「この石を持てば幸福になれるよ」と説いたりする人もいるのです。また、「何月何日に大地震が来るぞ」「巨大隕石が衝突するぞ」などど言っては、大衆を震え上がらせる人もいます。

 

しかし、これも何度も言いましたが、高次元(第5、第6霊性密度)の存在が、そのような脅しをしたり、悪さをしたりすることは、絶対に絶対にありません。なぜ「絶対に」と言い切れるのか? 脅しや悪さをするようなレベルにある「魂」が、第5、第6霊性密度に上がることは、そもそも不可能だからです。霊界というところは、純然たる階層構造(その階層は、振動数=霊性の違いによる)から成り立っているのです。

 

あなた方に認識していただきたいのは、霊能の有無と、霊性の高さとは何の関係もないということです。ここを間違ってはいけません。駆けっこの早い人がみんな人間性が高いのかと言えば、決してそうじゃない。それと一緒です。霊能は、単なる一能力に過ぎないのです。けれども、アスリートとして抜群の能力を持ち、かつ人間性も高いという人が稀にいるように、霊能と霊性の高さが一致した人がごく稀にいるというだけの話です。

 

では、先の例に挙げたような霊能者は、いったい何とつながって、どんな情報を下ろしているのでしょうか。多くの霊能者は、第4霊性密度の存在とつながって、その言葉を下ろしています。第4霊性密度には、地上世界と同じように、ある「信念」を持った特定グループや宗教団体が数多くあって、こことコンタクトした霊能者が、それを「神」の言葉として称して、信者さんたちに下ろしているのです。

 

それは、その霊能者に、そういう自覚がないから出来ることです。本当に「神」の言葉だと思っているのです。驚くべきことに、自称「霊能者」の大半は、霊界の構造のことも、真理の法則についても、何も知識がありません。ましてや、人間の心理やそのケアについての技量も習熟しているわけではありません。ただただ、自分の感覚だけでやっているのです。けれども、一般の人も同様な無智の中にありますから、それでお互いが成り立っているのです。

 

こうした現象がちっとも是正されないのは、やはり、人々がまだ、「この世」に意識を留めたまま、「この世」の視点から、物資的世界を超えた不思議世界を垣間みようとする意識が抜けないためです。そうすると、このような人たちにとっては、第4も、第5も、第6霊性密度も、まったく区別がつかないわけですね。全部をひっくるめて不思議ワールドなわけです。

 

むしろ、高い次元の言葉ほど、当たり前に見えてつまらなく思え、素通りしてしまう。それよりも、4次元の話の方がずっとエキサイティングだし刺激的です。大地震とか、株価とか、UFOとか、古代ロマンとか、憑依とか、スプーン曲げとか、夢を叶えるとか、お肌スベスベとか。それで、残念ながら「光への道」を本当に歩もうとする人は、極めて少数になってしまうのです。

 

これで、なぜ「超能力開発」が誉められたものではないのか、もうお解りでしょう。オカルティックなものに興味を持った人は、すぐにその領域の虜にされてしまいます。それは、その帯域の波長(振動数)に、自分の波長を合わせてしまうということです。そのように誘導することで、支配を目論む輩がいるのですよ。彼らは、そうして集まる人々のエネルギーを吸い取って生活しているのです。

 

しかし、21世紀という時代、新しい神学が必要とされる時代に既に入ったのですから、これからは逆に見て欲しいということです。宇宙のすべては、先ず「霊的世界」というものが先にあり、そこに包含される形で、半霊半物界と、物質界がちょこっとだけある。その全体構造が俯瞰して見えれば、半霊半物界(オカルト世界)とつながって下ろされた言葉が、いかに中途半端なものであるかが、想像できるのではないでしょうか。

 

高次元の存在たちは、つねに、自分たちの手足となって働いてくれるメッセンジャーを求めています。そして、一人ひとりの成長を見守りながら、早くパイプ役になってくれないかなぁと期待しています。

 

そう、それはパイプ役。パイプに成り切るには、いかに「自分」を滅するかが問われるのです。エゴや、特定の信念や、オカルト的興味やらが残っていたのでは、先ずもってまったくお話になりません。それらを滅した上で、メッセンジャーにはさらに二つの資質が問われるのです。その人の「霊性進化」の度合いと、ツール(パイプ役)としての技量です。

 

「霊性進化」の度合いは、伝える内容のレベルを決定づけます。パイプ役になる者は、自分の振動数を上げて上に近づき、他方、高次元の存在たちは、振動数を下げてこちらと握手しようとして来ます。その握手地点を出来るだけ高いポイントで行うためには、パイプ役となる者が、つねに高い霊性を目指し、かつそれを保つように、自分を律して生きなければならないのです。

 

一方、技量というのは、例えば、言葉でメッセージを伝える役ならば、語彙の豊富さや、構成力、文章力、語り口などの影響が、メッセージに如実に反映されてしまうのです。ある「概念」が下りて来たときに、それを地上の言葉に置き換える方法は何百、何千通りとある。それをどうするかによって、個性が出てしまうわけですね。同様に、絵描きならば絵の技量、音楽家ならば音楽の技量、料理人ならば料理の技量に表現が左右されてしまうということです。

 

そこで常々、「完全なる奉仕の人となれ」と言っているわけです。しかし、いかに厳しく律したとしても、地上にある者は、所詮は「人間」であることを、メッセージを送る者も自覚し、メッセージを受け取る者も考慮することが大切です。いま述べたようなメカニズムから、どんなメッセージにも、必ず「歪み」が入るのです。ですから、どんなメッセージも、これを単純に絶対視したり、丸呑みしたりしてはいけません。

 

また、メッセンジャー本人を神格化してもいけません。イエスにしろ、ブッダにしろ、(決して貶めようというわけではないのですが)その時代のメッセンジャーの一人に過ぎないのです。同様に、言行録やリーディングによって書かれた聖書や聖典の類も、決して絶対視してはなりません。後世、人によってまとめられた書物というものは、「歪み」だらけなのです。なぜなら、それは「組織」の合意を経て表されたものなのですから。

 

あなた方には、先ず、本物と偽物を見分ける眼、霊的に高いものと低いものを嗅ぎ分ける鼻が必要です。どんなメッセージも、「これは、いま自分のために、自分に向けて届けられたものである」と読むことが大切です。実際にそうなのですから。すべてはグッド・タイミング。これを、あなたはまだ不思議現象だと捉えますか? いま言ったばかりでしょう。私たちのベースにあるものは、非局所的、無時間、無空間の世界なのだと。

 

それを、「この世」的に見ると、グッド・タイミングに見えるというだけの話です。この理屈が、解りますか? すべては、自分が創造しているのですよ。あなたの創造の瞬間に、いま必要な言葉が、オーダーメイドで用意されるのです。ああ、なんて素敵なのでしょう。だから、あなたは自分を信じて、より善き人となりなさい。瞬間、瞬間で受け取るギフトを、余すところなく受け取りなさい。

 

それが、あなたを成長させる。友よ、待っているよ。あなたの活躍を。

オクターブの法則

物質的なものから非物質的なものまで含めて、「宇宙」というものが階層構造からなるということは、いにしえの時代より繰り返し指摘されて来たことでした。ところが、この階層構造の分け方や名称というものに、まったく統一性がないのです。残念なことに、これが霊的な世界、とりわけ「真理の法則」への理解を阻む大きな要因となってしまっています。

 

例えば、このブログを読んでくださっている方なら、現界、幽界、霊界、神界といった名称を、多分どこかでお聞きになったことがあると思います。これは全体を4層に分けています。しかし、ひとによっては、神界を仏界と呼んだり、幽界を冥界と呼んだりもしています。また幽界と現界との間に幽現界を設ける人もあり、それですと5層ということになります。

 

仏教の方ですと、霊的世界を上品、中品、下品(品は “ぼん” と読む)の大きく3つに分け、さらにそれを上生、中生、下生に分ける分け方(これですと9層、現界を含めれば10層になる)や、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏陀という段階を設定した「十界論」が知られています。また親鸞は、霊界の上部を、化身土、真仏土、無上仏に分類しました。

 

『シャーロック・ホームズ』で有名なアーサー・コナン・ドイルは、霊界の研究家でもあったのですが、両端に地上界と天界を置き、その間を三品(さんぼん)と同じように大きく3×3の9層に分ける見方をとっています。神智学を顕したマダム・ブラヴァツキーは、全体を7層に分けていますが、最下層に物質界を置き、上の6層全部は霊的世界とし、各層に特殊な名称を付与しています。

 

また、神秘学やヨーガの方では、エーテル界、アストラル界、カラーナ界、プルシャ界といった名称を使うことが多く(英語とヒンディー語がごちゃまぜ)、ひとによっては、カラーナ界をコーザル界と言ったり、さらにはそれらを日本語訳した、原因、微細、粗大といった言葉もあって、とにかくもうバラバラ。何が何やらさっぱり解らないという混乱状態が今もって続いているのです。

 

さて、そうしますと、初めて三品説を聞かされた人は「ああ、そうなのか」と思うでしょうし、4層説を聞かされた人は「そういうものかなぁ」と思うでしょう。「十界論」を聞かされた人は「なるほど」と思うかも知れません。そして、ただ思うだけではなく、これこそが真実だと言って周囲に吹聴する人も現れるでしょう。

 

すると、宇宙が階層構造であるという考え方はみな共通しているのに、その理解を巡っては議論百出。下手をすると、争いが生じるということにも成りかねないのです。現に、宗教間ではそのような問題が生じています。そういうことがあるために、外から教えられた情報は何も「信じるな」と、私は言っているわけです。もちろん、ここで私が書いてることも「信じ」てはいけません。最後の最後は、あなたが自分に問うて欲しいのです。

 

けれども私は、この混乱状態をなんとかしたいと思いました。なぜならば、私自身が、初期においてこの混乱に巻き込まれ、大変な苦労をしたからです。およそ20年の回り道をしたと言ってもよいでしょう。前回も触れたように、アセンションというものがなぜ3次元から5次元へのジャンプなのか、ということすらも解らなかったのです。

 

そこで、この無用の混乱を解いて、もっとシンプルで解りやすい、普遍的な構造体系を示せれば、後に続く人たちは、自分と同じような回り道はせずに、すーっと「宇宙の真理」「宇宙の法則」「光への道」へと入って行けるだろうと考えました。またそれが、私に示された役割なのだろうと、後に思うようになりました。

 

その後、(それが、いつ、どのようにしてだったかは忘れてしまったのですが)電撃的に、前回に書いた「霊性密度(Spiritual Density)」の概念と、構造とを理解するに至ったのです。その結果、7つのチャクラとの関係性や、宇宙と人体が相似形であることや、ヘルメスの言った「下なるものは上なるもののごとく」の意味も、まるで明かりがポッと灯ったように解ったのです。無明からの脱出です。

 

ヒントになったのは、ロバート・モンローの「Focus」という概念とその数え方でした。「Focus」というのは「焦点」という意味であり、モンローは、霊的世界の階層構造に番号を付けて、瞑想を行う際に、この番号に意識を絞る(焦点を当てる)という技法を用いて、各階層への旅を恣意的に実現する道を開いたのです。それは、まさに画期的と言ってよい偉業でした。

 

このモンローの「Focus」番号が、1〜49番まで付けらているのです。49という数字は、7×7です。階層を大きく7つに分けて、さらにそれを7分するという考え方は、すでに有ったのですが、ロバート・モンローはこれを科学的かつ論理的に示した最初の人でした。

 

このモンローが示した「Focus」概念と、その他で示されていた情報を付き合わせると、ほぼ合理的な一致が見出せることを私は突き止めました。以来、「虹の学校」では、この7つの階層をチャート化したものをベースに、宇宙の構造をお話ししています。そして、このチャートを見れば、アセンションがなぜ3次元から5次元へのジャンプなのかということも、すんなり理解ができるのです。

 

*チャートは、それに関係したセミナーを行った際に、参加者にお渡ししています。

 

さて、以上が前置きです。この、宇宙が7×7の階層になっていること、そしてこの階層を決めているものは、ただ一つ「振動数(=密度)」の違いによるということを示したものが「オクターブの法則」です。オクターブ(octave)と聞いて、音楽用語にそれがあることを、みなさんすぐに思い浮かべられるでしょう。この語源は、ラテン語で8番めを意味する “octavus” です。ちなみに足が8本ある蛸は、英語で “Octopus” と言いますよね。

 

ハテ? 7階層なのに、なぜ8番めを意味する「オクターブ」なのか。とここで、疑問に思われた方もきっとおられるでしょう。そこで、解りやすくドレミファで示しますと、7番め(シ)の次の音階(つまり8番め)は、次のドの音となります。この時、1オクターブ上がったという言い方をします。その音の振動数は、元の1オクータブ下のドのちょうど2倍になるのです。これを「倍音」と言います。

 

つまり、振動数が1から2に至るまでの間を、7つに分けた階層が「オクターブ」なのです。ではこれを、いつ、誰が、どのようにして、何を理由に、7つに分けることを決めたのでしょうか? この「7音階」を定めた人が、誰あろう、みなさんよくご存知のピュタゴラスなのです。ピュタゴラスは、今日では数学者ということにされていますが、実際には「宇宙の真理」を届けるメッセンジャーでした。

 

ピュタゴラスは、振動数が1〜2倍に変化する間に、協和する振動数がないかを探ろうとしました。斉唱を男女混成で行いますと、普通は男女で1オクターブの音程差があります。場合によっては2オクターブ(3倍)、3オクターブ(4倍)の開きがあることもあります。でも、n倍音の差で斉唱を行っている場合には、まったく違和感がなく、協和しているように人は感じます。

 

そこでピュタゴラスは、1から2の間で、他に協和する音を探るために、3倍音に注目しました。これは倍音ですから無条件に協和します。しかしこのままでは2を超えていますので、3を2で割ったのです(3倍音を2倍音と考えてその半分にすればよいから)。こうして元の音に対して、1.5という数字が導き出されました。ドを1とすると、1.5の振動数に当たる音、それがソです。

 

次に、このソの振動数を元にして、再び3倍し、また2以下に収まるまで2で割るという繰り返し作業を行い、3×3=9、割ることの2×2×2=8、つまり9/8=1.125という数字が導き出されました。この音が、レに相当します。以下、同様にして、次々と音階を求め、この作業を12回行ったところで打ち止めにしたのです。

 

*ただしピュタゴラスのこの方法では、3のn乗/2のn乗=2に相当する数が、3も2もともに素数であるために存在しません。いちばん近い値は、3の11乗/2の18乗で、2.02729...と端数が出てきてしまうのです。そこで現在は、次に述べる¹²√‾2の周波数比をとった「平均律」が採用されています。これによって、響きは多少犠牲になるのですが、移調というものが可能になりました。

 

こうした結果、1オクターブ間に12の音階が並ぶことになりました。ピアノの鍵盤を見ますと、白鍵、黒鍵合わせて、1オクターブ間に12個の鍵盤があります。このうち白鍵の数は7個です。12個は周波数比で、¹²√‾2=1.0594...の間隔に配置されており、これが半音。半音2つの幅をとったものが全音となります。そして、全・全・全・半・全・全・半の間隔を選んでいった音が、ドレミファアソラシという白鍵の7音階なのです。

 

さて、12と7という数字が出てきましたね。これは別の回にも書きましたが、ともに神秘数であり、12は量的な総数を表し、7は段階的な総数を表しています。12は円形を分けるのに便利なのです。丸いケーキを思い浮かべてください。2にも、3にも、4にも、6にもすぐに分けられます。そこで、時計、1年、星座、方位など、円環を描くものが12分割されているのです。

 

一方の7という数字は、ドレミファだけでなく、一週間がそうですし、電子の軌道も7つです。また結晶構造の数も7つあることが知られています。このように7という数字は段階的なものを表している数なのです。では、「虹の七色」というのはどうなのでしょうか?

 

白色光をプリズムで分解しますと、波長別に屈折率の違いが出るために、いわゆる虹色が見えます。雨が上がった空に虹が見えるのは、空気中の水滴がプリズム効果をもたらすためです。

 

さて、「虹の七色」と言って、この言葉を何の疑問もなく使っているのですが、スペクトルをよく見ますと、虹色は実際にはグラデーション状に変化しており、決して七色の帯ではないことが判ります。つまり、「虹の七色」というのは、実際にはグラデーション状に連なっている色の変化を、人為的に7つに分けたものなのです。

 

さあ、これで冒頭に書いた、宇宙の階層構造には様々な異論がある、ということの理由がお解りでしょう。まったく同じ理由によります。実際には、振動数というものはグラデーション状に変化しているのですが、それをどう分けるか、切るかという見方の違いにより様々な説が生じているのです。当の「虹の七色」も、日本以外では6色に数えるところも多いんですよ。

 

さらに言いますと、このグラデーション状の振動数変化というのは、冪乗(べきじょう)で変化しているのです。これを示してくれたのが、大橋正雄さんとイームズです。この振動数の連続的変化を図示すると、対数螺旋(ベルヌーイカーブ)となり、結局、渦巻き状に無限縮小、無限拡大しているという構造になります。また、対数螺旋を部分で切り取ると、いわゆる黄金比(1:1.618)が現れます。それで神殿建築(神が宿る場所)には黄金比が多用されているのです。

 

では、なぜ7つに分けるのか、ということです。これも人為的に7つに切ったわけですが(7つに刀で分けたのが「切」という文字)、7つに分けると、7段階をそれぞれ象徴している意味が、非常に明快に解釈出来るためです。また、人体上のチャクラの数が7つであり(12説もある)その関連性も極めて明快に説明できるのです。もちろん7が神秘数であるということもあります。

 

さて、宇宙というものは、ただ一つの「振動するエネルギー体」が素となり、これが振動数を下げていくことで塊りをつくり、魂(Soul)となり、また他方では物質化という現象が起こっているということを前回に述べました。別の言い方をすれば、物質的なものも、非物質的なものも、宇宙のすべては「振動するエネルギー体」が変化したものだということです。

 

その時、7つの階層に対して下(振動数の低いもの)から番号を付けていくと、第1、第2、第3霊性密度が物質界、第5、第6、第7霊性密度が非物質界(霊界)となるのです。そして中間にある第4霊性密度は、文字どおり中間の、半霊半物質界ということになります。ですから、「アセンション」というものが3から5にジャンプするというのは、この領域を超えてしまうということを意味します。

 

ところで、最新の宇宙物理学では、今まで、それが宇宙のすべてであると思っていた「物質」(星々に代表されるもの)が、実際には、全宇宙のたった4.9%に過ぎないということが計算上から弾き出されています。そして、26.8%がダークマター(dark matter:暗黒物質)、68.3%がダークエネルギー(dark energy:暗黒エネルギー)であると、(今のところ)結論づけられているのです。

 

このダーク(暗黒)というのは、「悪いやつ」という意味ではなく、光学的に観測できない(遠くの星を観察するには、光を見ることになるのですが、その光が見えない)ために、その名がつけられています。それが何であるかは判らないけれども、宇宙には、見えな物質らしきものが26.8%あり、見えないし物質でもないエネルギーが、さらに68.3%あるというのです。

 

これも、これまで現象面をずっと追いかけて来た現代科学が、因の世界にグッと近づいた一つの例です。神秘学では、物質的世界など、全宇宙からすればほんの僅かなものであるということは、ずっと言い続けてきたことです。ダークマターが第4霊性密度の世界、ダークエネルギーが第5、第6、第7霊性密度の非物質界(霊界)のことだと考えてみてください。すんなり理解が出来るのではないでしょうか。

 

ではここで、第1から第7までの霊性密度にドレミファソラシを当てはめてみましょう。そうすると、第3から第4に移行する時に半音階、第7からその上の第8に移行する時に、また半音階が来ていることがお解りでしょう。ゲオルギイ・グルジエフは、これを「ショック」と呼びました。ミ→ファと、シ→ドへの移行部分に半音階の「ショック」があるのです。

 

*ゲオルギイ・グルジエフ:エニアグラムを世に紹介したことで有名。

 

さて、どんな「ショック」なのでしょうか? ミ→ファのショックは、物質界から非物質界へと突入するというショックです。シ→ドは、この宇宙の最高のもの、つまり創造神から、それよりも高い「何か」へとジャンプするというショックです。さて、創造神よりも高い次元のもの(第8霊性密度)とはいったい何なのでしょうか?

 

言うなれば、それが絶対神です。宇宙の創造神と、絶対神とは違う。宇宙の創造主は、現にこうして被創造物である宇宙がある以上、その創造者も、論理的に考えれば有る(在る)はずです。しかし有る(在る)ものは変化しますから、それは「絶対」とは呼べません。では「絶対」と呼べるものが、果たして宇宙にはあるのでしょうか? もしあるとすれば、それは「無」だけです。「無」は変化しませんから。そのような結論に至ります。

 

しかし、この論理は矛盾を孕んでいます。「無」が「有る」と言ってしまうと、それは「無」ではなくて「有」になってしまいます。ですから、「無」はどこまでいっても「無」です。「無」が何かと言われても答えようがない。「無」は「無」としか言いようがありません。しかし、「無」以外に変化しないもの、つまり「絶対」はないのです。

 

すると、私たちとしては、こう考えるしかありません。この「宇宙」の創造主すらも超えた、「絶対」なる何かがきっとおわすのだろう。しかしそれは「無」なのだから、あるとは言えない。結局、私たちがどう考えようが、その問題には結論が出ない。だから「無」だ。つまり考えても「無駄」(シャレです)。となってしまうのです。どうも、お後がよろしいようで。

 

今日のところはそこまでにしましょう。この第8霊性密度については、別の考えもあります。それはまた機会があればお話することにいたしましょう。

地球のアセンション

アセンション(Ascension)とは上昇すること。何が上昇するのかというと、いわゆる「次元」です。この「次元」が、三次元から、四を跳び越して、一気に五次元にジャンプする。それが「アセンション」です。

 

さて、この「次元」という言い方なのですが、この名称が多くの人に誤解を与え、「宇宙」の構造に関する理解を難しくさせてしまっています。私も時に、通例に倣って「人間は多次元的存在」などと書いたりしているのですが、誤解を増幅させてしまっているかも知れません。そこでこの際、ちゃんとしたことを書いておこうと思います。

 

これからお話することについては、簡単にですが、今までにも何回か触れたことがあります。けれども、数学や物理学に関連した話をちょっとでもすると、どうもドン引きする人が多くて、今までキチンとお伝えすることは遠慮していました。でも、今回はちゃんと話しますので、頑張って着いて来てくださいね。

 

そもそも、「アセンション」で言っているところの「次元」というのは、数学で言うところの「次元」とは、全く異なる概念なのです。これは「アセンション」に限らず、今後は、神秘学において「次元」という言葉を目にした際には、すべてそうだと考えてください。そうすれば、基本的な謎の一つが解けます。

 

数学で言うところの「次元(Dimension)」というのは、移動できる方向の数(自由度)を表しています。点は0次元(どの方向にも動けないため)、直線は1次元(直線上をどちらか一方向に動ける)、平面は2次元(タテ、ヨコの二方向に動ける)、立体は3次元(これに高さが加わり三方向に動ける)となるのです。ということは、私たちがいま住む物質世界は、数学的には3次元世界ということになります。

 

これに時間軸をプラスして、この世は4次元だとする考えもあります。ただし、時間軸は片方向にしか進めません。いわゆる「時間の矢」というものが存在するのです。しかも私たちは、“今” しか知覚・体験できません。“時間” という幅を見ることは出来ないのです。なぜ時間軸が逆行できないかは、今も物理学上の大きな謎とされています。

 

一方の神秘学で言うところの「次元」は、正しくは「霊性密度(Spiritual Density)」と言い、宇宙を構成するあらゆるものを、その振動数の違いによって七階層に分類したものなのです。さてここで、先ず「振動数」という言葉が出て来ました。非物質的なものも含めて、宇宙のあらゆるものが振動しており、霊性の高いものほど微細で精妙な振動数を持ち、低くなるほど大まかで粗雑になっていくのです。

 

この説明にピンと来られない方も多分いらっしゃるでしょう。目の前にあるコーヒーカップが振動しているようには見えないからです。あるいは空気が振動しているようには見えない(空気そのものが見えない)からです。またあるいは、銀河系が振動しているようには、宇宙全体が振動しているようには思えない(観測できない)からです。

 

しかしみなさんは、物質を構成しているものが分子であることをご存知でしょう。そして、その分子を構成しているものが原子であることもご存知でしょう。これら物体を形成している粒子は、目には見えないのですが、みな細かな振動をしているのです。みなさんがよく知っている「熱」というのは、この粒子の振動状態なのです。そこで、この粒子振動を熱運動と呼びます。

 

粒子の振動が激しくなるとその物は高温となり、振動が小さくなると低温となります。一例を挙げましょう。水は、温度が0度から100度までの間に、固体、液体、気体へと変化します。気化した水であるところの水蒸気が膨張圧力を生むのは、水分子が液体時よりも激しく振動するためです。逆に自由度があまり無くなっていくと、水は氷という固体になるのです。

 

さて、最新の物理学は、原子核を構成する陽子や中性子よりもさらに微小な素粒子を発見し、今ではクォークに代表される17個の素粒子からなる「標準モデル」が確立されています。そして、自然界にある四つの力の大統一理論を探る過程で、「標準モデル」の素粒子よりもさらに微細な「素」が存在し、それは「振動するひも」である(超弦理論)という説が主流を占めるに至っているのです。

 

しかしこの「振動するひも」は、理論物理学から出て来たもので、あまりにも微小なために、大型ハドロン衝突型加速器を使っても、実験で確かめることが(今のところ)不可能とされています。一方、神秘学では、古来より、宇宙を構成する「素」は、振動するエネルギー体であるとし、それを「霊(Spirit)」と言って来たのです。つまり現代物理学は、古来より連なる神秘学に、やっと追いついて来たというわけです。

 

*霊(Spirit)については、あまりにも多くの解釈や定義づけが存在し、それぞれの人がそれぞれの説を語っておりますが、ここでは、万物を形成する唯一根源の「素」を霊(Spirit)と定義づけます。

 

よく、霊界の話をすると「そんなもの科学的じゃない」とか「トンデモ話だ」といった決めつけをなさる方がおられるのですが、現代科学は、もはやそのレベルではありません。天文学、物理学、数学が融合し、超微小世界と超巨大世界への観測技術が共に発達したこともあって、この2・30年ほどで急速な進歩を遂げています。そして、そこで得られた推論は、因の科学(現象面の裏にある本当の原因科学)が示して来たものに、どんどん近づいて来ているのです。

 

「Spirit」と「振動するひも」が、同じものだと結論づけるにはまだ早計かも知れません。ですが、『超弦理論』が、この世の常識を超える世界に踏み込んだことは、これまでの科学(現象から現象の法則性を探る)の一線を超えたと言えます。その『超弦理論』は、私たちが住む世界が実は3次元なのではなく、9次元(時間軸を含めると10次元)であるという説を立てています。残りの6次元分は畳み込まれていて観測できないだけだと言うのです。

 

さて神秘学に話を戻しましょう。神秘学では、万物を構成する素は「Spirit」であると言います。しかしこれは、大本の「振動するエネルギー体」が有する機能面の一つであり、他に「根源的生命力」と「宇宙意識」なるものを、この「振動するエネルギー体」は併せ持っているのです。この、三つの要素が、たった一つのものから成るということが、真の「三位一体」の意味なのです。

 

さてその時、元はたった一つのこの「振動するエネルギー体」が、振動数を次第に下げて行きます。すると、水で示した例と同じ様に「Spirit」の自由度がだんだんと減って行き、同種の振動数を持ったエネルギー体が塊りを形成するようになるのです。こうして、非物質であったところの「Spirit」が、半霊半物質状となり、さらに振動数を下げると、遂には物質化という現象が起こるのです。

 

ですから、人間の肉体も、「Spirit」が振動数を下げて物質化して行き、原子となり、それが分子となり、細胞を形づくって肉体を形成したものなのです。ここに、同じく「宇宙意識」の振動数を下げた「魂(Soul)」が結びつき、さらに「根源的生命力」の振動数を下げたプラーナ(気)が供給されて、あなたという一人の人間が、この地上で、この宇宙に生かされているのです。

 

このように、元々は非物質的な「振動するエネルギー体」が、振動を下げることによって、半霊半物質化、さらには物質化という現象が起き、その物質も、様々な化合を経て巨大化し、この大宇宙が出来上がっているのです。宇宙のすべては「波動」であるという言い方は、ここから来ています。ですから、「波動の法則」が「真理」であると言えるのです。それは、たった一つのものから生じているのです。

 

この時、振動数の高低差を、便宜上、七つに分けたものが、よく言われる「次元」、正しく言えば「霊性密度(Spiritual Density)」なのです。密度と、振動数と、波長は、同じことを違った視点から述べたものです。ですから、俗に言う「次元」とは、数学的次元を指しているのではなく、「振動するエネルギー体」の密度、あるいは振動数、あるいは波長を述べたものだということを、しっかり覚えてください。

 

さて、なぜ七つに分けられるのかということなのですが、振動数の違いからなる七つの領域が所持するそれぞれの性質に、大きく七つの特徴があるためなのです。そしてこの特徴をそっくり人体に移したものが、いわゆるチャクラ(中枢)の各働きであり、スシュムナー管上(背骨に重なる場所)に、七カ所に分かれて位置しているのです。

 

このことから、大宇宙(マクロコスモス)と、人体(ミクロコスモス)の相似形が言われ、人間は「神」に似せて創られたという言い方が為されているのです。また、七つの「霊性密度(次元)」を、人体が最初から所持しているという意味から、人間は「多次元的存在」であるという言い方もされるのです。

 

ところが残念なことに、地球に生まれた人間は、このチャクラが充分に目覚めていません。そこでこのチャクラを、眠りから目覚めさせ、活性化させることが求められます。これが、いわゆる「覚醒」の意味であり、完全に目覚めた人を「ブッダ」と呼ぶのです。(この七つの階層については、次回に『オクターブの法則』と題して、詳しい説明をします。えっ、もう結構ですって? まあ、そう言わずに。)

 

七つの階層のうち、上の三つが非物質界(霊界)、下の三つが物質界、そして中間の四番めに位置しているのが半霊半物質界です。地上に生活している人間は、下から三番めの「第三霊性密度」の領域に暮らしているのですが、四番めの半霊半物質界を跳び越えて、非物質界の一番下である五番めの「第五霊性密度」にジャンプすることを「アセンション」と言うのです。しかも、この肉体を持ったまま、地上に現に生活をしながら。

 

*本当はそうではないのに、そこに捕まっている状態。物質を知覚するための五感刺激に嵌まり込み、第六感以上が塞がっている。当然、チャクラも閉じたまま。

 

ややこしいのは、「第三霊性密度」を「次元」と言ってしまうと、これが「三次元」となり、数学的に言うところの「3次元」とちょうど重なり、区別がつかなくなってしまうだけでなく、英語の「Dimension」も「Density」も共に頭文字が「D」ですから、同じ「3D」と表記される場合があるのです。

 

そうしますと、「はて、3次元から5次元にジャンプするとはどういう意味なのだろうか?」「5次元世界とは何なのか?」という話になり、まるでワケが分からなくなってしまうのです。たまたま、そういうものが一致したために、多くの人に混乱を与えてしまっているのです。ということで、今日、その点を解説いたしました。

 

では、「霊性密度」上、なぜ四番めを超えるのか、また超えなくてはならないかと言いますと、半霊半物質界である「第四霊性密度」というのは、いわゆる魑魅魍魎がいる世界なのです。地上に思いを残して死んだ魂や、悪意を持った霊たちがウジャウジャいる世界です。オカルティックなことに興味を持ってはダメだよ、というのはそこです。興味を持った途端、実は、その波動の領域に捕まっているのです。

 

すると、その領域にいるタチの良くない霊たちが、「神」の名を語っていろんなことを伝えて来るのです。それはみな、人間を不安と恐怖と混乱に陥れるためのもので、その理屈を知らない霊媒が、それをそのまま下ろしてしまうのです。人間というのは、残念ながら、宇宙の「真理」を求める人よりも、恐怖の「予言」に興味を抱く人の方が圧倒的に多い。そこで、需要と供給が一致するというわけです。

 

「第四霊性密度」の領域を怖れる必要は、いささかもないのですが(むしろ怖れない方がいい)、オカルティックな興味を抱き続けている限り、アセンションすることは不可能です。なぜなら、それ以上には、自分の波動が(振動数が)上がらないということですから。ここが盲点であり、この「第四霊性密度」の川を渡るということが至難の技なのです。

 

と、以上が前置きです。う〜ん、ずいぶん長い前置きになってしまいましたが、今日お話ししたいことは、別のことなのです。これも以前に書いたことがあると思いますが、今この時期にアセンションすることが運命づけられているのは、実は人間ではなく、地球なのです。地球のアセンションというものが、地球の誕生時から計画されていて、そのタイミングに、既に入ったということ申し上げたいのです。

 

地球というのは、宇宙的に見てどういう惑星であったかと言いますと、「愛の惑星」だったのです。そう聞くと、何か素晴らしい星のように思うでしょうが(実際、ある意味で素晴らしいのですが)、もう少し正確に言うと、「愛を学ぶための惑星」でした。「愛を学ぶための惑星」ということは、裏を返せば、未だ「愛」を知らないレベルの、霊的に低い星だったということです。

 

地球人というのは、私を含めてみな、霊的レベルが低い「魂」が集まっているのであり、この惑星の上に誕生することで、「愛」を学習する機会を与えられたということです。そのために、「分離」意識の非常に強い、エゴと闘争が闊歩する惑星が、太陽系の中に用意されたということなのです。一種の愛のムチと言いますか、実地体験して学びなさいという配慮です。

 

「愛」というのは、別名キリスト精神とも言って、宇宙的に見れば当たり前のものです。地球人からしますと、「愛」はホットな感じがすると思いますが、むしろクールなものです。なぜなら、それは「法則」ですから。ところが地球人は、これに「情」をつけて、「愛情」にしてしまうものですから、ホットな感じになるのです。しかし「愛情」というものは、よく見れば、煩悩そのものなのです。

 

憎悪や支配的感情よりは、「愛情」の方が一歩進んではいます。しかし、家族愛とか、民族愛とか、愛国とか、限定されたものに「愛情」を向けますと、まかり間違えば、それ以外は敵視する、排斥するということになりかねません。そこを超えて、隣人愛、博愛、全地球愛、全宇宙愛となって行けば、本当のキリスト精神に到達するのです。しかしながら、人間はなかなかそこに到達できません。

 

到達できない主原因は、前回のブログで述べました。地球のアセンションというのは、地球という惑星が、「第三霊性密度」から「第五霊性密度」にジャンプする時期にいよいよ入ったということ。それはどういうことかと言いますと、地球が「愛を学ぶための惑星」としての役割を、これで終了するということです。そして、もっと霊性の高い星へと生まれ変わる時がやって来たということです。

 

*正確に言えば、既に60年ほど前から移行期に入っており、その前半の最終章への扉が開いたという段階です。

 

さて、これから書くことを、次の点を頭に刻み込んだ上で、聞いてください。どれもみな言い古されたことですが。

・真の宇宙には、時間も空間もないのだということ

・人間の本質は「霊」にあり、肉体の消滅後も「霊」は生き続けるということ

・地上世界は、そこでしか出来ない体験をするためのものであり、霊的世界から見れば幻に過ぎないのだということ

 

この言い古された真理を、頭で理解するだけでなく、心底そうだなぁと思えるようになるまでには、長い時間がかかるかも知れません。けれども、これを前提とした上で、次にする話を聞くのと、知らないで聞くのとでは、受け取り方がまるで違って来てしまうことでしょう。

 

以上を頭に刻み込んでいただいた上で、地球がアセンションするとはどういうことかと言いますと、この地球のアセンション時期に合わせて、アセンション出来なかった「魂」は、アセンション後の地球には、もはや居られなくなるということを意味します。惑星地球からは一掃されるということです。地球に輪廻転生して来ることも、もはや出来なくなるということです。つまり、この機会が、地球学校におけるラストチャンスということになります。

 

また、これも言い古されたことですが(言い古されたということは、万事「神」のご計画どおり進んでいるという証明でもありますが)、アセンションまでの途中には、地球に大変革が起こるということです。いわゆる「浄化」です。新しいものを生み出す前の産みの苦しみの時期です。そして、これも以前に書きましたが、「浄化」とは、カルマを受けることを意味します。

 

受けることによって、「浄化」が為されるのです。個人にとっても、人類全体にとってもそれは同じです。そして、より広範囲なカルマの方が優先されますから、人類全体で作って来たカルマは、人類全体で受けることになります。このカルマの「浄化」から、自分だけ逃れて助かろうと思ってもそうは参りません。そもそも「助かる」ということが、地上的な欲であり、宇宙的には最初から全部の「魂」は救われているのです。

 

賢明なみなさんは、今後の数十年をどう過ごしていけばよいか、既にお解りでしょう。いつも言っている通りです。素直に、元気で、朗らかに、周囲に親切を尽くして生きなさい。もはや、個人的な悩みがどうのこうのと言っている段階ではないのです。個人的なカルマ、社会的・政治的なカルマ、地球環境的なカルマは全部一直線に繋がっているのです。そのことに思いを馳せなさい。じっくり瞑想してみなさい。

 

人類の集合意識とは、一人ひとりの意識の集合体です。あなたの意識もそこに影響を与えています。この機会を、ワープ航法のように使って、自分がアセンションするためのチャンスとしてください。

 

既に、アセンション後の次の人類(第五原人種)の先遣隊が50年ほど前からポツポツと誕生し、各地で成長しています。あなたもそのお一人かも知れません。この人たちが、次の地球の礎(いしずえ)を創ることになっています。今日のこのメッセージは、そういう「魂」にリーチすることを目的に書かれました。役割を思い出していただくためです。

 

一方で今、旧人類の、エゴを剥き出しにする人々の活動が、一層エスカレートしています。この最終段階に現出する二極化現象も、言い古された預言です。これは彼らの危機意識の顕れとも取れますが、より長い視点から見れば、アセンション前の「浄化」を促進させてくれているとも言えるのです。彼らも、そうやって「神」のご計画に参加しているのです。皮肉なことですが。

 

ということで、みなさんには、この地球のアセンションの機会を、ぜひ上手に使っていただきたいと思います。