by Rainbow School
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人はいつでも変われるが、変わる意志を持たなければ変われない

「人の性格は変わらんよ」と言う人と、「いや、人間はいつでも変われるんだ」と言う人がいます。私はもちろん後者です。人は、いつでも変われます。たとえ、死ぬ1秒前であっても。「性格は変えられない」というのは、長年、自分の周囲を観察して来た結果、その人が悟った嘆き節と言えるでしょう。確かに、そう思わせる面が人間にはあります。でも、それで一括りには出来ないのです。

 

世の中には、自分を「変えたい」と強く思っている人と、「変わりたくない」と思っている人、その両方が共存している人、そして、そもそもそんなことは考えたことがないという人がいます。このブログを読んでくださっているみなさんは、少なくとも「変えたい」「変わりたい」思っている人たちだと私は信じます。そうでなければ、ここへは足を向けてくださらなかったでしょうから。

 

なぜ、自分を「変えたい」と思うのか。それは、ひとことで言えば向上心があるからです。今の自分に満足していない。もっと違う世界や、体験や、到達できる心境があるのではないかという好奇心が、その人たちの内部では優っているのです。でもこの向上心は、世間で言うところの向上心とはちょっと違う。それをあなたも分かっていらっしゃいますよね。

 

多くの人は、なりたい自分というものを、自分の外側のもので規定します。スタイルや、外見や、服装や、宝飾品や、家や、一緒に腕を組んで歩く人や、クルマや、財産や、肩書きや、名声です。でも次のシーンを想像してみてください。今あなたは死の床にあります。そして、これまでの人生を静かに振り返っています。さて、今度の人生で、どういう自分にあなたは「成った」のでしょうか?

 

あなたを規定してくれていた外側のものは全て、すでに効力を失っています。では、死の床にいるあなたはいったい誰なのか? もう内なる自分しかないではありませんか。その内なる自分、本当の自分、真の自分は、今度の人生を通じてどこまで「成った」のか? それが今世における成果です。そして、あなたは息が絶えても死なない。その内なる成果だけが、次の人生へと受け継がれるのです。

 

そのことを、あなたの「魂」は直感で知っています。あなたは、ご自分の「魂」の声に素直な人です。ですから、あなたは自分を「変えたい」と思うのです。私も、若いころから、自分を「変えたい」とずっと思い続けて来ました。今でもそれは変わりません。欠点だらけの自分、心をコントロールできない自分、他者とうまく付き合えない自分、引っ込み思案の自分、etc.。

 

若い時には、みんながよくやるように、自分の欠点と克服すべき課題をノートに書き出して、いつもそれをチェックしては戒めにしていました。いま振り返ると、自分を見つめるということではそれらは意味があったのですが、「欠点」克服というアプローチ方法は誉められたものではありませんでした。それで、ずいぶん回り道をしてしまったし、いささか神経症的にもなりました。

 

でも、そうじゃなかったんです。「欠点」を克服しようとするのではなくて、自分が思い描く「理想」に近づくことを目指していれば、もっと早道だったんです。しかも楽しんでね。「理想」に近づいて行けば、その分だけ「欠点」は自動的に減って行ったわけです。当時はそこに気づかなかった。そのため、「こうすべき」や「ねばならない」を連発する習慣に陥り、それで神経症になってしまいました。

 

結局、何がいけないかと言うと、そういう戒めは、いちばん大切な「自由」というものを、自分自身で拘束してしまうのです。それで、本来「自由」でありたい「魂」と、頭で考えた「意識」とが葛藤を起こして、それで苦しくなってしまうのです。ところが、そういうメカニズムを知らないものですから、まだまだ戒めが足りないと思い込み、ますます強化しては苦しみに拍車をかけてしまっていたのです。

 

ですから、なりたい「理想」を鮮やかに想い描くということが、とても大切です。「理想」なしに「欠点」ばかりを克服しても、じゃあいったいどこへ向かうのか、ということになってしまいますからね。「こういう人に私はなりた〜い」「こういう人に、まさに自分はなっている」という理想像を、ありありと想い描くというところから、自分を変える生き方が始まるのです。

 

さてそこで、「理想」の描き方ということが問題になって来ます。先にも書いたように、「理想」を外側のあり方ばかりに求めていたら、それは「魂」の成長というものに繋がって行きません。若い時には、変なものに憧れて随分とヤンチャをしたりしても、齢を経るに従って、普通は、しだいに内側の成長に目を向けるようになって行くものです。またそれが、よき人生のあり方というものです。

 

ところが、そういう外側から内側への意識変化というものに、ほとんど興味のない人たちが大勢いるのです。幸福とは、自分の外にあるなにがしかを手に入れることだと固く信じて生きて、ついにそれを手にする。例えば、財産や、地位や、名声や、愛人です。すると、今度はそれを失うことが怖くなっていきます。その結果、現状維持に血眼となり、いくら齢を重ねても、自分を「変えたい」などとは少しも思わなくなってしまうのです。

 

なんと憐れな人生でしょう。えっ、お前に言われたくないよ、ですって。まあ、そうでしょうねぇ。その人からすれば、自分がなぜ変わらなくちゃいけないのか、自分のいったい何を変えろと言うのか、そもそも「人が変わる」ということにどんな意味があるのか、と思うでしょうからね。でもね、だから憐れだって言うんですよ。今世のせっかくの機会を、なぜ活かさないのかなって思ってね。

 

自分を「変える」ということは、本当の自分、真の自分に近づいて行くということです。この地上に生を受けた目的は、それしかありません。地上で出遭う様々な体験は、すべてその「気づき」のために用意された道具に過ぎないのです。ですから、先ずは「気づき」というものに気づく必要があるのです。「気づき」にすら気づけないようでは、霊性向上の出発点にも立てません。ですから、そういう人たちが憐れなのです。

 

みなさんの中には、逆だと思っていた方もきっとおられるでしょう。やりたい放題、我が物顔でノッシノッシと歩き、ちっとも反省のない人たちを見て、怒りとともにこの世の不条理を嘆く人たちもさぞかし多いことでしょう。「それに比べて自分は‥‥」と、惨めさを呪う人もおられるでしょう。誰あろう、かつての私がそうでした。でも、そう考えてはなりません。あなたに訪れる苦難は、全てあなたという種子をはぐくみ育てる手段なのです。

 

元プロ野球選手だったKさんは、覚醒剤使用で逮捕され44日間を獄で過ごしました。人気者であっただけに、その反動は数十倍にもなって彼の心を深く抉ったことでしょう。表面的に見れば、彼にとって、それは人生最悪の災厄だったと言えるかも知れません。でもそうなったことで、彼は自分を「変える」機会を与えられたのです。これは天の配慮です。後は、Kさんがそれをしっかりとものにするかどうかです。

 

一方、最高権力者であるAさんは、嘘に嘘を重ね、破綻をきたしてもなお居直り、我欲のために、省庁も、日銀も、警察も、検察も、裁判所も、マスコミすらも抱き込んで、独裁体制をひた走っています。もはや民主主義もなく、三権分立もないので、たとえ違法行為をしたとしても、自分やお仲間たちが逮捕されるということはありません。これはAさんたちにとって、果たしてよいことなのでしょうか?

 

これも、表面的に見ればよいことのように思えます。実際、Aさんやお仲間たちもそう思っているからこそ、国民に嘘をつき続けることを止めないのでしょう。けれども、そうすることで、この人たちは自分を「変える」せっかくの機会を失っているのです。獄に繋がれたKさんと、逃げおおせるAさんたちと、どちらが不幸なのでしょう? 一体どちらが憐れなのでしょう?

 

罪や罰というのは、すべてこの世の論理です。何度も言って来たように、真理の世界には罪も罰もありません。自分が為したことは、自分に返るという鉄壁の法則があるだけです。ですから、他者を騙すことは自分を騙すことであり、他者に嘘をつくことは、自分に嘘をつくことになるのです。その真意を知らないものだから、自分を「変える」機会を、先延ばし先延ばしして行ってしまうのです。

 

ああ、憐れなり。でも、人はいつだって自分を変えられるのです。その気になりさえすれば、死ぬ間際だって人は変われる。それが聖なる救い。でも、その人が「変わろう」と言う意志を持たない限り、人は変われないのです。ですから今、あなたが、自分を「変えたい」「変わりたい」と心底願っていることは良いことです。それでこそ「魂」の成長があるのですからね。

 

でも、今の自分を抹殺してはいけないよ。反省はいいが完全否定してしまってはダメだ。己の中に巣食う利己心をジャンピング・ボードにし、未熟さを教師にするのだよ。それらは、あなたに何かを気づかせようと与えられたものだから。だから感謝しなさい。自分の未熟さ、至らなさに。そして、力強く飛躍するんだ。サナギから蝶へと。

 

ご自分の意志の力を信じなさい。あなたを規定するのは、あなたの外側にあるものではなく、あなたの意志が、明日のあなたという人間を創り育てるのです。善なる意志は健康をもたらし心を平安に導きます。不善なる意志は細胞を傷つけ心を荒げます。だから善なる理想をお持ちなさい。あなたは変われる。変われます。サナギから、この上なく美しい蝶へと。

「完全なる奉仕の人となる」とは?

7月2日掲載の『パワースポット』の内容に関連して、次のようなご質問を頂きました。

 

Q.前回のメッセージ中に、〈完全なる奉仕の人となるように〉という言葉がありましたが、「完全なる奉仕の人となる」とは、一体どのような状態を指しているのでしょうか? また、どのように行動すれば、完全なる奉仕の人に近づけるのでしょうか? 私の考えでは、どんな些細な事であってもよいから、自分がされて嬉しいと思う事を、気が付いたらどんどんやるという習慣を身につければよいのかな、と思っているのですが、それでよいでしょうか。

 

A.先ずあなたが、その言葉に眼をお留めになり、ご自分も「完全なる奉仕の人」を目指そうとなされていることをとても嬉しく思います。その勇気、寛大さ、誠実さは、何ものにも代え難いものです。すべての人が、もしもあなたのようであったなら、地球は変わるでしょう。そして、人類は救われるでしょう。

 

さて、「完全なる奉仕の人」とあるということは、それがあなたの心に引っ掛かったように、そして既にお気づきのように、「不完全な奉仕」という段階もあるということを示唆しています。なぜ、わざわざ「完全なる」という形容動詞が付けられているのでしょうか? なぜ、そのように強調されているのでしょうか? それは、いわゆる「奉仕」とは違うものなのでしょうか?

 

「奉仕」とは、普通、他者のために出来るなにがしかを自分がする、という行為を指しています。それはそれで、立派な心掛けです。あなたが仰る「どんな些細な事であってもよいから、自分がされて嬉しいと思う事を、気が付いたらどんどんやる」ということも、「奉仕」の素晴らしい行動原理です。では、それを徹底して行っていけば、「完全なる奉仕の人」に近づけるのでしょうか?

 

近づけるかも知れません。でもそのアプローチは、どこか無理をしていないでしょうか? 「エイッ!」と気合いを入れないと、継続はなかなか難しいのではないでしょうか? そして、そのように無理し続けていたら、きっと疲れてしまうと思うのです。すると、その「疲れた」心の状態、義務感のようにしてやっている心の状態が、相手に伝わります。

 

形の上では「奉仕」をしていても、自分が喜んで行っていない行為というものは、本当の「奉仕」にはならないのです。いわゆる「支援」と称する活動の多くが、息苦しさを感じるのはそれが理由です。

 

実に、ポイントはそこです。「行動」のあり方や、あり様ではないのです。それを為す人の、「心」のあり方、あり様が肝心なのです。「心」のあり方、あり様が、つねに愛に溢れ、喜びに満たされていれば、その人が為すことは、すべて自動的に「奉仕」となるのです。これが、「完全なる奉仕の人」になる、ということです。

 

しかしこれだけでは、何を言っているのか、たぶんお解りにならないでしょう。以前に、善と偽善のことをお話ししましたね。これと同様のことが、「愛」の学習についても、また「奉仕」についても言えるのです。人は、誰しもが、中途半端な「善」、中途半端な「愛」、中途半端な「奉仕」という段階を経て、完全なる「善」、完全なる「愛」、完全なる「奉仕」の人に至るのです。

 

未だ「善」を知らない → 「善」に気づく → 完全なる「善」の人になる

未だ「愛」を知らない → 「愛」に気づく → 完全なる「愛」の人になる

未だ「奉仕」を知らない → 「奉仕」に気づく → 完全なる「奉仕」の人になる

 

大きく言って三段階。この中間段階にある時(大多数の人がそうですが)に、人は心が定まらずに悩みを抱えるのです。しかしそれは「学習途上」ということであって、心の葛藤や悩みは、その人に贈られたテストとなっているわけです。そして少数の、未だ「善」を知らない者が悪を為し、未だ「愛」を知らない者が他者を支配しようとし、未だ「奉仕」を知らない者が私利私欲に走るのです。

 

これは「魂」の成長のプロセスであって、完全でない人間がダメだと言っているわけではありません。誰もがこうした道を通って、いつかは完全に至るのです。そう思って見れば、悪を為す人の心理も解るでしょうし、その人を許すことも可能でしょう。そして、完全なる「善」の人となった暁には、その人は、同時に完全なる「愛」の人にもなっており、完全なる「奉仕」の人にもなっているのです。

 

以前、『高僧と言われる人よりも、農村で暮らすお婆さんの方が人間的にずっと先を行っているように思えるのはなぜか?』という、長〜いタイトルのメッセージを掲載したことがあります。自然とともに生き、自然を敬い、欲得を忘れ、毎日を穏やかに過ごす人は、自ずと、完全なる「善」、完全なる「愛」、完全なる「奉仕」の人に近づいて行くわけですね。

 

では、そのような人は、何が違うのでしょうか。想像してみてください。「よしッ!これからは善を為すぞ」と誓ったり、「愛に生きるぞ!」と決意したり、「人々に奉仕しよう」と努力したのでしょうか? もしそうであれば、まだまだ本物ではありません。誓いや、決意や、努力なしに、自然にそれらが出来ている人こそが本物の聖者です。いったい、どこがどう違うのでしょうか?

 

「喜び」の質が違うのです。先ほど言った三段階。これを喜びの質から見ると、肉の喜び、心(魂)の喜び、魂の奥(霊)の喜びへと、進化して行っているのです。ですから、内なる「霊」の喜びに生きる人は、まったく自然に、「善」「愛」「奉仕」に生きることが出来るのです。そして、この心境に至った暁には、その人は「全ては我がためにあり」との感慨を得るのです。

 

これを聞いて「えっ!」と思われた方も多分お在りでしょう。一見すると、これは驚くべき結論であるかも知れません。また、大いなる誤解をもたらすかもしれません。なにしろ、「他者のため」ではなくて、「全ては我がためにあり」と思えるようになることが、「完全なる奉仕の人」「完全なる愛の人」「完全なる善の人」になることだと言うのですから。

 

それは、エゴの最たるものではないのか? 違うのです。「全ては我がためにある」のですから、どんな災難も苦悩も「我がためにある」と受け入れるということですし、何を為しても見返りを求めるということがありません。また、自分にとって都合の悪い出来事を、他人のせいにするということもないのです。

 

ちなみに、釈迦の誕生時の言葉として知られる「天上天下唯我独尊」は、これと同じ境地を語ったものです。

 

「奉仕」活動を、「誰かのために」と思ってしている間はまだまだ浅く、「すべては自分のために」と思えた時に、それは本物になるのです。だからこそ、その人は、毎日を、この瞬間々々を、喜びの中に生きることが出来るのです。

 

その人にとっては、「奉仕」する対象がもはや違うのですね。「他者」にではなくて、「神」に奉仕する人間になっている。エゴを完全に滅して、自分を「神」の通り道にしてしまったのです。自分は単なるパイプ役に過ぎない。そうやって全部を「神」に委ねてしまう。そうなると、その人がする行動はどんなものであっても、全部が自動的に「完全なる奉仕」になってしまうのです。解りますか?

 

「神」とは何でしょうか? 「全宇宙」の別名です。ですから、「神」に奉仕するということは、取りも直さず、全ての人々、全ての自然、全ての生き物に奉仕することと同義なのです。そして、そのように生きることが、「光への道」の歩みなのです。

 

しかし、この道は決して平坦ではありません。批判や、誹謗中傷、時には攻撃も覚悟しなくてはなりません。なぜかと言えば、普通の人々には、その心境や感覚が理解できないからです。大多数の人は、未だ中途半端な「奉仕」の中に生きています。そこではスケール(物差し)が当てられ、量の多寡で「奉仕」が測られます(たとえば、寄進額や貢ぎ物で)。ですから、それを超越した「神」への奉仕は、その人たちからすれば、単なる独善にしか見えないのです。

 

ですから、マザー・テレサも独善的だと批判されましたし、『死ぬ瞬間』を書いたエリザベス・キューブラー・ロス医師などは、自分が設立したホスピスのコミュニティを、二度にまで渡って焼き討ちにされてしまいました(一度建てて焼かれ、再建してまた焼かれた)。このように、「光への道」を生きることは、人々の無理解を覚悟しなければならないのです。

 

しかし、でも歩まねばなりません。いいえ、こんな時代だからこそ、一人でも多くの人に歩んでいただきたいのです。権力者の不正や嘘が大っぴらにまかり通り、それを咎め立てする機関もなければ、内部告発する者もいない。みんなが、低我の満足のために、自己の「魂」の、真我の声を裏切って行動し、仲間以外の人たちを奴隷のように扱って支配しようとする。未だ善、愛、奉仕を知らない憐れな権力者たち。無明の中に生きる人たち。

 

これらの「魂」たちに、内なる気づきを与えてあげてください。それには、みなさんが「光」を発することです。「光」の輝きで、硬く凝り固まった「魂」の扉を溶かしてあげることです。だから、友よ。完全なる奉仕の人を目指せ。そして、わが使徒となりなさい。わたしとあなたはつねに共にある。

パワースポット

パワースポットへ出掛けて行って、運気を貰おう。世間では、このようなことを考えておられる方が多いようですね。今や、あっちでもこっちでも「パワースポット」を話題にしている人たちを見かけます。そのお気持ちは解ります。でもねぇ、その「パワースポット」信仰、間違ってやしませんか? さる神社関係者がこぼしていましたよ。最近は「パワースポット」巡りだけをして、本殿にお参りしないで帰る人が大勢いるって。

 

生命エネルギーが、キラキラと光り輝くように充満している、特殊な場というものはあります。それをもし「パワースポット(power spot)」と呼ぶならば、地上に「パワースポット」というものは存在します。でもそれは、多くの人が考えているようなものとは違うのです。そこは、「場(field)」なのであって、「場所(place)」ではないのです。この違いが、解りますか?

 

実際のところ、「パワースポット」とは何なのでしょうか? どうして、そのような「場」が地上に顕現するのでしょうか? その答えを知るには、先ず「宇宙とは何か?」という問いに立ち戻らなければなりません。

 

宇宙とは何か? 神秘学ではこれを三つの観点から解きます。宇宙とは法である。宇宙とは愛である。宇宙とは生命である。この三つの言い方は、一見、関連がないように見えて、どれもが正しいのです。法・愛・生命は、すべて一つのものから発した別々の機能であり、三位一体を構成しているのです。ですから、このように言うことも出来ます。

 

法は一つである。一つが法である。

愛は一つである。一つが愛である。

生命は一つである。一つが生命である。

 

一般的に「パワースポット」というのは、このうちの生命力が充満している場を指して、みなさんがそう呼んでいるわけです。でも、三位一体を考えた時、当然ながら、そこは同時に、法の場、愛の場ともなっているということに注目してください。言い換えれば、法の場、愛の場でないところが、「パワースポット」であり続けられるはずがないということです。

 

なぜ、ある特定の場が「パワースポット」になり得るのでしょうか。宇宙は、一者である創造主の被造物なわけですから、本来であれば、すべての場が「パワースポット」であるはずです。実際、そのような考えから、すべてのものに神性が宿るというアニミズム(animism)が生まれました。ですから、この素朴な考え方は、論理的に言っても決して間違ってはいません。アニミズムこそが、実は本当の一神教なのです。

 

問題は、良くも悪くも人間にありました。人間の想念は目に見えないエネルギー体であり、「波動の法則」によって、同種の波長(振動数)は引き付け合い、共鳴して強くなるという性質を持っています。ある場所が「パワースポット」になったのは、自然が造形した場に宿る精妙な波動に、古代の人々が「神」を感じて同調し、祈りと感謝を捧げることによって、その場のエネルギーがより増幅されていったからなのです。

 

そのようにして、清らかな波動が強まったことによって、天使や妖精がその場に降臨するようになり、そこが「パワースポット」となって行ったのです。ところが今はどうでしょう? 誰かが「ここはパワースポットだよ」とネットで紹介すると、ワッと人が集まります。その人たちは、いったい何を求めて来るのでしょうか? 古代人と同じく、自然に対する感謝の念と祈りを捧げるためでしょうか?

 

いいえ、そうではありません。誰もが、パワーと幸運を頂こうと、目を皿のようにしてやって来ては、騒音をまき散らし、帰りにはご丁寧にもゴミをポイ捨てして去って行く。こんな場所に、天使や妖精がずーっと居続けると、あなたは本当に思いますか? その「欲しい、欲しい」というエゴが、何百、何千、何万層にも積み重なって、今や名だたる「パワースポット」は、別の意味の「パワースポット」になっています。

 

ですから、波動が解る人というのは「パワースポット」にはおいそれとは近づきません。気分や体調がすぐに悪くなるし、思わぬお土産を拾って帰るはめになりかねないからです。同様に、どことは申し上げませんが、霊験あらたかと言われる宗教寺院や教会も、「欲しい、欲しい」というおねだり信仰の人々の念を集めて、汚れ切っているところがほとんどです。

 

なにゆえ、人々は有名な場所を求めて殺到するのでしょうか? なにゆえ、宗教者はその気持ちを利用して一儲けを企むのでしょうか? エゴにエゴが呼応し、エゴの「パワースポット」が、まるで雪だるまのように各地で膨らんでいます。

 

本当の「パワースポット」は、静謐な中にしか生じません。こんな経験はないでしょうか? 誰もいない静かな場に、ひとり佇んでいた時、涼やかな風らしきものがスッと通り過ぎたように感じた瞬間。それです。

 

「パワースポット」というのは、人間の念が創るのですよ。「場所」ではないのです。人間の念が創る「場」なのです。だったら、なぜ、ご自分を「パワースポット」になさらないのですか? 以前に言ったでしょう。あなたの身体は、モバイル神殿なんですよと。あなたの体が、神を祀る宮なんですよと。実に簡単なことです。よいですか、それをピカピカに磨いておれば、そこが「パワースポット」になるのですよ。

 

どこにでも持ち運べて、いつもあたなと共にある「パワースポット」。こんなに便利で、ありがたいものはないではありませんか。それだけじゃありませんよ。あなたが「パワースポット」になれば、あなたの周囲に集う人たちをも癒し、生きるパワーを与えてあげることも出来るんですよ。ですからね、もう「おねだり信仰」は金輪際やめなさい。どこかから、何かを貰おうとするのをやめなさい。

 

何度も言ったでしょう? 「愛の法則」のことを。「刈り取りの法則」のことを。自分が与えたものを自分が受け取るのです。おねだりをすれば、おねだりが返って来ます。「愛の法則」の第一歩は、与えることです。与えれば、与えられます。ですから、あなた自身が、「パワースポット」になりなさい。法に生き、愛に生き、生命を敬うことによって。完全なる奉仕の人になることによって。

 

そうすれば、あなたの住まい、あなたの職場、あなたが行くところ、すべてが光り輝く「パワースポット」になります。そのことを、ご自分を通じて証明してみせなさい。やがて、あなたに共鳴する人が顕れ、小さなグループが出来上がることでしょう。その人たちと助け合いなさい。そして、その共鳴のエネルギーを増幅して、さらに周囲に光として放つのです。

 

顔は天に向け、足は大地にしっかりと着ける。そのようにして、エネルギーを天地に循環させなさい。そうやって、太陽を仰ぎ、川のせせらぎを聴き、風を感じ、心をピュアにした時、あなたの「魂」は古代人と通い合い同じものになる。その時に生まれる場、それが真の「パワースポット」なのです。天使や妖精たちは、舞い降りる場をいつも求めていますよ。

LGBTとレインボーフラッグ

LGBTというのは、Lesbian, Gay, Bisexual, Transgender の頭文字をとった用語です。10年ほど前からこの言葉が徐々に浸透し始め、今日では、性的マイノリティの代名詞のようにして使われるようになりました。でも私は、このマイノリティという考え方は好きではありません。マイノリティなど、この世にはいないと思っています。あるのは個性だけだと思っておりますから。


さて、このLGBTのシンボルがレインボーカラーなのをご存知ですか? アピール行進の時には、たくさんの人が虹色のフラッグを掲げたり、虹色のTシャツを着ているのを見ます。なぜレインボーフラッグがLGBTのシンボルになっているかと言いますと「いろんな色があるよ」ということで、個性というものを強調しているのです。そしてこれは、「虹の学校」の理念と全く一緒なのですね。

 

ご存知のように、虹色は、白色光がプリズム効果によって波長の長短別に色分解された際に得られます。雨後の空に虹の架け橋が見られるのは、空気中の水滴内に光が入り、その反射光が波長の屈折率の違いによって虹色に姿を表すのです。「虹の学校」という名は、分解されたこの様々な色が集まることによって、元の白色光に還る、という意味合いを持っています。その「光への道」を歩む学習を、互いの個性を補い合いながら、共にここでして行こうというわけです。

 

LGBTの方たちは、これまで、何かと肩身の狭い思いを経験されて来たことと思います。けれども、「虹の学校」はみなさんを歓迎します。それは、理念が同じということもありますが、それだけではありません。今日は、「愛」のかたちの多様性ということに関して、一般にはあまり言われていない、霊的世界からの話、「魂」の世界からの話をすることにいたしましょう。

 

先ず最初に申し上げたいのは、相手を傷つけたりすることでない限り、どんな性的な愛し方も、あり方も自由だということです。あなたには、恋愛に関して、宇宙から自由意志が与えられています。ところが、この点をめぐって、最も強いタブー的視線を投げ掛けるのが、他ならぬ「神」を扱っている筈の宗教なのです。しかしそれらは、歪んだ宗教的なドグマに過ぎません。この一点を見ただけでも、宗教というものが、いかに人間を抑圧して来たかが分かります。

 

また、LGBTに関連づけて、男女が結婚しないと子どもが生まれないとか、このまま少子化が続けば国力が衰退するといったことを言う人もいるのですが、人間は、子ども製造マシンではありません。また、労働ロボットでもありません。しかもこれらの発言は、その立場にいる人たちによるご都合主義なのです。子どもが生まれないのは、希望のない社会だからですし、地球環境と、人類にとっての大問題の一つは、以前から言われて来たように人口爆発です。

 

いま上げた二つの問題視視点は、どちらもLGBTというものを表面的にしか捉えていません。しかし、奥にはもっと普遍的な課題があるのです。その課題が解れば、LGBTというものが、単に個性に過ぎないということが解ります。そして、もっと奥には、すべての人間に共通した「愛」の学習という大テーマがあるということも解って行くでしょう。

 

次に言うことは、LGBTを嫌悪する人たちにとっては、トンデモ話に聞こえるかも知れません。しかし、これが人間の本質なのです。人間とは、輪廻転生するものなのです。その人の本体は、あくまで「霊魂」にあり、肉体は、転生のたびに着替えるドレスのようなものです。このドレスは、次にどの両親を選ぶか、どういう境涯を選ぶかを含めて、中間生(霊界)にある間に、前世のカルマを考慮した上で、指導霊と相談しながら、自分で決めて誕生して来るのです。

 

ですから、その中にはジェンダー(性別)の選択も含まれています。霊的な完成とは、男性性も女性性も充分に体験し尽くした先にあるのです。そうすることによって、両方の性が解り、一つの「霊魂」のバランス、中庸が図られて行くのです。ですから、過去世の体験から、どんな男性にも女性っぽい面はありますし、どんな女性にも男性っぽい面があります。そして、今世で選んだ性別については、普通は、しぶしぶであっても受け入れて行くのです。

 

ところが、こういう場合はどうでしょう。ずーっと男、男、男で生きて来て、今度こそは女性も経験しなくちゃなと、一大決心して生まれて来たものの、いざ生まれてみると、どうもドレス(身体)の感じがしっくり来ない。あるいは、その逆パターン。こんな場合には、その人は自分のジェンダーに強い違和感を持つかも知れません。また、前世でもレズビアンやゲイだった人の中には、今世でもそれを継続したいと思う人がいるかも知れません。

 

いずれにしても、そこには過去世から引き継いだ原因があるのであり、LGBTの方たちは、そこを掘り下げて考えてみることが大切です。必ず、今世での大切な学びがあるはずです。ただしその時、今のご自分を否定なさらないでください。いろんな道があるのです。最後の最後は、どんな「霊魂」も中庸に行き着くのです。だとすれば、最初から真ん中付近を行く道があってもよいわけですね。

 

LGBTの方たちの中には、芸術面や美的センスにおいて、特異な才能を発揮される方が多くいらっしゃいます。これはなぜかと言いますと、普通の人よりも、それだけ宇宙的感覚が解るということなのです。地上的な男女別を超えているので、宇宙感覚(全部は一つ)により近いのです。だから、芸術的センスがあるのです。もしかしたら、それを伝えるのが、その人の使命なのかも知れません。

 

さて次に、人間としての普遍的な課題です。ノン気(ストレート)の人たちは、LGBTの人たちを見る際には、どうしても性愛の面ばかりに注目してしまいがちです。そして、違和感を持たれるでしょう。しかし、ノーマルと言われている人も、身体的な愛情表現のみを「愛」と言っているわけではないことに気づいていただきたいのです。つまり、その先にあるものは、LGBTの人たちもそうでない人たちも、何ら変わりがないのです。

 

「愛」にも、大きく三段階があるのです。性愛、情愛、そして真の愛です。これは、人間というものが、霊・魂・体の三層で成り立っている多次元的な存在であることから、それぞれに対応した「愛」のかたちというものがあるのです。

 

図を見てください。肉体的な愛が「性愛」、魂的な愛が「情愛」、そして霊的な愛が「(真の)愛」です。以前にも書きましたが、古代ギリシャではこれを明確に区別していて、それぞれエロス、フィリア、アガペーと名づけていました。

 

(図の補足説明:地上世界(3次元)では、人間は霊・魂・体を同時に有する多次元的存在として生きている。しかし、霊・魂を意識していない人は、体を持つ自分のみが自分だと思い込んでしまっている。けれども、魂の意識や、霊性が向上していけば、地上にあっても、その人は、霊・魂・体それぞれに応じた「愛」の認識に至れるのである。)

 

若い男女が出会って結婚したとしましょう。最初は「性愛」に大いに興味があって、この経験を重ねて行くでしょう。そのうちに子どもが生まれて家族が出来ると、今度は「情愛」がしだいに深まって行くでしょう。そしてもっと歳を取って、子どもが独立してしまうと、しだいに博愛的なものが芽生えて来て、遂には自然の何にでも愛おしさを感じるという「真の愛」の心境にまで達するでしょう。

 

もちろん、そうならない人もいます。というか、残念なことに、そうならないで一生を終わる人の方が圧倒的に多いです。だからこそ、そこに「愛」の学習が隠されているのですね。最初は、「性愛」の関係だけだったかも知れないけれども、しだいに「情愛」が芽生え、遂にはそこから「情」が取れて「愛」だけになる。「真愛」という言い方はあまりしませんが、これがさらに進むと、「真愛」が「神愛」と合体してしまうのです。これが「愛」の最終ゴールです。

 

ということで、フィリアからアガペー段階への「愛」の学習については、ストレートの人も、LGBTの人たちも、何ら変わりがないわけです。ただちょっと違うのは、最初のエロス段階だけ。霊的世界から見れば、地上でしか経験できないエロス体験も十分にした上で、さらにフィリア、アガペーへと昇華して行くことが最も重要なことなのです。何度も言うように、あの世に持って行くのは、また持って行かされるのは、その人がした経験に伴う心情と理解だけなのですから。

 

みなさん方は、学校で、アリストテレスやプラトンやピュタゴラスらの古代ギリシャの賢人たちを「哲学者」と習われたと思います。ですが、これは誤りです。彼ら賢人たちは哲学者ではなく、あの時代の「メッセンジャー」でした。賢人たちは、秘教学校を作って、「宇宙の真理」を弟子たちに教えていたのです。けれども、後の時代になって、その奥義を理解できない人たちが、「ギリシャ哲学」の名称で括ってしまったのです。

 

ですから、そこで説かれていたことは、現代に合わない、古臭い、カビの生えた理論なのではなく、時を超えた、宇宙の普遍的真理であることを知っていただきたいと思います。「性愛」を伴わない精神的な恋愛を「プラトニック・ラブ」と言っていますが、これも誤解です。「Platonic love」とは、「プラトン的愛」という意味。つまりは、エロス(体)、フィリア(魂)、アガペー(霊)へと昇華して行く「愛」のことです。これを、プラトンが正しく説いたのです。

 

さて、これまで言ったことが解れば、LGBTの方たちを指して、宗教的倫理に照らしてどうとか、人口減少がどうとかといった問題視発言を行うことが、まったくうわべしか見ていないということが解ったでしょう。誰かが誰かを裁く、などということがあってはなりません。神は誰も裁きません。全員に、等しく、自由意志が与えられているのです。その自由意志を、どう使うかはあなたしだい。

 

多様な「愛」のかたちがあることを先ず認めて、そして、ご自分の「愛」の機会を通じて、各人が各様のエロス、フィリア、アガペーを経験、学習して行けば良いのです。その先に、虹色の個性が集まって、白色光となって輝く、全き「愛」の理想世界があることを信じ、思い描いて、どの人も、今日一日を元気よく生きていただけたらなと願っています。

神は一神であって二格

このところ、ずっと一神教と二元性のことについて話をして来ました。神は一つである。これは間違いのないことです。論理的に考えても、またそうでなくても。論理的に考えれば、神は一者という帰結が矛盾のないただ一つの結論ですし、論理によらないものとしては、いついかなる時代のメッセンジャーも、「oneness」を秘教として伝え続けて来たというのがその何よりの証拠です。

 

しかし、この超シンプルな真理が、ついぞメジャーになることはありませんでした。古代の人々はこれを知っていたのですが、人間が物質主義に傾き、堕落するに連れて、この真理が忘れ去られて行きました。そして宗教までもが、権威主義、拝金主義、独善主義、排他主義の基盤に立った「我が神」の教義を振り撒くようになったのです。

 

二元性(duality)というものは、いったん理解してしまえば、「なんだそういうことだったのか」という程度のものなのですが、それを本当に、身体の細胞の隅々にまで納得させるのはかなり難しい。なぜかと言いますと、何世代にも渡る人類史の中で、誤った認識の二元論がすでに細胞の奥深くにまで浸透し、刻み込まれているからです。

 

あなたはきっと、一度ならずこう思ったことがお有りでしょう。どうして、この世に善と悪が存在しているのか? もし神がいるとしたら、この世が善だけでないのはどうしてなのか? そこに、一つの考えが忍び寄ります。神は善なのだが、悪を為そうとする別の親玉がいるのだ。それがサタンやルシファーであり、善なる神は、奴らとの戦いに勝利することをお望みだ。

 

これが一神教の二神論へのすり替えです。善と悪の戦いという図式にしたところで、その両者を統御しているものはいったい何者なのか、という疑問には答えていないのですが、その発想は人々の心情にフィットしたのです。なぜなら、社会の矛盾や人間関係を見れば、なるほど日常が戦いだし、自分自身の内部においても、善と悪との戦いが昼夜繰り広げられているからです。

 

左の図を見てください。三角形の頂点に位置するのが、宇宙の創造者です。創造神といっていいでしょう。この創造者は、万物を創造する際に、先ず二つの極性を設けたのです。これが陽と陰です。二つの極性を設ければ、その間に、配合の違いによって様々なものが生み出されることになります。さらにそれら同士の組み合わせで、もっと多様なものが生み出されて行きます。こうして万物が創造されたのです。

 

これを「三角形の法則」と言います。三角形の頂点から、陽極と陰極に別れて、末広がりに万物が創られて行きました。そこで、「ハ(末広がりに)」に「刀」で切ると、「分ける」という字になるのです。また、創造神から万物へは、バイブレーションの違いによって七段階に階層化されました。そこで「七」に「刀」が「切る」という字になっているのです。

 

二極性に分かれた原初の痕跡は、あらゆるものに見出され、二極性を持たないものはおよそ宇宙に存在しません。何しろ素粒子の世界が、プラスとマイナス、左スピンと右スピンといった具合に、全てが対で出来ているのですから。みなさんの身近においても、光と影、昼と夜、南と北、右と左、表と裏、押すと引く、男と女、等々いろいろなところで二極性を確認できるでしょう。

 

このように、万物が二元を基本にしているということは間違いありません。しかしそれは、前にも言いましたように、対立構造ではなく、補完機能なのです。つまり、互いがあるからこそ、互いを認識できるのです。これは非常に重要な点です。なぜ一者であったものが、自己の内に二極性を創造したのか? それは一者のままでは、自分を自分と認識できないからです。そこで二元が生じました。

 

図で、頂点が一神教。その最初の分岐が二元論。それよりさらに下ると、神々という多神教。底辺になると、自然のすべてに神が宿るという自然崇拝、そして全部をひっくるめて三角形を見ると、汎神論となるのです。つまり、「神」とは何かについてのこれらの違いは、一つのものの、視点の置き場所の違いに過ぎないのです。そして結論は一つです。全部が一つ、一つが全部です。

 

いま見て来たように、二元性というものは、今の宇宙が宇宙であるための、最もシンプルな初期条件だったのですが、これに人間は余計なものを付け加えました。善と悪、優と劣、強と弱、積極と消極といったように、尺度を設けて一方が一方を裁くような価値観を醸成したのです。これは、支配と被支配の構造を創りたい者にとっては、非常に好都合なツールとなりました。

 

ここで、勘のいい方はすぐにお気づきのように、支配と被支配という考え方自体が、一方が他方を裁く尺度になっています。そこで、ここから類似の尺度が次々と生じたのです。その根本原因は、これまで何度も言って来たように、根源(=神)から別れて、個我となった「魂」の中に、自由の一面である「分離」意識を発達させて、自分がよい思いをするためには他者を支配するしかない、と思い至った「魂」が出現したことによるのです。

 

こうした支配的な行動原理を持つ「魂」は、割合としてはそれほど多くはありません。けれども、狡猾で知力に長けているために、上記のような尺度に基く価値観を、子どもの時分から大衆に吹き込んで、広く信じ込ませることによって、自分たちの立場を盤石なものにしたのです。

 

しかし、上記で示したような価値観は、本来は、善悪→宇宙の法に則っているか反しているか、優劣→才能と表現の多様性、強弱→強靭と柔軟、積極と消極→活動と休息のように見るべきだったのです。

 

このように、二極性には本来、優劣というものはないのですが、腕力の強さ弱さという視点から、性別にもこの尺度を当てはめようとする考えが生じました。いわゆる男尊女卑です。これは社会的、政治的に是認されて来ただけではなく、一部の宗教では、女性に対して虐待的な倫理規範を設けたり、女性の聖職者は認めないなどとして来たのです。しかしこれらは全て、支配のための屁理屈です。

 

モーガン・フリーマンさんという俳優さんをご存知でしょうか。この方が以前、笑いながら、こんな話をしていました。「自分が、絶対やりたくないと思っていた役が一つあるんだ。そしたら、先日、そのオファーがついに来ちゃったんだよ。それは“神様”なんだ」と。

 

「神様」は、どういうわけか白い顎髭を生やしたお爺さんで表わされることが多いですよね。もちろん「神」が、このような人間の姿をしているわけはないのですが、そこに人格的なものを見出したいたいという願望が、長老のイメージを与えるんですね。キリスト教でも、「父なる神」という言い方をして、「神」に男性格を付与しています。しかしこれは間違いなのです。間違いどころか、多大な悪影響を与えて来ました。

 

「神」は男性格ではありません。これまでの話からお判りのように、宇宙の創生において、創造主は原初に二極性を持ちました。しかしそれ以前の、創造主そのものには、まだ極性がないのです。ですから、これに人格を見出した場合には、当然、極性登場後の人格を見ることになります。そして、これもまた当然ながら、男性と女性という二極性があるのです。これは他の二極性と同じく補完機能であって、そこには優劣はありません。

 

ですから、「父なる神」は間違いであり、「父でもあり、母でもある神」が正しいのです。時に父性を大いに見せ、時に母性を見せる両極性の存在が、真実の「神」です。この「気づきの啓示板」ブログでも、突如、口調が変わることがありますが、男性口調であったり、女性口調であったと変化します。以前は気になって、後で修正していたのですが、最近はそのままにしています。

 

では、男性格と女性格とではどのような違いがあり、宇宙において、どのような補完機能を構成しているのでしょうか。解りやすいのは、やはり女性格です。それは出産というものがあるからです。このことから、女性格は、新しいものを生み出す母体、大地、海、物質、そして命を育む優しさ、温かさ、愛、感情、直感、などの性質を持っています。

 

これに対して男性格は、意志、方向づけ、論理、包容、陰で全体を支える、などの性質を持っています。この男性格と女性格のバランスが上手に取られることによって、次の生命が誕生し、引き継がれていき、なおかつ、それぞれの「魂」の霊的成長というものが図られるのです。しかし、性質を誤用してしまうと、女性は感情や物質に流されやすい面が出て、男性は闘争や暴力に傾きやすくなるのです。

 

俯瞰して言うと、男性格はこうしようという聖なる「意志」、女性格は全体を連ねる「愛」を表現していると言えましょう。創世記では、エヴァはアダムの肋骨から創られたとなっています。これは、心臓のある位置、つまりハートのチャクラを抜き出して女性が創られたということなのです。また、人間は神に似せて創られたとあるように、神に男性格と女性格があるので、地上にも男性と女性がいるのです。

 

ところで、いま言ったことを、男性とはこうあるべき、女性とはこうあるべき、とは捉えないでください。あくまで二つの極性の意味を言っただけで、陽中陰、陰中陽と言って、男性の中にも女性的部分がありますし、女性の中にも男性的な部分があります。というよりも、そうやって、一人の人間の中に、二極性のバランスが取れて行くことが、人間完成に至る道なのです。

 

さて、この二極性のバランスということが、宇宙的にはあらゆる面で大切なことなのですが、今までの地球社会は、男性性というものが前面に出過ぎていたのです。それも悪い面の男性性です。しかし深いところでは、そのピークは過ぎて、すでに衰退に向かっています。けれども、社会というのは巨大なシステムですから、巨大タンカーと同じで急には方向が変わりません。そのため、今は惰性で進み続けているのです。

 

今の、悪い男性性を有した支配層も、その変化を内心で感じており、自分たちの危機意識から、これまでの体制を何とか維持しようとして、無理に無理を重ねているので、あちこちに綻びや矛盾が噴出しているのです。強権的な発言や、マスコミの言論統制や、個人の自由や権利を奪う法改正は、みな、実は危機意識から発しているのです。強さに見える、裏の弱さです。

 

あくまで一般論ですが、男性というのは、どうしても「枠組み」発想から逃れられません。自分では気づいていないのですが、無意識に「枠組み」発想をしてしまうのです。男性は、先ず、自分の所属や立ち位置を決めてからでないと、意見を述べるということが出来ません。一般に、女性は短慮で、男性は思慮深いと言われていますが、男性は「枠組み」を考えているので、そのように見えるのです。

 

自分の立場でこれを言ってもよいだろうか? 言ったことで影響はどうなるのだろう? あの人を敵に回してしまわないだろうか? 自分のポジションがこれで危うくならないだろうか? 等々、いろんなことを考える。それが「思慮深い」ように見えるのです。男性が、名刺の肩書に拘るのも同じ理由。権力者は、そういう男性の操り方を知っていて、地位や名誉をチラつかせては、自分の陣営に引き込むのです。

 

しかし、いったん「枠組み」を得て、そのポジションに満足しますと、今度はそれを失うのが恐怖に思えてきます。自分のアイデンティティを「枠組み」に代表させてしまうので、それが無くなることは、自己の存在理由の崩壊にまで繋がってしまうのです。その行き着いた先が自殺。そこで、そうならないように、保身のためには嘘だって何だって、平気でやってしまうのです。

 

これを聞いても、女性の大半は、おそらくピンと来ないでしょう。そういう感覚が、ワケが解らないことでしょう。バッカじゃなかろうか、と思うかも知れません。そうなのです。実際、こんなバカみたいな発想で、男性社会が動いている、いや動いていたのです。男尊女卑という「枠組み」を作ったのも、男性が、このバカみたいな幼児性を糊塗するためであったに違いありません。

 

さてそこで、これからの、女性格が持つ役割です。これまでの、男性格による政治、男性格による経済、男性格による外交、男性格による報道、男性格による教育、男性格による雇用、男性格による医療、こういったシステムが、すべて限界にぶち当たっていて、最早うまく機能していません。今は惰性で動いているので、継続しているように見えますが、実際には崩壊に向かっています。

 

*女性格:女性格の性質という意味で、「女性が」という意味ではありません。

 

それは、少数者による人類支配というカルマが、溜まりに溜まって、いよいよ清算の時を迎えているのです。支配層は、支配の継続と完遂を狙っていますから、これから、大衆の家畜化、奴隷化の勢いをさらに強めて行こうとしています。しかし、この試みは成功しません。なぜかと言えば、宇宙の法則に反しているからです。たとえ一時的に成功したかに見えても、人類全体で作ったカルマは、いずれ必ず刈り取りの時を迎えます。

 

そこでみなさんにお願いしたいのは、先ず、今の社会の動きを見るときに、(悪い面の)男性格が衰退して行っている状況を、きちんと見抜いて欲しいのです。うわべの瑣末な動きには惑わされないようにしましょう。そうすれば、今の社会の変化というものが、とてもよく解ります。

 

ここで気をつけなければならないのは、駄々っ子の利かん坊が、自棄のやんぱちを起さないようにすることです。追い詰めてはいけません。彼らの霊性はまだ幼稚園児なのです。幼児性に付き合って、暴発させてしまってはダメです。では、どうすればいいのか。それこそ、女性格の「愛」で包み込み、溶かしてしまうのです。

 

これまでの人類社会は、「愛」が足りなさ過ぎました。男性格の悪い面ばかりが突出し、女性格を抑え付けて、表に出ないようにさせて来ました。このような歴史は、もう終わらせましょう。

 

『虹の学校』に縁が生じる方の95パーセントは女性です。これは「直感」が働くからで、女性は、今の時代の風を、追い風としてキャッチしているのです。しかし、男性は逆です。多くの男性が、可哀想にも、奴隷化、家畜化のシステムに組み込まれ、でもそのことに気づかずに、ますます酷くなる仕事環境、生活状況に疲弊し、本来の機能(聖なる「意志」)を発揮できなくなっています。

 

この状況を改め、バランス化して行くには、女性格の「愛」を前面に押し出して行くしかありません。女性の社会進出と言っても、男性に伍して闘っていてはダメです。それでは今までと変わりがありません。

 

そうではなくて、女性格による政治、女性格による経済、女性格による外交、女性格による報道、女性格による教育、女性格による雇用、女性格による医療に、社会システムそのものを変えて行かなければ、地球人類の次の進歩はありません。

 

みなさんは、全員が、父なる神、母なる神の、共通の子なのです。そこに例外はありません。みなさん一人ひとりが、みな違う個性を持っているのは、そこから互いに学び合うためです。違っているからこそ、「愛」の学習になるのです。でも、全員が、兄弟、姉妹であることは、忘れないでください。宇宙はワンワールドです。限りない多様性を許容し、包含するワンワールドなのです。

 

ですから地球も、「支配」によるワンワールドではなく、「愛」によるワンワールドを目指してください。それを実現させて行くことが、人類に課せられた次の課題です。今は過渡期にありますので、もうしばらくは混乱が続くでしょうが、どんな状況になっても、希望を持って、「愛」によるワンワールドの実現に貢献して行って欲しいと思います。

 

それが、これを読んでくださっている、あなたに与えられた課題でもありますから。

「光」と「闇」の関係

日本では、小嘘つきであれば、国会議員や省庁の役人が務まります。その人に、もし大嘘つきの資質があれば、大臣や役所のトップにまで出世できる。でも総理大臣となると、これではまだ足りない。総理になるためには、“異次元” の嘘つきでなければなりません。小学生でも判るような嘘を「一点の曇りもない」と、なおも言い切るド根性と才能は大したもの。誠に余人をもって替えがたし。

 

本年度(平成30年4月)から、小学校で「特別の教科 道徳」というものがスタートしたそうです。その小学校で先ず教えるのは、公正、公平、社会正義だと言うのですから、いやはや。自分が教師だったとしたら、子どもたちにどう話せばいいのかな? 公正、公平、社会正義なんてぇものは絵に描いた餅なんだよと言えばいいのか、裏をかいた方が(徳じゃなくて)得だよと言えばいいのか?

 

「道」も「徳」も、共に人間完成を目指すうえでは大切なことです。でもそれは教えられない。本人が、自分の内に見出すしかないのです。我々に出来ることは、そのきっかけを与えてあげることだけ。もし「教え」ようとしたら、(誰かが発案した)特定の価値観を押し付けることになってしまいます。そんなものは不要、どころか有害ですらある。今の政治に、全く道徳心がないのを見れば、それは明らかではありませんか。

 

道徳教育の必要性を叫ぶ、この上なく不道徳な人たち。愛国心の必要性を叫び、隣人愛は持たない人たち。彼らにとっては、それが公正であり、公平であり、社会正義なのです。人は、その時、自分が理解できる以上のものを受け取ったり、また表出したりすることは出来ません。ですから(「正しい」という仮面をつけた)倫理、道徳、正義の押し付けは、極めて危険なのです。

 

すべては「道」です。終点に至るまでの途中なのです。人と接する時には(それが幼い子であっても)、常に、自分は未だ「道」半ばとの自覚を持って接しなければなりません。誰かが誰かに教えたり、誰かが誰かから教わったりという一方通行はないのです。必ず、互いに学びがある。そして、学ぶのはあなた自身。そこに積極的な価値を見出して、自分を統御していくことが大切です。

 

不正は、当然ながら褒められたものではありません。しかし、今のようにあからさまに出てきていることには、やはり意味があります。よく、政治家の「劣化」とか、官僚の「劣化」ということが言われているのですが、それは「昔はよかった」というノスタルジー的願望から出て来ているもので、昔も今も大して変わりがありません。韓国宮廷ドラマを観れば、よく解るのじゃありませんか?

 

それは「劣化」ではなく、今までなら隠されて来たことに光が当たって、よく見えるようになったというだけのことです。そのことで、みなさんは学習の機会を与えられているのです。「権力者というのは、なんだ、こういう人たちだったのか」に始まり、「権力構造というものは、なんと歪(いびつ)なんだろう」、そして「社会にとって、どういう統治機構が理想なのだろうか」まで。

 

そこまで、一気に来ているのです。選挙制度がどうとか、最高権力者の首をすげ替えたらどうとか、そんなことは今までの延長上の話です。確かに、当面はそういうことでしか進まないのかも知れません。しかし大河の流れは、奥底でもっと大きな変化を示しているのです。そこに気づくというか、そのことを感じながら、今の世の中の動きを見て、自分の中に受け止めていくことが大切です。

 

ニュースは日々、あれがこうなった、今度はこうなりそうだと語ります。でも、大河に浮かぶ木の葉が、右に振れた左に触れた、いや今度はひっくり返ったと言っても、要するに、最後はみんな大河に押し流されていってしまうのです。ですから、長い長い目で見てください。視点を離して、宇宙にまで上げて、大局的に地上を見てください。人々が、一喜一憂しながら蠢く様を見てください。

 

権力者が、なにゆえに必要以上の金を欲するのか。権力者が、なにゆえに「敵」と見なした者を憎むのか。権力者が、なにゆえに一般の民衆を蔑むのか。権力者が、なにゆえに保身のために嘘をつくのか。権力者が、なにゆえに暴力装置のナタを振り回すのか。それは、彼らがいま信じている「正義」の表現なのです。そして、その信念のスケールの最右端に彼らが位置しているからなのです。

 

*信念のスケール:人間はみなバラバラで、そこには優劣があるという「分離」の意識

 

このことを、みなさんは他山の石としてください。それらの「魂」は、未だ身体に埋没したままで、肉の欲望、肉の論理を一生懸命に経験・学習している段階なのです。この世は、そして今の地球は、未だ肉の欲望と論理が支配する世界です。そうした世界にあっては、彼らは優秀者でありエリートなのです。しかし残念ながら、まだ初歩の気づきにも至らない。そして勿論、「カルマの法則」も知りません。

 

みなさんから見れば、私利私慾に狂った、なんという浅ましい人間たちかと思うでしょう? でもその裏側は、不安でいっぱいなのですよ。自分の内に「信=真=神」がないのです。ですから、際限なくお金に頼り、特定の「信念」に盲従し、他者を蔑んだり攻撃したりすることによって、辛うじて自分のアイデンティティを確保しようとするのです。「分離」意識から来る表現の最たるものは、蔑み、憎しみ、そして暴力。霊的にみれば、彼らはまだまだ幼稚園児なのです。

 

しかしそんな彼らとて、いったん目覚めが始まれば、自らの不徳を恥じ、弱き者への憐憫と、悪は許さないぞ、不正は許さないぞ、との気持ちが自然と沸き起こって来るのです。さて、そこでです。大河の流れは、もうその段階にはないのです。実にここが肝心なところですぞ、みなさん。なぜ今、長きに渡ってこれまで隠されて来た悪事が、世界中で、表に曝け出されるようになって来ているのか?

 

それは、隠れていた悪を叩け、やっつけろ、ということではないのです。そう主張している人たちもいますが、それをやったら元の木阿弥。今までと少しも変わらない。そうじゃないのです。これは人類に突きつけられたチャンスなのですぞ。彼らのことは放っておきなさい。あなた方が従わなければそれでいいこと。見抜く眼を養えばそれでいいこと。彼らにはちゃんと「カルマの法則」が適用されます。

 

第三次世界大戦の勃発を心配している方がおられますが、どんなに法律を変えようが、道徳教科書で愛国思想を植え付けようが、軍備を増強しようが、マスコミを使って危機を煽ろうが、従わなければいいだけのこと。無視すればいいだけのこと。いま言ったことを、しっかりと心に刻み込んで、民衆の意識がジャンプしてしまえば、もう戦前のような逆戻りは不可能なのです。よって大惨事(洒落だがね)はない!

 

権力者の手口は、もう充分に学んだのではないかな? そう同じ手に何度も引っ掛かっていては、学習効果というものが見られないねぇ。よいかね、敵なんてものはいないんだよ。恐怖なんてものはないんだよ。そんなものは全部、権力者が、他の人々を支配したい者が、未だ「分離」意識の虜になっている未熟な段階の「魂」が、考え出したことなんだよ。それは、壮大なる人類の洗脳システムなのだよ。

 

どうして、すべてを創造した「神」が、自分の内側に敵と味方を創る必要があるのかい? どうして、すべてを見通している「神」が、自分の中に恐怖を創って自分に味わわせる必要があるのかい? 自分で落とし穴を作って、自分で落ちて「あ、びっくり!」とでも言うのかい? そんなことは、少し考えれば解りそうなものじゃないかね。だから、目覚めるのだよ。彼らが存在するわけを、彼らから学ぶべきことは何かを、知りなさい。

 

いいかい、なぜ「闇」があると思う? 「闇」があるから「光」が「光」だと分かるのだよ。朝まだき、まだ暗い東の山の稜線がうっすらとオレンジ色に染まり、やがてそこから強い「光」を放つ太陽が昇って行く。「光」は「闇」から出るのだよ。「光」があるから「影」があり、「影」あるところ必ず「光」がある。両者は、敵対関係ではなく、補完関係にあるのだよ。

 

ここを間違ってはいけない。「悪」を叩いても「闇」は消えない。「悪」を叩くことは「善」ではなく、「悪」の上塗り、「悪」の応酬でしかない。ここを、人類は、今まで間違って来たのだよ。特に、一神教の名を借りた、善悪二元論に立つ宗教が、その強固な信念を、人々に植え付けて来てしまったのだよ。さあ、でももう目覚める時だ。大河は、もうそっちへ動いているよ。

 

悪事を働く者はいます。不正を働く者はいます。「闇」を正義だと誤解している者もいます。しかし、それらはすべて「神」の手の内にあるのです。悪事を働く者は、創造のふりをして破壊を行なっています。けれども、霊的世界はもっと深甚で、破壊をすることで実は創造を行なっているのです。インドでは、この役割をする神をシヴァ神と名づけました。

 

新しい家を建てるには、古い家を壊さなければなりません。破壊と創造はOneセットなのです。「闇」と「光」は、いつでもOneセットなのです。大切なのはこのバランス。そこで釈迦は、中庸、中道を説きました。中庸、中道と言うと、どっちつかずの妥協点のように思われるかも知れませんが、そうではありません。要は、陰陽のバランスをいいように取りなさいということです。

 

今はまだ、無明の(つまり未だ「光」を知らない)段階にある「魂」たちが、悪事を通じて破壊活動を行っています。けれども、人類がもっと進歩すれば、悪事を行うことなく、この破壊と創造のバランスを上手にコントロールしていけるようになるのです。誰もが中庸、中道を生きるようになるのです。いま悪事が噴出しているように見えるのは、この変化の大潮流が、すでに地球上で起こっていることを示しています。

 

そこで、あなた方にお願いしたいのは、悪事の裏側にあるこの本質に、今こそ気づいていただきたいということです。このチャンスに、一気にジャンプして欲しいのです。アセンションして欲しいのです。悪を叩いても、悪は決して無くなりません。悪を退治する唯一の方法は、そこに「光」を当てること。その貢献によって、長きに渡った人類のカルマを、今度こそ断ち切って欲しいのです。

 

これは、あなたの中に巣食う悪についても言えること。自分の中に「光」を当てて追い出すのです。

 

静寂の中に身を置き、全身が「光」に包まれる様子をイメージしてください。細胞の一つひとつにまで、じんわりと染み入るように。そして、大河の流れに逆らわぬよう、この流れに乗りなさい。流れを味方に付けなさい。乗って、あなたの白光を強めなさい。あなたがする心遣いや親切は、どんなものでもこの流れに貢献することになります。

 

なぜ「闇」があるのか。「闇」があるからこそ「光」が「光」だと分かるのです。今、みなさんが「闇」から学ぶべきことは、それです。ああ、「光」があることの有難さ、「光」のこの上ない暖かさ、そして「光」の全き愛。あなたも、全身「光」の人になってください。そして、この転換期にある地球を、あなたの「光」で照らしてください。それでバランスが実現され、人類が乗り切れるのですから。

一神教は何を誤って教えて来たのか

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、中東を同じ起源とする一神教です。これに仏教を加えて、世界四大宗教と言われたりすることがありますが、仏教だけは、「神」を〈理解の範疇を超えたもの〉として、あえて定義づけを行っていません。三つの一神教の中では、ユダヤ教徒は僅か0.2パーセントに過ぎないのですが、金融を中心に、政治や医療や放送事業等で全世界に隠然たる勢力を持ち、存在感を示しています。

 

*ヒンドゥー教は信者数は多いのですが、地域が限定されているということから、世界宗教にはふつう分類されていません。

 

一神教は、日本人には馴染みがないだけではなく、考え方や感覚そのものがよく解りません。一神教の世界観と、日本人が持つ宗教観の間には大きな隔りがあって、ここに橋を架けるのはかなり難しそうです。ところが、世界情勢というものは、大部分が一神教世界を中心に動いているのです。ですから、世界情勢を読み解く時には、日本人はこのギャップと、背景にある宗教観、自然観の違いをよく知った上でニュース等を見る必要があります。

 

宇宙をつかさどるものは一つである。このことを、これまで何度も語って来ました。このブログの目的も、究極的にはこの一言を伝えたいだけだと言ってもいいのです。宇宙がどうして出来たのか? ビッグバン説が唱えるように、ある日突然、無から宇宙が生じたというのだろうか? しかし、時間も空間も無い「無」状態から、ある日(=時間)、宇宙が生じた(=空間)というのは、定義自体が矛盾です。「無」は無なのですから、何ものも生み出す元もないはずです。

 

私たちの生活を見回しますと、インフラや、家や、生活道具の中には、それらが作られる前に、「こうしよう」という意思なしに作られたものは一つもありません。でもよく見ると、そうじゃないものがありますよね。そうです、ただ、自然、生命、宇宙を除いては。そこで、類推してこう考えるのです。そこにも、きっと「何もの」かの意思があったのであろう、そして今もきっとあるはずだと。

 

その証拠に、自然、生命、宇宙には、この上なく秩序だった法則性が見られるのです。これは驚異です。私たちが見ている、経験している、自然、生命、宇宙が、ある「法則」によって成り立っているらしいことは疑いようがありません。そこで、その法則性を、ある者は「言葉」として、ある者は「数学」として、ある者は「音楽」として紡ぎ出すことが出来るのです。

 

*らしい:法則性に疑いがあるという意味ではなく、法則の肝心な点をまだ人間は殆ど知らない

 

そこで、こういう結論が導き出されます。自然、生命、宇宙(以下、総じて「宇宙」と言う)は、たぶん「何もの」かの意思によって創られたのであろう。では「何もの」とは何なのか? 「それ」が何かは分からないが、「宇宙」と同一、もしくは殆ど同じものであるはずだ。なぜなら、創造主と被創造物が別ものだとしたら、創造主を創ったのものは何かというパラドックスが生じるから。

 

*殆ど同じ:創造する意思と、創造されたものとは、厳密には同じではないという考えもある

 

結局、創造主は自らを創ったのであり、その起源については不明である。よって、始まりもなく終わりもなく、永遠なのだろう。これが、推論の結果、導き出される「宇宙」に対する見解です。この見解に、異論があったり、違和感を持たれる方も当然おられるでしょう。しかしこの先は、議論をしても始まりません。この結論を受け入れるか、受け入れないかというだけです。(仏教は、それゆえ、そこに手をつけなかったのです。)

 

さてこのようにして、「宇宙」を支配しているものは一つである、という考えに帰結します。しかしこの結論は、今、推論によって導き出されたというだけではなく、実は太古の時代から、メッセンジャーたちによって変わらずに伝えられて来たことなのです。ところが、スピリチュアリズムの中ではついぞ主流にはなりませんでした。いつの時代でも、ごく少数の人しか、これを保持しませんでした。しかも弾圧さえ受けて来たのです。なぜでしょうか? 

 

宇宙は一つ。全部が一つであり、一つが全部である。この考え方を、一言で「ワンネス(oneness)」と言います。そして、そこから立ち顕れる法則を「The law of one(一者の法)」と言っています。このブログで、「真理」とか「宇宙の法則」と呼んでいるものは、同じことを差しています。しかし「一者」と言うと、擬人化して捉えられてしまうので、なるべく使わないようにしています。

 

英語の「one」には、一つという意味の他に、「これ」とか「それ」という意味もあります。こちらの方がよくニュアンスを表していると思うのですが、もっと端的に、「それ」を「神」と名づけるとすると、「神」は一つということになり、ここに一神教の基盤が整います。ですから、そのような意味においては、一神教は決して間違いではないのです。

 

それなのに、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の別がある。「一者」を奉じているのに一つにはならない。そして互いに非難し合っている。これはとてもおかしなことです。実際、驚くなかれ、3つの宗教が奉じている「神」は、名前は違いますが同じものなのです。では何が違うのかと言いますと、天国の概念や、救済に対する概念、何が罪であり、守るべきものは何か、といったものが違うのです。つまりは運用法です。

 

「oneness」に付随した解釈やルールが大いに異なり、こちらを守ることの方が「oneness」よりも、ずっと大きくなってしまったのです。それどころか、一神教とは言っておりますが、実際には「oneness」を殆ど考慮していないと言ってもよいでしょう。「oneness」の真髄は「愛」です。ところが、「神は一つ」という意味が、「神」の独占に転化され、自分たち以外は邪宗・邪教という意味に使われているのです。

 

なぜ、このようになってしまったかを考えますと、やはり組織宗教の問題点に突き当たらざるを得ません。組織を立てるには独自性が必要となり、そこで独自の解釈やルールが生まれる。次にはこれを維持し発展させるために、階層や儀式や戒律の徹底が図られる。そして、巨大化した組織同士が隣接するようになると、自分たち以外を非難することによって求心性を強め、かつ価値を誇る。

 

このプロセスが、宗教組織を運営する側にとっても、信者にとっても、共に都合よく機能してしまうのです。それが何かと言いますと、無智にしてしまうということです。ですが、信者はそうは思っていません。教義を学ぶことで、自分は賢くなっていると思っているのです。ところが、実態には教義を鵜呑みにしているだけであり、「自分で考える」力を放擲してしまっているのです。

 

一神教を誤って伝えた場合の恐ろしいところはそこです。ですから、聖戦だって、爆弾テロだって、人殺しだって、何だって出来る。一神教は偶像崇拝を認めません。それで「像」に彫った美術品を躊躇なく破壊してしまうのですが、彼らだってシンボルは使うのです。彫刻もシンボルの一つだということに思い至る考えもなく、ただ偶像崇拝ということで破壊してしまうのです。

 

今ある一神教は、「一神」と名乗ってはいますが、実質はみんな「二元教」です。善と悪、罪と罰、天使と悪魔の二元対立を教義に立てて、互いに、自分たちは善の側だと主張するのです。ですから、悪を叩くことは善であり、神の祝福が得られることだと思い込み、喜んで「神」の名の下に戦争を繰り広げていく。こうした考えに取り憑かれた狂信者たちが、今もって世界中に充満しているのです。

 

*悪を叩くことは善:911直後のジョージ・ブッシュの演説を思い出してください

 

そして、もう一つの大きな誤り、というかスリ替えは、「神」を人間の外側に置いてしまったことです。これによって、「神」は崇拝の対象となり、それを納める神殿が作られ、救済や契約(信仰しますので、見返りに救ってください)の概念が生まれました。しかし「oneness」からすれば、それはとてもとてもおかしなことです。自分も宇宙の一員なのですから、当然、私は「神」の一部なのです。「神」と私とは一つなのです。別ではありません。

 

この真実が、一神教では伝えられませんでした。キリスト教ではイエスのみが神の子であるとしました。しかし全員が神の子なのです。「神」は、最初からあなたの中にいると言ってもいいし、あなたが「神」だと言ってもよいのです。ですから、「救い」は必要なく、最初から全員が救われているのです。しかし、これを言ってしまったら、組織宗教にはなりません。そこで、今日あるような教義が考え出されました。

 

「救済」概念を信じ込ませるために「輪廻転生」は否定されました。生まれ変わりを認めたのでは、「救済」の意義が無くなってしまいますから。また人間はみな不安と恐れを抱えているので、「最初から救われているんだよ」と言ったところで、大抵の人にとっては意味が解りません。それよりは、「神」を外側に置いておき「悪いのは悪魔のせいだよ」「熱心に信仰すれば救われるよ」「信仰しない者は地獄行きだよ」という方が、人々の心情にフィットしたのです。

 

この刷り込みが、何世代にも渡って続けれられ、また「輪廻転生」の度に同じ一神教に縁を得たりして、今に至る強固な基盤を構築したのです。よしんば、それが正しい教義だったとして、見よ! この謀略と、破壊と、殺戮に明け暮れた今日の世界を。家も家族も財産も失い、貧困と苦悩に喘ぐ人々の姿を。それらの大部分は、一神教がもたらしたものではないのか。

 

また彼らの中には、多神教や自然崇拝を、未開で劣ったものとして小馬鹿にする傾向があります。そりゃそうでしょう。荘厳な礼拝堂を持ち、豪華絢爛な衣装で身を包んだ聖職者を前に、祈りや歌を捧げて来た者たちからすれば、山を拝んだり、立木に縄を張ったり、神様があっちこっちにいっぱいいるなんて思い込んでいる人たちは、まだ目覚めない未開人のように映るでしょう。

 

実際それで、世界中にいた素朴な人たちが、一神教の布教過程によって、もの凄い人数が虐殺されて来ました。「oneness」の真の信奉者が隠れざるを得なかったのも、そのような理由があるためです。一神教の組織宗教からすれば、「oneness」を説く者は、全くの異端であり、危険人物でした。なぜなら、組織宗教は必要ないということが、そこで明らかにされてしまうからです。

 

しかし、世界情勢が今のようになって、ニュースなどでは宗教対立を煽り立てるようなものばかりが目立ちますが、実際には、今までの「一神教」のあり方に疑問を呈する人々が増えているのです。そこで、日本人の役割です。多神教や自然崇拝を「oneness」の観点から語って頂きたいのです。それらが、まさに「oneness」の考えから滲み出ていることを、堂々と説明して欲しいのです。

 

△形を思い描いてください。底辺が今のこの全世界、全宇宙。そして頂点が「創造神」です。八百萬(やおよろず)に「神々」が宿ると言うことは、また自然そのものが「神」であると敬うことは、これぞ真の「一神教」なのですぞ。両者は、視点の位置が違うだけなのです。そこには、善も悪も、罪も罰もなく、全部が一つということしかない。だから、我々は自然を敬うんだ、自然と共に生きるんだと、堂々と宣言してください。

 

西洋には、自然は征服して当然という考えがあります。「humanism(人間主義)」は、一見すばらしいことのように思えますが、無条件の人間讃歌の裏には、人間は自分たちのために自然を利用し尽くしてもいいんだという考えが含まれているのです。しかし、冷静に考えれば、環境というのは自分たちを生かしてくれている場です。それを破壊してしまったら、人間は生きていけません。

 

日本は、明治維新以降、欧米列強に追い着け追い越せとばかりに、西洋的価値観をまるで憧れるようにして取り入れて来ました。そして第二次世界大戦後は、アメリカと同盟関係を結んで、西側の資本主義陣営の考え方や行動原理に無条件に歩調を合わせて来ました。しかしそれももう限界です。これまでと同じ感覚でいたのでは、大きく変化する世界情勢に着いて行くことは出来ません。

 

すでに、経済的にも文化的にも世界から取り残されて来ましたし、尊敬も失っています。ここで、経済協力がどうとか、軍事的にどうとかという問題ももちろんあるでしょうが、それらの底辺には、日本人がほとんど意識していない宗教の問題があることに気づいていただきたいのです。世界情勢の裏側には、今なお一神教同士の対立の問題があるのです。

 

一神教というのは、国家や民族を超えた、それよりも優先する概念なのです。ですから、一神教の信者は、移民してもその宗教を携えて移民し、これを手放すことはありません。ところが日本人は違うのです。日系移民は現地の宗教にあっさり宗旨変えしてしまいます。あるいは、外観は日本建築で中はキリスト教神殿といった折衷教会を作って取り込んでしまうのです。これは日本人の良さですが、世界常識はそうではないということです。

 

宗教と宗教が和を結んで一つになることは、不可能ではないでしょうが困難です。なぜかと言いますと、それは教義を変えるということになり、その宗教の存在理由が根底から崩れてしまうからです。「東方の星教団」を率いたクリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti, 1895 - 1986)は、組織の不必要に気づいてから、自分の教団を解散してしまったのですが、そのような勇気を持った人がどれだけいるでしょうか。

 

そのようなわけで、命令一下、組織を変えることは難しく、一人ひとりの意識の転換が図られていく以外には道はなさそうです。その時に、自然と共に生きて来た、また生きようとする(かつての)日本人の姿が、これからの人類の生き方として、欧米人にもアジアの人々にも説得力を持つと思うのです。そして、それこそが、世界中から尊敬を集める道となって行くことでしょう。

 

そのために、気づいた人から、自然と共に生きる素朴な生き方を、できるだけ実践していただければなと思います。

光への道に、早道はあっても近道はない

「光への道」とは、人が、霊的完成へと至る道のことです。霊的完成が解りにくければ、人間完成への道と言い換えてもよいでしょう。人間、誰もが霊的存在なのですから、結局は同じことです。人は、それを意識するしないに関わらず、すべての「魂」が「光への道」を歩んでいるのです。

 

「光」は、「魂」が目指す最終ゴール。人は、何度も輪廻転生を繰り返しては、ちょっとずつ成長し、そこを目指すのです。「解脱」とか「覚り」というのは、その過程で通過する一つの段階。ニルヴァーナ(涅槃)は、そこに至った際に味わう感覚世界です。そして、ここに至るプロセスを強調したものが、老子が説くところの「Tao(道)」です。

 

このように、宗教は、どれもが基本的には「光への道」を案内しようとするものだったのです。けれども、組織化する中で、しだいに人間のエゴが膨らみ、全体像を見失う中で一部分だけをとらえた教義に固執し、ついには我のみが正しいという、歪んだ主張を互いにするようになって行ったのです。

 

あなた方の社会は、古い寓話や古い教えを過大評価する傾向があります。これだけの長期間、言い伝えられて来たのだから、きっと意味があるのだろうと思うのです。しかし、古さと真理とはイコールではありません。霊的世界には時間がありません。無時間かつ永遠です。ですから、どの時代にあっても真理への扉は開かれています。そしてそれは、不変かつ不偏かつ普遍なのです。

 

考えてみてください。いついかなる時代にあっても、どんな肌の色であっても、どんな民族でも、どんな言語でも、またそれを信じようが信じまいが、変わらず通用する法則こそが、「真理」の筈ではありませんか? 我が教えだけが正しくて、他はみんな邪宗、邪教。我が教えを信じる者だけが救われて、不信心者はみな地獄行き。そんなものが「真理」である筈がないではありませんか。

 

なぜ「光」なのかと言いますと、目指す先にあるものを、「光」として知覚するからです。しかしこれは、眼で見る「光」とは違います。こういった経験がありませんか? 眼を閉じていたのに瞬間的に眩い「光」が見えた。眠っている時に夢で「光」を見た。これらはみな、眼球という感覚器を経ずに知覚した「光」です。このように、五感を超えた感覚器(第六感)が、“あるもの” を「光」として感じるのです。

 

この “あるもの” は、中心太陽とか、Essenceとか、根源などと呼ばれています。しかし、みなさんに馴染みの言葉を使えば、それは「神」です。「神」を光として感じるのです。個々の「魂」は、「神」から別れて、地上世界を含む様々な旅を経験し、最後の最後にはまた「神」の許へと帰ります。こうして「魂」は「光」と合体し、それ自身が「光」となるのです。

 

*アマテラス(天照大神)というのは、その意味

 

さて、この「光への道」が、人生の本質だと解る(それも頭で解るのはなく、心身の隅々まで浸透し、完全に一体となってしまう境地に至る)までにはたいへんな時間が掛かります。しかも、そこに至るまでには、二つの大きなハードルを乗り越えなくてはならないのです。最初のハードルが「低級我の放棄」、そして二つめのハードルが「カルマの受容」です。

 

「低級我」というのは、いわゆるエゴのことで、地位や名声や金品を欲する気持ち、また他者を支配したり傷つけたり馬鹿にしたりする気持ちを起こす我(われ)です。これは、根源から離れて、「魂」が個別化した際に獲得した、意思と行動の自由を、先ずそのように使い出したということであり、霊性の発達段階では未だ幼稚園児の段階にあります。

 

しかし、あなた方の社会は、このエゴをベースに動いており、ほとんどあらゆるシーンにおいて、エゴを刺激し、揺り動かし、これを集めることに、実に多くの人たちが心血を注いでいます。そして、政治の世界でも、経済の世界でも、より強いエゴを発揮する人が、各分野の頂点に立つような仕組みを創り出し、これを肯定して憚りません。

 

人間は、本来的に悪人というわけではなく、すべての「魂」の奥には、例外なく「根源」の意識を宿しています。けれども、一握りの極めて強いエゴを持つ人々が、政治、経済、金融、マスコミ、教育、医療などの各分野の頂点に君臨し、世の中を支配しているので、一般の人々はその価値観の中に否応なく巻き込まれて、自分を見失っているのです。

 

視点を宇宙に移して地球を眺めれば、それは、人類の奴隷化、家畜化への道に他ならないのですが、支配者の巧妙な策によって、その企みに気づくことなく、人々は自ら進んで奴隷化、家畜化への道を歩んでいるのです。そして、その状況にどうにも耐えられなくなった「魂」たちが、いわゆる心の病に罹ったり、自暴自棄になったり、自殺したりしているのです。

 

これは「地球のカルマ」と言ってよく、このために、あなた方地球人は、一面では進化しながらも、それを霊性の向上に振り向けることが出来ず、同じ過ちを何度も何度も繰り返しているのです。しかし、今度という今度こそは正念場です。今の世の中がメチャクチャに見えるのは、隠されていた闇、見過ごされて来た矛盾が光に照らされ、吹き出しているからに他なりません。

 

あなた方は、この全体の構造をしっかりと把握しなくてはいけません。どんなことにも原因があります。いま起きていることの、目の前の些事にばかり囚われてはなりません。そんなものは所詮うたかた。消えていく泡沫。それらは、支配者のめくらましです。視点を宇宙に置きなさい。宇宙から地球を眺めてみれば、事の裏の、裏の裏の、その奥の、そのまた奥の因が解るから。

 

何度も言ったでしょう。自ら進んで騙される人がいるから、騙す人が君臨できるのです。どうして、そんな人間を信奉するのでしょう? どうして、わざわざ低い霊性に近づき、自分の中に在る「根源」を欺くのでしょう? われわれには理解できません。なぜ、自分を信頼しないのですか? なぜ、自分の内なる「神」の声に耳を傾けようとはしないのですか?

 

「地球のカルマ」に振り回され続けるのは、もういいかげんに止める時です。そのためには、先ず気づいた人から、このレールを降りるのです。視点を宇宙に上げなさい。不安と混乱の中で、われを忘れて、ちょこまかと忙しく動き回っている人々の姿が見えませんか? 地球人というのは、なんと馬鹿げたシステムを創り出し、その中で右往左往していることでしょう?

 

この「地球のカルマ」というのは、個々人のカルマや、土地々々に染み付いたカルマの集合体なのです。ですから、レールから降りる人が増えれば(つまり、霊的次元にまで遡るこの因果の構造に気がつき、素朴な生き方に回帰する人が増えれば)、「地球のカルマ」も変わるのです。そこに希望を見出してください。

 

「カルマ」というものは、宇宙の法則ですから、誰もそれから逃れることは出来ません。しかし、恐れる必要はありません。自分が蒔いた種は自分が刈る。ただそれだけのことです。善い種を蒔けば、善い実りを得て、悪い種を蒔けば、それ相応の償いをすることになる。このことで、宇宙を支配している因果の法則が解り、霊的成長の機会となるのです。

 

みなさんが誤解している言葉に「浄化」というものがあります。「浄化」とは「カルマ」を受けることなのです。払うことではありません。受けることで「浄化」するのです。ですから、よくカルマを取ってあげるとか、払い清めてあげるとか、守護霊を授けてあげるとか、チャクラを開いてあげるといったことを言う人がいるのですが、そんな芸当は誰にも出来ません。

 

すべては、自分が体験することによってのみ、掴んでいくのです。だってそうでしょう。自分が体験しなければ、自分の学びにならないじゃないですか。けれども、多くの人がそれを避けようとする。悪事を働いても言い逃れをしたり、カルマを誰かに取って貰おうとしたり、ありがたい何かを授けて貰おうとしたり、いつも近道を行こうとする。

 

でもね、はっきり申し上げて、「光への道」に近道などありません。自分が蒔いた種は、自分が刈り取って進む以外にないのです。それが「神」の愛というものです。全き公平なる愛です。この意味が解りますか? 宇宙にえこひいきはないんですよ。授けて貰わなくたって、守護霊はちゃんと最初から全員についています。その守護霊さえも、えこひいきはしませんよ。なぜって、それが愛だから。

 

「光への道」に、近道はないのです。でも早道はある。早道とは何でしょうか? 「カルマ」を一つ一つきちんと受けていくことです。それが早道になる。だから、「カルマ」を受けることが「浄化」なんですよ。それなのに、「カルマ」を恐れたり、逃れようとしたり、無視したりして、自分が蒔いた種の意味に気づこうとしなかったら、どうなるでしょうか?

 

ゴールはますます遠くなります。近道を行こうとすればするほど、「カルマ」は積み増しされ、まるで雪だるまのように膨れ、その重さでヨッチラヨッチラ、近道どころか逆に遅道になってしまうのですよ。そしていつかは、その重い「カルマ」を一気に清算しなければならない時が来ます。

 

バブル崩壊とは何ですか? 欲得に駆られた人が、そのエゴを雪だるまのように膨らませてしまったから、いちどきに清算しなければならない瞬間が訪れるということでしょう? 毎日毎日、つましく少額を清算していれば、バブル崩壊などあり得ないわけです。

 

これと同じで、あなたが日々の生活を、自分のエゴに気づきながら、そのつど修正し、そして来た「カルマ」清算の機会はしっかりと受け止め、背後にある意味を考え納得し、それにめげることなく、素直に、正直に、朗らかに、親切に過ごしていけば、それがいちばんの早道なのです。「真の聖者は、素朴に生きる人の中にいる」と言われるゆえんです。

 

近道はみちくさの道。倦まず弛まずコツコツと行くのが、結局は早道なのです。

この世の生きにくさ -----「波動」敏感者の生きる道

私には、特別な霊能といったものは殆どありません。でも一つだけ、少々困ったちゃんの、特異な面があります。それは、いわゆる「波動」にとても敏感だということ。「波動(vibration)」が何かということについては、またいつか詳しくお話ししようと思っていますが、人、人の言動、表現物、場所、といったものが発する振動の状態が判るのです。

 

これは多かれ少なかれ、誰もが持っている知覚能力なのですが、普通、人はそれを意識せずに暮らしているために、大多数の人は「そんなものはない」と思い込んでいます。それはある意味、生きやすいいことではあります。なぜかと言いますと、「波動」に敏感であることは、日々、全身に鋭い矢先を受けながら、それでもなお耐えて生きるようなものだからです。

 

以前、アール・ブリュット(生の芸術)のドキュメンタリーを観ていた時に、一人の絵描きさんの、ある行動に目が止まりました。いつものように彼女が散歩を楽しんでいると、数十メートル先の神社から、急にドンドコドンドコと太鼓を叩く祭のお囃子の音が流れて来たのです。その途端、彼女はめまいを起こしてその場にうずくまりました。「あ、それ解る」と私は思いました。

 

ドキュメンタリーの監督が「大丈夫ですか?」と声を掛けました。彼はその時、彼女が抱える精神的障害の一端をそこに見たと思ったことでしょう。確かに、彼女は太鼓の音に反応して気持ちが悪くなった。しかし彼女が知覚したものは、太鼓の響きに載せて一緒にやって来る、その場に集まる人々の想念なのです。彼女は障害者とされていましたが、私には、絵で宇宙を表現するメッセンジャーであることがすぐに分かりました。

 

私も、子どもの頃から、あらゆる儀式的なことや、集団的行動が大の苦手でした。お祭りというのはその最たるものです。でも「お祭り」が嫌いとはとても言えません。みんなが楽しみにしているもの、というのが常識ですから。それを他人に言えば、偏屈、協調性のない奴、と言われてしまいます。事実、いろんな面でつんぼ桟敷に置かれ、すっかり孤独な少年となり、中学を卒業して家を出るまで夜尿症で苦しみました。

 

今では、なぜそうだったのかということを説明できますし、自分が儀式や集団的行動が嫌いな理由も分かったのですが、子ども時分にはもちろんそんなことは分かりません。私がこのブログを始めたのは、一つには、同じような悩みを抱えている人がいるのではないかと思ったからです。この絵描きさんにも言ってあげたかったです。あなたは障害者ではないんですよ。メッセンジャーなんですよと。

 

人の世は、乱暴で粗雑な「波動」で満ち溢れています。敏感な人には、これが非常に辛い。チクチクと体を突き刺し、ハートをキューッと締め付ける。そこで反射的に避けるということになるのですが、世間的には、この行動が、対人恐怖や、不登校、引きこもり、鬱、自信喪失、精神障害といったものとして映るのです。すると、周囲の人々や社会はどう対処して来るでしょうか?

 

例外なく、社会に押し戻そうとします。中にはそれを「支援」と称して。本人は、乱暴で粗雑な「波動」で溢れた世界がたまらなくイヤだから、それを避けているのに、そこに戻れと、それのみが正当な「社会復帰」であると、何の疑いもなく同調圧力を掛けて来るのです。しかし、こうは考えられませんか? 学校の方がおかしいんだと。会社の方がおかしいんだと。社会の方がおかしいんだと。

 

しかし、それが上手に言えなくて、どれだけの人が悩み、社会の底辺に沈み、活躍の機会を失っていることか。そこに、「波動」に敏感な人たちの孤独感があります。けれども、そういう人たちにも思い直して欲しいのです。あなたの役割がちゃんとあるということを。あなたが地上に生まれたのは、やはりこの世界で生きる目的や理由があるわけで、単に逃走や隠遁だけしていたのでは「魂」の成長がありません。

 

「波動」に敏感であることは苦しい。この世を生きにくい。でもその特質は、ある種の「目利き」だということです。それは、一流の料理人だけが持つ舌のような。ですから、その特質を善用なさい。これまでは、ただ生きにくさを感じていただけであったものから、今後は上手に遣り繰りしながら生きる術を身につけて欲しい。そして、「宇宙の法則」や「因の世界」や「波動の科学」のことをよく知って、あなたにも光の道を歩んでいただきたいのです。

 

そこで、そういうあなたに先ずお伝えしたいのは、社会が提示する価値観に自分を合わせる必要など微塵もないということです。あなたはあなただし、あなたのままでよいのです。何より、あなたは「自由」です。自分の身の周りに起きる事のすべての意思決定権はあなたが握っている。そこに誰も介入することは出来ません。たとえ誰かの強い影響下にあったとしても、それを受容することを決定するのは、結局はあなたですから。

 

いま言ったことを先ず理解してください。

そして、納得がいったあなたには、次の問いかけをしましょう。

人生は、果たして生きるにあたいするものなのか?

さて、あなたは、何と答えますか?

 

社会が提示する価値観に「自分を合わせない」といったん決めると、「自由」になれる一方で、今度は別の生きにくさが生じます。周囲との摩擦や軋轢です。しかし、ここで負けてしまってはダメです。

 

職場の昼休みに、一つのテーブルでお喋りに花が咲いている。そのうち、その場にいない誰かさんの悪口が出て、それで話題が一気に盛り上がる。あなたはそれを見て「イヤだなぁ」と思う。さてどうする? それをたしなめたり、その場を離れたりしたら、今度は自分が悪口のネタにされるかも知れない。しかし、だとしても、あなたの感覚が「イヤだなぁ」と思うのなら、あなたは何らかの拒絶の態度をそこで示すべきです。

 

それが、自分の「自由」を生きるということだから。

あなたが、あなたのままの生き方を創造するということだから。

だから、「自由」に生きるためには、少しばかりの勇気が必要になってくる。

それは、ほんのちょっとの勇気に過ぎないのだけれど、「宇宙の法則」を知らない者にとっては、とてつもない勇気に感じられるだろうね。

でも、いいかい。自分の生き方を決めるということは、宇宙に「あなたという存在を創る」ということと同義なんだよ。そこを、よく考えてごらん。

 

あなた方は、肉体を持ち、物質世界に暮らしているので、みな「物質世界の法則」の制約を受けます。しかしそれは、ごく狭い領域での出来事であって、背後にはもっともっと大きな世界が控えているのです。その大きな世界を支配する法則が「宇宙の法則」です。ですから、「物質世界の法則」など、「宇宙の法則」という大海から見れば、波間に浮かぶ小さな舟のようなもの。

 

ところが人間は、肉体の自分こそが自分であり、心臓が拍動している間が生きていることと信じる一方で、「宇宙の法則」については、ほとんど何も知りません。でもね、霊的世界から地上を見ると、あなた方の暮らしは、まさに生き霊が蠢く世界なのですよ。身体という衣をまとった生き霊が、地球の上を右往左往しているだけのこと。そこにも、しっかりと「宇宙の法則」が生きているのです。

 

そこで、似た者同士は引きつけ合うという「波動の法則」の一端が地上でも見られるのです。ただ、地上と霊界とで決定的に違うところは、地上においては、似ていない者同士にも出会いがあるということ。それが、仏教で言う「怨憎会苦」を引き起こすわけです。これに対して霊界は、純然たる階層世界ですから、「波動」の高さが違う「魂」は同じ階層の世界では出会えないのです。

 

*怨憎会苦:怨んだり憎んだりする人とも出会わなければならない苦しみ。

 

例を挙げましょう。地上では、詐欺師が善良な人から金品を巻きあげます。嘘つきの政治家が正直な国民を騙します。欲得に駆られた人が誠実な人を裏切ります。粗暴な人が穏やかな人を苦しめます。ところが、霊界ではそうはいきません。詐欺師は詐欺師同士が集まって一つの世界を作り、互いに騙しっこをし、嘘つきは嘘つき同士が集まって嘘をつき合い、共にそれを喜びとして生きているのです。

 

そして、「こんなことをしていても、なんだか空しいなぁ」と本人が悟るまで、それが地球時間で何百年も何千年も続くのです。何しろ想念だけの世界ですから、何かを奪ったつもりになっても、実体物がありません。誰かをやっつけたつもりになっても、相手はピンピンしていて死なないのです。そこで、奪いたい、騙したい、やっつけたいという気持ちだけが、延々と続くことになるのです。

 

ある人は、その世界を称して「地獄」と呼ぶわけですが、何度も言って来たように、宇宙には罪も罰もありません。それは、その人の「信念」が形づくる世界。同じ「信念」を持つ人たち同士が集まって、そういう世界を創り上げているのです。ですから、「地獄」と言っても、本人が好きで行ったのであって、その人たちにとってはまるで天国のようなものなのです。

 

その姿を、どうぞ想像して見てください。地上世界と、何ら変わりがないとは思いませんか。この世にも、嘘をついたり、騙したり、奪ったり、脅したり、偉そうにしたり、暴力を振るったり、ということが大好きな人がいっぱいいますね。そして、少しも反省がない。そういう「魂」は、地上での生を終えてあの世へ行っても、本人の望み通りにまたそれを続けるのです。あらステキ! なんてね。

 

「魂」にとって、地上生活がチャンスだと言うのは、地上では実体物や手応えがあるからです。すると、想念だけの世界とは違って「あ、悪いことしたな」「悲しい目に合わせちゃったな」ということに気づきやすいわけですね。そこで初めて、霊的な成長が起きる。ですから、地上生活で反省の起きない人というのは、あの世に行っても、改心するというのは望み薄です。

 

総じて言えば、地上においては、「波動」の低い「魂」の多くが、高い人からエネルギーを奪いとることによって生きているのです。ではどうして、地上には霊界と同じ境界がないのでしょうね? まさにそれが、「波動」が読めないということと関わりあってくるのです。解る人には解ります。けれども、解らないからこそ境界を超えた接触があり、それが霊的学習のチャンスにもなっているということです。

 

だからこそ、「魂」はわざわざ地上に生まれ出る。霊界にいたのでは決して経験できない、地上でしか味わえない体験をするために。人は何度も輪廻転生を繰り返すのです。「波動」に敏感な人は、このメカニズムをよく頭に入れてください。その上で、問いかけをもう一度思い出してみてください。人生は、果たして生きるにあたいするものなのか?

 

地上での一つの生を終えて、霊界にまで引き継いでいけるものは、あなたが為した体験と、それへの意味づけだけなんですよ。それなのに、どれほど多くの人が、奪い合う人生、騙し合う人生、攻撃し合う人生、馬鹿にし合う人生、自慢し合う人生を歩んでいることか。

 

その人たちは「波動」が読めません。読めないからこそ、そういったことが出来るのです。自分たちが、どれほど低い「波動」を出したり、受け取ったりしているかを知らないのです。お互いに低め合っている友なのです(本人たちはそう思っていませんが‥‥)。まさにそれは、地上に出現した「地獄」そのもの。

 

しかし、敏感なあなたは、そうした「波動」にイヤなものを感じます。「もう止してくれ」と思う、「ウンザリだ」とも思う。さてそこで、あなたはどうしたらいいのでしょうか?

 

第一には、巻き込まれないようにすることです。最初に言ったように「勇気」を持ってください。共感するにせよ、反撃するにせよ、低い「波動」を出すものにちょっとでも興味を抱いた途端、あなたの「波動」はそれと同調して一気に下がります。その落差分のエネルギーを「よし、いただきィ」と相手側が奪い取っていくのです。

 

とても腹立たしいことがあったとしましょう。しかし、同じ土俵に乗ってはいけません。賢いと言われている人たちが、メディアで互いに罵り合っているのを、あなたもよく目にするでしょう。罵り合いは、霊界における一つの境界内の出来事を、地上でも同じようにやっているだけなのです。真に賢い人は反論をしません(自論や真実を述べることはあっても)。エネルギーのムダ遣いだということを知っていますから。

 

最初からイヤだなと解っているものとは、出来るだけ接触しないことです。しかし、接触をどうしても避けられないという場合には、自分の中の「イヤだなぁ」という気持ちを出来るだけ縮小させて(他の楽しいと思える事柄に意識を移せばよい)、来たものは受け取らずに、自分を透明にして、風のように後ろに流してください。

 

さて、これまで言ったことは、聞きようによっては、事なかれ主義に聞こえるでしょう。しかし、そうではありません。ここからが、「波動」に敏感なあなたにお願いしたい、ちょっとした「勇気」に続く、第二の意識転換点です。人類は、今までずっとこれが出来なかったのですよ。こんな何でもないことがね。さあ、今がラストチャンス。

 

目には目を歯には歯を、とやっている限り、あなた方人類の霊性は向上しません。戦争を終結させるためには新たな戦争が必要である、と固く信じ込んでいるのがあなた方です。少なくとも、世界の指導者と言われる人たちの多くが、こぞってそう主張しています。そして、どんな攻撃も、防禦を口実にして行われているということに目を向けてください。そのうえで、あなた方に聞きたい。それで平和は実現されたのかと。

 

あなたが「波動」に敏感な体質に生まれついたのにはワケがあります。あなたにしか出来ないことをやるのです。世の中は、確かに、乱暴で粗雑な「波動」で溢れかえっています。でも、それらに打ちひしがれるために、あなたの敏感な能力があるのではありません。あなたは「波動」というものが解るのだから、暴力には優しさで、怒りには笑顔で、奪うには分け与えるで、悲惨さには慈愛で対抗して欲しいのです。

 

あなたなら出来る。いや、そういう生き方しか、もはやあなたには出来ない。あなたの敏感さを活かすには、これしかない。第二の視点は、完全なる愛の奉仕者となって生きることです。しかし、そうしたところで、人々からは理解されないでしょう。でも、それでもやるのです。どんなに馬鹿にされようが、傷つけられようが、完全なる奉仕者として生きるのです。そして、それが喜びと感じられた時、あなたは本物になる!

 

自分は何のために生まれて来たのか?

人生は、生きるにあたいするのか?

あの世に持っていけるものは(いや、持って生かされるものは)、自分が為した体験と、そこで得た解釈だけである。

よいかな。これですぞ。

だから、一日一日を、倦まず弛まず励むのだ。

「衝動」はあなたを裏切るが、「直感」はあなたを裏切らない

ある時、セミナーの席上で「直感と衝動との違いは何でしょうか?」という質問を受けました。それを聞いて「ああ、そうか」と思いました。問われるまで、その違いというものを考えてみたことがなかったのです。考えたことがなかったのは、「衝動」を突き動かすということが、ここ何年も自分の中で無くなっていたからです。しかし言われてみれば、確かに両者は紛らわしいかも知れませんね。

 

しかし私も、前は決してそうではありませんでした。どちらかと言えば喜怒哀楽が激しい方で、すぐにカッとなっては後先見ずにちゃぶ台返しをしてしまう、というのが自分の最大の欠点でした。でも、そういうことも随分と治って来ました。今では、感情を動かすということがあまり有りません。人里離れて一人ぽつんと暮らしているということもありますが、もはや「枯れてしまった」という説もある。

 

「衝動」というものが、感情の発露であることについては論を待たないことでしょう。やっかいなのは、この「衝動」に突き動かされて行動した場合、その結果があまりよいものをもたらさないということです。衝動買いとか、衝動喰いとか、口より先に手が出るとか、果ては万引きとか、クスリとか。やった後になって「ああ、やめときゃよかった」と思う。一体これはどうしてなのでしょうか?

 

人間の「感情」は、外部刺激に対する一つのリアクションとして、心の中に生じる動きです。それ自体は、この物質世界を生きる上での、一種の「才能」とも言えるものです。「感情」があるからこそ、人はこの物質世界を豊かに捉えることが出来るのです。ですから、「感情」それ自体を否定してはなりません。問題は、人間がこの「感情」のコントロールに未だ習熟していないという点です。

 

「感情」には、ポジティブなものとネガティブなものがあります。しかしポジティブなものは、大抵〈そのまま楽しんで終わり〉となってしまうので、人が「感情」のコントロールについて考えるということが、通常の意識下では起きにくいのです。ところが、時にネガティブな「感情」も人には発生します。すると、普段コントロールなど考えたことがないので、途端にどうしていいか判らないという状態になってしまうのです。

 

ここで「感情」のコントロール法についてアドバイスをしますと、「出るままにして放って置け」ということです。それがポジティブなものであってもネガティブなものであっても、「感情」というものは、せいぜい一日、長くても三日しか持続しません。歓喜も、怒りも、悲しみも、それをずーっと抱き続けるということは不可能なのです。ですから、放っておけば消えて行ってしまいます。

 

ところが、しばしば、人はネガティブな「感情」がなかなか消えないと訴えます。しかしそれは、よく観察すると、最初の「感情」とは違うものなのです。「感情」は三日のうちに減衰して、すでに消滅してしまっているのですが、次に、その「感情」を引き起こした元の事件について、あれこれと解釈を考えるようになり、これがその人に「悩み」を起こさせるのです。

 

つまり、その人の心の内部では、初期の「感情」から、自己が生み出す「想念」へと既にステージが移行しているのです。しかし元の事件が一緒なものですから、その人は、それを拭い切れない「感情」の持続であり、「悩み」として捉えてしまうのです。これを私は、「感情の二次災害」と言っていますが、「二次災害」を創っているのは、元の事件ではなく、その人自身の「想念」なのだということです。これが、いわゆる「囚われ」ということなのです。

 

しかし、よく観察してみると、事に際して、その人はいつも同じ思考パターンを繰り返していることが分かるはずです。これが「心グセ」というものであり、大部分はその人のカルマに起因しています。ですから、ご自分の「心グセ」を把握することは、カルマ脱出への最初の糸口となります。しかし、これを野放しにしていたのでは、カルマ脱出は覚束ないということです。

 

さて、「衝動」なるものですが、初期の「感情」の動きの中でも、取り分け激しい反応が「衝動」です。外部からのインプット刺激よりも、自分のアウトプットのエネルギーが何倍も激しいという、感情の爆発的発露、それが「衝動」です。なぜこうしたことが起こるのかと言いますと、やはり、その人のカルマ(中でも非常に強い、深いカルマ)に関係しています。

 

過去世から持ち越している強いカルマ。これとよく似た状況の外部刺激が目の前に出現すると、ほんのちょっとのことでも、たちまちそれが思い出され「衝動」となってその人の心を動かすのです。これは、何もネガティブなことだけとは限りません。よく言う、運命の人との出会い、天職との出会い、場所との出会い、こうした際に起きる「衝動」も、過去世の縁が影響をしています。

 

ですから、「衝動」必ずしもいけないということではないのですが、ネガティブな「衝動」が起きた際には、やはり後で困る。そこで、どうすればいいのかと言いますと、これは前記の「感情」の対処法と基本的には同じになります。

●参考:イヤなことの忘れ方

 

しかし「衝動」は、通常の「感情」よりも数段強い心の動きですから、これを退治するのはかなり難しくなります。ですが、出方というものを見ればかえって解りやすい訳ですから、自分のカルマに気づきやすいとも言えます。要は、野放しにしないで、よく振り返るということです。

 

よく、「感情」に対しては「理性」ということが対比的に言われるのですが、「感情」を「理性」で抑えようとすることは、お勧めできません。なぜかと言いますと、「感情」も「理性」も、共にその人の「心」の動きだからです。つまり同じ土俵にある。ですから、自分の「感情」を自分の「理性」によって監視させようとすると、両者がケンカをして「心」が壊れてしまいかねません。

 

そもそも、これは無理なのです。「感情」と「理性」は、同時には働きません。「感情」が突出している時には「理性」は引っ込んでいますし、「理性」が前面に出ている時には「感情」は引っ込んでいるものです。ですから、一見、「理性」によって「感情」が抑えられているように見える時も、単に「理性」優位にあるというだけで、いったん「感情」に火が点けば、容易にそれが逆転してしまいます。

 

それが、人が「心」を治めることが難しい最大の理由なのです。これは盲点であり、みなさんは「理性」対「感情」というこれまでの不毛な枠組みを超えた、もっともっと大きな意識の構造に気がつく必要があるのです。人間の「意識」は、一つの領域で成り立っているのではありません。異なった意識レベルが、多層階を構成して成り立っています。

 

チャートを見てください。一人の人間の中に、潜在意識、顕在意識、超意識、超絶意識の、次元を異にした四つの意識が重なるようにしてあるのです。前回のブログで、人間は「多次元的存在」だということを述べましたね。多次元的に存在するということは、とりもなおさず、各次元に対応した「意識」があるということです。しかしそのことを殆どの人は知りませんし、意識したこともありません。

 

 

通常、あなた方が知っていて、かつそれを意識しているのは、このうちの「顕在意識」だけです。意識が表に顕れているので「顕在意識」と言います。でもこれだけではありません。たぶん名前くらいは聞いたことがお有りだと思いますが、その奥には「潜在意識」がある。これは、地上世界で生きるためのベースとなっている意識で、本人が特別に意識せずとも自動的に働いてくれています。

 

例えば、心臓の拍動や、胃腸の消化作用、呼吸、発汗作用、新しい細胞を育成することなど、身体を維持するための基本機能を動かしています。一体これを動かしているのは誰か、ということを考えてみてください。そうすれば生命の秘密が解けます。しかしこの自動的な働きにも、「顕在意識」が一部影響を与えてしまうのです。そのため、「心」が動揺すると「身体」にも影響が顕れるのです。

 

普通、人が認めるのはせいぜいこの二つだけです。しかし人間には、この二つを超えた意識があるのです。それが「超意識」です。これは「魂」の意識であり、あなたの「心」の本体と言ってよいものです。「脳」が「心」を生み出すのではありません。「脳」というのは単なるハードウェアです。「魂」こそがソフトウェアで、「心」は地上世界向けに変換された、そのアウトプットなのです。

 

あなた方は、自分の「心」にしょっちゅう翻弄されていますが、それがどこからやって来ているのかを、まるで解っていません。「心」は、自分の「脳」が作っているのだと思っています。そこで、「理性」でなんとかならないだろうかと思ったり、それが無理なら「脳」を薬物によってコントロールしようとまでします。しかしハッキリ申し上げて、それらは無意味どころか危険ですらあります。

 

あなた方の「心」は「魂」の意識の所産なのです。「魂」は、カルマを携えて輪廻転生して行きますから、今のあなたの「心」のあり様は、あなたのカルマを反映しています。ですから、これをチャンスと捉えてください。「心」を野放しにしてしまっていてはダメです。良いところはますます伸ばし、悪いところはどこにその原因があるのか、ご自分のカルマに正しく向き合う姿勢を持つことです。

 

「衝動」は、このカルマより発しており、しかも分かり易いカタチを見せてくれているのですから、早くそこに気づき、その真の原因を探ることが大切です。今世および過去世でした何らかの体験の中に、宇宙の法則に逆らった、自分の解釈違い、心得違いが含まれています。今世で向き合わされる報いは、それに気づかせるためのギフトです。ですから、感謝して受け取ってください。

 

このようにして、カルマを一つ、また一つと解消して行くと、「魂」はしだいに浄化されていき、それに伴って「心」もだんだんと落ち着いて澄んでいきます。このようになると、もう「衝動」のような激しい感情の爆発は起こりません。しかし、そこへ至るのは一朝一夕というわけには参りません。自分が必ずそうなるということを信じて、倦まず弛まず一日一日を生きることが大切です。

 

次に、「直感」についてご説明しましょう。「直感」というのは、文字どおり、直(じか)に感じるです。何を、どう、直に感じるかと言いますと、自己の「魂」の意識に、高次元からのメッセージがダイレクトに届けられたのを感じる。その瞬間が「直感」です。したがって「衝動」との第一の大きな違いは、それが内発的なものではないということです。上から届いたメッセージなのです。

 

このメッセージがどういう瞬間に届くかと言いますと、「心」を滅していった時に入る。ですから、「感情」とか「衝動」を動かしている間は決して入らない。これが第二の大きな違いです。「心」を静かにしてリラックスしている時か、ルーティンの作業に没頭して「心」を忘れている時などにサッと入る。例えば、編み物をしたり、草取りをしたり、お茶碗を洗ったりしている時などに。

 

なぜ、そういうことが起きるかと言いますと、「魂」の意識(=超意識)は、その上位の「超絶意識」と、下位の「顕在意識」との仲立ちをする役割を担っています。しかし普段は、カルマを伴った「心」が、この領域で勢力的に活動をしているために、スペースが占領されてしまって、通路となる空きスペースがないのです。しかし「心」を滅すると、そこに空きが出来るので、スッと「直感」が入るのです。

 

ですから、「直感」が訪れた際には、すかさずメモを取ってください。これは夢と同様で、「心」の意識が立ち上った途端、それまでの意識状態が崩れ、ほんの数分で「直感」は消え去っていってしまいます。このため、「あれっ、気のせいか」などと思って、多くの人が、重要なメッセージを見過ごしたり、聞き逃したりしているのです。残念です。

 

この「直感」の送り手は、高次元の存在(高い霊性密度の領域にいる存在)で、あなたのガイド(守護霊や補助霊)や、マスター(大師がた)、スターピープルなどの他に、高次元のあなた自身(いわゆるハイヤーセルフ)もいるのです。「ハイヤーセルフ(Higher Self)」とは何かと言いますと、長い長い輪廻転生の旅を終えて、すでに卒業の域に達している、別のあなたの「魂」です。

 

そう聞いても、俄かには理解しがたいことでしょう。物質世界であるところの「時空間連続体」に住む人間からすれば、輪廻転生は、過去世から未来世への時間的連続としてしか捉えられないでしょうから。しかし霊的世界には時空間というものが存在しないのです。したがって、一つの「魂」の全部の輪廻転生が、すべて同時瞬間的に起きているのです。そして、それらは全部が一つに繋がっています。

 

どの人間にも、その霊的な背後には、今よりももっと未完成の「魂」もいれば、すでに卒業の域に達した「魂」がいて、全部が同時瞬間的に存在しているのです。ですから、この世の「優劣」などは全く意味がないよと、何度も申し上げて来たのです。このことを知れば、人間たちは、もう少し優しくなれるのではないでしょうか? 他者に対しても、自分に対しても。

 

「ハイヤーセルフ」から来る「直感」は、高次元のあなたが、今のあなたに送った援助の手なのです。さて、高次元の存在から届けられるメッセージを、ぜんぶ一括りにして「直感」と言って来たのですが、厳密にいえば、「直感」とは「ハイヤーセルフ」からのもののみを言い、それ以外は「インスピレーション」と言った方が適切でしょう。これは単に定義づけの問題ですが。

 

さて、ここで注意していただきたいのは、高次元の存在から届けられるメッセージと、アストラル界(心霊界、幽界、中有界とも言う)から来ているメッセージを混同しないように、ということです。あなた方は、どうしても未来予知とか、恐怖の予言とか、オカルティックなことばかりに眼を向けがちですが、高次元の存在がそのようなメッセージを下ろすことは、絶対にありません。

 

なぜならば、宇宙のすべては「波動」であり、すでに高い「波動」にある存在が、低い「波動」を発することなどあり得ないからです。よって、未来予知、恐怖の予言、オカルト等の情報は、すべてあなたを惑わそうとするニセモノです。これを判断基準としてください。高次元の存在から届けられるメッセージは、常に冷徹で、慈愛に満ち、偏りがなく、深い叡智を携えているものです。

 

それに、よくよく考えてみて欲しい。神は一者であると、あれほど言ったではありませんか。その神が、全智・全能・全存在である神が、なにゆえ自分自身に恐怖の予言をする必要があるでしょうか? また、高次元の存在たちが、そこに気づかないとでもお思いですか? バカバカしい限りです。こんな矛盾を、未だに大勢の人々が信じ、夢中になっているなんて。

 

それともう一つ。あなたは「直感」を大切にして毎日を生きるべきですが(何しろそれは、高次元のあなたが、自分自身を援助するために送ったものなのですから)、その示唆を、この世的な「よいこと」に繋がるものと捉えてはなりません。あなたにとって、真の「よいこと」とは、霊的成長あるのみなのです。そこには、試練も含まれるということを忘れないように。

 

ですから、たとえどんなことに出会っても、何事に接しても、つねに感謝の念を持って生きなさい。辛いことに遭えば遭うほど、悲しい想いや、悔しい想いをすればするほど。その機会が与えられたことに感謝しなさい。それが、今のあなたを助けるだけでなく、今この瞬間を、まさに同時に生きている、別のあなたをも助けることになるのですから。