by Rainbow School
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神は一神であって二格

このところ、ずっと一神教と二元性のことについて話をして来ました。神は一つである。これは間違いのないことです。論理的に考えても、またそうでなくても。論理的に考えれば、神は一者という帰結が矛盾のないただ一つの結論ですし、論理によらないものとしては、いついかなる時代のメッセンジャーも、「oneness」を秘教として伝え続けて来たというのがその何よりの証拠です。

 

しかし、この超シンプルな真理が、ついぞメジャーになることはありませんでした。古代の人々はこれを知っていたのですが、人間が物質主義に傾き、堕落するに連れて、この真理が忘れ去られて行きました。そして宗教までもが、権威主義、拝金主義、独善主義、排他主義の基盤に立った「我が神」の教義を振り撒くようになったのです。

 

二元性(duality)というものは、いったん理解してしまえば、「なんだそういうことだったのか」という程度のものなのですが、それを本当に、身体の細胞の隅々にまで納得させるのはかなり難しい。なぜかと言いますと、何世代にも渡る人類史の中で、誤った認識の二元論がすでに細胞の奥深くにまで浸透し、刻み込まれているからです。

 

あなたはきっと、一度ならずこう思ったことがお有りでしょう。どうして、この世に善と悪が存在しているのか? もし神がいるとしたら、この世が善だけでないのはどうしてなのか? そこに、一つの考えが忍び寄ります。神は善なのだが、悪を為そうとする別の親玉がいるのだ。それがサタンやルシファーであり、善なる神は、奴らとの戦いに勝利することをお望みだ。

 

これが一神教の二神論へのすり替えです。善と悪の戦いという図式にしたところで、その両者を統御しているものはいったい何者なのか、という疑問には答えていないのですが、その発想は人々の心情にフィットしたのです。なぜなら、社会の矛盾や人間関係を見れば、なるほど日常が戦いだし、自分自身の内部においても、善と悪との戦いが昼夜繰り広げられているからです。

 

左の図を見てください。三角形の頂点に位置するのが、宇宙の創造者です。創造神といっていいでしょう。この創造者は、万物を創造する際に、先ず二つの極性を設けたのです。これが陽と陰です。二つの極性を設ければ、その間に、配合の違いによって様々なものが生み出されることになります。さらにそれら同士の組み合わせで、もっと多様なものが生み出されて行きます。こうして万物が創造されたのです。

 

これを「三角形の法則」と言います。三角形の頂点から、陽極と陰極に別れて、末広がりに万物が創られて行きました。そこで、「ハ(末広がりに)」に「刀」で切ると、「分ける」という字になるのです。また、創造神から万物へは、バイブレーションの違いによって七段階に階層化されました。そこで「七」に「刀」が「切る」という字になっているのです。

 

二極性に分かれた原初の痕跡は、あらゆるものに見出され、二極性を持たないものはおよそ宇宙に存在しません。何しろ素粒子の世界が、プラスとマイナス、左スピンと右スピンといった具合に、全てが対で出来ているのですから。みなさんの身近においても、光と影、昼と夜、南と北、右と左、表と裏、押すと引く、男と女、等々いろいろなところで二極性を確認できるでしょう。

 

このように、万物が二元を基本にしているということは間違いありません。しかしそれは、前にも言いましたように、対立構造ではなく、補完機能なのです。つまり、互いがあるからこそ、互いを認識できるのです。これは非常に重要な点です。なぜ一者であったものが、自己の内に二極性を創造したのか? それは一者のままでは、自分を自分と認識できないからです。そこで二元が生じました。

 

図で、頂点が一神教。その最初の分岐が二元論。それよりさらに下ると、神々という多神教。底辺になると、自然のすべてに神が宿るという自然崇拝、そして全部をひっくるめて三角形を見ると、汎神論となるのです。つまり、「神」とは何かについてのこれらの違いは、一つのものの、視点の置き場所の違いに過ぎないのです。そして結論は一つです。全部が一つ、一つが全部です。

 

いま見て来たように、二元性というものは、今の宇宙が宇宙であるための、最もシンプルな初期条件だったのですが、これに人間は余計なものを付け加えました。善と悪、優と劣、強と弱、積極と消極といったように、尺度を設けて一方が一方を裁くような価値観を醸成したのです。これは、支配と被支配の構造を創りたい者にとっては、非常に好都合なツールとなりました。

 

ここで、勘のいい方はすぐにお気づきのように、支配と被支配という考え方自体が、一方が他方を裁く尺度になっています。そこで、ここから類似の尺度が次々と生じたのです。その根本原因は、これまで何度も言って来たように、根源(=神)から別れて、個我となった「魂」の中に、自由の一面である「分離」意識を発達させて、自分がよい思いをするためには他者を支配するしかない、と思い至った「魂」が出現したことによるのです。

 

こうした支配的な行動原理を持つ「魂」は、割合としてはそれほど多くはありません。けれども、狡猾で知力に長けているために、上記のような尺度に基く価値観を、子どもの時分から大衆に吹き込んで、広く信じ込ませることによって、自分たちの立場を盤石なものにしたのです。

 

しかし、上記で示したような価値観は、本来は、善悪→宇宙の法に則っているか反しているか、優劣→才能と表現の多様性、強弱→強靭と柔軟、積極と消極→活動と休息のように見るべきだったのです。

 

このように、二極性には本来、優劣というものはないのですが、腕力の強さ弱さという視点から、性別にもこの尺度を当てはめようとする考えが生じました。いわゆる男尊女卑です。これは社会的、政治的に是認されて来ただけではなく、一部の宗教では、女性に対して虐待的な倫理規範を設けたり、女性の聖職者は認めないなどとして来たのです。しかしこれらは全て、支配のための屁理屈です。

 

モーガン・フリーマンさんという俳優さんをご存知でしょうか。この方が以前、笑いながら、こんな話をしていました。「自分が、絶対やりたくないと思っていた役が一つあるんだ。そしたら、先日、そのオファーがついに来ちゃったんだよ。それは“神様”なんだ」と。

 

「神様」は、どういうわけか白い顎髭を生やしたお爺さんで表わされることが多いですよね。もちろん「神」が、このような人間の姿をしているわけはないのですが、そこに人格的なものを見出したいたいという願望が、長老のイメージを与えるんですね。キリスト教でも、「父なる神」という言い方をして、「神」に男性格を付与しています。しかしこれは間違いなのです。間違いどころか、多大な悪影響を与えて来ました。

 

「神」は男性格ではありません。これまでの話からお判りのように、宇宙の創生において、創造主は原初に二極性を持ちました。しかしそれ以前の、創造主そのものには、まだ極性がないのです。ですから、これに人格を見出した場合には、当然、極性登場後の人格を見ることになります。そして、これもまた当然ながら、男性と女性という二極性があるのです。これは他の二極性と同じく補完機能であって、そこには優劣はありません。

 

ですから、「父なる神」は間違いであり、「父でもあり、母でもある神」が正しいのです。時に父性を大いに見せ、時に母性を見せる両極性の存在が、真実の「神」です。この「気づきの啓示板」ブログでも、突如、口調が変わることがありますが、男性口調であったり、女性口調であったと変化します。以前は気になって、後で修正していたのですが、最近はそのままにしています。

 

では、男性格と女性格とではどのような違いがあり、宇宙において、どのような補完機能を構成しているのでしょうか。解りやすいのは、やはり女性格です。それは出産というものがあるからです。このことから、女性格は、新しいものを生み出す母体、大地、海、物質、そして命を育む優しさ、温かさ、愛、感情、直感、などの性質を持っています。

 

これに対して男性格は、意志、方向づけ、論理、包容、陰で全体を支える、などの性質を持っています。この男性格と女性格のバランスが上手に取られることによって、次の生命が誕生し、引き継がれていき、なおかつ、それぞれの「魂」の霊的成長というものが図られるのです。しかし、性質を誤用してしまうと、女性は感情や物質に流されやすい面が出て、男性は闘争や暴力に傾きやすくなるのです。

 

俯瞰して言うと、男性格はこうしようという聖なる「意志」、女性格は全体を連ねる「愛」を表現していると言えましょう。創世記では、エヴァはアダムの肋骨から創られたとなっています。これは、心臓のある位置、つまりハートのチャクラを抜き出して女性が創られたということなのです。また、人間は神に似せて創られたとあるように、神に男性格と女性格があるので、地上にも男性と女性がいるのです。

 

ところで、いま言ったことを、男性とはこうあるべき、女性とはこうあるべき、とは捉えないでください。あくまで二つの極性の意味を言っただけで、陽中陰、陰中陽と言って、男性の中にも女性的部分がありますし、女性の中にも男性的な部分があります。というよりも、そうやって、一人の人間の中に、二極性のバランスが取れて行くことが、人間完成に至る道なのです。

 

さて、この二極性のバランスということが、宇宙的にはあらゆる面で大切なことなのですが、今までの地球社会は、男性性というものが前面に出過ぎていたのです。それも悪い面の男性性です。しかし深いところでは、そのピークは過ぎて、すでに衰退に向かっています。けれども、社会というのは巨大なシステムですから、巨大タンカーと同じで急には方向が変わりません。そのため、今は惰性で進み続けているのです。

 

今の、悪い男性性を有した支配層も、その変化を内心で感じており、自分たちの危機意識から、これまでの体制を何とか維持しようとして、無理に無理を重ねているので、あちこちに綻びや矛盾が噴出しているのです。強権的な発言や、マスコミの言論統制や、個人の自由や権利を奪う法改正は、みな、実は危機意識から発しているのです。強さに見える、裏の弱さです。

 

あくまで一般論ですが、男性というのは、どうしても「枠組み」発想から逃れられません。自分では気づいていないのですが、無意識に「枠組み」発想をしてしまうのです。男性は、先ず、自分の所属や立ち位置を決めてからでないと、意見を述べるということが出来ません。一般に、女性は短慮で、男性は思慮深いと言われていますが、男性は「枠組み」を考えているので、そのように見えるのです。

 

自分の立場でこれを言ってもよいだろうか? 言ったことで影響はどうなるのだろう? あの人を敵に回してしまわないだろうか? 自分のポジションがこれで危うくならないだろうか? 等々、いろんなことを考える。それが「思慮深い」ように見えるのです。男性が、名刺の肩書に拘るのも同じ理由。権力者は、そういう男性の操り方を知っていて、地位や名誉をチラつかせては、自分の陣営に引き込むのです。

 

しかし、いったん「枠組み」を得て、そのポジションに満足しますと、今度はそれを失うのが恐怖に思えてきます。自分のアイデンティティを「枠組み」に代表させてしまうので、それが無くなることは、自己の存在理由の崩壊にまで繋がってしまうのです。その行き着いた先が自殺。そこで、そうならないように、保身のためには嘘だって何だって、平気でやってしまうのです。

 

これを聞いても、女性の大半は、おそらくピンと来ないでしょう。そういう感覚が、ワケが解らないことでしょう。バッカじゃなかろうか、と思うかも知れません。そうなのです。実際、こんなバカみたいな発想で、男性社会が動いている、いや動いていたのです。男尊女卑という「枠組み」を作ったのも、男性が、このバカみたいな幼児性を糊塗するためであったに違いありません。

 

さてそこで、これからの、女性格が持つ役割です。これまでの、男性格による政治、男性格による経済、男性格による外交、男性格による報道、男性格による教育、男性格による雇用、男性格による医療、こういったシステムが、すべて限界にぶち当たっていて、最早うまく機能していません。今は惰性で動いているので、継続しているように見えますが、実際には崩壊に向かっています。

 

*女性格:女性格の性質という意味で、「女性が」という意味ではありません。

 

それは、少数者による人類支配というカルマが、溜まりに溜まって、いよいよ清算の時を迎えているのです。支配層は、支配の継続と完遂を狙っていますから、これから、大衆の家畜化、奴隷化の勢いをさらに強めて行こうとしています。しかし、この試みは成功しません。なぜかと言えば、宇宙の法則に反しているからです。たとえ一時的に成功したかに見えても、人類全体で作ったカルマは、いずれ必ず刈り取りの時を迎えます。

 

そこでみなさんにお願いしたいのは、先ず、今の社会の動きを見るときに、(悪い面の)男性格が衰退して行っている状況を、きちんと見抜いて欲しいのです。うわべの瑣末な動きには惑わされないようにしましょう。そうすれば、今の社会の変化というものが、とてもよく解ります。

 

ここで気をつけなければならないのは、駄々っ子の利かん坊が、自棄のやんぱちを起さないようにすることです。追い詰めてはいけません。彼らの霊性はまだ幼稚園児なのです。幼児性に付き合って、暴発させてしまってはダメです。では、どうすればいいのか。それこそ、女性格の「愛」で包み込み、溶かしてしまうのです。

 

これまでの人類社会は、「愛」が足りなさ過ぎました。男性格の悪い面ばかりが突出し、女性格を抑え付けて、表に出ないようにさせて来ました。このような歴史は、もう終わらせましょう。

 

『虹の学校』に縁が生じる方の95パーセントは女性です。これは「直感」が働くからで、女性は、今の時代の風を、追い風としてキャッチしているのです。しかし、男性は逆です。多くの男性が、可哀想にも、奴隷化、家畜化のシステムに組み込まれ、でもそのことに気づかずに、ますます酷くなる仕事環境、生活状況に疲弊し、本来の機能(聖なる「意志」)を発揮できなくなっています。

 

この状況を改め、バランス化して行くには、女性格の「愛」を前面に押し出して行くしかありません。女性の社会進出と言っても、男性に伍して闘っていてはダメです。それでは今までと変わりがありません。

 

そうではなくて、女性格による政治、女性格による経済、女性格による外交、女性格による報道、女性格による教育、女性格による雇用、女性格による医療に、社会システムそのものを変えて行かなければ、地球人類の次の進歩はありません。

 

みなさんは、全員が、父なる神、母なる神の、共通の子なのです。そこに例外はありません。みなさん一人ひとりが、みな違う個性を持っているのは、そこから互いに学び合うためです。違っているからこそ、「愛」の学習になるのです。でも、全員が、兄弟、姉妹であることは、忘れないでください。宇宙はワンワールドです。限りない多様性を許容し、包含するワンワールドなのです。

 

ですから地球も、「支配」によるワンワールドではなく、「愛」によるワンワールドを目指してください。それを実現させて行くことが、人類に課せられた次の課題です。今は過渡期にありますので、もうしばらくは混乱が続くでしょうが、どんな状況になっても、希望を持って、「愛」によるワンワールドの実現に貢献して行って欲しいと思います。

 

それが、これを読んでくださっている、あなたに与えられた課題でもありますから。

「光」と「闇」の関係

日本では、小嘘つきであれば、国会議員や省庁の役人が務まります。その人に、もし大嘘つきの資質があれば、大臣や役所のトップにまで出世できる。でも総理大臣となると、これではまだ足りない。総理になるためには、“異次元” の嘘つきでなければなりません。小学生でも判るような嘘を「一点の曇りもない」と、なおも言い切るド根性と才能は大したもの。誠に余人をもって替えがたし。

 

本年度(平成30年4月)から、小学校で「特別の教科 道徳」というものがスタートしたそうです。その小学校で先ず教えるのは、公正、公平、社会正義だと言うのですから、いやはや。自分が教師だったとしたら、子どもたちにどう話せばいいのかな? 公正、公平、社会正義なんてぇものは絵に描いた餅なんだよと言えばいいのか、裏をかいた方が(徳じゃなくて)得だよと言えばいいのか?

 

「道」も「徳」も、共に人間完成を目指すうえでは大切なことです。でもそれは教えられない。本人が、自分の内に見出すしかないのです。我々に出来ることは、そのきっかけを与えてあげることだけ。もし「教え」ようとしたら、(誰かが発案した)特定の価値観を押し付けることになってしまいます。そんなものは不要、どころか有害ですらある。今の政治に、全く道徳心がないのを見れば、それは明らかではありませんか。

 

道徳教育の必要性を叫ぶ、この上なく不道徳な人たち。愛国心の必要性を叫び、隣人愛は持たない人たち。彼らにとっては、それが公正であり、公平であり、社会正義なのです。人は、その時、自分が理解できる以上のものを受け取ったり、また表出したりすることは出来ません。ですから(「正しい」という仮面をつけた)倫理、道徳、正義の押し付けは、極めて危険なのです。

 

すべては「道」です。終点に至るまでの途中なのです。人と接する時には(それが幼い子であっても)、常に、自分は未だ「道」半ばとの自覚を持って接しなければなりません。誰かが誰かに教えたり、誰かが誰かから教わったりという一方通行はないのです。必ず、互いに学びがある。そして、学ぶのはあなた自身。そこに積極的な価値を見出して、自分を統御していくことが大切です。

 

不正は、当然ながら褒められたものではありません。しかし、今のようにあからさまに出てきていることには、やはり意味があります。よく、政治家の「劣化」とか、官僚の「劣化」ということが言われているのですが、それは「昔はよかった」というノスタルジー的願望から出て来ているもので、昔も今も大して変わりがありません。韓国宮廷ドラマを観れば、よく解るのじゃありませんか?

 

それは「劣化」ではなく、今までなら隠されて来たことに光が当たって、よく見えるようになったというだけのことです。そのことで、みなさんは学習の機会を与えられているのです。「権力者というのは、なんだ、こういう人たちだったのか」に始まり、「権力構造というものは、なんと歪(いびつ)なんだろう」、そして「社会にとって、どういう統治機構が理想なのだろうか」まで。

 

そこまで、一気に来ているのです。選挙制度がどうとか、最高権力者の首をすげ替えたらどうとか、そんなことは今までの延長上の話です。確かに、当面はそういうことでしか進まないのかも知れません。しかし大河の流れは、奥底でもっと大きな変化を示しているのです。そこに気づくというか、そのことを感じながら、今の世の中の動きを見て、自分の中に受け止めていくことが大切です。

 

ニュースは日々、あれがこうなった、今度はこうなりそうだと語ります。でも、大河に浮かぶ木の葉が、右に振れた左に触れた、いや今度はひっくり返ったと言っても、要するに、最後はみんな大河に押し流されていってしまうのです。ですから、長い長い目で見てください。視点を離して、宇宙にまで上げて、大局的に地上を見てください。人々が、一喜一憂しながら蠢く様を見てください。

 

権力者が、なにゆえに必要以上の金を欲するのか。権力者が、なにゆえに「敵」と見なした者を憎むのか。権力者が、なにゆえに一般の民衆を蔑むのか。権力者が、なにゆえに保身のために嘘をつくのか。権力者が、なにゆえに暴力装置のナタを振り回すのか。それは、彼らがいま信じている「正義」の表現なのです。そして、その信念のスケールの最右端に彼らが位置しているからなのです。

 

*信念のスケール:人間はみなバラバラで、そこには優劣があるという「分離」の意識

 

このことを、みなさんは他山の石としてください。それらの「魂」は、未だ身体に埋没したままで、肉の欲望、肉の論理を一生懸命に経験・学習している段階なのです。この世は、そして今の地球は、未だ肉の欲望と論理が支配する世界です。そうした世界にあっては、彼らは優秀者でありエリートなのです。しかし残念ながら、まだ初歩の気づきにも至らない。そして勿論、「カルマの法則」も知りません。

 

みなさんから見れば、私利私慾に狂った、なんという浅ましい人間たちかと思うでしょう? でもその裏側は、不安でいっぱいなのですよ。自分の内に「信=真=神」がないのです。ですから、際限なくお金に頼り、特定の「信念」に盲従し、他者を蔑んだり攻撃したりすることによって、辛うじて自分のアイデンティティを確保しようとするのです。「分離」意識から来る表現の最たるものは、蔑み、憎しみ、そして暴力。霊的にみれば、彼らはまだまだ幼稚園児なのです。

 

しかしそんな彼らとて、いったん目覚めが始まれば、自らの不徳を恥じ、弱き者への憐憫と、悪は許さないぞ、不正は許さないぞ、との気持ちが自然と沸き起こって来るのです。さて、そこでです。大河の流れは、もうその段階にはないのです。実にここが肝心なところですぞ、みなさん。なぜ今、長きに渡ってこれまで隠されて来た悪事が、世界中で、表に曝け出されるようになって来ているのか?

 

それは、隠れていた悪を叩け、やっつけろ、ということではないのです。そう主張している人たちもいますが、それをやったら元の木阿弥。今までと少しも変わらない。そうじゃないのです。これは人類に突きつけられたチャンスなのですぞ。彼らのことは放っておきなさい。あなた方が従わなければそれでいいこと。見抜く眼を養えばそれでいいこと。彼らにはちゃんと「カルマの法則」が適用されます。

 

第三次世界大戦の勃発を心配している方がおられますが、どんなに法律を変えようが、道徳教科書で愛国思想を植え付けようが、軍備を増強しようが、マスコミを使って危機を煽ろうが、従わなければいいだけのこと。無視すればいいだけのこと。いま言ったことを、しっかりと心に刻み込んで、民衆の意識がジャンプしてしまえば、もう戦前のような逆戻りは不可能なのです。よって大惨事(洒落だがね)はない!

 

権力者の手口は、もう充分に学んだのではないかな? そう同じ手に何度も引っ掛かっていては、学習効果というものが見られないねぇ。よいかね、敵なんてものはいないんだよ。恐怖なんてものはないんだよ。そんなものは全部、権力者が、他の人々を支配したい者が、未だ「分離」意識の虜になっている未熟な段階の「魂」が、考え出したことなんだよ。それは、壮大なる人類の洗脳システムなのだよ。

 

どうして、すべてを創造した「神」が、自分の内側に敵と味方を創る必要があるのかい? どうして、すべてを見通している「神」が、自分の中に恐怖を創って自分に味わわせる必要があるのかい? 自分で落とし穴を作って、自分で落ちて「あ、びっくり!」とでも言うのかい? そんなことは、少し考えれば解りそうなものじゃないかね。だから、目覚めるのだよ。彼らが存在するわけを、彼らから学ぶべきことは何かを、知りなさい。

 

いいかい、なぜ「闇」があると思う? 「闇」があるから「光」が「光」だと分かるのだよ。朝まだき、まだ暗い東の山の稜線がうっすらとオレンジ色に染まり、やがてそこから強い「光」を放つ太陽が昇って行く。「光」は「闇」から出るのだよ。「光」があるから「影」があり、「影」あるところ必ず「光」がある。両者は、敵対関係ではなく、補完関係にあるのだよ。

 

ここを間違ってはいけない。「悪」を叩いても「闇」は消えない。「悪」を叩くことは「善」ではなく、「悪」の上塗り、「悪」の応酬でしかない。ここを、人類は、今まで間違って来たのだよ。特に、一神教の名を借りた、善悪二元論に立つ宗教が、その強固な信念を、人々に植え付けて来てしまったのだよ。さあ、でももう目覚める時だ。大河は、もうそっちへ動いているよ。

 

悪事を働く者はいます。不正を働く者はいます。「闇」を正義だと誤解している者もいます。しかし、それらはすべて「神」の手の内にあるのです。悪事を働く者は、創造のふりをして破壊を行なっています。けれども、霊的世界はもっと深甚で、破壊をすることで実は創造を行なっているのです。インドでは、この役割をする神をシヴァ神と名づけました。

 

新しい家を建てるには、古い家を壊さなければなりません。破壊と創造はOneセットなのです。「闇」と「光」は、いつでもOneセットなのです。大切なのはこのバランス。そこで釈迦は、中庸、中道を説きました。中庸、中道と言うと、どっちつかずの妥協点のように思われるかも知れませんが、そうではありません。要は、陰陽のバランスをいいように取りなさいということです。

 

今はまだ、無明の(つまり未だ「光」を知らない)段階にある「魂」たちが、悪事を通じて破壊活動を行っています。けれども、人類がもっと進歩すれば、悪事を行うことなく、この破壊と創造のバランスを上手にコントロールしていけるようになるのです。誰もが中庸、中道を生きるようになるのです。いま悪事が噴出しているように見えるのは、この変化の大潮流が、すでに地球上で起こっていることを示しています。

 

そこで、あなた方にお願いしたいのは、悪事の裏側にあるこの本質に、今こそ気づいていただきたいということです。このチャンスに、一気にジャンプして欲しいのです。アセンションして欲しいのです。悪を叩いても、悪は決して無くなりません。悪を退治する唯一の方法は、そこに「光」を当てること。その貢献によって、長きに渡った人類のカルマを、今度こそ断ち切って欲しいのです。

 

これは、あなたの中に巣食う悪についても言えること。自分の中に「光」を当てて追い出すのです。

 

静寂の中に身を置き、全身が「光」に包まれる様子をイメージしてください。細胞の一つひとつにまで、じんわりと染み入るように。そして、大河の流れに逆らわぬよう、この流れに乗りなさい。流れを味方に付けなさい。乗って、あなたの白光を強めなさい。あなたがする心遣いや親切は、どんなものでもこの流れに貢献することになります。

 

なぜ「闇」があるのか。「闇」があるからこそ「光」が「光」だと分かるのです。今、みなさんが「闇」から学ぶべきことは、それです。ああ、「光」があることの有難さ、「光」のこの上ない暖かさ、そして「光」の全き愛。あなたも、全身「光」の人になってください。そして、この転換期にある地球を、あなたの「光」で照らしてください。それでバランスが実現され、人類が乗り切れるのですから。

一神教は何を誤って教えて来たのか

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、中東を同じ起源とする一神教です。これに仏教を加えて、世界四大宗教と言われたりすることがありますが、仏教だけは、「神」を〈理解の範疇を超えたもの〉として、あえて定義づけを行っていません。三つの一神教の中では、ユダヤ教徒は僅か0.2パーセントに過ぎないのですが、金融を中心に、政治や医療や放送事業等で全世界に隠然たる勢力を持ち、存在感を示しています。

 

*ヒンドゥー教は信者数は多いのですが、地域が限定されているということから、世界宗教にはふつう分類されていません。

 

一神教は、日本人には馴染みがないだけではなく、考え方や感覚そのものがよく解りません。一神教の世界観と、日本人が持つ宗教観の間には大きな隔りがあって、ここに橋を架けるのはかなり難しそうです。ところが、世界情勢というものは、大部分が一神教世界を中心に動いているのです。ですから、世界情勢を読み解く時には、日本人はこのギャップと、背景にある宗教観、自然観の違いをよく知った上でニュース等を見る必要があります。

 

宇宙をつかさどるものは一つである。このことを、これまで何度も語って来ました。このブログの目的も、究極的にはこの一言を伝えたいだけだと言ってもいいのです。宇宙がどうして出来たのか? ビッグバン説が唱えるように、ある日突然、無から宇宙が生じたというのだろうか? しかし、時間も空間も無い「無」状態から、ある日(=時間)、宇宙が生じた(=空間)というのは、定義自体が矛盾です。「無」は無なのですから、何ものも生み出す元もないはずです。

 

私たちの生活を見回しますと、インフラや、家や、生活道具の中には、それらが作られる前に、「こうしよう」という意思なしに作られたものは一つもありません。でもよく見ると、そうじゃないものがありますよね。そうです、ただ、自然、生命、宇宙を除いては。そこで、類推してこう考えるのです。そこにも、きっと「何もの」かの意思があったのであろう、そして今もきっとあるはずだと。

 

その証拠に、自然、生命、宇宙には、この上なく秩序だった法則性が見られるのです。これは驚異です。私たちが見ている、経験している、自然、生命、宇宙が、ある「法則」によって成り立っているらしいことは疑いようがありません。そこで、その法則性を、ある者は「言葉」として、ある者は「数学」として、ある者は「音楽」として紡ぎ出すことが出来るのです。

 

*らしい:法則性に疑いがあるという意味ではなく、法則の肝心な点をまだ人間は殆ど知らない

 

そこで、こういう結論が導き出されます。自然、生命、宇宙(以下、総じて「宇宙」と言う)は、たぶん「何もの」かの意思によって創られたのであろう。では「何もの」とは何なのか? 「それ」が何かは分からないが、「宇宙」と同一、もしくは殆ど同じものであるはずだ。なぜなら、創造主と被創造物が別ものだとしたら、創造主を創ったのものは何かというパラドックスが生じるから。

 

*殆ど同じ:創造する意思と、創造されたものとは、厳密には同じではないという考えもある

 

結局、創造主は自らを創ったのであり、その起源については不明である。よって、始まりもなく終わりもなく、永遠なのだろう。これが、推論の結果、導き出される「宇宙」に対する見解です。この見解に、異論があったり、違和感を持たれる方も当然おられるでしょう。しかしこの先は、議論をしても始まりません。この結論を受け入れるか、受け入れないかというだけです。(仏教は、それゆえ、そこに手をつけなかったのです。)

 

さてこのようにして、「宇宙」を支配しているものは一つである、という考えに帰結します。しかしこの結論は、今、推論によって導き出されたというだけではなく、実は太古の時代から、メッセンジャーたちによって変わらずに伝えられて来たことなのです。ところが、スピリチュアリズムの中ではついぞ主流にはなりませんでした。いつの時代でも、ごく少数の人しか、これを保持しませんでした。しかも弾圧さえ受けて来たのです。なぜでしょうか? 

 

宇宙は一つ。全部が一つであり、一つが全部である。この考え方を、一言で「ワンネス(oneness)」と言います。そして、そこから立ち顕れる法則を「The law of one(一者の法)」と言っています。このブログで、「真理」とか「宇宙の法則」と呼んでいるものは、同じことを差しています。しかし「一者」と言うと、擬人化して捉えられてしまうので、なるべく使わないようにしています。

 

英語の「one」には、一つという意味の他に、「これ」とか「それ」という意味もあります。こちらの方がよくニュアンスを表していると思うのですが、もっと端的に、「それ」を「神」と名づけるとすると、「神」は一つということになり、ここに一神教の基盤が整います。ですから、そのような意味においては、一神教は決して間違いではないのです。

 

それなのに、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の別がある。「一者」を奉じているのに一つにはならない。そして互いに非難し合っている。これはとてもおかしなことです。実際、驚くなかれ、3つの宗教が奉じている「神」は、名前は違いますが同じものなのです。では何が違うのかと言いますと、天国の概念や、救済に対する概念、何が罪であり、守るべきものは何か、といったものが違うのです。つまりは運用法です。

 

「oneness」に付随した解釈やルールが大いに異なり、こちらを守ることの方が「oneness」よりも、ずっと大きくなってしまったのです。それどころか、一神教とは言っておりますが、実際には「oneness」を殆ど考慮していないと言ってもよいでしょう。「oneness」の真髄は「愛」です。ところが、「神は一つ」という意味が、「神」の独占に転化され、自分たち以外は邪宗・邪教という意味に使われているのです。

 

なぜ、このようになってしまったかを考えますと、やはり組織宗教の問題点に突き当たらざるを得ません。組織を立てるには独自性が必要となり、そこで独自の解釈やルールが生まれる。次にはこれを維持し発展させるために、階層や儀式や戒律の徹底が図られる。そして、巨大化した組織同士が隣接するようになると、自分たち以外を非難することによって求心性を強め、かつ価値を誇る。

 

このプロセスが、宗教組織を運営する側にとっても、信者にとっても、共に都合よく機能してしまうのです。それが何かと言いますと、無智にしてしまうということです。ですが、信者はそうは思っていません。教義を学ぶことで、自分は賢くなっていると思っているのです。ところが、実態には教義を鵜呑みにしているだけであり、「自分で考える」力を放擲してしまっているのです。

 

一神教を誤って伝えた場合の恐ろしいところはそこです。ですから、聖戦だって、爆弾テロだって、人殺しだって、何だって出来る。一神教は偶像崇拝を認めません。それで「像」に彫った美術品を躊躇なく破壊してしまうのですが、彼らだってシンボルは使うのです。彫刻もシンボルの一つだということに思い至る考えもなく、ただ偶像崇拝ということで破壊してしまうのです。

 

今ある一神教は、「一神」と名乗ってはいますが、実質はみんな「二元教」です。善と悪、罪と罰、天使と悪魔の二元対立を教義に立てて、互いに、自分たちは善の側だと主張するのです。ですから、悪を叩くことは善であり、神の祝福が得られることだと思い込み、喜んで「神」の名の下に戦争を繰り広げていく。こうした考えに取り憑かれた狂信者たちが、今もって世界中に充満しているのです。

 

*悪を叩くことは善:911直後のジョージ・ブッシュの演説を思い出してください

 

そして、もう一つの大きな誤り、というかスリ替えは、「神」を人間の外側に置いてしまったことです。これによって、「神」は崇拝の対象となり、それを納める神殿が作られ、救済や契約(信仰しますので、見返りに救ってください)の概念が生まれました。しかし「oneness」からすれば、それはとてもとてもおかしなことです。自分も宇宙の一員なのですから、当然、私は「神」の一部なのです。「神」と私とは一つなのです。別ではありません。

 

この真実が、一神教では伝えられませんでした。キリスト教ではイエスのみが神の子であるとしました。しかし全員が神の子なのです。「神」は、最初からあなたの中にいると言ってもいいし、あなたが「神」だと言ってもよいのです。ですから、「救い」は必要なく、最初から全員が救われているのです。しかし、これを言ってしまったら、組織宗教にはなりません。そこで、今日あるような教義が考え出されました。

 

「救済」概念を信じ込ませるために「輪廻転生」は否定されました。生まれ変わりを認めたのでは、「救済」の意義が無くなってしまいますから。また人間はみな不安と恐れを抱えているので、「最初から救われているんだよ」と言ったところで、大抵の人にとっては意味が解りません。それよりは、「神」を外側に置いておき「悪いのは悪魔のせいだよ」「熱心に信仰すれば救われるよ」「信仰しない者は地獄行きだよ」という方が、人々の心情にフィットしたのです。

 

この刷り込みが、何世代にも渡って続けれられ、また「輪廻転生」の度に同じ一神教に縁を得たりして、今に至る強固な基盤を構築したのです。よしんば、それが正しい教義だったとして、見よ! この謀略と、破壊と、殺戮に明け暮れた今日の世界を。家も家族も財産も失い、貧困と苦悩に喘ぐ人々の姿を。それらの大部分は、一神教がもたらしたものではないのか。

 

また彼らの中には、多神教や自然崇拝を、未開で劣ったものとして小馬鹿にする傾向があります。そりゃそうでしょう。荘厳な礼拝堂を持ち、豪華絢爛な衣装で身を包んだ聖職者を前に、祈りや歌を捧げて来た者たちからすれば、山を拝んだり、立木に縄を張ったり、神様があっちこっちにいっぱいいるなんて思い込んでいる人たちは、まだ目覚めない未開人のように映るでしょう。

 

実際それで、世界中にいた素朴な人たちが、一神教の布教過程によって、もの凄い人数が虐殺されて来ました。「oneness」の真の信奉者が隠れざるを得なかったのも、そのような理由があるためです。一神教の組織宗教からすれば、「oneness」を説く者は、全くの異端であり、危険人物でした。なぜなら、組織宗教は必要ないということが、そこで明らかにされてしまうからです。

 

しかし、世界情勢が今のようになって、ニュースなどでは宗教対立を煽り立てるようなものばかりが目立ちますが、実際には、今までの「一神教」のあり方に疑問を呈する人々が増えているのです。そこで、日本人の役割です。多神教や自然崇拝を「oneness」の観点から語って頂きたいのです。それらが、まさに「oneness」の考えから滲み出ていることを、堂々と説明して欲しいのです。

 

△形を思い描いてください。底辺が今のこの全世界、全宇宙。そして頂点が「創造神」です。八百萬(やおよろず)に「神々」が宿ると言うことは、また自然そのものが「神」であると敬うことは、これぞ真の「一神教」なのですぞ。両者は、視点の位置が違うだけなのです。そこには、善も悪も、罪も罰もなく、全部が一つということしかない。だから、我々は自然を敬うんだ、自然と共に生きるんだと、堂々と宣言してください。

 

西洋には、自然は征服して当然という考えがあります。「humanism(人間主義)」は、一見すばらしいことのように思えますが、無条件の人間讃歌の裏には、人間は自分たちのために自然を利用し尽くしてもいいんだという考えが含まれているのです。しかし、冷静に考えれば、環境というのは自分たちを生かしてくれている場です。それを破壊してしまったら、人間は生きていけません。

 

日本は、明治維新以降、欧米列強に追い着け追い越せとばかりに、西洋的価値観をまるで憧れるようにして取り入れて来ました。そして第二次世界大戦後は、アメリカと同盟関係を結んで、西側の資本主義陣営の考え方や行動原理に無条件に歩調を合わせて来ました。しかしそれももう限界です。これまでと同じ感覚でいたのでは、大きく変化する世界情勢に着いて行くことは出来ません。

 

すでに、経済的にも文化的にも世界から取り残されて来ましたし、尊敬も失っています。ここで、経済協力がどうとか、軍事的にどうとかという問題ももちろんあるでしょうが、それらの底辺には、日本人がほとんど意識していない宗教の問題があることに気づいていただきたいのです。世界情勢の裏側には、今なお一神教同士の対立の問題があるのです。

 

一神教というのは、国家や民族を超えた、それよりも優先する概念なのです。ですから、一神教の信者は、移民してもその宗教を携えて移民し、これを手放すことはありません。ところが日本人は違うのです。日系移民は現地の宗教にあっさり宗旨変えしてしまいます。あるいは、外観は日本建築で中はキリスト教神殿といった折衷教会を作って取り込んでしまうのです。これは日本人の良さですが、世界常識はそうではないということです。

 

宗教と宗教が和を結んで一つになることは、不可能ではないでしょうが困難です。なぜかと言いますと、それは教義を変えるということになり、その宗教の存在理由が根底から崩れてしまうからです。「東方の星教団」を率いたクリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti, 1895 - 1986)は、組織の不必要に気づいてから、自分の教団を解散してしまったのですが、そのような勇気を持った人がどれだけいるでしょうか。

 

そのようなわけで、命令一下、組織を変えることは難しく、一人ひとりの意識の転換が図られていく以外には道はなさそうです。その時に、自然と共に生きて来た、また生きようとする(かつての)日本人の姿が、これからの人類の生き方として、欧米人にもアジアの人々にも説得力を持つと思うのです。そして、それこそが、世界中から尊敬を集める道となって行くことでしょう。

 

そのために、気づいた人から、自然と共に生きる素朴な生き方を、できるだけ実践していただければなと思います。

光への道に、早道はあっても近道はない

「光への道」とは、人が、霊的完成へと至る道のことです。霊的完成が解りにくければ、人間完成への道と言い換えてもよいでしょう。人間、誰もが霊的存在なのですから、結局は同じことです。人は、それを意識するしないに関わらず、すべての「魂」が「光への道」を歩んでいるのです。

 

「光」は、「魂」が目指す最終ゴール。人は、何度も輪廻転生を繰り返しては、ちょっとずつ成長し、そこを目指すのです。「解脱」とか「覚り」というのは、その過程で通過する一つの段階。ニルヴァーナ(涅槃)は、そこに至った際に味わう感覚世界です。そして、ここに至るプロセスを強調したものが、老子が説くところの「Tao(道)」です。

 

このように、宗教は、どれもが基本的には「光への道」を案内しようとするものだったのです。けれども、組織化する中で、しだいに人間のエゴが膨らみ、全体像を見失う中で一部分だけをとらえた教義に固執し、ついには我のみが正しいという、歪んだ主張を互いにするようになって行ったのです。

 

あなた方の社会は、古い寓話や古い教えを過大評価する傾向があります。これだけの長期間、言い伝えられて来たのだから、きっと意味があるのだろうと思うのです。しかし、古さと真理とはイコールではありません。霊的世界には時間がありません。無時間かつ永遠です。ですから、どの時代にあっても真理への扉は開かれています。そしてそれは、不変かつ不偏かつ普遍なのです。

 

考えてみてください。いついかなる時代にあっても、どんな肌の色であっても、どんな民族でも、どんな言語でも、またそれを信じようが信じまいが、変わらず通用する法則こそが、「真理」の筈ではありませんか? 我が教えだけが正しくて、他はみんな邪宗、邪教。我が教えを信じる者だけが救われて、不信心者はみな地獄行き。そんなものが「真理」である筈がないではありませんか。

 

なぜ「光」なのかと言いますと、目指す先にあるものを、「光」として知覚するからです。しかしこれは、眼で見る「光」とは違います。こういった経験がありませんか? 眼を閉じていたのに瞬間的に眩い「光」が見えた。眠っている時に夢で「光」を見た。これらはみな、眼球という感覚器を経ずに知覚した「光」です。このように、五感を超えた感覚器(第六感)が、“あるもの” を「光」として感じるのです。

 

この “あるもの” は、中心太陽とか、Essenceとか、根源などと呼ばれています。しかし、みなさんに馴染みの言葉を使えば、それは「神」です。「神」を光として感じるのです。個々の「魂」は、「神」から別れて、地上世界を含む様々な旅を経験し、最後の最後にはまた「神」の許へと帰ります。こうして「魂」は「光」と合体し、それ自身が「光」となるのです。

 

*アマテラス(天照大神)というのは、その意味

 

さて、この「光への道」が、人生の本質だと解る(それも頭で解るのはなく、心身の隅々まで浸透し、完全に一体となってしまう境地に至る)までにはたいへんな時間が掛かります。しかも、そこに至るまでには、二つの大きなハードルを乗り越えなくてはならないのです。最初のハードルが「低級我の放棄」、そして二つめのハードルが「カルマの受容」です。

 

「低級我」というのは、いわゆるエゴのことで、地位や名声や金品を欲する気持ち、また他者を支配したり傷つけたり馬鹿にしたりする気持ちを起こす我(われ)です。これは、根源から離れて、「魂」が個別化した際に獲得した、意思と行動の自由を、先ずそのように使い出したということであり、霊性の発達段階では未だ幼稚園児の段階にあります。

 

しかし、あなた方の社会は、このエゴをベースに動いており、ほとんどあらゆるシーンにおいて、エゴを刺激し、揺り動かし、これを集めることに、実に多くの人たちが心血を注いでいます。そして、政治の世界でも、経済の世界でも、より強いエゴを発揮する人が、各分野の頂点に立つような仕組みを創り出し、これを肯定して憚りません。

 

人間は、本来的に悪人というわけではなく、すべての「魂」の奥には、例外なく「根源」の意識を宿しています。けれども、一握りの極めて強いエゴを持つ人々が、政治、経済、金融、マスコミ、教育、医療などの各分野の頂点に君臨し、世の中を支配しているので、一般の人々はその価値観の中に否応なく巻き込まれて、自分を見失っているのです。

 

視点を宇宙に移して地球を眺めれば、それは、人類の奴隷化、家畜化への道に他ならないのですが、支配者の巧妙な策によって、その企みに気づくことなく、人々は自ら進んで奴隷化、家畜化への道を歩んでいるのです。そして、その状況にどうにも耐えられなくなった「魂」たちが、いわゆる心の病に罹ったり、自暴自棄になったり、自殺したりしているのです。

 

これは「地球のカルマ」と言ってよく、このために、あなた方地球人は、一面では進化しながらも、それを霊性の向上に振り向けることが出来ず、同じ過ちを何度も何度も繰り返しているのです。しかし、今度という今度こそは正念場です。今の世の中がメチャクチャに見えるのは、隠されていた闇、見過ごされて来た矛盾が光に照らされ、吹き出しているからに他なりません。

 

あなた方は、この全体の構造をしっかりと把握しなくてはいけません。どんなことにも原因があります。いま起きていることの、目の前の些事にばかり囚われてはなりません。そんなものは所詮うたかた。消えていく泡沫。それらは、支配者のめくらましです。視点を宇宙に置きなさい。宇宙から地球を眺めてみれば、事の裏の、裏の裏の、その奥の、そのまた奥の因が解るから。

 

何度も言ったでしょう。自ら進んで騙される人がいるから、騙す人が君臨できるのです。どうして、そんな人間を信奉するのでしょう? どうして、わざわざ低い霊性に近づき、自分の中に在る「根源」を欺くのでしょう? われわれには理解できません。なぜ、自分を信頼しないのですか? なぜ、自分の内なる「神」の声に耳を傾けようとはしないのですか?

 

「地球のカルマ」に振り回され続けるのは、もういいかげんに止める時です。そのためには、先ず気づいた人から、このレールを降りるのです。視点を宇宙に上げなさい。不安と混乱の中で、われを忘れて、ちょこまかと忙しく動き回っている人々の姿が見えませんか? 地球人というのは、なんと馬鹿げたシステムを創り出し、その中で右往左往していることでしょう?

 

この「地球のカルマ」というのは、個々人のカルマや、土地々々に染み付いたカルマの集合体なのです。ですから、レールから降りる人が増えれば(つまり、霊的次元にまで遡るこの因果の構造に気がつき、素朴な生き方に回帰する人が増えれば)、「地球のカルマ」も変わるのです。そこに希望を見出してください。

 

「カルマ」というものは、宇宙の法則ですから、誰もそれから逃れることは出来ません。しかし、恐れる必要はありません。自分が蒔いた種は自分が刈る。ただそれだけのことです。善い種を蒔けば、善い実りを得て、悪い種を蒔けば、それ相応の償いをすることになる。このことで、宇宙を支配している因果の法則が解り、霊的成長の機会となるのです。

 

みなさんが誤解している言葉に「浄化」というものがあります。「浄化」とは「カルマ」を受けることなのです。払うことではありません。受けることで「浄化」するのです。ですから、よくカルマを取ってあげるとか、払い清めてあげるとか、守護霊を授けてあげるとか、チャクラを開いてあげるといったことを言う人がいるのですが、そんな芸当は誰にも出来ません。

 

すべては、自分が体験することによってのみ、掴んでいくのです。だってそうでしょう。自分が体験しなければ、自分の学びにならないじゃないですか。けれども、多くの人がそれを避けようとする。悪事を働いても言い逃れをしたり、カルマを誰かに取って貰おうとしたり、ありがたい何かを授けて貰おうとしたり、いつも近道を行こうとする。

 

でもね、はっきり申し上げて、「光への道」に近道などありません。自分が蒔いた種は、自分が刈り取って進む以外にないのです。それが「神」の愛というものです。全き公平なる愛です。この意味が解りますか? 宇宙にえこひいきはないんですよ。授けて貰わなくたって、守護霊はちゃんと最初から全員についています。その守護霊さえも、えこひいきはしませんよ。なぜって、それが愛だから。

 

「光への道」に、近道はないのです。でも早道はある。早道とは何でしょうか? 「カルマ」を一つ一つきちんと受けていくことです。それが早道になる。だから、「カルマ」を受けることが「浄化」なんですよ。それなのに、「カルマ」を恐れたり、逃れようとしたり、無視したりして、自分が蒔いた種の意味に気づこうとしなかったら、どうなるでしょうか?

 

ゴールはますます遠くなります。近道を行こうとすればするほど、「カルマ」は積み増しされ、まるで雪だるまのように膨れ、その重さでヨッチラヨッチラ、近道どころか逆に遅道になってしまうのですよ。そしていつかは、その重い「カルマ」を一気に清算しなければならない時が来ます。

 

バブル崩壊とは何ですか? 欲得に駆られた人が、そのエゴを雪だるまのように膨らませてしまったから、いちどきに清算しなければならない瞬間が訪れるということでしょう? 毎日毎日、つましく少額を清算していれば、バブル崩壊などあり得ないわけです。

 

これと同じで、あなたが日々の生活を、自分のエゴに気づきながら、そのつど修正し、そして来た「カルマ」清算の機会はしっかりと受け止め、背後にある意味を考え納得し、それにめげることなく、素直に、正直に、朗らかに、親切に過ごしていけば、それがいちばんの早道なのです。「真の聖者は、素朴に生きる人の中にいる」と言われるゆえんです。

 

近道はみちくさの道。倦まず弛まずコツコツと行くのが、結局は早道なのです。

この世の生きにくさ -----「波動」敏感者の生きる道

私には、特別な霊能といったものは殆どありません。でも一つだけ、少々困ったちゃんの、特異な面があります。それは、いわゆる「波動」にとても敏感だということ。「波動(vibration)」が何かということについては、またいつか詳しくお話ししようと思っていますが、人、人の言動、表現物、場所、といったものが発する振動の状態が判るのです。

 

これは多かれ少なかれ、誰もが持っている知覚能力なのですが、普通、人はそれを意識せずに暮らしているために、大多数の人は「そんなものはない」と思い込んでいます。それはある意味、生きやすいいことではあります。なぜかと言いますと、「波動」に敏感であることは、日々、全身に鋭い矢先を受けながら、それでもなお耐えて生きるようなものだからです。

 

以前、アール・ブリュット(生の芸術)のドキュメンタリーを観ていた時に、一人の絵描きさんの、ある行動に目が止まりました。いつものように彼女が散歩を楽しんでいると、数十メートル先の神社から、急にドンドコドンドコと太鼓を叩く祭のお囃子の音が流れて来たのです。その途端、彼女はめまいを起こしてその場にうずくまりました。「あ、それ解る」と私は思いました。

 

ドキュメンタリーの監督が「大丈夫ですか?」と声を掛けました。彼はその時、彼女が抱える精神的障害の一端をそこに見たと思ったことでしょう。確かに、彼女は太鼓の音に反応して気持ちが悪くなった。しかし彼女が知覚したものは、太鼓の響きに載せて一緒にやって来る、その場に集まる人々の想念なのです。彼女は障害者とされていましたが、私には、絵で宇宙を表現するメッセンジャーであることがすぐに分かりました。

 

私も、子どもの頃から、あらゆる儀式的なことや、集団的行動が大の苦手でした。お祭りというのはその最たるものです。でも「お祭り」が嫌いとはとても言えません。みんなが楽しみにしているもの、というのが常識ですから。それを他人に言えば、偏屈、協調性のない奴、と言われてしまいます。事実、いろんな面でつんぼ桟敷に置かれ、すっかり孤独な少年となり、中学を卒業して家を出るまで夜尿症で苦しみました。

 

今では、なぜそうだったのかということを説明できますし、自分が儀式や集団的行動が嫌いな理由も分かったのですが、子ども時分にはもちろんそんなことは分かりません。私がこのブログを始めたのは、一つには、同じような悩みを抱えている人がいるのではないかと思ったからです。この絵描きさんにも言ってあげたかったです。あなたは障害者ではないんですよ。メッセンジャーなんですよと。

 

人の世は、乱暴で粗雑な「波動」で満ち溢れています。敏感な人には、これが非常に辛い。チクチクと体を突き刺し、ハートをキューッと締め付ける。そこで反射的に避けるということになるのですが、世間的には、この行動が、対人恐怖や、不登校、引きこもり、鬱、自信喪失、精神障害といったものとして映るのです。すると、周囲の人々や社会はどう対処して来るでしょうか?

 

例外なく、社会に押し戻そうとします。中にはそれを「支援」と称して。本人は、乱暴で粗雑な「波動」で溢れた世界がたまらなくイヤだから、それを避けているのに、そこに戻れと、それのみが正当な「社会復帰」であると、何の疑いもなく同調圧力を掛けて来るのです。しかし、こうは考えられませんか? 学校の方がおかしいんだと。会社の方がおかしいんだと。社会の方がおかしいんだと。

 

しかし、それが上手に言えなくて、どれだけの人が悩み、社会の底辺に沈み、活躍の機会を失っていることか。そこに、「波動」に敏感な人たちの孤独感があります。けれども、そういう人たちにも思い直して欲しいのです。あなたの役割がちゃんとあるということを。あなたが地上に生まれたのは、やはりこの世界で生きる目的や理由があるわけで、単に逃走や隠遁だけしていたのでは「魂」の成長がありません。

 

「波動」に敏感であることは苦しい。この世を生きにくい。でもその特質は、ある種の「目利き」だということです。それは、一流の料理人だけが持つ舌のような。ですから、その特質を善用なさい。これまでは、ただ生きにくさを感じていただけであったものから、今後は上手に遣り繰りしながら生きる術を身につけて欲しい。そして、「宇宙の法則」や「因の世界」や「波動の科学」のことをよく知って、あなたにも光の道を歩んでいただきたいのです。

 

そこで、そういうあなたに先ずお伝えしたいのは、社会が提示する価値観に自分を合わせる必要など微塵もないということです。あなたはあなただし、あなたのままでよいのです。何より、あなたは「自由」です。自分の身の周りに起きる事のすべての意思決定権はあなたが握っている。そこに誰も介入することは出来ません。たとえ誰かの強い影響下にあったとしても、それを受容することを決定するのは、結局はあなたですから。

 

いま言ったことを先ず理解してください。

そして、納得がいったあなたには、次の問いかけをしましょう。

人生は、果たして生きるにあたいするものなのか?

さて、あなたは、何と答えますか?

 

社会が提示する価値観に「自分を合わせない」といったん決めると、「自由」になれる一方で、今度は別の生きにくさが生じます。周囲との摩擦や軋轢です。しかし、ここで負けてしまってはダメです。

 

職場の昼休みに、一つのテーブルでお喋りに花が咲いている。そのうち、その場にいない誰かさんの悪口が出て、それで話題が一気に盛り上がる。あなたはそれを見て「イヤだなぁ」と思う。さてどうする? それをたしなめたり、その場を離れたりしたら、今度は自分が悪口のネタにされるかも知れない。しかし、だとしても、あなたの感覚が「イヤだなぁ」と思うのなら、あなたは何らかの拒絶の態度をそこで示すべきです。

 

それが、自分の「自由」を生きるということだから。

あなたが、あなたのままの生き方を創造するということだから。

だから、「自由」に生きるためには、少しばかりの勇気が必要になってくる。

それは、ほんのちょっとの勇気に過ぎないのだけれど、「宇宙の法則」を知らない者にとっては、とてつもない勇気に感じられるだろうね。

でも、いいかい。自分の生き方を決めるということは、宇宙に「あなたという存在を創る」ということと同義なんだよ。そこを、よく考えてごらん。

 

あなた方は、肉体を持ち、物質世界に暮らしているので、みな「物質世界の法則」の制約を受けます。しかしそれは、ごく狭い領域での出来事であって、背後にはもっともっと大きな世界が控えているのです。その大きな世界を支配する法則が「宇宙の法則」です。ですから、「物質世界の法則」など、「宇宙の法則」という大海から見れば、波間に浮かぶ小さな舟のようなもの。

 

ところが人間は、肉体の自分こそが自分であり、心臓が拍動している間が生きていることと信じる一方で、「宇宙の法則」については、ほとんど何も知りません。でもね、霊的世界から地上を見ると、あなた方の暮らしは、まさに生き霊が蠢く世界なのですよ。身体という衣をまとった生き霊が、地球の上を右往左往しているだけのこと。そこにも、しっかりと「宇宙の法則」が生きているのです。

 

そこで、似た者同士は引きつけ合うという「波動の法則」の一端が地上でも見られるのです。ただ、地上と霊界とで決定的に違うところは、地上においては、似ていない者同士にも出会いがあるということ。それが、仏教で言う「怨憎会苦」を引き起こすわけです。これに対して霊界は、純然たる階層世界ですから、「波動」の高さが違う「魂」は同じ階層の世界では出会えないのです。

 

*怨憎会苦:怨んだり憎んだりする人とも出会わなければならない苦しみ。

 

例を挙げましょう。地上では、詐欺師が善良な人から金品を巻きあげます。嘘つきの政治家が正直な国民を騙します。欲得に駆られた人が誠実な人を裏切ります。粗暴な人が穏やかな人を苦しめます。ところが、霊界ではそうはいきません。詐欺師は詐欺師同士が集まって一つの世界を作り、互いに騙しっこをし、嘘つきは嘘つき同士が集まって嘘をつき合い、共にそれを喜びとして生きているのです。

 

そして、「こんなことをしていても、なんだか空しいなぁ」と本人が悟るまで、それが地球時間で何百年も何千年も続くのです。何しろ想念だけの世界ですから、何かを奪ったつもりになっても、実体物がありません。誰かをやっつけたつもりになっても、相手はピンピンしていて死なないのです。そこで、奪いたい、騙したい、やっつけたいという気持ちだけが、延々と続くことになるのです。

 

ある人は、その世界を称して「地獄」と呼ぶわけですが、何度も言って来たように、宇宙には罪も罰もありません。それは、その人の「信念」が形づくる世界。同じ「信念」を持つ人たち同士が集まって、そういう世界を創り上げているのです。ですから、「地獄」と言っても、本人が好きで行ったのであって、その人たちにとってはまるで天国のようなものなのです。

 

その姿を、どうぞ想像して見てください。地上世界と、何ら変わりがないとは思いませんか。この世にも、嘘をついたり、騙したり、奪ったり、脅したり、偉そうにしたり、暴力を振るったり、ということが大好きな人がいっぱいいますね。そして、少しも反省がない。そういう「魂」は、地上での生を終えてあの世へ行っても、本人の望み通りにまたそれを続けるのです。あらステキ! なんてね。

 

「魂」にとって、地上生活がチャンスだと言うのは、地上では実体物や手応えがあるからです。すると、想念だけの世界とは違って「あ、悪いことしたな」「悲しい目に合わせちゃったな」ということに気づきやすいわけですね。そこで初めて、霊的な成長が起きる。ですから、地上生活で反省の起きない人というのは、あの世に行っても、改心するというのは望み薄です。

 

総じて言えば、地上においては、「波動」の低い「魂」の多くが、高い人からエネルギーを奪いとることによって生きているのです。ではどうして、地上には霊界と同じ境界がないのでしょうね? まさにそれが、「波動」が読めないということと関わりあってくるのです。解る人には解ります。けれども、解らないからこそ境界を超えた接触があり、それが霊的学習のチャンスにもなっているということです。

 

だからこそ、「魂」はわざわざ地上に生まれ出る。霊界にいたのでは決して経験できない、地上でしか味わえない体験をするために。人は何度も輪廻転生を繰り返すのです。「波動」に敏感な人は、このメカニズムをよく頭に入れてください。その上で、問いかけをもう一度思い出してみてください。人生は、果たして生きるにあたいするものなのか?

 

地上での一つの生を終えて、霊界にまで引き継いでいけるものは、あなたが為した体験と、それへの意味づけだけなんですよ。それなのに、どれほど多くの人が、奪い合う人生、騙し合う人生、攻撃し合う人生、馬鹿にし合う人生、自慢し合う人生を歩んでいることか。

 

その人たちは「波動」が読めません。読めないからこそ、そういったことが出来るのです。自分たちが、どれほど低い「波動」を出したり、受け取ったりしているかを知らないのです。お互いに低め合っている友なのです(本人たちはそう思っていませんが‥‥)。まさにそれは、地上に出現した「地獄」そのもの。

 

しかし、敏感なあなたは、そうした「波動」にイヤなものを感じます。「もう止してくれ」と思う、「ウンザリだ」とも思う。さてそこで、あなたはどうしたらいいのでしょうか?

 

第一には、巻き込まれないようにすることです。最初に言ったように「勇気」を持ってください。共感するにせよ、反撃するにせよ、低い「波動」を出すものにちょっとでも興味を抱いた途端、あなたの「波動」はそれと同調して一気に下がります。その落差分のエネルギーを「よし、いただきィ」と相手側が奪い取っていくのです。

 

とても腹立たしいことがあったとしましょう。しかし、同じ土俵に乗ってはいけません。賢いと言われている人たちが、メディアで互いに罵り合っているのを、あなたもよく目にするでしょう。罵り合いは、霊界における一つの境界内の出来事を、地上でも同じようにやっているだけなのです。真に賢い人は反論をしません(自論や真実を述べることはあっても)。エネルギーのムダ遣いだということを知っていますから。

 

最初からイヤだなと解っているものとは、出来るだけ接触しないことです。しかし、接触をどうしても避けられないという場合には、自分の中の「イヤだなぁ」という気持ちを出来るだけ縮小させて(他の楽しいと思える事柄に意識を移せばよい)、来たものは受け取らずに、自分を透明にして、風のように後ろに流してください。

 

さて、これまで言ったことは、聞きようによっては、事なかれ主義に聞こえるでしょう。しかし、そうではありません。ここからが、「波動」に敏感なあなたにお願いしたい、ちょっとした「勇気」に続く、第二の意識転換点です。人類は、今までずっとこれが出来なかったのですよ。こんな何でもないことがね。さあ、今がラストチャンス。

 

目には目を歯には歯を、とやっている限り、あなた方人類の霊性は向上しません。戦争を終結させるためには新たな戦争が必要である、と固く信じ込んでいるのがあなた方です。少なくとも、世界の指導者と言われる人たちの多くが、こぞってそう主張しています。そして、どんな攻撃も、防禦を口実にして行われているということに目を向けてください。そのうえで、あなた方に聞きたい。それで平和は実現されたのかと。

 

あなたが「波動」に敏感な体質に生まれついたのにはワケがあります。あなたにしか出来ないことをやるのです。世の中は、確かに、乱暴で粗雑な「波動」で溢れかえっています。でも、それらに打ちひしがれるために、あなたの敏感な能力があるのではありません。あなたは「波動」というものが解るのだから、暴力には優しさで、怒りには笑顔で、奪うには分け与えるで、悲惨さには慈愛で対抗して欲しいのです。

 

あなたなら出来る。いや、そういう生き方しか、もはやあなたには出来ない。あなたの敏感さを活かすには、これしかない。第二の視点は、完全なる愛の奉仕者となって生きることです。しかし、そうしたところで、人々からは理解されないでしょう。でも、それでもやるのです。どんなに馬鹿にされようが、傷つけられようが、完全なる奉仕者として生きるのです。そして、それが喜びと感じられた時、あなたは本物になる!

 

自分は何のために生まれて来たのか?

人生は、生きるにあたいするのか?

あの世に持っていけるものは(いや、持って生かされるものは)、自分が為した体験と、そこで得た解釈だけである。

よいかな。これですぞ。

だから、一日一日を、倦まず弛まず励むのだ。

「衝動」はあなたを裏切るが、「直感」はあなたを裏切らない

ある時、セミナーの席上で「直感と衝動との違いは何でしょうか?」という質問を受けました。それを聞いて「ああ、そうか」と思いました。問われるまで、その違いというものを考えてみたことがなかったのです。考えたことがなかったのは、「衝動」を突き動かすということが、ここ何年も自分の中で無くなっていたからです。しかし言われてみれば、確かに両者は紛らわしいかも知れませんね。

 

しかし私も、前は決してそうではありませんでした。どちらかと言えば喜怒哀楽が激しい方で、すぐにカッとなっては後先見ずにちゃぶ台返しをしてしまう、というのが自分の最大の欠点でした。でも、そういうことも随分と治って来ました。今では、感情を動かすということがあまり有りません。人里離れて一人ぽつんと暮らしているということもありますが、もはや「枯れてしまった」という説もある。

 

「衝動」というものが、感情の発露であることについては論を待たないことでしょう。やっかいなのは、この「衝動」に突き動かされて行動した場合、その結果があまりよいものをもたらさないということです。衝動買いとか、衝動喰いとか、口より先に手が出るとか、果ては万引きとか、クスリとか。やった後になって「ああ、やめときゃよかった」と思う。一体これはどうしてなのでしょうか?

 

人間の「感情」は、外部刺激に対する一つのリアクションとして、心の中に生じる動きです。それ自体は、この物質世界を生きる上での、一種の「才能」とも言えるものです。「感情」があるからこそ、人はこの物質世界を豊かに捉えることが出来るのです。ですから、「感情」それ自体を否定してはなりません。問題は、人間がこの「感情」のコントロールに未だ習熟していないという点です。

 

「感情」には、ポジティブなものとネガティブなものがあります。しかしポジティブなものは、大抵〈そのまま楽しんで終わり〉となってしまうので、人が「感情」のコントロールについて考えるということが、通常の意識下では起きにくいのです。ところが、時にネガティブな「感情」も人には発生します。すると、普段コントロールなど考えたことがないので、途端にどうしていいか判らないという状態になってしまうのです。

 

ここで「感情」のコントロール法についてアドバイスをしますと、「出るままにして放って置け」ということです。それがポジティブなものであってもネガティブなものであっても、「感情」というものは、せいぜい一日、長くても三日しか持続しません。歓喜も、怒りも、悲しみも、それをずーっと抱き続けるということは不可能なのです。ですから、放っておけば消えて行ってしまいます。

 

ところが、しばしば、人はネガティブな「感情」がなかなか消えないと訴えます。しかしそれは、よく観察すると、最初の「感情」とは違うものなのです。「感情」は三日のうちに減衰して、すでに消滅してしまっているのですが、次に、その「感情」を引き起こした元の事件について、あれこれと解釈を考えるようになり、これがその人に「悩み」を起こさせるのです。

 

つまり、その人の心の内部では、初期の「感情」から、自己が生み出す「想念」へと既にステージが移行しているのです。しかし元の事件が一緒なものですから、その人は、それを拭い切れない「感情」の持続であり、「悩み」として捉えてしまうのです。これを私は、「感情の二次災害」と言っていますが、「二次災害」を創っているのは、元の事件ではなく、その人自身の「想念」なのだということです。これが、いわゆる「囚われ」ということなのです。

 

しかし、よく観察してみると、事に際して、その人はいつも同じ思考パターンを繰り返していることが分かるはずです。これが「心グセ」というものであり、大部分はその人のカルマに起因しています。ですから、ご自分の「心グセ」を把握することは、カルマ脱出への最初の糸口となります。しかし、これを野放しにしていたのでは、カルマ脱出は覚束ないということです。

 

さて、「衝動」なるものですが、初期の「感情」の動きの中でも、取り分け激しい反応が「衝動」です。外部からのインプット刺激よりも、自分のアウトプットのエネルギーが何倍も激しいという、感情の爆発的発露、それが「衝動」です。なぜこうしたことが起こるのかと言いますと、やはり、その人のカルマ(中でも非常に強い、深いカルマ)に関係しています。

 

過去世から持ち越している強いカルマ。これとよく似た状況の外部刺激が目の前に出現すると、ほんのちょっとのことでも、たちまちそれが思い出され「衝動」となってその人の心を動かすのです。これは、何もネガティブなことだけとは限りません。よく言う、運命の人との出会い、天職との出会い、場所との出会い、こうした際に起きる「衝動」も、過去世の縁が影響をしています。

 

ですから、「衝動」必ずしもいけないということではないのですが、ネガティブな「衝動」が起きた際には、やはり後で困る。そこで、どうすればいいのかと言いますと、これは前記の「感情」の対処法と基本的には同じになります。

●参考:イヤなことの忘れ方

 

しかし「衝動」は、通常の「感情」よりも数段強い心の動きですから、これを退治するのはかなり難しくなります。ですが、出方というものを見ればかえって解りやすい訳ですから、自分のカルマに気づきやすいとも言えます。要は、野放しにしないで、よく振り返るということです。

 

よく、「感情」に対しては「理性」ということが対比的に言われるのですが、「感情」を「理性」で抑えようとすることは、お勧めできません。なぜかと言いますと、「感情」も「理性」も、共にその人の「心」の動きだからです。つまり同じ土俵にある。ですから、自分の「感情」を自分の「理性」によって監視させようとすると、両者がケンカをして「心」が壊れてしまいかねません。

 

そもそも、これは無理なのです。「感情」と「理性」は、同時には働きません。「感情」が突出している時には「理性」は引っ込んでいますし、「理性」が前面に出ている時には「感情」は引っ込んでいるものです。ですから、一見、「理性」によって「感情」が抑えられているように見える時も、単に「理性」優位にあるというだけで、いったん「感情」に火が点けば、容易にそれが逆転してしまいます。

 

それが、人が「心」を治めることが難しい最大の理由なのです。これは盲点であり、みなさんは「理性」対「感情」というこれまでの不毛な枠組みを超えた、もっともっと大きな意識の構造に気がつく必要があるのです。人間の「意識」は、一つの領域で成り立っているのではありません。異なった意識レベルが、多層階を構成して成り立っています。

 

チャートを見てください。一人の人間の中に、潜在意識、顕在意識、超意識、超絶意識の、次元を異にした四つの意識が重なるようにしてあるのです。前回のブログで、人間は「多次元的存在」だということを述べましたね。多次元的に存在するということは、とりもなおさず、各次元に対応した「意識」があるということです。しかしそのことを殆どの人は知りませんし、意識したこともありません。

 

 

通常、あなた方が知っていて、かつそれを意識しているのは、このうちの「顕在意識」だけです。意識が表に顕れているので「顕在意識」と言います。でもこれだけではありません。たぶん名前くらいは聞いたことがお有りだと思いますが、その奥には「潜在意識」がある。これは、地上世界で生きるためのベースとなっている意識で、本人が特別に意識せずとも自動的に働いてくれています。

 

例えば、心臓の拍動や、胃腸の消化作用、呼吸、発汗作用、新しい細胞を育成することなど、身体を維持するための基本機能を動かしています。一体これを動かしているのは誰か、ということを考えてみてください。そうすれば生命の秘密が解けます。しかしこの自動的な働きにも、「顕在意識」が一部影響を与えてしまうのです。そのため、「心」が動揺すると「身体」にも影響が顕れるのです。

 

普通、人が認めるのはせいぜいこの二つだけです。しかし人間には、この二つを超えた意識があるのです。それが「超意識」です。これは「魂」の意識であり、あなたの「心」の本体と言ってよいものです。「脳」が「心」を生み出すのではありません。「脳」というのは単なるハードウェアです。「魂」こそがソフトウェアで、「心」は地上世界向けに変換された、そのアウトプットなのです。

 

あなた方は、自分の「心」にしょっちゅう翻弄されていますが、それがどこからやって来ているのかを、まるで解っていません。「心」は、自分の「脳」が作っているのだと思っています。そこで、「理性」でなんとかならないだろうかと思ったり、それが無理なら「脳」を薬物によってコントロールしようとまでします。しかしハッキリ申し上げて、それらは無意味どころか危険ですらあります。

 

あなた方の「心」は「魂」の意識の所産なのです。「魂」は、カルマを携えて輪廻転生して行きますから、今のあなたの「心」のあり様は、あなたのカルマを反映しています。ですから、これをチャンスと捉えてください。「心」を野放しにしてしまっていてはダメです。良いところはますます伸ばし、悪いところはどこにその原因があるのか、ご自分のカルマに正しく向き合う姿勢を持つことです。

 

「衝動」は、このカルマより発しており、しかも分かり易いカタチを見せてくれているのですから、早くそこに気づき、その真の原因を探ることが大切です。今世および過去世でした何らかの体験の中に、宇宙の法則に逆らった、自分の解釈違い、心得違いが含まれています。今世で向き合わされる報いは、それに気づかせるためのギフトです。ですから、感謝して受け取ってください。

 

このようにして、カルマを一つ、また一つと解消して行くと、「魂」はしだいに浄化されていき、それに伴って「心」もだんだんと落ち着いて澄んでいきます。このようになると、もう「衝動」のような激しい感情の爆発は起こりません。しかし、そこへ至るのは一朝一夕というわけには参りません。自分が必ずそうなるということを信じて、倦まず弛まず一日一日を生きることが大切です。

 

次に、「直感」についてご説明しましょう。「直感」というのは、文字どおり、直(じか)に感じるです。何を、どう、直に感じるかと言いますと、自己の「魂」の意識に、高次元からのメッセージがダイレクトに届けられたのを感じる。その瞬間が「直感」です。したがって「衝動」との第一の大きな違いは、それが内発的なものではないということです。上から届いたメッセージなのです。

 

このメッセージがどういう瞬間に届くかと言いますと、「心」を滅していった時に入る。ですから、「感情」とか「衝動」を動かしている間は決して入らない。これが第二の大きな違いです。「心」を静かにしてリラックスしている時か、ルーティンの作業に没頭して「心」を忘れている時などにサッと入る。例えば、編み物をしたり、草取りをしたり、お茶碗を洗ったりしている時などに。

 

なぜ、そういうことが起きるかと言いますと、「魂」の意識(=超意識)は、その上位の「超絶意識」と、下位の「顕在意識」との仲立ちをする役割を担っています。しかし普段は、カルマを伴った「心」が、この領域で勢力的に活動をしているために、スペースが占領されてしまって、通路となる空きスペースがないのです。しかし「心」を滅すると、そこに空きが出来るので、スッと「直感」が入るのです。

 

ですから、「直感」が訪れた際には、すかさずメモを取ってください。これは夢と同様で、「心」の意識が立ち上った途端、それまでの意識状態が崩れ、ほんの数分で「直感」は消え去っていってしまいます。このため、「あれっ、気のせいか」などと思って、多くの人が、重要なメッセージを見過ごしたり、聞き逃したりしているのです。残念です。

 

この「直感」の送り手は、高次元の存在(高い霊性密度の領域にいる存在)で、あなたのガイド(守護霊や補助霊)や、マスター(大師がた)、スターピープルなどの他に、高次元のあなた自身(いわゆるハイヤーセルフ)もいるのです。「ハイヤーセルフ(Higher Self)」とは何かと言いますと、長い長い輪廻転生の旅を終えて、すでに卒業の域に達している、別のあなたの「魂」です。

 

そう聞いても、俄かには理解しがたいことでしょう。物質世界であるところの「時空間連続体」に住む人間からすれば、輪廻転生は、過去世から未来世への時間的連続としてしか捉えられないでしょうから。しかし霊的世界には時空間というものが存在しないのです。したがって、一つの「魂」の全部の輪廻転生が、すべて同時瞬間的に起きているのです。そして、それらは全部が一つに繋がっています。

 

どの人間にも、その霊的な背後には、今よりももっと未完成の「魂」もいれば、すでに卒業の域に達した「魂」がいて、全部が同時瞬間的に存在しているのです。ですから、この世の「優劣」などは全く意味がないよと、何度も申し上げて来たのです。このことを知れば、人間たちは、もう少し優しくなれるのではないでしょうか? 他者に対しても、自分に対しても。

 

「ハイヤーセルフ」から来る「直感」は、高次元のあなたが、今のあなたに送った援助の手なのです。さて、高次元の存在から届けられるメッセージを、ぜんぶ一括りにして「直感」と言って来たのですが、厳密にいえば、「直感」とは「ハイヤーセルフ」からのもののみを言い、それ以外は「インスピレーション」と言った方が適切でしょう。これは単に定義づけの問題ですが。

 

さて、ここで注意していただきたいのは、高次元の存在から届けられるメッセージと、アストラル界(心霊界、幽界、中有界とも言う)から来ているメッセージを混同しないように、ということです。あなた方は、どうしても未来予知とか、恐怖の予言とか、オカルティックなことばかりに眼を向けがちですが、高次元の存在がそのようなメッセージを下ろすことは、絶対にありません。

 

なぜならば、宇宙のすべては「波動」であり、すでに高い「波動」にある存在が、低い「波動」を発することなどあり得ないからです。よって、未来予知、恐怖の予言、オカルト等の情報は、すべてあなたを惑わそうとするニセモノです。これを判断基準としてください。高次元の存在から届けられるメッセージは、常に冷徹で、慈愛に満ち、偏りがなく、深い叡智を携えているものです。

 

それに、よくよく考えてみて欲しい。神は一者であると、あれほど言ったではありませんか。その神が、全智・全能・全存在である神が、なにゆえ自分自身に恐怖の予言をする必要があるでしょうか? また、高次元の存在たちが、そこに気づかないとでもお思いですか? バカバカしい限りです。こんな矛盾を、未だに大勢の人々が信じ、夢中になっているなんて。

 

それともう一つ。あなたは「直感」を大切にして毎日を生きるべきですが(何しろそれは、高次元のあなたが、自分自身を援助するために送ったものなのですから)、その示唆を、この世的な「よいこと」に繋がるものと捉えてはなりません。あなたにとって、真の「よいこと」とは、霊的成長あるのみなのです。そこには、試練も含まれるということを忘れないように。

 

ですから、たとえどんなことに出会っても、何事に接しても、つねに感謝の念を持って生きなさい。辛いことに遭えば遭うほど、悲しい想いや、悔しい想いをすればするほど。その機会が与えられたことに感謝しなさい。それが、今のあなたを助けるだけでなく、今この瞬間を、まさに同時に生きている、別のあなたをも助けることになるのですから。

善、偽善、罪悪感、悪

神の世界には、善も悪もありません。善も悪もないのですから、罪も罰もありません。善と悪。罪と罰。これらの概念は、みんな人間たちが考え出したことです。その証拠に、木々や草花、鳥や虫たち、魚や獣たちがどう生きているかを想像してみてください。彼らは、善と悪を想い、罪と罰を怖れて毎日を生きているのでしょうか? いいえ、ただ、その時を生きているだけです。

 

神の世界に、善も悪もないことは、論理的に考えてみてもすぐに解ることです。大宇宙の創造者、“それ” を、人は「神」と名づけました。“それ” が何であるかは、人知を超えたものですから判然とはしませんが、“それ” が一者であることだけは確かです。もし二者であったとすると、互いを創造したものは何者かという矛盾が生じてしまいます。結局、創造主は一者ということに落ち着かざるを得ません。

 

ならば、一者である「神」の中に、どうして善と悪が存在するでしょうか? 自己のこれが善、これが悪と、いったい誰が決めるのでしょうか? 一者であるはずの「神」を判定できる者は、他のどこにもおりません。よって、善も悪もありません。また、一者であるはずの「神」が、なにゆえ自己の内に罪と罰を創造するでしょうか? 悪さをした自分の左手を、右手で叩くとでも言うのでしょうか?

 

善と悪。罪と罰。これらは、これまでの人間たちが、ほぼ総意のもとに考え出した、壮大なるフィクションに過ぎないのです。ああ、それなのに‥‥。どれほど多くの人が、これまで、このドグマの牢獄の中で不自由な人生を送って来たことでしょう。あなた方は、もう真実の神学に目覚めなけばなりません。魚座の時代を超えて、水瓶座の時代に相応しい神学に。宇宙には善も悪もない。宇宙にあるのは、「分離」から「合一」に至るまでの、霊的進化の道だけなのです。

 

*魚座の時代は宗教の時代で、そのシンボル(双魚)が示していた通り、善悪二元の対立が表面化した。しかし、水瓶座の時代に移行したことで、星座図が示しているように(少年が水瓶に入っている水を地に注ぐ)地上に天からの真理が注がれる時代となった。

 

あなた方は全員、もともと一者だった霊的存在から、お餅をひねり出すようにして細かに分けられました。そして身体という物質的衣裳を纏うことによって、個別化した存在となり、地上に降り立ったのです。この個別化し、物質世界に適応した霊(Sprit)は、地上でそれぞれが独自の体験を重ねることにより、次第に個性が芽生えて行き、やがて自我を伴った「魂」へと成長したのです。

 

ですから、あなたの中には、一者と同じ霊的資質と、「魂」としての本来の自己と、身体的な自己の感覚とが、常に同居しているのです。「魂」は、一者と、身体的な自己との中間にあって、両者を仲立ちしています。そこで、そういうあなたを「多次元的存在」と言っています。あなたは、肉体だけの存在ではなく、多次元的に存在しており、常に多次元的な意識を有しているのです。

 

*この場合の多次元とは、数学的次元のことではなく、霊性密度のこと。別の言葉で言えば、複数の振動数の帯域を同時に持っているということ。

 

なぜ、このようなプロセスが生じたかと言いますと、「神」が、自分自身を把握し、自分自身を再創造するためです。「神」は一者です。そのままでは、自己を把握することが出来ません。白色だけの世界にいたのでは、白が白とは分からないのと同じです。黒があるからこそ白が分かるのです。そこで「神」は、自分自身を知るために、全智から、あえて霊(Sprit)を切り離し、自分に似せた存在を地上に創りました。それが人間です。

 

*姿かたちが似ているという意味ではなくて、存在構造の多次元性が似ているという意味。これが誤解され、「神」はしばしば、擬人化された白髭の老人として描かれるようになった。また人間は、全智から切り離された結果、「神」を〈想像〉することが可能となったが、代わりに(通常の意識下では)全智を失った。

 

あなた方は、身体的な「分離」という条件の下で、それぞれ個別の体験を積み重ねながら、自己の本質が実は「合一」の存在にあったのだと気づくまでの、長い長い旅を続けるのです。これが、いわゆる「自分探しの旅」です。その旅は、結局のところ、旅は必要なかったんだ、最初から自分の中に全てがあったんだと気づくまで、何度も輪廻転生の機会を与えられ続けられるのです。

 

ですから、霊的に見た場合、個々の「魂」の成長の差は、「分離」から「合一」への進化の程度ということでしかありません。それは進化の程度であって、優劣ということではないのです。どんな「魂」であっても、最後の最後は、例外なく「合一」を理解し、体現するところに至るのです。ところが、人間はこれを知らない上に、多次元的な意識を持った存在ですから、このことを、それぞれの意識段階で、異なった感覚として捉えてしまうのです。

 

チャートを見てください。宇宙には、「分離」から「合一」へと至る進化の道しかありません。

ところが、あなた方の「肉」の感じ方(つまり身体的、物質的感じ方)は、「分離」を「善」、「合一」を「悪」と感じてしまうのです。

 

これは、いちばん最初の、地上に降りて個別化した際の喜びが、その後もずっと継続していてそうさせるのであり、この結果、人間の大半は「分離」意識をくすぐるものには強く反応し、「合一」意識は無視するか、逆に排斥しようとまでするのです。

 

具体的には、優劣、競争、損得、貧富、美醜、差別、階級、闘争といったものを大半の人間が好み、社会のあらゆる場面でそれを推進する一方で、平和、融和、和合、平等、分配といった考え方は、これを嫌悪し、揶揄したり攻撃したりするのです。「平和ボケ」という用語があるのはその一つの表れです。アメリカでは、自己防衛のために銃を所持することは当然と考える人が多く、こういう人たちが政治的にも大きな力を持っています。

 

ですが、人間は多次元的な意識を持つ存在です。あなた方の本質はあくまで「魂」にあるのであって、「魂」は「合一」こそが「善」、「分離」意識は「未善(未だ善に至らない)」の段階なのだということを、ちゃんと知っているのです。なぜなら、「魂」は元々「合一」であったところの一者から分かれた存在だからです。しかしこれは、あくまで「感じ方」であり、冒頭に申し上げたように、宇宙には「善」も「悪」もありません。

 

このようにして、一人の人間の中に、「善」的なものに関する、相反する「感じ方」が同時に生じることになるのです。しかし、いま言った多次元的な意識構造を意識し、理解している人は、残念ながら極めて稀です。知識としてこれまでに教わったこともありませんし、内観することを習慣づけて生活している人(つまり日常的に「瞑想」を行なっている人)もほとんどいないためです。

 

その結果、大多数の人は、「肉」の感じ方(自我)と、「魂」の感じ方(真我)との間でいつも揺れ動き、葛藤を起こすことになるのです。これが、心がザワザワする際の、背景にある原因なのです。どっちが本当の自分の声なのかが判らない。「肉」の感じ方と、「魂」の感じ方との中間領域で、互いの意識が綱引きを行って、それがザワザワとした感覚をあなたの中に生じさせるのです。

 

さて、いつまでもザワザワした状態では気持ちが悪いですから、どこかで手打ちをしなければなりません。そこで、意識の根っ子では「分離」の方により気持ちが傾いているけれども、これを覆い隠して、「合一」的なことを言ったりやったりしてしまう。これが「偽善」的行動となるのです。反対に、言葉や行動では「分離」の考えに同調しながらも「なにか違うぞ」と思う。その時に、人は「罪悪感」を抱くのです。

 

「偽善」よりも「罪悪感」の方が、より本質に近づいて来てはいますが、どちらも、未だ葛藤状態の中にあることには変わりがありません。さてここで、人間社会の中に大きな問題が生じます。

 

肉欲が支配する物質世界と、霊的世界とでは価値観が逆転しているために、あなた方の世界では、「分離」を「善」だと主張する者がもてはやされ、崇拝され、ピラミッド構造の頂点に支配者として君臨することになります。すると、お金も産業もマスコミも教育も、全部がこれらの人たちの傘下に置かれますから、多くの人が「なにか違うぞ」と直感で思ってはいても、この構造の中に、仕方なしに巻き込まれて行ってしまうのです。

 

こうして繰り返される、最大の悲劇が「戦争」です。クリント・イーストウッド監督の作品に『アメリカン・スナイパー』という映画があるのですが、この作品は、一人の人間が(元々は普通の市民が)、いかにしてイラク戦争に巻き込まれて行ったのか、戦場に送られて大量殺人者となって行ったのかを、鮮明に描き出しています。

 

主人公の男性は、子どもの頃より、父親から徹底的にアメリカ式のマッチョイズムを叩き込まれます。これが染み付いた彼は、青年となってしばらくは荒馬を乗りこなすロデオに夢中になるのですが、アメリカ大使館爆破事件を契機に国家の役に立ちたいと考えるようになり、海軍に志願。そこで特殊部隊のシールズに配属され、優秀なスナイパー(狙撃手)となるのです。

 

イラクに派兵された彼は、都合4回、述べ1000日に及ぶ現地勤務の中で、160人もの “敵” を狙撃によって殺害し、軍隊内部で「レジェンド(伝説)」とまで呼ばれる存在になるのです。しかし、これがもし、アメリカ国内でアメリカ人に対して行われたことだとしたらどうなるのでしょう。5人殺せば殺人鬼、160人殺せばジェノサイド(大量殺戮)と言われるのではないでしょうか?

 

それが、同じことをイラク人に対して行ったら、ヒーローになってしまうのです。彼も、子どもを殺さざるを得ない時には、さすがに躊躇する。でも信念に従うことを優先します。その信念とは、父親から徹底して叩き込まれたマッチョイズムであり、アメリカ国家への忠誠心であり、自分が信ずる神(キリスト教)の庇護のもとにあるという三位一体の「正義」なのです。

 

この三位一体は恐ろしい。家庭教育、国家教育、宗教教育が一つのものとなった際には、160人もの人間を殺害する殺人鬼に、容易に人間はなれる。4回の派兵の間に、彼も結婚し、二人の子どもにも恵まれ、家庭ではよきパパとなっている。それなのに、自分が殺した160人にも、同じように愛する家族がいて、日々の営みがあったということまでは想像が及ばない。この、もの凄い「分離」意識、「分離」感覚。結局、彼は、次第に息苦しさを覚え始めるのですが‥‥。

 

しかしここで、そうなったことの背景にある、人類史にいつも共通したある枠組みに、地球人は気づかなければなりません。彼を、そのような「信念」で染め上げた者たちが背後に存在するということ。そしてこの人たちは、「分離」が「善」なのだと、本気で信じているのです。自分自身が先ず、心底からそのように洗脳されている。ですから、多くの人たちとは違い、その信念に揺るぎがないのです。平気で嘘をつけるし、そこに罪悪感も生じない。

 

「分離」を「善」と信じ切る者は、「合一」を理想とは考えません。むしろそれは、自分たちが信じる世界を破壊しかねない危険思想。「合一」「平等」などという発想は、彼らにとっては「敗北」以外のなにものでもないのです。こんな人たちに絶対に負けるわけにはいかない。ですから、共通利益がある間は「仲間」であっても、最後は、裏切り、仲間割れ、罪のなすり付け合いで終わる。宗教組織や家元制度にしょっちゅう分派が起こるのも、みなこれと同じ理由です。

 

霊的進化から見れば、最も遅れている「魂」が、この世のあらゆる支配権を握っている地球人類。そして、大多数の人たちの中に潜む優越感や、差別意識や、支配欲や、所有欲や、攻撃性などの「分離」意識を、あの手この手で刺激してはこれを表に出させ、自分たちの世界に引き摺り込む。しかし大衆は、そのようにして支配され、隷属させらているということに少しも気づいていない。むしろ喜んで、その誘惑に着いて行く。

 

何度同じ悲劇を経験しようが、何度転生をしようが、人類は未だにこの構造に気づかない。支配者にとって、現場で戦う者は、単なる使い捨ての駒。戦場でも会社でも同じ。死んだら勲章を与えて、また騙して、自分たちだけはのうのうと生きて行く。心など痛まない。まだその段階にすら達していない未熟な「魂」だから。彼らにも守護霊がいて、一生懸命気づかせようとはしているのだが、本人が気づかないことには‥‥どうしようもない。

 

よいかな、ここが肝心要。人類は、いま瀬戸際にあるのですぞ。だから、みなさんが、支配者たちに気づきを与えてやって欲しいのだ。繰り返し言って来たように、騙される人が誰もいなくなれば、騙す人は成り立たなくなるのだよ。そこで、先ずはあなたたちが、善悪というものの背景にあるこの構造に気がつくこと。あなたの本質は身体にあるのではなく、「魂」にあるのだということ。「肉」が感じる「善」と、「魂」が感じる「善」とは、逆になっているのだということ。

 

そこをしっかり学習して、世に満ち溢れる情報を、見極める眼を養って欲しい。本物とニセモノ、どうでもよいことと肝心なこと、真実であることとそうでないこと。そして、闇に誘う道と、光へ続く道。この取捨選択が、あなたという人間の今後の「生き方」を決めるのだよ。それは、決してあなた一人の問題ではない。その集合意識が、人類の行く末を決めることになるのだからね。

 

だから、そのようにして、先ずはあなたたちが目覚め、次いで彼らにも気づいてもらい、人類が永らく置かれて来た奴隷状況から、そっくりジャンプして欲しいのです。お願いしますよ。

 

可哀想に‥‥。「分離」意識に凝り固まった人たちは、未だ「魂」の喜びを知らないのです。「肉」の喜びの段階に、ずっと埋没したままなのです。権力者たちの顔をよく見てごらんよ。楽しそうに見えますか?

 

でも、これを読んで下さっているあなたにはお解りでしょう。「肉」の喜びと、「魂」の喜びとは、全く異質であるということが。きっとこんな経験が、あなたにもあることでしょう。解り合えた、誠意が通じた、真心を受け取った、そう感じた瞬間、わけもなく涙が溢れ出てきたという経験が。それは「魂」の喜び。あなたの本質が、深いところで知っていた「善」の扉が開いた瞬間なのですよ。

 

なにものにも代えがたいこの喜び。物質世界を超越した「魂」のふるえ。あなたのこれからを、この喜びで満たしなさい。この喜びの中に生きなさい。そして、周囲の者たちにもこの喜びを分け与えなさい。友よ、光の道を進め。無償の愛の道を一心不乱に生きるのだ。

人類が、歴史から学ぶこと

記憶力が人一倍劣っている私にとって、小中学校時代の地理・歴史の授業は、苦痛、拷問以外の何物でもありませんでした。人の名前や年月日が覚えられないのです。カミさんの誕生日すら覚えられず、当てずっぽうで言ったところ違っていて、もの凄く怒られたことがあります。命日がいつだったかも、もう覚えていない。その理由が最近になってやっと分かりました。そういうものに関心がない!

 

歴史教育が大切だと言います。確かに、歴史から学ぶことには大いに意味があります。でも、世の識者が「歴史教育が大切だ」と言っていることについては、異議を唱えたいです。ロゴスとしての歴史(記述された歴史)に、所詮真実などありません。というよりも、そもそもこの世に真実などない。ですから、「歴史教育が大切だ」と言った場合、それらは例外なく、ある特定方向に思想を導きたいということを意味しています。

 

よいですか、大切なのは「教育」ではなく、自分が「学ぶ」ことなのですよ。これは全ての分野について言えます。「教育」と「学ぶ」とでは、180度も違う。「教育」とは人間をロボットにすることであり、「学ぶ」とはロボット状態から脱することです。ところが、「教育基本法」なるものが定められているのを見ても分かる通り、誰もが「教育」を無条件で是として考え、これをベースにどうあるべきかを語っているのです。

 

こうした思考法が、人類に、どれほどの歪みをもたらして来たことか。「教育」と言えば、即よいことと思ってしまう。これだけじゃありません。「倫理・道徳」と言えば、即よいこと。「経済発展」と言えば、即よいこと。「防衛」と言えば、即よいこと。「愛国」と言えば、即よいこと。「薬」と言えば、即よいこと。etc.。これらはみんな、そう思わせたいと願った支配者が作った、プラットフォームなのですよ。

 

歴史は大の苦手という私でしたが、NHKの大河ドラマや、戦国武将ものや、三国志といったものにも、全く興味が持てませんでした。一体どこが面白いのか、さっぱり解りませんでした。でもそれを口に出して言えない。多くの人が熱狂する中で、自分は歴史が苦手だし、教養はないし、ずっとコンプレックスになっていました。でもこれも、最近になって、やっとその理由が分かりました。

 

これから100年、200年経た時に、歴史の教科書に、今の政治を司っている宰相たちの名前は載るのだろうかと考えてみたのです。そして、その権力の攻防史を学習することに、果たしてどんな意味があるのかと考えてみました。結論はひとこと。バカバカしい。でも、そうならないとも限りませんよね。時が経つにつれて、寓話化され、銅像が建立され、遺品が博物館に納められ、記念小学校が造られ、郷土が誇る偉人に奉りあげられるかも知れません。

 

今やっている過去の歴史教育といったものも、これと大差がないのではないでしょうか。よく言われることですが、History というのは his story であると。つまりは男の物語、もっと言えば支配者、権力者の物語です。A国とB国が戦争をして、A国が勝ったとしましょう。すると、A国の視点から都合よく作られた「歴史」だけが残るのです。私たちは、こうした権力者の攻防史を、それが「歴史」だと言われて覚え込まされていくわけです。

 

大事な合戦で、いかなる策略を持って敵に勝利したか。どこで誰を味方につけ、誰が裏切ったのか。忠誠心の篤い優秀な家来がどれだけ適材適所されていたのか。それらを紐解くことが歴史研究ということになっています。でも、前線で槍を持って戦った足軽のC助はどうなったのでしょうか? 日報を点けていたけれど無かったことにされてしまったD作はどうなったのでしょうか?

 

歴史の藻屑と消えてしまって、語られることはありません。考えてみてください。これほど理不尽なことがあるでしょうか? 同じ人間なのに、同じ生命を宿しているのに、みんな同じ神の子なのに‥‥。戦争でどれだけ大勢の人が死のうとも、原発事故でどれだけの人が故郷を追われようとも、また生活苦でどれだけ自殺者が出ようとも、その人たちの名前が、歴史で語られることはありません。

 

いつの時代でも、歴史に名を残すのは、人々をまるで消耗品のように扱った、支配者であり、権力者であり、お金の亡者なのです。もっと言えば、非道の殺人者をヒーローとして教え込むことが「歴史教育」になってしまっている。こんな歴史など、別に、私は知りたいとは思いません。私は、今の権力者たちの顔を見るよりは、普通の人、名もなき(本当はあるんだけど)人、我が愛する友たちの方がずっと好きです。

 

歴史学習で大切なことは、そこに(自分が)何を見出すかなのです。言い換えれば、自分がその歴史に、どんな意味を与えるか、です。それが、歴史から「学ぶ」ということの意味です。これ以外に、歴史から「学ぶ」意義はありません。客観的事実などは幻想に過ぎません。「客観」も誰かの主観に過ぎませんから。ですから、誰かが意図的に与えた意味に習うのではなく、自分が意味を与えてこそ、初めて「学んだ」ということになるのです。

 

例を上げましょう。ご存知のように、日本は広島と長崎で、あの悲惨な原爆の被害を体験しました。ここで起こったことをよく知れば、またどういう経緯でそうなったのか、そして体験者がその後どうなったのかをよく知れば、同じことを、自分が再び体験して味わう必要はありません。「こんなことは、もう絶対に嫌だ」と思うだけでよいのです。そこに、歴史から「学ぶ」ことの意義がある。

 

ところが、そう思わない人もいるのです。戦争の抑止のためには「核」が必要だ。自分たちに敵対する国を時々「核」で脅してやることも必要だ。場合によっては、小型の「核」を使ってもいい。あるいは、史上最悪の原発事故を経験しても、日本には原発が必要だ、再稼働を急げ、と言う人もいる。こういう人は、いったい歴史の、どこに、何を学んでいるのでしょうか?

 

この数年で、歴史の裏側や、闇の勢力の存在について、多くの人が本当のことを知るようになりました。このブログを書き始めた当初は、私もかなりぼかした言い方をしていたのですが、もうそんな必要もないかも知れません。これは、既に何度か語って来たように、地球に対して、宇宙から今、アセンションの強い光が注がれているために、隠されていた闇がどんどん明るみに出ているのです。

 

そして、これも何度も書きましたが、ジョン・レノンが「世界は狂人によって操られている」と言いました。今の日米を見れば、「本当にそうだなぁ」と思うのではないでしょうか。世界史は謀略の歴史です。謀略に次ぐ謀略で、人々が表で信じ込まされて来たことと、裏側はまるで違うのです。日本でも、明治維新にまつわる闇や、日露戦争開戦の裏側などを知る人が随分と増えて来ましたね。

 

しかしこの謀略が、以前ほどは、すんなりとは通らなくなっているのです。「シリアが化学兵器を使用した」と言って、トランプ大統領は国連決議も経ずに、また米国議会の承認も得ずにシリアを爆撃しました。これに日本は、精査もせずに、直ちに支持を表明しました。しかし、この化学兵器使用の証拠とされる映像が、ヤラセの演出であったことがすぐにバレてしまいました。

 

謀略が拙速なのです。すぐにバレるような嘘をつかざるを得なくなっているのです。ケネディ暗殺の闇は50年間もちました。ベトナム戦争の闇は40年間もちました。でもイラク戦争の闇は10年間しかもたなかった。そして今は、一週間ももたない。だから、嘘に嘘を塗り重ねるしかなくなっている。それほど彼らは追い詰められているのです。強い光が、闇を照らし出すようになって。

 

いったい何の権利があって、デッチ上げを「正義」と偽り、他国に爆弾を落とせるのでしょうか? 人の命を、人々の生活を、何と思っているのでしょうか? 米英仏は、いったい何様のつもりなのでしょうか? そして日本は、国際的な信用をどこまで落とすつもりなのでしょうか? 歴史に決して学ぼうとしない者たちが、そろって歪んだ「歴史教育」を説くのです! ああ、この人類の終わりなき錯誤。カルマの連鎖。

 

今の世界がメチャクチャなのは、陣痛の時を見ているのです。それは、来るべき世界への産みの苦しみ。今までの秩序(のように見えていたもの)の大崩壊。世界史は謀略の歴史であり、それは闇の勢力が仕組んだものであり、時の権力者たちは、ただの操り人形。その操り人形に、さらに大衆が操られ、奴隷にされ、搾取され、戦争に駆り出され、ぼろ雑巾のように使い捨てにされてしまうことの悲劇。

 

この悲劇の原因は、一体どこにあるのかを、人類はよくよく見つめねばなりません。今の権力者たちを叩いたところで、どうにもなりません。政権が別のパーティーにスイッチしたところで、どうにもなりません。戦争を武力によって無くそうと思っても、どうにもなりません。紙幣が仮想通貨に替わっても、どうにもなりません。そういう「仕組み(System)」そのものに、欠陥があると気づかない限りは。

 

実に、ここが人類の分かれ道。何もかもが信じられない「Post-truth」の時代に、それでも「真理」を探し求める人たちに言おう。全ての因は洗脳にある。深い深い洗脳に。あまりにも深い洗脳に。

 

洗脳とは、洗脳されている間は、それが洗脳とは気づかないものだ。大衆を洗脳しているマスコミや教育が、すでに洗脳されている。そしてそれらをコントロールしている政府もまた洗脳されている。さらには、それらを陰で操っている闇の支配者たちも、実は洗脳されているのだよ。何によってか? 一なるものからの「分離」意識によって。人々はバラバラであり、人間には、優れた者とそうでない者とがいるという意識によって。

 

ゆえに、彼らは、大衆支配という道を選んだのだ。そうすることが当然だと考えたのだ。だから、平等に分配しない仕組みを創ったのだよ。そして、富者になるイメージをチラつかせて、欲望に火を点け、このシステムの俎上にあげて互いを競わせ、そのリングから落ちる恐怖を与えて自由を奪い、馬車馬のように働かせ、その後で富を奪い取る壮大な仕組みを構築したのだよ。

 

しかも始末の悪いことに、多くの宗教は、この「分離」意識の構造に、「善と悪の戦い」という図式を与えて、これを容認どころか、なお一層強化してしまったのだ。この世には善と悪があって、悪を叩くことが善を保証するのだと言って。寛容を教えるべきはずの宗教が、こぞって真反対のことを教えたのだよ。これが、今日、地球文明を破滅させかねないほどの火種となって燻っているのだ。なんと愚かな人々であろうか。

 

神の名を語って戦争をすることは、もういい加減にしてもらいたいものだ。本当に、神がそんなものを望んでいると思っているのかね。人々が流す血をわたしが見たいと、本気で思っているのかね。いいかい、善も悪もないのだよ。みんな我が子なのだよ。あるのは、「分離」という意識から、「合一」という意識に至る、意識の発達度合いの違い、つまりは霊性の向上度合いの違いだけなのだ。

 

そして、この学習の機会は、つまり霊性向上の機会は、全部の「魂」に等しく与えられているのだよ。そこに差別は一切ない! 以前に、保母さん保父さんの視点に立って世の人々を見て欲しいと言ったよね。実にいろんな人がいるんだよ。「分離」意識と、そこから派生する敵対意識、被害者意識でまだガチガチの人から、「合一」意識を体現するに至った人まで。

 

未だ幼稚園の年少レベルという甘えん坊しゃん。年中レベル、年長レベルにまでちょっとだけ進歩した人。そこを終えて小学生に上がった人。そしてごく稀に中学生レベルに達した人も。と、ここまでが地上の義務教育。これ以上は、肉体を持っている間は行けない。だが、ついでに言っておく。まだまだ道は続くんだよ。高校、大学、大学院とね。

 

幼稚園の年少組の霊性にある「魂」の横暴に、いつまでも引っ掻き回されたままでいて、どうするんだい? そして、それが許せないと言って、今度は年少組をやっつけるのかい? 違うだろう。あなたの課題は、自分がステップアップすることじゃないのかい? 自分がステップアップするとはどういうことなんだろうね。また言わせるのかい? 無条件の愛の人を目指すということなんだよ。

 

愛を与えれば、愛が返ってくる。疑いの目で見れば、疑いの目が返ってくる。敵視すれば、敵視が返ってくる。ヘイトスピーチをすればヘイトスピーチが返ってくる。異次元の圧力を加えれば、異次元の圧力が返ってくる。簡単なことだよ。みなさんが今、見ているままさ。なのに、なぜこんな簡単なことが解らないのかねぇ。いいかい、人を助けることで自分が助けられ、人を癒すことで自分が癒されるのだよ。

 

だから、わき目を振らず、ひたすらここを目指しなさい。無条件の愛に生きる人が、一人でも二人でも増えれば、洗脳に騙される人がそれだけいなくなる。何度も同じ過ちを繰り返していてはダメだ。歴史の裏、裏の裏、裏の奥、奥の奥を見るのだよ。光が射している今がチャンスだ。「魂」の世界からのみ歴史を見なさい。そして、歴史に学んで、自己の「魂」の糧としなさい。

 

あなたの健闘を祈る。

よくある質問

セミナーなどでよく訊かれる質問をまとめてみました。

 

Q.あなたは霊能者なのですか?

 

A.いいえ、霊能者ではありません。人間誰しもが持っているという意味においては、私にも少しは霊感があります。しかし、いわゆる「霊能者」と言われる人のような特別な能力は所持していません。アカシックも読めませんし、予言もできませんし、オーラも見えませんし、スプーンも曲げられません。どちらかと言えば、劣等意識の強い「0能者」で、へなちょこ人間です。

 

メッセージの語り手と、私とは全くの別人です。私も、日々、反省と忍耐と努力を重ねる、ただの一人の求道者に過ぎません。

 

Q.宇宙と繋がったメッセージを下ろしているとのことですが、なぜそんなことが出来るのですか?

 

A.最初から出来たわけではなく、徐々に鍛えられたのです。上からによって、用いられるように。この『気づきの啓示板』も、最初のころと今とでは、レベルやスタイルがまったく違って来ているのがお分かりいただけると思います。途中、一段また一段と、階段をジャンプするような感覚的な変化があり、その度に内容が変化していきました。

 

いちばん最初は、「神」という言葉を出すことにもかなりの抵抗感がありました。しかし今では平気です。初期のものは未熟で恥ずかしいのですが、変化の過程をありのままに見ていただいた方がよいと考えて、そのままにしてあります。誰もが同じことが可能だということを、敢えてみなさんにお伝えするためにも。

 

Q.具体的には、何と繋がっているのですか?

 

A.ソースが何であるか、またどの霊性密度にいる存在なのかも、今のところ、私には分かりません。これは私のテレパシー能力が低いせいでもありますが、ソースにとっては、名前を明かすことが別に本意ではない、という面もあると思います。どうも複数おられるようで、男口調になったり、女口調になったり、軽いノリでジョークを言ったりと、様々です。

 

Q.どのようにして、このメッセージを書いているのですか? これは自動書記のようなものですか?

 

A.いいえ、自動書記ではありません。私のコントロール意識は失われておらず、ボーッとした感じではありますがちゃんと起きております。そのため、タイピングしたメッセージ内容が、果たして自分の考えなのか、上からのものなのか、区別が判然としません。そのことに、これまでの間ずっと葛藤があり、コンプレックスも感じています。

 

自分の場合、声が聞こえるわけでも、文字が見えるわけでも、イメージが浮かぶわけでもありません。何かもやっとした概念があり、それを、自分の引き出しにある言葉から、適当なものを選び出しては、彫刻のように創り上げていくといった感じです。

 

この、言葉を選び出すという作業が非常に忍耐のいるもので、自分の未熟さ、無能ぶりがさらけ出されるのでとても恥ずかしいです。そのため、文字校正以外では、自分がタイピングしたものを読み直すことはありません。その場限りで、全部、忘れるようにしています。

 

構成のようなものは一切考えておらず、いきなり書き始めます。呼び水のために、自分のことや、身近な出来事や、社会現象を先ず取り上げることが多いです。とにかく、最初の1ブロックが書き上がると、後からは、次から次へと次のブロックの概念がやって来ます。

 

よく「長過ぎる」というお叱りを受けるのですが、長く書こうと思っているわけではありません。やはりシンドイですし、私も出来れば短い方がいいのですが、後から後からモヤモヤがやって来るのです。きっと、しっかり伝えたいという思いが、上の存在たちにはよほど強いのでしょう。

 

そうやって、連携パスのようにブロックを繋いでいくと、だんだんと自分の波動も上がって来て、ついには憑依したような言葉が出て来ます。この状態の時の一人称は「わたし」と書いており、前半の「私」とは区別しています。これはハッキリ分かれるというよりも、どちらが優勢にあるかという違いです。私には明確な区別がつきません。

 

ですから、ニールさんの『神との対話』シリーズを読んだ時には大変な衝撃で、その内容もさることながら、どうやって「自分」と「神」との言葉を分けて記述できたのかと、驚嘆しました。(一度だけ、同じような感覚になったことがあります。)

 

そのようなわけで、コンプレックスと恥ずかしさを抱えながら継続している作業なのですが、最近になってようやく観念したと言いますか、自分は自分、自分がやれるスタイルでやるしかない、これが自分の役割、と思うようになりました。

 

考えてみますと、自分にさしたる「霊能」が無かったことは、今世におけるギフトであったかも知れません。もし「霊能」があれば、「霊能」に溺れて錯覚し、「真理」探求の姿勢を持てなかった可能性が大です。そう考えると、私は、この私の今世の役割を、徹底していく他はなさそうです。

 

これからも、出来るだけ慎重であり続けます。どう受け止めるかはみなさん次第です。批判もどうぞなさってください。それは自由です。みなさんの今後の人生の気づきに、霊性の向上に、このブログのメッセージが少しでもお役に立てれば幸いです。

 

Q.この『気づきの啓示板』ブログには、どうしてコメント欄がないのですか? またFacebookなどのSNSを利用されていないのはどうしてですか? 読者が少ないと書かれていますが、利用すれば、もっと多くの人に届けられると思うのですが。

 

A.そうすることの意義を感じていないからです。アクセス数を上げることには関心がありません。そんなことをしたところで、結局は、「波動の法則」によって、ある程度似通った波動の人のところにしかメッセージは届かないのです。また、もし自分が、名声や金銭などの誘惑に負けてしまったら、たちまちにして、上から見放されてしまうことでしょう。

 

それに、「気づき」は純粋に個人的な体験です。このブログに掲載しているメッセージは、共通した何かを知らせようというよりも、それぞれの方のドアノッカーの役割を果たしているに過ぎません。「気づき」というのは、あなたが、自分の中に元々あったものに気づくのです。またそれは、その人の霊性の発達段階に応じて顕れるものなのです。

 

コメント欄を活用したり、Facebookなどを用いれば、読者の方々が、自分の想いを言えることができ、それはそれで別の「気づき」にもなり、活性化することでしょう。しかし、今のインターネット状況では、デメリットの方が大きいと考えます。

 

多様な個人的な体験が行き交うことによって、そこに軋轢が生じることは、どうしても避けられないでしょう。それは、私が望むところではありません。また、私自身も、そうした軋轢の影響を受けてしまい、それ以降のメッセージの受信が困難になってしまうことでしょう。高次元の存在からのメッセージは、静寂の中にしか下りることがないのです。

 

ここで大切なことを申し上げます。現代人の不幸は、「情報」の虜にされてしまっていること。「情報」の虜になっている限り、霊性の向上は望めません。入り口にすら立てない。重要なのは「情報」ではなく「感覚(feel)」なのです。「智」は外にあるのではなく、あなたの中にすでに備わっています。その「智」の扉を開くためには、「情報」はむしろ遮断しなければならないのです。

 

古代人の霊性が高かったのはなぜでしょうか? 自分の「感覚(feel)」を大切にし、森や、海や、花や、水や、風と共に生き、それらと会話が出来たからです。現代人に欠けている勇気は、何よりも「情報」を捨てる勇気、そして「お金」を捨てる勇気、「孤独」になる勇気です。

 

Q.貧乏だということですが、セミナーなどの料金をもっと上げられてもいいのではないですか?

 

A.貧乏というのは相対的なもので、世間的に見れば確かに貧乏ですが、それを惨めには感じておりません。むしろ自由です。貧乏である原因は単純で、金銭が得られるような仕事を殆どしていないためです。それに割く時間があったら、『虹の学校』の活動に一身を捧げたいと、ある時期を境に決心しました。

 

また同時に、宇宙の仕事には付加価値を求めない、とも決めました。なんとなれば、「宇宙」は誰のものでもなく、「真理」はタダだからです。それと、私がすでに年金生活者であり、月に8万円弱をいただけているので、それで充分だということです。しかし、もし年金が破綻したりすれば、お恵みをいただかなくてはならなくなるかもしれません。

 

ということで、「清貧」を気取っているわけではありません。私は「清貧」思想は嫌いです。霊性の高さと、貧富とは、何の関係もないと思います。イエスが「貧しき者は幸いである」と言った意味は、貧しい人の方が困難に遭う機会が多い(つまり、それだけ「気づき」のチャンスが多い)という意味で言ったのです。貧しくても、「気づき」がなければ、どうしようもありません。

 

Q.生徒さんは、何人くらいおられるのですか?

 

A.生徒という人はおりません。「虹の学校」は先生も生徒もなく、みな等しく宇宙の子です。あなたを指導してくださるマスターは天上界にいて、その「聖徒」となるかどうかはあなた次第です。あなたが「聖徒」であり続ければ、マスターはいつでも援助の手を差し伸べてくださいます。しかし、少しでも道理に反するようなことがあれば、静かに去って行かれることでしょう。

 

Q.どうして駄洒落とかが多いのですか?

 

A.ジョークは神様の発明品、とだけ答えておきましょう。

「祈り」の真髄

神社仏閣に行くと、たくさんの祈願札を見かけます。お正月には恒例行事のようにして祈願祭が行われますし、人々が皆、お賽銭を投じては手を合わせて祈りを捧げています。受験シーズンにでもなれば、合格祈願でたいそう賑わいます。私もかつては、意味も解らずに、単に人真似でそのようなことをしていました。手を合わせた向こう側に、霊験あらたかな何者かがおわすと信じていたのです。

 

けれども、これらの願いの一切合切を聞いていたとしたら、神様というのは大変です。忙しいだけじゃなくて、おそらく世の中はメチャクチャになってしまうことでしょう。色んな人の欲望が、一斉に噴き出して。入学定員が100人のところに200人の応募があったとします。その200人全員が合格祈願を出したらどうなるんでしょう? やっぱり100人しか受かりませんよ。だとしたら「祈願」というのは何なのでしょうねぇ。

 

ここで、何か変だな?と思わなくちゃいけませんよ。合格祈願ていどなら理不尽さをあまり感じないかも知れませんが、身内に生きるか死ぬかの瀬戸際にある人がいるといった場合や、大事故で生死が判らないという時に必死で無事を祈るといった場合であっても、これとまったく同じことが起こります。結局は、生きる人と死ぬ人に分かれるのです。

 

そして、願望通りの結果が得られなかった時には、「神も仏もあるものか!」と悪態をつきたくなるでしょうし、願望通りの結果となった時には、「ああ、祈りが通じたんだな」「私の祈りが聞き届けられたんだ」と思うのではないでしょうか? だとしたら「祈願」というのは何なのでしょうか。顕れる結果には、「祈願」とは別の力学が働いていることに、お気づきにはなりませんか?

 

「祈願」という言葉には、「祈り」に「願い」がくっ付いています。そのため、多くの人は、「祈り」と言えば「願い事」をすることだと無条件に思い込んでいます。自分の「願い」をなんとか実現させたいと思う。そのために、神仏のお力をお借りする。いま「お借りする」といったのは、ソフィストケートした言い方であって、実体は、自分の願望のために神仏を使ってやろう、という算盤(そろばん)ずくです。

 

スピリチュアル業界(?)に首を突っ込んだ人の中に、よく「引き寄せの法則」というものに引き寄せられている人を見るのですが、こんなものに引っ掛かっていてはダメです。その人は、いったい何を引き寄せたいのかな? 同じ波長が共鳴し合うというのは真実です。ですが、その「自分のために何かを引き寄せたい」という願望そのものが、エゴから発していることに気づきませんか?

 

ですから、私は常々こう言っているのです。「引き寄せの法則」を活用なさりたいならどうぞしなさい、と。でもおまけに漏れなくエゴもついてくるよ、と。

 

同じ波長が共鳴し合うというのは真実です。互いに引き合うと言ってもいいです。引き寄せると言っても間違いではありません。それは厳然たる法則だから。でも、(振動数が)高い波長でなければ、高い波長を引き寄せることは出来ませんし、低い波長は、低い波長どうしで共鳴し合うのです。

 

ですから「引き寄せの法則」という言葉に引っ掛かっている時点で、その人はスピリチュアル業界のエゴの戦略(ひとつ、これで引っ掛けてやろうという低い波長)の中に落ちている。それは、あなたの中に眠るエゴの部分が刺激され、共鳴したからです。逆なんですよ。天使や大師たちは、いつも応援したい人を探しているのに、自分たちを引き寄せるだけの高い波長を持った人がなかなかいないことにお嘆きなのです。

 

宇宙というのは法則です。宇宙全体が法則なのですから、なんぴとたりとも、この法則の下から逃れることは出来ません。「祈願」とは関係なしに、試験に受かる人と受からない人が生じるのも、「祈願」とは関係なしに、生き残る人と死ぬ人が出てくるのも、その背後に、人々が知らない、冷徹な「宇宙の法則」、つまり「真理」が厳然と働いているからなのです。

 

あなた方は、もういい加減に、先に述べたような迷信から脱して、その奥にある「真理」に目覚めなければなりません。それに、容易には受け入れらないのを承知で敢えて言えば、霊的世界から見れば、この世での生死など別に大した問題ではないのです。なぜなら「魂」は不滅なのですから。「魂」こそがその人の本質であり、死後もずっと生き続けるのですから。この世でいう生死は、ドアを隔てた入退室に過ぎないのです。

 

さて、真の「祈り」とは何かです。それは「願い」などではありません。いくら願ったところで、「宇宙の法則」に合致しないことは、実現のしようがないのですから。「祈」という字は、「示」ヘンに「斤」が付いたもの。「示」は「神」で「斤」は「近づく」。つまり、神に近づく行為が「祈り」です。では、どのようにして近づくのでしょうか。自分の波長を高めることによってです。これ以外に近づく方法はありません。

 

ここで、ピン!と来た方がおられるでしょう。そうです、「瞑想」と同じです。振動数の低い、物質界にフォーカスしている意識を滅して行くと、入れ替わりに、高い振動数を持った「魂」の意識が浮かび上がって来ます。すると、その振動数に応じた霊界のチャンネルが開かれるのです。「瞑想」は、この状態で、どちらかと言えば「受信」、「祈り」は反対に「発信」に徹したものと言っていいでしょう。

 

しかし、明確な区別はありません。要は、「瞑想」を「祈り」とし、「祈り」を「瞑想」とする感覚が大切です。これによって、あなたの、内なる宮が開かれる。つまり、あなたの社(やしろ)である人社が神社となるのです。

 

さてそこで、何を「祈り」とするのか、です。これは、あなたが理想とする世界です。この理想とする世界が、「宇宙の法則」に反しないものであれば、神々の応援を得て「魂」の意識世界の中にそれが実現されるでしょう。しかしもし「宇宙の法則」に反していれば、それは斥けられるか、修正を迫られるでしょう。

 

この「理想」は、あなたの「願い」ではなく、元々、そこに在ったものなのです。この違いが解りますか? つまり、「神の理想」が、あなたの中に想い出された時に、両者がつながるのです。神と、あなたの「魂」の中に宿している神の分身とが、共鳴した瞬間に。これが、「祈り」の真髄です。

 

そうして、あなたは、神の使徒の一人となる。その理想を、地上で実現するための、奉仕者として生きることを「祈り」の中に誓う。なぜなら、地上世界での実現は、地上世界に生きる者にしか出来ないから。

 

「祈り」とは、これです。世に蔓延する「祈願」などとは、いかに懸け離れたものであるかが、これでお解りでしょう。ですから、「祈り」を為すには、自分をどこまでも純粋なものに律しなければならないのです。そうでなければ、自分の波長を高めることは出来ない。高められなければ、上には届かない。そこで、いつも言っていることが大切になります。素直に、正直に、誠実に、無条件の愛をもって生きること。

 

それなしに、スピリチュアリズムの扉は開かれない。絶対に、開かれることはない。