by Rainbow School
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アセンションとは? ーーー アセンションに関してのメッセージ

アセンション(ascension)は、「昇る」という意味の動詞である“ascend”の名詞形で、精神世界では一般に「次元上昇」と訳されています。ここで注意が必要なのですが、ここで言っている「次元」は、数学で言うところの「次元(Dimension)」とは全く別の概念を意味しているのです。

 

ところが、この両者が混同され、今まで多くの人に混乱を与えて来ました。ここで言う「次元」は、宇宙を構成している全存在を、バイブレーション(振動数)の高さによって大きく7段階に分けた際のレベルを意味しています。正式には「霊性密度(Spiritual Density)」と言い、「次元」はその通称として使われている言葉なのです。

 

それを先ず解っていただいた上で、「アセンション(次元上昇)」というのは、三次元から五次元へ、つまり第三霊性密度から、第四霊性密度を飛び越え、第五霊性密度へと上昇することを意味します。いったい何が? さて、それが問題です。ここには二つの対象物があるのです。人間と地球です。

 

人間の「アセンション」というのは、これまで「解脱」とか「覚醒」と呼ばれていたことと基本的には同じことを意味しています。それがなぜ、近年になって急に「アセンション」と言われるようになったかと言えば、もう一つの対象物であるところの地球の「アセンション」と、それが大いに関係しているためです。

 

これは、古来より言われて来たことですが、地球というのは、第三霊性密度の学習段階にある「魂」の、学習のための受け皿として、物理空間に用意された惑星でした。この惑星が、アトランティス文明の成立後、そこに住む人間たちに対して、2万6千年ごとに第五霊性密度への上昇の機会というものを与えられていたのです。

 

*2万6千年サイクル:このサイクルには諸説があり、どうも地球ののサイクルと関係しているようです。歳差運動のサイクルにも、2万5800年説と、2万5920年説があります。私は、マヤ暦から導き出した60年×12×3=2,160年 2,160年×12星座=25,920年の数字が後者と一致するところから、2万5920年説が有力と見ています。

 

しかし、伝説として残されているように、今よりも遥かに高度な文明を誇ったアトランティス人でしたが、霊性の堕落によって、過去2回のチャンスを逸したばかりでなく、アトランティス文明そのものも海中に没して跡形もなく消えてしまったのです。そして今回が、3回目のチャンスとなるのです。

 

しかし、今度のチャンスは、前の2回とは大きく違った点があるのです。それは、今回は、地球そのものが「アセンション」してしまうということです。「アセンション」が、人間よりも前に、地球に対して起こることが、予め決められているのです。地球という惑星が、宇宙の中での第三霊性密度の受け皿としての役目を終了して、第五霊性密度へと移行するということです。

 

ですから、主役は地球なのです。これに伴って、今度の機会に「アセンション」出来なかった人間は、これ以降は、もう地球に輪廻転生して来ることが出来なくなるという点が、過去の2回とは大いに異なる点なのです。つまり、地球学校に来ている「魂」にとっては、これが卒業のラストチャンスだということです。

 

そう思って、現代という時代をよくよく眺めて見れば、その兆しがいたるところに現れているのを、あなたもお感じになることでしょう。AIやゲノム編集などの科学技術が急速に発達していることや、人間を奴隷ロボットにするシステムがますます巧妙になっているのは、アトランティスを滅亡に導いた当時の科学技術者たちが、現代にも一斉に転生しているからです。また、金融やグローバル経済に見られる強欲さは、アトランティス末期のカルマをそのまま映し出しています。

 

そして、これまで長きに渡って秘匿されて来た「闇の支配者」の実態が、ここに来て急に炙り出されて来たのは、宇宙からの強い光が当たっていることもさることながら、地球がすでに第四霊性密度のバイブレーションに突入したことを示しています。つまり第四の領域に入ったので、第四に隠れていた実態が見えるようになったのです。

 

もちろん、異常気象や自然災害に見られる極端化現象も、これらと大いに関係があります。それらは天罰ということではなく(宇宙には、そもそも罪も罰もありません)、今の人間意識の総体としてあり方が、それらを物質化させているのです。そしてこれも、アトランティス人の末期が辿った道と、そっくりになりつつあります。

 

多くの予言や霊言が、みな共通して語って来たように、これからの時代は大転換を迎えます。それは、地球が第五霊性密度の惑星へと移行するということなのですが、同じ場所に新しい家を建てる際には古い家を壊さなければならないのと同じように、古いシステムと古いシステムを作り出している人間の意識のあり方が、一掃される時期が目前に迫りつつあります。

 

これを、怖れることなく、冷静に見守って行ってください。そして、あなた自身のアセンションを目指してください。

 

これも、多くの予言や霊言が語って来たことですが、戦争に明け暮れして右往左往する多くの人たちと、小規模で平和に暮らすコミュニティとに、世の中が真っ二つに割れます。それは一見すると、闇と光との闘争、悪と善との凌ぎ合いに見えますが、これらを煽る者に巻き込まれないようにしてください。それこそが、闇の戦略なのです。二元性の真理は「闘争」にあるのではありません。両者が揃っての「合一」にあるのです。

 

また、センセーショナルなことを語りたい人たちは、「生き残り」ということにスポットを当てるでしょうが、「生き残り」は大した問題ではありません。地上では、人はみな、遅かれ早かれ全員が死ぬからです。しかし一方で、「魂」は永遠だということに注目してください。だからこそ、この機会にアセンションするのです。その意味をしっかり捉えて、この機会にお臨みください。

御礼

先週の「ブログ掲載休止のお知らせ」の後、何人かの方から慰労のお言葉を頂戴いたしました。中には、海外在住の方からのものもあり、届くところには届くんだなぁとびっくりいたしました。時間を割いて、労いのお言葉をお寄せくださった方々、また同様の思いでおられる多くの方々にも改めて御礼申し上げます。

稚拙な文にも関わらず、これまでお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。

共に学んで来てくださった皆さんへ ― 掲載休止のお知らせ

この『気づきの啓示板』は、2012年の4月2日に第1回めがスタートしました。ということで、4月1日の今日でちょうど7年が経過したわけです。書き始めた頃にはさしたる目的があったわけでもなく、わずか10行にも満たない文章量でしたが、途中で何回かの感覚的な変化があり、どんどん体裁が変わって行って、最後は今のような形になりました。

 

実は一年くらい前にも、またもや感覚的な変化があったのですが、その感じをうまく言葉で表現することは出来ません。しかし、なんとなく「もう終わりかなぁ」とは感じていました。それからは、週1回のペースでメッセージを掲載して行くことの義務感と、「終わりかなぁ」と思うことのせめぎ合いの中で、取り敢えずは頑張って掲載を続けて来ました。

 

一時は、「一生続けよう」という気にもなったのですが、それが2週間ほど前に、突然「止めよう」に変わりました。その時、この4月1日で、ちょうど7年を終えることに気がつきました。「そうか、7年経ったのか。こりゃあいい」と思いました。7は神秘数で、一つの段階的終了を意味します。それが分かったら、なんだか気持ちが開放感で満たされて、晴れ晴れして来ました。

 

この一年間ほどは、1回分を仕上げるのに3日くらい掛かっており、やっと掲載を終えてほっと一息つくと、もう次のテーマを探さなくてはならないのです。書く前には、完全に一人きりになって「今、このタイミングで、人々に有益な、最も適切なメッセージをお授けください」とお願いしてから、インスピレーションがやって来るのをじっと待ちます。ですが、すんなり事が運ぶことは滅多にありません。

 

最初の1ブロックが固まるまでがとにかく苦しい。2時間、3時間経っても何も浮かばない時には、焦る気持ちも出て来て、余計に混乱してしまいます。そんな時に無理やり言葉をひねり出しても、後で修正されてしまうのがオチです。時には、一日掛かって書いた文章がそっくりゴミ箱行きなんてこともあります。だんだんコツを掴みかけて来てはいるのですが、最後まで、上手い方策は見つかりませんでした。これが私の限界なのでしょう。

 

けれども、この7年間で、私は多くの「智恵」を授かりました。この予期せぬ仕事を設定されたことによって、私は大いに鍛えられました。それは、私にとっては一つの行でしたが、その成果のおすそ分けを、世の中に出すことも出来ました。このブログの読者数は非常に少ないのですが、今まで熱心に読んでくださった人たちは、共に学習を続けて来た同志であると、私は思っています。

 

しかし、友よ。机上での学習の段階はもう終わりです。『虹の学校』も、次のステージへと向かう時が来ました。これからは、あなた自身が、実践的な生き方を通じて、周囲の人たちに、高い波動を投げ掛けて行くのです。いつまでも、他の誰かを通じて得られるメッセージに期待し続けていてはいけないのです。自信を持って、自分自身の内なる声に耳を澄ましてください。あなたには、それが出来ます。それでこそ本物。あなたは本物となります。

 

10年前、私は、そろぞれの接点が全くない3つのチャンネルから、自分の将来の役割について、同じことを聞かされました。いわく「“生き方”を説く人」になるというのです。「生き方」だってぇ? それを聞いた時には、全くわけが分かりませんでした。私は50代半ばを過ぎておりましたし、カミさんを亡くした直後で、仕事はないし、鬱だったし、そんなものがあればこっちの方が聞きたいと思っていました。

 

しかし、背中を押されるようにして始めた『虹の学校』の活動と、この『気づきの啓示板』ブログが4年めを迎えた頃になると、いつの間にか、本当に「生き方」についてを語り出している自分がいたのです。その時になって、自分が大変な誤解をしていたことに気づきました。「“生き方”を説く」というのは、この世的な「生き方」ではなく、霊的な「生き方」のことだったのです。

 

若い頃は、私も人並みに社会的な成功を夢見ていました。そして、そのための必死の努力もして来ました。ですが、何をやっても挫折の連続で、ついぞ報われるということはありませんでした。しかしその体験が、今になって大きな意味を持っていたことに気がついたのです。つまり、それは「チャンネルを変えろ!」という示唆を得ていたのですね。表側と裏側の。

 

実は、表が裏なのであり、裏が表なのだということです。これは、古代より言われて来た「真理」の一つなのですが、多くの人と同様、私も言葉としては知っていても、その意味を〈実感として〉掴んでいたわけではありませんでした。実に、ここがポイントで、霊的世界を全否定する人はもちろんのこと、肯定する人であっても、99.99パーセントの人が誤解している部分なのです。

 

どういうことかと言いますと、霊的世界を肯定したり大いに興味を抱く人であっても、その視点は、〈こちら側から、あちら側を覗き見る〉という立ち位置を、どうしても捨てきれないのです。すると、本籍地はあくまで「この世」に置いた中で、向こう側を見ようとするのです。そのため、そこから垣間見える世界は、不思議ワールドであったり、オカルトであったり、全部が、いわゆる超「常」現象になってしまうのです。

 

これが、人智を超えた特別な「価値」に見え、人々にエキサイティングな興味を抱かせるのです。嘆かわしいことには、ここに「この世」的な成功のスケールを当てはめて人々を誘う、自称「霊能者」がワンサカといるのです。けれども、これらは、全くの本末転倒と言わねばなりません。なぜならば、そうした視点は、エゴのために霊的パワーを利用するという、自分の「カルマの強化」にしかなっていないからです。

 

ですが、このことを、多くの人は理解できません。逆に言えば、それほど「この世」的な成功を夢見させる「カルマ」の力は、絶大だということです。そもそも、「この世」に生まれた目的を、〈霊的向上を目指すため〉と捉えている人は非常に少ない。加えて、そのためには〈得るのではなく、捨てるのだ〉となったら、その道に飛び込むのには、大変な勇気を必要とします。まさに、天と地が引っ繰り返るほどの、価値観の大転換です。

 

そこで、アセンション出来る人というのは、10万人に1人とか、100万人に1人となってしまうのです。いったい何がそれほど難しいかと言えば、高みを目指して、階段を昇る努力をひたすらするということではないのです。むしろ逆、階段をすっかり降りてしまうことだったのです。これが、〈生きることとは、社会的存在であり続けること〉と刷り込まれている現代人には、もの凄く難しいハードルなのです。

 

この『気づきの啓示板』で繰り返し語られて来たことの一つは、この〈社会的存在が自分だ〉という思い込みが、実は錯覚でしかないということに気づいてもらうことでした。そして反対に、これも繰り返し語られて来たことは、あなたの本体(非肉体的なもの)は、いついかなる瞬間であっても「自由」なのだということです。これこそが、まさに天と地が引っ繰り返る逆転なのです。

 

ところが人間は、実は表と裏が逆転しているのだということに気づきませんし、その意味も理解できません。そこで皮肉なことに、「社会的存在」であろうとして、自分で自分の自由を奪い、自分で自分を苦しめ、自分で自分を不幸にさせているのです。でも、「実は逆転しているのだ」ということにさえ気づけば、茶番劇ももっと有意義な演じ方ができますし、また、そういう人が増えれば、地球人は今度こそ、このカルマを清算できるのです。

 

もういい加減に、あなた方はこの逆転の「真理」に目覚めるべきです。あと20年。あと20年の間に、目覚める人から目覚めて行って欲しいのです。

そこで今日は、締めくくりのメッセージとして、今後の行動の指針にしていただくためのポイントをいくつかお伝えしておきます。

 

◉あなた方は「多次元的存在」

ここで言う「次元」は、何度も言って来たように、数学的次元を指すものではなく、宇宙全体を成り立たせているところの「振動するエネルギー体」を、振動数別に大きく7つに分けたものです。正式には「霊性密度」と言います。この振動数の違いは、階段状(算術級数的)ではなく、渦巻状(幾何級数的)に変化しているのですが、それを便宜的に7段階に分けて、各段階を「次元」と言っているのです。

 

7段階の階層は、音階のドレミファソラシに対応していることから「宇宙鍵盤」とか「オクターブ」とも呼ばれます。この他、虹の7色と対応して説明されたり、チャクラとの関係や、日月火水木金土の惑星との関係で説明されたりもしています。このように「7」という数字は、様々なところで見られる神秘数になっているのですが、そこで示していることは、宇宙の巨大構造というものは、実はたった一つの「振動するエネルギー体」の、振動数の違いだけで全てが成り立っているということです。

 

さらに注目すべき点は、人間は、この全ての次元(霊性密度)を、同時に所持している存在だということです。つまり、成り立ちにおいて、人間と大宇宙とは相似形を為しているのです。これが、ヘルメスが説くところの「下なるものは上のごとく、上なるものは下のごとく」の意味なのです。大宇宙(マクロコスモス)と人間(ミクロコスモス)とは、基本的に同じだということです。

 

大宇宙を大海に喩えれば、あなたは一滴の雫です。ほんとうに小さな小さな一滴の雫ではありますが、しかしその一滴の雫が集まって、大海を構成しているのです。しかもその一滴の雫は、間違いなく大海の同じ成分を有しているのです。そこで、もしも大海を「神」と呼ぶのであれば、「神」はあなたの外側にあるのではなく、紛れもなくあなたの内側に存在すると言えるのです。これが、異端とされて来た実は真実の神学なのです。

 

◉意識もまた多次元に存在する

さて、「多次元的存在」というものを別の視点から眺めてみましょう。それは「意識」です。あなた方の「意識」は、決して一種類ではありません。起きている時の意識と、眠っている時の意識、またウトウトしている時の意識には、明らかな違いがあることをあなたもお認めになるでしょう。実は、あなた方の「意識」は、これだけではなく多層階に渡ってあるのです。

 

それは、「存在」の階層構造と基本的に同じなのです。勘の言い方は、先ほど、大宇宙はたった一つの「振動するエネルギー体」の振動数の違いだけで成り立っている、と言った部分にピン!と来ることでしょう。そうです。「存在」と「意識」とは、実は同じものなのです。えっ、「存在」と「意識」が同じだってぇ? これは、地球に普通に暮らしている方からすれば、驚くべき結論であることでしょう。

 

今までに、そんな説明は聞いたことがないでしょうし、意味もまるで解らないでしょうから。あなた方の常識とは全く違いますからね。でも、こんな例を考えてみてください。あなた方は、宇宙が138億年前のビッグバンから始まったと聞かされます。すると「そういうものかなぁ」と思って、もし宇宙の誕生から今までを1日の時間にしたら、人類誕生は23時59分34秒過ぎだ、などと言って済ましています。

 

でも、ここにはパラドックスがいくつも隠れていることに気づいていません。仮にそのように始まったとして、始まる前はどうだったのでしょうか? 素朴な疑問です。また、空間が膨張したと言って、その模式図を描いたりしていますが、外側に描かれている “場” はいったい何なのでしょうか? あるいは、138億年前に誕生したという「存在」については、いったい誰がそれを「認識」出来たと言うのでしょうか? もしも「認識」出来る主体(それも存在)が無かったとしたら、「在る」ということの「認識」は不可能です。

 

よって、こう考えるしかありません。「存在」と「認識」とは、同時に、パラレル(並行的)に誕生したのです。当たり前です、元々が同じものなのですから。そして、それは「無」から誕生したのではなく、別の宇宙から絞り出されたのです。宇宙は、我々が認識できる「この宇宙」だけではありません。無数の別の宇宙があるのです。このようにして、宇宙は明滅を繰り返しながら、永遠の無時間を生きているのです。

 

◉自分の「意識」を意識して生活する

話を人間の「意識」に戻しましょう。人間が「多次元的存在」であるということは、「意識」もまた多次元に渡って存在するということなのです。ごく大雑把に言って、人間の意識は、三次元(心)、四次元(魂の下層)、五次元(魂の上層)の間で、たえず揺れ動いています。本当は、全部の「意識」を同時に働かせているのですが、フォーカスを与えている中心点がどこか一部に偏るのです。

 

*この他に、一・二次元、六・七次元の意識もあるのですが、通常の状態では知覚できません。

 

それはちょうど、アナログ式のチューナーの針を動かしているようなものです。あなた方は三次元的な「意識」だけではなく、四次元的な「意識」や、時に五次元的な「意識」をも活性化させています。そういう瞬間があるにも関わらず、普段そのことを全く意識していません。それは、そのような理屈を誰からも聞かされたことがありませんし、また多次元に渡ってある「意識」に、意識的にフォーカスを当てる訓練も積んでいないからです。

 

そのため、せっかく直感やインスピレーションを得ても、これを「気のせいだ」と思ってみんな無視してしまいます。その代わりに、肉体が知覚する三次元的な「意識」にだけは素早く反応し、そこで得た「認識」が本当の現実だと、強く思い込んでいるのです。近年、静寂な時が失われたせいで、この傾向がますます強まっています。しかし、事実は全く逆で、それらは全て幻なのです。本当のあなたの「認識」は、肉体的な知覚を超えた領域にあるのです。

 

なぜかと言えば、肉体的な知覚によって生じた「意識」は、肉体の消滅と同時にみんな消えて行ってしまいます。ところが、その体験から解釈した「認識」の一部は、四次元的「意識」や五次元的「意識」に変換されて蓄えられるのです。これが、いわゆる「カルマ」となり、あなたの「霊魂」にアイデンティティを付与します。そして、この「カルマ」を清算するために、また地上に輪廻転生して来るのです。

 

ですから、このメカニズムをよく知った上で生きれば「生き方」が違ってくるのです。確かに「この世」は生きにくい。不正や、不条理や、暴力が横行しています。けれども、あなたが自ら望んで誕生して来たことです。そこには目的があるのです。ですから、地上世界を全否定してはなりません。地上でしっかり生きながらも、三次元的な「意識」には出来る限り囚われることなく、いつも五次元的な「意識」を働かせながら行動して行く、ということが大切なのです。

 

そして、それは可能です。例えば、草取り一つする時でも、三次元的「意識」にフォーカスを当てるのではなく、五次元的「意識」にフォーカスを当てながら同じことをしていくのです。そうすれば、あなたの「意識」には五次元的エネルギーが流れ込み、あなたをハッピーにしてくれます。幸福とは、条件ではありません。幸福だと感じている「意識」状態です。あなたの「意識」がそうなれば、周囲の景色がきっと輝いて見えるはずです。

 

三次元的「意識」が生み出す感動と、五次元的「意識」が生み出す感動は、全く異質なものです。この違いを、よ〜く感じ取って区別しなさい。三次元的な感動は「感情」が生み出した感動です。けれども、五次元的な感動は、本質と出会った際の「魂」の震え(バイブレーションの共鳴)なのです。「これだ!」「ここに真実があったのか!」という。あなたにも、きっと経験がおありでしょう。嬉しいわけでも悲しいわけでもないのに、ただ涙が溢れ出て来たということが。

 

◉「瞑想」を習慣化し、高い波動を固定する

そして、このような「意識」をコントロールする訓練が、いわゆる「瞑想」なのです。ですから「瞑想」は、霊的向上を目指す者にとっては、必須の生活習慣です。「瞑想」習慣を日常的に取り入れて習熟すれば、「意識」のコントロールが次第に出来るようになり、「心」の暴走にも悩まされることがなくなります。そして、やがては、内なる真実の声に、耳を傾けることが出来るようになることでしょう。

 

でも、そうなるためには、何より静寂の中に身を置かなくてはなりません。小川のせせらぎを聴いたり、月夜に鈴虫の鳴き声を聴いたりしていた時代とは違って、現代社会ではこんなことすら非常に難しいのです。街もお店も絶えず騒音で溢れ返り、メディアはひっきりなしに暴力的で刺激的な情報を垂れ流しています。多くの人は、もう麻痺してしまって解らないのでしょうが、これらの波動はもの凄くザラザラ、トゲトゲしているのですよ。

 

それらの粗雑なバイブレーションに休みなく晒されて、今や現代人の心はズタズタに傷ついています。結果として湧きあがる不安感を、なんとか埋めようとして、さらに情報の虜になって行くという悪循環。しかし情報は、決して心のスキマを埋めてはくれませんよ。むしろスキマに入り込んで、傷口を押し広げます。あなたの心のスキマを埋めてくれるものはただ一つ。その奥にある、心を超えたチャンネルだけなのです。どうか、そこに目を向けて欲しい。

 

チャンネルが開いた時、あなたは、自分にも周囲にも、高い波動を送り出せる存在となっています。「何を為すか」は問題ではありません。「どのように為すか」が重要なのです。あなたは、あなたの特性を活かし、ご自分が出来ることをすればそれでよいのです。全てのことを、自分一人で出来る人間は誰もいないのです。誰もが支え合って存在しています。その時に、自分が為す行為に、いつも高い波動を載せて行うということが、何よりも大切なのです。

 

そうすれば、その波動が、周囲の人々に影響を与えます。全ては「波動」です。「波動の法則」によって展開しています。あなたが高い波動を出せば、周囲に高い波動が伝播し、あなたが低い波動を出せば、低い波動が伝播して行くのです。実に簡単な理屈です。しかし人間は、その簡単な理屈を知りません。そのため、故意に、刺激的な「低い波動」を出す者たちによって、コントロールされてしまっています。

 

◉激動の時代を、高い波動で生き切る

これからは、これまで以上の激動の時代に突入します。その時に、あなたを狙う罠に、簡単に引っ掛からないようにしてください。と言っても、怖れることはありません。むしろ「怖れ」そのものが罠なのですから。不正や、不条理に対しては、黙認するのではなく、きちんと向き合い声を挙げてください。でも、闘争は勧められません。なぜなら「闘争」そのものが、波動を低める罠なのですから。

 

ひとから、どんなにバカにされても、蔑まれても、罵倒されても、叩かれても、蹴られても、あなたは、どこまでも「愛」に生きてください。『北風と太陽』のあのイソップ寓話を思い出しましょう。闘うのではなく、愛のエネルギーによって、固まった結び目をほどくのです。ご自分の底に流れる、この力を信じてください。

 

この道を歩く者には、この世的に言って良いことは少しもありません。むしろイバラの道です。けれども、あなたは既にご存知のはずです。自分が、そうせずにはいられないことを。そのイバラの道を行くことが、自分の最高の喜びであることを。

 

最近になって、私も、7歳の時に突如内側から沸き上がった言い知れぬ感動とともに「自分はブリッジの役割を果たすぞ」と誓った日があったことを思い出しました。「ブリッジ」などと言う言葉はもちろん知りませんでしたが、その時、そのような概念がまざまざと浮かんだのです。そしてまさに、気がつけば、「虹の架け橋」の仕事を、50年後に、導かれるようにして私はしていたのです。

 

すべては、このためにあったのですね。その役目が、どれだけ果たせたかは判りません。けれども、とりあえずは、インターネット上でお話し出来ることは、これまでのメッセージを通じてすべて伝え切りました。7年前に、S.O.さんとした約束も、これで果たせたかな?と思っています。いつか、このブログのメッセージを、テーマ別にまとめてくださる方が現れないかなぁとも思っております。どなたか手を挙げてくださいませんか?

 

身近な人に「終了」を告げましたら、何人かの方から、月1回でいいから、それがダメなら気が向いた時でもいいから、続けて欲しいと言われました。そこで、一応「休止」としておきましたが、同じ形式での再開はたぶんないだろうと思います。質問があればお受けします。今はとにかく少し休みたいです。休んでから、次のステージに進みたいです。この次には、もう少し、自分が楽しんで出来ることをしたいです。

 

最後に、これまで私を支えてくださった皆さんに感謝の意を捧げたいと思います。特に、私に健康体操を伝授してくださったYさん、また体調不良の時に治療をしてくださったもう一人のYさんには格別の謝意を。あなたたちとの出会いがなければ、とても続けられませんでした。そして、相談事に乗ってくださったり、お金や食べ物を恵んでくださった多くの方々にも。また励ましのメールをくださった方々にも、接触のあった全ての人にも御礼を言います。ありがとう。皆さんの励ましによって生きて来られました。

 

最後の最後に、私に多くの気づきとメッセージを与えてくださった守護霊団とホワイト・ブラザーフッドのマスターたちに。とりわけ、不甲斐ない私を根気よく見護り、応援してくれた、祖父であったところの護久翁の霊に対して。あなたの名前の意味が、いま解りましたよ。

 

護久、サンキュー。

お金はすべて Flow 所得

「富の格差」の問題は、しばしば印象的な次の数字をもって語られます。世界の富の82%がわずか1%の富裕層に集中。貧困層37億人が有する富は全体の1%にも満たない。世界で最も裕福な8人が、貧困層36億人に匹敵する資産を所有。調べてみますと、この数字の出所は、すべて国際NGO「Oxfam」が出した2018年版報告書『Reward Work, Not Wealth』に基づいていました。

 

これが、子引き、孫引きされて各所で使われているのですね。オックスファムが出した数値は、金融大手クレディ・スイスが毎年出している世界の家計所得分配を分析したレポート『Global Wealth Databook』を基に、各所得階層別にオックスファムが再集計したものとのことです。データ元が富裕層側の銀行ですし、2000年からの時系列データを分析しているということですので、一応、信頼はおけそうです。

 

このような印象的な数字は、確かに、「富の極端な偏在」という今の地球上で起きている問題を解りやすく示してくれています。しかし他方で、「豊かさ」や「幸福」の概念を、「お金」という物差しで計測するという、別の〈解りやすさ〉をも与えていることに注意しなければなりません。なぜかと言えば、このような「尺度」そのものが、一つの固定観念をもたらしているからです。

 

「お金」に関しては、私も人並みに非常に苦労しました。「お金」に翻弄されてしまったという時期もあります。パニックになったり、鬱になったりしたのも、元をただせば「お金」が原因でした。なぜそんな状態に陥ったのかと、今になって振り返ってみますと、結局は「お金」というものの仕組みに無知だったことが最大の理由です。「お金」というものが作り上げている「土俵」に、何の疑問も持たずに、完全に信じた上で生活していたのです。

 

おそらく、世の99.99パーセントの人は、今でも、かつての私と同じような理解状況にあるんだろうなと思います。そして、この「無知」ということが、人類を「お金」の奴隷にさせ続けていることの元凶を形づくっているのです。早い話が、強烈な「洗脳」です。「お金」が無ければ生きられない。「お金」を稼がなければいけない。とみんなが思っているし、思わされているのです。

 

そこに気づいてから、この牢獄をなんとか脱したいと思うようになりました。「お金」のシステムから完全に逃れるというのは、無人島にでも行かない限りは難しいことでしょう。ですが、「お金」には出来るだけ関わらないようにしてみようと決心しました。そこで、荒療治でしたが、第一番めに「お金」を稼ぐというワークをやめたのです。この呪縛を捨てたら、いったいどうなるのだろうかを実験してみようと思いました。それが、10年前の54歳の時です。

 

当初は貯金を取り崩して生活費に充てていましたが、当然のことながら、その貯金も底を尽き、ど貧乏となりました。でも段々とその感覚にも慣れ、今では自分が貧乏だとも思わなくなりました。まったく平気です。欲しいものは何もありませんし、今あるもので充分です。何かに追われるようなストレスを抱えることもないですし、一日の大半を瞑想的に過ごしていられるので、いつも幸福感で満たされています。

 

「同じことを、あなたもやってみて」とはもちろん言えないのですが、しかし少なくとも、「働く」ということと「稼ぐ」ということは、切り離して考えた方がハッピーに生きられるよ、ということは自分の経験からしても言えそうです。でもここを、みんなゴッチャにして考えているんですね。「就活」というものが産業化してから、この同一視傾向が著しくなったと思うのですが、詰まるところ、これがあなたに、奴隷化への道を開くのです。

 

「働く」ということと「稼ぐ」ということは別です。「働く」というのは、あなたという個の自己表現であり、社会における自分の役割です。ですから、この「働き」の連鎖的つながりによって、社会全体の活動が維持され、働く人も、その働きの恩恵を受ける人も、共に喜び、感謝し、幸せを分かち合うシステムが形成できるのです。ですから、賃金の報酬とは関係なしに働き(例えば毎朝、家の前の道路を掃く)、それを喜びとすることも可能なのです。

 

30年前までは、日本社会にもこのような考え方がまだ普通に残っていたのですが、グローバル経済の導入と入れ替わりにすっかりアメリカナイズされ、今ではほぼ消滅してしまいました。私が20代だった頃は、「給料要りませんから、是非ここで働かせてください。あなたの弟子にしてください」という若者がけっこういたんですよ。私もその一人でした。「お金」は二の次、三の次だったのです。ところが今は、先ず「お金」です。

 

決して「お金」が悪いと言っているわけではないのです。「お金」に〈隷属した状態〉の自分に気づいてみては?、と言っているのです。今まで、ずっと低賃金の派遣労働に甘んじて来た。なんとかして、正社員で給料40万円の職に就きたい。その気持ちはよ〜く解りますよ。でもそのような発想をしていては、自分をますます苦しめてしまうことになるのではないでしょうか。

 

大切なのはそこじゃない。自分をどういう「行為」者、別の言葉を使えば「表現」者として、この世に存在させるかということなのです。あなたの満足は、究極的にはそこにしかありません。「正社員で、給料40万貰える人間になりたい」という願望は、あなたの「表現」なのでしょうか? 違うでしょう。別にあなたじゃなくてもいい、それは単なる「ポジション」に過ぎない。そこを錯覚してはダメです。

 

そもそも、なぜ「お金」を稼がなくてはいけないのでしょうか? 「お金」がないと、暮らしに困るからですよね。具体的には、生活に必要な物資やサービスが自由に買えないからです。そういうシステムの中で、現代人が生活しているからです。でも仮に、もしもそうしたものが、全部タダで手に入れられるとしたらどうでしょう? 「お金」は不要ということにはなりませんか。

 

生きるために必要なものは、あくまで物資やサービスであって、「お金」というものは、その仲立ちをしている道具に過ぎないのです。その証拠に、災害が起きたときには、必要な物資がタダで届けられるではありませんか。それに対して、誰も「金を払え」とは言わないでしょう。むしろ「どうぞ使ってください」と言うでしょう。ですから、この理念を災害時だけではなく、平時にも押し広げればよいのです。

 

それは、決して不可能ではありませんし、荒唐無稽な話でもありません。世界中の人々が、そうした理念に合意すれば可能なのです。でも、現実はそうなってはいませんよね。それは、別の理念(「お金」が地球を支配する世界)に、人類の大多数が「これでいいのだ」と賛同しているからです。これが、冒頭に語った「土俵」です。皮肉な話ですが、貧困層の36億人が、8人のスーパーリッチの成立に貢献しているというのが、この「お金」のシステムなのです。

 

もしも全員に、平等に富が分け与えられていれば、もちろんこんなことは起きません。富を平等に分けることをせずに、他人の分を掠め取って集める人がいるから、このような極端な偏在が起こるのです。そして人類は、人類の総和として、そうすることを、古代バビロニア時代から認め続けて来たということなのです。これは実に巧妙で、よく出来た、壮大なるフィクションです。

 

ほとんど誰もが、「お金」の存在というものに、微塵も疑問を持っていないのです。世の中に「お金」というものがあって当然だと思っている。ではその「お金」がどこから生まれるかと言えば、借金から生み出されるということも殆どの人が知らないのです。

 

銀行は、本当は持っていない「お金」を貸し出す権利というものが法律によって認められています。そうすると、その時点ではまだ数字に過ぎない金額を、どこかに貸し出すと、その時点からそれが「お金」に化けるのです。まさしくマジックであり、空中から「お金」がパッと捻り出されるのです。この「無」から生じた「お金」を、借りた側は、利息をつけて返すことになるのです。なんとも奇妙な仕組みです。

 

日本政府が累積している膨大な額の借金。これも、一民間銀行であるところの日銀から借りている「お金」です。この借金に、日本政府は利子を付けて返済しなくてはならないのです。その返済金はどこから調達するのか。国営企業のない日本政府としては、税金しかありません。このようにして、国民は働かされ、稼いだ「お金」を搾り取られているのです。

 

けれども、このフィクションの実体は、国民には何も知らされていないのです。空中から「お金」を生み出せる銀行。その元締めであり、通貨発行権を持つ日本銀行の株主が、いったい誰であるかは明かされていません。

 

ですが、ここで原点から考えていただきたいのです。地球資源は誰のものでしょうか。土地は誰のものでしょうか。海は誰のものでしょうか。空気は誰のものでしょうか。太陽は誰のものでしょうか。月は誰のものでしょうか。そもそも、宇宙は誰のものでしょうか。誰のものでもありません。それは我々への恵みです。その恵みを、なぜ平等に分けようとはしないのでしょうか。

 

なぜ、平等な分配を主張するものはみな叩かれ、排斥され、逆に富の極端な偏在を志向する者が世界を牛耳り、また政治・経済に幅を効かせているのでしょうか。それは、決して一握りの人間のせいではありません。多くの人が、リッチになることの幻想を手放せていないからです。これは、宝くじの理屈と全く同じ。1等の賞金を得る人は、大勢の幻想を掻き集めることによって成り立っているわけですね。

 

違いは、宝くじの場合には、誰が1等になるのかは分かっていないのですが、金融の世界は、闇の支配者によって、最初から意図的に富の偏在が計画されていることです。このカラクリに、今後どのくらいの人々が気づくことになっていけるのか。更に進んで、「宇宙は誰のものでもない」という原点に、どれだけの人が立ち帰ることが出来るのか。それが、人類の未来を決定づけます。

 

「お金」は経済の血液だと言われます。「お金」は、そもそもは経済を円滑に回すための道具に過ぎなかったのです。ところが、その道具を使って博打場を開いたり、「お金」が「お金」を生み出す仕組みを人間が拵えてしまった。そして公的に、また国際的に、この詐欺システムを堂々と運営し、欲に駆られた人々を大量に市場に惹き付けているのです。

 

なんと愚かな人間たちでしょうか。一体どの世界に、自分の血流を好んで悪くしたり、静脈瘤や動脈瘤を作ったり、それを破裂させたり、脳溢血になったりして喜ぶ人間がいますか?

 

でも人間たちは、それを喜んで、自分で自分の苦しみを創り出しているのです。ああ、なんたる無智。この無智から、一体いつになったら解放される日が訪れるのでしょうか。「お金」はすべて Flow 所得だと思いなさい。それはあなたを支えてくれる血液の流れなのです。流れるままにして、執着を無くせば、それに思い煩わされることもなく、健康に生きて天寿を全う出来るのです。

 

「お金」は、結局ところ、今の人類にとっての、最大級の罠なのです。「お金」を操る者に、人類全体が操られている。そして、地上での暮らしの大部分を、この「お金」の奴隷となって生きることで、一生の殆どを使い果たしているのです。まあ、なんとムダな労力を使っていることでしょうか。地球人が、何度生まれ変わっても、大した成長がない理由は、大部分この「お金」が原因なのです。

 

さて、今世もまた「お金」で苦労しますかな?

それとも「お金」への執着は、終わりにしますかな?

「支配」という手段による One World の実現は不可能

「強さ」とは、腕力があることでも、権力を所持していることでもありません。本当の強さとは、一切の「怖れ」がないことです。ですから、女性であっても、老人であっても、か細い体型であっても、貧乏人であっても、一人ぼっちであっても、病人であっても、死が真近な人であっても、「強い人」であることは可能です。それは、その人の「心のあり様」の問題なのですから。

 

ところが、現代人はそれとは真反対に、生活のあらゆる場面で、心の中に「不安」や「恐怖心」を掻き立てられるような瞬間がとても多くなっています。それは、俄かには信じられないでしょうが、意図的に計画された大衆操作なのです。この操作が、 不安の雲で厚く覆われた現代社会を作り、 恐怖と怯えに付け入ることによって、一元的に管理できるロボット人間(奴隷)を大量に生み出す基礎となっているのです。

 

「そんな馬鹿な!」と思われるでしょう。それがもし本当だとしたら、あまりにも巧妙だから。でも何度も言いますが、埋没している時には、人は自分がそこに嵌められているとは気がつかないものです。しかし、直感的に「これは変だ」と感じている人も中にはいるのです。けれども、そのシステムから脱出しようとする者には、逆に「お前の方が変なのだ」と言い、「心の病気」や「発達障害」というレッテルを貼っては牢獄に閉じ込めてしまうのです。

 

実に頭のいい恐ろしい手法です。なぜなら、それが最も安上がりで、かつ効果的な「大衆支配」の手段だから。「暴力」を使った支配は、手段としては低級であり、もはや時代遅れなのです。暴力を使えば意図がすぐにバレてしまいますし、民衆の反発を招いてやり返されるおそれもあります。でも「恐怖心」を抱かせる方法は違う。情報をちょこっと操作するだけでよいのです。

 

それだけで、大衆はすぐに反応し、頭の中の構造そのものを勝手に書き換えてくれるのです。「流れに従わなければ大変だ」「流れから落ちこぼれたら大変なことになるぞ」と思い込んで。そして、反抗しそうな分子に対しては、「心の病気」のレッテルを貼ってしまえば、見えない牢獄にぶち込めますし、その費用も「薬」の購入という形によって、本人が自己負担してくれるのです。大衆に貢がせながら支配する。なんと素晴らしいシステムでしょうか。

 

これが、「大衆洗脳(Pubric brainwashing)」という方法による、人類の今の「支配」のあり方なのです。無駄のない完璧なシステムです。暴力的な強制が一切必要なく、従ってそのための費用が要らず、大衆は、自分を奴隷化していく費用を自ら拠出するのです。時には借金までして。このようにして、ロボット人間が次世代のロボット人間を再生産するという「Automata」の仕組みが、遂に完成の域に達しました。

 

富める者はますます富み、大衆は自ら進んで、嬉々として、この仕組みに飛び込み、貧しい奴隷になって行くのです。須磨穂にすっかり汚染された人々の姿をご覧なさい。目を皿のようにして、画面の向こう側にある世界に釘付けになっています。みんなが夢中です。本人は、自分が自分のための情報を仕入れていると思っていますが、反対にコントロールされているということが解らないのです。まさに、埋没している時にはそれとは気づかないという典型です。

 

*でも須磨穂は、最終的なコントロール兵器というわけではありません。次があります。人体に直接チップを埋め込むことが既に開始されていますし、その次には機械とのハイブリッド人間が生産されます。そして最終的には「人間は不要」という結論に至ることでしょう。

 

そのような社会にしたい人間たち(闇の支配者)がいて、それに喜んで従う大衆がいる以上、この変化の流れはもう止まりません。しかしそこで諦めてはいけません。私たちは、そのシステムの土台の上に転がされて生活しているので、そこから逃れることは不可能のように思えるかも知れません。しかし「意識」はいつでも自由になれるのです。そこに希望を見出してください。

 

それは、決して「ほのかな希望」といったものではなく、それこそがことの本質なのです。あなた方には今なお信じがたいことでしょうが、あなた方が「現実」と称しているものは、所詮はみんなで創り上げている演劇なのです。ですから、演劇の世界の中に居て、自分の配役を自分がどう演じ、それをどのように認識するかが、あなたという個人にとっての「在り方」のすべてなのです。

 

このことに気づけば、「現実」だと思い込んでいるところの、実は「幻の世界」を相対化でき、その世界の中に居てちゃんと生活しながらも、決して埋没することはなく、同時に「真実の世界」を生き抜くことが可能なのです。ですから、この巧妙な「大衆洗脳」の手段をしっかりと見抜いて、あなたがそれに従わなければよいのです。そして、従わない人間が増えてクリティカルマス(臨界量)を超えれば、世の中は変わります。

 

では「大衆洗脳」は、具体的にはどのような手段を講じて行われているのでしょう。「大衆洗脳」の最大の道具として機能しているのは、言わずと知れたマスメディアです。今日、マスメディアに真実報道は殆どありません。すべてが嘘であり、大衆操作のために使われていると言っても過言ではありません。それは、マスメディアの所有者のほぼすべてが、闇の支配者の実権の中に握られているからです。

 

しかし大衆の多くは、今なおマスメディアの報道を真実だと信じており、その情報に日常的に接するのが習慣となっています。それはまるで餌づけされた犬のようです。ニュースの後に朝ドラ、モーニングコーヒーを飲みながら新聞、を生活パターン化している人も多いのではないでしょうか。そして、それを補完しているのが学校教育、およびメディアに登場する有識者と称する人々です。さらに周辺を、様々な社会的機関や制度や大衆商品が取り囲んでいます。

 

支配者は、先ず義務教育を通して、子どもと親に、ものの「考え方」の基準(優劣や、従属することや、報償と懲罰、といった基本概念)を刷り込んで行きます。この刷り込みに従わない子どもには「発達障害」のレッテルを貼って、劣等のランクに位置づけるのです。要するに、ロボット教師が「扱いにくい(マニュアルからハミ出すので)」子どもたちというだけなのですが、そういう「社会的認知」を作って、恐怖支配に再利用しているのです。

 

そして、この刷り込みを完了した人間を社会に放ち、社会の奴隷化システムの中で、さらに完成品に仕上げて行く訓練をするのです。このようにして、すっかり洗脳体質が身についた人間に、マスメディアを通じて(意図的に改竄した)世の中の動向を伝えるのです。ここに、有識者のお墨付きを加えればもう完璧です。誰も疑う者のいない「大衆洗脳」システムの完成です。

 

でも、「ヘンだな?」と思ったことがありませんか? パンデミック(伝染病)にしろ原発事故にしろ、最初は不安を煽るだけ煽っておいて、どうして情報はいつも尻切れトンボで終わるのでしょう。芸能人逮捕のネタは定期的にメディアに登場するのに(しかも人々の生活にはなんの関係もない!)、どうして政治家およびその周辺の犯罪(人々の生活に大いに関係がある!)はいつもウヤムヤにされたままで終わるのでしょう。

 

どうして、アメリカの仮想敵、ロシアやシリアやイランや北朝鮮(かつてはリビア、イラク)は、悪辣な独裁者に支配された国であると、同じように日本のメディアも断じた上で報道をしているのでしょう。私から見れば、アメリカおよび日本の指導者の方がずっと悪人面をしているように見えるのですが。街には活気はないし、周囲はみんな生活が苦しいと言っているのに、どうして「いざなぎ超え」の好景気なんでしょう。

 

最近になって、統計の不正が明るみに出たりして、政府のあまりのデタラメぶりに、さすがに「これはおかしい」と気づく人が少しずつ多くなっては来ています。でもそれが、「大衆洗脳」システムの基盤の上に載っかったものだとまで気づいている人は、いまだ極々少数です。でも、そこを隠し続けることはもはや出来ません。弥縫(びほう)を繕えば繕うほど、逆に裂け目は大きくなって行くのです。

 

これは何度も言って来たように、暗闇を照らす光が強まっているためです。この光は眼には見えませんが、闇を好む人々にとっては心地よいものではありません。そこで、さらに蓋を被せようと焦るのですが、その蓋には以前のような遮蔽効果はもうないのです。ですから、今まで通りを望む人たちはホトホト困っています。ゴリ押しがいよいよ効かないとなれば、次には弾圧という手段に打って出ることでしょう。

 

ですがみなさん。ここで、権力者や支配者をやっつけようなどと思ってはなりません。インターネットを見ますと、いろんなセクトに属する人たちの非難の応酬の言葉で、あっちもこっちも溢れかえっていますよね。目には目を、歯には歯を。「こいつの正体を暴いてやるぞ」といった。でもこれは、「魂」的に見れば、冒頭で語った「暴力」による支配と同じくらい、低いレベルの動物的反応なのですよ。

 

あなたが「このヤロー」とか「コンチクショー」とか「やっつけてやる!」と思えば、あなたは、あなたの内側に、そのような意識的な存在(エネルギー)を創り出します。その人は気がついてはいませんが、怒りや、ムシャクシャした気持ちは、自分の「心グセ」が創造したものなのです。その証拠に、たとえ同じものを見ても、反応というものは人それぞれなのです。怒る人もいれば、怒らない人もいるのです。

 

自分では、それが特定の相手に向けた(あるいは相手側からもたらされた結果の)感情であると思っています。ですが、そうではありません。自分が創造した感情によって、自分に苦しみを与えているのです。これが、そのようにして〈課題に向き合わされることになる〉という「カルマ」の働きなのです。そしてこの感情は、あなたの体細胞を確実に傷つけます。しかし人はそれを知らずに、「正義」などという勝手な理屈を持ち出しては自己を正当化してしまうのです。

 

いったいなぜ、今のこの時代があるとお思いですか? 先ほど、この世で展開されていることは、すべて「演劇」なのだと言ったでしょう。あなた方には、今のこの「演劇」を通じて、過去に人類が達成できなかった、次の次の次元に、今度こそジャンプして欲しいのです。地球のジャンプは、既に決められていることです。あとは、人間がそれに合わせてジャンプ出来るかどうかです。

 

今、長年(数百年、数千年、数万年)に渡って隠されて来た「闇」が、もの凄いスピードで一気に暴かれていくという事態が生じています。この現象も、人類の総体として見れば、人類の「支配構造への気づき」を与えてくれている役割を果たしているのです。それは何かと言えば、「支配」対「被支配」という構図ではなく、一人の中に両方が存在しているということなのです。ここに気づくかどうかです。

 

程度問題はあれ、誰もが支配者になり、また被支配者にもなっているのです。ご自分の家庭内を見てください。社会の最小単位の家庭にすらそれが認められるでしょう。ですから、特定の支配者をやり玉に挙げて拳を振り上げることは、自分の中にもある「支配」的な想いを、相手に投影していることでしかないのです。この応酬を、みんながインターネットを通じて、いま盛んにやっているのです。

 

人は、自分が見たいものを相手に見るのです。撲滅すべきは、特定の支配者ではなくて、自分の中に巣喰う支配的な想い、支配的な言動、またそうしたものへの同調、そして被虐的な鬱屈、その鬱屈を他の誰かにぶつけたいという闘争的な感情です。これらが残っている限り、その人の、今回のアセンションはない! 実に、ここが重要なポイントです。

 

いま言ったものを、あなた方が一斉に手離せば、「支配」の構造自体が自動消滅してしまうのです。ですから、闘う必要はありません。「闘え!」と叫ぶ声に同調する必要もありません。それをしたら元の木阿弥。人類はまたもや進歩の機会を失います。あえて言えば、闘いとは、自分の中にある「怒り」や「エゴ」や「執着」をどうやって撲滅するかという闘いなのです。

 

あなた方が「支配の構図」に目覚めて、その策略の中に落ちなければ、支配者は支配したくとも存在できないのです。すべては同じ構図です。政治も、経済も、宗教も、家元制度も。お神輿を担ぐ人がいなくなれば、お神輿の座に納まる人も出て来れなくなるのです。担ぐ人がいるから権力者が誕生するのです。この単純にして奥深い真理に、今後どれだけの人が気づけるかが、人類の分岐点です。

 

誰かが、他の誰かの自由を奪う「支配」という構図によって、「One World」を実現することは、宇宙的に言って不可能です。あり得ません。なぜなら「支配」は、〈わたしとあなたとは違う〉という「分離」を出発点としているからです。エリートたちは結託して、一時期は「支配」を実現させるでしょう。しかし「分離」を基盤とする彼らは、最後には必然的に仲間割れを起こしてしまいます。歴史を見てください。全部がそうなっていることが解るでしょう。

 

やはり、単純なようですが、すべての「分離」意識を超越した「愛」以外には、「One World」の実現は不可能だということです。キリスト愛というのは、そのことを言っています。古代から同じことがずっと言われ続けて来たのですが、ついぞ人類はそこに気づけませんでした。そして今回がラストチャンス。いま進行している現象についての、あなたの「ものの見方」が問われているのです。

 

長年にわたって隠されて来た「闇の世界」を暴露することは、それはそれで必然であるし、結構なことです。しかし、そのような世界を創って来たのは、人類全体の連帯責任であるというところに、目を留めなければ、人類としての飛躍はありません。貧富の格差にせよ、環境汚染にせよ、戦争やテロにせよ、あらゆる差別にせよ、人類みんなが〈力を合わせて〉その「演劇」を創作して来たのです。

 

そこを理解する人が、今後どれだけ増えて行くことになるのか。いま語ったことは、世の中に流布されている一般的な考え方とは、あまりも掛け離れた視点であるために、人類全体が背負っているこの課題に気づく人は、最初はほんの僅かに過ぎないでしょう。でも、あなたには、そのほんの僅かの連帯の輪の中に加わって欲しいのです。そして周囲に、真実の「愛」を届けて欲しい。本当の「光」を発して欲しい。

 

まだるっこしいようですが、それしかありません。

ご覧なさい。すでに最高のお手本があるじゃありませんか。

 

あなたを創ったのは何ものですか?

宇宙を創ったのは何ものでしょうか?

生命を与えたのは何ものなのでしょうか?

その奥にある全き「愛」を感じ取りなさい。

 

あなたと “それ” とは、イコールなのですよ。

男の課題、女の課題(2)「枠組み発想」社会からの脱出

地上に男女の別があるのは、「物質界においては、あらゆる存在(表現物)が、必ず陰陽の極性を宿している」という、宇宙の根本原理に基づいた一つの在り方なのです。これまでにも何回か紹介した「陰陽太極図」は、万物が、この両極の渦(回転)によって成り立っているということを象徴的に表現しています。図中の二つの形は魚に見えなくもないので、「陰陽太極魚図」とも呼ばれています。

 

*西洋でも、これと同じく二匹の魚が向かい合う双魚宮の印があります。

 

さて、この両極の中に、反対色で目玉が描かれていることにお気づきでしょう。これはそれぞれ、陰中陽、陽中陰と言って、それぞれの極性の中にも、反対の極性の目(芽)が含まれているということを表しているのです。

 

ですから、これを性別に当てはめますと、女性の中にも男性的要素はあるのであり、男性の中にも女性的要素があるということを示してくれているのです。ということで、この点に注目すれば、男女が互いを理解し合う(それは「愛」の一つのあり方)ということの意味、そして、「魂」の完成形は中性になることという意味も、自ずと解って来るのです。

 

ところが地上では、男は男らしく、女は女らしく、といったことが必要以上に強調される傾向にあります。そして、これを実現すべく、互いの性を意識させるファッションやグッズや化粧品が大量に作られているのです。これらは人間の恋愛感情に作用し、ひいては子孫を残すことにも繋がってはいるのですが、反面、肉体美や行動様式にも特定の価値観が当てはめられるという傾向を強めて来たのです。

 

その結果、その価値観の枠組みから逸脱する者には「アブノーマル」のレッテルが貼られるようになりました。ですが、よくよく考えてみれば、自分は「マジョリティ」だと思い込んでいる人たちの方が、より縛りがキツいということでもあるのです。なぜなら、「ノーマル」という檻の中に入れられ、それが当然だと思い込んでいるわけですから。その洗脳状態に、まだ気がついていないということなのです。

 

男たるものこうあるべき、女たるものこうあるべき、と主張する。それは、自分が率先して、自分自身を縛り付けている縄(=ワナ)なのです。しかしこれは、宇宙における「魂」の進化という点から見ますと、そのような執着にいつまでも捉われている段階にあるということです。これが、地球人の次の霊的進化へのステップを、大きく阻害しています。

 

LGBTがいま社会問題として扱われるようになったのには、それへの「気づき」を促す意味があります。LGBTをきっかけとして、男性性、女性性に関するそれぞれの課題を、今一度考えてみなさいということなのです。単に生殖や子孫存続ということではなく、また男らしさや女らしさということでもなく、もっとその先をです。

 

総じて、男性はいま危機にあります。これは染色体レベル(Y染色体)で見ても崩壊が進んでいるのですが、今世、男性であるところの「魂」が、社会が提示し続ける男性的枠組みに、もはや耐え切れなくなって来ているのです。どういうことかと言いますと、時代環境変化と、人間の内面的変化との間に、著しい乖離と軋轢が生じて来ているのです。それが、現象面で見るところの、いわゆる「草食系男子」の増加に表れています。

 

「草食系男子」が増えるということは、「魂」の中性化ということで言えば、「退化」ではなくて「進化」なのですが、しかしそう捉える人は殆どいないのです。大多数の人が、これまでの延長上で「子孫の存続」を考えていますし、政治家は「population」の観点から「少子化対策」などということを言い出すものですから(実効はまったく上がっていませんが)、男性の「草食化」はむしろ由々しき問題のように捉えられています。

 

しかしここには、無理(宇宙の理に適っていない)があるのです。「草食系男子」の内面は、(宇宙的な)時代変化の兆候を、直感としてちゃんと捉えているのです。人類が、中性的に進化して行く段階に来ているということを。けれども、「それではマズい」「そんな傾向は承認できない」と考える人たちがいて、これまでの延長を、あの手この手を使って強いるのです。この同調圧力の強さに、「植草食系男子」たちはもはや耐えられないのです。

 

しかもそれは、マッチョイズムに冒された人たちから見ると「弱さ」に見えるのです。確かに、「草食系男子」には、ある種の「弱さ」が見られます。

 

でも、ここで考えてみてください。「強さ」とはいったい何でしょうか? 「強さ」とは、腕力のことでも、闘いに勝つことでもありません。究極の「強さ」とは、「怖れ」が一切ないことです。言い換えれば、自分を完全に解放し切っていること。いついかなる時にも Open Heart であり続けている人ほど、強い存在はないのです。闘争や防衛意識を駆り立てるものの正体は、逆に「怖れ」であり「弱さ」なのです。

 

もう時代はとっくに変化しているのに、その直感が働かずに、古色蒼然の価値観で、なおもあなたを縛り付けようと、たくさんのものがあなたに襲い掛かって来ます。「さあ、何してるんだ。お前もリングに上がれ」と。「そして闘え!」と。でも、そんな罠に引き摺り込まれる必要はありません。「いや、結構です」「興味がありません」と言えばいいのです。そして、自分に強く言い聞かせるのです。わたしはわたしだ、と。

 

しかしそのためには、先ずもって、世の男性たちは男性特有の「枠組み発想」という思考グセを打ち捨てなくてはなりません。男性というものは、自分のアイデンティティを、ある「特定の枠組み」への帰属意識の中に見出そうとする傾向があるのです。何かに所属している自分が自分だ、という考え方です。それは、男性性に元来そのような性質があったところに、しつけや教育がそれを強化する刷り込みを与え続けて来た結果です。

 

ですから、一般的に言って男性は、ひとたび「枠組み」に入れば馬車馬のように働く一方で、そこから外れると、たちまち元気を失くして鬱になってしまったりするのです。とりわけ、万事が「右にならえ」でやって来て、マイオピニオンを持つ訓練を積極的にして来なかった日本人男性は、この傾向が非常に強い。すると、「枠組み」から出されたり、そこに入れないことは、大変な恐怖となるのです。

 

この心理構造が、現在働き盛りの年代にある男性たちに、過重なストレスを与える大きな要因になっています。なぜなら、自分が受けて来たしつけや教育が、「特定の枠組み」へ帰属することを前提として目標が組み立てられていたのに、いざ就職の年齢に達した時には、求人がない、よい就職先がない、正社員になれない、賃金も安い、一度やめたら再就職が難しい、など前提そのものが崩壊していたからです。

 

いわゆる就職氷河期世代の人の中には、大学卒業時に就職できなくて、モラトリアム(猶予期間)のつもりで大学院に進んだけれども、大学院を卒業したら年齢のために更に就職が難しくなってしまった、以来、派遣労働者として働きながら正社員への道を探っているというような方がおられます。その境遇を見ると可哀想ではあるのですが、なぜそこまでして「就社」にこだわり続けるのか、という面も原点から考えてみる必要があるのではないでしょうか。

 

「就職」が即「就社」を意味するようになってから久しいですが、本来はそうではなかったはずです。「就職」というのは、文字通り「職」に「就く」ということであって、自分がどのような「職」を仕事として選び、身につけるかということを意味しています。それは、あくまで自分で自分をプロデュースするということであり、会社に選んで貰うということではなかったはずなのです。ここに、「就活」がシステム化したことによる壮大な錯覚があります。

 

けれども、女性たち一般には、男性のような「枠組み発想」は殆どありません。ですから、女性たちからすれば、男性のこの「枠組み発想」というものは理解不能の世界であって、実に下らないものに映るのです。そこで夫婦間では、このスレ違いを巡って、しばしば衝突が起きるのです。前近代には、男はそれを避けるために「男の仕事に女は口を出すな」と言っては防波堤にしていたものです。

 

*女性の男性化の悪い面として、「枠組み発想」に突き進む女性もいることはいます。

 

しかし、これからの男性たちは、それが本当に下らないことだと「気づく」必要があるのです。もはや時代にそぐわない上に、地球の進化としても、その段階に至ったということです。なぜかと言うと、権力者はこの男性の「枠組み発想」を利用して、男たちを上手にコントロールし、働き蜂や兵隊になるように仕向け、何世紀にも渡ってコキ使って来た歴史があるからです。それは、地球に残る集団のカルマであり、超えなければならないハードルなのです。

 

権力者たちは、今もなおもその仕組みを維持しようと躍起になっていますが、肝心の男たちの方は疲れ切って、もう着いていけなくなっている。ということで、今や男性陣は行き倒れになり掛かっているのです。そこで、男性のこれからの課題としては、女性たちに見習ってもっと自分を女性化して行く。そのことを肯定して、より中性に近づいて行くということが求められているのです。

 

それだけを聞くと、従来の思考でがんじがらめになっている人には、唐突に、また違和感をもって感じられるかも知れません。が、まさにそこ、その違和感。それこそがブレークスルー・ポイントなのです。

 

男の「枠組み発想」は、元々はメス獲得の願望から生じたものです。動物的な本能であるこのメス獲得の願望を達成するためには、ある時代から「枠組み」に入ることが有利に作用したのです。それは、原始的な果たし合いを男が止めてからです。でも、メスを獲得したい男は、本能として、自分以外の男性をたえず値踏みし、相手の力量を計るというクセが抜けません。無意識的に、他の男に勝ちたいという衝動を抑えられないのです。

 

そこで、腕力の代わりに、権力で相手をギャフンと言わせたいという思考に変わって行ったのです。これが、男性が、所属や地位や肩書きに強いこだわりを持つ理由です。しかしこのことは、一方で過適応を生み、自分を規定する「枠組み」こそが自分だとの錯覚を創り出しました。その結果、先ほども述べたように、「枠組み」に入ることが目標、入れれば安心、そこから外れることは恐怖、という感情を抱くに至ったのです。

 

この「思い込み」が、どれほど、現代に生きる男性の解放を妨げていることでしょうか。これまでにも何度も言ってきた通り、それは、単なる「思い込み」に過ぎないのです。そういう「枠組み」を提示して「リングに上がれ」と言う方も、そして「枠組み」に嵌められて「そうしなくちゃな」と思う方も、ともに協力しあって、そのような錯覚の世界を創り上げているのです。

 

女性の一部は、それが男性特有の錯覚の世界であることに既に気づいています。しかし、男性はほとんど気づいていません。それは、男性というものが、どうしようもなく「枠組み発想」であり、幼少時からそれを徹底的に叩き込まれて来たからです。ですから男性は、知り合いが一人もいないような集会場所に、たった一人で出かけて行くということが出来ません。自分が値踏みされてしまうことが怖いのです。

 

男性たち、特に草食系と言われる人たちには、ここを乗り越えて行って欲しいのです。メスの獲得を巡って、もうカンガルーのボクシングのような殴り合いはしなくなった。その代わりに「権威」で横っ面を引っ叩くようになりました。これからは、それさえも乗り超えて行くべき時代が来たということです。大切なのは融和であり、そのためには自己の解放(Open Heart)が何より前提になるのです。

 

だから、

 

ありのままでいいのです。ありのままであれば、他者から値踏みされる恐怖も生じませんし、他者を値踏みする眼を持つ必要もありません。

自分をさらけ出す勇気を持ちなさい。そうすれば、肩の荷が下りて、楽になるから。なぁんだ、こんな簡単なことでよかったのかと、気づくから。

 

婚活産業は、年収がどうだとか、身長がどうだとか、容姿がどうだとかと言います。でもそんなことを条件に挙げる女性は、最初から相手にしないことです。だっておかしいでしょう? そういう女性は、いったい何と結婚したがっているのか、よ〜く考えてみてください。本質と付属物とが逆転していますよ。こんな罠に巻き込まれてしまったら大変、破綻は目に見えていますよ。

 

現代という時代は、婚姻関係が「生活を共にするベースキャンプ」という発想が強過ぎるのです。誰も彼もが損得を第一に考え、「ベースキャンプ」を得する場にしたい、またしようとする。でも、結婚で大事なのはそこではありません。婚姻生活という場で為す仕事を通じて、お互いが人間的、また霊的な成長を果たすということです。あなたが選ぶパートナーは、その覚悟に同意してくれる人であるべきです。

 

それに世の男性たちは、どうすれば女性にモテるかということについて大きな誤解をしています。婚活産業が、モテる基準というものを提示するものですから、それらをすっかり信じてしまい、自分が基準を達成できていないことに妙に萎縮してしまったり、逆に自分は基準を達成しているんだぞと見栄を張ったり。涙ぐましい努力をしている人たちを見かけます。

 

そういう人たちに言ってあげたい。あなたは、いったい何人の女性と結婚するつもりなのかと。底引き網に引っ掛かって来た中から、ベストの一人を選びたいのでしょうかしらねぇ。でもね。喩えは悪いですが、のんびり釣り糸を垂れている時に喰いついて来た魚も、一匹は一匹なんですよ。そして、次が肝心。どのような方策を取ったとしても、「縁」ある「魂」は最初から設定されているということです。出逢うものは出逢うのです。

 

あとは、「波動の法則」が「縁」を選ぶ。だからこそ、「Open Heart」が大事なのですよ。「Open Heart」に勝るものはない。あなたが、いつも「Open Heart」でいれば、同じように「Open Heart」である人が、その波動に惹かれてやって来ます。女性を敬い、出しゃばらずに、偉そうにせずに、周囲の人たちにただただ誠を尽くしなさい。それが、いちばんのモテるコツです。

 

さて、一方の女性たちの課題です。総じて、女性たちはこの半世紀で大きな進歩を遂げました。それは、もともと持っていた良好な性質に加えて、様々な社会的タブーが過去半世紀に一気に取り払われ、そこに聡明さがプラスされたからです。もともと持っていた性質というのは、身の廻りの細かな仕事に、倦まず弛まず取り組める粘り強さを持っているということです。

 

これは素晴らしい特質で、「倦まず弛まず」ということが、いちばんの霊的進化を約束してくれるのです。一方、男性はこれが苦手で、「大志」というロマンに惹かれ、日々の細々としたことには眼が向かないだけではなく、そんなものには価値がないとすら思っているのです。結局これが、男性が「枠組み発想」に流れやすいということに繋がり、逆に女性は「枠組み発想」に陥りにくい元になっているのです。

 

こうした結果、霊的進化という点においては、今や男性は、女性との間に大きく水を開けられてしまっているのです。その表れは、この「虹の学校」でも顕著に見られ、接触して来られる人の95パーセントが女性という、極端な女高男低が見られるのです。しかし、政治・経済の社会は、ふた回りも遅れていますから、未だに錯覚が解けない男性たちがウヨウヨいて、延命策を続けているのが実情です。

 

ところで、いま女高男低と書きましたが、あなたの現在の性に照らし合わせることは、ほどほどにしておいてください。何度も言うように、「魂」は輪廻転生するのです。今世、男性であった「魂」が次は女性に、女性であった「魂」が次は男性にということは、充分にあり得ます。両方を味わい尽くすのが輪廻転生の目的なのですから。ですから、女高男低という現象は、両者で考えなくてはならない課題なのです。

 

その上で、今後は、先行した女性が、男性を引っ張るという形になって行きます。しかしそれには、男性が、これまでの誤りを認め、反省し、素直になって、ハートを開くということが前提条件です。けれども、面子にこだわる男性には、なかなかそれが出来ません。しばらくは辛抱が必要です。焦ることなく、あなたが「Open Heart」になることで、周囲の男性たちを「Open Heart」に導いて上げてください。

 

さて、いま挙げたのは、霊的に先行している女性たちですが、もちろん女性全員がそうというわけではありません。女性の特質として、もう一方に、感情に流れやすいという点と、物欲に染まりやすいという面があります。今の社会は、これらをさらに刺激する方向へ動いていますので、その罠に簡単に嵌ってしまう人も、一方ではたくさん出現するということになります。

 

こうして今後は、霊的により進化する人たちと、低い波動に堕ちる人たちとが、極端に分かれて行きます。そのことによって、人間社会はますます混乱の様相を呈するようになりますが、そこを長い目で見て通過することが大切です。どのような段階にある「魂」であっても、その時に選んでいることは、その「魂」に取っての真実なのです。そこを汲み取ってあげてください。

 

すべては、たった一つの到達点へと続く旅です。どんな「魂」も、必ず、最後はそこへと行き着くのです。そこに希望を見出してください。そして、先ずあなたが「Open Heart」の心で、日々を生き抜いてください。それが、周囲の人々を明るく変え、ひいては地球全体を救うことに繋がります。あなたが明るくなることと、周囲が明るくなることはイコールなのです。

 

なぜなら、もともと一つだったのですから。

男の課題、女の課題(1)LGBTの解放運動が示唆しているもの

なぜ、この世に男女の性別というものがあるのでしょうか。このことについて、これまでに深く考えてみたことがありますか? 最近になって、LGBTの問題が俄かにクロースアップされるようになり、当事者や関係者の方ならば、もしかしたらそのような問い掛けを自分自身になさった経験がお有りかも知れません。私たちは、この問いについて、もっと根源的な理由を知るべき段階に来たと思います。

 

男女の別があるのは、生殖をして子孫を残すためだと考える人たちがいます。確かに、それも答えの一つです。自然界を見れば、雌雄別の生命体のすべてが、基本的にはそのような在り方をしていますから。しかしこの考え方は、現象の表層しか見ていません。なぜならば、他の動物と違って、人間は輪廻転生を繰り返す生命体だからです。個々の魂は、その連続においては、男にも女にも生まれ変わるのです。

 

男女別があることを「子孫を残す」という視点でしか考えていない政治家がいて、時々、不穏当な発言をしてしまう様子を見かけます。抗議にあってから、慌てて釈明したりしているのですが、日ごろ考えていた本心がついポロッと出たということに過ぎません。彼らにとっては、人間というものは、単に人口(population)であって、個々の人間(human)存在ではないのです。彼らの意識の中に、ヒューマンへの共感はありません。

 

人が、この物質世界に生まれて来た理由には、それぞれ個別の課題があります。今世、男に生まれた、女に生まれたというのも、その課題の一側面であり、中間生(転生と転生の間)に滞在していた時に、自分でプランニングしてきたものなのです。「子孫を残す」という視点だけでは表層しか見ていないというのは、自分が今世、なぜ男に(あるいは女に)生まれて来たのかという、そもそも論が欠落しているからです。

 

個々の「魂」は、物質世界に何度も何度も転生しながら、少しずつ霊性を向上させていく旅を続けます。その際に、過去世で積んで来たカルマの解消と、真実の愛というものについての学習を、我が身に降りかかる経験(多くは辛く困難な体験)を通じて行なっていくのです。地球というのは、いわばそのための林間学校なのです。

 

「魂」のホームベースはあくまで霊界であり、自己の霊性の向上のために、意を決して出掛けて行く修行道場、それが地球です。それは、物質世界でしか味わえないハードなトレーニングをするためであり、自分で、筋トレならぬ「霊トレ」に「よし行って来るぞ!」と決めて、人は地球に誕生するのです。けれども、ちょっと油断をしていると、カルマを雪だるま式に増やすことにも成りかねないという、ここは案外厳しい学校なのです。

 

さて、そのようにして霊性が向上して行った暁には、個々の「魂」の性別は、どのようになって行くと思われますか? そう、性別が無くなります。中性になってしまうのです。あるいは、男性でもあるし、女性でもあるという言い方も出来ます。つまり両性を持っているということですす。神が、あるいは宇宙が、しばしば父性と母性の両方で語られるのは、それを示しています。

 

*キリスト教は、神を「父」に限定してしまいましたが‥‥。そこで、それを補完するために、聖母マリアをもう一つの信仰対象としてバランスを図りました。

 

仏像の弥勒菩薩や観音菩薩が中性的に描かれているのは、霊性が高いことを表しています。人間でも同じで、「魂」が完成に近づき、霊性が高くなった人物は、例外なく中性的な魅力を持っています。また、一人の人間の一生を見た場合でも、経験を積んで、それを消化して来た「魂」は、晩年になると、お爺さんなのか、お婆さんなのかが分からなくなってしまいます。

 

このように、輪廻転生の旅を「性別」という観点から眺めますと、それは「中性に限りなく近づいていく旅」だとも言えるのです。中庸の一つの表れです。しかしこのことを、大多数の人は知りません。そこで、世の中には、今もって男性性や女性性を強調するもので溢れ返っているのです。しかしそれは、金銭欲や物欲と同じことで、肉欲への執着を手離そうとしないということなのです。今のこの身体が、自分のアイデンティティだと思い込んでいるわけです。

 

しかし、そう「思い込む」のも無理ありません。幼い頃からそう躾けられますし、思春期になればなったで、鏡に映った自分の姿を見て、他者と比較することを覚えて行くでしょう。でも、冷静なって考えてみれば、鏡を見ていない時の自分は、この「身体」なのではなくて、今の「意識」なのだと気づくはずです。あなたは、あなたの身体の全体像を、自分の眼で直接見て、外側から把握するということは絶対に出来ないのです。

 

つまり、それは「思い込み」にしかない。何かを通して(例えば写真に映った)自分と思われるものを見ることは出来ます。友人に「ここに映っている人はあなただよ」と言われれば、そうかなと思う。しかしそれは、あくまで「映ったもの」であって、あなたの身体ではありません。あなたは、自分の身体を、「着ている」という感覚でしか捉えられないのです。むしろ、それこそが真実なのです。

 

あなたの身体は、今世における、ドレスでしかありません。

ですから、「なぜこのドレスなのか?」を考えることは、あなたの今世における旅の、大きな手助けになります。

 

さて、霊性が高まれば中性的になって行くということを、別の角度から見てみましょう。前回のブログで、「魂」の輪廻転生の旅を、大海と一滴の雫に喩えてお話しました。大海から昇った蒸気が凝固し、一滴が生じて、雨となって地上に落ち、しだいに同類を集めながら元の海へ還るというお話です。では、この大海の性別は何でしょうか? そうです、中性です。では、最初に生じたという一滴は?

 

この一滴のことを、精神世界用語でエンティティ(entity)と言います。エンティティはIT用語にもなってしまったので、解りづらいかとも思いますが、最初の実体、やがて自我を持った「魂」に成長する霊的な種子のようなものだと思ってください。このエンティティには、もちろん性別は無いのです。大海の一滴ですから、まだ大海の性質を所持しているわけですね。

 

しかし、このエンティティが地上に落ちた時から、性別が始まるのです。なぜならば、物質界をあまねく貫く論理は、陰陽二極性にあるからです。これは、元をただすと電磁気的な性質で、プラスとマイナス、S極とN極に代表されます。およそ物質界では、あらゆるものが、この両極性の間に、物質化という現象を通して出現しているのです。そこで、人間も例外ではなく、オスとメスとに分かれるのです。

 

なぜ二極性があるかと言えば、二極の間にこそ、次の新しいものが生み出されて行くからです。これを、逆三角形(▽)を書いて『三角形の法則』と呼びます。上の両端が二極性で、間に新しいものが生み落とされるのです。この二極性は、通常、ポジティブとネガティブとか、プラスとマイナスのように言われることが多いのですが、そこに優劣というものはありません。それは単に反対の性質であって、両方ともが必要だということです。

 

*時に、私も「ネガティブ」という語を否定的な意味で使ったりすることがあるのですが、それは言葉の綾で、その時そう表現したと理解してください。

 

ですから、人間の男女ということを考えた時にも、そこに優劣があるのではなく、両方が必要であり、互いに補完し合っているということです。さらに言えば、霊魂の本体(=創造主)から、エンティティが出現した際には、これが地上へと降りる前に、バランスを取るために二つの極性に割れるのです。そして、各々が別々の「魂」として、成長の旅を開始して行くのです。これが、いわゆる「ツイン・ソウル」の関係です。

 

英語の「man」は、もともとは「人間」という意味でした。つまり、両性具有(androgynos)だったのです。しかし、そこから一つの極性が新たに生み出されました。神話で語るところのアダムの肋骨を1本取ったのです。それで、「man」から別の「man」を生み出す、生〜むman →「woman」が創られました。この分割によって、元の「man」の極性に偏りが生じ、「man」が「男性」の意味を持つようになったのです。

 

肉体を持って地上に降りるということは、言い換えれば、天国世界からの堕落を意味します。これは、イエスであろうとブッダであろうと同じことです。波動を下げなければ物質化することは出来ません。ですから、地上に生まれたということは、元のエンティティが、敢えてそうすることを選んだということなのです。なぜ? 好奇心によって。好奇心への誘惑に乗って。これが、聖書に書かれた、アダムとエヴァの失楽園の物語です。

 

こうして、好奇心から一度は物質界に堕ちた「魂」ですが、その後は、男女の極性を持つことでしか出来ない体験を重ねることによって、再び、霊性の向上を目指すようになって行ったのです。しかしそれを聞いて、「なぜ天国に居続けなかったのか?」「なぜ、そんな七面倒くさいムダな旅に出たのか」と、疑問を持たれた方もおられるでしょう? では、あなたは旅には出ませんか?

 

このようして、様々な困難に遭遇しながら、喜怒哀楽を味わい尽くし、少しずつ真実に目覚めて行く過程に、「愛のレッスン」があるのです。そして、霊性がいよいよ高まった「魂」は、遂に輪廻転生を止めます。地球学校を卒業して、もといた天国の存在となるのです。それは、「性別」の観点からみれば、中性となったがゆえに、男女いずれかにならなければいけない地上には、もう出て来れなくなった、という意味でもあるのです。

 

さて、いま説明したことを踏まえた上で、改めてLGBTの問題を考えてみましょう。一つの「魂」は、連続している輪廻転生の体験の中で、性差の両方を味わうために、男にも女にも転生します。その時に、ここしばらくは過去世でずっと男、男が続いていたのに、今世になって急に女のドレス(肉体)を纏ったことで大いに戸惑うということが、しばしば起こり得るのです。(もちろん逆パターンもありますし、個別の因果はもっと多種多様です)

 

これは、今回はそうすることが適切と判断して、自分で決めて誕生して来たことではあるのですが、いざ生まれてしまうと、前世までの肉体上の未練がまた復活して来てしまうのです。このメカニズムは、「性別」に限って見ているために、極めて特殊であるかのように思えますが、決して特殊なことではありません。今まであまり(全く?)触れられて来なかったというだけの話です。

 

次の転生で、自分をどのような境遇に置くか、また身体をどのように創造するかは、その「魂」の、それまでのカルマを元にして設計されます。「性別」は、そうしたカルマ上の、たくさんある選択因子の一つなのです。この設計は、地上での体験をし尽くすために、通常はバランスを取るように配慮されます。贅沢に溺れた者は次には最貧者に、他者を虐げた者は次には虐げられる側に、といったようにです。

 

ところが、そうして自ら設計したカルマ解消の機会を、有効に使っている「魂」というのは、それほど多くはないのです。その理由は、無智と、地上世界ならではの我欲に、大多数が捕まってしまうからです。この無智の中には、宗教的ドグマも含まれます。その結果、同じカルマをグルグルと辿り直す「魂」が、大勢出て来てしまうのです。それほど、カルマの解消というものは難しい。放っておけば、大多数の人が、自分のカルマに負けてしまうのです。

 

LGBTの問題に関しては、今は「人権」ということが盛んに言われています。これは、現状では致しかたない面もありますが、そこに留まるのではなく、出来ればその先を行って頂きたいと思います。差別と人権無視ということは、LGBTに限らず、あらゆる分野で起きていることです。人種や、民族や、出自や、貧富や、学歴や、背の高さや、体形や、果ては頭が禿げているか否かといったことまで。

 

LGBTと禿げとを一緒にするなと怒られるかも知れませんが、本人がそこに強い差別感を感じているのであれば、その人にとっての深刻さは同じなのです。問題は、LGBTだからということではなくて、人間というものは、そもそもが、ある決まりごと、定見や価値基準から外れる者を、差別し排斥しようとする性質を、大概の人が持っているということです。本質はそこです。そこにメスを入れなければ、根本は解決しません。

 

なぜ、人が差別意識を持つのか? 一つの答えを言えば、地上の人間たちは、他者を「魂」で見ようとしていないからです。そういう習慣や、そのための訓練が出来ていないのです。およそみんなが、身体に(つまりドレスに)貼りついた属性をもって他者を値踏みする。そこで、美人とかブスとか、デブとか、チビとか、禿げとか、ゲイだとか、いろんなことを言い出すわけです。

 

さて、このような「視点」に対抗する手段は、「人権」しかないのでしょうか? 出発点としては、確かにそれも一つです。しかし「人権」アプローチは、メガネ自体は変わっていないのに、そのメガネで見えたことを言うのはタブーだよ、という社会認識を創造しているに過ぎません。その結果、自由な表現活動にも支障を欠くような、非常に息苦しい状況が生まれています。

 

真の問題は「人権」にあるのではなく、人々がいま掛けているメガネこそが問題なのです。その人が、身体レベルの意識をもって他者を見れば、その人には相手の身体が発する情報しか見えません。でも、心のレベルの意識をもって他者を見れば、その人には、相手の心が見えるのです。さらに一歩進んで、「魂」レベルの意識をもって他者を見るようにすれば、相手の「魂」までが見えるのです。

 

人類は、もうその段階に進むべき時が来ているのに、由々しきことに、心の眼で見ることすらも止めてしまいました。

 

「○○マイノリティ」という言葉を聞いたときに、私がいつも違和感を持つのは、自分たちで「マイノリティ」と言っておきながら、同時に「自分たちを差別しないで欲しい」と主張することの矛盾です。「差別するな」と言うのであれば、「マイノリティ」という言葉は撤廃しなくてはなりません。そもそも、カテゴリー分けというものは(つまり名称を持つものは)、すべてが「区別」の上にあるのです。

 

その「区別」に、優劣のスケールを当てると、それが「差別」になる。この関係を認識することが大切です。言葉は、そもそもが、何かと何かの「区別」したものの組み合わせなのです。犬と猫は違うというように。ですから、「区別」がなければ、会話も文章も成り立ちません。それを知った上で、言葉の上には、容易に「差別」意識が乗っかる危険性が常にあるということを、注意して欲しいのです。ですから、単純な言葉狩りに意味はありません。

 

そうではなくて、あらゆるものの本質は「個性」だということなのです。「区別」を「差別」にするのではなく、「区別」の前には「個性」があるということです。その「個性」が集まって、平均的な妥協点にカテゴリーが出来ている。その意味では、LGBTというカテゴリーも、またそれを細分化したLとGとBとTというカテゴリーも、ただの便宜上のレッテルに過ぎない。

 

重要なのは、Aさん、Bさん、Cさんが、それぞれ、みんな「個性」を持っているということです。そして、この「個性」を尊重する、また敬愛するということが、これからの社会においては非常に大切になっていくし、今後、人類が乗り越えなくてはならない、一つの大きなハードルであるとも言えるのです。

 

人は、例えば「性同一性障害」といったレッテルを、自分にも、そして他者にも貼りたがります。でもそのレッテル貼りに何の意味があるでしょうか? レッテルがあなたなのでしょうか? 宇宙からみれば、「障害」などというものは、何一つだってないのです。すべてが「個性」です。「個性」の集合体が宇宙なのですから。この本質が解ったとき、あなたは真の「愛」に目覚めます。ですから、あなたには、どこまでも「個性」の表現の中に生きて欲しいのです。

 

「人権」などというものは、別のレッテル貼りに過ぎません。そんなもので、またもや自分の身体をグルグル巻きにしますか? よーく考えてみてください。「魂」の世界から見れば、LGBTであるということは、その課題を通して、より中性に近づくチャンスを与えられているということなのですよ。ですから、喜ぶべきことなのです。プラトンだってそれを言っています。

 

どの世界にも無理解はあります。罵倒する人もいます。そんなものは放っておきなさい。無理解な人々は、今その段階を学習中ということなのです。説得しようとしても無駄なエネルギーを使うだけで、本人の気づきを待つしかないのです。それよりも、あなたは、あなたの個性を堂々と表現して生きるのです。そのようにして、自分を解放しなさい。

 

自由に、もっと自由に。もっともっと自由に。

 

(次回につづく)

自分の声を聴くということ

ひとの声に従って生きるのは楽です。なぜなら、「迷い」に直面して自分で「悩む」という機会がそれだけ減るから。そこで多くの人は、自分の意思決定の様々な機会を、他の誰かに肩代わりして貰う道を選びます。家庭では親に、職場では上司に、学校では教師に、クラブではコーチに、病院では医師に。その他、多くの問題は、その道のカウンセラーやヘルパーと称する人に。

 

霊的分野も例外ではなく、宗教では教祖や先達に、スピリチュアル系では霊能者のご託宣や、カバラや、占いに頼ろうとします。要は、自分をロボットにして生きることを、現代人は暗黙のうちに選択しているのです。それどころか、自ら進んでロボットになる道を選ぶのです。でも考えてみてください。自分の行動を自分で決められない動物など、他にいるでしょうか?

 

近代というのは、工業生産と都市化が著しく発達した時代(大衆消費社会)で、そういう社会を造るためには、同じような思考と行動様式をとる、多数の「ロボット人間」が必要でした。教育の義務化。みなさんが信じている学校矯育は、そのために編み出されたものなのです。そこでは、先輩ロボット教師が、次世代のロボット人材をまた育て上げるという、まさしくオートマタの増幅システムが構築されたのです。

 

*オートマタ(Automata、複数形)、オートマトン(Automaton、単数形):自動機械人形のこと。自分と同じようなオートマトンを作るようにプログラミングされたオートマトンが、オートマタをどんどん増やして行く。

 

それは、新たな宗教と言ってもよく、そのシステム自体を否定したり、そこからドロップアウトする者は異端審問に掛けられ、みな落伍者(落ちこぼれ)のレッテルを貼られたのです。とりわけ日本は、周囲への同調圧力が強く、個人のオピニオンを尊重するという風土がまるでありません。「あら、いい和ね」「私もそうする和」といった感じで、万事を「空気」が決めて行く。それをまた、みなが良しとしているのです。

 

しかし、近代というものが明らかな曲がり角に来たなかで(それは、大衆消費、大量廃棄、奴隷労働、環境破壊、激甚災害、食品汚染、薬物汚染等々の現象に端的に見られる)、近代の、このロボット化矯育システムや、強欲資本主義をまだ続けたいと願う権力者と、そこにぶら下がる者たちがいて、時代の変化(それを創っているのは、人々の意識の集合体)との間に、いまや大きな裂け目が生じているのです。

 

恐らくあなたも、その裂け目から発せられるギシギシという軋みの音を、日々感じ取っておられることでしょう。

さて、それで、あなたはどうするのか? どうしたいのか?

この先、どう生きるのか? それがいま、問われている。

そこで、

 

「自分の内なる声を聴きなさい」ということになるのです。

 

とは言っても‥‥。自分のどんな声を聴けばよいのか、迷うところでしょう。あなたには同時にたくさんの声が聴こえるはずです。「やっちまえ!」「いやダメだ」「冷静になれよ」「許すんだ」「そっと見守ろう」「愛せよ」。あるいは、「自分を信じろ」と言っても、自分の何を信じればいいのか、たくさん聴こえて来る声のどれを信じればよいのか、判らないことでしょう。

 

しかしそれでも、あなたは自分を信じなければならないのです。多くの人は、その覚悟がないために、権威あるものにすがろうとします。親であったり、先生であったり、師と仰ぐ人であったり、組織の幹部であったり、有名人であったり、霊言を下す人であったり、またその言葉であったり、伝統的なしきたりであったり、聖書・聖典の中の言葉であったり、と。

 

その刹那から、その人の「ロボット人生」が始まるのです。そして、最も大切な「自由」を忘れて、自分以外の他者に操られる自分になる。しかも、自ら喜んで。ここには大抵、スケールの罠が仕掛けられています。入門者、弟子、師範といった、階段を駆け上がって行く仕組みが。そのスケールの罠に、みんな嵌められてしまうのです。でも誰も、それが罠であるとは気づきません。それが、この世の中の常識だから。

 

入門を果たせたら嬉しい。弟子と認められたらさらに嬉しい。師範になれたら、さらにさらに嬉しい。自分はもう特別なんだ。よーし、この流儀・流派を、自分はしっかりと守って行くぞ。これを次の世代にも広げるぞ!

しかし、この罠は、いつかは罠であることが明らかになります。みんなが信じている間は、それが罠であるとは気づかない。でも信じることを止めた時には、ピラミッドは一挙に瓦解する。

 

それが幻想に過ぎないと解ってしまう。だから、そこに自己のアイデンティティを完全に預けてしまっているような人は、それが幻想だと気づいた時には、アイデンティティ・クライシスを起こしてしまうのです。頭のいいエリートたちには、それが薄々分かっているから、危機が迫った時には、その恐怖に耐え切れずに、みな保身に走ろうとするのです。「魂」の成長にとって、最も大切な、素直で正直で誠実であろうとすることを一切止めて。

 

他者の声に従って生きるのは、一見楽なようですが、地上に生まれたというせっかくの学習機会を、まるで活かしていないということになるのです。幻想を幻想だと認めずに、いくら踏ん張り通したところで、あなたはどの道ドンデン返しを迎えます。人が「死」と呼ぶ瞬間を迎えた時に。だとすれば、もっと早くに気づいて、「魂」の自由を追求した方が、ずっと有意義だとは思いませんか?

 

ですから、賢明なあなたには、あなた自身の内なる声に静かに耳を傾ける姿勢と習慣を身につけて欲しいのです。それを貫いて欲しいのです。さて、元に戻って、たくさん聴こえてくる声の、一体どれを信じたらよいのかという問題です。ここで重要なのは、「どれを信じればよいのか」という、正に「良いのか?」という部分です。多くの選択肢の中で、あなたは「良い」選択をしようとします。この「良い」とは、何を意味しているのでしょうか?

 

あなたが、もしもエゴ的な尺度を当てていたとしたら、そこでの「良い」とは、自分のエゴを満足させることになります。でも、「魂」的な尺度を当てていたとしたら、「魂」の成長を図ることが「良い」と思うのです。さらに進んで「霊」的な完成を目指していたとすれば、あなたは霊的な尺度を当てて、どうすることが「良い」かという声を聴くことになるのです。

 

つまり、あなたは、あなたの「今の成長段階に応じた自分の声」を聴くことになるのです。逆に言えば、現在の成長段階に応じた声しか、あなたには聴くことが出来ません。これが、よく言われる「すべては完璧」の意味なのです。あなたは、ご自分の選択行動を「良いか、悪いか」で考えようとする。それが心グセになっています。しかしそれは、あなたという「魂」の成長から見た場合には、すべてがドンピシャなのだということ。

 

この意味が解りますか? ですから、霊的世界には、「良い」以外にはあり得ないのです。

 

あなたは、大海から生じた一滴の雫です。この雫は、誕生すると雨つぶとなって地上に落ち、同類の仲間を集めながら、次第にチョロチョロ流れる小川となり、最後は大河に合流します。この大河は、途中どんなことがあったとしても、最後の最後は、元の大海へと還るのです。この大河の流れに身を任せれば、すんなり帰還することが出来、途中で岩にしがみついたり、窪地に落ちたり、逆行しようとすれば、抵抗に苛まれるのです。ただ、それだけのこと。

 

ですから、あなたが、この真理を認めて、流れに身を任せるような生き方をして行けば、(つまり、ありのままに物事を見て、素直に正直に誠実に生きて、純粋さを尊び、直観を大切にすれば)、万事がよいように進展するのです。ただし、繰り返しになりますが、この「よい」は、エゴ的に「良い」ことではありませんからね。

 

波動の法則によって、通常状態にある時には、あなたは、今のあなたの振動数に近い領域の波動しか知覚することが出来ません。このことは、〈同じ本であっても、どの箇所にアンダーラインを引くかは、それぞれの人によって違う〉という喩えを使って何度か語って来ました。Amazon でも、同じ本の評価に☆5つを付ける人もあれば、1つという人もありますよね。それ以前に、そもそも、その本に巡り合わない人の方が圧倒的多数です。

 

ですから、あなたが、もしも「霊性の向上を目指して生きる」と決めた人であったなら、今よりも高みを目指すということを常に意識しつつ、毎日のこの瞬間瞬間を送ることが大切です。階段は一歩一歩、着実に登って行くしかないのです。でも降りる(堕ちる)のは簡単です。手摺りにチョコッとお尻を乗っければ、一気にスーッと降りられる。これが、パックリ口を開け、あなたを待ち受けている罠です。

 

でも、光への道に、近道はないが早道はある。なぜ、何種類もの声が、次々とあなたに聴こえるのでしょうか? それは、取りも直さず、あなたが多次元的存在であるということを示しています。一次元、二次元、三次元、四次元、五次元、時には六次元からの声も聴こえることがある。しかし、高次元からの声は、自分をよほどピュアな状態に保っていない限り、低い波動によってすぐに掻き消されてしまいます。

 

あなたの意識は決して一つではありません。各次元に対応した、たくさんの意識チャンネルを同時に持っているのです。でもテレビの第1チャンネルを視聴している時には、第4チャンネルは映りませんよね。それと同じで、今どのチャンネルにチューナーの針を合わせているかによって、受信できる声が違うのです。ですから、高い次元(ハイヤーセルフ)の声を聴くためには、低い次元のチャンネルは閉じなければならないのです。

 

私がしばしば、スマホの害を指摘するのは、そのことが理由です。須磨穂の国からは、絶えずあなたを罠に落とし込もうとする低い波動がやって来ます。これに一度嵌ってしまったら、手摺りをピューッと滑り堕ちる快感から、もう逃れられません。そうなったら、高次元の声はもちろんのこと、通常の意識状態の声すらも聴こえなくなってしまいます。そうやって、気づかぬうちに、既にみんなソンビにされてしまっているのですぞ!

 

では、この『気づきの啓示板』はどうなのか? 「このブログだけは違う」なんてことは言わない。やはり虜になったらゾンビになる。あなたをゾンビにさせる要素は、ここにもある。だから、気をつけたまえ!

 

信じてはダメだ。信奉したらなお悪い。納得いかない言葉も鵜呑みにして、従おうとしてはいけないよ。すべては、あなたの道の、両側に広がる風景に過ぎない。このブログに書かれてあることは、あなたが歩く道端に落ちている、ただの石ころや棒切れだ。あなたは、その中から「おっ」と目に留めたものを拾い上げる。それは、ただ今このタイミングで、あなたが、〈自分の意思〉で開かせた、自分のチャンネルなのだよ。その〈主体性〉を、強く意識して毎日を生きなさい。

 

だから、高いチャンネルを開くためには、それなりの訓練と準備をしなければなりません。その手段が、他ならぬ「瞑想」です。止まる瞑想、歩く瞑想、坐る瞑想。この3つを日常生活に積極的に組み込むことによって、あなたは「瞑想的」日常生活を送るようになります。そうすれば、五次元の扉が開いて、遂にはそこからの声が主体の人生となる。こうして、その人は、三次元の物質世界にいながらにして、同時に五次元世界にも生きる存在となり得るのです。

 

この時、その人からは「悩み」が消える。なぜなら、真の自分(真我)に従って生きる自分になるのですから。わたしはわたし。もう迷いはない。そしてそれは、その先に、神我と一体となる我(大海の一滴)を見出すのです。ですから、先ずは真我の発見を目指しなさい。そのために、瞑想を、日常的手段として用いなさい。そうすれば道は早い。

 

自分を信じて、自分の声を聴くのです。

戦争への構図

戦争は一人では出来ません。集団同士が争うことによって、戦争が「創られる」のです。それは、悲惨で大規模な破壊をもたらしますが、地球という惑星に降りた魂たちの、〈現段階における〉創造的行為の、一つのバリエーションとなっているのです。

 

人間、一人になった時には、誰もが友愛と平和と笑顔であることを望んでいるのです。でも集団になると、時に、この思いがあっさりと破られ戦争へと突き進む。そうやって、平和と戦争、言い換えれば、友愛と他者蔑視との間を行き来し、愛の学習とカルマの清算とを繰り返しているのです。それは、健康な時には健康のありがたみがちっとも分からず、大病をしてからやっと分かるのに似ています。

 

メディアの発達は、過去の戦争がもたらした被害や、民衆の生活への影響、戦争体験で生じたトラウマ、また戦争へと突き進んでいった時代の背景や要因について、様々な角度から分析的な映像を見せてくれるようになりました。しかし同時に、戦争の立役者を歴史的偉人として描いたり、殺戮者をヒーローとして賞賛するドラマやゲームなども、数多く産み出されています。

 

それは正に、地球人というものが、未だにその間を行ったり来たりしている学習段階にあるということを、如実に示しています。芸術家の一部は、小説や絵画や映画やドキュメンタリー作品などを通じて、「なぜ人間はこんなにも悲惨で、不条理なことを繰り返すのか?」と、ずっと訴え続けて来たし、今も訴えているのですが、その効果がまだ目に見える形としては現れていません。

 

私たちは、その背景にはどんな構図があるのか、という点について、もう一歩進んだ理解をして行く必要がありそうです。また、そのような段階に至ったと思います。そして、ここを超えられるか、超えられないかが、第三次世界大戦の勃発を未然に防止できるかどうかの鍵になると思います。

 

戦争は一人では出来ません。集団が戦争を起こすのです。ですから、そこには、集団を動かすある「力学」が作用していることは間違いありません。そしてこの点をつぶさに観察してみると、どんな戦争にも次の3つの要素が必ず存在して、この三つのエネルギーが回転し、増幅し合うことによって、戦争へと突き進んで行っているのです。

 

その3つの要素とは、

 

1.権力者とその統治システム

2.大衆の熱狂(闘争意識の鼓舞)

3.裏づけとしての(宗教的)正義

 

です。

 

この三つが、まるで巴紋のように影響を与えあって、グルグルと回転することにより、戦争へのエネルギーが増幅されて行くのです。

 

1番目の「権力者とその統治システム」ですが、戦争遂行を決定するのは、その集団を掌握している権力者です。ですから先ず、権力者に「戦争をしたい、しよう」という欲望があって戦争が起こる。しかしその欲望を実現化するためには、統治システムが、それが可能なように備わっていなくてはなりません。例えば軍隊や、武器や、諜報機関や、徴兵制や、法律や、指揮命令系統です。

 

また同時に、権力者への信頼というものを大衆の中に醸成しておかなくてはなりません。なぜなら、大衆が具体的な戦争の駒(使い捨ての)となるからです。そこで権力者は、これを悟られないように糊塗し、自分を地位や、扮装や、勲章などで偉大な存在に見せる一方で、メディアや教育機関を使って都合のよい思想を大衆に吹き込み、戦争が可能なように法律を変えて行きます。

 

ここで気をつけておかなくてはならないのは、一つには、こうした権力者に都合のよい改変というものは、徐々に成されるということです。そのため、大衆は改変の影響度といったことには気づきませんし、関心もほとんどないのです。そしてもっと注目されるべきは、権力者というものは、一人の人間として誰もが持つ友愛と平和への念というものを、最初から喪失している「魂」だということです。

 

ですから、「魂」の成長(=愛の完成、oneness)という点から見た場合には、このような学習段階にある「魂」がリーダーであるというのは、本来はおかしいわけです。ところが人間社会というのは、「分離」と「競争」が価値観の根本を成していて、このスケールを社会全体に当て嵌めていますから、一般大衆を蔑む権力者が、人々を騙して権力の座に座れるし、その御輿を担ぐ者もいるのです。

 

しかし、権力者がいかに「戦争だ!」と叫んでも、それに従う者がいなければ戦争は起きません。法律や恐怖政治を用いていくら縛ったとしても、従わない者が多数いれば、権力者の更迭や、クーデターや、内戦が起こる場合もあります。ですから、2番目として、権力者の「戦争だ!」という声に賛同する大衆の熱狂を、どうしても作り出さなくてはなりません。この役割を担っているのがメディアや教育機関です。

 

ヒトラーはその重要性を非常によく解っていて、レニ・リーフェンシュタールにオリンピックを撮らせたり、選挙活動では飛行機を使って遊説したり、自分の演説時のポーズを研究したり、また人々の意識を集めるためのシンボリックなデザインのフラッグを多数用いました。ドイツ軍の軍服が実用を超えたかっこよさを放つのも、ヒューゴ・ボス(後のメンズブランドのBoss)にデザインさせたからです。

 

さて、大衆がどうして権力者の呼びかけに熱狂してしまうのかということですが、これは誰の心にもある生活上の不満やイライラ感を、権力者は闘争心へと転化させてしまう術を持っているのです。

 

大抵の人は、自分の恵まれなさや辛い体験を、自分以外の、他の何ものかのせいにしたがります。身近な配偶者や家族や、上司や勤め先や、それらが無かった場合には社会や時代のせいにする。この、誰かのせいにしたいという欲求を利用して、ここにシンボリックな「敵」を提示するのです。「あなたが恵まれないのは、ぜーんぶあいつのせいだよ」というわけです。そうすれば、大衆の熱狂に火が着くし、そのエネルギーが一本に纏る。

 

ナチスは、ご承知のように「ユダヤ人」をこれに当てました。第二次世界大戦中の日本軍は「鬼畜米英」と言っていました。ジョージ・ブッシュは「悪の枢軸国」と言い、テロとの戦いを宣言しました。権力者のこの常套手段は、今もまったく変わっていません。大衆は、一人の時には友愛と平和がいちばんと思っているのですが、心の奥に眠る闘争心に火が着けられると、パッと燃え上がって、友愛や平和はたちまちにして溶かされてしまうのです。

 

しかし、これだけでは戦争には突き進めないし、開戦したとしても継続することが出来ません。なぜかと言うと、戦争が残虐な殺戮を伴うものだということは、みなうすうす解っているからです。そのため、その「イヤだな」という気持ちを乗り超える何かがなくてはならないのです。これが「戦争の大義」というもので、多くは、(宗教的)正義がここに当て嵌められるのです。

 

そもそも戦争に「大義」などあるわけはないのですが、「大義」を設定しようとするのは、心の後ろめたさを和らげるためです。(宗教的)と括弧して書いたのは、別に宗教でなくても、共産主義でも、民族主義でも、愛国主義でも何でも構わないのですが、しかしそこに問答無用の宗教的信念が備わっていないと、力が弱い。そこでみな「正義」を強調するのです。あとは、その正義に反する奴らはみんな「敵」だということになる。

 

そして、いま挙げた3つが揃うと、権力者としては、戦争をしたいバックボーンがきれいに整って、さらに発言がし易くなるのです。こうして、(戦争屋にとっての)好循環がグルグル生まれて、エネルギーが増幅され、戦争へと突き進むことが可能となるのです。この「戦争への構図」は、どんな戦争であっても、また地域紛争であっても、内戦であっても、まったく変わりがありません。全部が、この構図によって生じているのです。

 

ですから、もしあなたが戦争を回避したいと思うのであれば、この構図が悪回転しないような楔をどこかで打ち込むことが大切です。回る扇風機の羽に、棒を突っ込むようにして。そうすれば、この回転は止まります。

 

権力者の発言や、メディアの報道が「敵」を強調し出したら要注意。そんな時には「ああ、またやってるな」と思えばいいし、次の選挙ではその人間に投票をしなければいい。自分の中で「くっそー、あいつらぁ」という気持ちが沸いて来たら、「でも待てよ」と気持ちをなだめて、「彼らにも同じように愛する家族がいるんだよな」と想像してみればいい。もし「正義だ!」と叫ぶ声が聞こえて来たら、あのブッシュの顔を思い出してみればいい。

 

そして、すべてを冷静に、なるべく客観的に見て、人間というものの、懲りない愚かさに気づいて欲しいのです。その視点だけが、全体のこの構図からの飛躍を実現させてくれます。

 

愚かな宰相がいるのは、あなたが見る景色の中で、愚かな宰相という役割を演じてくれているのです。さて、じゃあどうするか? それを今、あなたが問われているのです。「隣国の連中はひどい奴らだ」と、メディアが思わせようとしているのは、それによって、あなたの「愛の成長度」を試してくれているのです。「こうすることが正義だ!」と言うのは、「信用できる正義など、実は何もない」ということを教えてくれているのです。

 

何度も、何度も、同じ手口に引っ掛かるようでは、輪廻転生の学習効果というものがなさ過ぎます。一度、ぜーんぶの物理的形は無いものと想像してみてください。意識の世界だけしかないと想像してみるのです。そうすれば、よく解ります。

 

愚かな宰相の演じ手も、大衆を操っているつもりが、実は奥の院の存在に操られているのです。その奥の院の存在も、もっと奥にある闇に操られている。そしてさらにその奥にも‥‥。意識の世界から見れば、ただそれだけの話。大衆が熱狂するのは、自分の中にあるネガティブ意識が、共鳴して揺さぶられるためです。この時、サッと魔が刺す。普段は、友愛と平和と笑いを愛する一人の人間であるのに、ちょっとした拍子に「魔」が刺してしまう。

 

そして、今まで育って来るなかで教えられたことや、吹き込まれた信念、さらには今日も育ててつつある信念によって、あなたは自分の中に入って来た「魔」を育て上げる。そして、この「魔」を、自分に完全に憑依させる。このようにして、ゾンビとなった人たちが大結集し、互いに殴り合い、殺し合うという一大スペクタクルを演じる集団的「創造行為」、それが地球劇場で繰り返される世界大戦です。

 

そして、僅かな人たちだけが生き残り、ゾンビから人間に戻って、

我に返って言うのです。

「いっけねぇ、またやっちまったみたいだぜ」。

今度こそ、それはやめにしませんか?

 

あなたが、自分の中のネガティブに火を点けるのをやめて、友愛に生きようとすれば、世の中にある信念は変わります。ネガティブな信念が効力を持たなくなるからです。

 

そうすれば、愛と平和を求めるエネルギーが生まれて、そのような考えを代表するリーダーが誕生します。そしてリーダーたちは、人々が暮らしやすいような、分かち合うことを基盤とした新たな社会システムを創りあげて行くことでしょう。

 

そうなれば、人々は、その社会システムによって、争うことなく、みな平和で楽しく暮らせるようになります。奴隷的労働は一切なくなり、誰もが、各個性を認めて、自己を表現しつつ、なおかつ他者にも役立つような仕事をするようになります。まるで夢のような話に聞こえるかも知れませんが、話は簡単です。最初のボタンの掛け違えを正せばいい。そうすれば悪循環が善循環に変わるのです。

 

あの人も、この人も、私と同じ人間なんだと思うだけで。

みな等しく、ともに宇宙に生かされている存在なのだ、と思うだけで。

組織宗教の賞味期限

戦後の日本を代表してきた教団がいくつか、ここに来て大きく揺れています。信者数随一を誇るある教団は、1964年、政治的野心を持って政界に進出し、数を背景に大成功を収めました。しかし、与党となっていざ権力を手にすると、宗教教義にも結党精神(中道主義、平和主義、原発ゼロ等)にも反する行動を露骨に取るようになって行きました。その結果、母体であった信者と政党、また信者と教団執行部との間で、内部紛争が沸き起こっています。

 

この教団は、もともとは日蓮宗系の一つの信徒団体だったのです。ところが、1991年に宗門から破門され、お坊さんを持たない教団として独立したという経緯を持つのです。それはいいとして、この時に、宗門から渡されていたご本尊(と言っても紙切れ)が入手出来なくなった。それで自分たちでこれをコピー印刷し、会員に配布するようになったのです。この事件が、さらに宗門の逆鱗に触れ、以来、宗門との間で激しい非難の応酬が続いているのです。

 

ということで、今の教団運営に疑問を持った信者さんの中には、元の宗門に還るという人も多く出ているようです。この、通称「本尊模刻事件」というのは、非常に象徴的で「宗教」というものが持つ性格をよく表しています。信徒団体は、破門された時点で「そんなものは不要!」と言えばよかったのですが、コピーして会員に渡してしまった。すると、宗門側からすれば、当然「それは偽物だ!」ということになるでしょう。

 

側から見ていると、「目くそ鼻くそを嗤う」といったレベルの争いにしか見えないのですが、当事者はそうではありません。これが大問題なのです。ここで判る通り、どちらも「ただの紙切れ」に過ぎないものに(と言うと、宗門は怒るでしょうが)、特別の価値を見出しているという点では変わらないのです。見出しているからこそ、信徒団体は、“似せもの”を刷ったのです。

 

それに対して宗門は「そんなの偽物だ」と言う。だから邪教だと言う。でも、本物のそれだって、同じように宗門側が刷った紙切れに過ぎないのではありませんか? じゃあ一体どこが違うのか? お寺でも神社でも、よく「御霊(みたま)を入れてある」とかと言うんですけど、御霊が入った紙切れと入っていない紙切れはどう違うのか? 御霊が入った紙切れを「信仰」の対象にして拝むのと、入っていない紙切れを拝むのとどういう違いがあるのでしょう?

 

そうかと思えば、一時は1000万人を超える会員がいると豪語していた某教団。そこの教祖の息子が教団を脱会し、ユーチューバーとして教団の内部事情を暴露するという事態が起きています。この教団も政治的な野心を燃やし、2009年の衆議院議員選挙には337人もの候補者を擁立しましたが、結果は全員が落選。これ以降、会員数1000万人超は本当なのか?、と疑念を持たれていたのです。

 

それが、教祖の長男が脱会し内部事情を暴露する事態となり、これも泥沼の争いの様相を呈しているのです。この教団にとっては、2012年の教祖夫婦の離婚騒動に続く大スキャンダルです。この他にも、跡継ぎ問題を巡ってやはり内紛が起きている真言密教系の教団があったり、血縁の教主を理事会が追放してしまったという教団も現れています。2017年には、相続を巡って、神道の宮司が別の宮司を日本刀で斬り殺すという事件まで起こりました。いやはや。

 

いったい、こんなものが「宗教」なのでしょうか、「宗教」だったのでしょうか? 私自身は、こうした争い事には関心がなく(と言いながら書いていますがけど)、今では「宗教」自体にも関心が無くなったので、さもありなんとしか思いません。しかし今進行している事態は、「組織宗教」そのものの〈賞味期限が、すでに来ている〉ことの顕れではないかと感じています。それも、日本だけの現象ではなくて、全世界的に見て。

 

跡目争いは、「組織宗教」のいわば宿命のようなもので、昔からあったものです。イスラム教のスンニとシーアの争いもそうですし、キリスト教のカトリックとプロテスタントもそうです。ローマ・カトリックとギリシャ正教は、互いに互いを破門しました。浄土真宗も、大きくは本願寺派と大谷派に分かれ、分派を数えれば30くらいもあります。岡田光玉が興した真光系は、光玉の死後に9つに分派しています。

 

跡目争いが起きる理由は、教祖あるいは先代が亡くなった際に、次に誰がいちばん「教祖(または先代)」に近いか、あるいは「教え」を体現している人か、という点が問われるようになるからです。それなしでは、教団の永続性が保証されないためです。そこで第一には、血脈(DNA)に受け継がれるはずだと考える。まるで競走馬のサラブレッドのようなものですが、神秘性を見出したい者にとっては魅力的な考え方です。

 

ところが、この考え方は一方でリスクも高いのです。先代とはモロに比較されますし、子息がボンクラであった場合には、幼少時からの側近が傀儡に利用し、裏で権力を握る可能性もある。そこで、高弟に受け継がれるべきだと考える一派とに分かれるのです。しかし、どうにも決着がつかない場合、そんな「誰が」ということが重要ではなくて、守るべきは聖書・聖典に記された「教義」であり、そこに還るべきだと主張する一派が出現するのです。

 

これに、人望や、統率力や、説法の上手さや、ルックスまでもが含まれて、跡目が選ばれる。そうした秀でたものが無い人は、金や政治力を使うということになります。問題は、そこで、なぜ「争い」が生じるのかという点です。組織宗教の場合は、その「組織」がそっくり財産の役割を果たしている。そこで、いちばんの目的(宗教的なものの伝承)以上に、財産を誰がどうやって引き継ぐかという点が、当事者には大きな問題となって来るわけです。

 

こうした争いは、外から見れば、みな「目くそ鼻くそを嗤う」がごときものに過ぎないのですが、内部にいる者はそうではありません。支柱が倒れて、ぽっかり空いた心の穴を、次に誰が埋めてくれるのかというのは、信者からしてみれば大問題です。そこで、跡を継ぐ者は自分の正当性をしっかりと見せなくてはなりません。例えば、血統の証明によって、霊能力によって、儀式によって、冠や指輪や豪華な衣装によって。

 

しかし、このような(伝統的?)跡目争いも、私には、もうそれ自体が古臭いものに感じられて仕方がありません。宗教の時代は、少なくとも組織宗教の時代は、もう終わったのではないでしょうか。戦後に隆盛を誇った教団も、今では二世・三世信者が「生まれた時から、うちではそれが当たり前だったから」というだけの理由で、惰性で信仰している人も多いと聞きます。ですから「教義を信じて」という人は、少なくなっているのではないでしょうか。

 

それ以上に、現在では、新たに「教義に惹かれて」飛び込んで来る人というのは、大幅に減っているのではないでしょうか。なぜなら、あらゆる情報が溢れ返ったこのインターネット時代に、一つの教義だけに、人を盲目的に縛り付けておくことは、もはや不可能だからです。インターネットが登場したことで、テレビはオワコン(終わったコンテンツ)になりましたが、宗教もオワシュウの時代に入ったように思います。

 

いつでもどこでもサッと取り出して拝めるモバイル神殿、世界須磨穂教に取って代わられて。その過程で、若い人たちは、組織宗教の胡散臭さをたくさん見て、ウラを知っていくことでしょう。一方で、根無し草のまま漂うことになった「魂」の大半は、時代に翻弄されて流され、一部のある者は非常に攻撃的になり、またある者は殻に閉じこもり、そしてごく少数の者だけが、真実を探し求めて、行動するようになって行くことでしょう。

 

先日、『エル(ELLE)』というフランス映画をDVDを借りて観ました。その中にこんなシーンがあるのです。主人公の女性が自宅でパーティを開き、知人を招待します。そこで手作りのご馳走を振る舞い、さあ食べようかとなった時に、お向かいの若夫婦が「ちょっと待って」と言って、二人で食前のお祈りを始めるのです。その途端、そこにいた全員がドッチラケーといった表情を浮かべて、二人の祈りの間、祈るフリのお付き合いをするのです。

 

この若夫婦は熱心なクリスチャンという設定なのですが、それを見て、「ああ、フランスでも宗教事情はこんなものなのか」と思いました。欧米文化がキリスト教の長い伝統を背景に成り立って来たことは確かです。ですが、こと「信仰」ということになると、以前とはだいぶ様変わりして、欧米でもかなり形骸化して来ているのかも知れません。

 

組織宗教がもはや時代遅れだと思うのは、まさにそれが「組織」であるという点です。「組織」は、指導者と指導される者、管理者と管理される者、先輩と後輩、優秀者と凡人、段位合格者と不合格者等のヒエラルキーを必然的に生み出します。すると、△形の上位に位置する者には優越意識が生じる一方で、底辺に位置する者たちには、「頑張って上に上がるぞ」というモチベーションが働くのです。

 

基本的に、「組織」というものは何であれ、この内部力学を利用して維持拡大するように図られています。組織宗教はこのスタイルを応用したのです。さて今「ヒエラルキー(ハイアラーキ)」と言ったのですが、これは元々霊的な階層(つまりバイブレーションの段階的違い)を説明した言葉だったものが、地上にある宗教組織にも転用されるようになったのです。しかし両者には、似ているようでいて決定的な違いがありました。

 

それは、霊的階層においては、高次元の存在(高級霊)が、下位のもの(魂)を、管理したり、思い通りに動かそうとしたり、恐怖を与えて脅したり、貢物を迫ったり、収奪したりすることは絶対にないということです。なぜないかと言えば、それらはみなエゴから生じる行為ですから、そもそも高次元の存在にはあり得ないことですし、エゴを抱えていたのでは高次元の存在にもなり得ないのです。この単純な理屈をみな知らないのです。

 

一神教の宗教は、ここに「契約」の概念を持ち込んで、「ちゃんと信仰していれば恩寵を与えるぞ」「天国にも行けるぞ」「でも教えに叛き、罪を犯したら神は罰を与えるぞ」「地獄行きだぞ」という教義を編み出して、これを浸透させて行ったのです。しかし、繰り返し言いますが、宇宙(神)があなた方の一挙手一投足すべてを見ていることは確かであっても、宇宙(神)には罪も罰もありません。罪と罰は人間の創造物なのです。

 

組織宗教というのは、ですから、一般社会で見かけられる上下のスケール(物差し)の概念を、そのまま宗教にも当てはめて、ありがたがったり、良いとか悪いとかと言っているのです。実にこれが、人間が長年かけても超えられなかった盲点なのです。神の下僕として生きるのではなく、己のエゴのために神を利用しようとしているのが、大方の組織宗教なのです。

 

あなた方は幸福を求めます。そして、霊験あらたかと言われる紙切れを貰ったり、ご祈念メダルを購入したり、秘密のマントラを授けて貰ったり、霊能者にどうしたら良いかという判断を求めます。

 

幸福を求めることが悪いとは言いません。それは、地上に生きる者の当然の希求です。しかし問題は、何が良いあり方で、何を悪いと考えているか、ということなのです。例えば、入学試験を受けた。合格が良くて、不合格は悪いと考える。普通はみんなそうです。でも真理の世界はそうではありません。良いことも悪いことも、みんな良いことなのです。あなたの身の上に起こることは、すべてが良いことなのです。

 

なぜなら、そこに、「真のあなた」という存在に向けられた、学習機会、成長機会のギフトが用意されているのですから。しかし、そう聞いても、とうてい納得がいかないでしょう。仮に、頭で分かったとしても、「本当にそうだなぁ」と思えるようになるまでには、何年も何年もの歳月が掛かる。だから、人々は「真理」には見向きもしない。そして、ニセモノの「教え」の方を信じるのです。

 

組織宗教は、一般社会のエゴのスケールをそのまま組織に持ち込んで、そこにオカルティックな味付けを施した特製ふりかけをパラパラっと掛けて、あなた方に幸福の幻想を提示します。当面の結果が自分の思い通りになれば、「さすがだ、ありがたい神様だ」となり、思い通りにならなければ、「信仰心が足りない、まだお布施が足りない」となるのです。

 

しかし、このような詐欺的テクニックが、いつまでも通用するはずはありません。冒頭に書いたような一連の出来事は、時代変化の大きな流れの中で起きています。これは何度も言って来たように、社会のあらゆる分野において、隠れていた闇に強い光が当たり、白日の下に晒されるようになって来たことから起きている現象なのです。

 

そしてそうなれば、後は、自分が為した行為は自分に還って来るという「カルマの法則」が適用されるだけなのです。そのようにして一連の出来事が起きている。しかし、内部にいる当事者たちにはそのことが解りません。「カルマの法則」のことも、たぶん知っているはずなのに‥‥。人は、洗脳から脱して、外に出て初めて、自分が洗脳されていたと気づけるのです。

 

跡目争いや、教団の分裂騒ぎや、邪宗・邪教といった罵り合いは、冷静になって眺めてみれば、実に下らない、宗教の本質からズレた話だということがすぐに分かるはずです。ところが、わが身大事、わが派大事、わが宗大事にハマってしまっていますから、それが見えません。こんなものが、神に仕える宗教なのか、真実を追求しようとする宗教なのか、と嘆かずにはいられません。

 

個人である時には、人はみな同じように平和を願う一人の人間なのです。ところが、集団となった時の人間のどうしようもない愚かさ。エゴを集めた際の人間の狂気。そうした中では、平和のための戦争、防衛のための先制攻撃、豊かさのための自然破壊、神に捧げるための人殺しまでもが、堂々と正当化して許されるのです。まったくもって、なんという愚かさでしょう。

 

けれども、嘆いてばかりもいられません。今のこの〈闇が暴かれて行く〉機会を上手に利用して、これを追い風にして、ジャンプを図るべき時が、人類に訪れました。なんと言っても、世界人口の85パーセントは何らかの宗教を持ち、一神教のキリスト教とイスラム教だけで、人類の過半数を占めているのです。もしもこの両者が争って、全面戦争にでもなったら、人類は間違いなく破滅です。

 

そうならないようにするには、伝統的な系譜を超えた先にある、真の「自由」に、各宗教および各教団が気づくよう進歩して行かねばなりません。系譜は系譜です。どんな人にも好き嫌いはありますし、背負って来た文化的背景も違います。でも、それぞれの人が、真の「自由」を求めようとすれば、たとえどんなルートを辿ろうとも、ゴールは必ず一つに行き着くのです。そこに、フォーカスを当てるべきではありませんか?

 

我が宗の跡目争い? 小ちぇ〜。教団の分裂騒動? 小ちぇ〜。我が宗のみが正宗? 小ちぇ〜。他はみな邪宗・邪教? あ〜、小ちぇ、小ちぇ。そんなものは、コーヒー豆の選別をしているようなものなんだよ。なぜ、豆は豆はだという視点に立てないんだ。なぜ、色んな豆があるかを考えないんだ。いいかい、「自由」は、いのちあるものに、平等に贈られたギフトなんだよ!

 

あなた方は、真の「自由」というものを知りません。代わりに、幾世代にも渡って、ニセモノの「自由」ばかりを追いかけて来ました。その不毛に疲れ果てて、何かが根本的に間違っていたんじゃないかとやっと気づき始めているのに、社会の支配層は修正を図ろうとはしていません。

 

宗教は、本来は、こうした社会的構造の矛盾に喘ぐ人たちを救い上げるための機能として存在していました。ところが、宗教も、脱宗教であった筈のスピリチュアル世界も、やっていることは、結局は一般社会の構造と同じか、それをさらに激しくしたものになっています。欲望の奴隷状態にあり続けることを承認し(あるいは推奨し)、見せかけの幸福をチラつかせているのです。

 

こんなものが、欲望のヒエラルキー(その結果が格差社会)に疲れ果てて、根無し草となってしまった現代人の心を、救えるはずがないではありませんか。それ自体が、同じヒエラルキー構造で迫って来るのですから。

 

真の「自由」とは何か? それは、束縛が何もない状態。言い換えれば、すべての執着を捨てた状態です。すべての執着を捨てた時、その魂は、完全な「自由」となれるのです。しかしそのためには、欲望の「自由」を滅しなければなりません。欲望の「自由」と、魂の「自由」とは、真逆にある「自由」なのです。だから古来より、「あるがままに生きよ」と、繰り返し説かれて来たのです。

 

自然界を見てご覧なさい。生きものたちはみな、ただあるがままに生きているのが解るでしょう。ところが、人間だけが、そうしようとはしないのです。ヒエラルキーのスケールを作っては、競い合い、そのことで、自分たち自身が苦しんでいる。そればかりでなく、他のいのちにもこの思想をもって介入し、蹂躙し、ついには自分たちの棲家である生態系を壊し、自滅しようとしているのです。それを、人間社会では「進歩」と呼ぶ。

 

もはや、矮小なセクト主義をどうこう言っている場合ではありません。

愛国? 領土問題?

あ〜、小ちぇ、小ちぇ。超小ちぇ。臍が茶を沸かすほど小ちぇ。

なぜ、愛世界、愛人類、愛地球、愛生命、愛宇宙になれないのか?

神は、そのような存在に、あなたを造ったというのに。