by Rainbow School
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個人のカルマと人類のカルマ

カルマというのは、宇宙を支配する法であり、最も基本的な法則の一つです。法則ですから、宇宙のすべてのものがこの法の支配下にあり、誰もこの法則から逃れることは出来ません。では「カルマの法則」とは何か? 一言で言えば、それは「自分が為したことは自分に返る」ということです。よく言われるところの、善行善果、悪行悪果です。

 

善い行いをすれば善い結果が返って来るし、悪い行いをすれば悪い結果が返って来るということ。けれども、今ここに書いた「善・悪」という言葉には注意が必要です。地上で「善・悪」と言っているものと、宇宙でのそれとでは、重なっている部分もあるけれども、実はかなり違うということです。

 

地上では、対立する二つの概念があるとき、片方が「善」を主張すれば、もう片方は自動的に「悪」ということにされてしまいます。実際、そのような「決め付け」がまかり通っているのが地上世界です。ジョージ・ブッシュのあの「悪の枢軸国」発言を思い出してみてください。でもこの「善・悪」の決め付けは、反対側の立場に立つ者にも同様に言えてしまいます。

 

ですから、地上では、「善・悪」をめぐって、国家間の対立や、宗教間の争いが絶えないのです。そして互いに「正義」を主張しては、殺し合いをしているというのが戦争です。テレビも映画も、「正義」を掲げる〈人殺し〉をヒーローにしている作品のいかに多いことか。皮肉なことに、我は「善」なりと主張する者ほど、「悪」を為すというのが、地上での論理になってしまっています。

 

しかし、宇宙で「善・悪」と言った場合には、このような相対的なものではなく、そこにはたった一つの基準しかありません。それは、友愛、許容、統合、という oneness の方向へ向かっているか、支配、排斥、分離、という anti-oneness に向かっているか、だけです。本当は、「善・悪」という言葉すら無く、進化しているかどうかだけなのですが、便宜上そう言っているまでです。

 

*「進化しているかどうか」という基準が民衆には解りにくいために、便宜上、宗教が「善・悪」という地上の言葉を使って語って来たことが、逆に人間に大きな混乱をもたらしました。

 

いま言ったことは非常に重要で、人間が今後、正しい神学に脱皮できるかどうかの一つの試金石となっています。善行善果、悪行悪果、という法則については間違いはありません。けれども宗教は、このうちの「善・悪」概念を、自分たち教団に都合のよい論理にすり替えて、戒律にしては信者に従わせて来ました。ですが、宇宙基準からすれば、「正義の戦争」などあり得ないことが容易に解るのではないでしょうか。

 

さて、カルマというものが、どのようなメカニズムで生じ、地上にある人間にとって、それがどのような意味を持っているかについては、これまでにも何度かお話しして来ました。が、ここで別の視点も加えて、おさらいをしておきましょう。

 

宇宙の本質というのは、物質世界を超えた、目に見えない世界(霊界)にあります。そこは振動する微細なエネルギー体によって形成された世界で、いわゆる「波動の法則」というものが厳然と作用しています。このことから、振動数の違いによって、霊界には階層が生じています(同レベルの振動が引き合うため)。一方、振動数の高低というのは、霊性の高低を表しており、「魂」がこの階層を上に登って行くことを、霊性の進化・向上と言っているのです。

 

階層の上下を決めているのは、先に書いた、統合と分離という、相反する意識の割合によります。あなたという存在は、まず「個別化した霊(Spirit)」から生じました。臼の中にある大きなお餅から、お団子を一つひねり出すようにして生じたのです。この時点ではまだ振動数は高いままですが、その後振動数を下げて行き、より個性化を強めた「魂(Soul)」となって行ったのです。

 

そして「魂」が、さらに低い波動を出し、その波動を鋳型として、一つの受精卵(その精子と卵子の組み合わせも自分で選び)から作り上げて行ったものが、今あなたが纏っている「肉体(Body)」なのです。このようにして、あなたという存在は、大きく霊・魂・体の三重構造を持ったうえで、いま地上にあるのです。これが、人間が「多次元的存在」だと言われるゆえんです。

 

あなたの「心」、その本体は「魂」です。「脳」は単なるハードウェア(肉体の機能的一部)に過ぎません。「魂」がソフトウェアであり、「脳」という機能を使って「心」というアウトプットを生じさせているのです。しかし、地上の科学は頑としてこれを認めません。そのため、いくら心理学や大脳生理学や精神医学を駆使しても、「心」をつかめず、よって「心の病」も治せないのです。

 

さて、霊・魂・体の三重構造となって地上に降り立った人間は、それぞれ、そこで個別の体験をします。体験とは、視点を変えれば、その人の「行為」です。この「行為」には、必ず思考と感情が付随します。行ったことそのものの記憶は、その人の死後は地上に留め置かれてしまうのですが、体験を通じて獲得した思考パターンや感情のクセは、死後も「魂」と共に運ばれることになるのです。

 

これが、その人固有のカルマを形成する元になるのです。そして、分離から合一へという霊的進化を、その「魂」がちゃんと果たしていけるように、言い換えれば、無条件の愛の人にいつかはなれるように、前世で体験した行為の内容が点検され、間違ったところは修正を促され、もう一度学び直せるよう次の人生をマスターらと相談して基本設計し、その上でまた地上に降り立つのです。

 

一方、地上に残された記憶は、同種のものが集合すれば、それなりの力を有するようになります。これが、土地のカルマ、家系のカルマ、民族のカルマ、そしてもっと大きく地球のカルマ、人類のカルマまでをも形成して行くのです。すると人は、個人的なカルマの他にも、外的なカルマを何重にも背追い込んでいるということになります。

 

その際に、重大なことは、より広範囲のカルマの方が優先されるということです。例えば、私はいま日本という国に所属して、日本列島に住んでいるわけですが、それは日本国および日本列島が有するカルマの上に乗っかっているということであり、ここから逃れる術はないということです。同様に、人類全体が創って来たカルマ、地球のカルマからも逃れる術はないということを意味します。

 

そして今、地球および人類は、これまでに積み重ねたカルマの一大清算の時期に突入しています。これは皆さんも、日ごろ重々お感じになっておられることでしょう。そのために、異常気象は苛烈さを極め、強欲が際限なく拡大し、暴力が世界中に蔓延し、政治は信じがたいほどの幼稚さを露呈し、個々人の健康や幸せが脅かされるという、ますます醜い世の中へとどんどん向かっています。

 

いま「醜い」と書いたのですが、人類全体としてそちらへ向かっているということは、この現状を「醜い」とは思わない人たちが多いということです。そしてまさに、それがカルマの発現です。為したことは返ってくる、いま返って来ているということです。しかしこれは、何度も言いましたが、強い光が当たっているからこそ、隠れていたものが炙り出されて来ているということです。

 

よく言われることですが、これは産みの前の苦しみ。地球は、来るべき世界の、陣痛の時代に入っているのです。ここをしっかり抑えることが大切です。そのことをよく理解した上で、現在の世の中の動き、世界の動きを俯瞰的に見てください。

 

さて個人は、自分を包む、より広範囲なもののカルマからは逃れる術はないと書きました。だとしたら、個人のカルマに向き合い、これを乗り越えるという努力、霊性向上への取り組みは、やってもムダなことになってしまうのでしょうか? いいえ、そうではありません。全体は全体、個人は個人です。それに、今あなたが現に地上にあるということは、個人的なカルマ清算の機会を与えられているという何よりの証拠です。

 

ただ、一昔前とは、その意義が違って来ているということです。より、重要度を増して来ている。人類全体のカルマ清算の機会が増大したことによって、あなた個人のカルマ清算というテーマが、もはや単独の、全体とは無関係のものとしてはあり得ず、リンクの重要度をいや増ししているということです。そして、ここからが重要なところであり、あなたに是非ともお願いしたいことなのです。

 

今まで、人類が積み重ねて来た負のカルマには、環境破壊や、戦争や、奴隷制度を初めとして様々なものがありますが、その出発点にあるものを問えば、結局のところ次の三つに集約されます。一つは富への執着、二つめは他者支配への欲望、そして三つめが生命の成り立ちへの誤解です。この三つが組み合わさって、様々な現象面での問題を引き起こして来ました。

 

言い換えれば、人類がそれらのカルマを背負っているということは、いま挙げた三つのことへの気づきが、何千年何万年の時を経ても、人間たちにちっともないということなのです。進化していないということなのです。だからこそ、あなた個人のカルマ清算というテーマが大きな意義を持ってくるのです。

 

つまり、あなたが先ずこれらの清算を果たせば、他の人々のお手本になれるということです。そんなことに、一体どれほどのパワーがあるのかと思われるかも知れません。個人に比して、人類全体というのはあまりにも巨大に思えますから。けれども、見えないエネルギー世界では、「波動の法則」というものが厳然たるセオリーとして働いているのです。

 

あなた方の中には、「正義の殺人者」を賞賛する文化があるのと同様に、武力が平和を実現すると硬く信じている人たちが、未だに大勢います。核兵器禁止条約に賛成することは、核なき世界につながらないとまで主張する人がいる。けれども、未だかって、武力を以って恒久平和が実現されたためしなど一度もありません。それは、カルマの法則のことを考えればお解りでしょう。

 

一見、夢物語のようで、悠長な道に見えることが、結局はいちばんの早道なのです。健全で、素直で、明るくて、愛に満ち溢れた波動をあなたが出せるようになれば、周囲の人々はその影響を受けます。そして、そういう人たちがあちこちに増えれば、百匹目の猿現象で、ある時期からは雪崩を打ったように、人類全体が変わって行くことになるのです。その灯台に、あなたになっていただきたい。

 

よいですか、これは予め設定された宇宙の計画なのですよ。だから友よ。あなたにも是非ともその一員になって欲しいのです。先ずあなたが、無条件の愛の人にお成りなさい。完全なる奉仕の人と成りなさい。そして周囲の人々に、その愛を分けてあげるのです。さあ、歩め。友よ。栄光の道に向かって。

健康談議

先日、東京某所の集まりにいらっしゃったあるお婆ちゃんがこう言うのです。「私、生まれて初めて人間ドックというものを受診しました。そしたらね、○○の値が高いって言われて、すぐに専門の先生のところに行きなさいって言われました」。それを聞きながら、私は「ああ、またか」と思いました。最近の「健康談議」というものは、どうしてこんな話ばかりなんでしょうねぇ。

 

これじゃ「不健康談議」でしょう。検査、数値、通院、クスリの話ばっかし。ちょっと顔を合わせれば、みんなで不健康自慢大会。それがどんなにおかしなことか、誰も気づいていないのです。

 

このお婆ちゃんは以前も、「検査をしたら血圧が高いって言われて、いま降圧剤を飲んでいるんですけどね、それ以来、頭がフラフラするんですよ」と仰るので、「それは降圧剤を飲んでいるからですよ」と言ってあげたのですが、解ったのか解らないのか「あ、そう。いいことお聞きしました」と帰って行かれ、翌月お会いした時には、今度はこう言うのです。

 

「あれからね、しばらく薬をやめたんですけど、娘にそれを話したら『お母さん、そんな、やめちゃダメだよ』と言うもんですしね、お医者さんに言ったら「勝手にやめないでください」と言われてしまいまして、元に戻しました」ですと。そりゃ、そうだよ(>_<)。医者に話したら「勝手にやめるな」って言うさ。だから、こっそりやめるか、医者に掛かることそのものをやめなくちゃ。

 

毎年、春に市役所から送られて来る「定期健康診断のご案内」。私は、封も切らずそのまんまゴミ箱に放り込んでます。もう「その手にゃ乗らんぞ!」って感じです。免疫系が弱くてアトピーとリウマチの持病があるんですけど、日課の体操と呼吸法でやりくりしていますし、このまま小康状態で死ぬまで行ければ、もうそれでOK。それに何より「日々、自分は健康になっている!」と信じている。

 

東京と長野の山奥との往復生活を続けているのですが、お年寄りの生き方がまるで違う感じがします。山奥のお年寄りは暗い顔なんかしていないし、杖を頼りにヨタヨタ歩いている人もいない。70、80になっても、腰が曲がってもみんな農作業をやっている。この違いは何なのでしょうねぇ? 結局、都会のお年寄りはヒマなのだと思う。そこで、不健康談議と、身内のことと、ペットのことしか話題がないのだと思う。

 

ところが、こんな山奥にまで、魔の手が忍び寄って来たんです。健康の為の食事指導があるというので、わたしゃ言われた通り、指定日時に部落の公民館に出向きました。その前年には、太鼓を叩いてグーチョキパー体操をやらされたんですけどネ。どうも、こういうのはかなわんよねぇ。でもお付き合いだから仕方がないの。俺はヤダ!なんて言えん。64歳で年寄りのフリも、つらいもんだよォ。

 

さてしばらくすると、日本財団の顔マークの付いた車がやって来て、30代と思しき女性が降り立ちました。席に着くと、その指導員女性は開口一番、「定期健康診断の結果はお持ちですか」と言うのですね。もちろん自分は持っていないわけですが、他の人たちは全員それを広げるのです。すると、○○の値はこの範囲内に収まっていなくてはいけない、とかのお決まりの話がそこで始まるのです。

 

ああ、こうやってみんなを洗脳していくのか‥‥と、内心、それを聞きながら私は思いました。

 

食事指導の話に移ると、手のひらの部位に合わせて各食材の一日の必要量を測れと言われ、牛乳を飲めだの、肉を喰えだの、それまで山暮らしの人間がして来た生活習慣を変えさせようとする。そして「なぜ、肉を食べる必要があると思いますかぁ?」と言った指導員の、次の言葉を聞いた瞬間、私は椅子から転げ落ちそうになりました(畳部屋だったけど)(慣用句として)。彼女、なんて言ったと思います? 「人間は、動物だからで〜す」ですって。

 

おいおい、ちょっと待ってよ。じゃあ牛くんはどうなのよ? 草しか食べてないよ。草しか食べてないのに全身たんぱく質の塊だよ。パンダは竹ばっかりだし、コアラなんてユーカリばっかりの超偏食じゃないか。と、ツッコミを入れたかったのですが、その場では自分はよそ者ですし、せっかくの会合をぶち壊してはいけないと、つい忖度してしまい、黙っておりました。

 

でも、そもそもこの会合は根本的に間違っていると思いました。長野県の平均寿命は、直近データ(平成27年度)で、女性が87.67歳で全国1位、男性は81.75歳で2位なのです。そこに集まった人たちは70代、80代で元気に農作業をしている人たちです。その先輩方々に、「長生きの秘訣を訊く」というのなら分かるけど、30代の小娘が、逆にどうして健康指導、食事指導なんて出来るんでしょうか?

 

いやはや、狂っているなと、改めて思いました。もっともその女性も、マニュアル通りにただ話しているだけで、誰かがそういうことを考えてやらせているんでしょうけど。

 

昔、自分が習った「歯磨き指導」なんて、コロコロ変わって行った。最初は、横磨きはいけない、縦にブラッシングしろと盛んに言っていた。それが今は、ブラシを歯ぐきの境目につけて横に動かせと言っている。ブラシの形状も、最初は先端を折り曲げたものが隅々まで磨けると言い、次に湾曲をつけたブラシが登場してこれなら裏側まで磨けると言い、結局ストレートハンドルがいちばんだとなって元に戻った。

 

歯磨きペーストは、フッ素が歯を強くすると言って盛んにフッ素入りを勧められ、フッ素混入の水道水も現れ、そのあとでフッ素には毒性があるということになった。もう次から次へと「指導」なるものが変わって行ったのですが、それまでの指導は間違っておりました、と謝罪したドクターは一人もいない。私が知る限り「日本中の人を騙していました」と正直に告白したのは、ケーシー高峰さんだけだ。(ニセ医者だけど)

 

というわけで、健康と医療に関する洗脳は、今や日本国中、津々浦々まで広く覆い尽くしている。ですから、今ここで私が何か言ったところで、無力なのは承知しています。でも私には、医者に掛かってアトピーを決定的に悪化させてしまった経験もあるし、カミさんを集団検診から僅か10カ月で死なせてしまったという苦い経験もある。それもこれも、自分が無智だったから。私自身が、当時はまだ洗脳が解けなかったからなんです。

 

身体に顕れた病気は、身体に原因があるのではありません。それは結果であり、原因は心にあるのです。同様に心に顕れた病気は、心に原因があるのではありません。それは結果であり、原因は魂にあるのです。あなたの「魂」の今のあり方が、今のあなたの「心」を創り、今のあなたの「心」が、あなたの身体を創っている。原因は、すべて一段階前にあるのです。

 

このことが解らないと、健康も、病気も、治病ということも、いっさい何も解らない。そして残念ながら、現代ではほぼ100パーセントの人が、何も解らない状態に置かれてしまいました。

 

以前は、そうでもなかったのですが、この50年間で決定的に変わりました。そこには、「そうしたい」という闇の支配者側の戦略があったのですが、半世紀をかけてジワジワと、身体の病気の原因は身体にあり、心の病気の原因は心にあるんだと、何の抵抗もなく、万人が思い込まされるようになったのです。まさしく「洗脳」です。

 

そのエビデンス(証拠)として使われているのが検査データです。現代の医者は、患者の顔色など見ません。表情から、心の状態を読むと言ったことにも全く注意を払いません。ただ、検査データが表示されたモニターだけを見ています。そして、機械的人間論に従って、動きの悪いところには油を刺せばいい(薬)、壊れたところは交換すればいい(手術)とやって、これが医療だとしている。

 

患者の側は、お医者さんというのは病気を治す人だと思っていますが、現代の医者は病気を治す人ではありません。現代の医者は、検査データを基にして「病名」を付ける人です。つまり「病名」の名付け親です。医者が「病名」を付けた瞬間から、その病気を抱えて生きる人生が、その人の上に始まるのです。言い換えれば、現代の医者とは、「病気」を創造している人です。

 

どんな場合であっても、病気を治すのは、その人自身です。そして、その人自身が治すことを、上手に誘導してあげたり、手助けしてあげられる人が、よい療法家なのです。よい療法家は、決して「自分が治してやる」などとは言わないでしょう。そんなことは出来ないということを知っているからです。「自分はただ神の手足となって、パイプ役を全うするだけです」と、言うことでしょう。

 

しかし、どれほど優れた療法家との縁が生じたとしても、病気を治すのはあくまでその人自身なのですから、本人がそのことに気づかない限りは、病気は治りません。いったん治ったかに見えても、また再発したり、別のところに病気が顕れたりします。この「気づき」とは、身体の病気の場合には「心」の不調和が原因だと気づくことですし、心の病気の場合には「魂」のあり方に原因があると気づくことなのです。これは、じっくり内観してみれば分かります。

 

そもそも「病気」とは、その原因となっている何らかの行為の誤り、自分の心得違い、創り出している不調和、清算すべきカルマ、等に気づかせるためのギフトです。ですから、「ああ、これはギフトなんだ」と理解して、そのことに感謝して、因を修正していけば病気は治ります。よほど深いカルマが原因でない限りは治る。病気を克服したという人をよく観察すれば、以前とは心が変わっていることに気づくはずです。

 

私の場合はアトピーとリウマチという持病があるのですが、これは体質であって、体質というものは治りにくいです。生まれ変わりの際に、そのようなDNAの組み合わせを受精時に選択したわけです。ですから、自分がそのような初期設定を与えて、その後の身体を創造した。そこにも意味があるのであり、身体をちゃんとケアしなさいということを、私は教えられました。

 

さて、現代人の不幸は、いま言ったような視点には、もはやなかなか立てないということです。機械的人間論があまりも深く広く浸透していて、医者も患者も、今ではみんなそれを当たり前のように思っています。あなたの健康度を計るのは、電気やガスや水道メーターの定期検診と同じで、あなた自身がどう感じているかなどはお構いなし。

 

「病いは気から」という言葉は完全に無視され、日々、「健康のために」と称して、脅して不安にさせるような情報ばかりが吹き込まれる。そして、医療機械の高度化、分析技術の発達、AIの導入などによって、この傾向がますます加速しています。患者はその進歩に抗うことなどとても出来ずに、用意されたベルトコンベアの上に、ただちょこんと乗るだけになっています。

 

結局、「健康のために」と言いながら、みんなどれほどの回り道をしていることでしょう。本当に「健康」でありたいのなら、ただ一直線の近道を行けばいいのに‥‥。

 

それは、自分を信じるということ。

 

思いが、明日のあなたを創るんだよ。「自分は病気だ」と思えば病気になるし、「健康だ」と思えば健康になる。簡単なことさ。毎朝、起きがけに言ってごらん。「さあ、今日も元気いっぱい。今日一日を楽しむぞ!」って。床に着いたら言ってごらんよ。「今日も一日ありがとう。明日もどうぞよろしく寝」。それを習い性にしてごらんなさい。もうそれだけで、健康一直線なんだよ。

思考が現実化するということ

思い(想い)は現実化する。スピリチュアルなことに関心の強い方なら、多分どこかで、このことをお聞きになったことがあるでしょう。それって本当なのなの? いや、そんなこと信じられない。自分など、しょっちゅうある事を想い続けているけど、ちっとも実現しやしないよ。それとも、隠されたもっと深い意味でもあるのだろうか? 反応は、きっと様々でしょう。

 

想いが現実化する。これは、一面において確かです。けれども、この言葉を正しく理解するためには、いくつかの関門を通らなければなりません。普通に考えていたのでは、これをちゃんと理解することは出来ません。ところが、前回のブログでも述べたように、不思議現象としてこれを捉え、そこに付加価値を与えては人々を誘い込み、金銭を巻き上げようとする業界人?が後を絶ちません。

 

これは人の弱み(この場合は、誰しもがエゴを持っていること)につけこんだ商法です。エゴの誘いにエゴが反応してしまうのですね。そういう意味では、ここでも「想いは現実化する」という法則が、皮肉なことに立派に?生きているわけです。そうやって、手痛い失敗を何度か経験すれば、そのうちに次の気づきへと進めることになるでしょう。ま、懲りない人というのもたまにおられますがね。

 

先ず、「現実化」ということを考えなくてはなりません。「現実化」というのは、いったい何を指して言っていることなのか? これは重要なポイントで、この前提条件が違えば、「想いは現実化する」という言葉が持つ意味そのものが違ってきてしまいますから。しかしそこに踏み込むのは後回しにして、ひとまずは、これを普通に「目の前に展開される物質的世界」のことだとしておきましょう。

 

その上で、「想いは現実化する」というメカニズムを考えてみましょう。想えば、何でも現実化するのか? しません。えっ、さっき言ったことと違うじゃないか、ですって? 想っただけでは現実化しないことは明らかです。いまメロンを無性に食べたいと強く思う。そうすれば、目の前にメロンがパッと現れるのか? 現れません。少なくとも、買いに行かなければメロンは食せない。

 

けれども、こういうことは言えます。行動を起こすには、「想い」が先ず必要だということです。あいにくメロンを売っているお店が、歩いて15分のところにしかない。しかも外はカンカン照りだ。さて、どうしよう? ここで「想い」の強さというものが影響して来ます。メロンを食べた〜いという「想い」が、障碍を上回るほど強ければ、食卓の上にメロンが現れる可能性が高くなります。

 

ですから、第一の関門は、

・想っただけでは実現しない。

・想うと同時に、行動が伴わなければ、実現はしない。

・さらに、降り掛かる困難も、何するものぞとの強い想いを抱き、行動し続けていれば、実現する可能性が高くなる。

と言えます。

 

しかしこれでは、「なぁんだ、そんなことか」と思われるでしょう。これじゃあ、よくある自己実現方法のレクチャーとほとんど変わりがない。それを信じて必死に努力を重ねても、夢を叶えることが出来ないから、多くの人が落胆し、挫折感を味わったりしているわけですよね。かく言う私もそうでした。もうその連続でした。これはどうしてなのでしょう?

 

そこに、第二の関門として、人知を超えたセオリーが存在するのです。それは次のようなものです。人は、中間世にある時に、次の人生における課題と、誕生する場を決めてから転生します。すると、いくら自由意志を保証されていると言っても、初期設定の環境要因は、誕生後にはもう変えられませんし、課題から大きく外れるということもないのです。(課題に気づかないということはあります)

 

*中間世(生);前世と今世との中間にある、霊界に戻って生きているいる期間

 

そこから、宿命論、運命論といったものが巷間言われたりするわけですが、宿命論や運命論が間違っているのは、「人生は変えられないもの」とする捉え方です。いま言ったように、確かに初期設定の環境要因を変えることは出来ませんし、課題から外れることもありません。しかしその中で、課題を達成し、幸福に生きることは誰もが出来るのです。そして、まさにそれこそが魂の “課題” なのです。

 

さて、そうしますと、いくら強い願望と意志を持っていたとしても、また必死に努力を重ねたとしても、その課題から大きく逸脱するようなことは決して実現しない、ということになるのです。これが、実に盲点なのです。

 

今、私はこんなことをしておりますが、これは自分が願ったことではなく、思ってもみないことでした。複数のチャンネルを通じて、将来の役割というものを言われてはおりましたが、全く信じていませんでした。しかし、子ども時代から幾度となく続いた、不運、失敗、挫折、屈辱、病気と、他方、首の皮一枚で拾い上げられた経験が、全部、今やっていることに結果的に役立っているのです。

 

「なるほど、こういうことだったのか」「このためだったのか」と、つくづく思わずにはいられません。全てが完璧。それは本当のことでした。そして最近になって、やっと自分の課題と役割が見えて来ました。さて、「盲点」というのはここです。若い時には気づかないし、気づけないのですね。自分が実現したいと想う外面的な願望でいっぱいで。

 

ですから、それに挫折すると当然ながらガックリ来ますし、そういうことが何度も何度も続けば、もういい加減、腐ってしまうわけですね。それで破れかぶれになったり、クスリやアルコールに溺れたり、自己否定に向かうということになってしまう。ところが、もっと長い目で人生を見ると、それらは全部、天がくれたギフトになっていて、自分が設定して来た課題からは少しも逸れていないということが解るのです。

 

問題は、「いつ気づくか」ということです。気づくのが先か、腐るのが先なのか。あなたを応援する天の存在たちは、同じ過ちを何度冒したとしても、実に辛抱強く、またあなたに気づきと修正を促して来ます。その転換、つまり、自己実現とは、職業や外面や形にあるのではなく、自己の意識の変化、もっと言えば「魂」の成長にあるのだと悟ったその瞬間、その人にパッと光が射すのです。

 

若い時には、外面的、物質的に何かを獲得することが自己実現だとみな考えています。しかし、願望も含めて、そうしたものは全部、その人を「課題」に向き合わせるための材料に過ぎないのです。ですから、初期設定という縦糸と、誕生後に自由意志で選んだ横糸を組み合わせて、その人が、自分独自の「課題」に向き合う人生を、周囲の協力のもとに編み上げて行くのです。

 

現実は、不公平に見えます。大金持ちもいれば、着の身着のままの貧乏に泣く人もいます。名家に生まれる人がいれば、ひどい親の下に生まれる子もいます。名声を獲得する人もいれば、一生うだつが上がらず底辺で暮らす人もいます。この差に、目をくらまされてはなりません。それらはみんな、今度の人生における、単なるキャスティングに過ぎないのです。

 

そう、それはまさに配役によるお芝居であって、お芝居のテーマは、あなたという主人公に、自分自身の今世の「課題」に気づかせ、それを達成するよう促すことです。名家の出や、イケメンや美女だけが主人公なのではありません。全員が自分の人生ドラマの主人公であり、同時に全員が他の人の脇役をこなし、複雑なタペストリーをこの世で織り上げているのです。

 

今度の配役は、今世がそうであるということだけであって、何十回、何百回と繰り返す輪廻転生のドラマにあっては、王子になったり乞食になったり、男になったり女になったり、実に様々な境遇を、「魂」の霊的完成に至るまで経験していくのです。ですから、ご自分の出自や、境遇や、容姿や、病気や、傷害を呪ってはいけません。呪ったところで何にもなりません。かえって自分を辛くさせるだけです。

 

いま言ったことが解れば、幸福とはどういうことなのか? 幸福を実現するにはどうすればいいのか、も同時に解るはずです。全てはあなたの「思い」しだい。あなたが今この瞬間を幸福だと思えば、幸福なのです。なぜなら、幸福とは条件ではなく、自分の感じ方なのですから。一杯のお茶、一皿のカレーライス、窓に広がる景色、小川のせせらぎ、小鳥のさえずり、全てが幸福のハーモニーを奏でてくれるのです。

 

さてそこで、第三の関門に近づきました。冒頭に語った「現実化」とは何かということです。最初の仮定では「目の前に展開される物質的世界」を、一応「現実」だとみなしました。これは多くの人が考えている一般的な解釈です。しかし論を進める中で、重要なのは、自分の感じ方や思いなのだということになって来ました。

 

知らない土地を、旅人のあなたが歩いていると、だんだん腹が空いて来た。すると疲れた顔の旅人を見て、ある家のご主人が、休んで飯でも食べていきなさいと声を掛けてくれた。いや、ありがたい。ところが、出された食事は薄いスープ一椀と硬いパンが一切れだった。ここであなたは、「なんだ、こんなもの!」と思うことも出来るし、「いやいや、本当に助かりました」と思うことも出来る。

 

結局、「現実」というものは、また自分が「現実」だと思っているものは、あなたの「認識」でしかないということです。そこでこのブログでは、これを「リアリティ」と言って、区別して来ました。いわゆる「現実」というものは、多分あるのでしょう。けれども、これが「現実」だと言える確かなものは、実際にはどこにもないのです。あるのは、各人それぞれの「リアリティ」だけなのです。

 

これは奇妙な話に聞こえるかも知れませんが、量子力学においては常識です。あなたが夜空を見上げて、いま出ている月を見ない限りは、つまり見ていない間は、月が実際にそこにあるかどうかは判らないのです。見て初めて、「あ、今夜は月が出ているな」と判る。しかしそれも、突き詰めれば、あなたの「認識」がそう認めたというだけに過ぎないのです。

 

そこで、よく言われる次の言葉が出てくるのです。この世は幻に過ぎない。これは真理です。ですが、多くの人は、そう聞いてもピンと来ないでしょう。なぜなら、この「現実」だと思っている世界に、肉体を持って現に存在し、五感を使って知覚しているものに、確かな手応えを感じているのですから。ですから、前回も言ったように、「霊主体従」の感覚に至らなければこの言葉は解りません。

 

「霊主体従」に生きて、それが身体の隅々にまで染み通って、この世とあの世が逆転した時に初めて、この世は幻に過ぎないと解るのです。さてそうなった時に、じゃあ生きる意味は何なのか、という疑問が当然わくでしょう。この世が幻と言うのであれば、その幻の世界を生きることに、一体どんな意味があると言うのか? あまりにも虚し過ぎる話ではないのか?

 

そう、実にそこなのです。ですから、みんなこの物質世界になんとか手応えを見出したくて、物資的価値、物質的満足を必死になって求めようとするのです。ところが、そこにどうしても超えられない壁が立ちはだかる。人はいずれ、みんな死んでしまうということです。死んだら一巻の終わり。だとしたら、人生の意味とは何なのだ。そこで、哲学というものをひねり出すのですが、いくら考えても答えが出ない‥‥。

 

やあ、なんだか振り出しに戻っちゃいましたねぇ。この世が幻だと言っても虚しいし、物質世界を追い求めてもやっぱり虚しい。そんな人生に、果たして意味はあるのか。

 

人生に、意味などない。でも目的はある。この世のすべてが幻であっても、あなたは死なない。あなたの本質である霊魂は、肉体の死後もずっと生き続ける。その時、あなたの「魂」が携えて行くのは、この世でした体験から得られた感情と解釈と技能というソフトウェアだけなのです。ハードウェアは一切持っていけない。このソフトウェアを、輪廻転生するたびに、何度も磨きながら、あなたという「魂」は霊的完成を目指すのです。それが人生の目的。

 

これで解ったでしょう。人生劇場というものの成り立ちが。

幻の世界を生きることは、決して虚しいことではありません。自己の本質と、裏側にある真実の世界をつねに意識しながら、なおかつ幻の世界を生きるのです。

 

あなたが「現実」だと思っているものは、あなたが認識する「リアリティ」に過ぎない。言い換えれば、あなたが創る「現実」です。あなたの人生は、初期設定による境遇や、いま置かれている環境や、周囲の人間関係によって、制約された世界の中にあります。けれども、その制約された世界の中で、あなたは、自由に「想う(思う)」ことは出来るのです。そこに一切の制約はありません。

 

実に素晴らしいことだとは思いませんか? だから、善なる「リアリティ」をお創りなさい。木々の緑の中に、生命の輝きを見なさい。青空の中に、精霊たちが飛び交うのを見つめなさい。鳥のさえずり、虫たちの声に、命への讃歌を聴きなさい。水面の輝きに、永遠の光を見出しなさい。そして、出会う人々の心に、等しく神性が宿っていることを発見しなさい。

 

あなたが想えば、それは現実化するのです。想像は創造。さあ、お行きなさい。あなた自身の道を。

迷った時こそ、直観に従って生きる

何か迷いが生じた時に、人はその判断を自分以外の誰かにして貰いたくなります。ことに日本人は、その傾向が強いように思います。自分の考えを持たない、はっきり主張をしないということが半ば習慣づけられていて、自立性が薄いというか幼い。教育のせいなのでしょうが、人の顔色をみる、忖度する、空気を読む、出る杭は打たれるといった思想が、なにか体に染み付いてしまっていますよねぇ。

 

「和」の精神そのものは良いのですが、運用を間違えると困ったことになりかねません。声の大きい人や他者を操る力に長けた人の後を、訳も分からず一斉にドドドーッと付いて行き、押し合いへし合いで崖から転落という事態になりやすい。そうではなくて、それぞれの考えや主張をしっかりと持ちながらも、互いに学び、フレンドリーに付き合うことは可能ですし、それが本当の「和」です。

 

しかし、日本人がそうなるにはまだまだ時間が掛かりそうです。私はカウンセリングというものをしていないのですが、時に個人的な相談を持ちかけられることがあります。しかしその場合でもジャッジは決してしません。それで、相談者からはガッカリされるのですが、その人にとっていま何がいちばん大切かを考えたら、とてもじゃないけれどそんなことは出来ない。

 

目の前に相対した人の心の状態は直ぐに判ります。書かれた文章からも判る。けれども、知ったことを何でも言ってしまえばいいというわけではありません。ですから、カウンセリングというのはさじ加減が非常に難しい。自分で考えない、内観してみる習慣を持たないことに慣れた人というのは、権威筋の言ったことを丸ごと信じてしまう傾向がありますから。しかもそのことに自覚がない。でもそれを繰り返していては、「魂」の成長はありません。

 

みなさんの中には、世界の動向や、自分に関する運命というものが予め決まっているのではないかと思っておられる方がたくさんいらしゃいます。そこで、占いや予言やスピリチュアル・カウンセリングといったものが流行るわけです。確かに、今世はこういう課題を持って誕生しようと、自分で計画して来たものが各人にはあります。しかしどう生きるかは全くの自由意志によるのです。

 

何度も言って来たように、あなたの人生はあなたが「創造」しているのです。日々の思考、言葉、行動によって。予め決まっている運命を、ただなぞって生きているわけではありません。あなたという存在は、いわばあなたの彫刻作品なのです。ですから、そのことをよく自覚して、権威筋のご託宣に振り回されることなく、材料としてそれを彫刻に取り入れるかどうかを、ご自分で判断しなければなりません。

 

また、世界の運命ということについても、それらは人々の集合意識によってどうにでもなるのであって、予め決まったものではありません。今も「恐怖の予言」というものをされる霊能者がおられるのですが、その人は霊界の真実を知らないと言わざるを得ません。宇宙の総体は一つです。その一つを「神」と呼ぶならば、恐怖の予言に慄(おのの)くのも「神」ならば、実現させるのも「神」ということになってしまいます。そんなバカな話はありません。

 

高次元の霊的存在が、「恐怖の予言」を誰かに下ろすことなど、絶対にありません。あり得ません。ただし、人類の間違った行動を是正するよう警告することはあります。

 

「恐怖の予言」をすれば、それを信じた人は怯えます。すると、その人は「当たって欲しくないな」と思いながらも、そこに意識を向けてしまいます。このような、不安に駆られた意識がたくさん集まれば、さてどうなるでしょう? その集合意識が、現実というものを望み通りに「創造」する方向へと動かします。その結果、予言が的中ということになるか、ならないにしても社会に混乱が生じることになります。

 

さて、そうなって、ほくそ笑むのはいったい誰でしょうか? よくよく考えてみてください。「神」の名を語って予言する、低次元の存在だということが判りませんか? このことを、もういい加減みなさんは学習すべきです。何度も何度も同じ過ちを繰り返してはなりません。世界の動向は、全て人類の意識の動向に掛かっているのです。あなた方の意識のあり方しだいなのですよ、友よ。解りますか?

 

そこで、外からしのび寄って来る、真実ではない情報に振り回されないためにはどうしたらよいかということです。本物は、いったいどこにあるのだろう‥‥?

 

真実は我が内にあり、これです。発想の逆転。真実はあなた方の内にある。そのように、あなた方は最初から造られているのです。これぞ、まさしく神秘。神秘とは、不思議現象のことではありません。逆転こそが真実だということ。この世にあくまでこだわっているから、霊界から漏れ出て来ることが不思議に見える。でもそうじゃない。逆なんですよ。不思議など、どこにもないのです。

 

図を見てください。瞑想をしていると、時に、自分が宇宙にぽっかりと浮かんだような感覚になる場合があります。

 

これは、いつもはフル稼働させていた顕在意識が、瞑想によってグーッと縮小していき、その分だけ、普段は蓋をしていた超意識(宇宙意識)が浮かび上がって、知覚能力を回復するようになるためです。いわゆる第六感のチャンネルが開くのです。

 

さて、あなたは宇宙の中に浮かんでいます。しかしこの時、宇宙は決してあなたの外側にある別のものではなく、あなたも宇宙の一員であることが容易に自覚されるでしょう。全宇宙を構成している「霊(Spirit)」は、あなたの中にも満遍なく浸透しているということです。この宇宙という言葉を、「神」に置き換えてみてください。するとどうなるでしょうか?

 

私は神の内にいる。神は、私の内をも貫いている。この私も、神の一部なのだ。そう、私と神とは一体なのだ。この感覚に満たされます。

そして、私以外の宇宙には他者も自然も含まれるのですから、こうなります。

私と他者とは一体である。私と自然とは一体である。

ゆえに、自分が為したことは、自分に返る。

 

このような「霊(Spirit)」の広い世界の中に、振動の低い、限定された領域の物質世界(地球での生活)が存在しているのです。いま我々はそこに住んでいます。けれども、実体は多次元的存在なのであり、本当は自分が霊主体従であることを悟る、真実は霊的世界にあって、こちら側は映し絵であることに気づく、というのが「目覚め」なのです。そして、この逆転こそが「神秘」の本当の意味なのです。

 

*ここで言う「次元」は、数学的次元を指すのではなく、振動数の違いによって段階的に7つに分けた「霊性密度」のことを略して「次元」と言っています。

 

三次元世界(第三霊性密度)にあくまで留まったまま、不思議現象を追い求めることが「神秘」ではないのです。不思議体験をすることが「神秘体験」ではないのです。逆転の世界に身を置けば、不思議などどこにもないということが解る。真実は逆さまだったということに気づく。しかし、99.99パーセントの人はそんなことは思いもよらないので、これが「神秘」となっているのです。

 

しかも宗教は、意図的にこれを捻じ曲げて来ました。宗教もまた、三次元世界に留まったまま、不思議現象を追い求め、これを「神秘」と位置づけたのです。なぜなら、不思議などどこにもない、人はすべて等しく神の一員なのであり、すべての人の内に神がいると語ってしまったら、宗教が不要になってしまうからです。そのため、真実を語る者はつねに異端扱いされ、正統派の宗教から弾圧の憂き目にあって来ました。

 

いま図とともに示したことは、比喩ではありません。瞑想をすれば、それが実感され易いということを示しただけであり、普通に生活している時にも、変わらず人はみな多次元的存在なのであり、霊主体従を意識した生活を送ることが望ましいのです。しかしながら、多くの人は、あまりにも物質的な生活に埋没しており、またこのような知識も今までもたらされなかったので、なかなか目覚めることが出来ないのです。

 

ここで冒頭の話に戻りましょう。迷いが生じた時にはどうすればいいのか? 直観に従えばよいということです。直観はあなたを裏切りません。あなたの内にはつねに神がおられるし、あなた専属の高次元の存在も、いつもあなたを正しい方向へ導こうと応援してくれています。そして素晴らしいことには、各人それぞれがバラバラに直観に従っても、必ず同じ一つのものに行き着くということ。

 

これが、宇宙の法、『The Law Of One』です。

 

バラバラに「神」に触れようとしても、それは到底叶わないと考え、またそう思い込ませて、人々をある特定の教義に従うようにさせる。すると、たくさんの教義同士がぶつかって、世界はバラバラになってしまう。逆に、各人がバラバラに内なる「神」に従えば、誰かに「支配」されることなく、世界は一つのものになるのです。これも、まさに「神秘」です。

 

直観は英語で「intuition」。この語源はラテン語で、「in」は内側、「tuition」は後見人、守護者、指導といった意味(ちなみに指導教官のことを「tutor」と言います)ですから、英語の直観は、まさに「内なる守護者による指導」という意味を持っています。この指導は、高次元の私、つまりハイヤーセルフからやって来ます。

 

似たものに「inspiration」があります。これもラテン語が語源で、「in」は中へ、「spiration」の動詞である「spire」は息を吹き込むという意味です。息を吹き込むというのはどういう意味かと言いますと、土で造った人形の中に、神が息を吹き込んだことで人間が誕生した。つまり、この「息」とは生命の根源的エネルギーを指しています。そこで、息を吐くという意味の「spirit」という単語が、「精霊」の意味になったのです。

 

ですから「spi-」で始まる言葉は、みな息に関することであり、引いては霊的なことを意味するようになりました。息とソウルが同じ言葉であるというのは、ほぼ世界共通で、ヘブライ語では「ルーアハ」、アラビア語では「エル・ルーフ」、ギリシャ語では「プネウマ」、そしてラテン語では「スピリトゥス」と言います。

 

日本でも、「息」は「生き」です。いわゆる死を迎えることを「息を引き取る」と言いますが、神がいったんその人に吹き込んだ息を、今世を終え、元の状態に引き取るからそう言うのです。人を殺すことを「息の根を止める」(根っこがどこに繋がっているかを考えて)、一度死んだように見えた人間が蘇生することを「息返る」、そしてそのまま生き続けることを「息永らえる」と言いますね。

 

また粋(すい:pure)を究めんとする生き方を「イキ」、相手の強いスピリット・エネルギーを感じることを「意気に感じる」と言い、みんな息に関係しています。

 

ということで、「in-spiration」は、神がしたように、人間の中に息を(=霊的な智慧を)吹き込むという意味です。フッと息が入って来る。これは、直観とは違って、自分以外の高次元の存在、大師や天使や守護霊などがあなたに囁きかけて来たものです。そして、いま言ったことは、感度の違いはあるにせよ、全員にもたらされていることなのです。

 

ですから、これを読んでくださっているみなさんは、直感やインスピレーションの大切さをよく認識して、そのアドバイスに従って生きるようにしてください。直感やインスピレーションは、没頭して何かの作業をしている時にスッとやって来ます。「我を忘れて」と言いますが、我を忘れている時に、つまり顕在意識を絞っている時に、直感やインスピレーションのチャンネルが繋がり易くなるのです。

 

この瞬間をおろそかにしないように、その場で必ずメモを取ってください。顕在化された意識ではありませんので、放っておくと、すぐに飛んでいってしまいます。多くの人は、気のせいで片づけたり、無視したりするので、せっかくの直感やインスピレーションを活かせないのです。メモを取っておけば、その後すぐに忘れても、メモを見ればその時の感覚が再び甦ります。

 

ただし、いま言ったことを、自分を利するために活用しようとはなさらないでください。それでは三次元世界に身を置いたまま不思議現象を求めることと、何ら変わりがありません。そうではなくて、身に起こる、良いことも悪いことも、みんな良いことと思えるかどうかが鍵です。そうなってこそ本物。そうなってこそ、直感やインスピレーションに従って生きる価値があるのです。

 

それには、少々の勇気が必要かも知れません。世俗から離れて、なおかつ世俗の中で生きる覚悟が求められます。世俗心は真実を隠蔽してしまう力があります。現代人の不幸は、世俗のものが、まるで津波のようにして次から次へと押し寄せて来ることです。ことに、須磨穂教が世界中であっと言う間に信者を増やしてからは、その傾向が一段と激しくなりました。

 

しかし、気をつけてください。須磨穂の国は、あなたを麻薬のように虜にします。自分で考える力を奪い、低次元のバイブレーションにあなたを誘って、機械の奴隷にしてしまいます。須磨穂の国の熱烈な信者となって、自分を奴隷にしてしまってはなりません。

 

あなたはあなた。そのことをもう一度考え直してみてください。一日の中に、静かに内観する時間を割いて、自分は誰なのか、自分がどう生きたいかを見つめてください。静寂の中に身をおけば、直感やインスピレーションがやって来て、あなたを手助けしてくれます。そのメッセージの方が、うたかたのように流れ行く情報よりも、あなたにとってどれほど大切なことなのか。

 

あなたをいつも見守り、お応援してくれている存在の期待に、今こそあなたが応える番です。

人はいつでも変われるが、変わる意志を持たなければ変われない

「人の性格は変わらんよ」と言う人と、「いや、人間はいつでも変われるんだ」と言う人がいます。私はもちろん後者です。人は、いつでも変われます。たとえ、死ぬ1秒前であっても。「性格は変えられない」というのは、長年、自分の周囲を観察して来た結果、その人が悟った嘆き節と言えるでしょう。確かに、そう思わせる面が人間にはあります。でも、それで一括りには出来ないのです。

 

世の中には、自分を「変えたい」と強く思っている人と、「変わりたくない」と思っている人、その両方が共存している人、そして、そもそもそんなことは考えたことがないという人がいます。このブログを読んでくださっているみなさんは、少なくとも「変えたい」「変わりたい」思っている人たちだと私は信じます。そうでなければ、ここへは足を向けてくださらなかったでしょうから。

 

なぜ、自分を「変えたい」と思うのか。それは、ひとことで言えば向上心があるからです。今の自分に満足していない。もっと違う世界や、体験や、到達できる心境があるのではないかという好奇心が、その人たちの内部では優っているのです。でもこの向上心は、世間で言うところの向上心とはちょっと違う。それをあなたも分かっていらっしゃいますよね。

 

多くの人は、なりたい自分というものを、自分の外側のもので規定します。スタイルや、外見や、服装や、宝飾品や、家や、一緒に腕を組んで歩く人や、クルマや、財産や、肩書きや、名声です。でも次のシーンを想像してみてください。今あなたは死の床にあります。そして、これまでの人生を静かに振り返っています。さて、今度の人生で、どういう自分にあなたは「成った」のでしょうか?

 

あなたを規定してくれていた外側のものは全て、すでに効力を失っています。では、死の床にいるあなたはいったい誰なのか? もう内なる自分しかないではありませんか。その内なる自分、本当の自分、真の自分は、今度の人生を通じてどこまで「成った」のか? それが今世における成果です。そして、あなたは息が絶えても死なない。その内なる成果だけが、次の人生へと受け継がれるのです。

 

そのことを、あなたの「魂」は直感で知っています。あなたは、ご自分の「魂」の声に素直な人です。ですから、あなたは自分を「変えたい」と思うのです。私も、若いころから、自分を「変えたい」とずっと思い続けて来ました。今でもそれは変わりません。欠点だらけの自分、心をコントロールできない自分、他者とうまく付き合えない自分、引っ込み思案の自分、etc.。

 

若い時には、みんながよくやるように、自分の欠点と克服すべき課題をノートに書き出して、いつもそれをチェックしては戒めにしていました。いま振り返ると、自分を見つめるということではそれらは意味があったのですが、「欠点」克服というアプローチ方法は誉められたものではありませんでした。それで、ずいぶん回り道をしてしまったし、いささか神経症的にもなりました。

 

でも、そうじゃなかったんです。「欠点」を克服しようとするのではなくて、自分が思い描く「理想」に近づくことを目指していれば、もっと早道だったんです。しかも楽しんでね。「理想」に近づいて行けば、その分だけ「欠点」は自動的に減って行ったわけです。当時はそこに気づかなかった。そのため、「こうすべき」や「ねばならない」を連発する習慣に陥り、それで神経症になってしまいました。

 

結局、何がいけないかと言うと、そういう戒めは、いちばん大切な「自由」というものを、自分自身で拘束してしまうのです。それで、本来「自由」でありたい「魂」と、頭で考えた「意識」とが葛藤を起こして、それで苦しくなってしまうのです。ところが、そういうメカニズムを知らないものですから、まだまだ戒めが足りないと思い込み、ますます強化しては苦しみに拍車をかけてしまっていたのです。

 

ですから、なりたい「理想」を鮮やかに想い描くということが、とても大切です。「理想」なしに「欠点」ばかりを克服しても、じゃあいったいどこへ向かうのか、ということになってしまいますからね。「こういう人に私はなりた〜い」「こういう人に、まさに自分はなっている」という理想像を、ありありと想い描くというところから、自分を変える生き方が始まるのです。

 

さてそこで、「理想」の描き方ということが問題になって来ます。先にも書いたように、「理想」を外側のあり方ばかりに求めていたら、それは「魂」の成長というものに繋がって行きません。若い時には、変なものに憧れて随分とヤンチャをしたりしても、齢を経るに従って、普通は、しだいに内側の成長に目を向けるようになって行くものです。またそれが、よき人生のあり方というものです。

 

ところが、そういう外側から内側への意識変化というものに、ほとんど興味のない人たちが大勢いるのです。幸福とは、自分の外にあるなにがしかを手に入れることだと固く信じて生きて、ついにそれを手にする。例えば、財産や、地位や、名声や、愛人です。すると、今度はそれを失うことが怖くなっていきます。その結果、現状維持に血眼となり、いくら齢を重ねても、自分を「変えたい」などとは少しも思わなくなってしまうのです。

 

なんと憐れな人生でしょう。えっ、お前に言われたくないよ、ですって。まあ、そうでしょうねぇ。その人からすれば、自分がなぜ変わらなくちゃいけないのか、自分のいったい何を変えろと言うのか、そもそも「人が変わる」ということにどんな意味があるのか、と思うでしょうからね。でもね、だから憐れだって言うんですよ。今世のせっかくの機会を、なぜ活かさないのかなって思ってね。

 

自分を「変える」ということは、本当の自分、真の自分に近づいて行くということです。この地上に生を受けた目的は、それしかありません。地上で出遭う様々な体験は、すべてその「気づき」のために用意された道具に過ぎないのです。ですから、先ずは「気づき」というものに気づく必要があるのです。「気づき」にすら気づけないようでは、霊性向上の出発点にも立てません。ですから、そういう人たちが憐れなのです。

 

みなさんの中には、逆だと思っていた方もきっとおられるでしょう。やりたい放題、我が物顔でノッシノッシと歩き、ちっとも反省のない人たちを見て、怒りとともにこの世の不条理を嘆く人たちもさぞかし多いことでしょう。「それに比べて自分は‥‥」と、惨めさを呪う人もおられるでしょう。誰あろう、かつての私がそうでした。でも、そう考えてはなりません。あなたに訪れる苦難は、全てあなたという種子をはぐくみ育てる手段なのです。

 

元プロ野球選手だったKさんは、覚醒剤使用で逮捕され44日間を獄で過ごしました。人気者であっただけに、その反動は数十倍にもなって彼の心を深く抉ったことでしょう。表面的に見れば、彼にとって、それは人生最悪の災厄だったと言えるかも知れません。でもそうなったことで、彼は自分を「変える」機会を与えられたのです。これは天の配慮です。後は、Kさんがそれをしっかりとものにするかどうかです。

 

一方、最高権力者であるAさんは、嘘に嘘を重ね、破綻をきたしてもなお居直り、我欲のために、省庁も、日銀も、警察も、検察も、裁判所も、マスコミすらも抱き込んで、独裁体制をひた走っています。もはや民主主義もなく、三権分立もないので、たとえ違法行為をしたとしても、自分やお仲間たちが逮捕されるということはありません。これはAさんたちにとって、果たしてよいことなのでしょうか?

 

これも、表面的に見ればよいことのように思えます。実際、Aさんやお仲間たちもそう思っているからこそ、国民に嘘をつき続けることを止めないのでしょう。けれども、そうすることで、この人たちは自分を「変える」せっかくの機会を失っているのです。獄に繋がれたKさんと、逃げおおせるAさんたちと、どちらが不幸なのでしょう? 一体どちらが憐れなのでしょう?

 

罪や罰というのは、すべてこの世の論理です。何度も言って来たように、真理の世界には罪も罰もありません。自分が為したことは、自分に返るという鉄壁の法則があるだけです。ですから、他者を騙すことは自分を騙すことであり、他者に嘘をつくことは、自分に嘘をつくことになるのです。その真意を知らないものだから、自分を「変える」機会を、先延ばし先延ばしして行ってしまうのです。

 

ああ、憐れなり。でも、人はいつだって自分を変えられるのです。その気になりさえすれば、死ぬ間際だって人は変われる。それが聖なる救い。でも、その人が「変わろう」と言う意志を持たない限り、人は変われないのです。ですから今、あなたが、自分を「変えたい」「変わりたい」と心底願っていることは良いことです。それでこそ「魂」の成長があるのですからね。

 

でも、今の自分を抹殺してはいけないよ。反省はいいが完全否定してしまってはダメだ。己の中に巣食う利己心をジャンピング・ボードにし、未熟さを教師にするのだよ。それらは、あなたに何かを気づかせようと与えられたものだから。だから感謝しなさい。自分の未熟さ、至らなさに。そして、力強く飛躍するんだ。サナギから蝶へと。

 

ご自分の意志の力を信じなさい。あなたを規定するのは、あなたの外側にあるものではなく、あなたの意志が、明日のあなたという人間を創り育てるのです。善なる意志は健康をもたらし心を平安に導きます。不善なる意志は細胞を傷つけ心を荒げます。だから善なる理想をお持ちなさい。あなたは変われる。変われます。サナギから、この上なく美しい蝶へと。

「完全なる奉仕の人となる」とは?

7月2日掲載の『パワースポット』の内容に関連して、次のようなご質問を頂きました。

 

Q.前回のメッセージ中に、〈完全なる奉仕の人となるように〉という言葉がありましたが、「完全なる奉仕の人となる」とは、一体どのような状態を指しているのでしょうか? また、どのように行動すれば、完全なる奉仕の人に近づけるのでしょうか? 私の考えでは、どんな些細な事であってもよいから、自分がされて嬉しいと思う事を、気が付いたらどんどんやるという習慣を身につければよいのかな、と思っているのですが、それでよいでしょうか。

 

A.先ずあなたが、その言葉に眼をお留めになり、ご自分も「完全なる奉仕の人」を目指そうとなされていることをとても嬉しく思います。その勇気、寛大さ、誠実さは、何ものにも代え難いものです。すべての人が、もしもあなたのようであったなら、地球は変わるでしょう。そして、人類は救われるでしょう。

 

さて、「完全なる奉仕の人」とあるということは、それがあなたの心に引っ掛かったように、そして既にお気づきのように、「不完全な奉仕」という段階もあるということを示唆しています。なぜ、わざわざ「完全なる」という形容動詞が付けられているのでしょうか? なぜ、そのように強調されているのでしょうか? それは、いわゆる「奉仕」とは違うものなのでしょうか?

 

「奉仕」とは、普通、他者のために出来るなにがしかを自分がする、という行為を指しています。それはそれで、立派な心掛けです。あなたが仰る「どんな些細な事であってもよいから、自分がされて嬉しいと思う事を、気が付いたらどんどんやる」ということも、「奉仕」の素晴らしい行動原理です。では、それを徹底して行っていけば、「完全なる奉仕の人」に近づけるのでしょうか?

 

近づけるかも知れません。でもそのアプローチは、どこか無理をしていないでしょうか? 「エイッ!」と気合いを入れないと、継続はなかなか難しいのではないでしょうか? そして、そのように無理し続けていたら、きっと疲れてしまうと思うのです。すると、その「疲れた」心の状態、義務感のようにしてやっている心の状態が、相手に伝わります。

 

形の上では「奉仕」をしていても、自分が喜んで行っていない行為というものは、本当の「奉仕」にはならないのです。いわゆる「支援」と称する活動の多くが、息苦しさを感じるのはそれが理由です。

 

実に、ポイントはそこです。「行動」のあり方や、あり様ではないのです。それを為す人の、「心」のあり方、あり様が肝心なのです。「心」のあり方、あり様が、つねに愛に溢れ、喜びに満たされていれば、その人が為すことは、すべて自動的に「奉仕」となるのです。これが、「完全なる奉仕の人」になる、ということです。

 

しかしこれだけでは、何を言っているのか、たぶんお解りにならないでしょう。以前に、善と偽善のことをお話ししましたね。これと同様のことが、「愛」の学習についても、また「奉仕」についても言えるのです。人は、誰しもが、中途半端な「善」、中途半端な「愛」、中途半端な「奉仕」という段階を経て、完全なる「善」、完全なる「愛」、完全なる「奉仕」の人に至るのです。

 

未だ「善」を知らない → 「善」に気づく → 完全なる「善」の人になる

未だ「愛」を知らない → 「愛」に気づく → 完全なる「愛」の人になる

未だ「奉仕」を知らない → 「奉仕」に気づく → 完全なる「奉仕」の人になる

 

大きく言って三段階。この中間段階にある時(大多数の人がそうですが)に、人は心が定まらずに悩みを抱えるのです。しかしそれは「学習途上」ということであって、心の葛藤や悩みは、その人に贈られたテストとなっているわけです。そして少数の、未だ「善」を知らない者が悪を為し、未だ「愛」を知らない者が他者を支配しようとし、未だ「奉仕」を知らない者が私利私欲に走るのです。

 

これは「魂」の成長のプロセスであって、完全でない人間がダメだと言っているわけではありません。誰もがこうした道を通って、いつかは完全に至るのです。そう思って見れば、悪を為す人の心理も解るでしょうし、その人を許すことも可能でしょう。そして、完全なる「善」の人となった暁には、その人は、同時に完全なる「愛」の人にもなっており、完全なる「奉仕」の人にもなっているのです。

 

以前、『高僧と言われる人よりも、農村で暮らすお婆さんの方が人間的にずっと先を行っているように思えるのはなぜか?』という、長〜いタイトルのメッセージを掲載したことがあります。自然とともに生き、自然を敬い、欲得を忘れ、毎日を穏やかに過ごす人は、自ずと、完全なる「善」、完全なる「愛」、完全なる「奉仕」の人に近づいて行くわけですね。

 

では、そのような人は、何が違うのでしょうか。想像してみてください。「よしッ!これからは善を為すぞ」と誓ったり、「愛に生きるぞ!」と決意したり、「人々に奉仕しよう」と努力したのでしょうか? もしそうであれば、まだまだ本物ではありません。誓いや、決意や、努力なしに、自然にそれらが出来ている人こそが本物の聖者です。いったい、どこがどう違うのでしょうか?

 

「喜び」の質が違うのです。先ほど言った三段階。これを喜びの質から見ると、肉の喜び、心(魂)の喜び、魂の奥(霊)の喜びへと、進化して行っているのです。ですから、内なる「霊」の喜びに生きる人は、まったく自然に、「善」「愛」「奉仕」に生きることが出来るのです。そして、この心境に至った暁には、その人は「全ては我がためにあり」との感慨を得るのです。

 

これを聞いて「えっ!」と思われた方も多分お在りでしょう。一見すると、これは驚くべき結論であるかも知れません。また、大いなる誤解をもたらすかもしれません。なにしろ、「他者のため」ではなくて、「全ては我がためにあり」と思えるようになることが、「完全なる奉仕の人」「完全なる愛の人」「完全なる善の人」になることだと言うのですから。

 

それは、エゴの最たるものではないのか? 違うのです。「全ては我がためにある」のですから、どんな災難も苦悩も「我がためにある」と受け入れるということですし、何を為しても見返りを求めるということがありません。また、自分にとって都合の悪い出来事を、他人のせいにするということもないのです。

 

ちなみに、釈迦の誕生時の言葉として知られる「天上天下唯我独尊」は、これと同じ境地を語ったものです。

 

「奉仕」活動を、「誰かのために」と思ってしている間はまだまだ浅く、「すべては自分のために」と思えた時に、それは本物になるのです。だからこそ、その人は、毎日を、この瞬間々々を、喜びの中に生きることが出来るのです。

 

その人にとっては、「奉仕」する対象がもはや違うのですね。「他者」にではなくて、「神」に奉仕する人間になっている。エゴを完全に滅して、自分を「神」の通り道にしてしまったのです。自分は単なるパイプ役に過ぎない。そうやって全部を「神」に委ねてしまう。そうなると、その人がする行動はどんなものであっても、全部が自動的に「完全なる奉仕」になってしまうのです。解りますか?

 

「神」とは何でしょうか? 「全宇宙」の別名です。ですから、「神」に奉仕するということは、取りも直さず、全ての人々、全ての自然、全ての生き物に奉仕することと同義なのです。そして、そのように生きることが、「光への道」の歩みなのです。

 

しかし、この道は決して平坦ではありません。批判や、誹謗中傷、時には攻撃も覚悟しなくてはなりません。なぜかと言えば、普通の人々には、その心境や感覚が理解できないからです。大多数の人は、未だ中途半端な「奉仕」の中に生きています。そこではスケール(物差し)が当てられ、量の多寡で「奉仕」が測られます(たとえば、寄進額や貢ぎ物で)。ですから、それを超越した「神」への奉仕は、その人たちからすれば、単なる独善にしか見えないのです。

 

ですから、マザー・テレサも独善的だと批判されましたし、『死ぬ瞬間』を書いたエリザベス・キューブラー・ロス医師などは、自分が設立したホスピスのコミュニティを、二度にまで渡って焼き討ちにされてしまいました(一度建てて焼かれ、再建してまた焼かれた)。このように、「光への道」を生きることは、人々の無理解を覚悟しなければならないのです。

 

しかし、でも歩まねばなりません。いいえ、こんな時代だからこそ、一人でも多くの人に歩んでいただきたいのです。権力者の不正や嘘が大っぴらにまかり通り、それを咎め立てする機関もなければ、内部告発する者もいない。みんなが、低我の満足のために、自己の「魂」の、真我の声を裏切って行動し、仲間以外の人たちを奴隷のように扱って支配しようとする。未だ善、愛、奉仕を知らない憐れな権力者たち。無明の中に生きる人たち。

 

これらの「魂」たちに、内なる気づきを与えてあげてください。それには、みなさんが「光」を発することです。「光」の輝きで、硬く凝り固まった「魂」の扉を溶かしてあげることです。だから、友よ。完全なる奉仕の人を目指せ。そして、わが使徒となりなさい。わたしとあなたはつねに共にある。

パワースポット

パワースポットへ出掛けて行って、運気を貰おう。世間では、このようなことを考えておられる方が多いようですね。今や、あっちでもこっちでも「パワースポット」を話題にしている人たちを見かけます。そのお気持ちは解ります。でもねぇ、その「パワースポット」信仰、間違ってやしませんか? さる神社関係者がこぼしていましたよ。最近は「パワースポット」巡りだけをして、本殿にお参りしないで帰る人が大勢いるって。

 

生命エネルギーが、キラキラと光り輝くように充満している、特殊な場というものはあります。それをもし「パワースポット(power spot)」と呼ぶならば、地上に「パワースポット」というものは存在します。でもそれは、多くの人が考えているようなものとは違うのです。そこは、「場(field)」なのであって、「場所(place)」ではないのです。この違いが、解りますか?

 

実際のところ、「パワースポット」とは何なのでしょうか? どうして、そのような「場」が地上に顕現するのでしょうか? その答えを知るには、先ず「宇宙とは何か?」という問いに立ち戻らなければなりません。

 

宇宙とは何か? 神秘学ではこれを三つの観点から解きます。宇宙とは法である。宇宙とは愛である。宇宙とは生命である。この三つの言い方は、一見、関連がないように見えて、どれもが正しいのです。法・愛・生命は、すべて一つのものから発した別々の機能であり、三位一体を構成しているのです。ですから、このように言うことも出来ます。

 

法は一つである。一つが法である。

愛は一つである。一つが愛である。

生命は一つである。一つが生命である。

 

一般的に「パワースポット」というのは、このうちの生命力が充満している場を指して、みなさんがそう呼んでいるわけです。でも、三位一体を考えた時、当然ながら、そこは同時に、法の場、愛の場ともなっているということに注目してください。言い換えれば、法の場、愛の場でないところが、「パワースポット」であり続けられるはずがないということです。

 

なぜ、ある特定の場が「パワースポット」になり得るのでしょうか。宇宙は、一者である創造主の被造物なわけですから、本来であれば、すべての場が「パワースポット」であるはずです。実際、そのような考えから、すべてのものに神性が宿るというアニミズム(animism)が生まれました。ですから、この素朴な考え方は、論理的に言っても決して間違ってはいません。アニミズムこそが、実は本当の一神教なのです。

 

問題は、良くも悪くも人間にありました。人間の想念は目に見えないエネルギー体であり、「波動の法則」によって、同種の波長(振動数)は引き付け合い、共鳴して強くなるという性質を持っています。ある場所が「パワースポット」になったのは、自然が造形した場に宿る精妙な波動に、古代の人々が「神」を感じて同調し、祈りと感謝を捧げることによって、その場のエネルギーがより増幅されていったからなのです。

 

そのようにして、清らかな波動が強まったことによって、天使や妖精がその場に降臨するようになり、そこが「パワースポット」となって行ったのです。ところが今はどうでしょう? 誰かが「ここはパワースポットだよ」とネットで紹介すると、ワッと人が集まります。その人たちは、いったい何を求めて来るのでしょうか? 古代人と同じく、自然に対する感謝の念と祈りを捧げるためでしょうか?

 

いいえ、そうではありません。誰もが、パワーと幸運を頂こうと、目を皿のようにしてやって来ては、騒音をまき散らし、帰りにはご丁寧にもゴミをポイ捨てして去って行く。こんな場所に、天使や妖精がずーっと居続けると、あなたは本当に思いますか? その「欲しい、欲しい」というエゴが、何百、何千、何万層にも積み重なって、今や名だたる「パワースポット」は、別の意味の「パワースポット」になっています。

 

ですから、波動が解る人というのは「パワースポット」にはおいそれとは近づきません。気分や体調がすぐに悪くなるし、思わぬお土産を拾って帰るはめになりかねないからです。同様に、どことは申し上げませんが、霊験あらたかと言われる宗教寺院や教会も、「欲しい、欲しい」というおねだり信仰の人々の念を集めて、汚れ切っているところがほとんどです。

 

なにゆえ、人々は有名な場所を求めて殺到するのでしょうか? なにゆえ、宗教者はその気持ちを利用して一儲けを企むのでしょうか? エゴにエゴが呼応し、エゴの「パワースポット」が、まるで雪だるまのように各地で膨らんでいます。

 

本当の「パワースポット」は、静謐な中にしか生じません。こんな経験はないでしょうか? 誰もいない静かな場に、ひとり佇んでいた時、涼やかな風らしきものがスッと通り過ぎたように感じた瞬間。それです。

 

「パワースポット」というのは、人間の念が創るのですよ。「場所」ではないのです。人間の念が創る「場」なのです。だったら、なぜ、ご自分を「パワースポット」になさらないのですか? 以前に言ったでしょう。あなたの身体は、モバイル神殿なんですよと。あなたの体が、神を祀る宮なんですよと。実に簡単なことです。よいですか、それをピカピカに磨いておれば、そこが「パワースポット」になるのですよ。

 

どこにでも持ち運べて、いつもあたなと共にある「パワースポット」。こんなに便利で、ありがたいものはないではありませんか。それだけじゃありませんよ。あなたが「パワースポット」になれば、あなたの周囲に集う人たちをも癒し、生きるパワーを与えてあげることも出来るんですよ。ですからね、もう「おねだり信仰」は金輪際やめなさい。どこかから、何かを貰おうとするのをやめなさい。

 

何度も言ったでしょう? 「愛の法則」のことを。「刈り取りの法則」のことを。自分が与えたものを自分が受け取るのです。おねだりをすれば、おねだりが返って来ます。「愛の法則」の第一歩は、与えることです。与えれば、与えられます。ですから、あなた自身が、「パワースポット」になりなさい。法に生き、愛に生き、生命を敬うことによって。完全なる奉仕の人になることによって。

 

そうすれば、あなたの住まい、あなたの職場、あなたが行くところ、すべてが光り輝く「パワースポット」になります。そのことを、ご自分を通じて証明してみせなさい。やがて、あなたに共鳴する人が顕れ、小さなグループが出来上がることでしょう。その人たちと助け合いなさい。そして、その共鳴のエネルギーを増幅して、さらに周囲に光として放つのです。

 

顔は天に向け、足は大地にしっかりと着ける。そのようにして、エネルギーを天地に循環させなさい。そうやって、太陽を仰ぎ、川のせせらぎを聴き、風を感じ、心をピュアにした時、あなたの「魂」は古代人と通い合い同じものになる。その時に生まれる場、それが真の「パワースポット」なのです。天使や妖精たちは、舞い降りる場をいつも求めていますよ。

LGBTとレインボーフラッグ

LGBTというのは、Lesbian, Gay, Bisexual, Transgender の頭文字をとった用語です。10年ほど前からこの言葉が徐々に浸透し始め、今日では、性的マイノリティの代名詞のようにして使われるようになりました。でも私は、このマイノリティという考え方は好きではありません。マイノリティなど、この世にはいないと思っています。あるのは個性だけだと思っておりますから。


さて、このLGBTのシンボルがレインボーカラーなのをご存知ですか? アピール行進の時には、たくさんの人が虹色のフラッグを掲げたり、虹色のTシャツを着ているのを見ます。なぜレインボーフラッグがLGBTのシンボルになっているかと言いますと「いろんな色があるよ」ということで、個性というものを強調しているのです。そしてこれは、「虹の学校」の理念と全く一緒なのですね。

 

ご存知のように、虹色は、白色光がプリズム効果によって波長の長短別に色分解された際に得られます。雨後の空に虹の架け橋が見られるのは、空気中の水滴内に光が入り、その反射光が波長の屈折率の違いによって虹色に姿を表すのです。「虹の学校」という名は、分解されたこの様々な色が集まることによって、元の白色光に還る、という意味合いを持っています。その「光への道」を歩む学習を、互いの個性を補い合いながら、共にここでして行こうというわけです。

 

LGBTの方たちは、これまで、何かと肩身の狭い思いを経験されて来たことと思います。けれども、「虹の学校」はみなさんを歓迎します。それは、理念が同じということもありますが、それだけではありません。今日は、「愛」のかたちの多様性ということに関して、一般にはあまり言われていない、霊的世界からの話、「魂」の世界からの話をすることにいたしましょう。

 

先ず最初に申し上げたいのは、相手を傷つけたりすることでない限り、どんな性的な愛し方も、あり方も自由だということです。あなたには、恋愛に関して、宇宙から自由意志が与えられています。ところが、この点をめぐって、最も強いタブー的視線を投げ掛けるのが、他ならぬ「神」を扱っている筈の宗教なのです。しかしそれらは、歪んだ宗教的なドグマに過ぎません。この一点を見ただけでも、宗教というものが、いかに人間を抑圧して来たかが分かります。

 

また、LGBTに関連づけて、男女が結婚しないと子どもが生まれないとか、このまま少子化が続けば国力が衰退するといったことを言う人もいるのですが、人間は、子ども製造マシンではありません。また、労働ロボットでもありません。しかもこれらの発言は、その立場にいる人たちによるご都合主義なのです。子どもが生まれないのは、希望のない社会だからですし、地球環境と、人類にとっての大問題の一つは、以前から言われて来たように人口爆発です。

 

いま上げた二つの問題視視点は、どちらもLGBTというものを表面的にしか捉えていません。しかし、奥にはもっと普遍的な課題があるのです。その課題が解れば、LGBTというものが、単に個性に過ぎないということが解ります。そして、もっと奥には、すべての人間に共通した「愛」の学習という大テーマがあるということも解って行くでしょう。

 

次に言うことは、LGBTを嫌悪する人たちにとっては、トンデモ話に聞こえるかも知れません。しかし、これが人間の本質なのです。人間とは、輪廻転生するものなのです。その人の本体は、あくまで「霊魂」にあり、肉体は、転生のたびに着替えるドレスのようなものです。このドレスは、次にどの両親を選ぶか、どういう境涯を選ぶかを含めて、中間生(霊界)にある間に、前世のカルマを考慮した上で、指導霊と相談しながら、自分で決めて誕生して来るのです。

 

ですから、その中にはジェンダー(性別)の選択も含まれています。霊的な完成とは、男性性も女性性も充分に体験し尽くした先にあるのです。そうすることによって、両方の性が解り、一つの「霊魂」のバランス、中庸が図られて行くのです。ですから、過去世の体験から、どんな男性にも女性っぽい面はありますし、どんな女性にも男性っぽい面があります。そして、今世で選んだ性別については、普通は、しぶしぶであっても受け入れて行くのです。

 

ところが、こういう場合はどうでしょう。ずーっと男、男、男で生きて来て、今度こそは女性も経験しなくちゃなと、一大決心して生まれて来たものの、いざ生まれてみると、どうもドレス(身体)の感じがしっくり来ない。あるいは、その逆パターン。こんな場合には、その人は自分のジェンダーに強い違和感を持つかも知れません。また、前世でもレズビアンやゲイだった人の中には、今世でもそれを継続したいと思う人がいるかも知れません。

 

いずれにしても、そこには過去世から引き継いだ原因があるのであり、LGBTの方たちは、そこを掘り下げて考えてみることが大切です。必ず、今世での大切な学びがあるはずです。ただしその時、今のご自分を否定なさらないでください。いろんな道があるのです。最後の最後は、どんな「霊魂」も中庸に行き着くのです。だとすれば、最初から真ん中付近を行く道があってもよいわけですね。

 

LGBTの方たちの中には、芸術面や美的センスにおいて、特異な才能を発揮される方が多くいらっしゃいます。これはなぜかと言いますと、普通の人よりも、それだけ宇宙的感覚が解るということなのです。地上的な男女別を超えているので、宇宙感覚(全部は一つ)により近いのです。だから、芸術的センスがあるのです。もしかしたら、それを伝えるのが、その人の使命なのかも知れません。

 

さて次に、人間としての普遍的な課題です。ノン気(ストレート)の人たちは、LGBTの人たちを見る際には、どうしても性愛の面ばかりに注目してしまいがちです。そして、違和感を持たれるでしょう。しかし、ノーマルと言われている人も、身体的な愛情表現のみを「愛」と言っているわけではないことに気づいていただきたいのです。つまり、その先にあるものは、LGBTの人たちもそうでない人たちも、何ら変わりがないのです。

 

「愛」にも、大きく三段階があるのです。性愛、情愛、そして真の愛です。これは、人間というものが、霊・魂・体の三層で成り立っている多次元的な存在であることから、それぞれに対応した「愛」のかたちというものがあるのです。

 

図を見てください。肉体的な愛が「性愛」、魂的な愛が「情愛」、そして霊的な愛が「(真の)愛」です。以前にも書きましたが、古代ギリシャではこれを明確に区別していて、それぞれエロス、フィリア、アガペーと名づけていました。

 

(図の補足説明:地上世界(3次元)では、人間は霊・魂・体を同時に有する多次元的存在として生きている。しかし、霊・魂を意識していない人は、体を持つ自分のみが自分だと思い込んでしまっている。けれども、魂の意識や、霊性が向上していけば、地上にあっても、その人は、霊・魂・体それぞれに応じた「愛」の認識に至れるのである。)

 

若い男女が出会って結婚したとしましょう。最初は「性愛」に大いに興味があって、この経験を重ねて行くでしょう。そのうちに子どもが生まれて家族が出来ると、今度は「情愛」がしだいに深まって行くでしょう。そしてもっと歳を取って、子どもが独立してしまうと、しだいに博愛的なものが芽生えて来て、遂には自然の何にでも愛おしさを感じるという「真の愛」の心境にまで達するでしょう。

 

もちろん、そうならない人もいます。というか、残念なことに、そうならないで一生を終わる人の方が圧倒的に多いです。だからこそ、そこに「愛」の学習が隠されているのですね。最初は、「性愛」の関係だけだったかも知れないけれども、しだいに「情愛」が芽生え、遂にはそこから「情」が取れて「愛」だけになる。「真愛」という言い方はあまりしませんが、これがさらに進むと、「真愛」が「神愛」と合体してしまうのです。これが「愛」の最終ゴールです。

 

ということで、フィリアからアガペー段階への「愛」の学習については、ストレートの人も、LGBTの人たちも、何ら変わりがないわけです。ただちょっと違うのは、最初のエロス段階だけ。霊的世界から見れば、地上でしか経験できないエロス体験も十分にした上で、さらにフィリア、アガペーへと昇華して行くことが最も重要なことなのです。何度も言うように、あの世に持って行くのは、また持って行かされるのは、その人がした経験に伴う心情と理解だけなのですから。

 

みなさん方は、学校で、アリストテレスやプラトンやピュタゴラスらの古代ギリシャの賢人たちを「哲学者」と習われたと思います。ですが、これは誤りです。彼ら賢人たちは哲学者ではなく、あの時代の「メッセンジャー」でした。賢人たちは、秘教学校を作って、「宇宙の真理」を弟子たちに教えていたのです。けれども、後の時代になって、その奥義を理解できない人たちが、「ギリシャ哲学」の名称で括ってしまったのです。

 

ですから、そこで説かれていたことは、現代に合わない、古臭い、カビの生えた理論なのではなく、時を超えた、宇宙の普遍的真理であることを知っていただきたいと思います。「性愛」を伴わない精神的な恋愛を「プラトニック・ラブ」と言っていますが、これも誤解です。「Platonic love」とは、「プラトン的愛」という意味。つまりは、エロス(体)、フィリア(魂)、アガペー(霊)へと昇華して行く「愛」のことです。これを、プラトンが正しく説いたのです。

 

さて、これまで言ったことが解れば、LGBTの方たちを指して、宗教的倫理に照らしてどうとか、人口減少がどうとかといった問題視発言を行うことが、まったくうわべしか見ていないということが解ったでしょう。誰かが誰かを裁く、などということがあってはなりません。神は誰も裁きません。全員に、等しく、自由意志が与えられているのです。その自由意志を、どう使うかはあなたしだい。

 

多様な「愛」のかたちがあることを先ず認めて、そして、ご自分の「愛」の機会を通じて、各人が各様のエロス、フィリア、アガペーを経験、学習して行けば良いのです。その先に、虹色の個性が集まって、白色光となって輝く、全き「愛」の理想世界があることを信じ、思い描いて、どの人も、今日一日を元気よく生きていただけたらなと願っています。

神は一神であって二格

このところ、ずっと一神教と二元性のことについて話をして来ました。神は一つである。これは間違いのないことです。論理的に考えても、またそうでなくても。論理的に考えれば、神は一者という帰結が矛盾のないただ一つの結論ですし、論理によらないものとしては、いついかなる時代のメッセンジャーも、「oneness」を秘教として伝え続けて来たというのがその何よりの証拠です。

 

しかし、この超シンプルな真理が、ついぞメジャーになることはありませんでした。古代の人々はこれを知っていたのですが、人間が物質主義に傾き、堕落するに連れて、この真理が忘れ去られて行きました。そして宗教までもが、権威主義、拝金主義、独善主義、排他主義の基盤に立った「我が神」の教義を振り撒くようになったのです。

 

二元性(duality)というものは、いったん理解してしまえば、「なんだそういうことだったのか」という程度のものなのですが、それを本当に、身体の細胞の隅々にまで納得させるのはかなり難しい。なぜかと言いますと、何世代にも渡る人類史の中で、誤った認識の二元論がすでに細胞の奥深くにまで浸透し、刻み込まれているからです。

 

あなたはきっと、一度ならずこう思ったことがお有りでしょう。どうして、この世に善と悪が存在しているのか? もし神がいるとしたら、この世が善だけでないのはどうしてなのか? そこに、一つの考えが忍び寄ります。神は善なのだが、悪を為そうとする別の親玉がいるのだ。それがサタンやルシファーであり、善なる神は、奴らとの戦いに勝利することをお望みだ。

 

これが一神教の二神論へのすり替えです。善と悪の戦いという図式にしたところで、その両者を統御しているものはいったい何者なのか、という疑問には答えていないのですが、その発想は人々の心情にフィットしたのです。なぜなら、社会の矛盾や人間関係を見れば、なるほど日常が戦いだし、自分自身の内部においても、善と悪との戦いが昼夜繰り広げられているからです。

 

左の図を見てください。三角形の頂点に位置するのが、宇宙の創造者です。創造神といっていいでしょう。この創造者は、万物を創造する際に、先ず二つの極性を設けたのです。これが陽と陰です。二つの極性を設ければ、その間に、配合の違いによって様々なものが生み出されることになります。さらにそれら同士の組み合わせで、もっと多様なものが生み出されて行きます。こうして万物が創造されたのです。

 

これを「三角形の法則」と言います。三角形の頂点から、陽極と陰極に別れて、末広がりに万物が創られて行きました。そこで、「ハ(末広がりに)」に「刀」で切ると、「分ける」という字になるのです。また、創造神から万物へは、バイブレーションの違いによって七段階に階層化されました。そこで「七」に「刀」が「切る」という字になっているのです。

 

二極性に分かれた原初の痕跡は、あらゆるものに見出され、二極性を持たないものはおよそ宇宙に存在しません。何しろ素粒子の世界が、プラスとマイナス、左スピンと右スピンといった具合に、全てが対で出来ているのですから。みなさんの身近においても、光と影、昼と夜、南と北、右と左、表と裏、押すと引く、男と女、等々いろいろなところで二極性を確認できるでしょう。

 

このように、万物が二元を基本にしているということは間違いありません。しかしそれは、前にも言いましたように、対立構造ではなく、補完機能なのです。つまり、互いがあるからこそ、互いを認識できるのです。これは非常に重要な点です。なぜ一者であったものが、自己の内に二極性を創造したのか? それは一者のままでは、自分を自分と認識できないからです。そこで二元が生じました。

 

図で、頂点が一神教。その最初の分岐が二元論。それよりさらに下ると、神々という多神教。底辺になると、自然のすべてに神が宿るという自然崇拝、そして全部をひっくるめて三角形を見ると、汎神論となるのです。つまり、「神」とは何かについてのこれらの違いは、一つのものの、視点の置き場所の違いに過ぎないのです。そして結論は一つです。全部が一つ、一つが全部です。

 

いま見て来たように、二元性というものは、今の宇宙が宇宙であるための、最もシンプルな初期条件だったのですが、これに人間は余計なものを付け加えました。善と悪、優と劣、強と弱、積極と消極といったように、尺度を設けて一方が一方を裁くような価値観を醸成したのです。これは、支配と被支配の構造を創りたい者にとっては、非常に好都合なツールとなりました。

 

ここで、勘のいい方はすぐにお気づきのように、支配と被支配という考え方自体が、一方が他方を裁く尺度になっています。そこで、ここから類似の尺度が次々と生じたのです。その根本原因は、これまで何度も言って来たように、根源(=神)から別れて、個我となった「魂」の中に、自由の一面である「分離」意識を発達させて、自分がよい思いをするためには他者を支配するしかない、と思い至った「魂」が出現したことによるのです。

 

こうした支配的な行動原理を持つ「魂」は、割合としてはそれほど多くはありません。けれども、狡猾で知力に長けているために、上記のような尺度に基く価値観を、子どもの時分から大衆に吹き込んで、広く信じ込ませることによって、自分たちの立場を盤石なものにしたのです。

 

しかし、上記で示したような価値観は、本来は、善悪→宇宙の法に則っているか反しているか、優劣→才能と表現の多様性、強弱→強靭と柔軟、積極と消極→活動と休息のように見るべきだったのです。

 

このように、二極性には本来、優劣というものはないのですが、腕力の強さ弱さという視点から、性別にもこの尺度を当てはめようとする考えが生じました。いわゆる男尊女卑です。これは社会的、政治的に是認されて来ただけではなく、一部の宗教では、女性に対して虐待的な倫理規範を設けたり、女性の聖職者は認めないなどとして来たのです。しかしこれらは全て、支配のための屁理屈です。

 

モーガン・フリーマンさんという俳優さんをご存知でしょうか。この方が以前、笑いながら、こんな話をしていました。「自分が、絶対やりたくないと思っていた役が一つあるんだ。そしたら、先日、そのオファーがついに来ちゃったんだよ。それは“神様”なんだ」と。

 

「神様」は、どういうわけか白い顎髭を生やしたお爺さんで表わされることが多いですよね。もちろん「神」が、このような人間の姿をしているわけはないのですが、そこに人格的なものを見出したいたいという願望が、長老のイメージを与えるんですね。キリスト教でも、「父なる神」という言い方をして、「神」に男性格を付与しています。しかしこれは間違いなのです。間違いどころか、多大な悪影響を与えて来ました。

 

「神」は男性格ではありません。これまでの話からお判りのように、宇宙の創生において、創造主は原初に二極性を持ちました。しかしそれ以前の、創造主そのものには、まだ極性がないのです。ですから、これに人格を見出した場合には、当然、極性登場後の人格を見ることになります。そして、これもまた当然ながら、男性と女性という二極性があるのです。これは他の二極性と同じく補完機能であって、そこには優劣はありません。

 

ですから、「父なる神」は間違いであり、「父でもあり、母でもある神」が正しいのです。時に父性を大いに見せ、時に母性を見せる両極性の存在が、真実の「神」です。この「気づきの啓示板」ブログでも、突如、口調が変わることがありますが、男性口調であったり、女性口調であったと変化します。以前は気になって、後で修正していたのですが、最近はそのままにしています。

 

では、男性格と女性格とではどのような違いがあり、宇宙において、どのような補完機能を構成しているのでしょうか。解りやすいのは、やはり女性格です。それは出産というものがあるからです。このことから、女性格は、新しいものを生み出す母体、大地、海、物質、そして命を育む優しさ、温かさ、愛、感情、直感、などの性質を持っています。

 

これに対して男性格は、意志、方向づけ、論理、包容、陰で全体を支える、などの性質を持っています。この男性格と女性格のバランスが上手に取られることによって、次の生命が誕生し、引き継がれていき、なおかつ、それぞれの「魂」の霊的成長というものが図られるのです。しかし、性質を誤用してしまうと、女性は感情や物質に流されやすい面が出て、男性は闘争や暴力に傾きやすくなるのです。

 

俯瞰して言うと、男性格はこうしようという聖なる「意志」、女性格は全体を連ねる「愛」を表現していると言えましょう。創世記では、エヴァはアダムの肋骨から創られたとなっています。これは、心臓のある位置、つまりハートのチャクラを抜き出して女性が創られたということなのです。また、人間は神に似せて創られたとあるように、神に男性格と女性格があるので、地上にも男性と女性がいるのです。

 

ところで、いま言ったことを、男性とはこうあるべき、女性とはこうあるべき、とは捉えないでください。あくまで二つの極性の意味を言っただけで、陽中陰、陰中陽と言って、男性の中にも女性的部分がありますし、女性の中にも男性的な部分があります。というよりも、そうやって、一人の人間の中に、二極性のバランスが取れて行くことが、人間完成に至る道なのです。

 

さて、この二極性のバランスということが、宇宙的にはあらゆる面で大切なことなのですが、今までの地球社会は、男性性というものが前面に出過ぎていたのです。それも悪い面の男性性です。しかし深いところでは、そのピークは過ぎて、すでに衰退に向かっています。けれども、社会というのは巨大なシステムですから、巨大タンカーと同じで急には方向が変わりません。そのため、今は惰性で進み続けているのです。

 

今の、悪い男性性を有した支配層も、その変化を内心で感じており、自分たちの危機意識から、これまでの体制を何とか維持しようとして、無理に無理を重ねているので、あちこちに綻びや矛盾が噴出しているのです。強権的な発言や、マスコミの言論統制や、個人の自由や権利を奪う法改正は、みな、実は危機意識から発しているのです。強さに見える、裏の弱さです。

 

あくまで一般論ですが、男性というのは、どうしても「枠組み」発想から逃れられません。自分では気づいていないのですが、無意識に「枠組み」発想をしてしまうのです。男性は、先ず、自分の所属や立ち位置を決めてからでないと、意見を述べるということが出来ません。一般に、女性は短慮で、男性は思慮深いと言われていますが、男性は「枠組み」を考えているので、そのように見えるのです。

 

自分の立場でこれを言ってもよいだろうか? 言ったことで影響はどうなるのだろう? あの人を敵に回してしまわないだろうか? 自分のポジションがこれで危うくならないだろうか? 等々、いろんなことを考える。それが「思慮深い」ように見えるのです。男性が、名刺の肩書に拘るのも同じ理由。権力者は、そういう男性の操り方を知っていて、地位や名誉をチラつかせては、自分の陣営に引き込むのです。

 

しかし、いったん「枠組み」を得て、そのポジションに満足しますと、今度はそれを失うのが恐怖に思えてきます。自分のアイデンティティを「枠組み」に代表させてしまうので、それが無くなることは、自己の存在理由の崩壊にまで繋がってしまうのです。その行き着いた先が自殺。そこで、そうならないように、保身のためには嘘だって何だって、平気でやってしまうのです。

 

これを聞いても、女性の大半は、おそらくピンと来ないでしょう。そういう感覚が、ワケが解らないことでしょう。バッカじゃなかろうか、と思うかも知れません。そうなのです。実際、こんなバカみたいな発想で、男性社会が動いている、いや動いていたのです。男尊女卑という「枠組み」を作ったのも、男性が、このバカみたいな幼児性を糊塗するためであったに違いありません。

 

さてそこで、これからの、女性格が持つ役割です。これまでの、男性格による政治、男性格による経済、男性格による外交、男性格による報道、男性格による教育、男性格による雇用、男性格による医療、こういったシステムが、すべて限界にぶち当たっていて、最早うまく機能していません。今は惰性で動いているので、継続しているように見えますが、実際には崩壊に向かっています。

 

*女性格:女性格の性質という意味で、「女性が」という意味ではありません。

 

それは、少数者による人類支配というカルマが、溜まりに溜まって、いよいよ清算の時を迎えているのです。支配層は、支配の継続と完遂を狙っていますから、これから、大衆の家畜化、奴隷化の勢いをさらに強めて行こうとしています。しかし、この試みは成功しません。なぜかと言えば、宇宙の法則に反しているからです。たとえ一時的に成功したかに見えても、人類全体で作ったカルマは、いずれ必ず刈り取りの時を迎えます。

 

そこでみなさんにお願いしたいのは、先ず、今の社会の動きを見るときに、(悪い面の)男性格が衰退して行っている状況を、きちんと見抜いて欲しいのです。うわべの瑣末な動きには惑わされないようにしましょう。そうすれば、今の社会の変化というものが、とてもよく解ります。

 

ここで気をつけなければならないのは、駄々っ子の利かん坊が、自棄のやんぱちを起さないようにすることです。追い詰めてはいけません。彼らの霊性はまだ幼稚園児なのです。幼児性に付き合って、暴発させてしまってはダメです。では、どうすればいいのか。それこそ、女性格の「愛」で包み込み、溶かしてしまうのです。

 

これまでの人類社会は、「愛」が足りなさ過ぎました。男性格の悪い面ばかりが突出し、女性格を抑え付けて、表に出ないようにさせて来ました。このような歴史は、もう終わらせましょう。

 

『虹の学校』に縁が生じる方の95パーセントは女性です。これは「直感」が働くからで、女性は、今の時代の風を、追い風としてキャッチしているのです。しかし、男性は逆です。多くの男性が、可哀想にも、奴隷化、家畜化のシステムに組み込まれ、でもそのことに気づかずに、ますます酷くなる仕事環境、生活状況に疲弊し、本来の機能(聖なる「意志」)を発揮できなくなっています。

 

この状況を改め、バランス化して行くには、女性格の「愛」を前面に押し出して行くしかありません。女性の社会進出と言っても、男性に伍して闘っていてはダメです。それでは今までと変わりがありません。

 

そうではなくて、女性格による政治、女性格による経済、女性格による外交、女性格による報道、女性格による教育、女性格による雇用、女性格による医療に、社会システムそのものを変えて行かなければ、地球人類の次の進歩はありません。

 

みなさんは、全員が、父なる神、母なる神の、共通の子なのです。そこに例外はありません。みなさん一人ひとりが、みな違う個性を持っているのは、そこから互いに学び合うためです。違っているからこそ、「愛」の学習になるのです。でも、全員が、兄弟、姉妹であることは、忘れないでください。宇宙はワンワールドです。限りない多様性を許容し、包含するワンワールドなのです。

 

ですから地球も、「支配」によるワンワールドではなく、「愛」によるワンワールドを目指してください。それを実現させて行くことが、人類に課せられた次の課題です。今は過渡期にありますので、もうしばらくは混乱が続くでしょうが、どんな状況になっても、希望を持って、「愛」によるワンワールドの実現に貢献して行って欲しいと思います。

 

それが、これを読んでくださっている、あなたに与えられた課題でもありますから。

「光」と「闇」の関係

日本では、小嘘つきであれば、国会議員や省庁の役人が務まります。その人に、もし大嘘つきの資質があれば、大臣や役所のトップにまで出世できる。でも総理大臣となると、これではまだ足りない。総理になるためには、“異次元” の嘘つきでなければなりません。小学生でも判るような嘘を「一点の曇りもない」と、なおも言い切るド根性と才能は大したもの。誠に余人をもって替えがたし。

 

本年度(平成30年4月)から、小学校で「特別の教科 道徳」というものがスタートしたそうです。その小学校で先ず教えるのは、公正、公平、社会正義だと言うのですから、いやはや。自分が教師だったとしたら、子どもたちにどう話せばいいのかな? 公正、公平、社会正義なんてぇものは絵に描いた餅なんだよと言えばいいのか、裏をかいた方が(徳じゃなくて)得だよと言えばいいのか?

 

「道」も「徳」も、共に人間完成を目指すうえでは大切なことです。でもそれは教えられない。本人が、自分の内に見出すしかないのです。我々に出来ることは、そのきっかけを与えてあげることだけ。もし「教え」ようとしたら、(誰かが発案した)特定の価値観を押し付けることになってしまいます。そんなものは不要、どころか有害ですらある。今の政治に、全く道徳心がないのを見れば、それは明らかではありませんか。

 

道徳教育の必要性を叫ぶ、この上なく不道徳な人たち。愛国心の必要性を叫び、隣人愛は持たない人たち。彼らにとっては、それが公正であり、公平であり、社会正義なのです。人は、その時、自分が理解できる以上のものを受け取ったり、また表出したりすることは出来ません。ですから(「正しい」という仮面をつけた)倫理、道徳、正義の押し付けは、極めて危険なのです。

 

すべては「道」です。終点に至るまでの途中なのです。人と接する時には(それが幼い子であっても)、常に、自分は未だ「道」半ばとの自覚を持って接しなければなりません。誰かが誰かに教えたり、誰かが誰かから教わったりという一方通行はないのです。必ず、互いに学びがある。そして、学ぶのはあなた自身。そこに積極的な価値を見出して、自分を統御していくことが大切です。

 

不正は、当然ながら褒められたものではありません。しかし、今のようにあからさまに出てきていることには、やはり意味があります。よく、政治家の「劣化」とか、官僚の「劣化」ということが言われているのですが、それは「昔はよかった」というノスタルジー的願望から出て来ているもので、昔も今も大して変わりがありません。韓国宮廷ドラマを観れば、よく解るのじゃありませんか?

 

それは「劣化」ではなく、今までなら隠されて来たことに光が当たって、よく見えるようになったというだけのことです。そのことで、みなさんは学習の機会を与えられているのです。「権力者というのは、なんだ、こういう人たちだったのか」に始まり、「権力構造というものは、なんと歪(いびつ)なんだろう」、そして「社会にとって、どういう統治機構が理想なのだろうか」まで。

 

そこまで、一気に来ているのです。選挙制度がどうとか、最高権力者の首をすげ替えたらどうとか、そんなことは今までの延長上の話です。確かに、当面はそういうことでしか進まないのかも知れません。しかし大河の流れは、奥底でもっと大きな変化を示しているのです。そこに気づくというか、そのことを感じながら、今の世の中の動きを見て、自分の中に受け止めていくことが大切です。

 

ニュースは日々、あれがこうなった、今度はこうなりそうだと語ります。でも、大河に浮かぶ木の葉が、右に振れた左に触れた、いや今度はひっくり返ったと言っても、要するに、最後はみんな大河に押し流されていってしまうのです。ですから、長い長い目で見てください。視点を離して、宇宙にまで上げて、大局的に地上を見てください。人々が、一喜一憂しながら蠢く様を見てください。

 

権力者が、なにゆえに必要以上の金を欲するのか。権力者が、なにゆえに「敵」と見なした者を憎むのか。権力者が、なにゆえに一般の民衆を蔑むのか。権力者が、なにゆえに保身のために嘘をつくのか。権力者が、なにゆえに暴力装置のナタを振り回すのか。それは、彼らがいま信じている「正義」の表現なのです。そして、その信念のスケールの最右端に彼らが位置しているからなのです。

 

*信念のスケール:人間はみなバラバラで、そこには優劣があるという「分離」の意識

 

このことを、みなさんは他山の石としてください。それらの「魂」は、未だ身体に埋没したままで、肉の欲望、肉の論理を一生懸命に経験・学習している段階なのです。この世は、そして今の地球は、未だ肉の欲望と論理が支配する世界です。そうした世界にあっては、彼らは優秀者でありエリートなのです。しかし残念ながら、まだ初歩の気づきにも至らない。そして勿論、「カルマの法則」も知りません。

 

みなさんから見れば、私利私慾に狂った、なんという浅ましい人間たちかと思うでしょう? でもその裏側は、不安でいっぱいなのですよ。自分の内に「信=真=神」がないのです。ですから、際限なくお金に頼り、特定の「信念」に盲従し、他者を蔑んだり攻撃したりすることによって、辛うじて自分のアイデンティティを確保しようとするのです。「分離」意識から来る表現の最たるものは、蔑み、憎しみ、そして暴力。霊的にみれば、彼らはまだまだ幼稚園児なのです。

 

しかしそんな彼らとて、いったん目覚めが始まれば、自らの不徳を恥じ、弱き者への憐憫と、悪は許さないぞ、不正は許さないぞ、との気持ちが自然と沸き起こって来るのです。さて、そこでです。大河の流れは、もうその段階にはないのです。実にここが肝心なところですぞ、みなさん。なぜ今、長きに渡ってこれまで隠されて来た悪事が、世界中で、表に曝け出されるようになって来ているのか?

 

それは、隠れていた悪を叩け、やっつけろ、ということではないのです。そう主張している人たちもいますが、それをやったら元の木阿弥。今までと少しも変わらない。そうじゃないのです。これは人類に突きつけられたチャンスなのですぞ。彼らのことは放っておきなさい。あなた方が従わなければそれでいいこと。見抜く眼を養えばそれでいいこと。彼らにはちゃんと「カルマの法則」が適用されます。

 

第三次世界大戦の勃発を心配している方がおられますが、どんなに法律を変えようが、道徳教科書で愛国思想を植え付けようが、軍備を増強しようが、マスコミを使って危機を煽ろうが、従わなければいいだけのこと。無視すればいいだけのこと。いま言ったことを、しっかりと心に刻み込んで、民衆の意識がジャンプしてしまえば、もう戦前のような逆戻りは不可能なのです。よって大惨事(洒落だがね)はない!

 

権力者の手口は、もう充分に学んだのではないかな? そう同じ手に何度も引っ掛かっていては、学習効果というものが見られないねぇ。よいかね、敵なんてものはいないんだよ。恐怖なんてものはないんだよ。そんなものは全部、権力者が、他の人々を支配したい者が、未だ「分離」意識の虜になっている未熟な段階の「魂」が、考え出したことなんだよ。それは、壮大なる人類の洗脳システムなのだよ。

 

どうして、すべてを創造した「神」が、自分の内側に敵と味方を創る必要があるのかい? どうして、すべてを見通している「神」が、自分の中に恐怖を創って自分に味わわせる必要があるのかい? 自分で落とし穴を作って、自分で落ちて「あ、びっくり!」とでも言うのかい? そんなことは、少し考えれば解りそうなものじゃないかね。だから、目覚めるのだよ。彼らが存在するわけを、彼らから学ぶべきことは何かを、知りなさい。

 

いいかい、なぜ「闇」があると思う? 「闇」があるから「光」が「光」だと分かるのだよ。朝まだき、まだ暗い東の山の稜線がうっすらとオレンジ色に染まり、やがてそこから強い「光」を放つ太陽が昇って行く。「光」は「闇」から出るのだよ。「光」があるから「影」があり、「影」あるところ必ず「光」がある。両者は、敵対関係ではなく、補完関係にあるのだよ。

 

ここを間違ってはいけない。「悪」を叩いても「闇」は消えない。「悪」を叩くことは「善」ではなく、「悪」の上塗り、「悪」の応酬でしかない。ここを、人類は、今まで間違って来たのだよ。特に、一神教の名を借りた、善悪二元論に立つ宗教が、その強固な信念を、人々に植え付けて来てしまったのだよ。さあ、でももう目覚める時だ。大河は、もうそっちへ動いているよ。

 

悪事を働く者はいます。不正を働く者はいます。「闇」を正義だと誤解している者もいます。しかし、それらはすべて「神」の手の内にあるのです。悪事を働く者は、創造のふりをして破壊を行なっています。けれども、霊的世界はもっと深甚で、破壊をすることで実は創造を行なっているのです。インドでは、この役割をする神をシヴァ神と名づけました。

 

新しい家を建てるには、古い家を壊さなければなりません。破壊と創造はOneセットなのです。「闇」と「光」は、いつでもOneセットなのです。大切なのはこのバランス。そこで釈迦は、中庸、中道を説きました。中庸、中道と言うと、どっちつかずの妥協点のように思われるかも知れませんが、そうではありません。要は、陰陽のバランスをいいように取りなさいということです。

 

今はまだ、無明の(つまり未だ「光」を知らない)段階にある「魂」たちが、悪事を通じて破壊活動を行っています。けれども、人類がもっと進歩すれば、悪事を行うことなく、この破壊と創造のバランスを上手にコントロールしていけるようになるのです。誰もが中庸、中道を生きるようになるのです。いま悪事が噴出しているように見えるのは、この変化の大潮流が、すでに地球上で起こっていることを示しています。

 

そこで、あなた方にお願いしたいのは、悪事の裏側にあるこの本質に、今こそ気づいていただきたいということです。このチャンスに、一気にジャンプして欲しいのです。アセンションして欲しいのです。悪を叩いても、悪は決して無くなりません。悪を退治する唯一の方法は、そこに「光」を当てること。その貢献によって、長きに渡った人類のカルマを、今度こそ断ち切って欲しいのです。

 

これは、あなたの中に巣食う悪についても言えること。自分の中に「光」を当てて追い出すのです。

 

静寂の中に身を置き、全身が「光」に包まれる様子をイメージしてください。細胞の一つひとつにまで、じんわりと染み入るように。そして、大河の流れに逆らわぬよう、この流れに乗りなさい。流れを味方に付けなさい。乗って、あなたの白光を強めなさい。あなたがする心遣いや親切は、どんなものでもこの流れに貢献することになります。

 

なぜ「闇」があるのか。「闇」があるからこそ「光」が「光」だと分かるのです。今、みなさんが「闇」から学ぶべきことは、それです。ああ、「光」があることの有難さ、「光」のこの上ない暖かさ、そして「光」の全き愛。あなたも、全身「光」の人になってください。そして、この転換期にある地球を、あなたの「光」で照らしてください。それでバランスが実現され、人類が乗り切れるのですから。