by Rainbow School
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アフター・コロナを生き残る

人類が、未だかつて経験したことのない事態が、世界的規模で進行中です。COVID-19によるパンデミックはその始まりで、恐怖心を利用した情報統制が、世界を、これまでとはまったく違った形へと一気に変えました。この後、経済崩壊、金融崩壊、各国政府の財政破綻へと進み、中央銀行が管理するデジタル通貨(CBDC)制度への転換、世界政府樹立までのシナリオが予定通り実現されて行くのでしょう。

 

*因みに「Pandemic」の Pan とは、Pan-Pacific(環太平洋)といった使われ方をする時の Pan と同じで、All の意味です。地域限定の風土病を「Endemic」と言うのですが、それより拡大した規模を「Epidemic」と言うようになり、さらに世界規模の感染を「Pandemic」と言うようになりました。最近よく聞く「Epicenter」は、「Epidemic」の震源地という意味になります。

 

その観測気球はポロポロ出されていて、3月27日にはブラウン元英国首相が「世界政府」の設立を呼びかけましたし、7月23日には国連開発計画(UNDP)「臨時ベーシックインカム」の導入に言及した報告書を発表しています。

 

ワクチン開発に関して出てくるすばやい動きやニュースも、たぶんその一環なのでしょう。COVID-19のワクチン開発は変異が激しすぎてとうてい無理とか、出来たとしても長期間を要すると一方で言われながら、もう一方では早くも臨床試験を終えたワクチンがあるというんですから、変ですよねぇ。

 

*観測気球(trial balloon):アドバルーン発言と言われたりもします。本番をいきなり実行したのでは世論がついて来られないので、予備的にチョロチョロと情報を小出しにしては、人々の反応を見ながら世論を誘導して行く手法。ハリウッド映画も、その手段としてよく使われています。

 

WHO(世界保健機関)への拠出金割合(2018〜19年分のデータ)を見ますと、1位は米国の14.7%ですが、2位には9.8%でなんと「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」が名を連ねているのです。また8.4%で3位の「GAVIアライアンス」という団体。ワクチン債を発行して、貧しい国の子供たちに予防接種を行うプログラムを実行している機関とのことですが、この創立者は「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」で、しかも「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」が「GAVIアライアンス」に資金提供をしているのです。ということで、両者を合わせるとWHOの活動費の18.2%はビル&メリンダ夫妻によるもの。

 

これって、いったいどういうこと? 2019年10月18日には、ビル&メリンダ・ゲイツ財団、ジョンズ・ホプキンス健康安全保障センター、世界経済フォーラムの共催で『Event 201』という会議がニューヨークで開催され、18カ月以内に6500万人の死者を出すパンデミックが起き、世界経済は大混乱に陥り、政府に不信感を持った暴動が頻発するという詳細なシミュレーションが提出されました。これには、ご丁寧にも、メディアの役割も含めて「こうなるぞ」という解説ビデオまで作られているのですからね。いやはや、露骨。

 

「闇」はもう隠れてなんかいません。堂々と表に出て来て、今後の戦略まで公開している。彼らには最終章がもうハッキリと見えていて、表に出たところでもはや揺るがない、という絶対的な自信があるのでしょう。世界は、自分たちの計画通りに進行する。進行させる。大衆は、必ずや我々のシナリオ通りに従って動く。なぜなら、お馬鹿な家畜に過ぎないのだから。

 

恐怖心を起こさせて先ず人々を操り、次に改善のための一見よいと思われることを提案・実行しては世の中を変え、支配構造をさらに盤石なものにする。その際に、ちゃっかりと莫大なお金まで手にする。以上、一石三鳥が闇の支配者のセオリー。地球温暖化人為説も、見事にそのシナリオで動いている。みんなが、その一見〈よいこと〉を信じ込んでいる。戦争屋が人道支援を行い、病気を創り出している者が医療活動を行い、貧困を生み出している者が援助の手を差し延べる。それと同じだと言うのに。

 

でもね、こういうことをいくら言ったところで仕方がないんです。人類の大多数はそんな支配構造があるということを知らないわけだし、政府やマスコミの発表を何の疑いもなく信じちゃっているんですからね。

 

それに‥‥、人類支配の構図を知ることは(古代に遡ったり、聖書研究をすることを含めて)、「気づき」の本質とは関係がないんです。そこが真の「気づき」の到達点ではないんです。そういう人間支配の構図があるとして、なぜ宇宙は(「神」と言い換えてもいいですが)、それを許容しているのかということが、真の「気づき」への扉なんです。キリスト教の善悪二元論は、そこまで踏み込まず、2000年間、人々を気づかせないままに留め置いたのです。

 

とは言え、「世界政府」樹立と「人類削減、家畜化」へ向けて、いよいよその最終章が幕開けしたことは確実です。加えて、AI、5G、ブロックチェーン、ロボット化、ナノテクノロジー、遺伝子操作、エネルギー革命といった技術革新が急速に進展し、人類はリアルとバーチャルの両方で、かつてない変革の時代へと突入して行くことになるのでしょう。

 

さて、そうなった暁には、時代環境変化を冷静に、また長期的に見通す眼が何よりも重要になって来ます。時代の変化に、ただただ流されて行くのか、それとも抜き手でスイスイ泳ぎ切って行くのか。

 

来たるべき時代は、大破壊と大創造とが入れ替わるようにして進んで行きます。政府など、無能で信用できないことはもうハッキリしましたので、これからは自分で自分を救けるということをつねに念頭に置いて、暮らしていかなければなりません。

 

それが「闇の支配者」(もう「闇」では無くなって来たわけですが)のシナリオだとしても、時代の流れを、完全無視して生活することは出来ませんし、また巨大なうねりに逆らったところでどうにもなりません。ですから、「面従腹背」と言うか、「体は売っても魂までは売らないぞ!」という娼婦のような気持ちと言ったらいいか、その気概をしっかり持って生き抜いて行くしかありません。

 

そこで、来たる動乱の時代を迎えて、あなたが第一に考えるべきことは、何としてでも「生き残る」ということです。「生き残る」というのは、元来、生物に備わった自然な本能ですが、人間だけはちょっと違う。人間だけは、時に自分の意思で自分の「死」を選ぶことがある。それは、人間が本能だけで動いているのではなく、「生きる意味」を絶えず模索して生きている動物だからです。そこで、「生きる意味」がないと考えた場合、「死」を選ぶことも起こり得るのです。

 

ここで、何としてでも「生き残る」ということを、これからの第一目標に掲げたのは、別に「生物の本能に帰れ」と言っているわけではありません。すでに大脳が今のような進化を遂げた以上、本能だけに立ち帰ることは出来ません。

 

そうではなくて、「生き残る」ことで、この人類史上初の時代を、「体験」できる機会がそれだけ増すということが重要なのです。その機会を、あなたであるところの「魂」は、成長のチャンスに使うことが出来るのです。ですから、「生き残る」ことが重要と言っても、それを自己目的化して言っているわけではありません。

 

これは以前にも書きましたが、私が、もしも「殺すか、殺されるか」という場面に遭遇したとしたら、その時には躊躇なく「殺される」方を私は選びます。それは、その状況下での「体験」として、相手を「殺す」という選択肢が自分の中にないからです。輪廻転生のメカニズムも、カルマの働きも解っているからです。ですからその場合は、「生き残る」機会を、「殺される」体験として利用し尽くし、その人生をそこで終わりにしたということになります。

 

それと、次の点はとても重要なキモになりますので、繰り返し語っておきますが、あなた個人の「魂」の成長と、地球人類の行方がどうなるかということについては、直接的な関係は何もないのです。あなたは、地球環境の中で生活していますので、その環境変化の影響を当然ながら受けます。また、あなた個人の「魂」の成長は、微力と言えども、人類の集合意識に影響を与えます。しかしそうであっても、あなたの「魂」の成長と、人類の行方がどうなるかということについては何の関係もないのです。

 

言ってることが解りますか? 地球がどうなるかとか、人類がどうなるか、といったことは、「魂」的に見れば、すべてが流れゆく風景に過ぎないのです。言うなれば、バーチャルなビデオゲームを楽しんでいるようなものでしょうか。言い方を替えれば、あなたの周囲で起きている出来事は、すべて、あなたという個別の「魂」の成長機会として、スペシャルに提供されている「幻影」に過ぎないのです。

 

*同じ「幻影」は一つとしてなく、すべてがあなた仕様のオーダーメイドとして提供されているという点に注目してください。つまりそれは、あなたが自分で見たいものを見ているということに他ならないのです。たとえどんなに辛いことでも、苦しいことであっても。

 

ここに、どの「魂」に対しても等しい「神」の愛があるのです。とても、そうは思えないでしょうけど‥‥。すべての「魂」が、「神」にとってはスペシャルな存在なのですよ。ああ、なんて素晴らしいこと!

 

ですから、今後展開されるであろう「闇の支配者」の手になる壮大なシナリオ実行も、所詮は茶番劇なのです。要は、その茶番劇を、あなたという個別の「魂」がどのように活用させてもらうか、というだけの話なのです。

 

解ります? う〜ん、あまりに突飛すぎて、頭がクラクラして来たという方がおられるかも知れませんねぇ。でも「魂」の世界からしたら、そういうことなのです。ま、直ぐには受け容れ難いのは分かります。そういう方は、ここに記述したことをテーマに瞑想を行ってみてください。

 

今後も、機会あるごとに、このことは繰り返し語っていくつもりです。というのは、みんなすぐに忘れちゃうんですよ。この世は「幻」ということを。そして、目の前の事象の変化についつい眼を奪われてしまう。そうなると、時代変化の荒波に巻き込まれて、大勢の人と一緒に流されて行っちゃいますからね。でもね、ここが正念場ですぞ。波に呑まれてゆくか、波を泳ぎ切るかの。

 

もう、誰かの後を着いて行けばいいという時代は終わりです。自分の力で、先頭を、風を切って歩かないとね。支配者は、いつも恐怖を与えて人々をコントロールしようとして来ます。メディアはそれに加担し、恐怖を大げさに扱います。でもそれで、恐怖「心」を抱くかどうかは、一人ひとりが決めるのです。恐怖心を描くのは、あなたの「心」なんですから。あなたの支配下にある意識なのですから。

 

彼らの術中にはまってはダメです。。そう何度も何度も同じ手を食うかっての。その手は桑名の焼き蛤。いい加減に、彼らのパターンを見抜きましょうよ。冷静に観察して見れば、滑稽さが見えて来るよ。ゲラゲラ笑ってあげましょう。困ったちゃんなのは、「○○恐怖症」に陥ってしまうこと。この○○に、今度のコロナとか、放射線とか、テロとか、地震とか、失業とか、何でも当てはめられる。でもパターンはぜーんぶ一緒だから、このメカニズムをよ〜く頭に入れて、そうならないようにしてね。

 

誤解や認識不足がある中で、同じ恐怖について繰り返し吹き込まれていると、意識がそこに集中して、先ず過剰反応を起こすのです。この過剰反応による不安状態が、その後もずーっと続くと、心身のバランスがしだいに崩れていき、遂には病的状態にまで陥ってしまうのです。ですから、誤解や認識不足があるということと、恐怖を煽る繰り返し刺激に無防備に身を晒してしまう、という2点が「○○恐怖症」に陥るリスクを一段と高めるのです。

 

それを知った上でテレビ報道を見ると、肝心な情報はちっとも伝えずに、恐怖心を煽る情報のみを繰り返し流しているのが判るでしょう。それは、彼らの戦術なのです。人々を「○○恐怖症」に陥らせるための。もう、テレビや新聞はいっさい見ないことです。もはや百害あって一利なし。マスコミの時代は終わりました。マスコミ人たちは、自分たちでそのようにして信頼を低下させて行ったのですから、同情はできません。気概あるジャーナリストは、すでに独立メディアを立ち上げていますよ。

 

「信頼」は昨日今日で出来るものではありません。10年は掛かる。また、人がやることですから、誠実な人からしか「信頼」に足る情報は出て来ません。何が正確な情報で、何がきちんとした認識なのかを見極めることは難しいですが、自分で情報を取りに行って、少しずつ勘を養っていくしかありません。あとは、直感に聞く。そうやって、誤解や認識不足を修正して行けば、「○○恐怖症」に罹るリスクはグッと減ります。

 

その上で、これからすることになるであろう「体験」を生き抜くのです。

 

動乱の時代こそ、自分で積極的に動くことが大切です。待ちの姿勢でいては、流されてしまいます。自分から動けば、何ものかにコントロールされているのではなく、自分で自分をコントロールして生きているという認識に立てます。そうすれば、怖いものはありません。成功・失敗は気にしなくていい。失敗して「魂」の成長を果たし、成功してカルマを作る、なんてことはしょっちゅうある。むしろその方が多いくらいです。

 

「体験」と「認識」がすべてです。周囲の出来事は、すべてあなたのために用意された「幻」なのです。ですから、この「幻」の最終章を見事に生き抜いて、様々な「体験」を通して、あなたという「魂」の大いなる成長を果たしてください。

 

天はいつもあなたを見守り、応援しています。

若い魂2 ――「信念の人」からの卒業

あなた方、一人ひとりの「魂」は、みな等しく「一者なるもの」から分かれてこの宇宙に生じ、自由意志を与えられ、それぞれの冒険の旅に出発しました。そして、地上と我が家(Home = 霊界)との間を行ったり来たりしながら(つまりは輪廻転生を何度も繰り返しながら)、そのつど体験を深め、自己の「魂」の成長をちょっとずつ果たして、最後にはまた一者のもとに抱かれるという、長い長いプロセスの渦中に、あなたは今いるのです。

 

家出してまた元の家に還る。そこにどんな意味があるのかと、いぶかしく思われる方も少なくないでしょう。まさにそれは、人間がつねに考え続けて来た「生きる意味は何か?」ということと同義です。しかし、見逃してならないのは、この広大な宇宙に、同じ体験をする「魂」は一つもないという点です。実に、Amazing ! だとは思いませんか? ここにこそ価値がある。つまり、「一者なるもの」からすれば、自身をそれによってバージョンアップ出来るのです。

 

そしてあなたは、「一者」から分離したものであると同時に、「一者」そのものでもあるのです。

 

この「家出してまた家に還る」という旅のプロセスを、様々な観点から見ることが出来ます。「霊性密度」の上昇という面から説明することも出来ますし、中心的「意識」の変化という面から説明することも出来ますし、「知覚・感覚」の変化という面から説明することも出来ますし、「カルマ」からの脱却という面から説明することも出来ますし、宇宙的「愛への目覚め」という面から説明することも出来ますし、真の「智慧」の獲得という面から説明することも出来ます。

 

それらはみな、「魂」の成長プロセスにおける、別々の表れ方としてあるのです。しかし全部が同時に進行している。今日はその内の一つ、「智慧」の獲得という面から、「若い魂」の特徴を追って見ることにします。

 

宇宙に射出された「魂」が、地上に降りて最初にする学習、それは「信念の人」になることです。「自由意志」には本来、制約が掛けられていません。ところが、地上世界は何をするにも制限だらけ。時間に縛られ、空間に縛られ、物に縛られる。自分が思った通りになどならないのです。そこで人間は、この不自由極まりない世界を生き抜くための便宜策として、様々な「信念」を生み出し、これを鎧のように着て生きる道を、まず最初に選択するのです。

 

「信念」には、ザッと見回しただけでも、政治的信念、外交政策に関する信念、防衛に関する信念、民族に関する信念、宗教上の信念、教育に関する信念、倫理道徳に関する信念、善や正義に対する信念、といった硬いところから、豊かさに関する信念、幸福についての信念、お金にまつわる信念、出世や社会的成功に関する信念、人づきあいに関する信念、健康や病気に関する信念、美や体型に関する信念、果ては食事の仕方から何を食べたらいいのかまで、実に様々なものがあります。

 

もしも「信念」を何も持たないでいると、心は絶えずフラフラして一向に定まりません。人はそれでは不安ですので、「信念」という杖を欲するのです。結果的に(幼年期の惑星であるところの)地球は、多種多様な「信念」が交錯し、ぶつかり合う世界が、今こうして顕現しているのです。しかもそれだけではありません。地球では「あの人には信念がある」というのはお誉めの言葉の一つで、確固とした「信念」を持つことが貴ばれ、時にはそう指導されたり、強要されたりすることも少なくないのです。

 

ところが、「魂」の世界、また「智慧」の獲得という面から見ますと、「信念の人」となることは、「智慧」に関する学習のまだほんの出発点に過ぎないのです。それどころか、「信念の人」であることは、「智慧」への気づきがまだない状態、すなわち「無智」の状態にあるということなのです。釈迦が、人間にはいろいろと問題点があるけれども、その大元は、つまるところ「無智」にある、と言ったのはそのことを示しています。

 

ここで「智」という漢字を使ったのは、あえて「知識」と区別するためです。「知識」は「智慧」ではありません。どんなに「知識」を増やしても、「智慧」を獲得できるわけではありません。むしろ「知識」は、「信念」を育てる方向に働く場合が多い。ですから、知識は非常に豊富だけれども、「魂」的に見ると「無智」にあるという知識人はいっぱいいます。「智慧」というのは、「宇宙意識」と同調できる段階に至ったということであり、別に知識などなくても、そうなった人は「宇宙の叡智」をいつでも引き出せるのです。

 

「信念の人」は、自分の「信念」を、何の疑いもなく「自分の見解(My Opinion)」だと捉えています。ですが、そうではありません。それは、大抵はどこかにあったものから借用して来た論理です。その借り物の論理に自分を乗っけて、それを自分の見解だと錯覚しているのです。「信念の人」は、何も持たないでいること(素の状態でいること)に不安があるので、まだ自分の考えを持つには至っていません。そこで、借り物の論理を強固に信じることで、自分のアイデンティティを保とうとするのです。

 

こうした人たちにとっては、「My Opinion」など実は無かった、と気づかされることは大変な恐怖です。そこで恐怖心の強い人ほど、「攻撃は最大の防御」とばかり、自分の固定的観念を声高に主張します。そして、自分の「信念」とは相入れない考えを持つ人たちを、なんとか説得しようと試みたり、時には悪し様に罵ったり、ヘイトする気持ちをぶつけたりします。こうした態度が昂じて行くと、自分自身の内部に不寛容の種を育て、場合によっては、激しい狂気や暴力に向かわせることもあるのです。

 

今の世界が、まさにそうなっていることにお気づきでしょう。これは、地球人口に占める「若い魂」の割合が異常に増えた結果なのです。その多くの「魂」が、いま「信念の人」の学習途中にあります。そこへ、自己表現ツールとして「SNS」なるものが世界同時革命的にもたらされたものですから、多くの「魂」が、その影響や結果をあまり考えることなしに、その便利ツールに飛びつき、一斉に「ディスる」とか「ヘイト」するという形での「我が信念」の発露に向かうようになったのです。

 

しかも、「信念の人」の段階にあることは、知識の有無とは関係がありません。そこで、弁舌の立つ知識人が、「我が信念」の発露の先頭を切って、信者を集める状況が展開されています。

 

どっちが「保守本流」かという言い争いなどはその典型的なもので、左←→右のスケールのA地点が「保守本流」だと自認している人が、その色メガネで他者を見れば、Bにいる人はサヨクに見えますし、Cにいる人は右過ぎるということになってしまいます。そこで、両方を口撃し、我こそが正しく保守本流と主張するのです。

 

中には、自分は「これこれ、こういう立場の論客だ」と誇らしげに公言した上で、ものを語っている知識人もいます。そして、自分の色メガネを通らないものを見つけると、すぐに噛みついてはケシカランと言う。でもそれは、「自分は、偏見の狭い檻の中にいて、そこからしかものを見ないぞ!」と言っているのと同じじゃありませんか。結局、信者集めの宗教と一緒なんです。我が宗だけが正しくて、あとはみんな邪宗、邪教だと。馬鹿馬鹿しい限りです。

 

「信念」とは、かくも人を盲目にしてしまうものなのです。不毛な左右議論を延々と繰り返すのはやめて、どうして上を見ないのでしょうか?

 

三角形の頂点は「一つ」であるということに、どうして気づけないのでしょうか? 万教帰一。様々な教えも、その出どころはたった「一つ」ということに、どうして気づけないのでしょうか? ほんのちょっとの、その気づきが起これば、くだらぬ「信念」からは解放され、寛容の中に生きることが出来ますものに。ああ、残念。

 

いくど転生を繰り返しても、「信念」を手放すことの出来ない多くの「魂」。このカルマは、感情的なものよりもさらにタチが悪いのです。カルマの主な構成要因には、「解消できなかった思い(感情)」と、「信念(理性)」と、「行為の記憶(身体)」とがあります。「思い(感情)」のカルマは、一見すると最も手放しがたいように見えますが、ほんのちょっとしたきっかけや働きかけで、一瞬にして解消することがあります。

 

「思い(感情)」のカルマの場合、いま現在は苦しんだ状態にあります。ですから、そこから何とか脱したい、というモチベーションが働く。ところが、「信念(理性)」のカルマの場合は、「それが正しいんだ」と、自分がいま強く信じ込んでいる状態にあります。そうしますと、それを手放すことは、現在の自分のアイデンティティの崩壊に繋がってしまうのです。そこで、より強く抱えようとするのです。

 

エマニュエル・スウェデンボルグは、霊界を探索する研究(自分の意識を身体から離脱させて、実際に霊界の中に入って見てくる研究)の中で、多くの聖職者が「地獄」に落ちている姿を見ました。それは、その時代、キリスト教の二元論の価値観がヨーロッパを席巻していたので、スウェデンボルグもそこを「地獄」と表現したのですが、20世紀になって、ロバート・モンローは数多くの被験者を用いた実験を通じ、霊界にある、かつて「地獄」と呼ばれていたその領域を「信念体系領域」と名づけ直したのです。

 

*第四霊性密度の階層、中有界に同じ。

 

これは、実に画期的な研究成果でした。そして、「信念体系領域」の中を、「信念」の強さの度合いによって、さらに階層分類化したのです。宗教的信念はその領域内に位置しており、そこが、かつての「地獄」に他ならなかったのです。早い話が、「地獄」など無かったのです。それは宗教上の脅しのために作られた絵物語に過ぎず、問題は「信念」にあったのです。「信念」に縛られ続けている状態を「地獄」と呼べば「地獄」。ですが、それは罰で落とされたのではなく、自ら好んで行った場所だったのです。

 

ここで、何を言いたいかと言いますと、「信念」こそが、人の霊的成長を阻む最大要因であるということです。にも関わらず、人々はそれを全く知らないし、宗教者ですら解ってはいない。そして、むしろ逆方向をせっせと邁進している。悲しいかな、これが今の現実です。現世界の姿だということです。

 

一つの「信念」を強固に持てば、他の「信念」と相入れなくなってしまうのは当然でしょう。そうなれば、「信念」と「信念」とのぶつかり合いとなる。このような簡単な理屈も今の地球人には解らないのです。多様な「信念」が、あっちからもこっちからもまるで光線銃を発したように飛び交っては火花を散らす。そうした極めてノイジーな世界に、我々は生きているのです。しかしそれが、ごく当たり前の日常風景であるために、あまりにも当たり前すぎて、様々な「信念」体系の中に置かれているという自覚がほとんどない。

 

今の時代に、なぜこれほどまで心を病む人が多いのか言いますと、これらの「信念」体系に〈自分も合致して生きなければならない〉という圧力が、暗黙のうちに社会に染み渡っているからです。とりわけ、日本の社会は同調圧力が強い。社会が提示する「信念」体系に、もしも合致できなければ、自分は社会からつまはじきにされてしまう。でも内なる声は、「なにか違うよ」「そんなの嫌だ」と言う。この葛藤に苛まれた人たちが、鬱や不安神経症やパニック障害に陥っているのです。

 

ある意味、自分に正直である人たちが、心の病を引き起こしている。言い換えれば、「魂」の旅の次のステージへ進む可能性のある人が、心の病に罹るのです。なぜなら、何の疑問も持たずに、社会の「信念」体系に従順に従う生き方を選ぶ人が世の中のマジョリティだからです。そこでは、疑問を抱くような人は常に異端であり「社会不適合者」と見なされる。そして、一度そのようなレッテルが貼られると、自分でもそうだと思い込むようになって行くのです。

 

ここで思い浮かべるのは、炎の画家ゴッホのこと。彼は初めの頃、聖職者の道を歩もうとしていました。けれども、伝道師として赴任した炭鉱町で、貧しい農民たちにあまりにも深く、かつ過激に救済の情を示したため、教会からクビにされてしまうのです。その失意の中で、ゴッホは絵を描くことに喜びを見い出そうとするのですが、描いても描いても売れることがありません。ゴッホの絵は、絵画の世界でも異端だったのです。ただ一人、弟のテオ以外には誰も理解者がいませんでした。

 

一時期、ポール・ゴーギャンという知己を得て、共同生活を営むのですが、そのゴーギャンに去られた時、ゴッホは自分の耳を削ぐという自傷行為に及び、とうとう精神病院に入れられてしまうのです。

 

ゴッホの作品に『星月夜』という一枚があります。彼はなぜ、月や星や糸杉をあのようにうねる形に描いたのでしょうか?

 

これは知られていないことですが、彼の眼には実際にそのように見えたのです。エネルギーの渦がほとばしっているのが彼には見えた。それは、草間彌生さんの眼に水玉が見えるのと一緒です。でもそれを解ってくれる人が、周囲には誰もいなかったのです。

 

草間彌生さんも、若い時分には変人扱いされずいぶんと叩かれました。でも今は巨匠ですから、叩く人はいません。人の評価など勝手なもので、力のない時には異端のレッテルを貼ってコキ下ろし、権威になったら途端にヘイコラする。芸術と言ったって、大半の人は権威と絵の値段にしか興味がありません。しかし、世の中というのは、そういうものですから致し方ありません。ゴッホは生前に「権威」になれないまま37歳でこの世を去り、弟のテオもその半年後に亡くなります。二つの「魂」は、ツインソウルでした。

 

みなさんに、改めて強調しておきたいのは、(それが宇宙の理に適っている限り)何をするのも「自由」だということです。生きる上で「自由」ほど貴いものはありません。それが「魂」の本質だからです。「自由」を追求してこそ、本源に還れるのです。けれども、「自由」を許さず、他者にも自分にも制限を加えることに熱心な人たちが、この世界には大勢います。というよりも、そういう人たちが今の社会のリーダーになっている。彼らは「信念」に捕えられたままの人たちなのです。先ずは、そのことを知ってください。

 

もしあなたが、他者の言動に「怒り」を覚えたとしたら、それはその人の「信念」と、あなたの「信念」が衝突した時なのです。ですから、そのような時には、自分の「信念」を検証するチャンスにそれを使わせてもらいましょう。あなたの「怒り」の奥には、どんな「信念」が眠っていたのでしょうか? それはどこからやって来て、いつの時点で自分の中に取り入れることになったのでしょうか? そして、その「信念」は、手放すことが出来ない性質のものなのでしょうか?

 

「信念」と「信念」を闘わせたら、暴力装置を持っている者が最後は勝ってしまいます。万が一ひっくり返すことが出来たとしても、それでは、以前の「信念」を別の「信念」で置き換えただけのことです。あなたが目指すべきステージは、そこではありません。「信念」そのものを捨てること。「信念の人」という学習段階からの卒業なのです。その段階を卒業してこそ、次の扉が開かれる。輪廻転生の長い長い旅路の中で、出来るだけ早く、その第一段階を駆け抜けることが、あなたに「アセンション」への切符を手渡します。

 

しかしその先も、まだまだ長い。「信念の人」の段階を終えたあなたは、次に「学ぶ人」へと進級します。自分は、なんと「無智」だったのかと悟るのです。「信念」を杖に、何か解ったような気になっていたけれど、実は何も知らなかった。宇宙とは何か。存在とは何か。生命とは何か。生きる意味とは何か。死とは何か。死ぬとどうなるのか。自分は誰なのか。どこから来てどこへ行くのか。肝心なことを何一つ知らないまま、それでも生きて来た自分に気づく。そして、あなたは次の「学ぶ人」になる。

 

あなたは猛勉強を始め、本を読んだり、インターネットの記事を読んだり、セミナーに出たり、人と会ったりします。そうやって、何年もの学習期間を経て、ようやく気づくのです。外からやって来る情報をいくら仕入れたところで、崇高な感覚に目覚めることなどないんだ、と。こんなことを続けていてもダメだ。これではラチが明かない。そう悟って、それまでの一切合切を投げ捨てた時、次のステージへの扉が開くのです。

 

あなたは、「学ぶ人」から「神秘に目覚める人」へと進む。あなたの関心は、外側にある情報から、我が内なる師へと移って行ます。そして、ついに悟る。なんだ、こんなところに最初からあったんだ、と。必死になってグルを追い求める必要などなかったんだと。自分自身がマスターだったんだと。こうして、あなたは最終段階である「叡智の人」になる。これが目覚め(Buddha)だ。知識人は、知識は豊富だけれども、真実を何も知らない人。しかし賢者は、知識はなくとも、絶対の真実を知る人です。

 

というわけで、道のりは非常に遠い。しかし、遠いようでいて、案外近い。なぜなら、それは、元々あなたの中にあったものだから。それさえ見い出せれば、100回も200回も転生することなく、今世1回で劇的な進歩を遂げる可能性もある。というのも、これから、世の中が何もかもひっくり返るからです。「信念」を支えて来た基盤そのものが瓦解してしまう。液状化した地面の上では、もはやどんな「杖」も役には立たないのです。これから先、「信念」を持つ人は「信念」を持つがゆえに、かえって苦しみに喘ぐことになるでしょう。

 

さてあなたは、「智」の学習プロセスの、今どの段階に来ているでしょうか?

 

社会が提示する「信念」、学校が教える「信念」、知識人が語る「信念」、宗教家が指導する「信念」、親が吹き込む「信念」、これらにいちいち付き合い、自分を合わせて生きる必要など全くない。あなたの「魂」は本来的に自由だ。ですから、自信を持って、伸び伸びと生きなさい。あなたの理解者はここにいる。なぜって、あなたはわたしの子なのだから。

 

襲ってくる「信念」の嵐はどこ吹く風と受け流し、あなた自身の「信念」を、一つ、また一つと捨てていけば、もっともっと楽に生きられます。でもこの言葉を、逃げ道に使ってはいけないよ。「腐った社会」に適合しようと、ムリして生きる必要はない。それはその通り。でも、それを分かった上で、「腐った社会」を〈生き抜く力強さ〉を身につけるんだ。「智慧」はそのためにある。

 

そしてさらに、この「腐った社会」を、「明るく楽しい、希望に満ち溢れた社会」へと変えて行くんだよ。あなたのハートの崇高なバイブレーションによって。

 

逃げるのではなく、闘うのでもなく、他者を馬鹿にしたり驕ることもなく、淡々と、あなたの「自由」を生きなさい。「自由」を謳歌しなさい。そして、未だ「信念の人」の学習段階にある多くの「若い魂」たちに、慈しみの目を向けてあげなさい。彼らが、早く気づいてくれますように。

7月の『瞑想クラブ』中止のお知らせ

7月26日(日曜)に予定しておりました『瞑想クラブ』は、東京のコロナウィルス感染状況の終息が見えないため、中止することにいたしました。参加を予定してみなさんにはがっかりさせてしまい申し訳ありません。なお、8月、9月につきましては、状況を見てまた判断させていただきます。みなさま、どうぞご自愛ください。

クリント・イーストウッド監督の『HEREAFTER』

「死後の世界」の真実を知る者たちの邂逅

 

クリント・イーストウッド監督は、私の憧れの人です。1930年生まれの御年90歳でありながら、今も精力的に映画を作り、質の高い作品をコンスタントに生み出し続けています。

 

つねに新しいテーマに挑戦し、学習し続けている姿勢。穏やかな物腰、真摯さを失わない態度、そして茶目っ気とユーモア。老いを隠そうとはせず、自然に振る舞い、静かに語るその姿。頬の縦ジワと涼やかな眼の奥には、気高い「魂」が鎮座しているのが見えます。イーストウッドこそは、映画界に出現した「賢人(Wizard)」です。

 

*「魔法使い」と訳されることが多い英語の「wizard」。これは「wise(賢い)」に「大いに…する者」の接尾辞であるところの「- ard」が結びついた言葉で、「wise man」と同等の意味をそこに含んでいます。

 

でも、そんなイーストウッドも、最初から「賢人」であったわけではありません。「賢人」としての素養を、後に開花させたのです。下積み時代にはそれなりの苦労をし、多くの女性と浮き名を流したこともあります。俳優としてマカロニ・ウェスタンと『ダーティ・ハリー』で成功をつかんだ後に監督業に進出しましたが、当初はトラブル続きだったようです。けれども、1992年の『許されざる者』でオスカーを受賞。その後は作品の質も安定するようになり、今では業界関係者の誰もが敬愛する名映画監督となりました。

 

特に、俳優陣からの信頼は厚く、多くの俳優が、監督からのオファーを心待ちにしています。それは、イーストウッド監督が俳優出身だからという理由もあるのですが、どうやら独特の演出法の虜に全員がなってしまうようです。イーストウッド監督は、撮影でリハーサルをしないというのです。役について、演じる俳優と事前の話し合いは持つようですが、現場に行ったら完全に俳優まかせ。しかも、ほとんどファースト・テイクで撮り終えてしまうというのですから。

 

これを聞くと、日本の巨匠たちの演出法とは余りにも違うので驚きます。小津安二郎監督は、俳優をロボットのように動かしました。例えば、物憂げな表情と仕草を表現したい時に、小道具にリボンテープを用意して、指に巻きつける動作を右巻きに何回、そのあと左巻きに何回、そしてまた右巻きを何回と指定し、それが淀みなく見えるまで十数回ものテイクを繰り返しました。小津は、シンメトリーや相似形の構図に極端にこだわり、その絵の中に、俳優を嵌め込もうとしたのです。それが小津安二郎の美学でした。

 

また天皇と呼ばれた黒澤明は、現場でスタッフ・キャストを容赦なく怒鳴りまくって、自分の思い通りに従えるという方法を取りました。溝口健二は、リハーサルを徹底して行って、俳優には「違う」と言う以外、他に何も言いませんでした。そうやって何十回とやらせる中で、俳優を心理的にトコトン追い詰めて行き、役が憑依するまでカメラを回さずに何日も待つという方法を取ったのです。まあ、そういう時代だったんでしょうけれど、現場で威張って君臨しているというのが、日本映画の「巨匠」の条件だったのです。

 

クリント・イーストウッド監督が、どうしてそのような演出法に至ったかというと、自身が俳優だったので、俳優の心理がよく分かるということが一つ。リハーサルを何回もやったら疲れるし、最初のパッションが消えて、役を「演じる」ようになっていってしまう。それは、彼としては嫌いなのです。

 

それともう一つは、彼の口ぐせに秘密がある。イーストウッド監督は、「頭で考えるな、自分の内に聞け」ということをしょっちゅう語っています。あれ?、どこかで聞いたことがあるとは思いませんか? そう、彼は知っている。イーストウッドは、映画界に現れた「賢者」なのです。

 

そして、今回取り上げる映画の『HEREAFTER』(2010年公開)。タイトル名は「ここから後」ということで、これは「来世」という意味なんだそうです。しかし映画を観ますと、「来世」というよりも、むしろ死後の世界、つまり「今世」と「来世」との間の「中間世(生)」を扱った話になっています。英語の「hereafter」には、たぶん〈死んだ後〉という漠然としたニュアンスがあるのでしょう。

 

イーストウッド監督の映画はそのほとんどを観ていますが、『HEREAFTER』を観たのは今度の自粛期間中で、長らくその存在を知りませんでした。それもそのはず、2011年の公開時に3.11が起き、この映画の中にある津波シーンが問題視され、途中で公開が打ち切られていたというのです。ところが、この5月にたまたまこれを観てびっくりし、知人に紹介しようと思っていたところ、同じ自粛期間中に『HEREAFTER』を観たという人が、他に何人もいたのを知ってさらにびっくりでした。

 

さて、映画ですが、クリント・イーストウッド監督が、こんな際どい作品を撮っていたということに、先ずは驚かされました。時代が変わったと言いましょうか。一昔前ならば、これはキチガイとか変人のレッテルを貼られかねないような題材です。『死ぬ瞬間』を書いたエリザベス・キューブラー・ロスは、実際にもの凄い迫害に遭ったんですからね。それが今は、マット・デイモン主演で、ハリウッド映画として作られているのです。

 

*『HEREAFTER』には、ロス博士をモデルにしたと思われる「臨死」研究者の女性医師も登場します。

 

しかもアメリカは、今なお75パーセントがキリスト教徒ですから、明らかにキリスト教の教義に反しているこのような映画を、堂々と作ったということにも驚きです。時代は確実に変化しています。古くさい宗教教義と奇跡話にはもう納得いかず、「真実」を知りたいと思う人が増えているのでしょう。それに応えて、「真実」を語る人も世界同時に出現している。ということに大いに勇気づけられました。ということで、今日は、私から見た『HEREAFTER』の解説です。

 

考えてみれば、クリント・イーストウッド監督がこのような題材に手を染めることについては、何の不思議もないのです。というのは、「頭で考えるな、自分の内に聞け」という口ぐせが彼の口から出るのも、彼が40年以上に渡る瞑想習慣によって掴んだ自身の「感覚」に基づいた言葉だからです。

 

クリント・イーストウッド監督が「瞑想」を習慣にしているということを私が知ったのは、つい最近のことです。しかしそれが分かった時、私は「なるほど!」と膝を打ちました。ここ数十年のイーストウッド作品に、一貫して流れているテーマの根っ子が解ったからです。イーストウッド作品が一貫して語って来たことは、この世には「ヒーロー」など何処にもいないということです。

 

映画ですから「主人公」というのは当然いる。でも、その主人公は決して「ヒーロー」などではないということ。その人物を「ヒーロー」にしてしまうのは、メディアや、周囲の人間たちの身勝手な願望なのです。イーストウッド映画の主人公たちは、みな自分の内面から湧き上がるもの(それは「真我」の声なのですが)に、ただ忠実であろうとして行動しただけなのです。

 

しかし人々は、その結果だけを見て、そこに「正義」や「信念」を見い出し(要は、自分の正義感や信念を投影し)、「ヒーロー」に仕立て上げようとするのです。しかしこれは、危険な衝動です。その衝動が、もしも逆に働けば、同じ人間を、今度は「断罪すべき人間」に仕立て上げてしまうことになります。『父親たちの星条旗』も、『ハドソン川の奇跡』も、『リチャード・ジュエル』も、みなその残酷さを描いている。

 

世の中には、我が内なる声(真我)に忠実に生きようとする少数の人間と、声を無視して、世間的価値観やエゴの衝動に生きようとする圧倒的な多数者とがいます。数だけを見たら、内なる声に忠実に生きようとする者は、ひっそりと隠れるようにして生きるか、または絶えず世間の動向に翻弄され、ある時には阻害され、またある時には非難や断罪を受けて生きるしかありません。

 

アメリカン・スナイパー』や『チェンジリング』では、世間や社会に翻弄されてしまう人物が描かれていますし、FBI長官だったフーヴァーの生涯を描いた『J・エドガー』では、内なる声にあらがって生きようとした人間の、尊大さの裏に隠された小心さが表現されています。かと思えば、『グラン・トリノ』や『15時17分、パリ行き』のように、周囲の雑音を無視して生きる力強さが示された作品もあります。『HEREAFTER』は、その極めつけかも知れません。

 

『HEREAFTER』は、互いに何の接点もない3人の物語が、入れ替わりで進行していきます。たぶん多くの人が戸惑うと思うのですが、この形式はずいぶん後まで続き、最後の20分になってからやっと3人の物語が一つになる。しかしここで、俄然この形式が効いて来るのです。最後になって繋がるというところに、この映画の隠れた主題が表現されています。つまり、一見、何の接点もないと思われた状況の奥に、実は最初から互いを引き寄せ合う糸が存在していたということです。

 

3人の人物の一人めは、フランス在住の女性ジャーナリスト、マリー・ルレ。彼女はテレビ局のニュース報道でキャスターを勤めているという花形です。二人めは、イギリスはロンドンに住むマーカス少年。彼にはジェイソンという双子の兄がいるのですが、父親はおらず、母親はヘロイン中毒で育児放棄という悲惨な家庭環境にいます。三人めはアメリカ人のジョージで、彼には「霊能者」としての特異な才能があったのですが、それを封印して、今は工場でフォークリフトを運転する職に就いています。

 

やがて、3人それぞれに転機が訪れます。マリーは、休暇で訪れた東南アジアのリゾート地で、運悪く、スマトラ島沖地震で発生したあの大津波に呑み込まれてしまうのです。幸いにも彼女は救い上げられるのですが、人工呼吸を施しても意識が戻りません。しかし、救助した人がもうダメかとあきらめた時、奇跡的にも彼女は息を吹き返すのです。その間、マリーは、いわゆる「臨死体験」のビジョンの中にいたのでした。

 

奇跡の生還を果たし、フランスに戻ったマリーは、一躍「時の人」となります。回復期を経て、彼女はテレビの仕事に復帰しようとするのですが、もう以前のようには上手くいかなくなってしまいます。ディレクターからは休養を言い渡され、ではその間にミッテラン大統領に関する本を書き上げようと出版社と契約をするのですが、いざやろうとすると、どうしても身が入らない。あの時の「臨死体験」のことばかりが脳裏に浮かび、あれは何だったのかと、確かめたい欲求に次第に駆られていくのです。

 

マーカス少年のところには、窮状を見かねて福祉局の職員がしょっちゅうやって来ます。しかし兄弟は、母親がなんとか自力で更生してくれることを望んでいます。ある日、母親はついにそうした日々から脱け出そうと決心し、中毒を中和させる薬を買いに行ってくれるようマーカスに頼むのです。兄弟としてはやっと希望が見えた瞬間です。しかし、その日の宿題をまだ終えていないマーカスを気遣った兄は、代わりに自分が行くことを申し出るのです。

 

ところが、ジェイソンは薬局を出た後で不良少年たちに取り囲まれ、それを振り切ろうと道路に飛び出したところを、クルマに跳ねられ即死してしまうのです。まったくもって理不尽な死です。希望が見えた矢先の兄の死。不良少年たちが現れたことも、クルマがぶつかって来ることも予想はできなかった。マーカス少年にしてみれば、兄は、自分の身代わりになったようなものです。どうして自分ではなくて兄だったのか。この偶然の重なりにどんな意味があるのか。彼は猛然とそれを知りたくなるのです。

 

ジョージは、幼い頃に患った病気の高熱とその時の手術がもとで、回復した後に優れた霊能力を発揮するようになります。そして一時期は、愛する人を失って悲しむ人のために、亡くなった霊と交信する仕事をしていたのですが、今ではすっかり足を洗っています。それは、誰かの手にちょっとでも触れた途端、「見えてしまう」自分に疲れ切ってしまったからでした。

 

何でも「見えてしまう」ということは、相手の傷や、痛みや、触れられたくない部分をも抉り出し、そこにジョージ自身を付き合わせることになってしまいます。そうなれば、もはや普通の人間関係を営むことなど出来ません。恋人も出来ずに、孤独の中で生活するしかないのです。ジョージにとっては、霊能などを持ってしまったことは、もはや呪いでしかなく、彼は誰にも注目されることなく、ひっそりと生きたいのでした。

 

ところが、不景気の煽りを受けて、独身であった彼はリストラ対象者に入れられてしまいます。すると、それを聞きつけた兄が、また霊能者の仕事に復帰すればいいじゃないかと近寄って来るのです。彼は、弟の苦悩などつゆ知らず、また一儲けしようと企むのです。そして勝手にクライアントを見つけて来ては、嫌がる弟に交信をさせるのでした。久々に、仕方なくやってみたジョージでしたが、兄やクライアントたちの身勝手さを見て、やっぱり嫌気が刺してしまうのでした。

 

この3人は、表面的なそれぞれの問題とは別に、みな共通した苦しみ(「悲しみ」と言った方が適切でしょうか)を抱えています。それは、周囲に「理解者がいない」ということです。マリーは、「臨死体験」以降、政治やジャーナリズムに対する興味を急速に失って行きます。そんなことよりも、彼女にとっては、「臨死体験」の意味を追究することの方がよほど重要な課題になるのです。しかし、周囲の者たちは、現実離れしていくマリーを次第に厄介者扱いするようになります。

 

マーカス少年に対しては、「保護」という観点から、その道の大人たちが親切心を発揮して接して来るのですが、マーカスが求めているのは、そんなことではないのです。彼は、なぜ兄が自分の身代わりとして死ぬことになり、自分は生かされる運命になったのか。その理由が知りたいのです。ジョージはジョージで、なぜ自分が「霊能」など持つに至ってしまったのか。その厄介さからもう逃れたいのに、いつまでも追いかけられてしまうという苦悩を背負っています。

 

その3人が、最後にロンドンで出逢うことになるのですが、ここでイギリスという場所が意味を持って来るのです。イギリスは心霊主義(オカルティズム)の本場で、古くから降霊会などが盛んに行われて来ました。その過程で、1970年くらいまでは『シルバーバーチ』や『ホワイトイーグル』を始めとした優れたメッセージが数多く降ろされていたのですが、70年代に入ると、新しいムーブメント(いわゆる「ニューエイジ」の台頭)はアメリカに移ったのです。その結果、イギリスの霊的進歩はそこで止まり、古いオカルティズムの伝統だけが残ったのです。

 

真実をどうしても知りたいマーカス少年は、「霊能者」に狙いを定めます。そしてあちこちを探し回るのですが、残念ながら、出逢うのはインチキ霊能者ばかり。この辺りの事情は、たぶんどこの国も違わないのでしょう。しかもインチキ霊能者の方が、大勢の人々を集めている。これは、お互いの波長が合うためです。求めているものと、与えるものとがピッタリ合う。

 

ピラミッドの三角形は、下へ行くほど底辺が広く、上へ行くほど底辺は狭い。ですから、この状況を嘆いても仕方がありません。人間とは、所詮そういうものだということです。

 

こと霊的学習に限らず、あらゆる学習において言えることなのですが、人は、今の自分の学習段階から、飛び抜けて上のものを一挙に受け取るということは出来ません。ほんのちょっとの上にしか、気づくことはないのです。ですから、倦まず弛まず日々努力することが大切なのですし、解る人には解るものだし、解らない人には解らないのです。

 

さてそうして、マーカス少年は、最後の最後になって、やっとジョージという本物に出逢えることになります。本物は、イギリスではなくアメリカからやって来たのです。ここで、マーカス少年が、インチキ霊能者に捕まらなかったという点が重要です。彼には波長が合わなかった。言い換えれば、マーカス少年には、本物とニセモノを見抜く力が備わっていたということになります。そしてこれが、「えっ?」というラストの伏線になっているのです。

 

その結末はお楽しみとして、全体を振り返れば、この3人は出逢うべくして出逢ったと言えます。そうして、初めて互いに「理解者」を得た。この3人にとっては、お互いに喜ばしい結末となったのですが、しかし別の見方をすると、「解る人」というのは最初から決まっていて、解らない人には解らないという状況はやはり変わらないのだ、とも読めるのです。すると、あんまりハッピーエンドでもないのかなぁと‥‥。

 

最後に、マーカス少年がジョージから知らされた交信の、普遍的意味について言及しておきます。

 

身近な人の「理不尽な死」というものに出会われた方は、決して少なくないと思います。しかし、そのような「理不尽な死」にも必ず「意味」があるということです。「亡くなった意味」ということを言っているのではありません。人は、亡くなった意味を知りたいと思うものですが、霊的な観点から言えば、生き死にというのは、それほど大きな問題ではないのです。これを納得するのはなかなか難しいとは思いますが、理由は簡単で、霊魂は不滅だからです。

 

「意味」というのは、周囲の人にとって意味があるということです。〈意味を見い出せる〉と言った方がよいかも知れません。人間は、関係性の中に生きています。ですから、身近な人の「理不尽な死」という出来事も、周囲の人たちにとっては、その人からのメッセージの一つなのです。周囲の人たちは、その「理不尽な死」から、自分に向けられたどのようなメッセージでも引き出すことが出来ます。別に霊能者の助けを借りなくても、感じればいいだけなのですから。

 

そして、亡くなった人というのは、まさしく、そのメッセージのスイッチを押すために亡くなったのです。それが、今世での最後の役割だったのです。この映画を観れば、それが解るはずです。ですから、愛する人を失っても、いつまでもメソメソしていてはいけません。自分に向けられたメッセージをしっかり受け取って、新たな気づきを得て成長を果たし、次の段階へと力強く歩み出すことが大切です。

 

また、それこそが、先に亡くなった人の願いなのですから。

若い魂

宇宙の計画では、地球はまもなく「幼年期の惑星」としての役割を終えます。そして次元上昇(Ascension)を果たすのです。その完了までは、(あるチャンネルの情報によると)300年ほど掛かると言われています。しかし、様々なメッセージが、みな共通して語っているように、それまでの旧い秩序、旧い考え方、旧い社会システムが、ことごとく崩壊する過程を、人類はこれから共通体験しなければならないのです。

 

これは、旧来の秩序や考え方をどうしても維持し続けたいと考える人々にとっては、耐え難い苦痛をもたらすものになるかも知れません。ですが、何度も言って来たように、この過程は陣痛に喩えられ、新たな希望をもたらすものでもあるのです。同じ敷地に新しい家を建てるためには、旧い家は取り壊さなければなりません。これをしっかり頭に入れて、明るい希望を絶えずイメージしながら、今を乗り切って行ってください。

 

地球人口は、1900年には15億人ほどだったものが、1950年には25億人、そして現在は70億人を突破しています。日本の人口は減少する一方ですし、数字を見ただけではピンと来ませんが、グラフで見ると、まさに「人口爆発」と形容するしかないような急激な膨張カーブを描いていることが分かります。「人口爆発」現象の原因についてはひとまず置いて、これを「魂」的に見たとき、そこにはどんな意味があるのでしょう。

 

「魂」の世界から見れば、身体は乗り物です。乗り物の数が爆発的に増えているということは、そこに乗っかる「魂」も、また同じだけ増えているという勘定になります。つまり、同時代を生きる「魂」が爆発的に増加しているのです。ン? まったくワケがわからないですよね。一体どういうことなのでしょうか。これは、輪廻転生のサイクルがどんどん短くなって来ているということが一つ。それともう一つは、誕生したての「若い魂」が増えているのです。

 

転生サイクルが短くなっていることの大きな理由は、近年になるほど、一つの人生で体験できる要素が格段に増えたからです。時代を遡るほど、100年、200年と経過したところで、社会はそれほど大きく変わることがない。すると、仮に200年後に転生して来たとしても、直前の前世とまったく異なった新しい体験が出来る可能性に乏しいのです。そこで、古い時代には、新しい体験をするために、転生期間を大きく空ける必要があったのです。

 

しかし今は、社会変化のスピードに加速度が付き、昔なら100年で起きたようなことが50年で起き、50年で起きたことが30年に、30年で起きたことが10年で起きるといった具合で、激変の度合いがどんどん増しています。そうしますと、死後ほどなくして転生したとしても、前世とはまったく違った新しい社会が体験できます。そのようなことで、転生サイクルも加速度的に短くなって来て、それが人口増に影響しているのです。

 

けれども、これだけでは乗り物の爆発的増加に対して、まだまだ「魂」の数が足りません。結局その分は、宇宙に誕生して間もない「魂」が、大挙して地球に押し掛けるという現象によって補完しているのです。したがって、70億人の中には、地球人人生がまだ数回しかないという、非常に「若い魂」も大量に含まれ、彼らが今の「人口爆発」のマジョリティを形成しているのです。

 

「若い魂」が大挙して押し掛けている理由は、もちろんこの激動の時代(「動乱の時代」と言った方がいいくらいですが)を体験するためです。今度の「地球のアセンション」は、宇宙の中でも滅多にない出来事です。「魂」たちからすれば、激動の時代だからこそ、体験できることの幅も深さも大きい。言い換えれば、一回の人生で、何生分もの体験を、いちどきに通過できるというまたと無いチャンスなのです。

 

ここで、注意していただきたいことがあります。先ず、「若い魂」の「若い」ということですが、これを実年齢と混同しないようにしてください。「若い魂」というのは、あくまで転生回数が少ないという意味です。「若い魂」であっても、今現在の実年齢は、赤ちゃんからお年寄りまで幅広い年代がいます。また、転生回数が少ないと言っても、地球時間では数百年から一千年くらいの時代の、その時々を生きて来た体験を持っています。宇宙の時は悠久ですから、地球時間とは感覚が違うのです。

 

さて、「若い魂」たちが非常に多いということは、どんな傾向を社会にもたらすことになるでしょうか? 「若い」ということは、「魂」の旅の〈初期段階〉を経験したがっているということです。早い話が、地上世界に出て来て、思いっ切りヤンチャをしてみたいのです。父母の庇護のもとから離れて、家出したばかりの少年少女のようなものです。現代社会は、そういう、「魂」の〈初期段階〉にある人間たちが集まってマジョリティを構成しているのです。

 

一方、転生回数は相当数に上るものの、成長の極めて遅い「魂」たちがいます。成長が遅いということは、同じカルマを何度も繰り返しているということです。非常に執念深いのです。カルマの真因は、解消できないこだわりであり、その元にあるのはエゴです。ですから、成長の遅い「魂」というのは、言い換えれば「エゴ」のベテラン化した「魂」たちです。

 

この「エゴ」のベテランの「魂」に、ヤンチャ盛りの「若い魂」たちが呼応して(つまり同種の波動が互いに引き合って)、今の社会が、そして世界が現出しているのです。ですから、今の世界はメチャクチャなのです。人々が「現実」と呼ぶこの世界は、人々の「心」の総和が形となって現れたものです。その「心」の根っこにあるのは、結局は「魂」だからです。

 

地球は、いまだ「幼年期」にある惑星です。以前にも書きましたが、ここは「幼稚園」なんだと思って見れば、今の人間の行動が理解できます。他の人々を自分の思い通りに動かしたいジャイアンのような暴君がいて、それにゴマを擦って取り立ててもらう輩や、パシリとなって仲間にしてもらおうとする者や、言いなりになってコキ使われてしまう人々や、イジメられたり路上に放り出されたりする人もいる。地球人の人間社会というのは、このレベルです。

 

選挙で選ばれて国会議員になり、法務大臣の椅子に座った人間が選挙で買収をする。悪事と不正を暴くのが仕事であるはずの検察のトップが、賭博行為で失職する。非常事態の「宣言」は出しても実際の危機管理能力はゼロで、国民の生活危機すらも利権の種にしてしまう。そして、都合の悪いことは全て隠蔽し、ない成果を誇って、失策はみんな他人のせいにする。まったくマンガみたいな話がどうどうとまかり通っています。

 

モラルがどうのこうのと言っているわけではありません。「職務」をぜんぜん理解していない者が、「地位」に就いているという、この国の異常さを指摘しているのです。それは、今の政府閣僚、高級官僚の実態を映し出した鏡です。実務能力のある人はみんな粛清してしまい、周囲をゴマ擦り人間だけで固めたために、利権で金を配り続けていられる間は一強を保っていられたけれど、コロナ一つで、無能という真実の姿が露呈してしまった。

 

でも、どんなに利権まみれであろうが、税金を泥棒しようが、嘘つきであろうが、原稿棒読みしか出来なからろうが、漢字が読めなかろうが、ブチ切れた時にしか自分の言葉を持たなかろうが、「絶対に支持する」という岩盤支持層が3割いる。さらに、中国憎し、韓国憎し、北朝鮮憎しとちょっと口を開けば、パッと燃え上がる人たちが、これに最大3割プラスされる。こういう状況下で、かつ5割の人が選挙には行かず、政治に無関心なのですからどうにもなりません。


日本は、もう権力者たちのやりたい放題。利権にあずかれる3割だけが「いざなみ」を超える好景気という一方、非正規労働者は4割を突破。「貯蓄ゼロ世帯」もじわじわ増えて、今や37パーセントに。私も堂々その一員(´_`;)。平成の30年間、日本はこうして坂道を転げ落ちて来ました。いまや法治国家ならぬ放置国家。いや、呆痴国家と言うべきかな? でも、国民のマジョリティがそうなることを選んでいるのですから、これはもう仕方がない。

 

「若い魂」たちは、〈融和・統合〉へのプロセスよりも、いまだ〈分離・排斥〉意識の方がずっと勝っています。他者を出し抜くことで、個我を満足させたいという成長の段階にあるので、強さを誇る権力者や権威者には共感を示します。彼らにとっては、〈融和・統合〉の道など、偽善的なものとしか映りません。ですが、「若い魂」たちの思考や行動を、力づくで変えることは出来ません。そこは、やはり気づきを待つしかないのです。

 

ここで錯覚しないようにしなければならないのは、「若い魂」だからと言って、決して劣っているわけではないということ。宇宙は、確かに振動数の高低によるピラミッド構造(ハイアラーキー)を構成しています。しかしそれは「優劣」の差を表しているのではありません。低いドの音と、1オクターブ上のドの音に、優劣があるでしょうか。単に振動数が違うというだけであって、全体で宇宙は「一つ」なのです。宇宙にムダというものは一つもないのです。

 

地上に見られる大半の組織は、この宇宙のピラミッド構造を模して作られたものですが、人間は、これにエゴから生じた「優劣」の概念をプラスしてしまったのです。宗教組織ですらそうで、宇宙の平等というものを、彼らは何も解っていないのです。ですから、これをまた宇宙に再適応させてしまっては本末転倒です。ここは「幼稚園」。みなさんには、保母さん保父さんの視点に立って、「若い魂」を見守っていただきたいのです。

 

どんな「若い魂」にも、どこかの時点で完成の域に達している「魂」が必ずいます。また、あなたにも、生まれたての「若い魂」であった時期の自分が、今もどこかに同時に存在しているのです。この構造をよく理解してください。それを知って世の中を見れば、他者を許すことが出来ますし、自分を許すことも出来ます。腹が立つ瞬間も、しだいに少なくなって行くことでしょう。保母さん保父さんの視点に立つとは、他ならぬ「神々の視点」に立つということなのです。

 

〈融和・統合〉の集合意識と、〈分離・排斥〉の集合意識の、どちらが51パーセントを超えるかによって、今後の社会全体の行方は決まります。それは個人においても同じことで、一人の人間の中の、〈融和・統合〉と〈分離・排斥〉意識の、どちらが51パーセントを超えるかで、その人のこれからの生き方が変わって来るのです。今回のコロナ騒動はその試金石となりました。

 

全世界が、いまだかつてないパニックに同時に襲われた中で、人々の行動には二極化が見られました。第一のグループは、恐怖感に襲われたあまり、不安神経症や鬱になったり、逆に感染した人やその疑いがある人を村八分にするような行動に出た人たち。第二のグループは、この試練をテコにして、生きる意味や、本当に大切なものは何かを考え直すきっかけにした人々です。

 

前者は、自分を自分でドライブすることを忘れてしまった人たち。後者は、自分で自分をドライブする視点を忘れなかった人たちです。今度の騒動で、何かに依存して漫然と生きることの危うさを、みな解ったのではないでしょうか? 動乱の時代には、自分を信じ、自分をドライブして、日々クリエイティブに生きることが必須となります。

 

前者のグループも、この先、騒動が沈静化し、心が落ち着いてくれば、しだいに後者の視点を持つように変わっていくかも知れません。しかしどうなるにせよ、あなたにとって重要なポイントは、この先の社会で起こることはみな、あなたのために用意された風景に過ぎないということです。ここをしっかりと認識しておいてください。

 

世間的に良いとか悪いとか言われることであっても、また自分にとって良いとか悪いとか思われるような出来事であっても、そのすべての体験から、あなたは自分へのギフトを引き出すことが出来ます。あなたは、その体験を味わい、意味づけし、自己の「魂」への成長の糧とすることが出来るのです。そして、この気づきがあるたびに、あなたは〈融和・統合〉への道を、一歩、また一歩と自然と歩み出していきます。

 

これは理屈ではなく、最初からそうプログラミングされているのです。「魂」の旅の、これは必然なのです。

そして、そのような個々の気づきが増えていって、総量が51パーセントを超えた時、社会も〈融和・統合〉へと舵を切ることになるのです。

喉の渇きと見えない泉

男は、山の頂きになんとしてでも達しようと、歩みを重ねていた。

だが登坂は容易ではなかった。

強い日差しが照りつけ、足を踏み出すたびに、全身からどっと汗が吹き出した。

七合目に差し掛かった時、強い喉の渇きを覚えたので、男は水筒を取った。

しかし水筒の中には、もうほんのわずかな水滴しか残されてはいなかった。

頂上まではまだ随分ある。このままでは持たない。

男は、どこかに水源がないだろうかと辺りを見まわした。

 

その時、一羽の白い小鳥がやって来て、男の耳許で囁いた。

この上の、10メートルほど上がったところに、泉があるよ。

男は喜んだ。

だが、それは見えないし、そこへ行くためには急峻な崖を登らなくてならない。

これは相当な難儀だぞと男は思った。それに危険でもある。

その時、一羽の黒いカラスがやって来て、男に近寄り、耳許で囁いた。

下を見てごらん。100メートル下ったところに小川があるよ。

言われて、男は眼下を見た。木々の間にチラッと小川が見えた。

そのとたん、今すぐにでも駆け降りてがぶがぶ飲みたい、強い衝動に襲われた。

 

が、待てよ、と男は考えた。

小川の位置はここよりもかなり下だ。

せっかくここまで登って来たのに、また降りるなんてのはな。

でも駆け降りるのは、登るよりもずっと楽だし、それに早い。

ああ、どうしたらいい? 今すべきことは‥‥。

優先順位なら、とりあえずの、この喉の渇きを癒すことだ。

いったん降りて、鋭気を養って、それからまた登って来たっていいじゃないか。

 

さて、どうする? 男は自問自答を繰り返した。

白い小鳥は、崖を登れば泉があると言っていたが、本当にあるのだろうか。

男の心に疑念が湧いた。あの小鳥の言葉を信用していいものだろうか‥‥。

迷いに迷った。

そのうち、ふと、そうだ!と直感がして、男は眼を閉じた。

そして、心を静めて、内なる者の声に耳を傾けた。

1分、2分、3分‥‥。

ほどなくして、声がやって来た。

頷くと、男はその声に従った。

自分自身をドライブして生きる

5月28日掲載の記事「アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』と、地球のアセンション」に関連して、ある方からご質問をいただきました。質問の主旨は、〈闇グループにせよ、光のグループの存在にせよ、我々というものは、結局はそうしたものに「管理」されてしまう存在でしかないのではないか。それを思った時に、この先、はたして自分に何が出来るだろうかと考えると焦りを感じる〉というものです。同じように感じられた方も、きっといらっしゃるのではないでしょうか。

 

私たちは、結局は「管理」されてしまう存在でしかないのか? 「管理」という言葉には様々な意味が含まれていますが、この方は、主として「コントロール」という意味合いで使われているのだと解釈しました。地球人類は、結局のところ、人智を超えた存在によってコントロールされて生きるしかないのか、と仰っているのではないでしょうか。間違っていたらごめんなさい。これは、概ねその通りだとも言えますし、そうではないとも言えるのです。はて、一体どういうことでしょう?

 

このご質問は、かなり本質を突いた問いです。というのは、結局は、「宇宙意識」と「自由意志」との関係の問題に帰着するからです。私たちは、誰もが「宇宙」の中にいる存在です。そこから逃れることは出来ません。はたして、「宇宙」に「意識」があるかどうか(「神」がいるかどうかと置き換えてもよいのですが)は別としても、存在の事実関係は曲げられません。ですから、その意味では、究極のところは「管理」されているわけです。でも一方で、あなた方は一人ひとりが「自由意志」を持ち、自由に行動することも出来るのです。

 

これは、視点をどちら側に持つかという違いであると同時に、「解釈」の問題でもあります。あなた方は「宇宙」のネット(網)からは逃れられません。これは事実です。仏陀の手のひらの上で、ただ忙しく動き回っていただけの孫悟空と同じです。しかし、いついかなる時もセーフティ・ネットから外れることは決してない、ともここで力強く言えるわけです。最初から(網に)救われているわけですね。

 

イエスが語った、人を漁(すなど)る網とはこれのことです。ですから、その状況にあることに先ずは感謝してください。その上で、なおかつ「自由意志」を行使する権限も与えられているわけですから、これほど恵まれたことはないのですよ。どんなに大冒険しても網から外れることはないんですからね。ですから、その恵まれた状況を大いに楽しんで、かつ大いに経験せよということです。それが、地球での人生を生きるということ。

 

ということで、本質を突いた問いには、究極の答えで応えました。

 

しかしみなさんは、目の前で展開される出来事にしょっちゅう振り回され、ついつい今言った本質を忘れてしまう傾向があるので、何度も同じことを言わなければならないというのは、こちらとしても辛いところです。ぜひとも、今度の「コロナ禍」を、二階級特進(第三霊性密度から第五霊性密度へ)のジャンピング・ボードに活用していただきたいと思います。迷ったら、いつでも、この究極の答えに戻ることです。

 

と、先ずは言ったところで、次にもう少し紐解いた話をいたしましょう。

 

あなた方を支配している構造は、これまでにも語って来たように、多段階から成り立っています。表 → 裏 → 影 → 闇 → 魔 です。これはある意味、宇宙の多段階構造(ハイアラーキ)を反映したもので、地上世界でも、この「ピラミッド構造」を人類支配の道具に活用できると考えた者たちがいるのです。しかしこれは、人間社会ではごく一般的な当たり前の認識です。会社組織だって、宗教だって、家元制度だって、みんな同じことをしているでしょう?

 

言い換えれば、「ピラミッド構造」による支配関係を、〈誰もが潜在的に知っている〉とも言えるのです。ですから、みんな無意識のうちにこれをやりたがるし、求めるし、支配・被支配の関係を容易に作り出しては、そのことで悦に入ったり、優越感を持ったり、逆に苦しんだり、劣等感に苛まれたりしているわけです。それは、霊的ハイアラーキの物質界への映し絵なのですが、誰もそんなこととはつゆ知らず、構造の中に巻き込まれて右往左往しているのです。

 

その時に、「気づき」というものが非常に重要になって来るのです。各人が、支配構造のどの段階までに気づいたか、ということです。そしてこれは、いま自分が見知っている世界にふとした疑問を抱かない限り(ひょっとしたら、これは本当の世界ではないのかも? と気づく)、次の段階には進みようがないのです。では、支配構造の各段階がどのような世界で構成されているかを、順番に見て行きましょう。

 

表:学校矯育で教わったり、マスコミが報道しているような日常的世界。

裏:そうした事象の背後にある裏側の意図。週刊誌ネタが暴く世界。

影:その裏を操っている権力者の世界。時たま単行本で暴かれることがある。

闇:その権力者たちを束ねている真の実力者の世界。表には出て来ない。

魔:闇が信仰対象とする世界。その霊的意識が闇を手足として使っている。

 

この構造の中で、「表」の世界しか知らずに、それが全てで真実だと思っているような人は、「裏」以深の世界については何も知らないわけです。そうしますと、「裏」の話を聞いた時には「え、本当?」と思うわけですし、「影」に至ってはまったくチンプンカンプンでしょうし、「闇」に至っては「バカげた陰謀論」だということになってしまうわけです。ましてや「魔」となると、悪魔教とかといったオカルト話としてしか理解しようとはしません。

 

しかし「魔」というのは、実は誰の心にもある「心の好き魔」「悪心」「魔が刺す」意識のことなのです。「魔」は、これを集めてエネルギー源にしている。「闇」はそのメカニズムをよく知っていて、それを利用しているのです。繰り返し言っているように、詐欺に遭う人がいなければ、詐欺師は成り立たないのです。詐欺に遭う人は、詐欺師が提示する文言に惹かれるので詐欺に遭う。つまり、波長が合うから詐欺に遭うわけであり、両者が協力してその関係を成し遂げているのです。

 

参照:人類支配の構造と、支配からの脱却 →

 

ここで、「ひょっとして、これは本当の世界ではないのかも?」と気づく人の歩留まりを、仮に1割としてみましょう。すると、

 

「表」の世界を信じ切っている人:90%

「裏」以深の世界に気づいた人:10%

「影」以深の世界に気づいた人:1%(100人に1人)

「闇」以深の世界に気づいた人:0.1%(1000人に1人)

「魔」の世界までを理解した人:0.01%(1万人に1人)

 

となって、人類のアセンションなど、絶望的に思えます。しかしこれが、地球がアセンション期に入ったことで、その追い風を受けて3割に上昇したとしましょう。すると、

 

「表」の世界を信じ切っている人:70%

「裏」以深の世界に気づいた人:30%

「影」以深の世界に気づいた人:9%(約10人に1人)

「闇」以深の世界に気づいた人:2.7%(約100人に3人)

「魔」の世界までを理解した人:0.81%(約100人に1人)

 

となって、俄然、アセンションする可能性のある人が増えるのです。もちろん、ダークサイドを理解することだけがアセンションの条件ではないのですが(むしろ深入りする必要はなく、しない方がよいのですが)、「光への道」は「闇」とパラレルに走っていますので、可能性はグッと上がることになるのです。『幼年期の終わり』を紹介した回で申し上げたのは、「魔」の世界のさらに奥に、実はもう一段あるよ、ということです。覚えておられますか?

 

それは何か? なんとビックリ仰天の「神々」の世界だったということ。「魔」が「神々」に変わる。「ルシファー」が「天使」に変わる。でも、「闇」ルートから直接そこへ行くことは出来ない。なぜなら「分離」が基本意識だから。「光」ルートに吸収合併されることによってしか、「神々」の世界に駒を進めることは出来ないのです。調和、中庸、中道、統合への道です。

 

それを知った上で、今後の世界を見て行ってください。筋トレと同じように、霊トレにも負荷が必要であり、それがアフター・コロナの世界にプレゼントとしてやって来ます。知らない人は、「何がプレゼントか」と思うでしょうが、あなたには是非ともジャンプ台に活用して欲しいのです。

 

アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』では、地球が黄金期に入った際の人類の行方を3タイプに分類しています。一つは、世界政府によって与えられたパラダイスに、従順にハマって家畜化されて生きる人々です。もう一つは、そのような世界政府の樹立に対して反旗を翻し、抵抗する人々です。そして三つめは、社会システムの良いところは取り入れて、でも「魂」は売り渡さんぞという感じで、芸術村のコミュニティに暮らす人々です。おそらく現実世界も、クラークの予言通りに進むことでしょう。

 

よく「社会主義は嫌いだ!」と公言して、社会主義的に見えるもの全てを毛嫌いする人がおられるのですが、いかにも狭量で凝り固まった考え方です。そこに「主義」を付けようがどうしようが、人間は個別の存在であるのと同時に社会的な存在でもあります。無人島にでも行かない限り、「社会」から離脱するすべはありません。また何でも自分ひとりで出来るわけでもありません。交通インフラや、水道設備や、ゴミ処理や、宅配便のお世話になって、みな生活しているのです。

 

それは、相互扶助の関係を学ぶ機会(広く捉えれば「愛」の学習実践機会)にもなっているのですが、どのような社会のあり方が良いのか、また社会と人間の関係のあり方が良いのかは、時代とともに、また意識変化とともに変わるにせよ、人はどこかで社会との折り合いを付けなければならないのです。ですから、それは「主義」というものではないのです。これまでの歴史では「主義」に引っ張られたこともあったかも知れませんが、これからは普遍的な「愛」の観点から再構築されるべきものです。

 

例えば、交通信号機です。交通信号機が設置され、それを守るという社会的ルールが一般化される。それは、トラフィックを円滑を進めるという点で、社会的に意味のあることです。世界には、信号機が無くて大渋滞を起こしている都市や、たとえ信号機があっても社会的ルールが育たなくてやはり大渋滞を起こしている都市がいくらでもあります。

 

それと比べれば日本人の従順さは社会的に大いに機能しています。けれども、見通しのきく横断歩道で、クルマが来ないのにも関わらず赤信号だったと。その時にも、信号が青に変わるまでずっと待ち続けるのか、と問われたらどうでしょう? う〜ん、私ならば信号無視してサッサと渡っちゃいますね。信号機の目的は、安全・円滑なトラフィックの実現にあるわけで、ルールの順守にあるわけではありませんからね。

 

社会と自分との関係(広く言えば、周囲の一切合切と自分との関係)を考えた際に、大切なポイントは、いつも「自分自身をドライブして生きる」ということです。「支配」とか「コントロール」という言葉を使ってもよいのですが、ネガティブに受け取られる可能性があるので、一応「ドライブ」としておきます。この意識を、常時立ち上げっぱなしにして生きるようにするのです。これだけで、あなたの生き方は、それ以前とはまるで違ったものになります。

 

例えば、いま外に出ると、あらゆる場所でソーシャル・ディスタンスというものを強いられるでしょう。「この位置で待て」という具合に、フロアに足型が描いてあったりします。それに対して、あなたはいろんな態度を選べます。従うことも従わないことも出来ますし、従うにしてもどういう考えで従うのか、従わないにしてもどういう考えで従わないのかをあれこれ選ぶことが出来ます。

 

その時に、表面的にはただ従順に従っているように見えたとしても、自分の意思で、そうすることを選んでいる、と確実に意識して行動することが大切なのです。理由などは要りません。とにかく、自分がドライブして、自分の足をそこに踏み出す。逆らったところで多勢に無勢ですし、そうすることが今は円滑な仕組みであるなら、従うことはわけないことです。しかし、そう「させられている」と思うのではなく、「自分がそれを選択する」と思い込むのです。

 

でも、仮にいま私が「戦争に行って敵を殺して来い」と国から言われたとしたら、私は従いません。たとえ投獄されようが死刑になろうが、拒絶します。それは人道的な理由からではありません。今の自分の霊的成長にとって不必要かつ有害なことだからです。同じように、私が「お金はもういい」と言うのは、不要と言っているわけではありません。いくらかはやはり必要です。でも「お金」にまつわる学習は終えてしまったので、もう興味がなく、あとは煩わしいだけなのです。

 

同じ行動をしていても、「やらされている」と思えば、その瞬間から「奴隷」になってしまいます。ですが、つねに自分自身を自分でドライブしていれば、いつでもあなた(の意識)は「自由」なのです。

 

やらされている、コントロールされていると思っている限り、あなたから不安や恐怖は消えません。自分が自分自身をドライブして生きる、という習慣を身につけることによってのみ、不安や恐怖から脱出することが出来るのです。そして、来たるべきアフター・コロナの世界は、まさにそう思うかどうかが、家畜化されてしまうか、真の「自由」に目覚めてアセンションするのか、の分かれ道になります。

 

*詐欺に遭う人が、自ら望んで、喜んで詐欺に遭うのと同じで、家畜化される人も、喜んで家畜化される道を選びます。

 

さて、もう一つの質問。〈この先、はたして自分に何が出来るだろうかと考えると焦りを感じる〉ですが、「自分に何ができるだろうか」と考える必要はありませんし、「焦る」こともありません。これも以前に言ったことの繰り返しになりますが、課題は「行為」の内容にあるのではないのです。どのような「意識」をもってでそれを為すか、ということです。

 

これは「適職」とか「天職」といったことでもそうなのですが、みんな「業種」ばかりを問題にしていますねぇ。確かに向き不向きはあります。けれども、自分は「適職」にありつけないとか、どうしても「天職」を見いだせない、などと始終考えていたとしたら、大多数の人が幸福感のない人生を送ってしまいますよ。「業種」など、思いつきや、はずみや、ふとしたきっかけで決めて構わないのです。大切なのは、それを、自分が「適職」にするか、「天職」に出来るか、ということです。出来なければ、変えればよいのです。

 

それと同じで、「自分に何ができるか」と考え続けていたら、日が暮れてしまいますよ。なぜって、それはまだ経験がないことなのですから。あなたは「自分に何が出来るか」と考えながら、きっと出来ない理由を、100も1000も探すことでしょう。まさしく、人は「I can’t」の理由をクリエイトすることにかけては天才です。そうではなくて、「今したい」と思ったことを直ちにすればよいのです。それが成功するか失敗するかなんてことはどうでもいい。失敗したら、そこから学んで次の「今したい」を探せばよいのですから。

 

この点で、ぜひ見習いたいのが、かつてプロ野球界で活躍された新庄剛志さん。この方は「宇宙人」と言われて来たのですが、まさに、人々に、直感力に従った生き方と、朗らかさと、宇宙的な「愛」を、身をもって示すことを使命として派遣された、類稀なる「魂」です。直感に従ってパッと行動し、やめる時もパッとやめる。そして、後に思いを残さない。この方の「愛」は、普通の人々には理解できないほどの大きさなので、時に小馬鹿にされたり、騙されたりすることもある。でも、めげずに使命を果たしておられるのは本当に素晴らしい。

 

話を戻して、大切なのは「何が出来るか」ではなくて、どういう「意識」でそれをするかです。大きなことは考えずに、小さなことから始めてください。ケーキを焼きたいと思ったらケーキを焼けばいいし、草取りをしたいと思ったら草取りをすればいい(と、これは私の日常ですが)。その時に、宇宙的な「愛」と寄り添ってそれをする。宇宙の「生命」を感じながらそれをする。自分が今それが出来ることの「幸福」を感じながらそれをする。そのことが重要であり、そうなることこそが、まさにアセンションなのです。

 

この感覚に至るまでには時間が掛かります。最初は、そう感じている「フリ」をするところから始めてください。それを何度も何度も繰り返していると、その「フリ」がだんだんと少しずつ本当になっていきます。そうなるまで、諦めずに続けてください。「何が出来るか」を考え続けて、時間をムダにすることのないように。「I can’t」の理由をひねり出してチャンスをムダにすることのないように。

 

いつもいつも「直感」に従うのです。「直感」は、高次元のあなたから今のあなたへのプレゼントなんですよ。その受け取りを拒絶する理由が、どうしてあるというのでしょうか?

 

それと、これも以前に語ったことですが、今回の地球のアセンション機会と、あなたのアセンションとを無理繰り結びつけて考える必要はありません。今回の地球のアセンションは、確かに二階級特進のチャンスであり、またそれを狙ってたくさんの「魂」が地球に降りるという人口爆発現象も起きています。ですが、この機会にたとえ成就できなかったとしても、究極的にはどの「魂」も必ずアセンションを成し遂げるのです。

 

それを、未来のどこかの時点で成し遂げた存在が、いわゆる「ハイヤーセルフ」です。ですから「焦る」必要などはまったくありません。地球は今回のサイクルで「幼年期」としての役割を終えます。そうなると、「幼年期」のままの「魂」は、アセンション後の地球にはもう転生して来ることが出来なくなります。けれども、宇宙のどこかに、また「幼年期」用の惑星がちゃんと用意され、集団移住となるのです。そしてそこで、またいがみ合いやドンパチの続きをおっ始める。

 

ですが、今回の地球のようなチャンスは、宇宙でも滅多に無いことですから、あなたには、是非ともモノにして欲しいところです。

 

「自分に何が出来るか」ということの中には、他の人々への貢献のことも含まれていると思います。ですが、これも「行為」が重要なのではなく、あなたがアセンションすれば、あなたの高い波動が周囲に影響を与えることになるので、あなたが何をしていようと、自動的に、つねに人類の霊的成長に貢献していることに繋がるのです。

 

ここで重要なのは、あなたがアセンションすれば、人類全体の霊的成長というものに大いに貢献することになります。がしかし、人類全体の霊的成長という課題と、あなたのアセンションという課題には、直接的な関係がないということです。つまり、人類全体のためを思って、自分のアセンションを考える必要はないということです。あなたは、ご自分のアセンションのことだけを考えて邁進していけばそれでよいのです。

 

これは一見、身勝手なことように思えるかも知れませんが、いわゆる「個人主義」とは違います。霊的課題や霊的成長というものは、あくまで個々の「魂」のものであって、他の「魂」の課題や成長に、他の「魂」が介入したり肩代わりしたりすることは出来ません。出来るとすれば、その「魂」の成長機会が奪われることになってしまいます。ですから、それはありません。ある「魂」にとって、それがどんなに辛そうに、また苦しそうに見えようとも、霊的に言えば、それらは全部がギフトなのです。

 

辛さや苦しさに喘いでいる人を手助け出来ない、と言っているわけではありません。手助けすることは出来ますし、手助けすることはよいことです。しかしそれは、互いにとっての経験、いわば互いにとっての風景として働くのであって、苦しんでいる人の身代わりになることは出来ないのです。この点を、しっかり押さえておくことが大切です。同情のあまり、課題の区別という原理を忘れてしまうことのないようにしなければなりません。

 

どうすれば人を助けられるのか、どのように人を助けてあげたらよいのか、と考えあぐねておられる方も多いでしょう。また、あの時、なぜあの人を助けられなかったのだろうと、過去の出来事を悔やみ続けておられる方も多いことでしょう。これらはみんな、霊的課題や霊的成長ということに関して無知なために起きる悩みなのです。

 

キリスト教的な「原罪論」に嵌った人たちにありがちなのですが、他者を救えなかった経験を、あまりにも真摯に見詰め過ぎて、自分を「罪深き者」としてひたすら責めている方がおられます。見ていて痛々しいくらいです。この人たちが知らないのは、他者を救うものはテクニックでもなければ、罪意識でもないということです。それは、ひとえに高い波動によるのです。人は高い波動に接した時に癒され、高い波動をもたらした時にだけ他者を癒すことが出来るのです。すべては「波動」の問題なのです。

 

ですから、他者を救えなかったという罪意識に縛られて、自分を過剰に責めたり、罪意識を克服しようとしてあまりにも真摯に他者に向き合うことは、すべて逆効果でしかないのです。なぜなら、その時、その人は非常に低い波動を発しているからです。そして、その低い波動で、周囲にいる人たちを巻き添えにしているからなのです。ですから、いわゆる「自助グループ」などの集まりは、多くは逆効果しかもたらしていません。互いが、低い波動を持ち寄って、それに同調し合って慰めとしているだけなのです。

 

他者を癒せる力は、高い波動以外にはありません。テクニックも言葉も知識も必要ないのです。ただただ高いバイブレーションです。それは一瞬にして伝わり、一瞬にしてその人を癒します。ですから、あなたの目標は、ただそこに居るだけで、あなたという存在が居るというだけで、高い波動を周囲に出し続ける存在になることです。それがアセンションの意義です。あなたがアセンションすれば、あなたは自動的に、他の人々を手助けする存在に変身するのです。

 

ということで、何も焦る必要はありません。「自分に何が出来るだろうか」と悩む必要もありません。ただただアセンションを目指してください。最初は「フリ」をすればいい。出来ない「フリ」をするのではなく、出来る「フリ」をするのです。勇気を持ってその一歩を踏み出しなさい。大きな一歩でなくてよいのです。大きな一歩ばかり考えていたら、壁に圧倒されてしまいます。今日できる確実な一歩を進むのです。日常の中の何気ない出来事の中に、すべて「フリ」を見い出しなさい。そして、少しずつ少しずつ感じ取るのです。

 

永遠の時を、生命の輝きを、宇宙の愛を。そしてすべてが一つであることを。

霊的学習

霊的学習においては、

個々の魂は、その魂の発達段階に応じたものしか受け取ることが出来ない。

だから、日々精進せよ。

昨日より今日、昨日より今日と、日々意識しながら今を生きよ。

そうやって、尺取り虫のように一歩ずつ進むのだ。

うまずたゆまず七年続けてみよ。

二千五百五十五歩の成長を君は達成していることになる。

アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』と、地球のアセンション

NHK・Eテレの『100分 de 名著』は、毎回録画して観ている数少ないテレビ番組です。私は読書家ではないので、25分×4回の100分で「読んだような気になれる」この番組は、とても助かっています。進行役の伊集院光さんが文字通り光ってます。勘が非常に鋭くて頭もいいのに、嫌味がなく私は好きです。伊集院光さんじゃなかったら観続けていないかもね。

 

さて、その2020年3月は、「アーサー・C・クラーク スペシャル」でした。「スペシャル」と銘打った場合には、この著者の手になる本を毎回違ったものを取り上げて、都合4冊を紹介しています。

 

その2回めが今日ここで紹介する『幼年期の終わり』でした。この、わずか25分の番組を観た瞬間、私は「えーっ⁈」と声を上げそうになりました。例によって「これを見ろ!」と目の前に差し出された感じがしました。そして、今のこのタイミングに、「お前が解説しろ!」と命じられている気がしたのです。

 

しかし、コロナ騒動があったために、書くタイミングを見計らっていました。世間がそわそわし、みんなが浮き足立っているような心理状態では、せっかくの話も届かないと思ったのです。でも今がそのベスト・タイミング。まさにこの書は、いわゆるアフターコロナの世界を予言した物語だと言えます。今度の「コロナ・ショック」を、多くの人がおかしいと言い出しています。創られたパンデミックであった可能性が高いからです。今回、それが世界同時に実現された。明らかに、地球史の次のフェーズが始まったと言えるのではないでしょうか。

 

アーサー・C・クラーク(1917 - 2008)と言えば、スタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』の共同原作者として有名です。

 

私はこれを、1978年に銀座のテアトル東京で観たのですが、この時の興奮は今も忘れられません。予告編が終わって、いよいよ本編となった時に、テアトル東京の大画面がさらにガーッと左右と上に広がったのです。うおーっ、凄い! 当時、70mmシネラマを上映できる劇場は、日本に2館しかありませんでした。その時が、私の70mmシネラマ初体験だったわけです。

 

圧倒されました。CGなど無かった時代に、よくぞここまでという完璧な映像描写。『2001年宇宙の旅』は、よく「SF映画の金字塔」といった言い方をされるのですが、私は、「これはSFなどではなく、宇宙を扱ったドキュメンタリーだ」とそのときに思いました。それほど「リアル」という感覚が突き抜けていたのです。しかしこれは、あくまで監督のキューブリックに対する賛辞であり、当時は、アーサー・C・クラークがどういう役割を果たしたかについては知る由もありませんでした。

 

小説を読む習慣がまったくといっていいほど無いものですから、クラークの小説も読んだことはありません。ですが何かの折、クラークが次のような発言をしていたことを印象深く覚えていました。彼は、地球外知的生命体の存在について、こう語っていたのです。「宇宙には、たくさんの知的生命体がいる。その中には、我々のような身体を持たない存在もいる」と。私はそれを聞いて、「この人は知っている」と直感しました。何を? 「本当のことを」です。

 

1999年より開始された「SETI」という地球外知的生命体探査の活動があったのですが、この3月31日をもって21年間の活動を休止しました。これはカリフォルニア大学バークリー校が音頭を取り、世界中のボランティアのパソコンを繋いで、宇宙から飛来する信号を昼夜を問わずに探索し続けるというプロジェクトです。でも、残念ながら成果は無かったわけですね。

 

私などからすると、これはアプローチ方法が完全に間違っていて、やはりこっちからあっち側を見ようとしている典型例だと言えます。ま、それはそれとして、しかしクラークは真実を知っているのです。

 

宇宙人とUFO問題については、いつか改めて書くことにして、クラークが著した『幼年期の終わり』の話に戻りましょう。この小説は1952年に執筆され、翌1953年8月に初版が刊行されました。ソ連のスプートニク1号の打ち上げが成功したのが1957年ですから、まだ人類初の人工衛星すら誕生していなかった時代の著作です。しかしその後、科学技術の進歩によって描写のいくつかに時代遅れの部分が生じてきたため、1989年と2001年の二度にわたって改訂版が出されています。

 

*日本語訳は、早川書房版、東京創元社版、光文社版があり、早川書房版は1953年刊行の旧版を元にしている。

 

本書の原題は『Childhood’s End』と言います。さて、この「幼年期」なのですが、これは地球の「幼年期」という意味なのです。そのことから、東京創元社版では、分かりやすさを考慮してかタイトルを『地球幼年期の終わり』と訳しています。ということで、ズバリこれは「地球のアセンション」を描いた物語なのです。驚くなかれ、今から68年も前の1952年にですぞ! 来たるべき世界の姿として、それがどのようなプロセスで進行するかを、クラークは寓話の形にして完璧に描き残したのです。

 

この解説は、たぶん私にしか出来ない。だから命じられたのだと思う。普通の人にはとうてい読み解けない。でも私には解る。なぜって、いつも自分が語っていることと同じ意味が書かれているから。しかし、どこの馬の骨とも分からない私が語ったところで所詮は眉唾物。だけど、こっちはなんてってSF界の巨匠、アーサー・C・クラーク様だぜ。ぜんぜん格が違います! ということで、そのアーサー・C・クラーク様が、何を書き残してくださったのかを、一緒に見て参りましょう。

 

本書を開くと、先ずは、扉ページの隅っこに付けられた奇妙なエピグラフ(断り書き)に、首を傾げることになります。そこには、こう書かれてあるのです。

「本文中に示された見解は、著者個人のものではない。」

えっ、なにこれ? じゃあ誰の見解だってわけぇ?

なんでわざわざこんな断り書きを‥‥?

 

1989年の改訂版に付けられた「まえがき」で、著者はその件について不可解な言い訳をしています。いわく「その少し前に “The Exploration of Space” を出版し、人類はやがて宇宙に広く進出するだろうと書いたのに、今度は “人類が宇宙を制する日は来ない” と主張する本を書いたわけで、短期間のうちに前言を翻したと思われたくはなかったから」だと。ですがそんなことで、わざわざこの断り書きを入れねばならなかったのでしょうか?

 

というのも、「人類が宇宙を制する日は来ない」と語っているのは、一人の登場人物(実際は宇宙人)のセリフとしてであり、その直前のセリフで「きみたちが太陽系の惑星を支配する日はいつか来るだろう。だが、」とも語らせているからです。これは今日の視点で見ても、異論の起きようがないことです。人類は、ボイジャー1・2号によって、太陽系の端っこまでを探査するレベルにはどうにかこうにか辿り着きました。しかし、その外宇宙はまだまだ未知のままです。それに、どだい無理! 物理的距離があまりにも遠すぎて。

 

著者は、さらにもう一つの理由を挙げています。1953年の出版から1989年に至るまでに経験して来た、超常現象やら、超能力、UFO、占星術、ピラミッドパワー、チャネリング等の「とにかく考えつく限りのデタラメの汚染」に対する嫌悪感です。「そうしたことに騙されやすい人々に、本書も寄与することになっていたとしたら残念だ」とクラークは語っています。こちらの理由は、前のものよりも理解できます。私も「ス」と聞いただけでコメカミが「ピリッ」とするほど嫌いですから。しかし、これは後付けされた理由です。

 

クラークは、暗に「そういうものとは一緒にしないで欲しいんだよな」と言っているように私には思えます。「だってこの見解のソースは、違うところから来たものなんだからね」と。

そして、私の見立てから言えば、アーサー・C・クラークという人物は、「宇宙」というものの〈拡張〉概念を、小説の形で人類に知らせる役目を持って、地球に派遣された、彼自身が「宇宙人」です。

 

「人類が宇宙を制する日は来ない」の「宇宙」とは、物質的な「宇宙」を指しているのではなく、広義の「宇宙」、つまり非物質世界を含めた「全宇宙」の意味なのです。そう考えれば、「きみたちが太陽系の惑星を支配する日はいつか来るだろう。だが、人類が宇宙を制する日は来ない」の意味が、すんなり解るのではないでしょうか。もしこれが物理的空間のことだけを語っているのなら、後の文言は「宇宙を」ではなく「太陽系外を」となるはずです。また主語も、「人類が」ではなく「きみたちが」の繰り返しになっていたことでしょう。

 

クラークは、おそらく抜群のテレパシー能力を持っていて、人類の未来に関する情報を、同胞である宇宙存在から受け取っていたと思います。

 

それでは、『幼年期の終わり』の中身について見て行きましょう。物語は、地球の主要都市上空に、巨大なUFOが出現して、しばらく経った時代から始まります。映画の『第九地区』や『メッセージ(原題:Arrival)』で描かれたような、強烈なパンチのある出だしです。というよりも、『幼年期の終わり』で描かれたこの描写が、その後のUFO映画のオープニング・パターンを創ったのです。

 

この巨大UFO群には、地球人が「オーヴァーロード」と名づけた宇宙人たちが乗っていて、すでに地球社会を平定しています。「Overlord」とは「lord」を超えたという意味ですから、日本語に訳せば「大君主」といったところでしょうか。しかし地球人は、ただ一人を除き、このオーヴァーロードを見た者が他に誰もいない。オーヴァーロードの正体は、完全に闇に包まれています。つまり、影の支配者の「実体」は謎のままなのですが、影の支配者の「存在」は、万人が既知なのです。

 

そのただ一人とは国連事務総長で、彼だけが定期的に宇宙船に招き入れられ、オーヴァーロードの中の総督との面会(実際にはスクリーン越しに声だけしか聞こえない)を許されて、その指示を得ながら地球社会を統括しています。つまり、闇に包まれている存在(宇宙人)の後押しを得て、国連統治による「世界政府」がそこに樹立されているのです。この統治下においては、かつての国家は、独立性を持たない、一つの地区行政単位でしかありません。

 

なぜそうなったのか? オーヴァーロードたちの知性と科学技術力が、地球人のそれを遥かに凌駕していたためです。彼らの前では、それまでの地球人の文明など、まるで赤子の手を捻るようなものだったのです。オーヴァーロードたちの実質的支配による「世界政府」が実現するまで、地球には様々な問題が山積していました。しかし「世界政府」の実現以降、人種差別や貧困や労働問題は、完全に過去のものとなってしまいます。戦争の記憶も、忘却の彼方へと消え去ってしまいました。

 

もっとも明らかな変化は、20世紀を象徴していた、何かに追いかけられるような世の中のスピードが、ゆるやかになったことです。人々から、無知や病気や恐怖が消えました。動物虐待もなくなりました。生産現場は高度にオートメーション化され、人間に代わってロボットが働いています。あらゆる日用品がタダ同然で手に入るようになり、人間は贅沢品のためだけに労働をするか、労働自体をやめてしまいました。代わって教育の密度が濃くなり、生涯教育が当たり前となりました。英語を話せない人間は一人もいなくなりました。

 

小型の空中自動車が普及し、移動が格段に便利になりました。いつでもどこでも世界中の情報をライブ映像で見ることも出来るようになりました。物を盗む必要がなくなったので、犯罪が一掃されました。また犯したとしても、オーヴァーロードの監視から逃れることは不可能であることをみな知っていました。宗教とは、新しい社会は完全に縁を切りました。怪しげな奇跡話に乗る人はもういなかったのです。清教徒的な異常な潔癖さを主張する性道徳も消え去りました。

 

このようにして、人類に黄金期が訪れたのです。自力では、かつて一度も実現することが出来なかった世界が。突如として。

 

みなさんはどう思われますか? 今まさに、それが進行しつつあるとは思いませんか。AI、ロボット、遺伝子操作、5G、監視社会、自動運転、ベーシック・インカム、デジタル・カレンシー(仮想通貨)等々、矢継ぎ早に繰り出される技術革新トレンド。そして「コロナ・ショック」を受けて一気に加速する、あらゆる「20世紀型モデル」の終焉。その変化の真っ只中に、われわれ人類が今いるのです。

 

コロナ騒動の比較的早い段階(3月26日)で、英国の元首相ゴードン・ブラウン氏が「世界政府」の設立を呼び掛けました。「これは一つの国で対応できる問題ではない。協調した世界的な対応が必要だ」と言って、強い権限を持つ世界的な「タスクフォース」をつくり、ワクチンの共同開発のほか、中央銀行による金融緩和や、政府による財政出動での協調、新興国からの資本流出の阻止などに取り組むよう世界各国の首脳に求めたのです。いささか勇み足だったものの、この先の狙いを露骨に表明していました。

 

今度のコロナ・パンデミックで、世界中のマスコミが軍産複合体の支配下にあるということがよく分かったと思うのですが、マスコミを軽信している人が大多数(pandemic ではなく infodemic だったと言われている)ですので、彼らの狙い通りに、人類削減計画、人類家畜化計画、中央銀行制度の破壊と世界共通デジタルコイン化、地球環境保全整備、そして世界統一政府の実現へ向けて、今後も着々と計画が進んで行くことになるでしょう。しかし、いつも言っている通り、それらもみな風景に過ぎない、ということは肝に命じておいてください。

 

『幼年期の終わり』に話を戻しましょう。宇宙からある日突如やって来たオーヴァーロードたちは、そのようにして地球社会を瞬く間にパラダイスに造り替えて行きます。オーヴァーロードたちが一体どのような姿かたちをしているのか、彼らが地球に来た目的や、最終的にやろうとしていることが何なのか、ということも人類にいっさい知らされることなく、時が進んで行きます。そして、世代交代が進み、いつしか旧世界のこともすっかり忘れ去られるようになったころ、オーヴァーロードがかつて人類と交わした約束が、遂に果たされる日がやって来るのです。

 

それは、50年後、オーヴァーロードが船を降りて人々の前に姿を現わす、というものでした。その登場の際の描写が次です。〈間違いようがなかった。硬い革でできたような翼、小さな角、矢印の形をした尾 ―― すべてが揃っていた。あらゆる伝説のなかでももっとも恐ろしい一つが、未知の過去から命を持って現れたのだ。ただし、それはいま、微笑みをたたえて立っていた〉。人類に、数々の “良い” 変革をもたらしてくれた宇宙人は、なんと西洋人が長年「悪魔」と呼んできた存在そっくりの姿をしていたのです。

 

なぜオーヴァーロードの姿が、人類が知る「悪魔」の姿そっくりだったのか。この理由として、二つの可能性が示唆されています。一つは、記憶の倉庫(いわゆるアカシック・レコード)というものは無時間の場にあるので、過去に生活していた人類が、未来に起きている出来事の記憶を引き出していたという説です。そしてもう一つは、オーヴァーロードたちが、過去にも地球に来た経験があるという説です。後者はボカされてはいるのですが、こっちの方が真実ということを暗に示しています。

 

それは、過去に二度あった、25920年周期の「地球のアセンション」チャンスにも来訪していたが、その時には「刈り取り(harvesting)」のミッションに失敗していたということ。「刈り取り」というのは、第五霊性密度へのジャンプが達成できそうな「魂」を見出して、手助けして掬い上げるということです。過去二回の来訪においては、Harvest できそうな「魂」が残念ながら見つからなかった。この失敗が、いわゆるアトランティスの水没といった伝説として残されているのです。

 

*以上は、本文中にそうした記述があるわけではなく、あくまで私による、他の情報との関連づけです。

 

ということで、オーヴァーロードたちがやって来た目的の一つが明らかにされます。それは危機に差し掛かっていた地球人類の救済です。

 

「このままでは、単に地球だけの問題ではなく、宇宙全体にその悪影響が及んでしまう危険性が生じたため、介入することになった」。これは地球にコンタクトして来る宇宙人の来訪理由として、様々なチャンネルを通じて繰り返し語られて来た言葉です。1960年代、70年代は、核戦争の具体的脅威がありましたので、私もこれは「核戦争」のことなのかな?と思っていました。しかし、仮に「核戦争」が起こったとして、どうしてそれが宇宙全体にとっても大問題となるのかがずっと解りませんでした。

 

広大無辺な宇宙からすれば、地球の「核戦争」など、線香花火にも満たない爆発でしょうに。なにしろ、たった一回の太陽フレア爆発が、水素爆弾10万発から1億発に相当すると言われているのですから桁違いです。しかも、宇宙に輝く星々、あれはみんな太陽と同じ恒星なんですからね。その数は無限です。ところが、今回『幼年期の終わり』を読んで、長年のその疑問がとけたのです。宇宙全体にとっての脅威とは、そのような物質的な問題ではなかったのです。

 

「核戦争」は、人類にとっては確かに滅亡への脅威です。しかしまだその先に二段階めの脅威があった。それは、オカルティズムへの偏向、偏重です。「魂」はその進化の過程で、第四霊性密度(いわゆる「四次元の河」)をくぐり抜けて、第五霊性密度へとジャンプします。しかし多くの人間が、一斉に第四霊性密度に進入してそこに留まったままでいると、その集合エネルギーがパワーを持ちます。霊的世界というのは時空間のない世界ですので、そのネガティブなパワーが霊界全体、つまりは「宇宙」全体の脅威になる、ということだったのです。

 

そして、その可能性は、現在の地球人の進化度合いから見れば、大いにあり得るということです。「時代の転換期には、必ずニセ預言者が登場する」と、これも古くから言い伝えられて来ましたが、どうでしょう? 脅威を強調し、恐怖を煽り、何かにすがるよう急き立てる「ニセ預言」のパワーが、一方でますます広がっているとは思いませんか? 人間はエキサイティングな情報にどうしても惹かれてしまうので、簡単にその術中にハマってしまいます。それが、その人だけの問題ではもはや済まない、宇宙全体の問題なのだということです。

 

さて、『幼年期の終わり』との関連で見たとき、この寓話から読み取らなければならない点は、隠れていた闇の支配者(大君主)が、実は「悪魔」の姿をしていたということの比喩です。これも、このブログでは、人類支配の構造は、表→裏→影→闇→魔と、順々に奥へと繋がり、最後は霊界に至るということをずっと言ってきました。そこで考えてみなければならないのは、「悪魔」が「善」なる社会の実現を人類にもたらすことになる、というプロセスに関する示唆なのです。

 

クラークは、単にドンデン返しの面白さを狙って、この設定を考え出したわけではありません。国連機関は、今でも「善」なる顔と、裏の「悪」の顔の両方を持っています。バチカンだって、マスコミだってそう。表の「善」と、裏の「悪」の両方の顔を持っている。戦争を仕掛ける者と、戦後復興を行う者は、実は同じです。貧困をつくり出す者と、人道援助を行う者も同じ。医療だってそうです。病気をつくり出す者と、治す者が同じなのです。

 

もちろん、各現場の当事者たちはそんなことは知りません。それぞれがみんな自分のミッションを遂行しようとして一生懸命にやっているのです。でも、大元の手綱を持っているところはみな同じ。彼らはAチーム、Bチームを闘わせるという手法だけではなく、人間が誰でも持っている「善・悪」の観念に介入し、これを刺激し、揺さぶりを掛けてコントロールしているのです。そうやって「善・悪」の二元性を上手に使って、「闇」グループはこれまで人類をコントロールして来たし、これからもコントロールしようとしているわけです。

 

ここで「ルシファー(Lucifer)」についても少し述べておきましょう。ルシファーというのは「堕天使」と言い、元々は天使の実力があったのに、天界を落っこちて悪魔の親玉であるサタンになったとされる存在です。「闇」グループを暴く活動をしている人たちの中には、「闇」グループの人たちがこの「ルシファー信仰」つまり「悪魔教」を崇拝している、と仰る方がおられるのですが、そうではありません。その考え自体が、キリスト教的な「善・悪」概念に取り込まれてしまっている。

 

そうではないのです。「闇」グループの信仰とは、キリスト教的な「神」概念そのものの否定。「実世界を動かすパワー」への信仰なのです。

 

そこで、彼らは、実世界を動かす二極性、二元性を最大限活用する道を選んだのです。

 

そうやって「善・悪」の両極端を支配してしまえば、その中間領域で「善・悪」に揺れ動く人間を、丸ごとそっくり支配してしまえることを発見した。ルシファーとは、天使でもあり悪魔でもあることの象徴なのです。

 

「正義」はダメだ、と何度も言って来たのはそれが理由です。「正義」の行使は、この「善・悪」コントロールの術中にまんまとハメられるということでしかないのです。そこで、これからの人間は、「善・悪」の裏側を見抜く眼をきちんと身につけていかなくてはなりません。と言っても、疑心暗鬼になれと言っているわけではありませんよ。「疑い」の眼差しは、その人の波動を著しく下げてしまいますからね。そうではなくて、そこには、ごく単純で明確な法則があるということです。ですから、それを知ってください。

 

それは「分離」と「合一」です。第三、第四、第五霊性密度は、二極性を学習する領域です。いま我々は、第三霊性密度の物質界に暮らしているのですが、周囲を見回してください。あらゆるところに陰陽の二極性が見られることにお気づきでしょう。これは、二極性があるからこそ、その間に新しいものが生み出されるという意味があるほかに、「分離」されているからこそ、「合一」を体験できるという意味もあるのです。ですから「分離」そのものが悪というわけではありません。

 

しかし、「魂」の進化のステップとしては、「分離」を充分体験した後に「合一」へと向かうというプロセスを必ず通るのです。例えば、憎しみから、許しへ、そして愛へ、というように。従って、その「魂」が霊的学習のどの段階にあるかは、「分離」と「合一」のどちらの要素が多いかを見れば、自ずと判断できるのです。これは、その人が出している波動を見れば即座に判ります。

 

さて、いま YouTube を見ますと、ありとあらゆる非難の応酬で溢れ返っています。その中には、義憤に駆られ、正義感から「悪」を叩くことに心血を注いでいるという人も多く見られます。それはそれで役立っている部分もあるのですが、大きな視点で見ると、やはり「分離」意識の中で語っている。言い換えれば、魔界お得意の「分離」意識に取り込まれている、と言えるのです。ですから、このような正義感を燃やし続けている人は、いつか必ずしっぺ返しを受けます。

 

これも、いつも言っていることですが、あなた方が目指すべきことは、「闇」に敵意を向けたり、「悪」を懲らしめたりすることではありません。そうしたところで、所詮は「善・悪」二元論の範囲内で闘っているに過ぎないのです。地上に生きている以上、誰の心の中にも「善・悪」の二極性があります。周囲の現実は、全部がその人の投影なのですから、「闇」や「悪」に闘いを挑んでいる人たちは、自分の中にある許せない「闇」部分や「悪」の部分と闘っているわけですね。つまりは自傷行為をしているのであり、それゆえ必ずしっぺ返しを受けるのです。

 

ジョン・レノンは、「世界は狂人に操られている」と言いました。でも、その狂人の指導者を打ち倒す必要はありません。自分がなぜ狂人の指導者に着いて行くのかを、各人が考え直せばそれでよいのです。

 

これを読んでくださっているみなさんには、是非ともその段階を超えていただきたいのです。それが、人類の明日への扉を開きます。それは、「調和」を目指すということです。光があれば影ができるのであり、影があるところ必ず光があるのです。光と影が揃ってこそ、一つであることは言うまでもありません。どうかこの原点に帰ってください。そして、いつでもどこでも「調和」を胸に刻んでください。争いなど実にツマラナイことです。詐欲でも憂欲でもなく、みんな仲良くを心がけてください。

 

「闇」グループに所属する「魂」たちというのは、「分離」意識の極端な道を歩んでいるのです。彼らにも彼らなりの理想があります。いわゆる「New World Order」。しかしその理想社会は、ごく一部のエリート層が、大多数の家畜人間を飼いならして、自分たちの思い通りに操ることによって平定した世界です。彼らの中には、「調和」という考えは芽生えていないのです。幼い「魂」というわけではありません。むしろ老獪です。彼らは、普通の人の中にある、中途半端さがイヤでこれを嫌ったのです。

 

しかし、ここで宇宙的な視点に立って、それらを眺めてみてください。その一方の極端さが、教師の役割を果たしていることに気づきませんか? それが理解できれば、この状況を、またこれから訪れるであろう変化を、あなたの「魂」の成長に役立てることができるのです。あなたが先行してそこに取り組めば、やがては人類全体の目覚めに寄与することが出来ます。

 

話を『幼年期の終わり』に戻します。オーヴァーロードたちの目的の一つは、そのようにして、人類の危機と宇宙の危機を同時回避することにあったのですが、実は隠されたもう一つの裏目的が存在していました。ユートピアの実現と見られた黄金期は、実は地球進化の通過点でしかなかったのです。彼らの真の裏目的とは、ユートピアの実現後に登場する、新しい人類の誕生を、今か今かと見守ることでした。旧い人類が滅び、新しい人類がすき間を埋めて行く。いわゆる「人類補完計画」が実現するかどうかです。

 

*作品中では「人類補完計画」の名は登場していない。

 

オーヴァーロードの意向を受けて国連が進める「世界連邦政府」の樹立に関しては、当然ながら反対もありました。彼らはテロリストと見なされていましたが、最終的には平定されてしまいます。これも、いま世界で起きている国家主義や民族主義の風潮を彷彿とさせます。一方で、これとは違った形の反逆者も登場します。それは、科学と芸術の自由な探求を目指すグループで、彼らには弾圧はなされず、「ニューアテネ」という自治区のような島が活動拠点として与えられるのです。

 

このエピソードも、「ああ、クラークは知っているな」と思わせられる点です。科学と芸術は、私もまさに同感する部分であり、その両方ともが、「宇宙」の実相をそれぞれの形式で表現できる分野だからです。「ニューアテネ」というコミュニティが形成されていった理由は、ユートピア社会が実現して、あらゆる種類の闘争や紛争が一掃された結果、創造芸術というものがすっかり衰退してしまったためです。なぜなら、創造芸術というものは、大部分が「葛藤の克服」をテーマとして描かれるからです。ユートピア社会では、その「葛藤」がもはやないのです。

 

ですから、管理されたユートピアからあえて距離を置き、自由な創造活動に身を投じたいと願うグルーブが生まれたのです。こうして人類は、ユートピアに暮らす、ある意味「家畜化」されたマジョリティと、それに抵抗し、独立性を一部保ちながら、伝統を守って自由な創造活動にいそしもうとするマイノリティとに分かれたのです。アフターコロナの社会では、おそらくこの通りに、人々が分かれて行くことでしょう。そして小説では、「ニューアテネ」のコミュニティの中に、新人類誕生の兆しが現れるのです。

 

それは26歳のジーン・モレルという女性で、オーヴァーロードの監視役が、「ひょっとしたら?」と目を付けます。けれども、ジーンはすでに26歳であったことから、本人自身ではなく、きっと彼女に関係した人物に違いないと目星を付け、彼女を引き続き監視下に置きます。この時のセリフが、「彼女のステータスを “カテゴリー・パープル” に変更する」となっている点に注目してください。「紫カテゴリー」、つまり「第七霊性密度の波動」で彼女を覆い支援するという意味です。

 

果たして彼女は妊娠し、続けて二人の子どもを産みます。この二人が、やがて新しい人類誕生の礎となるのです。この二人の子らは、生まれてしばらくすると、次第に奇妙な特性を示し始めます。予知夢を語ったり、子どもがいる部屋ではポルターガイスト現象が起こったり、そうかと思えば何時間もじっと座り続けたり、また何日も眠り続けたりするのです。子どもたちのこの少し変わった特性は、その後、加速度的に向上して行き、オーヴァーロードのモニタリングによると、宇宙の創生にまで遡った深い認識を得るに至るのです。

 

これを機に、全世界の10歳以下の子どもらに、まるで伝染病が広がるように同一の現象が起き始めます。オーヴァーロードが「トータル・ブレークスルー」と呼ぶメタモルフォーゼの始まりです。やがて子どもたちは、まるで夢遊病者のようになって、ボンヤリした表情のまま一斉に同じダンスを踊り続けるのです。子どもたちは、こうして「個」を失い、「統一意識体」へと変貌してしまうのです。番組ではこの時、果たしてこれはユートピアなのだろうか、という議論がなされていました。その問いかけは、半分当たっていて、半分違っています。

 

これはとても重要なポイントです。先ず違っている半分は、「そうなることが、果たして人間にとってユートピアなのか」ということではなくて、人類は必然的にそうなるのです。それは、既定路線の「帰還への旅」なのです。夢遊病者のようになるのは「瞑想」状態にあるからであり、そのもとで、全「魂」が統一体へと進化して行くわけです。しかし一方で、それがどうもハッピーな状態だとは思えないという予感もあります。それも間違ってはいないのです。

 

地上には、地上でしか味わえない苦痛と、同時に喜びがあります。霊界には、霊界の喜びがあるのですが、それは地上での喜びとは違った、パーっと心が澄んでホンワカ気分がじわーっとやって来る、といった静かな感じのものです。そうしますと、地上でのエキサイティングな喜びから見たら、どうももの足りない感じがするんですね。しかも、そうした気分に到達した経験もそれほどないわけですしね。

 

そこで重要な点は、地上でしか味わえない喜怒哀楽を、地上にいる間は充分に体験しておけ、ということです。『幼年期の終わり』には、終始一貫して、このテーマが間接的に語られています。「充分に楽しんでおけ世、でも君たちは、やがては統一体へと帰るんだから根」ということです。

 

さて、これに関連して、オーヴァーロードたちの運命に関して、重要なオチが付けられているのです。オーヴァーロードたちが宇宙で果たしていた役割というのは、まだ幼年期にある惑星に行って、彼らを支援し、幼年期を卒業させた上で、その中から更に「統一意識体」へと進化する生命の誕生を見届けるというものでした。

 

このミッションは、地球人からは、自分たちは「オーヴァーロード」と呼ばれていたけれどもこれほどの皮肉はなく、実は自分たちも上からの命令を受けて行動していただけなんだよ、と。我々の上には、更に「オーヴァーマインド」とでも言うべき存在がいるんだと言うのです。

 

この「Overmind」というのは、一般的には「Oversoul」と言われることが多く、日本語では「大霊」と訳されています。要するに「神」のことです。その「神」から司令を受けて、自分たちはミッションを遂行しているんだけれども、我々自身はもう子どもを産めないのだ、と言うのです。進化の袋小路に入ってしまった存在なのだ、と告白するんですね。

 

しかし地球人は違う。我々よりもっと超えた進化を遂げることが出来る。そして、それがうらやましいとまで言うのですから。

 

これはどういうことなのでしょう。「オーヴァーロード」は、「悪魔」の姿かたちを象徴しています。つまりは「闇」グループの親玉です。「闇」グループは、二極性の極端な道(図の赤矢印)を選択することで、支配的な人類統合を目指しています。それによって、第三〜第五霊性密度に至る二極性をクリアしてしまおうという戦略です。確かに、その方法でも、第五霊性密度には到達できる。しかし、その先の第六霊性密度に進むことはできないのです。そこで進化はストップです。

 

なぜなら、第六霊性密度というのは、二極性の学習を終えた領域だからです。

 

ここには、「調和」によって統合を実現した「魂」しか進めない。「分離」意識を抱えたままでは、そこで進化が止まってしまうのです。

 

『幼年期の終わり』には、それが象徴的な形で示されているのです。科学をどんなに進展させようとも、知識をどんなに拡大させようとも、文明をどんなに発展させようとも、「分離 / 支配」意識では、最終ゴールには到達できない。やはり「調和 / 合一」というルートを通ってしか「神」への帰還は果たせない。ゆえに中庸、中道を行けということです。

 

さて、メタモルフォーゼした子どもたちが、その後どうなったか? 子どもたちは、短期間のうちに第六霊性密度へと進みます。第六霊性密度には、神々とか、天使、ディーバ、マスターなどと呼ばれる存在たちがいます。この領域では、「魂」の個性はすでになく、同種の性質が集まって、特定の意識体を形づくっています。それぞれの意識体には、それぞれの役割があり、その一つに、星を創ったり、新しい生物を生み出したりするワークもあるのです。

 

メタモルフォーゼした子どもたちは、このワークを何度か練習した後、最後は役目を終えた地球を消滅させてしまうのです。凄いエンディングですよね。幼年期を終えた後は、「消滅」なのですからね。「消滅」、つまり物質界は卒業したということです。今日ここでした解説を聞かなかったとしたら、きっとワケが解らなかったことでしょう。不安に感じたかも知れません。

 

しかし、この小説が長年に渡って多くの人を惹きつけて来たのは、これが単にフィクションではなく、読み手の直感に訴えかけて、「ここには何かある」と思わせるものがあったからです。あの三島由紀夫も、原書で読んで感銘を受けたということですし。

 

いま進行しつつある世界的変化。その背後にはいったい何があるのか。裏の裏の、奥の、そのまた奥に、遠大な計画が隠されています。そのどこまでを知るかによって、人々の理解はまるで違います。しかし、これを読んでくださっているみなさんは、背後にある意味を知って、なぜアーサー・C・クラークがこれを書き残したのかに想いを馳せていただきたいと思います。

 

クラークは、最後の最後に、オーヴァーロードたちの悲哀と、対する人類の可能性を対比させて物語の行く末を描きました。

 

これから起こる状況を見るとき、この対比を、いつもちょこっと思い出していただければな、と思います。そうすれば、どんなピンチもチャンスに変えて生きることができるでしょう。

本物 三題

本物 その1

ある時、インドを旅して来たという男がやって来て、道中話を披露した。

集まった人たちに、

男はスマホで撮った一人のスワミの写真を見せて、こう言った。

「この人は本物だ」

離れて、それを聞いていた私は思った。

この男は、なぜ「俺は本物だ」と言わないのだろう?

本物でない人間に、本物とニセモノの違いが分かるのだろうか。

 

 

本物 その2

他者が語った言葉を、そっくりそのまま周囲に説いているようでは、

その人は、まだ本物とは言えない。

自分の言葉で語りなさい。自分の言葉で語られるようになってこそ本物だ。

しかし、あなたがある心境に到達した時、

自分が語っている言葉が、その道の達人が語っていた言葉と

そっくりそのままだったということは、大いにありうる。

 

 

本物 その3

宗教は「この教えを信じろ」と言う。

宗教は「この戒律を守れ」と言う。

宗教は「このマントラを唱えろ」と言う。

そして、周囲にもっと信者を増やせと命じる。

宗教とは、結局のところ、ニセモノの量産システムに他ならない。