by Rainbow School
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崩壊へ向かう世界、その中にある希望

地球の大変革が加速しています。敏感な方なら、その顕れをいま肌でひしひしとお感じになっておられることでしょう。

 

大きな潮流は三つあります。一つは、気象災害が激甚化している一方で、今なお地球環境の破壊行為が止まないという点。二つめは、お金の仕組みを含むこれまでの政治・経済システムが機能不全に陥る中で、新たな民衆運動が勃興して来ているという点。三つめは、AIやロボットや遺伝子操作等の、次世代テクノロジーの著しい発達です。

 

これらは表層的に見れば、それぞれバラバラな変化として見えるでしょうが、その根底にあるものはみな共通しています。それは、古い考え方、古いシステム、古い秩序から、新しい考え方、新しいシステム、新しい秩序への大転換が進行中ということを意味しているのです。そして、これまでにも何度か語って来たように、新しい家を建てるためには、古い家は破壊されなければならないのです。

 

これから進行することになるであろう世界の大混乱は、この移行期に伴う必然的な事象です。古くから、このことは陣痛にたとえられて来ました。それは地球という惑星に課せられた、次への産みの苦しみだということです。あなた方は、このことをよく認識して、これからご自分の目の前に起こることにもきちんと対処して行って欲しいのです。

 

それはこういうこと。来たる陣痛の苦しみに怯えながら毎日を過ごすか、それとも、赤ちゃん誕生の喜びを予感して今を耐え抜くかです。

 

毎日毎日、飽きもせずに、地震や台風や犯罪事件発生の警告ばかりしておられる霊能者の方がおられます。その方の霊能力を疑うわけではありませんし、きっと親切心でやっておられるのだと思います。でも、そんなことをしていったい何になるのでしょうか? そうした警告を事前に知って行動すれば、被害が未然に防げるということなのでしょうか?

 

たぶんそうなのでしょう。けれども、〈未然に防げるもの〉とは、何を意味しているのでしょう。生命や財産のことではありませんか? それがそんなに大切なのですか? 実に、ここが肝心なところです。あなた方は、全員が、いずれはこの世でいうところの「死」を迎えます。どの道、生命も財産もぜーーーんぶ失われることになるのですよ。そんなものに執着心を抱いて、一体どうするのですか?

 

そんな対処法は、単に「衝撃」の先延ばしに過ぎない。それよりも、「衝撃」を事前に手放して、来たる日が、もう「衝撃」とは思わない気持ちになって、今日という一日を楽しく過ごした方がずっといいとは思いませんか? 地震は起きるときには起きます。台風は来るときには来ます。事件は起こるときには起きます。そんなものは当たり前。ない方がおかしいです。

 

自分だけは助かりたい。そんな卑しい気持ちを刺激されて興奮しているようでは、先行きは暗いですぞ。よいですか、地球環境が今のようになったのはどうしてですか? 森林を伐採し、資源を掘り尽くし、川や海を汚染し、放射能を撒き散らし、毒入りの野菜を食べる日常を日常にしてしまったのは、あなたたちなんですよ。あなたたちが、総意としてそういう社会を創ったのです。

 

なぜ、そこに気づかないの? どの世界に、自分が依存している環境を、自分の手で破壊する生物がいますか? でもそれを、あなた方はやって来たし、今もまだやっている。ああ、なんという愚かさでしょう。昨今の気象の極端化現象は、人々の心の極端化現象をそのまま映し出したものです。これは天が下す罰ではありません。宇宙には罪も罰もありません。作用と反作用があるだけ。

 

それらはみんな、あなたたちが望んだこと。あなたたちの心が、そのような世界の実現を追い求めたのです。このメカニズムに気づきなさい。災害で突然死することの恐怖を云々する前に、人類は共同して、緩慢な「自殺」に向かっているということを知るべきです。いや、緩慢どころではない。今や急展開で向かっているのですよ。

 

あなたたちが今なすべきことは、霊能者の予言に従って、危険から自分の身を回避することではありません。これは、人類みんなの問題なのです。人間が誰も住めない地球になろうとしているのに、自分だけは生き残ろうとしたってそうはいかない。あなたたちが今なすべきことは、今できることからライフスタイルを改めることです。そして、地球を破壊することに熱心な、愚かな政治指導者たちに対しては、敢然と反旗をひるがえすことです。

 

古い考え方、古いシステム、古い秩序に固執する人たちは、これを維持しようとして、今やなりふり構わぬ策に出ています。しかし、いくら延命策を講じようとも、もはや継続の限界値を超えており、今の社会システムは近い将来に必ず破綻、崩壊します。一方で、新しい考え方、新しいシステム、新しい秩序を模索する人々は、既存の仕組みを破壊します。つまり、どっちの道を選ぼうとも、今の世界秩序は崩壊します。

 

そこに希望を見出してください。

 

えっ、分からない?

たったいま言ったばかりじゃありませんか。

赤ちゃん誕生の喜びを予感して、今を耐え抜くのですよ。

 

強いイメージを思い描きなさい。

住むところや、お金の心配がまったくなく、世界中の人々が、自分の才能を発揮し、これを持ち寄って互いに分かち合える世界を。助け合える世界を。喜びと喜びが交換できる世界を。一切の武器がなくなった世界を。子どもたちがみな笑顔で、のびのびと自由に遊んでいる世界を。

 

みんなが思い描けば、そのような世界が出来ます。うそじゃない。思いが行動となり、行動の結果が世界を創るのです。人類は今まで、それとは真逆の世界を思い描いて来たからこそ、そのような世界が実現化しているのですよ。この単純な理屈に気がつきなさい。深い眠りから、眠り続けて来た長い歴史から、いよいよ目覚める時が来ました。このチャンスを、是非ともものにしてください。

 

あなた方に染み付いた洗脳は、あまりにも深く、また何重にも積み重ねられているので、完全に目覚めるまでには、何度も何度も高いハードルを乗り越えなければならないかも知れません。でも、人類全体を覆い尽くしている「洗脳」が、どのような構造によって出来上がっているかをここで知れば、脱出への糸口が掴めるかも知れません。

 

人類全体を覆うこの巨大な洗脳システムは、次の三つの要素の連鎖から成り立っています。

 

/祐屬持つエゴ

▲┘瓦魎霹廚箸靴社会構造

その社会に適合しなくてはならないという思い込み

 

先ずは、人間が普遍的に持っているエゴです。エゴというのは、もともとは魂が一者から分かれて、個別化した際に、必然的に発生したものです。

 

それは、自分以外の「他者を認める」という視点を提供すると共に、乗り越えて行くべき修養のツールとして機能しているのです。

 

ところが地上では、エゴの行使がむしろ礼賛される傾向があり、近年その傾向が一段と強まっているのです。

 

富を得ること、名声を得ること、地位を守ること、他者を支配すること、人を騙すこと、他者から収奪すること、が実に大っぴらに行われ、こうした能力に長けた人たちが、社会の中枢でリーダーの役割を果たすようになっているのです。これは地上世界ならではの逆転現象です。かつて言われた「人徳」などという言葉はもはや死語同然で、剥き出しのエゴをぶつけ合う世の中になってしまったのです。

 

このような価値観を有するリーダーたちが、今の社会の中枢を担っているのですから、当然ながら、社会構造の基盤は、こうした価値観をベースに形成されて行きます。お金の問題も、教育も、医療も、外交も、法律も、エネルギー問題も、環境問題も、マスコミも、何もかもがエゴを満たすための仕組みとして考案され、特定の人のみが利益を得るように計画されているのです。

 

さて、こうした社会構造は、ごく一部の人のみが得をする仕組みになっているのですが、既得権益を持つ人たちは、この構造を維持し続けるために、ここに競争原理を導入し、この構造を大衆に認めさせます。それによって、構造そのものの是非までは問われないようにしているのです。たとえて言えば、高校野球の甲子園大会のようなもの。毎年恒例でそれが当たり前の感覚になっているのです。

 

しかし、むろん大衆の多くは、この支配構造の上部に行くことは出来ません。けれども、競争原理のおかげで、自己責任論を押し付けることが出来るのです。あなたが貧乏なのは、あなたがよい会社に入れないのは、あなたがいい地位につけないのは、あなたが結婚できないのは、みんなみんなあなた自身のせい。あなたの努力が足りないせいなのさ。

 

かくして、今の社会構造にちゃんと適合して生きねばならない、そしてその階段を上らなければならない、という「思い込み」が、体の芯にまで沁み通ることになるのです。そして、そのための必死の努力が、その人の内なるエゴを強化し、それによって社会構造はますますエゴに傾き、社会に適合しなければならないという思い込みが、さらなるエゴを育てるという悪循環となって、この輪がグルグル廻るのです。

 

今の社会の「生きにくさ」というものの正体は、まさにこの循環の中にあるのです。心を和ませる小さなコミュニティというものが次々と失われ、人類の大半が巨大システムに組み込まれて生活をするようになりました。誰も彼もがTwitterで呟き、いいねボタンを押し、amazonで買い物をし、チェーン店で食事を済ませ、テーブルに並んだお皿の写真を撮ってInstagramに投稿する。

 

それはまるで、先へ行こうとして、ただ車輪を回し続けるハツカネズミのようなものなのに、誰もそんなことは気にしていない。この循環の輪にいちど嵌ってしまったら、もう容易には脱け出せないのです。なぜなら、この輪からこぼれることは、その人に大変な恐怖心をもたらすから。エゴを捨て去ることも恐怖だし、社会構造が崩壊することも恐怖。自分の思い込み(信念)が引っくり返ることはさらにさらに大恐怖です。

 

この「洗脳」システムのループは極めて強力で、誰も、よもや自分が「洗脳」されているとは気がつかない。子どものためを思う親も、学校の教師もみな「洗脳」されているのであり、それを管轄している役所の人間も、政治家も、経済人も、学者も、マスコミ人もみんなみんな「洗脳」されていて、この「洗脳」が、グルグルと果てしなく回転するのです。

 

右だ、左だ、と言ったところで、このシステムの中でウロチョロしているだけであって、右が左を攻撃し、左が右を攻撃するのは、その約束事に習って条件反射しているだけの話。所詮は、籠の中でグルグル車輪を回すハツカネズミなのです。でも、「この社会は、それ自体がどうもおかしい」との直観を持つごく少数の人にとっては、この世界は、もの凄く生きにくい世の中に映ることになるのです。

 

そして、そのような人たちの大多数は、今までは、社会の同調圧力に負けてしまっていました。なぜなら、そこに疑問を呈することは、即、社会からの落ちこぼれを意味しましたし、独りぼっちになることでしたし、そもそもそれ以外の「生き方」を考えたこともないし、教えて貰ったこともなかったからです。

 

ですから、その輪からドロップアウトすることは、もの凄い勇気を必要とする。みんなそれが怖くて、「本当は、もっと違う世界があるのかも?」「本当の幸福というのは、違うところにあるんじゃないだろうか」とふと思っても、急いでその思いを打ち消して、またハツカネズミの生活に戻って行くのです。たとえ確信めいたものが浮かんだところで、家族がそれを否定することは目に見えていますし‥‥。

 

でも、あなた方に言っておきます。このループの一端は、すでに崩壊に向かって進んでいるのですよ。既存の社会構造の崩壊が加速度的に進んでいる。その顕れを、あなたも既にお感じになっている筈です。ですから、この輪のネガティブな連鎖はやがて切れてしまいます。

 

さてその時です。ただ仕組みをぶっ壊すだけでは足りない。人類の課題としては、自分の「思い込み(信念)」の誤りに気づいて、同時にエゴを手放すことが出来るかどうかです。

 

この点で、いま「地球人」となっている魂が選択する道は、大きく二手に分かれます。それでもなお、エゴを貫き通そうとする道を行くのか、それともエゴを手放す道に入るのか。

 

よいですか。「救い」というのは、命が助かることでも、財産が保全されることでもないのですよ。悩みが解消されることでも、どん底から引き上げられることでもない。結果、そうなることがあったとしてもね。「救い」というのは、「目覚める」ことなのですよ。何に? 自分は「最初から救われていたのだ」ということに。この世は、自分が現実だと思っていたこの世界が、実は「幻に過ぎないのだ」ということに。

 

この世は幻。

 

あなたも、この真理の言葉に、一度は触れたことがあるでしょう? 古代より、変わらず言われ続けて来たことです。でも、そう言われても何のことやらさっぱりワケが解らないでしょうし、たぶん実感も湧かないことでしょう。無理もない。もしそれが解れば、しかも頭で解るのではなく、全身で、かつ魂のレベルで解るのであれば、その人は既にアセンションしているということですから。

 

しかし、いま改めて「この世は幻」と聴いた時、あなたはこう思うかも知れません。「もし、この世が幻と言うのなら、そんな世界を生きることに、いったい何の意味があるのか」と‥‥。解りますよ。でも違うのです。

 

「幻の世界を、どう生きるか」が問われているのです。

 

あなた方が、この世でいうところの「死」を迎えた時、かつてあなたであった身体は、間もなく分解を始めます。あなたには、もうこの世で生きる乗り物はありません。あなたが生きた証しだと思って来た数々の残留物との接触も、その瞬間から断たれます。でも、本当のあなたは、その後も生き続けるのです。本当のあなた、それは多層階で構成された「意識」です。

 

本当のあなたであるところのこの意識体は、そうやって、あの世とこの世を行き来しているのです。意識体だけが連続するのであり、生まれ変わりを体験する度に、そこでの成長度合いが魂に刻み込まれるのです。さあ、もうお解りでしょう。「幻の世界を、どう生きるか」が問われている、ということの意味が。幻想の世界というのは、あなたに向けられた、中間テストや卒業テストのようなものです。

 

そのテストを前にして、あなたはまだエゴの誘惑に負けてしまうのですか。今度ばかりは、地球人にとってラストチャンスなのですよ。エゴをますます太らせて行こうとする人々を、反面教師としなさい。そして憐れんであげなさい。かつてイエスも言いました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でも分からないのです。」と。

 

あなた方は、エゴの扇動者に、もうこれ以上、巻き込まれるのを止めるべきです。今度こそ、この不毛の輪の連続から自由になるのです。勇気を持ちなさい。この輪からドロップアウトしても、宇宙が失われるわけではありません。地球が無くなるわけではありません。

 

あなた方がいま「正しい」と思っている社会通念も、みーんな人間が拵えたもの。その時々の為政者が、社会の支配者が、自分たちに都合のよいように。そんなものは、時が変われば一変してしまう、所詮は泡沫(うたかた)に過ぎないのです。それなのに、これからも泡沫の奴隷であり続けるのですか?

 

そこに気づきなさい。あなたは自由だし、霊魂は深いところで、宇宙の真理を知っています。あなたが真理に沿った生き方をすれば、魂は喜び、真理に逆らった生き方をすれば、魂は引き裂かれ、苦悩に沈みます。

 

すべては一つ。そこに希望を見出しなさい。

あなたの中に未だ燻り続けるエゴを、ジャンピングボードに活用するのです。

そして、大きく羽ばたくのです。

あなたには、それが出来る。

認知症の背後にある意味

Q.医療関係の仕事に従事している者です。私が勤務している病棟では、認知症になっておられる患者さんが多くいらっしゃいます。霊的学習に関する最近の私の理解では、人が怪我をしたり病気になったりすることや、またどのように死ぬかということも、究極的にはその人が自分で決めていることだと捉えております。こうした理解は正しいでしょうか? またそれが正しいとした場合、自分が認知症になることを選択し、人生を忘れていくということは、その人にとってどのような意味があるのでしょうか?

 

A.先ずは前半の質問に関してです。これには「運命論」ということを考えなくてはなりません。人の運命は、予めすべて決まっているのだという考え方です。人生の不条理に接した時に、そのような考えに至る人は大勢います。また人によっては、「宿命」と「運命」という言葉を分けて、「宿命」は変えられないものだが「運命」は変えられる、と言う人もいます。本当はどうなのでしょうか?

 

これらは半分は当たっているが、半分は間違っていると言えます。先ず、「人の運命は、予め決まっている」と言った場合、そこには、自分の外側にある、何らかの不可抗力によって〈決められている〉というニュアンスが多分に含まれているのではないでしょうか? だとすると、これは正しくはありません。外側から〈決められている〉ものはありません。あなたには、あなたの人生を生きる「自由意志」が与えられているのです。

 

これは、「魂」が持つ根本的な性質であって、この「自由意志」をどう使うかが、その「魂」にとっての個別の旅なのです。さて、「魂」は輪廻転生をします。その際に、中間生(あの世)において、次の転生の目的と、大まかな人生プランを、まさに自分の「自由意志」によって設計するのです。ですから、これをもし「運命」と呼ぶならば、「運命」は自分で〈決めている〉のです。

 

*この時には、自分のガイド役やマスターとの話し合いやアドバイスがあります。

 

問題は、現世(この世)に誕生し、物心がつくようになると、この世の知覚認識能力がだんだんと向上するのと入れ替わりに、中間生で自分がしてきた人生プランを忘れてしまうということです。その結果、自分で「運命」を〈決めている〉のに、外側からの不可抗力によって〈決められている〉と思い込んでしまうのです。しかしこの忘却には、とてもよい面があります。それは、人が大いに迷い、悩む、ということです。

 

えっ、迷い、悩むことが、どうしてよいことなの? と、首を傾げられる方が少なからずおられるでしょう。でも、人生の岐路において、大いに迷い、悩むからこそ、それをジャンピング・ボードにして、その「魂」の霊的な成長が図られるのです。そこで、これまでにもしばしば、それが「ギフト」だと言ってきたのです。あなたが出遭う試練は、言わば「魂」の「筋トレ」です。それは、あの世にいた時のあなたが、自分自身に贈っておいた「ギフト」なのです。

 

さて、以上を理解していただいた上で、改めて質問者の「怪我や、病気や、死ぬことも自分が決めている」という捉え方を見ますと、そこには若干の誤解があるようです。確かに、究極的には何もかも自分が〈決めている〉と言ってもよいのですが、怪我を未然に防いだり、病気にならぬように心身を鍛えたり労ったりすることは充分に可能ですし、またそうすべきです。何でもかんでも「運命論」に帰すべきではありません。

 

「死」に関しては、今回は深くは触れませんが、人は、自分で設計して来た目的を果たすまでは、この世で言うところの「死」を迎えることはありません。必ず目的を果たしてから死ぬのです。そう言うと、きっとたくさんの疑問が沸くでしょうが(特に個別の事例として)、今はそこまでで留めておきます。

 

次に「認知症」に関してです。ここで最初に考えなければいけないのは、「認知症」という言葉が、2004年になってから作られた、比較的新しい言葉だということです。それまでは、一般には「ボケ」とか「痴呆症」と言われていました。この言葉の置き換えには、それ以前の言葉に含まれていた差別的ニュアンスを払拭したいという考えがあったと思いますが、同時に、医学会の中で医学用語っぽくしたいという別のベクトルも大いに働いていたと思います。

 

そして、この試みは成功しました。今では「認知症」という言葉を誰もが知るところとなり、25歳以下では、おそらくそれが当たり前の言葉と認識になっていることでしょう。今日、それは堂々と「病気」の仲間入りをし、親が「認知症」になったら介護が大変とか、歳を取ったら自分も「認知症」になるかも?、という新たな「病気不安」を人々に植え付ける結果となりました。

 

ところが、「ボケ」とか「痴呆症」という言葉が使われるもっと以前には、別の言い方がされていたこともあったのです。今日、その言葉を知る人は少ないようですが、それは「二度わらし(童子)」と呼ばれていました。人生の最晩年期に、二度めの童子に還るという意味です。そしてこの意味は、今日「認知症」と呼ぶようになった症状の、最も適切な捉え方を示しています。

 

ここで、これまでにも何度か触れてきた、心と脳と魂の関係についておさらいをしておきましょう。今日の科学では、心は脳の活動によって生じる、という考え方が主流を占めています。しかし、この考えは全くの誤りです。心のそれぞれの顕れ方によって、脳の特定部位が活動をしているというのは、観察に基づいた事実です。しかし、だからと言って、脳が心を生み出しているという理由にはなりません。

 

もし、脳が心を生み出しているのだとすれば、ではその脳は誰が動かしているのか、何が動かしているのか、心の真の支配者は誰なのか、という疑義が生じます。現行の「科学」と称するものは、この点には頰被りして、原因は脳だ脳だと言うばかりなのです。これも、心の問題を脳の機能障害に帰することで、「病気」にしてしまいたいという輩が、暗躍している結果の現象なのです。

 

しかし「脳」というものは、コンピュータでいうところのハードウェアに過ぎないのです。そして、みなさんがよくご存知のように、コンピュータはハードだけでは動きません。動かすにはソフトウェアが必要です。そのソフトに当たるものが「魂」なのです。「心」は、「魂」というソフトウェアが、「脳」というハードウェアを使って演算した結果の、この世におけるアウトプット(出力)なのです。

 

今の時代、「心」を病んでいる人が非常に多いと言われています。かく言う私も、過去に鬱病を経験いたしました。しかしそれは、「脳」の機能に障害があるのではありません。ハードではなくソフト、つまり「魂」の側が傷ついているのです。傷ついた「魂」が、「脳」の演算を狂わせているのです。ですから、脳機能を正常化しようとしていくら薬物を使っても、真の問題は解決しません。

 

真の問題解決のためには、傷ついた「魂」を癒やす必要があるのです。ではどうやって癒やすのか。それには先ず、なぜ「魂」が傷ついているのかを知らなくてはなりません。「魂」が傷つく理由は、自分の本体が「魂」にあるということを知らずに、肉体を持った自分が自分だと思い込み、この世の論理に合わせようとして無理をするからです。そこで、「魂」が持つ本来の「自由」が、阻害されてしまうのです。

 

けれども、自分は大河の一滴だと気づき、宇宙の流れに逆らうことなく、真理のままに生きていれば、本当の自分、つまり「真我」が発見でき、その奥の院は「神我」に繋がっているのだということを知るようになります。そうすれば、「魂」は癒やされ、この生きにくい世の中にあっても、明るく、朗らかに、楽しく生きることが出来るのです。このように、理屈は至ってシンプルなのですが、この世で受けた「洗脳」を解くのが、とても難しいのです。

 

「認知症」というものも、近年になってから作られた、そのような社会「洗脳」の一つです。一般に「心」の病いと言われている人々の中で、脳機能に本当に障害があるという人は、極めて稀です。大多数の人は、そう思い込まされているか、あるいは自分で思い込んでいるという状態です。ところが、認知症はそうではありません。老化に伴って、実際に脳機能(つまりハードウェア)が低下して行ってしまうのです。

 

脳も筋肉と同じで、使わなければだんだんと衰えて行ってしまいます。自分で考えたり、工夫したり、創造したりするということを止めて、生活を他人まかせにしてしまうと、脳の老化は一気に進んでしまいます。今の時代は、「他人まかせ」が横行している時代です。めんどくさいことは一切しない。そういう感覚に慣らされていますし、スマホやAIやロボットの登場で、この傾向はますます強くなっています。

 

現代社会というのは、「認知症」になるための危険なワナでいっぱいです。ですから、認知症になっている患者さんを大勢見るというのは、しごく当然の結果なのです。今の病院システムは、入院患者の自力を阻み、籠の中の鶏同様にしてしまっていますからね。認知症になるというのは、他の身体的病気と同様、身体のケア不足、この場合は「脳のケア不足」が原因ということになります。ここに、先ず、その人の今世で、新たに(あるいは再び)作った課題があります。

 

さて今、認知症は「脳」というハードウェアの機能的衰えだと書いたのですが、他者から見て、アウトプット(=心)がおかしいように見えても、ソフトウェア(=魂)に関しては、以前と変わらずに活発に活動しているのです。ただし、ハードウェアに支障が出てきているので、以前のようには思考したり行動したりするということが困難になり、本人は大層もどかしい思いをしているのです。

 

と、ここまでの説明を聞いて、ピン!と来た方はいらっしゃいませんか? あなたも過ごした、いつかのあの段階とそれは同じです。そう、乳幼児の段階です。ですから、昔の人は認知症のことを「二度わらし」と呼んだのです。紙に山形のカーブを描いてみてください。脳機能の発達のカーブです。生まれてから脳がどんどん発達し、そしてあるピークを迎えて、それからは徐々に低下して行く。

 

脳機能は、他の身体機関と同じように、発達と衰退の時を経るのですが、その間、ソフトウェアとしての「魂」は、連続的に活動しているのです。しかし、赤ちゃんの時には、脳だけではなく、身体の骨格や筋肉組織も充分には発達していないので、全面的に誰かのお世話にならなければ生きて行くことは出来ません。ところが老人の場合は、身体機能はまだそこそこ動くので、いわゆる徘徊やその他の困った問題が起こるのです。

 

けれども、今言ったこの認識に従って、赤ちゃんと老人とを比べると、今の社会の人間が、老人に対していかに冷淡であるかが解るのです。なぜなら、赤ちゃんと老人は、人生サイクルの上昇期と下降期の一局面を示していて、同じような状態にあるのにも関わらず、身の回りのことを自分で出来ずに、時々むずかったりする赤ちゃんに対しては、「認知症」とは言わないのはどうしてでしょうか?

 

それは、今はそうであっても、その後にはやがて「成長」するだろうという暗黙の希望があるからです。ところが、その逆回路は、「衰退」と「死」をイメージさせるので、反対に忌み嫌われるのです。これは、人間が「死」の本当の意味を知らない、「生命」の本当の意味を知らないところから来ているのです。「人生死んだら終わり。生きているうちが花なのよ」と、ほとんどの人がそう思っているのです。

 

ですがこれは、この半世紀で、急速に広まった考え方です。身近なところで「死」を見るという機会がほとんど無くなってしまい、大多数の人々は「死」を出来るだけ遠ざけるようにして、ただ享楽的に今を生きています。ですが、「死に方」が解らない人には、「生き方」も解らないのです。現代社会が息苦しい(生き苦しい)のは、その部分をみんな避けて生きようとしているからです。

 

先ほど書いていただいた山形のカーブの端と端を、下部に円を描くようにして結んでください。指輪のような形になるでしょう。これが輪廻転生のサイクルです。山形の部分が、いわゆる「この世」での活動期間。しかしこれを終えても、あの世での生が続き、ぐるっと廻ってまた次の誕生へと繋がっているのです。「魂」は、この円環状を連続的に生き、少しずつ霊的成長を遂げながら、スパイラル状に旅を続けて行くのです。

 

乳幼児期と認知症期では、「脳」がうまく機能していませんので、その「魂」の霊性の発達の度合いというものがもろに出ます。乳児はまだ自分ひとりでは動けませんが、幼児を観察していますと、2歳くらいから個性が見え始めます。それは、その「魂」が今世に持ち越して来た自分なのです。

 

一方、認知症の人の中には、暴言を吐いたりする人もいるかと思えば、終始ニコニコしている人もいます。それは、その「魂」の、現在の霊的な発達段階を示しているのです。社会の中で取り繕って来た蓋の部分が外れてしまったので、今の「魂」のあり方そのものが表出しているのです。

 

周囲にいる人たちは、そのメカニズムをよく理解した上で、どの「魂」にも同じ労わりの心を持って接してあげてください。なぜなら、発達段階に違いがあるとは言え、どの「魂」もみな等しく神の子なのですから。それが神の視点なのですから。そして、その「魂」が、少しでも霊的に向上して行けるように手助けしてあげてください。それがあなたの役割です。存在意義です。

 

具体的には、もどかしい気持ちをなだめてあげて、本当の自分(魂の自分=真我)を見つめ直すように促すこと。そしてその奥には「神我」が繋がっていることを繰り返し話してあげてください。遅くはありません。「魂」には、いつでも聞く耳があるのです。ヒーリング・ミュージックをお聞かせするのもよいです。

 

そのようにして、その人にチャンスを与えてください。真理を理解しようとせずに人生を過ごし、霊的な学習をずっと避けて来たからこそ、その人は今そうなっているのです。人間、いよいよとならなければ、簡単には目を覚まそうとはしないものです。その人は、認知症というギフトを頂いて、認知症のもどかしさを経験する中で、ようやく「魂」の学習を始めようとしているのです。

 

また、このチャンスは、本人だけではなく、周囲にいる人たちにも与えられています。何度も書いて来たように、人間関係とは、つねに両者の間にあるものであり、どちらか一方ということは無いのです。認知症を患っている人は、そのもとでの課題を生きることになりますが、それをお世話してあげる人も、お世話してあげるところに自分の課題があるのです。これは認知症だけではなく、すべての看護、介護についても同じことが言えます。

 

そして、「How Can I Help ?」という課題を、あなたは、ご自分の意思で、自由に選び、行動することが出来るのです。たとえば、

 

・いやだから、やらない。

・いやだけれど、まあやってみる。

・あれこれ考えずに普通にやる。

・喜んで、楽しんで、やる。

 

目標をどこに置くかも、あなたの自由です。

宇宙には、罪も罰もありません。

すべてが、あなたの自由意志。あなたに任されているのです。

 

さて、あなたの自由意志は、どうすることを選びますか?

静かに内観をして、自分があの世でして来た約束を思い出してみてください。

そう、それですよ。では、行ってらっしゃい。

“hate”ということについて

選挙戦が今たけなわです。選挙は短期決戦ですので、何者かへの「憎悪」を前面に打ち出し、人々の心に宿る「ヘイトしたい」という気持ちに火を点けた候補者が、一時的に多くの票を集めて勝利する場合があります。しかしこのような人物や政党は、長い目で見れば、目標を達成することは出来ません。

 

すべては「波動の法則」によります。「波動の法則」というのは、現象面で見た場合には極めてシンプルなもので、同じ波長どうしは共鳴し合うというものです。これは見近にあるギターなどの楽器を奏でればすぐに解る理屈です。弦を弾くとギターが鳴るのは、胴の共鳴箱が弦の振動を増幅してくれるからです。もし共鳴箱が無かったとしたら、弦を弾いても微かな音しか聞こえません。

 

さて、この理屈が解れば、「ヘイトしたい」という気持ちを集めたグループが、長期的には決してうまくは行かないという理由も解るでしょう。「○○をぶっ壊せ」とか「○○をやっつけろ」と言っている人たちは、同種の波動を持つ人たちを集めます。当初はよいのですが、熱が冷めて互いの温度差が見え始めると、最後は集まった者どうしが互いにぶっ壊したり、やっつけ合うことになるのです。

 

何かを改革し創造するためには、確かにその前提として「破壊」が必要です。しかしそれは、次の理想実現のための、やむを得ぬプロセスとして、でなければなりません。「破壊」を目的にした「破壊」では、後には荒廃しか残らないのです。ですから、改革を叫ぶその言葉の奥に、どんな「理想」が語られているかを鋭く見抜くことが大切です。

 

狡猾で、霊性の低い権力者たちは、人々のこの「ヘイトしたい」という気持ちをしょっちゅう利用します。特定の「敵」を作っては、それへの憎悪を煽ることによって、人々の共感を我が方に引きつけようとするのです。その最悪な結果が、言わずもがなの「戦争」です。残念ながら、今もって多くの人は、特に若者は、そうした企みに簡単に引っ掛かってしまいます。

 

でも、先の太平洋戦争で犠牲になったのは、結局は誰かを考えてみてください。「鬼畜米英」と言って戦争に駆り出されて行った若者たちです。軍人軍属は230万人が亡くなったと言われていますが、そのうちの実に60パーセントは、なんと戦闘ではなく、マラリヤなどの病気や飢えで亡くなっているのです。なんてひどい話でしょう。自軍の上層部が描いた無謀な作戦によって、前途ある命を落としたのです。

 

さらには、一般民間人も内外地合わせ80万人が亡くなっています。戦争法では(そもそも、ここまではやっていいというのもおかしな話ですが)民間人への攻撃は禁止されているのに、アメリカ軍は日本の主要都市を原爆と焼夷弾によって焼き尽くし、多数の一般市民を殺戮しました。アメリカでは、この行為は、地上戦の突入によって失われる兵士の命を未然に救ったものとして正当化されています。

 

同様に日本でも、このような悲惨な結果をもたらした戦争の当時の立案者や遂行者たちの多くは、戦後になって裁かれることもなく(戦勝者が行った『極東国際軍事裁判』はありましたが、国内法では裁かれていません)、また総括や反省もなく、手のひらを返すようにして今度はアメリカに媚を売ることによって、政治や経済や学問の分野に返り咲き、再び権力の座に就いているのです。

 

よく、「現在の政治状況は、満州事変からのその後の日本にそっくりだ」などと言われます。歴史は繰り返す。「ヘイト」を焚きつけられて、その気になって、割りを食うのは、結局は若者たちなのです。小泉・竹中改革の時にも、「郵政民営化」「自民党をぶっ壊す!」という言葉に人々は熱狂しました。はて、それでどうなったでしょうか? 日本社会がぶっ壊れ、その後の若者たちは、ロスジェネ世代にされてしまったではないですか。

 

そもそも、他者を「ヘイトしたい」気持ちとは何なのでしょうか? 一体どこからそれが沸いて来るのでしょうか? これは、「承認欲求」の歪んだ形の表現なのです。人は、自分がこの世に確かに「存在している価値がある」と思えなければ、非常に生きにくいものなのです。極端な話、「価値がない」と思った時には、消滅願望まで生じてしまいます。

 

そこで、「あなたには、生きている価値があるよ」と、周囲から承認して貰いたいのです。この「承認欲求」というものは、普通であれば、コミュニティの一員として何かしらに役立っていると思うことで満足させられるのですが、現代社会に端的なように、分断され、コミュニティを失った人間には、そうした手段がないのです。

 

一方で、情報発信ツールとしてのネットメディアには、誰もが非常に簡単に参入することが出来ます。ネットメディアが無かった時代には、自己主張を発表することには大変な努力を必要としました。新聞や雑誌への投稿に当たっては、文章スキルをきちんと磨いて、さらには内容もキラリと光るものでなければ決して採用されませんでした。

 

ところが、現在のネット環境はそうではありません。検閲なしに、内容が陳腐であろうと、文章がメチャクチャであろうと、たったの一言であろうと、wwwwwであろうと、自己主張が可能な環境になったのです。この二つの要因が結びついた時に、「承認欲求」としての「ヘイト」が、歪んだ形の自己表現として一気に拡大して行きました。

 

しかしそれは、やはり「歪み」に他なりません。本人は、一生懸命自己表現をしているつもりですが、「ヘイト」する相手の褌を借りて、相撲を取っているだけです。ですからこれは、形を変えた「依存(addiction)」なのです。「ヘイト」する相手に依存してるからこそ、自分が成り立っているのです。その意味では、相手に感謝しなければなりません。

 

でも、そこが本人には分かっていないのです。「依存」することでしか、自己表現をする方法を知らない。他者の表現にはすぐに心を騒がせてコメントするけれども、自分から「私はこう思う」という主張はしない。それは、本当の自己表現ではありません。その気づきが、「ヘイト」する人たちにはまだ育っていません。

 

「オレという存在がここにいるんだぞー」と叫びたい気持ちは解ります。でも「攻撃性」という槍を投げれば、その槍はブーメランのように返って来て、結局は自分自身を傷つけます。顕在意識に沸き上がった暴発的な感情と、魂の深奥にある宇宙意識とが強く引き裂かれてしまうので、心が不安定となりイライラや苦痛がより増大してゆくのです。

 

ここで、「これじゃいかん」と気づいて引き返せば、一つの学習機会ともなるのですが、イライラや苦痛の原因が自分の性向にあると認めたくない人は、苦痛を解消しようとして、さらに「ヘイト」することにエネルギーを費やしてしまう。こうなると、その人はストーカーまがいの行為にまで及び、自分がいま何をしているのかさえ分からなくなほどの病的な様相を呈して行きます。

 

ここに、宗教的観念や、政治的観念からの「正義」のお墨付きが与えられると、「ヘイト」の気持ちが、信じがたいほどの暴走を始めます。そうやって、この集合意識が、あらゆる戦争や紛争を形づくるのです。先にも言いましたが、権力者たちは、このエネルギーを利用して若者を戦争に駆り立てます。その結果、使い捨てにされるのは、いつも若い生命なのです。

 

いったい何度同じ過ちを繰り返せば、地球人類は気がつくのでしょう。「ヘイト」の気持ちが、幸福を創造することはありません。「ヘイト」は破壊しかもたらしません。相手だけではなく、自分をも破壊してしまうのです。このような愚かな行為に、人はなぜそれほどにまで心惹かれ、夢中になるのでしょうか?

 

若者たちよ、目を覚ましなさい。自分たちが利用されているのが分からないのですか? 未来を創るのはあなたたちなんですよ。狡猾な権力者や欲ボケした老人たちの餌食になってしまって、一体どうするんですか? あなただって人から愛されたいでしょう? だったら他者を愛しなさい。それを、何が「ヘイト」ですか!

 

韓国、北朝鮮、中国憎し? 外交というものは、表に出たニュースを聞いて解るほど、そんなに単純なものではありません。はっきり言って、ニュース報道は大衆を操作するためのニセ情報です。そこには裏があり、裏の奥には影があり、さらにその奥には闇がある。そしてその闇には、地上世界を超えた魔界がつながっている。

 

この多重構造が、これまでの長い期間、人々を盲目にさせ、互いに反目をさせて来ました。表のニュースしか知らない人、裏情報を知っている人、裏の裏の影まで分かる人、その奥の闇の存在に気づいている人とでは、世の中の動向に関する理解度がまるで違う。ですから容易にはコミュニケーションが成立しません。権力者や闇の存在は、それを隠れ蓑にして、大衆を好き放題に操って来たのです。

 

しかし、いま宇宙から強い光が当たるようになって、隠されていた闇の断片がどんどん表に出て来るようになっています。でもどんなに裏を調べても、裏の構図は超複雑で、また手の届く場所でもありませんから、誰にも真実のほどは分かりません。ですから、そこを追究し過ぎて、ラビリンスに迷い込まないようにした方がよいでしょう。

 

それよりも、あなた方に、何が本物の情報かを見破るポイントをお教えして起きます。表→裏→影→闇と、人類支配の構造は多段階になるほど、見えにくくかつ複雑化して行きます。ところが、闇のさらに奥にある「魔界」にまで話が及ぶと、事が一挙に単純化してしまうのです。それを説明する前に、闇と魔界との関係を言っておかなくてはなりません。

 

「魔界」という、この言葉だけを見ると、オカルティックなものを想像するかも知れませんが(実際に闇グループと「悪魔教」と結びつけて語っている論者もおられますが)、私が言うのはそういうことではありません。闇の支配者にせよ、その他の人々にせよ、人間というものは「意識的存在」なのだということ。それが人間の本質だということです。

 

私たちが何かの「行為」をする。それは地上という物理的世界における見え方なのであって、その「行為」には、必ずそうしたいという「意識」が伴っているのです。「行為」という物理的現象は、実は幻影にすぎず、「意識」の方が本質だということです。そして「意識」というものは、無形の振動するエネルギーですから、「波動の法則」によって同種のものが引き合い、強め合うのです。

 

いま「魔界」と書きましたが、「魔界」というものがあるかと言えば、あるとも言えるし、ないとも言える。どういうことかと言いますと、それは非物質的領域における、「悪さをしたいなー」「人間どもを奴隷にしてコキ使ってやりたいなー」という思念の集合場所なのです。そこと、闇の支配者たちの意識とが繋がって協同しているのです。

 

したがって、地上にいる者たちが、こうした思念を強め合う行為を一切しなくなれば、思念の集合体の場はいずれ消えてしまいます。

 

さて、人類の支配構造は、いま述べたように、にっちもさっちも行かないほど多段階かつ複雑な様相を呈しています。ですが、その根本にまで遡ってしまえば、意外にも、原因は極めてシンプルな形に落ち着くのです。それは何かと言うと、これまでにも繰り返し語って来たように、「合一」か「分離」かというベクトルの違いだけなのです。

 

あなた方の意識が、「合一」へと向かえば、その「魂」は霊性を進化させます。けれども「分離」へと向かえば、その「魂」がする地上での体験は、負のカルマの積み増しとなるのです。これは、一者のもとから分かれて個別化した「魂」が、再び一者のもとへ還るという、旅のプロセスの、今どの辺りを学習中かという違いによります。

 

一者から分かれた「魂」は、当初は個別化した自由を大いに謳歌しようとします。その際に、個別化した「われ(=自我)」という存在を、周囲に認めさせたいという欲求を持ちます。幼い子が、自分が今している行為を「ねえ、見て見て」とよく言うじゃありませんか。あれです。しかし、これが誤って用いられますと、他人よりも自分の方がずっと優れている、他者の上に君臨したい、劣った奴らは蹴散らしたい、といった差別の感情を育てて行くのです。

 

しかしそうであっても、「魂」の深奥の部分では、依然として一者と繋がっているわけですから、内なるこの声を聞く耳のある人は、やがてそれが間違いだと気づき、生き方を修正して行くことになります。ところが、人知を超えた世界があるということを信じない人や、聞く耳を全く持たない人は、「分離」意識をどんどん増幅させて行ってしまいます。

 

このような段階にまだある「魂」は、奥深い「真理」に触れる経験が少しもありません。そのため、葛藤に悩まされることも、良心の呵責に苦しむことも、自分がした行為を反省することもないのです。

 

残念ながら、地球という惑星では、このような「魂」が権力を欲しいままにし、人々を支配下に置いて隷属させています。しかし前回にも述べましたが、これは決してそういう権力者たちだけの責任ではありません。みんなでそのような社会、そのような構造体を作り上げているのです。地球人類は、未だに小学校入学も果たしていない、と言われるゆえんです。

 

誰の心にも、ちょっとした優越感や、他者を小馬鹿にしたい気持ちや、物を独り占めしたい気持ちや、自分だけが助かりたいという気持ちや、今の地位財産を失いたくない、といった気持ちがあります。当然です。なぜなら、一者から別れ、個別化した「魂」となったのですから‥‥。ですから、そこは否定しようとしてもできません。

 

でもそこで、考えていただきたいのです。あなたはどっちへ向かうのかと。「分離」意識の増幅への道を歩むのか、それとも「合一」への進化の道を選択するのかと。これが、この地上で、あなたに与えられた「自由」です。どのような選択も、あなたの自由意志に任されているのです。そして、罪も罰もそこにはありません。

 

しかし、「分離」意識の強化への道を選択した「魂」は、その分だけ、一者への帰還が遅くなります。そして今回が、地球という惑星におけるラストチャンスなのだということに心を砕いてください。

 

なぜ地球に、不平等や、差別や、虐待や、支配があるのか?

 

それは、それとは真反対にある、究極の「愛」を知るため。

あなたとわたしは同じだという真理に気づくため。

生命はすべてが繋がっていて、永遠の連続の上に生かされているということを思い出すため。

 

だから、そのために「分離」というチャンスが用意されているのですよ。

友よ、そのラストチャンスを今度こそものにしなさい。

 

あなたの目の前に、その時々で用意された行動の選択肢を選ぶ時、それが、自分の中の「分離」意識に基づくものなのか、「合一」意識に基づくものなのかを、いつもいつも意識して自分に問い掛けなさい。外からやって来る言葉に惑わされることのないように。自分の内に入り、深奥に潜む真実の言葉に耳を傾けなさい。そうすれば、道を誤ることは決してありません。

 

このセオリーは、あなた方が霊的なメッセージを耳にする時にも当てはまります。神からの言葉と称して、不安や恐怖心を煽ったり、闘いをけしかけるメッセージを下ろす霊能者が今も後を絶ちません。ですが、それらはみな「魔界」と繋がったメッセージを「神からの言葉」と偽って下ろしているのです。

 

一者とは、宇宙のすべてを統括する存在です。「者」と表現していますが、人格的存在ではなく、どちらかと言えば「法則」と言った方が近いです。それを仮に「神」と呼ぶことにすれば、「神」がそのようなメッセージを発することは、絶対に絶対にありません。「神」は一者です。ならば、どうして自分で自分に恐怖を与えたり、自分で自分に攻撃せよと命じることがあり得ましょうか?

 

なぜ、そんなことをする必要があるのでしょう? もしそれが本当だとしたら、「神」はひどい分裂症を患っているということになってしまいます。

そうではありません。「神」は究極の「合一」です。だから「一者」と言われるのです。「神」は法則であり、愛であり、永遠の生命であり、全存在なのです。

 

実に簡単な理屈ではありませんか。それを人間たちはなぜ解らないのでしょうか? なぜ、自己保身や、忖度や、ヘイトや、暴力が、そんなに好きなのですか? それをすると楽しいのですか? 心がウキウキするのですか? 幸福感で満たされるのですか? そんなものよりも、真実の「愛」に触れた時の、「魂」の歓喜を求めなさい。

 

えっ、何のことか解らないですって? よろしい。その歓喜は、あらかじめインプットされているのですよ。あなたにも、他のあなたにもね。どの「魂」も、そのように造られているのです。ですから安心して、己が「魂」の素直な声に従いなさい。そこにわたしがいる。いつも、いつも、あなたを見守って。

 

だから、わたしの愛を受け取りなさい。そしてその愛を、周囲の人たちにも分け与えなさい。この世におけるあなたの承認欲求を、「ヘイト」などという馬鹿げた方向に向けるのではなく、周囲の人々を助けたり、役立ったり、喜ばせたりするものによって表現しなさい。それが、人類に多様性というものを与えた意味なのです。

 

あなたの健闘を祈ります。

地球のアセンションと政治

政治に関心を持ち、これに積極的に関わって行くことはとても大事です。なぜなら、私たちの生活は否応なく、政治が描く基盤の上に成り立っているのですから。その下では、あらゆる制度から、社会インフラから、ものの考え方や、行動原理までもが、政治によってコントロールされているのです。私たちは、そのことを普段ほとんど意識ませんが、実はそれほどまでに、そこに従属させられているのです。

 

精神世界に興味のある人の中には、ややもすると、政治的な事柄を、単に汚れている世界や俗事として決めつけ、そこを避けた生活を送ろうとしたり、神仏の加護をひたすら願う日常を送るという人が多いのですが、これでは本末転倒です。自分がなぜ地上に生を受けたのか、そこをよ〜く考えてみてください。地上でしか味わえない体験をするためであり、地上のカルマの世界に積極的に飛び込んで、行動することが何よりも大切なのです。

 

さて、このように政治は社会の基盤ですから、政治を司る地位にどういう者たちが就くかということは、人々の生活全般や、健康や、心のあり方に重大な影響を与えます。簡単に言えば、良い指導者がその地位に就けば、人々の暮らしは良くなり、悪い指導者が就けば、人々の暮らしは悪くなるのです。この良い・悪いは、利他的な発想をどれだけ持っている人なのか、あるいは利己的な人物なのか、ということに依ります。

 

現在の日本の政治のトップである内閣総理大臣のAという人は、類まれな人物です。後にも先にもこれほどの人物は珍しい。通算の在職期間が既に歴代3位を超え、1強と称されています。なぜこれほどまでに強いのでしょうか。それは、この人物が発する言葉には真実が一つもないからです。まるで、嘘で練り固めた金太郎飴のようなもので、どこを切っても嘘しか出てきません。このような人間は他にちょっといません。

 

2012年には「TPP断固反対。ウソつかない。ブレない。」と言っていました。「ウソつかない」と言っていたことが既に嘘なのですから、こうなると常人の神経では計り知れません。この人物が好きな言葉を借りれば、まさに「異次元」の存在です。でもこの人の内部では、それは「嘘」ではないのです。そうすることが、この魂のアイデンティティなのです。ですから「嘘」という自覚が全くありません。それゆえ、心が痛むこともなく、ずっと強者でい続けられるのです。

 

嘘でないならば、では何のか? それは戦略であり戦術なのです。ある目的、目標のために、その時々で繰り出す戦略・戦術。ですから、状況が変われば、戦略・戦術をその度にコロコロ変えていく。その時々で発する言葉には、何の論拠も真実性もなく、ただその場の状況で繰り出して行くだけです。人々には、それが嘘に見えるのですが、この人にとっては、それは戦略・戦術の行使に過ぎないのです。

 

こうした戦略・戦術の例を一つ挙げると、軍産複合体にとっての目的は軍産による世界支配であり、目標は武器を世界中に売ることです。そうしますと、このためならば何だってやるのです。もちろん嘘はつき放題。世界のどこかで、常に謀略による緊張状態を演出し、10年に一度は在庫一斉処分のための戦争を本当に起こす。そのためには「武力による平和」という、言葉自体が矛盾した思想さえも、人々に植え付け、信じ込ませていくのです。

 

A政権の目標は言わずと知れた「憲法改正」。ですが、驚くべきことに、目的は「政権維持」にあるのです。なんと手段が目的になってしまっている。そして「政権維持」が目的なのですから、そのためには何だってやるのです。アメリカさんに楯突くことは一切せずに、軍産の言いなりにもなる。三権分立をなし崩しにして手中に収め、第四権力のマスコミも抱き込んで、嘘で塗り固めた情報操作を行う。それらは全部、「政権維持」のための戦略・戦術なのです。

 

こうした結果、「波動の法則」によって、政権中枢には同種の波動を持つ人しか集まらなく(集まれなく)なっているのです。類い稀な嘘つき首相の周囲には、今や、嘘つきと、ゴロツキと、狐憑き(特定の信念に取り憑かれた人たち)しかおりません。内閣、政権与党、政府、マスコミは、結託して犯罪者集団と化しています。その犯罪者集団にすっかり操られてしまっていることにさえ気がつかない、というのが今の日本国民なのです。

 

さてここで、現内閣総理大臣の名前をAとしたのには訳があります。この構造にある本質を知っていただきたいからです。Aはアルファベットの最初の文字です。すべてはここから始まります。この頂点からは末広がりに2本の棒が伸びています。中央にある横棒は、嘘つき、ゴロツキ、狐憑きの(三ツキ集団)グループで、その下には台形が広がり、これらを統治しているという構図です。ですが、頂点の三角形部分には別の人間がいて、それ以下を握っているのです。

 

三ツキ集団は、類い稀な嘘つきの資質を持った人間を首相として神輿に担いだ、もっと上からの雇われグループに過ぎないということです。これらを操っている者たちがいる。そして、さらにその奥には闇の存在がいる。A首相はその操り人形に過ぎません。A首相の強さは、操り人形としては、他の人には真似の出来ないズバ抜けた資質を持っていたこと。何しろ嘘をつくことがアイデンティティそのものですから、良心の呵責というものが一切生じないのです。

 

ですから、普通の神経ならば、胃に穴が空いているような状況に追い込まれても、平気でゴルフや外遊に興じることが出来るのです。しかも、自分で考えた言葉や理想を全く持ちません。これは操る側からすれば、この上なく貴重な存在です。演説はすべて誰かが書いた原稿の棒読み。しかもそのことを恥じない。ですから、この政権が長続き出来たのです。でもそれも、利用価値がある間だけの話。利用価値が無くなったと見れば、すぐにポイ捨てされてしまうことでしょう。

 

そもそも、「分離」意識を下敷きに持つグループが、人類を完全に支配することなどは、論理的に言って不可能なのです。なぜなら、ベースにあるものが「分離」ですから。このようなグループは、利害が一致している間は仲良しこよしを続けます。ですが、ひとたび逆風が吹けば、必ず、言い逃れ、責任のなすり付け合い、裏切りが内部から始まります。「分離」意識による支配が、その人たちに共通した根本理念だからです。

 

世界を One World に統一する理念は、やはり「愛」以外にはあり得ないのです。

 

よく、「Aという人物は、国を売り飛ばし、これだけ酷いことをして来て、それ相応のカルマの報いというものは受けないのでしょうか?」と訊かれます。もちろん受けますとも。「カルマの法則」は絶対的なものですから。ですがそれは、みなさんが想像しているようなものとは違うのです。Aという人物は、Aという人物が、周囲に為した行為に対してのカルマをいずれ清算することになる、というだけの話です。

 

国家権力者としての地位の影響力が、非常に大きいように見えても、Aがたった一人で、そのような政治をすることは出来ないのです。Aが直接的に影響力を行使できるのは、せいぜい十数人。あとは、組織や、利害や、忖度や、飴玉が、このシステムを動かしているのです。ですから、そこに加担する人たちみんなで、そのような悪政をせっせと共同制作しているということです。決してA首相一人のせいという訳ではない。もちろん有権者や、国民のすべてが関わっています。

 

実にここが肝心なところで、この構造を理解し、反省しなければ、人類は次の時代へとジャンプすることは出来ません。悪政に賛同する人には賛同する人の責任があり、付和雷同する人には付和雷同する人の責任があり、無関心な人には無関心な人の、それぞれの自分の行動というものへの責任があるのです。これが、各々のカルマとなるのです。そしてこれらがちょっとずつ寄り集まって、国のカルマを形成しているのです。

 

最近になって、「A政権打倒」を叫ばずに、自分が考える「理想社会」のビジョンを、ハッキリ提言する活動家が増えて来ました。これはとてもよい傾向です。宇宙のすべては、波動(振動するエネルギー体)から成り立っています。「打倒」を叫べば、その闘争心が沸き起こす粗い振動のエネルギーが、相手側の同種のエネルギーを増幅することになるのです。殆どの人が、こうした法則を知らなために、人類は同じ過ちを何度も繰り返して来ました。

 

けれども、「それじゃダメだ、今までと変わらない」と、直感的に気づく人がどんどん増えています。潮目がいま急速に変わりつつあります。古い政治システムや、既成政党の枠組みの中でいくら政権交代を訴えても、そんなものはもはや時代遅れなのです。政治システムそのものや、お金の概念や、教育や医療の枠組み自体が大変革しなければならない時を、人類はいま迎えているのです。

 

その「予感」のある人が、世界中でいま続々と立ち上がっています。日本は、残念ながらトラック2周遅れくらいのところを走っているのですが、でも世界が変われば、日本もいずれ変わらざるを得なくなるでしょう。もっと広い視野を持つことです。「A政権打倒」を叫んで、仮にこれを打ち倒したとしても、古い政治システムがそのままならば、単なる操り人形のすげ替えに終わってしまいます。アメリカ合衆国の、大統領の交代を見るように。

 

そうではなくて、新しい理想社会のビジョンを語ることが大事なのです。それを夢想し、周囲の人たちと語り合うことは、あなたにも出来るはずです。それが、政治への参加です。不平不満や愚痴を言うのはおよしなさい。それよりも、万人が、不安なく、健康で、平和的に、日々伸び伸びと生き、自分の才能を活かし、周囲の人々にも喜びを与えられる理想の社会を、まざまざと胸に思い描きなさい。

 

そして、それを実行に移しなさい。あなたがいまこの瞬間に出来ることから。

Now!  Be here.

 

地球のアセンションが既に予定されたことだとしても、そのあり方は、人類の今後の行動に託されています。集合意識が変われば、そのあり方も変わるのです。ややもすると、精神世界に興味を抱く人は、これも「予言」ばかりに興味を集中させて、自分がどう行動するかということを考えない、受身的な傾向の人が多いのは困ったものです。繰り返しになりますが、それでは全くの本末転倒です。

 

霊性の向上は「行動」によって試されるのであり、ただ拝んでいるだけでは、その機会を活かせません。カルマの原意は「行為」です。ですから、「行動」することは、すべてその魂のカルマとなります。カルマを恐れて「行動」しなければ、今度は「行動」しなかったというカルマになるのです。これは最悪ではないにしても最低です。なぜなら、生まれてきた目的がまるで果たせないのですから。

 

ですから、この地球のアセンションの機会に、あなたの霊性も同時に向上するように図りなさい。そのためには政治に積極的に参加しなさい。今までの奪い合う政治から、分かち合う政治へと大きく意識を切り替えなさい。人類のジャンプは、「愛」に基づく行動によってしか実現できません。一人ひとりが、「愛」をベースに行動することで、その集合意識が波紋のように世界に広がるのです。

 

希望を持ちなさい。そしてあなたも、地球のアセンションに貢献して行けるように図りなさい。先ずあなたがアセンションすれば、次には他の人たちを手助けしてあげることが出来るのです。それがどんなに貴いことか、素晴らしいことか、そして喜びに満ちたことか、解りますか?

 

ピンと来てない人にはまだまだ道が遠いね。今までわたしがなんと言って来たか、思い出してください。繰り返し、繰り返し言ってきたこと。あなたはわたしであり、わたしはあなたなのですよ。すべては一つ。そこに「分離」はありません。ですから、他者を助けることは、自分を助けることであり、他者を傷つけることは、自分を傷つけることなのです。それを知って、なおも他者を傷つける道を選ぶのですか?

 

今こそ本当の喜びに目覚めなさい。人類を長きに渡って拘束して来た、この牢獄のようなシステムを破壊するのです。あなた自身の意思の力によって。

 

あなたの「魂」は、本来的に自由なのです。

お願い

ブログに書かれているメッセージの発信主体と、私(このBlogの管理人)とを同一視しないでください。私は単にパイプ役を果たそうとしているだけであり、ごく普通の人間です。それもどちらかと言えばヘナチョコの。私に興味をお持ちになっても、裏切られた思いになるだけです。

 

それよりも、メッセージ内容そのものに関心をお持ちになってください。メッセージが繰り返し語って来たのは、自分の内に光を見い出しなさいということと、自分の意志で行動しなさいということです。あなたに響く言葉が、もしもメッセージの中にあったなら、それは、今このタイミングに、ドンピシャリで天が直接あなたに送ったものと解釈してください。

人間関係において、自分の相手役をしてくれている「魂」が、そのせいでカルマを積み増ししてしまうという可能性はないのか?

次のようなご質問をいただきましたので、以下に回答いたします。

 

Q.(頼まれてやっている)カルマの人間関係と、カルマの上積みについての質問です。地球に生まれてくる段階で、事前に自分で決めていた課題があるかと思います。過去生で、なんらかの理由によりその課題をクリアできなかった場合に、同じような課題を再度設定して生まれてくることがあるかと思います。

 

その課題のために、交流のある霊(人)に困ったちゃん役を引き受けてもらい地球に転生してくる、ということがあるとします。困った人の役を引き受けてやっているとはいえ、それに伴う地上での立ち振る舞いでカルマを上乗せしてしまうことはないのだろうか・・?という疑問です。

 

頼まれてやっているとしても、波動の法則が存在する以上、自分が出した波動は自分で受けることになります。また、転生前に交流があったということは、霊界は純然たる階層社会なので、あまりに自分と波動が違う相手と交流することはないはずです。

 

そういう存在が困った役を引き受けることによって、結果、図らずともカルマを上乗せしてしまった的なことにならないのかな、とその点でもやもやしています。ご回答よろしくお願いします。

 

A.先ず、「カルマ」ということの意味なのですが、これはもともとサンスクリット語で「行為」を表す言葉であり、「行為」のプロセスと、その結果を同時に包含した概念を意味しています。ですから、人間は生きている以上、なんらかの「行為」を必ず為すのであり、その意味では、人生行動そのものが「カルマ」だとも言えるのです。

 

「カルマ」と言いますと、一般的には「宿命的な災い」のようにばかり捉えられがちですが、必ずしもそうではなくて、悪いことだけではなく、善いことにもみな「カルマの法則」が働いているのです。さて今、「悪いこと/善いこと」と書いたのですが、この「善悪」概念も、あくまで主観的なものに過ぎず、厳密に言えば、宇宙に「善悪」というものはないのです。

 

「善悪」概念が主観的なものに過ぎないということは、例えば、ジョージ・ブッシュのあの「悪の枢軸国」発言を思い起こしてみれば、直ぐに解ることでしょう。あの時ブッシュは、イラン、イラク、北朝鮮を「悪」の国家と断じる一方で、自国アメリカを「善」の国と位置づけて、諸国に「さあ、どっち側につくんだ」と迫ったのです。そして、日本もその「善」の側に加担しました。

 

その結果がどうなったのか、またそこに至るまでの裏側には何があったのか。これはもうみなさんが知る通りです。けれども、このような例を挙げても、「いいやそんなことはない。誰もが認める悪はある。たとえば殺人だ」と仰る向きもたぶんおられることでしょう。でも果たしてそうでしょうか? 人間は、戦争で人殺しをすることは、国際法で認めているではありませんか。

 

このように、「善悪」概念など、所詮は主観的なものに過ぎないのです。ただし、宇宙的にみて敢えて言えば、こういうことは言えます。〈分離〉意識に向かう行為は「悪」的であり、〈合一〉意識に向かう行為は「善」的である、と。しかしこれも、あくまで「的、ぽい」ということであって、「絶対」ではないのです。宇宙に「絶対善」や「絶対悪」はありません。

 

そもそも、個々の「魂」がなぜ一者(神)から分かれて生じたのかと考えますと、〈分離〉を、即「悪」だと決めつけることは出来ません。これを「悪」だと決めつけたものが、いわゆる「原罪論」です。しかし「原罪論」には矛盾があります。宇宙の一切合切を仕切るものを「神」だとすれば、個々の「魂」を〈分離〉させた存ものは「神」です。

 

すると、その行為を「罪」だとすると、「罪」を犯したものは「神」ということになり、そう断じるものは(原罪を有した)「人間」であるという逆転のパラドックスが生じてしまいます。さらに、「原罪」を持つ「人間」に「罰」を与えるとなると、「罪」を創ったのも、「罰」を与えるのも同じ「神」ということになり、非常におかしなことになってしまいます。

 

では、なにゆえに、個々の「魂」が一者のもとから〈分離〉したのでしょうか? あるいはさせられたのでしょうか? それは、〈合一〉を体験するためなのです。〈合一〉したままでは〈合一〉は体験できません。〈分離〉することによって初めて、〈合一〉に向かう「行為」というものが体験できるのです。実に、「カルマ」の意味はそこにあるのです。

 

ですから、「カルマの法則」というものが、決して「罪」や「罰」に起因した法則ではなく、それ自体が「神のギフト」であるということが、これでお解りになるでしょう。したがって、「カルマの法則」を恐れる必要はいささかもありません。「カルマ」というのは、あなた方の、瞬間々々での「生き方の選択」なのです。〈分離〉意識をより強めた体験をそこで選ぶのか、〈合一〉意識をそこに見い出すのか、という。

 

そのことを踏まえた上で、ご質問にお答えします。さて、質問者は、「交流のある霊(人)に困ったちゃん役を引き受けてもらい地球に転生してくる、ということがあるとします。」という仮定から、質問に至る論を展開されておられます。ですが、そのようなことはそもそもありません。ですから、ありえない仮定のもとに、疑問を投げかけておられるのです。

 

ではなぜ、質問者にそうした仮定が生じたのかと推理しますと、人間関係におけるこの世的な貸し借りを、「魂」の世界や輪廻転生の仕組みに、そのまま当てはめて見ている節があります。ですが、これは誤りです。霊的世界に貸し借りはありません。自分の本心を押し殺して、他者のために◯◯役を「演じる」というようなことは出来ないのです。何もかもがお見通しの世界なのです。

 

その「魂」の、素っ裸の霊性度合いに応じて、万事よろしく設計されて、次の転生計画が決められているのです。その際に、個々の「魂」は、全員が、自分の人生の主役なのです。その主役の周囲に、縁の濃い「魂」たちによって脇役が設定されます。主役から見れば、周囲の人たちは、あたかも自分の課題を助ける役を演じてくれているように見えるかも知れません。その見方はある意味で正しいのですが、それは、同時に相手側の人にも言えることなのです。

 

Aさん、Bさんという縁のある「魂」がいたとしましょう。Aさんにとって、Bさんは自分に何らかの気づきを与えてくれる存在です。しかし、人間関係というものは、つねに「間(あいだ)」に生じるものであり、そこで生じている「関係」に対しては、その関係者はすべてイーブンの影響を受けているのです。ですから、両方が互いに主役なのです。

 

こんな例を考えてみましょう。Aさんは寝たきりで、自分一人では身の回りのことが何ひとつ出来ません。Bさんは、このAさんに付きっ切りでずっと看護をしています。果たして、Aさんは貰うばっかり、Bさんは与えるばっかりなのでしょうか? この世的に見れば、そう見えるかも知れません。けれども、霊的に見れば、そのような一方的なことはまったくないのです。

 

このAさんとBさんとの「間」に、看護という「行為(=カルマ)」が行われた時、両者はそれぞれの視点で、この体験を分け合っているのです。ここには貸し借りはありません。それは両者にとって、互いに自分のカルマを解消するための絶好のチャンスとしておとずれた体験なのであり、その出逢いは完璧に設計されています。ですから、質問者のような心配は、する必要がないのです。

 

AさんとBさんとの「間」に生じた出来事は、AさんはAさんの視点で自分の学習課題として捉えるのであり、BさんはBさんの視点で自分の学習課題として捉えるのです。この時、両者で協力して為した体験を、〈分離〉意識的に捉えるか、はたまた〈合一〉意識的に捉えるかは、それぞれの人の自由意志によるのです。

 

Aさんは〈合一〉意識的に捉えたのに、Bさんは〈分離〉意識的に捉えたとしましょう。Aさんは、その体験を通じてちょこっとだけ霊性の向上を図ることができました。でもBさんは、体験を通じても気づきがなく、ネガティブな「カルマ」をかえって強化してしまいました。このBさんの「カルマ(行為)」に対して、Aさんには何の責任もありません。そもそも責任の取りようがありません。

 

これは、Bさん自身の体験学習であって、そこにはなんぴとも介入することは出来ないのです。人間の思考からすれば、これはクール過ぎて、いささか冷たい感じがするかも知れませんが、法則とは元来がそのようなものです。でも、もっと大きな視点で見て欲しいのです。個々の「魂」は、どれほどすったもんだがあったとしても、全部がいつかは一者のもとに還るのです。

 

何度も何度も輪廻転生を重ねる中での、たった一つの人生の、さらに瞬間の出来事に対して、責任論で思い悩む必要などありません。「カルマの法則」全体がギフトなのであり、それぞれの場面での選択は、その「魂」が、その成長段階において、その時に正しいと思って下した選択です。その結果が、この世的に見て、善い悪いの差があったとしても、常にそれは、その「魂」にとって、「神のギフト」であり続けるのです。

 

最後に「カルマの積み増し」ということについて述べておきましょう。どういう時に、カルマ(ここでは負のカルマ)の積み増しになるのかということです。これも極めてシンプルなことで、〈合一〉に向かう「行為」が為されればそのカルマが消え、〈分離〉に向かう「行為」が為されればカルマが積み増しされるということです。

 

トラックの荷台を思い浮かべてください。そこには、今世で荷下ろししなければならないあなたへの課題が積まれています。あなたが苦しみに遭遇する時、その根本原因に気づいて、エゴを反省し、〈合一〉への気づきを得れば、その荷を下ろすことが出来ます。でも、過去世でしたことと同じような衝動で、今世また行動してしまえば、荷は雪だるまのように膨らんでしまうわけです。

 

また仮に、〈合一〉への気づきをなんとか得たとしても、その過程で為した「行為」に、別の〈分離〉意識行動が含まれていれば、今度はまた違う荷を荷台に引き入れるのです。こうして、載せたり下ろしたりを繰り返しながら、最終的にはすっかりネガティブな荷を下ろし終わり、そこで輪廻転生が止むのです。

 

ということで、あなたもそこを目指して、瞬間々々を、どうか伸び伸びと生きていってください。

 

参考:善、偽善、罪悪感、悪

アセンションとは? ーーー アセンションに関してのメッセージ

アセンション(ascension)は、「昇る」という意味の動詞である“ascend”の名詞形で、精神世界では一般に「次元上昇」と訳されています。ここで注意が必要なのですが、ここで言っている「次元」は、数学で言うところの「次元(Dimension)」とは全く別の概念を意味しているのです。

 

ところが、この両者が混同され、今まで多くの人に混乱を与えて来ました。ここで言う「次元」は、宇宙を構成している全存在を、バイブレーション(振動数)の高さによって大きく7段階に分けた際のレベルを意味しています。正式には「霊性密度(Spiritual Density)」と言い、「次元」はその通称として使われている言葉なのです。

 

それを先ず解っていただいた上で、「アセンション(次元上昇)」というのは、三次元から五次元へ、つまり第三霊性密度から、第四霊性密度を飛び越え、第五霊性密度へと上昇することを意味します。いったい何が? さて、それが問題です。ここには二つの対象物があるのです。人間と地球です。

 

人間の「アセンション」というのは、これまで「解脱」とか「覚醒」と呼ばれていたことと基本的には同じことを意味しています。それがなぜ、近年になって急に「アセンション」と言われるようになったかと言えば、もう一つの対象物であるところの地球の「アセンション」と、それが大いに関係しているためです。

 

これは、古来より言われて来たことですが、地球というのは、第三霊性密度の学習段階にある「魂」の、学習のための受け皿として、物理空間に用意された惑星でした。この惑星が、アトランティス文明の成立後、そこに住む人間たちに対して、2万6千年ごとに第五霊性密度への上昇の機会というものを与えられていたのです。

 

しかし、伝説として残されているように、今よりも遥かに高度な文明を誇ったアトランティス人でしたが、霊性の堕落によって、過去2回のチャンスを逸したばかりでなく、アトランティス文明そのものも海中に没して跡形もなく消えてしまったのです。そして今回が、3回目のチャンスとなるのです。

 

しかし、今度のチャンスは、前の2回とは大きく違った点があるのです。それは、今回は、地球そのものが「アセンション」してしまうということです。「アセンション」が、人間よりも前に、地球に対して起こることが、予め決められているのです。地球という惑星が、宇宙の中での第三霊性密度の受け皿としての役目を終了して、第五霊性密度へと移行するということです。

 

ですから、主役は地球なのです。これに伴って、今度の機会に「アセンション」出来なかった人間は、これ以降は、もう地球に輪廻転生して来ることが出来なくなるという点が、過去の2回とは大いに異なる点なのです。つまり、地球学校に来ている「魂」にとっては、これが卒業のラストチャンスだということです。

 

そう思って、現代という時代をよくよく眺めて見れば、その兆しがいたるところに現れているのを、あなたもお感じになることでしょう。AIやゲノム編集などの科学技術が急速に発達していることや、人間を奴隷ロボットにするシステムがますます巧妙になっているのは、アトランティスを滅亡に導いた当時の科学技術者たちが、現代にも一斉に転生しているからです。また、金融やグローバル経済に見られる強欲さは、アトランティス末期のカルマをそのまま映し出しています。

 

そして、これまで長きに渡って秘匿されて来た「闇の支配者」の実態が、ここに来て急に炙り出されて来たのは、宇宙からの強い光が当たっていることもさることながら、地球がすでに第四霊性密度のバイブレーションに突入したことを示しています。つまり第四の領域に入ったので、第四に隠れていた実態が見えるようになったのです。

 

もちろん、異常気象や自然災害に見られる極端化現象も、これらと大いに関係があります。それらは天罰ということではなく(宇宙には、そもそも罪も罰もありません)、今の人間意識の総体としてあり方が、それらを物質化させているのです。そしてこれも、アトランティス人の末期が辿った道と、そっくりになりつつあります。

 

多くの予言や霊言が、みな共通して語って来たように、これからの時代は大転換を迎えます。それは、地球が第五霊性密度の惑星へと移行するということなのですが、同じ場所に新しい家を建てる際には古い家を壊さなければならないのと同じように、古いシステムと古いシステムを作り出している人間の意識のあり方が、一掃される時期が目前に迫りつつあります。

 

これを、怖れることなく、冷静に見守って行ってください。そして、あなた自身のアセンションを目指してください。

 

これも、多くの予言や霊言が語って来たことですが、戦争に明け暮れして右往左往する多くの人たちと、小規模で平和に暮らすコミュニティとに、世の中が真っ二つに割れます。それは一見すると、闇と光との闘争、悪と善との凌ぎ合いに見えますが、これらを煽る者に巻き込まれないようにしてください。それこそが、闇の戦略なのです。二元性の真理は「闘争」にあるのではありません。両者が揃っての「合一」にあるのです。

 

また、センセーショナルなことを語りたい人たちは、「生き残り」ということにスポットを当てるでしょうが、「生き残り」は大した問題ではありません。地上では、人はみな、遅かれ早かれ全員が死ぬからです。しかし一方で、「魂」は永遠だということに注目してください。だからこそ、この機会にアセンションするのです。その意味をしっかり捉えて、この機会にお臨みください。

御礼

先週の「ブログ掲載休止のお知らせ」の後、何人かの方から慰労のお言葉を頂戴いたしました。中には、海外在住の方からのものもあり、届くところには届くんだなぁとびっくりいたしました。時間を割いて、労いのお言葉をお寄せくださった方々、また同様の思いでおられる多くの方々にも改めて御礼申し上げます。

稚拙な文にも関わらず、これまでお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。

共に学んで来てくださった皆さんへ ― 掲載休止のお知らせ

この『気づきの啓示板』は、2012年の4月2日に第1回めがスタートしました。ということで、4月1日の今日でちょうど7年が経過したわけです。書き始めた頃にはさしたる目的があったわけでもなく、わずか10行にも満たない文章量でしたが、途中で何回かの感覚的な変化があり、どんどん体裁が変わって行って、最後は今のような形になりました。

 

実は一年くらい前にも、またもや感覚的な変化があったのですが、その感じをうまく言葉で表現することは出来ません。しかし、なんとなく「もう終わりかなぁ」とは感じていました。それからは、週1回のペースでメッセージを掲載して行くことの義務感と、「終わりかなぁ」と思うことのせめぎ合いの中で、取り敢えずは頑張って掲載を続けて来ました。

 

一時は、「一生続けよう」という気にもなったのですが、それが2週間ほど前に、突然「止めよう」に変わりました。その時、この4月1日で、ちょうど7年を終えることに気がつきました。「そうか、7年経ったのか。こりゃあいい」と思いました。7は神秘数で、一つの段階的終了を意味します。それが分かったら、なんだか気持ちが開放感で満たされて、晴れ晴れして来ました。

 

この一年間ほどは、1回分を仕上げるのに3日くらい掛かっており、やっと掲載を終えてほっと一息つくと、もう次のテーマを探さなくてはならないのです。書く前には、完全に一人きりになって「今、このタイミングで、人々に有益な、最も適切なメッセージをお授けください」とお願いしてから、インスピレーションがやって来るのをじっと待ちます。ですが、すんなり事が運ぶことは滅多にありません。

 

最初の1ブロックが固まるまでがとにかく苦しい。2時間、3時間経っても何も浮かばない時には、焦る気持ちも出て来て、余計に混乱してしまいます。そんな時に無理やり言葉をひねり出しても、後で修正されてしまうのがオチです。時には、一日掛かって書いた文章がそっくりゴミ箱行きなんてこともあります。だんだんコツを掴みかけて来てはいるのですが、最後まで、上手い方策は見つかりませんでした。これが私の限界なのでしょう。

 

けれども、この7年間で、私は多くの「智恵」を授かりました。この予期せぬ仕事を設定されたことによって、私は大いに鍛えられました。それは、私にとっては一つの行でしたが、その成果のおすそ分けを、世の中に出すことも出来ました。このブログの読者数は非常に少ないのですが、今まで熱心に読んでくださった人たちは、共に学習を続けて来た同志であると、私は思っています。

 

しかし、友よ。机上での学習の段階はもう終わりです。『虹の学校』も、次のステージへと向かう時が来ました。これからは、あなた自身が、実践的な生き方を通じて、周囲の人たちに、高い波動を投げ掛けて行くのです。いつまでも、他の誰かを通じて得られるメッセージに期待し続けていてはいけないのです。自信を持って、自分自身の内なる声に耳を澄ましてください。あなたには、それが出来ます。それでこそ本物。あなたは本物となります。

 

10年前、私は、そろぞれの接点が全くない3つのチャンネルから、自分の将来の役割について、同じことを聞かされました。いわく「“生き方”を説く人」になるというのです。「生き方」だってぇ? それを聞いた時には、全くわけが分かりませんでした。私は50代半ばを過ぎておりましたし、カミさんを亡くした直後で、仕事はないし、鬱だったし、そんなものがあればこっちの方が聞きたいと思っていました。

 

しかし、背中を押されるようにして始めた『虹の学校』の活動と、この『気づきの啓示板』ブログが4年めを迎えた頃になると、いつの間にか、本当に「生き方」についてを語り出している自分がいたのです。その時になって、自分が大変な誤解をしていたことに気づきました。「“生き方”を説く」というのは、この世的な「生き方」ではなく、霊的な「生き方」のことだったのです。

 

若い頃は、私も人並みに社会的な成功を夢見ていました。そして、そのための必死の努力もして来ました。ですが、何をやっても挫折の連続で、ついぞ報われるということはありませんでした。しかしその体験が、今になって大きな意味を持っていたことに気がついたのです。つまり、それは「チャンネルを変えろ!」という示唆を得ていたのですね。表側と裏側の。

 

実は、表が裏なのであり、裏が表なのだということです。これは、古代より言われて来た「真理」の一つなのですが、多くの人と同様、私も言葉としては知っていても、その意味を〈実感として〉掴んでいたわけではありませんでした。実に、ここがポイントで、霊的世界を全否定する人はもちろんのこと、肯定する人であっても、99.99パーセントの人が誤解している部分なのです。

 

どういうことかと言いますと、霊的世界を肯定したり大いに興味を抱く人であっても、その視点は、〈こちら側から、あちら側を覗き見る〉という立ち位置を、どうしても捨てきれないのです。すると、本籍地はあくまで「この世」に置いた中で、向こう側を見ようとするのです。そのため、そこから垣間見える世界は、不思議ワールドであったり、オカルトであったり、全部が、いわゆる超「常」現象になってしまうのです。

 

これが、人智を超えた特別な「価値」に見え、人々にエキサイティングな興味を抱かせるのです。嘆かわしいことには、ここに「この世」的な成功のスケールを当てはめて人々を誘う、自称「霊能者」がワンサカといるのです。けれども、これらは、全くの本末転倒と言わねばなりません。なぜならば、そうした視点は、エゴのために霊的パワーを利用するという、自分の「カルマの強化」にしかなっていないからです。

 

ですが、このことを、多くの人は理解できません。逆に言えば、それほど「この世」的な成功を夢見させる「カルマ」の力は、絶大だということです。そもそも、「この世」に生まれた目的を、〈霊的向上を目指すため〉と捉えている人は非常に少ない。加えて、そのためには〈得るのではなく、捨てるのだ〉となったら、その道に飛び込むのには、大変な勇気を必要とします。まさに、天と地が引っ繰り返るほどの、価値観の大転換です。

 

そこで、アセンション出来る人というのは、10万人に1人とか、100万人に1人となってしまうのです。いったい何がそれほど難しいかと言えば、高みを目指して、階段を昇る努力をひたすらするということではないのです。むしろ逆、階段をすっかり降りてしまうことだったのです。これが、〈生きることとは、社会的存在であり続けること〉と刷り込まれている現代人には、もの凄く難しいハードルなのです。

 

この『気づきの啓示板』で繰り返し語られて来たことの一つは、この〈社会的存在が自分だ〉という思い込みが、実は錯覚でしかないということに気づいてもらうことでした。そして反対に、これも繰り返し語られて来たことは、あなたの本体(非肉体的なもの)は、いついかなる瞬間であっても「自由」なのだということです。これこそが、まさに天と地が引っ繰り返る逆転なのです。

 

ところが人間は、実は表と裏が逆転しているのだということに気づきませんし、その意味も理解できません。そこで皮肉なことに、「社会的存在」であろうとして、自分で自分の自由を奪い、自分で自分を苦しめ、自分で自分を不幸にさせているのです。でも、「実は逆転しているのだ」ということにさえ気づけば、茶番劇ももっと有意義な演じ方ができますし、また、そういう人が増えれば、地球人は今度こそ、このカルマを清算できるのです。

 

もういい加減に、あなた方はこの逆転の「真理」に目覚めるべきです。あと20年。あと20年の間に、目覚める人から目覚めて行って欲しいのです。

そこで今日は、締めくくりのメッセージとして、今後の行動の指針にしていただくためのポイントをいくつかお伝えしておきます。

 

◉あなた方は「多次元的存在」

ここで言う「次元」は、何度も言って来たように、数学的次元を指すものではなく、宇宙全体を成り立たせているところの「振動するエネルギー体」を、振動数別に大きく7つに分けたものです。正式には「霊性密度」と言います。この振動数の違いは、階段状(算術級数的)ではなく、渦巻状(幾何級数的)に変化しているのですが、それを便宜的に7段階に分けて、各段階を「次元」と言っているのです。

 

7段階の階層は、音階のドレミファソラシに対応していることから「宇宙鍵盤」とか「オクターブ」とも呼ばれます。この他、虹の7色と対応して説明されたり、チャクラとの関係や、日月火水木金土の惑星との関係で説明されたりもしています。このように「7」という数字は、様々なところで見られる神秘数になっているのですが、そこで示していることは、宇宙の巨大構造というものは、実はたった一つの「振動するエネルギー体」の、振動数の違いだけで全てが成り立っているということです。

 

さらに注目すべき点は、人間は、この全ての次元(霊性密度)を、同時に所持している存在だということです。つまり、成り立ちにおいて、人間と大宇宙とは相似形を為しているのです。これが、ヘルメスが説くところの「下なるものは上のごとく、上なるものは下のごとく」の意味なのです。大宇宙(マクロコスモス)と人間(ミクロコスモス)とは、基本的に同じだということです。

 

大宇宙を大海に喩えれば、あなたは一滴の雫です。ほんとうに小さな小さな一滴の雫ではありますが、しかしその一滴の雫が集まって、大海を構成しているのです。しかもその一滴の雫は、間違いなく大海の同じ成分を有しているのです。そこで、もしも大海を「神」と呼ぶのであれば、「神」はあなたの外側にあるのではなく、紛れもなくあなたの内側に存在すると言えるのです。これが、異端とされて来た実は真実の神学なのです。

 

◉意識もまた多次元に存在する

さて、「多次元的存在」というものを別の視点から眺めてみましょう。それは「意識」です。あなた方の「意識」は、決して一種類ではありません。起きている時の意識と、眠っている時の意識、またウトウトしている時の意識には、明らかな違いがあることをあなたもお認めになるでしょう。実は、あなた方の「意識」は、これだけではなく多層階に渡ってあるのです。

 

それは、「存在」の階層構造と基本的に同じなのです。勘の言い方は、先ほど、大宇宙はたった一つの「振動するエネルギー体」の振動数の違いだけで成り立っている、と言った部分にピン!と来ることでしょう。そうです。「存在」と「意識」とは、実は同じものなのです。えっ、「存在」と「意識」が同じだってぇ? これは、地球に普通に暮らしている方からすれば、驚くべき結論であることでしょう。

 

今までに、そんな説明は聞いたことがないでしょうし、意味もまるで解らないでしょうから。あなた方の常識とは全く違いますからね。でも、こんな例を考えてみてください。あなた方は、宇宙が138億年前のビッグバンから始まったと聞かされます。すると「そういうものかなぁ」と思って、もし宇宙の誕生から今までを1日の時間にしたら、人類誕生は23時59分34秒過ぎだ、などと言って済ましています。

 

でも、ここにはパラドックスがいくつも隠れていることに気づいていません。仮にそのように始まったとして、始まる前はどうだったのでしょうか? 素朴な疑問です。また、空間が膨張したと言って、その模式図を描いたりしていますが、外側に描かれている “場” はいったい何なのでしょうか? あるいは、138億年前に誕生したという「存在」については、いったい誰がそれを「認識」出来たと言うのでしょうか? もしも「認識」出来る主体(それも存在)が無かったとしたら、「在る」ということの「認識」は不可能です。

 

よって、こう考えるしかありません。「存在」と「認識」とは、同時に、パラレル(並行的)に誕生したのです。当たり前です、元々が同じものなのですから。そして、それは「無」から誕生したのではなく、別の宇宙から絞り出されたのです。宇宙は、我々が認識できる「この宇宙」だけではありません。無数の別の宇宙があるのです。このようにして、宇宙は明滅を繰り返しながら、永遠の無時間を生きているのです。

 

◉自分の「意識」を意識して生活する

話を人間の「意識」に戻しましょう。人間が「多次元的存在」であるということは、「意識」もまた多次元に渡って存在するということなのです。ごく大雑把に言って、人間の意識は、三次元(心)、四次元(魂の下層)、五次元(魂の上層)の間で、たえず揺れ動いています。本当は、全部の「意識」を同時に働かせているのですが、フォーカスを与えている中心点がどこか一部に偏るのです。

 

*この他に、一・二次元、六・七次元の意識もあるのですが、通常の状態では知覚できません。

 

それはちょうど、アナログ式のチューナーの針を動かしているようなものです。あなた方は三次元的な「意識」だけではなく、四次元的な「意識」や、時に五次元的な「意識」をも活性化させています。そういう瞬間があるにも関わらず、普段そのことを全く意識していません。それは、そのような理屈を誰からも聞かされたことがありませんし、また多次元に渡ってある「意識」に、意識的にフォーカスを当てる訓練も積んでいないからです。

 

そのため、せっかく直感やインスピレーションを得ても、これを「気のせいだ」と思ってみんな無視してしまいます。その代わりに、肉体が知覚する三次元的な「意識」にだけは素早く反応し、そこで得た「認識」が本当の現実だと、強く思い込んでいるのです。近年、静寂な時が失われたせいで、この傾向がますます強まっています。しかし、事実は全く逆で、それらは全て幻なのです。本当のあなたの「認識」は、肉体的な知覚を超えた領域にあるのです。

 

なぜかと言えば、肉体的な知覚によって生じた「意識」は、肉体の消滅と同時にみんな消えて行ってしまいます。ところが、その体験から解釈した「認識」の一部は、四次元的「意識」や五次元的「意識」に変換されて蓄えられるのです。これが、いわゆる「カルマ」となり、あなたの「霊魂」にアイデンティティを付与します。そして、この「カルマ」を清算するために、また地上に輪廻転生して来るのです。

 

ですから、このメカニズムをよく知った上で生きれば「生き方」が違ってくるのです。確かに「この世」は生きにくい。不正や、不条理や、暴力が横行しています。けれども、あなたが自ら望んで誕生して来たことです。そこには目的があるのです。ですから、地上世界を全否定してはなりません。地上でしっかり生きながらも、三次元的な「意識」には出来る限り囚われることなく、いつも五次元的な「意識」を働かせながら行動して行く、ということが大切なのです。

 

そして、それは可能です。例えば、草取り一つする時でも、三次元的「意識」にフォーカスを当てるのではなく、五次元的「意識」にフォーカスを当てながら同じことをしていくのです。そうすれば、あなたの「意識」には五次元的エネルギーが流れ込み、あなたをハッピーにしてくれます。幸福とは、条件ではありません。幸福だと感じている「意識」状態です。あなたの「意識」がそうなれば、周囲の景色がきっと輝いて見えるはずです。

 

三次元的「意識」が生み出す感動と、五次元的「意識」が生み出す感動は、全く異質なものです。この違いを、よ〜く感じ取って区別しなさい。三次元的な感動は「感情」が生み出した感動です。けれども、五次元的な感動は、本質と出会った際の「魂」の震え(バイブレーションの共鳴)なのです。「これだ!」「ここに真実があったのか!」という。あなたにも、きっと経験がおありでしょう。嬉しいわけでも悲しいわけでもないのに、ただ涙が溢れ出て来たということが。

 

◉「瞑想」を習慣化し、高い波動を固定する

そして、このような「意識」をコントロールする訓練が、いわゆる「瞑想」なのです。ですから「瞑想」は、霊的向上を目指す者にとっては、必須の生活習慣です。「瞑想」習慣を日常的に取り入れて習熟すれば、「意識」のコントロールが次第に出来るようになり、「心」の暴走にも悩まされることがなくなります。そして、やがては、内なる真実の声に、耳を傾けることが出来るようになることでしょう。

 

でも、そうなるためには、何より静寂の中に身を置かなくてはなりません。小川のせせらぎを聴いたり、月夜に鈴虫の鳴き声を聴いたりしていた時代とは違って、現代社会ではこんなことすら非常に難しいのです。街もお店も絶えず騒音で溢れ返り、メディアはひっきりなしに暴力的で刺激的な情報を垂れ流しています。多くの人は、もう麻痺してしまって解らないのでしょうが、これらの波動はもの凄くザラザラ、トゲトゲしているのですよ。

 

それらの粗雑なバイブレーションに休みなく晒されて、今や現代人の心はズタズタに傷ついています。結果として湧きあがる不安感を、なんとか埋めようとして、さらに情報の虜になって行くという悪循環。しかし情報は、決して心のスキマを埋めてはくれませんよ。むしろスキマに入り込んで、傷口を押し広げます。あなたの心のスキマを埋めてくれるものはただ一つ。その奥にある、心を超えたチャンネルだけなのです。どうか、そこに目を向けて欲しい。

 

チャンネルが開いた時、あなたは、自分にも周囲にも、高い波動を送り出せる存在となっています。「何を為すか」は問題ではありません。「どのように為すか」が重要なのです。あなたは、あなたの特性を活かし、ご自分が出来ることをすればそれでよいのです。全てのことを、自分一人で出来る人間は誰もいないのです。誰もが支え合って存在しています。その時に、自分が為す行為に、いつも高い波動を載せて行うということが、何よりも大切なのです。

 

そうすれば、その波動が、周囲の人々に影響を与えます。全ては「波動」です。「波動の法則」によって展開しています。あなたが高い波動を出せば、周囲に高い波動が伝播し、あなたが低い波動を出せば、低い波動が伝播して行くのです。実に簡単な理屈です。しかし人間は、その簡単な理屈を知りません。そのため、故意に、刺激的な「低い波動」を出す者たちによって、コントロールされてしまっています。

 

◉激動の時代を、高い波動で生き切る

これからは、これまで以上の激動の時代に突入します。その時に、あなたを狙う罠に、簡単に引っ掛からないようにしてください。と言っても、怖れることはありません。むしろ「怖れ」そのものが罠なのですから。不正や、不条理に対しては、黙認するのではなく、きちんと向き合い声を挙げてください。でも、闘争は勧められません。なぜなら「闘争」そのものが、波動を低める罠なのですから。

 

ひとから、どんなにバカにされても、蔑まれても、罵倒されても、叩かれても、蹴られても、あなたは、どこまでも「愛」に生きてください。『北風と太陽』のあのイソップ寓話を思い出しましょう。闘うのではなく、愛のエネルギーによって、固まった結び目をほどくのです。ご自分の底に流れる、この力を信じてください。

 

この道を歩く者には、この世的に言って良いことは少しもありません。むしろイバラの道です。けれども、あなたは既にご存知のはずです。自分が、そうせずにはいられないことを。そのイバラの道を行くことが、自分の最高の喜びであることを。

 

最近になって、私も、7歳の時に突如内側から沸き上がった言い知れぬ感動とともに「自分はブリッジの役割を果たすぞ」と誓った日があったことを思い出しました。「ブリッジ」などと言う言葉はもちろん知りませんでしたが、その時、そのような概念がまざまざと浮かんだのです。そしてまさに、気がつけば、「虹の架け橋」の仕事を、50年後に、導かれるようにして私はしていたのです。

 

すべては、このためにあったのですね。その役目が、どれだけ果たせたかは判りません。けれども、とりあえずは、インターネット上でお話し出来ることは、これまでのメッセージを通じてすべて伝え切りました。7年前に、S.O.さんとした約束も、これで果たせたかな?と思っています。いつか、このブログのメッセージを、テーマ別にまとめてくださる方が現れないかなぁとも思っております。どなたか手を挙げてくださいませんか?

 

身近な人に「終了」を告げましたら、何人かの方から、月1回でいいから、それがダメなら気が向いた時でもいいから、続けて欲しいと言われました。そこで、一応「休止」としておきましたが、同じ形式での再開はたぶんないだろうと思います。質問があればお受けします。今はとにかく少し休みたいです。休んでから、次のステージに進みたいです。この次には、もう少し、自分が楽しんで出来ることをしたいです。

 

最後に、これまで私を支えてくださった皆さんに感謝の意を捧げたいと思います。特に、私に健康体操を伝授してくださったYさん、また体調不良の時に治療をしてくださったもう一人のYさんには格別の謝意を。あなたたちとの出会いがなければ、とても続けられませんでした。そして、相談事に乗ってくださったり、お金や食べ物を恵んでくださった多くの方々にも。また励ましのメールをくださった方々にも、接触のあった全ての人にも御礼を言います。

 

ありがとう。皆さんの励ましによって生きて来られました。

お金はすべて Flow 所得

「富の格差」の問題は、しばしば印象的な次の数字をもって語られます。世界の富の82%がわずか1%の富裕層に集中。貧困層37億人が有する富は全体の1%にも満たない。世界で最も裕福な8人が、貧困層36億人に匹敵する資産を所有。調べてみますと、この数字の出所は、すべて国際NGO「Oxfam」が出した2018年版報告書『Reward Work, Not Wealth』に基づいていました。

 

これが、子引き、孫引きされて各所で使われているのですね。オックスファムが出した数値は、金融大手クレディ・スイスが毎年出している世界の家計所得分配を分析したレポート『Global Wealth Databook』を基に、各所得階層別にオックスファムが再集計したものとのことです。データ元が富裕層側の銀行ですし、2000年からの時系列データを分析しているということですので、一応、信頼はおけそうです。

 

このような印象的な数字は、確かに、「富の極端な偏在」という今の地球上で起きている問題を解りやすく示してくれています。しかし他方で、「豊かさ」や「幸福」の概念を、「お金」という物差しで計測するという、別の〈解りやすさ〉をも与えていることに注意しなければなりません。なぜかと言えば、このような「尺度」そのものが、一つの固定観念をもたらしているからです。

 

「お金」に関しては、私も人並みに非常に苦労しました。「お金」に翻弄されてしまったという時期もあります。パニックになったり、鬱になったりしたのも、元をただせば「お金」が原因でした。なぜそんな状態に陥ったのかと、今になって振り返ってみますと、結局は「お金」というものの仕組みに無知だったことが最大の理由です。「お金」というものが作り上げている「土俵」に、何の疑問も持たずに、完全に信じた上で生活していたのです。

 

おそらく、世の99.99パーセントの人は、今でも、かつての私と同じような理解状況にあるんだろうなと思います。そして、この「無知」ということが、人類を「お金」の奴隷にさせ続けていることの元凶を形づくっているのです。早い話が、強烈な「洗脳」です。「お金」が無ければ生きられない。「お金」を稼がなければいけない。とみんなが思っているし、思わされているのです。

 

そこに気づいてから、この牢獄をなんとか脱したいと思うようになりました。「お金」のシステムから完全に逃れるというのは、無人島にでも行かない限りは難しいことでしょう。ですが、「お金」には出来るだけ関わらないようにしてみようと決心しました。そこで、荒療治でしたが、第一番めに「お金」を稼ぐというワークをやめたのです。この呪縛を捨てたら、いったいどうなるのだろうかを実験してみようと思いました。それが、10年前の54歳の時です。

 

当初は貯金を取り崩して生活費に充てていましたが、当然のことながら、その貯金も底を尽き、ど貧乏となりました。でも段々とその感覚にも慣れ、今では自分が貧乏だとも思わなくなりました。まったく平気です。欲しいものは何もありませんし、今あるもので充分です。何かに追われるようなストレスを抱えることもないですし、一日の大半を瞑想的に過ごしていられるので、いつも幸福感で満たされています。

 

「同じことを、あなたもやってみて」とはもちろん言えないのですが、しかし少なくとも、「働く」ということと「稼ぐ」ということは、切り離して考えた方がハッピーに生きられるよ、ということは自分の経験からしても言えそうです。でもここを、みんなゴッチャにして考えているんですね。「就活」というものが産業化してから、この同一視傾向が著しくなったと思うのですが、詰まるところ、これがあなたに、奴隷化への道を開くのです。

 

「働く」ということと「稼ぐ」ということは別です。「働く」というのは、あなたという個の自己表現であり、社会における自分の役割です。ですから、この「働き」の連鎖的つながりによって、社会全体の活動が維持され、働く人も、その働きの恩恵を受ける人も、共に喜び、感謝し、幸せを分かち合うシステムが形成できるのです。ですから、賃金の報酬とは関係なしに働き(例えば毎朝、家の前の道路を掃く)、それを喜びとすることも可能なのです。

 

30年前までは、日本社会にもこのような考え方がまだ普通に残っていたのですが、グローバル経済の導入と入れ替わりにすっかりアメリカナイズされ、今ではほぼ消滅してしまいました。私が20代だった頃は、「給料要りませんから、是非ここで働かせてください。あなたの弟子にしてください」という若者がけっこういたんですよ。私もその一人でした。「お金」は二の次、三の次だったのです。ところが今は、先ず「お金」です。

 

決して「お金」が悪いと言っているわけではないのです。「お金」に〈隷属した状態〉の自分に気づいてみては?、と言っているのです。今まで、ずっと低賃金の派遣労働に甘んじて来た。なんとかして、正社員で給料40万円の職に就きたい。その気持ちはよ〜く解りますよ。でもそのような発想をしていては、自分をますます苦しめてしまうことになるのではないでしょうか。

 

大切なのはそこじゃない。自分をどういう「行為」者、別の言葉を使えば「表現」者として、この世に存在させるかということなのです。あなたの満足は、究極的にはそこにしかありません。「正社員で、給料40万貰える人間になりたい」という願望は、あなたの「表現」なのでしょうか? 違うでしょう。別にあなたじゃなくてもいい、それは単なる「ポジション」に過ぎない。そこを錯覚してはダメです。

 

そもそも、なぜ「お金」を稼がなくてはいけないのでしょうか? 「お金」がないと、暮らしに困るからですよね。具体的には、生活に必要な物資やサービスが自由に買えないからです。そういうシステムの中で、現代人が生活しているからです。でも仮に、もしもそうしたものが、全部タダで手に入れられるとしたらどうでしょう? 「お金」は不要ということにはなりませんか。

 

生きるために必要なものは、あくまで物資やサービスであって、「お金」というものは、その仲立ちをしている道具に過ぎないのです。その証拠に、災害が起きたときには、必要な物資がタダで届けられるではありませんか。それに対して、誰も「金を払え」とは言わないでしょう。むしろ「どうぞ使ってください」と言うでしょう。ですから、この理念を災害時だけではなく、平時にも押し広げればよいのです。

 

それは、決して不可能ではありませんし、荒唐無稽な話でもありません。世界中の人々が、そうした理念に合意すれば可能なのです。でも、現実はそうなってはいませんよね。それは、別の理念(「お金」が地球を支配する世界)に、人類の大多数が「これでいいのだ」と賛同しているからです。これが、冒頭に語った「土俵」です。皮肉な話ですが、貧困層の36億人が、8人のスーパーリッチの成立に貢献しているというのが、この「お金」のシステムなのです。

 

もしも全員に、平等に富が分け与えられていれば、もちろんこんなことは起きません。富を平等に分けることをせずに、他人の分を掠め取って集める人がいるから、このような極端な偏在が起こるのです。そして人類は、人類の総和として、そうすることを、古代バビロニア時代から認め続けて来たということなのです。これは実に巧妙で、よく出来た、壮大なるフィクションです。

 

ほとんど誰もが、「お金」の存在というものに、微塵も疑問を持っていないのです。世の中に「お金」というものがあって当然だと思っている。ではその「お金」がどこから生まれるかと言えば、借金から生み出されるということも殆どの人が知らないのです。

 

銀行は、本当は持っていない「お金」を貸し出す権利というものが法律によって認められています。そうすると、その時点ではまだ数字に過ぎない金額を、どこかに貸し出すと、その時点からそれが「お金」に化けるのです。まさしくマジックであり、空中から「お金」がパッと捻り出されるのです。この「無」から生じた「お金」を、借りた側は、利息をつけて返すことになるのです。なんとも奇妙な仕組みです。

 

日本政府が累積している膨大な額の借金。これも、一民間銀行であるところの日銀から借りている「お金」です。この借金に、日本政府は利子を付けて返済しなくてはならないのです。その返済金はどこから調達するのか。国営企業のない日本政府としては、税金しかありません。このようにして、国民は働かされ、稼いだ「お金」を搾り取られているのです。

 

けれども、このフィクションの実体は、国民には何も知らされていないのです。空中から「お金」を生み出せる銀行。その元締めであり、通貨発行権を持つ日本銀行の株主が、いったい誰であるかは明かされていません。

 

ですが、ここで原点から考えていただきたいのです。地球資源は誰のものでしょうか。土地は誰のものでしょうか。海は誰のものでしょうか。空気は誰のものでしょうか。太陽は誰のものでしょうか。月は誰のものでしょうか。そもそも、宇宙は誰のものでしょうか。誰のものでもありません。それは我々への恵みです。その恵みを、なぜ平等に分けようとはしないのでしょうか。

 

なぜ、平等な分配を主張するものはみな叩かれ、排斥され、逆に富の極端な偏在を志向する者が世界を牛耳り、また政治・経済に幅を効かせているのでしょうか。それは、決して一握りの人間のせいではありません。多くの人が、リッチになることの幻想を手放せていないからです。これは、宝くじの理屈と全く同じ。1等の賞金を得る人は、大勢の幻想を掻き集めることによって成り立っているわけですね。

 

違いは、宝くじの場合には、誰が1等になるのかは分かっていないのですが、金融の世界は、闇の支配者によって、最初から意図的に富の偏在が計画されていることです。このカラクリに、今後どのくらいの人々が気づくことになっていけるのか。更に進んで、「宇宙は誰のものでもない」という原点に、どれだけの人が立ち帰ることが出来るのか。それが、人類の未来を決定づけます。

 

「お金」は経済の血液だと言われます。「お金」は、そもそもは経済を円滑に回すための道具に過ぎなかったのです。ところが、その道具を使って博打場を開いたり、「お金」が「お金」を生み出す仕組みを人間が拵えてしまった。そして公的に、また国際的に、この詐欺システムを堂々と運営し、欲に駆られた人々を大量に市場に惹き付けているのです。

 

なんと愚かな人間たちでしょうか。一体どの世界に、自分の血流を好んで悪くしたり、静脈瘤や動脈瘤を作ったり、それを破裂させたり、脳溢血になったりして喜ぶ人間がいますか?

 

でも人間たちは、それを喜んで、自分で自分の苦しみを創り出しているのです。ああ、なんたる無智。この無智から、一体いつになったら解放される日が訪れるのでしょうか。「お金」はすべて Flow 所得だと思いなさい。それはあなたを支えてくれる血液の流れなのです。流れるままにして、執着を無くせば、それに思い煩わされることもなく、健康に生きて天寿を全う出来るのです。

 

「お金」は、結局ところ、今の人類にとっての、最大級の罠なのです。「お金」を操る者に、人類全体が操られている。そして、地上での暮らしの大部分を、この「お金」の奴隷となって生きることで、一生の殆どを使い果たしているのです。まあ、なんとムダな労力を使っていることでしょうか。地球人が、何度生まれ変わっても、大した成長がない理由は、大部分この「お金」が原因なのです。

 

さて、今世もまた「お金」で苦労しますかな?

それとも「お金」への執着は、終わりにしますかな?